詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

浪玲遥明「逃げない」ほか

2012-12-16 11:24:48 | 詩(雑誌・同人誌)
浪玲遥明「逃げない」ほか(「ココア共和国」11、2012年12月01日発行)

 浪玲遥明「逃げない」のことばは非常にすっきりしている。不純物がない。それなのに、輝きがある。--私の書いていることは矛盾に見えるかもしれない。ふつうは不純物がないから輝く、というかもしれない。けれど鏡だって「朱泥」という光を透さないものが奥底にあるからこそ強く光を反射するのである。そういう「朱泥」のようなもの、強い抵抗感がことばには感じられない。けれども輝いている。

50号線のバスに乗って
学校に向かう
窓際の席からは
空が見える
(夏はもう終わりました)
半透明の青さに
ただ、とまどっていた
ウォークマンで
アゲハ蝶を聴く
思いついたように
音量をひとつ上げる
知らない音に気づいた

 すっきりしているのは、たぶん、文法がしっかりしているからだ。とても論理的にことばが動く。「窓際の席からは/空が見える」というのは読んでしまうとそのまま読めてしまうのだが、うーん、私は書かないなあ。「窓から空が見える」と書くだけで、浪玲が窓際に座っていることはわかる。まあ、通路側からだって空は見えるが、窓際か通路側かということはそんなに問題ではない。けれど、浪玲はそういう「論理的正確さ」にこだわる。そして、こだわるだけではなくいま指摘したように正確に書く。ここから「すっきりした」印象が生まれる。「論理」が「すっきり」を強調する。「論理」が「不純物」をわきにおしのけることで、何かの通り道をつくる、という感じである。
 そういう「透明さ」があるからこそ、「半透明の青さに/ただ、とまどっていた」の「半透明」「とまどっていた」という「不純物(?)」がはっきり見える。「不純物」ははっきり見えたときから不純物ではなくなる。鏡の朱泥のように。--ただし鏡の朱泥というような感じは浪玲の場合はしないのである。どこかに光をとおすものがある。「半透明」とは、そういう「肉体」のようなものを感じさせることばである。浪玲の「無意識」(あるいは意識することのできない何か)がここにあるように思った。
 だから、そのあとほんとうの不純物(固有名詞的存在--それ自体の過去をもった存在)が突然あらわれてきても、それは何かの結晶のように見えてしまう。

ウォークマンで
アゲハ蝶を聴く

 この「アゲハ蝶」。わからないでしょ? モーツァルトやショパンではない。聞いたことがないでしょ? でも、はっと思うね。いいなあ、と思う。
 「論理」(必然性)はないのだが、それが「論理」であっていいのだ。それこそが必然であっていいのだと信じてしまう。
 こんなふうに信じてしまうのは、「窓際の席からは/空が見える」というような「正確さ」を浪玲が生きているということが、最初に知らされるからだ。「ウォークマンで/アゲハ蝶を聴く」にも何かきっと「論理的」な構造があるのだ。「窓側の席からは」という1行がなかったら、私は「ウォークマン」から「アゲハ蝶」への飛躍に自然なものを感じることができない。「ウォークマン」という古いことばに驚き、「アゲハ蝶」のロマンチシズムにいやあな気分になったかもしれない。けれど、そういうものを「窓際の席からは」はという「論理的」なことばの動きが前もって洗い流してしまう。自然な「道」をとおって「アゲハ蝶」が飛んできたことが納得できるのである。
 次の

音量をひとつ上げる
知らない音に気づいた

 これもいいなあ。
 「知らない音に気づいた」とは、実は、その音があるということを「肉体」は知っていたということである。「肉体」は以前からその「音」にふれていた。しかし、それは意識されなかった。それが、「いま/ここ」で明確になった。
 「きづく」とは「ある」の発見だが、「ある」は「肉体」とともにずっといっしょに「あった」。そういう「論理」が隠れていて、それが浪玲のことばを動かしているように私には思える。
 だから

