浪玲遥明「逃げない」ほか(「ココア共和国」11、2012年12月01日発行)
浪玲遥明「逃げない」のことばは非常にすっきりしている。不純物がない。それなのに、輝きがある。--私の書いていることは矛盾に見えるかもしれない。ふつうは不純物がないから輝く、というかもしれない。けれど鏡だって「朱泥」という光を透さないものが奥底にあるからこそ強く光を反射するのである。そういう「朱泥」のようなもの、強い抵抗感がことばには感じられない。けれども輝いている。
すっきりしているのは、たぶん、文法がしっかりしているからだ。とても論理的にことばが動く。「窓際の席からは/空が見える」というのは読んでしまうとそのまま読めてしまうのだが、うーん、私は書かないなあ。「窓から空が見える」と書くだけで、浪玲が窓際に座っていることはわかる。まあ、通路側からだって空は見えるが、窓際か通路側かということはそんなに問題ではない。けれど、浪玲はそういう「論理的正確さ」にこだわる。そして、こだわるだけではなくいま指摘したように正確に書く。ここから「すっきりした」印象が生まれる。「論理」が「すっきり」を強調する。「論理」が「不純物」をわきにおしのけることで、何かの通り道をつくる、という感じである。
そういう「透明さ」があるからこそ、「半透明の青さに/ただ、とまどっていた」の「半透明」「とまどっていた」という「不純物(?)」がはっきり見える。「不純物」ははっきり見えたときから不純物ではなくなる。鏡の朱泥のように。--ただし鏡の朱泥というような感じは浪玲の場合はしないのである。どこかに光をとおすものがある。「半透明」とは、そういう「肉体」のようなものを感じさせることばである。浪玲の「無意識」(あるいは意識することのできない何か)がここにあるように思った。
だから、そのあとほんとうの不純物(固有名詞的存在--それ自体の過去をもった存在)が突然あらわれてきても、それは何かの結晶のように見えてしまう。
この「アゲハ蝶」。わからないでしょ? モーツァルトやショパンではない。聞いたことがないでしょ? でも、はっと思うね。いいなあ、と思う。
「論理」(必然性)はないのだが、それが「論理」であっていいのだ。それこそが必然であっていいのだと信じてしまう。
こんなふうに信じてしまうのは、「窓際の席からは/空が見える」というような「正確さ」を浪玲が生きているということが、最初に知らされるからだ。「ウォークマンで/アゲハ蝶を聴く」にも何かきっと「論理的」な構造があるのだ。「窓側の席からは」という1行がなかったら、私は「ウォークマン」から「アゲハ蝶」への飛躍に自然なものを感じることができない。「ウォークマン」という古いことばに驚き、「アゲハ蝶」のロマンチシズムにいやあな気分になったかもしれない。けれど、そういうものを「窓際の席からは」はという「論理的」なことばの動きが前もって洗い流してしまう。自然な「道」をとおって「アゲハ蝶」が飛んできたことが納得できるのである。
次の
これもいいなあ。
「知らない音に気づいた」とは、実は、その音があるということを「肉体」は知っていたということである。「肉体」は以前からその「音」にふれていた。しかし、それは意識されなかった。それが、「いま/ここ」で明確になった。
「きづく」とは「ある」の発見だが、「ある」は「肉体」とともにずっといっしょに「あった」。そういう「論理」が隠れていて、それが浪玲のことばを動かしているように私には思える。
だから
というような展開がとても自然に感じられる。「肉体」が何かを「確認する」。「肉体」が知っているものを「頭」が繰り返す。それは「頭」を「肉体」へ返すことである。だから眠くなる。「頭」が眠くなり、「肉体」になる。そうし、その「肉体」がまた何かに気づく。
「肉体」になって、「あなた」に気づく。「あなた」とはだれか。それは「気づいた」「僕」の別称である。「アゲハ蝶」の音楽に隠れていた「知らない音」は「肉体」が知りすぎていたために気がつかなかった音である。同じように、「あなた」は「僕」が知りすぎていたために「肉体」隠れていた「僕」にほかならない。
こういうことばの「論理」は、一種の「逆説」のようなものであり、それが「肉体」として提出されるとき、私たちは何かはっとする。(私だけかもしれないけれど。)寺山修司も秋亜綺羅も、こういう「逆説」のようなものを強く好んでいるなあと私は感じるが、浪玲もそういう「肉体」を生きているのだと思う。
その「逆説」の「論理」の「透明さ」が結晶するのが、次の4行。