キクタンを聞いて
いくつかの単語を確認すれば
反射のように、眠くなる

 というような展開がとても自然に感じられる。「肉体」が何かを「確認する」。「肉体」が知っているものを「頭」が繰り返す。それは「頭」を「肉体」へ返すことである。だから眠くなる。「頭」が眠くなり、「肉体」になる。そうし、その「肉体」がまた何かに気づく。

それはいつものことだった
目を閉じれば
JR新井口駅で突っ立っていた
僕の
一年前の後ろ姿が浮かぶ
あの日、あなたは
どんな目で僕を見下ろしていたか

 「肉体」になって、「あなた」に気づく。「あなた」とはだれか。それは「気づいた」「僕」の別称である。「アゲハ蝶」の音楽に隠れていた「知らない音」は「肉体」が知りすぎていたために気がつかなかった音である。同じように、「あなた」は「僕」が知りすぎていたために「肉体」隠れていた「僕」にほかならない。
 こういうことばの「論理」は、一種の「逆説」のようなものであり、それが「肉体」として提出されるとき、私たちは何かはっとする。(私だけかもしれないけれど。)寺山修司も秋亜綺羅も、こういう「逆説」のようなものを強く好んでいるなあと私は感じるが、浪玲もそういう「肉体」を生きているのだと思う。
 その「逆説」の「論理」の「透明さ」が結晶するのが、次の4行。

窓から見えるビルや電柱や公園が
流れているなんて信じられなかった
動いているのは
いつでも/自分

 窓から風景が「流れていく」というのは慣用句。「流通言語」のレトリックである。もちろん「流れてはいない」。浪玲が書いているように、「動いているのは/いつでも/自分」なのだが、「流通言語」では、そうは言わないことがある。それを利用して「逆説」を動かすのだ。
 そのとき動いているのは「頭」であることが多いのだが、なぜか「頭」を感じるというよりも、「肉体」を感じる。それは、うまく説明できたことになるかどうかわからないが、最初の方の「窓際の席からは」という不思議な「論理的」こだわりがあるからなのだ。「窓際の席からは」などと言わなくてもわかっていることをあえて「論理」にしてしまうと、ことばは「論理」を動いているという印象が強くなる。
 「論理」を強調しておいて「逆説」をぽんとほうりだすと、それが「論理(頭)」が考えた「逆説」というよりも「肉体」が目覚めたためにあらわれてきたことばにみえる。「肉体」の奥に隠れていたものが「気づく」のように、「肉体」から噴出してくる感じがする。
 「気づき」の「気」は空気の気。肉体のなかで空気が目覚める。最初は肉体の外にあったものが肉体のなかに入り込み、そこで目覚め肉体の外へ出ていく。--これは、区別できないものだね。外から入ってくる空気と出ていく空気。呼吸。その運動。それが「無意識」にまで高められて、人間は生きているのだけれど……。
 何か、不思議な自然さがある。「頭」ではなく「肉体」が目覚めるうれしさがある。「肉体」が透明感をとりもどすうれしさがあると言ってもいいのかもしれない。

 「メランコリック・スプリング」の1連目。


夜のうちに雨がふって
昨日まで満開だった桜は
ずいぶん散ってしまった
アスファルトに
きたなくへばりついた花びらを
踏みつけるように歩いていく
輪郭をうしなっていた町が
焦点を取り戻しつつあるのか
人々の影がやたらに濃い

 この「論理」の「正確」は、「肉体」(視力)の「正確さ」へと移行する。
 それが印象的だが、それに先行する「夜のうちに雨がふって/昨日まで満開だった桜は/ずいぶん散ってしまった」の「論理」の「正確さ」があっての「移行」である。





季刊 ココア共和国vol.11
秋 亜綺羅,高木 秋尾,日原 正彦,榎本 櫻湖,浪玲 遥明,恋藤 葵
あきは書館
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パディ・コンシダイン監督{思秋期」(★★★★)

2012-12-15 10:39:42 | 映画


監督 パディ・コンシダイン 出演 ピーター・ミュラン、オリビア・コールマン、エディ・マーサン 

 映画の原題は「ティラノサウル」という。何のことかわからない。そして、その「意味」(指し示すもの)はことばでしか語られない。映像としては描かれていない。こういう作品は、私は好きになれない。映画の「基本」を外している--のだけれど、この映画に関して言えば、そうではない。他の映像がそれを十分に補っているし、「意味」が映像化されないことにもきちんとした理由(根拠)があり、それが映画をがっしりとしたものに育てている。
 ピーター・ミュランとオリビア・コールマンがたいへんすばらしい。二人とも「言えないこと」がある。「言いたい」のだが、言えばずいぶん楽になるのだろうけれど、「言えない」。その「言えない」過去を自分ひとりで背負って、すさみ、悲しみのなかに沈んでいる。
 その「言えない」ことを、ふともらしてしまったのが「ティラノサウルス」である。オリビア・コールマンに妻のことを聞かれてピーター・ミュランは「ティラノサウルス」と答える。だが、それだけでは何のことかわからない。「どういう意味?」と、ふつうはすぐに聞いてしまうが(アメリカ映画だったら絶対にすぐに聞くが)、オリビア・コールマンは聞かない。
 あ、イギリスだなあ。
 私のまったくの個人的な思い込みなのかもしれないが、イギリスは「ことば」の国。そして、そのことばというのは「本人」が自発的に言わない限り聞かないし、わかっていても「聞かなかったこと」にする。つまり、個人のプライバシー(秘密)は個人が自発的に語らない限り「存在しない」。そういう「個人主義」が徹底している。逆に言えば「ことば」にしてしまえば、それは絶対の「真実」。「言えば」それが「事実」になる。
 言わなくても「事実は事実」という考えもあるだろうけれど、違うね。「言うこと」によって、それを「事実」として引き受けると他人に伝えるのがイギリスのことばなのだ。言った限りは、その「事実」を完全に自分で引き受けなければならない。生きていると「事実」であっても「事実」として認めたくないことがある。たとえばどうすることもできない「悲しみ」「孤独」--そういうものは、「事実」として認めたくない。だから「ことば」にしないのである。
 だからね、つらくて寂しい。
 ふつうなら側にいるひとが何事かをわかり、それに対して手助け(?)をする。ところがイギリスではわかっていても「知らない」のだから「わからない」という関係になる。「ことば」にして、そのひとが語らない限り、そのひとの隠していることは「知らない」。「知りようがない」。
 「感じる」と「知る」とは「ことば」になるか、「ことば」にならないかの違いがある。「ことば」にしないかぎり、あらゆることは「知る」に結びつかないのだ。(「知る」と「わかる」は、まあ、逆かもしれないが、何かしら「断絶」があるのがイギリスである。そして、その違いの間に「ことば」が横たわっている。)
 で、この「言えない過去」をピーター・ミュランとオリビア・コールマンは「言わないまま」ただ表情で、肉体で浮かび上がらせる。「肉体(表情)」のなかに「プライバシー」があるということを強く感じさせる。「言えない過去」があるということが、顔の皺、無精髭、見つめ返す瞳、じわーっとあふれてくる涙のなかにあると感じさせる。その感じが私の目をスクリーンに釘付けにする。なぜ、このひとたちは、こんなふうに
 不器用にしか生きられないのか、という思いがせつせつと迫ってきて、それが自分のなかにある「不器用」、うまく言えずに悩みを抱えつづけた日々のことなどを思い出させる。
 二人とも、言いたいのに言えない。--その言いたいのに言えない、言ってしまえば心が触れあうのに、とわかっているのに言えない。その言えないを少しだけ破るきっかけが「ティラノサウルス」だったのだが、そのことばにしても「説明」がいる暗号のように秘密に満ちたものである。「ティラノサウルス」と言ったあと、「意味はね」とつづけて言ってしまえば何かが変わるのだけれど、それができない。不器用な不器用な人間なのである。
 その「不器用さ」をとおして、あ、「ことば」はいつでも「秘密の過去」(その人だけの過去)を背負っているということもわかる。それがよけいに人間の「不器用さ」を印象づける。「隠している」ことのなかに、なにか、その人だけの「まっすぐ(正直)」があることがわかる。
 そして、そういうことが少しずつ、ずーっと積み重なって、最後にとんでもない形で現実を叩き壊すのだが、それが「意外」という感じがしない。そうなるしかないなあ、そうなってもしかたがないなあという感じがする。「正直」というのは、どうしたって「現実」とぶつかり、現実を叩き壊すしか生き残れないものなのである。それにたどりつくまでを、主演の二人はほんとうに「顔」と「姿」で具体化するのである。
 みとれてしまう。
 特に、オリビア・コールマンがピーター・ミュランにののしられながらショーケースの向こうで立ちすくんでいるときの映像がすごい。涙がじわーっとにじんでくるのをアップではなくロングショット(といってもバストショットと全身ショットの間くらいの感じだが)でみせる。涙がにじんでくるようすは映像でははっきり見えない。はっきりみえないが、はっきりわかる。映像という「平面」を見つめているのではなく、まるでその商店にいて立ち会っているような、全身からあふれてくるこころの動きがわかるのだ。「空気」がわかるのだ。
 こういう「空気」を見ている間は、なんとも苦しくて苦しくて仕方がないのだが、見終わったあと、ほっとする。「正直」が寄り添う形に安心する。やっとみつけた「正直」の丸裸の形に、ああ、よかったと思うのである。
 (どんな映画なのかわからないように、わざと「説明」を省いて書いてみた。「ティラノサウルス」というタイトルが何を意味していたのか映画を見終わったらわかるように、映画を見終わったあとなら私の書いている感想もわかるだろうと思う。)
                      (2012年12月12日、KBCシネマ2)