窓から風景が「流れていく」というのは慣用句。「流通言語」のレトリックである。もちろん「流れてはいない」。浪玲が書いているように、「動いているのは/いつでも/自分」なのだが、「流通言語」では、そうは言わないことがある。それを利用して「逆説」を動かすのだ。
そのとき動いているのは「頭」であることが多いのだが、なぜか「頭」を感じるというよりも、「肉体」を感じる。それは、うまく説明できたことになるかどうかわからないが、最初の方の「窓際の席からは」という不思議な「論理的」こだわりがあるからなのだ。「窓際の席からは」などと言わなくてもわかっていることをあえて「論理」にしてしまうと、ことばは「論理」を動いているという印象が強くなる。
「論理」を強調しておいて「逆説」をぽんとほうりだすと、それが「論理(頭)」が考えた「逆説」というよりも「肉体」が目覚めたためにあらわれてきたことばにみえる。「肉体」の奥に隠れていたものが「気づく」のように、「肉体」から噴出してくる感じがする。
「気づき」の「気」は空気の気。肉体のなかで空気が目覚める。最初は肉体の外にあったものが肉体のなかに入り込み、そこで目覚め肉体の外へ出ていく。--これは、区別できないものだね。外から入ってくる空気と出ていく空気。呼吸。その運動。それが「無意識」にまで高められて、人間は生きているのだけれど……。
何か、不思議な自然さがある。「頭」ではなく「肉体」が目覚めるうれしさがある。「肉体」が透明感をとりもどすうれしさがあると言ってもいいのかもしれない。
「メランコリック・スプリング」の1連目。
この「論理」の「正確」は、「肉体」(視力)の「正確さ」へと移行する。
それが印象的だが、それに先行する「夜のうちに雨がふって/昨日まで満開だった桜は/ずいぶん散ってしまった」の「論理」の「正確さ」があっての「移行」である。
浪玲遥明「逃げない」のことばは非常にすっきりしている。不純物がない。それなのに、輝きがある。--私の書いていることは矛盾に見えるかもしれない。ふつうは不純物がないから輝く、というかもしれない。けれど鏡だって「朱泥」という光を透さないものが奥底にあるからこそ強く光を反射するのである。そういう「朱泥」のようなもの、強い抵抗感がことばには感じられない。けれども輝いている。
50号線のバスに乗って
学校に向かう
窓際の席からは
空が見える
(夏はもう終わりました)
半透明の青さに
ただ、とまどっていた
ウォークマンで
アゲハ蝶を聴く
思いついたように
音量をひとつ上げる
知らない音に気づいた
すっきりしているのは、たぶん、文法がしっかりしているからだ。とても論理的にことばが動く。「窓際の席からは/空が見える」というのは読んでしまうとそのまま読めてしまうのだが、うーん、私は書かないなあ。「窓から空が見える」と書くだけで、浪玲が窓際に座っていることはわかる。まあ、通路側からだって空は見えるが、窓際か通路側かということはそんなに問題ではない。けれど、浪玲はそういう「論理的正確さ」にこだわる。そして、こだわるだけではなくいま指摘したように正確に書く。ここから「すっきりした」印象が生まれる。「論理」が「すっきり」を強調する。「論理」が「不純物」をわきにおしのけることで、何かの通り道をつくる、という感じである。
そういう「透明さ」があるからこそ、「半透明の青さに/ただ、とまどっていた」の「半透明」「とまどっていた」という「不純物(?)」がはっきり見える。「不純物」ははっきり見えたときから不純物ではなくなる。鏡の朱泥のように。--ただし鏡の朱泥というような感じは浪玲の場合はしないのである。どこかに光をとおすものがある。「半透明」とは、そういう「肉体」のようなものを感じさせることばである。浪玲の「無意識」(あるいは意識することのできない何か)がここにあるように思った。
だから、そのあとほんとうの不純物(固有名詞的存在--それ自体の過去をもった存在)が突然あらわれてきても、それは何かの結晶のように見えてしまう。
ウォークマンで
アゲハ蝶を聴く
この「アゲハ蝶」。わからないでしょ? モーツァルトやショパンではない。聞いたことがないでしょ? でも、はっと思うね。いいなあ、と思う。
「論理」(必然性)はないのだが、それが「論理」であっていいのだ。それこそが必然であっていいのだと信じてしまう。
こんなふうに信じてしまうのは、「窓際の席からは/空が見える」というような「正確さ」を浪玲が生きているということが、最初に知らされるからだ。「ウォークマンで/アゲハ蝶を聴く」にも何かきっと「論理的」な構造があるのだ。「窓側の席からは」という1行がなかったら、私は「ウォークマン」から「アゲハ蝶」への飛躍に自然なものを感じることができない。「ウォークマン」という古いことばに驚き、「アゲハ蝶」のロマンチシズムにいやあな気分になったかもしれない。けれど、そういうものを「窓際の席からは」はという「論理的」なことばの動きが前もって洗い流してしまう。自然な「道」をとおって「アゲハ蝶」が飛んできたことが納得できるのである。