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新井豊美「時のこども」、木坂涼「広島」

2012-12-14 10:15:24 | 詩集
新井豊美「時のこども」、木坂涼「広島」(「現代詩手帖」2012年12月号)

 新井豊美の詩は、私は『いすろまにあ』のころの作品がいちばん好きで、ときとともになじめなくなっていた。「時のこども」(初出「RIM」37、2012年03月発行)もすべてがきもちよく感じるわけではないが、前半はとても好きだ。

どこから来たのですか?
そのとき空は
晴れていましたか、それとも曇っていたのでしょうか

まちはどうでした?
あのまちの丘をめぐる長い石段
どちらの方角へ白い鳥ははばたいてゆきましたか

 私がこの詩が気に入っているのは「あのまちの丘をめぐる長い石段」という1行があるからだ。どこの「まち」か、この詩ではまったくわからない。しかし、わからないながら、わかることがある。「あのまちの丘をめぐる長い石段」があるということ。そして、何よりも「まちはどうでした?」と問いかけているひと(新井、と仮定しておく)は、そのまちを丘と長い石段とで「覚えている」ということがわかる。新井にとって、あのまちとは丘があり、長い石段がそのまわりをめぐっているまちなのだ。
 丘をめぐる石段を思い出すとき、視線は自然と石段をのぼるのだろう。そうすると視線は知らず知らずに高みを目指し、その先に「空」がある。この「肉体」の動き、「肉体」が覚えていることが、「いま/ここ」にないものをしっかりと「いま/ここ」に呼び出す。
 新井がその空を見たとき、空は晴れていたか。曇っていた。どちらかはよくわからない。わかるのは、新井が空を見上げたとき「白い鳥」がある方角へ飛んで行ったということだ。そのことも新井の肉体(たとえば、目)ははっきり覚えている。覚えているから問いかけずにはいられないのだ。「どちらの方角へ」「はばたいてゆきましたか」と。
 答え次第では新井は新井でなくなる--というのは、変な言い方だが、その方角が新井が見た方角と重なるなら、そのとき新井はその答えをしてくれたひとそのものになり、肉体が覚えている記憶をもう一度生きる。他人になることで、自分を生きる。
 「他人になることで、自分を生きる」というのは「矛盾」だけれど、矛盾だからこそ、そこに「思想」がある。とこばになる前の、「肉体」の「覚えている」ものが動きだす「強さ」がある。
 初期の新井には、そういう力が、とてもしなやかな形で動いていた。だから、しなやかに動く女の肉体を思い(私は、その当時新井を私よりも年下と思い込んでいた)、ちょっと淫らな連想なんかもしたのだが。
 そういうしなやかな力、「肉体」の奥にある力が、いつのまにか「頭」の力に変わっていた。そのことが、私にはなぜかとても残念に感じられた。その「頭」は「男の頭」という感じが、私には、どうしてもしてしまうのだった。
 この詩にも、後半、そういうものが浮き上がってくる。

みることもとどくこともできないはるかな星雲の意思で
時のとうめいなゆびさきがこどものひたいに
はじめて、微風のようにふれてきたとき
それは愛? それとも
もっとふかいよろこびの伝言
おおきなまなざしのひかりを浴び
土地という揺籠、なつかしい闇のあたたかさと訣別して
おさない声がたちあがる
声が、垂直な声の木がひかりの中に

 最終行はとても魅力的である。声が木になって光の中にのびていく。それはとても美しいイメージだ。ここには声(聞く)と木(見る)が融合している。区別がつかない。つまり、それは「肉体」そのものになっている。--ということを、ちょっと補足すると。私たちは聞いたり見たりする。そのとき耳や目が働く。それは耳、目と独立した「器官」の名前で呼ばれるけれど「肉体」でつながっている。耳・目というのは便宜上の「名前」であって、それは「肉体」から切り離しては存在しえない。ふたつの動詞(聞く、見る)が動くとき、そこには「肉体」がわかちがたい形で、つまり「区別できない」形で存在するということだ。耳は耳であり、目は目でありながら、それは「ひとつの肉体」であるということだ--そういう「動き」のなかで、人間の「肉体」は「肉体」そのものになる。つまり「思想」になる。
 こういう美しい行を書く新井が、どうして、

みることもとどくこともできないはるかな星雲の意思で

 というような「肉体」を拒絶したことばを書けるのか、それが私にはわからない。
 「みることもとどくこともできないはるかな星雲」。これがことばとして存在しうるのは、「肉体」がとこばをおっているからではなく、「頭」がことばを動かしているからである。「頭」というのは「肉体」ができないことをなんでもしてしまう。たとえば、半径1センチの円に内接する正千角形と正九百九十九角形を「頭」は識別できる。けれどその識別は肉体(たとえば目、あるいは手ざわり)で識別できる人間は、よほど訓練された人間だけである。ことばにできたから、それを肉体がそのまま受け入れることができるかといえば、そんなことはできないのである。そういう「肉体」ではできないことを平気で(?)書いて、それを「意思」ということばで加速・増殖させる。--こういうことは、「男の頭」がくりかえしてきた「失敗」の代表例である。

時のとうめいなゆびさきがこどものひたいに

 この行は、そういう「男の頭」と「肉体」をなんとかもう一度結びつけようとする(「男の頭」を「肉体」に引き寄せ、きちんと接続させようとする)工夫なのだが、こんなフランケンシュタインの実験のようなものは、私には、どうにも気持ちが悪い。