次の
音量をひとつ上げる
知らない音に気づいた
これもいいなあ。
「知らない音に気づいた」とは、実は、その音があるということを「肉体」は知っていたということである。「肉体」は以前からその「音」にふれていた。しかし、それは意識されなかった。それが、「いま/ここ」で明確になった。
「きづく」とは「ある」の発見だが、「ある」は「肉体」とともにずっといっしょに「あった」。そういう「論理」が隠れていて、それが浪玲のことばを動かしているように私には思える。
だから
キクタンを聞いて
いくつかの単語を確認すれば
反射のように、眠くなる
というような展開がとても自然に感じられる。「肉体」が何かを「確認する」。「肉体」が知っているものを「頭」が繰り返す。それは「頭」を「肉体」へ返すことである。だから眠くなる。「頭」が眠くなり、「肉体」になる。そうし、その「肉体」がまた何かに気づく。
それはいつものことだった
目を閉じれば
JR新井口駅で突っ立っていた
僕の
一年前の後ろ姿が浮かぶ
あの日、あなたは
どんな目で僕を見下ろしていたか
「肉体」になって、「あなた」に気づく。「あなた」とはだれか。それは「気づいた」「僕」の別称である。「アゲハ蝶」の音楽に隠れていた「知らない音」は「肉体」が知りすぎていたために気がつかなかった音である。同じように、「あなた」は「僕」が知りすぎていたために「肉体」隠れていた「僕」にほかならない。
こういうことばの「論理」は、一種の「逆説」のようなものであり、それが「肉体」として提出されるとき、私たちは何かはっとする。(私だけかもしれないけれど。)寺山修司も秋亜綺羅も、こういう「逆説」のようなものを強く好んでいるなあと私は感じるが、浪玲もそういう「肉体」を生きているのだと思う。
その「逆説」の「論理」の「透明さ」が結晶するのが、次の4行。
窓から見えるビルや電柱や公園が
流れているなんて信じられなかった
動いているのは
いつでも/自分
窓から風景が「流れていく」というのは慣用句。「流通言語」のレトリックである。もちろん「流れてはいない」。浪玲が書いているように、「動いているのは/いつでも/自分」なのだが、「流通言語」では、そうは言わないことがある。それを利用して「逆説」を動かすのだ。
そのとき動いているのは「頭」であることが多いのだが、なぜか「頭」を感じるというよりも、「肉体」を感じる。それは、うまく説明できたことになるかどうかわからないが、最初の方の「窓際の席からは」という不思議な「論理的」こだわりがあるからなのだ。「窓際の席からは」などと言わなくてもわかっていることをあえて「論理」にしてしまうと、ことばは「論理」を動いているという印象が強くなる。
「論理」を強調しておいて「逆説」をぽんとほうりだすと、それが「論理(頭)」が考えた「逆説」というよりも「肉体」が目覚めたためにあらわれてきたことばにみえる。「肉体」の奥に隠れていたものが「気づく」のように、「肉体」から噴出してくる感じがする。
「気づき」の「気」は空気の気。肉体のなかで空気が目覚める。最初は肉体の外にあったものが肉体のなかに入り込み、そこで目覚め肉体の外へ出ていく。--これは、区別できないものだね。外から入ってくる空気と出ていく空気。呼吸。その運動。それが「無意識」にまで高められて、人間は生きているのだけれど……。
何か、不思議な自然さがある。「頭」ではなく「肉体」が目覚めるうれしさがある。「肉体」が透明感をとりもどすうれしさがあると言ってもいいのかもしれない。
「メランコリック・スプリング」の1連目。
夜のうちに雨がふって
昨日まで満開だった桜は
ずいぶん散ってしまった
アスファルトに
きたなくへばりついた花びらを
踏みつけるように歩いていく
輪郭をうしなっていた町が
焦点を取り戻しつつあるのか
人々の影がやたらに濃い
この「論理」の「正確」は、「肉体」(視力)の「正確さ」へと移行する。
それが印象的だが、それに先行する「夜のうちに雨がふって/昨日まで満開だった桜は/ずいぶん散ってしまった」の「論理」の「正確さ」があっての「移行」である。
季刊 ココア共和国vol.11 | |
秋 亜綺羅,高木 秋尾,日原 正彦,榎本 櫻湖,浪玲 遥明,恋藤 葵 | |
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