それは愛? それとも
もっとふかいよろこびの伝言

 どうしたって、ことばが「肉体」から離れ、「頭」が暴れはじめる。

 なんとか新井の詩のおもしろいところを書こうとしたのだが、うーん、やっぱり批判に終わってしまった。


 
 木坂涼「広島」(初出「愛虫たち」79、2012年03月発行)は東日本大震災後、広島を尋ねたときのことを書いている。その後半。

エコバッグかつぎなおしてきた道へ
ドームのそばには班単位の修学旅行生
と、みんないっせいに私を見た
質問はドームのこと?
語れるだろうか 広島 福島

「写真撮ってもらえますか?
ミッションなんです」

中学二年生のための私の使命
パチリ

 他人(修学旅行生)の「思想(肉体)」は木坂の「肉体(思想)」なんか気にしていない。木坂が広島で福島のことを思っているなんて関係がない。ほかのところを動いている。広島ではドームといっしょに写真を撮らなければいけない、広島にきたという「記録」を「肉体」がわかる形で残さなければならない。--いやあ、これは、なんともすごいね。「感想」なんて「頭」ででっちあげることができるが、写真はそこに行かないと撮れないからね、という具合に「短絡」して考えてはいけないのだけれど、それに通じる何かがある。「正直」がある。「肉体」と「肉体からはなれない思想」の「正直」がある。
 そうか、その「正直」が「ミッション」か。ならば、それに答えるのが、「いま/ここ」に居合わせた木坂の使命だろう。確かにね。
 ここには、新井の詩に登場するような「意思」とか「愛」とかいった「頭」で考えたことばはない。「ミッション」ということばが出てくるが、これはたぶん「ミッションイッポッシブル」や何かの「サブカルチャー」から手に入れたことばである。「頭」で消化してつかっていることばではなく、「肉体」でのみこんで、「意味」を剥奪して、強引につかっていることばである。ことばはいつでも、こんなふうに強引に「肉体化」される。
 その若い力に正確に向き合って(つまり、ありったけの力で抵抗しながら)、木坂は

中学二年生のための私の使命
パチリ

 と「肉体」を動かす。ここには「愛」とか「意思」というような抽象化してひっぱりだせる「流通言語の思想」はない。ただ「肉体」がある。中学生の「肉体」と向き合っている木坂の「肉体」がある。
 それをそのまま「ことば」にしている。
 こういう「肉体」にふれたとき、私はうれしくなる。





現代詩手帖 2012年 12月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
思潮社

女性詩史再考―「女性詩」から「女性性の詩」へ (詩の森文庫)
新井 豊美
思潮社

だっこべんとう
木坂 涼
教育画劇

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阿部嘉昭『みんなを、屋根に。』

2012-12-13 11:31:51 | 詩集
阿部嘉昭『みんなを、屋根に。』(思潮社、2012年11月30日発行)

 阿部嘉昭『みんなを、屋根に。』は思潮社が始めた「オンデマンド・サーヴィス」の第一弾。ネット注文に応じて製本する形式という。どういう形式でもいいけれど(私は文字ならどんなものに書かれていたものでも読んでしまうけれど、そして読んでしまえば、あとはことばを動かすだけだから)、うーん、文字が小さい。これが目の悪い私にはかなりつらい。文字の大きさと線の太さの関係が、ちょっと厳しい。いろいろ制限があるのかもしれないが、工夫をこらしてもらいたい。

 まだ読みはじめてすぐなのだが「四方」という詩がいい。

夢の四方なのではない
四方がすでにゆめなのだ
仮定の中心にいることは
ささやかにして確実な体感

 どこがいいかというと、スピードがいい。「オンデマンド・サーヴィス」の狙いがどこにあるのか私は知らないが、私の勝手な想像でいうと、書いたものが読者にとどくまでの時間が短縮されるということもそのひとつのメリットだろうと思う。書いたらすぐに発表(すぐに読める)というのはネットが切り開いたことばの運動の場だけれど、それが少しだけ時間がかかるけれど紙の媒体にも可能になったということならば、そこではやはりスピードがものをいう。
 ことばが腐らないうちに流通させてしまえ。
 これは乱暴な言い方かもしれないけれど、鮮度を真剣に考えるならば、そういう乱暴も必要なことである。新しいうちは何でもおいしい--かどうかは、まあ、わからないけれど、「新しいんだぞ」ということばにつられて反応する肉体というものがある。私などはミーハーだから「新しいんだぞ」と言われれば、それだけでそこに近づいてしまう。
 で、この詩の書き出しには、そういう乱暴な力がある。

夢の四方なのではない
四方がすでにゆめなのだ

 この対になった2行。--これって、どう違う?
 というより。
 「夢の四方なのではない」ということは、どういういこと? 何が「夢の四方なのではない」なのかなあ。「主語」がここにはない。「あるなにか」が「夢の四方ではない」のなら、それでは何の「四方」? 論理的に考えると、そういう疑問がわいてくる。
 けれど、そういう疑問の瞬間を否定するように、すぐ

四方がすでにゆめなのだ

 とつづく。
 え、そうすると「四方」が主語? 1行目に戻り主語を補うと、

「四方は」夢の四方ではない

 ということになるが、それでは2行目とつづけるとどうなる?

「四方は」夢の四方ではない
四方がすでにゆめなのだ

 なんだ、これは。論理として成り立たない。否定が、ひっくりかえされた形で断定にかわるのだが、その変化の瞬間には、否定がある。「……ではない」という否定を、瞬間的に否定して「……なのだ」にかわる。そのとき、そのまわりにあることば(何かを指し示す働き、運動の形)は、同じ姿をしている。言い換えると同じことばがつかわれながら、正反対のことが主張されている。
 めんどうくさいことに「夢」は「ゆめ」と書き換えられてもいるのだけれど、これっていったいなんなのさ。
 わからないよね。
 わからないけれど、同じことばが繰り返されたので、その繰り返されたということがわかり、またその繰り返されたことば自体、「夢(ゆめ)」「四方」ということばが知っていることばであるだけに、そこに「わかる」ものがあるように感じる。錯覚する。というより、「あ、なるほどそうか」と「わかってしまう」。
 この「わかる」はとても微妙。
 最初に書いたように、それを「論理的」、言い換えると「頭」で整理して「流通言語」にしようとすると、とても変。うまい具合にゆかない。
 ところがわかってしまう」。それはどういうことかというと、「夢(ゆめ)」とか「四方」ということばがすでに私たちの「肉体」になってしまっていて、「意味」を必要としていないからだ。「意味」として考える必要のないものだからだ。
 そういうもののなかに、そういうことばのなかに、肉体をぐいとねじ込み「……ではない」「……なのだ」とことばを乱暴に動かす。「……ではない」も「……である」も、やはり「肉体」になってしまっていることばで、私たちは「意味」ということをいちいち考えない。瞬間的に「そうだ」と納得する。
 このあたりの「肉体のことば」そのものの動きは、早ければ早いほど、なんというかとても印象に残る。有無を言わさず、それに従うしかない。それ以外の「ことばの肉体」の動かし方かあるとは思えない。
 私はわずか2行にこだわってくだくだと書いているが、こういうことばの動きは、阿部が書いているように、ぱっと捨て去っていくことが大切である。  

夢の四方なのではない
四方がすでにゆめなのだ
仮定の中心にいることは
ささやかにして確実な体感

 3行目に前の行の、前のことばの痕跡は残っているか。ひとは大切なことはくりかえして言いなおすものだが、3行目は1、2行目をどんなふうにして言いなおそうそしているか。
 「四方」の痕跡は「中心」ということばのなかに生き残っている。そうして、「夢(ゆめ)」は「仮定」に姿をかえているとも言えるのだが、「四方」が「中心」ということばのなかに残っているとすれば、そのとき「四方」は四角形ではなく「円」になる。「円」として考えた方が、「ぐるり」感がでる。--そうして、その感じは、そういえば「四方」というとき私たちは別に四角形を考えていないなあ、東西南北というときだって十字形の交差する線を考えているわけではなく、「周り中」という感じでとらえているなあと思い出す。「頭」が「正確」に形をとるもの(四角、十字)とは違って、「肉体」は形にならないもの(周り中、ぐるり)という不定形としてことばを「覚えている」。そして、つかっている。
 こういうことを、新しく追加された3、4行目は猛烈なスピードで言い切ってしまう。この速さを私は「乱暴」(あるいは暴力)と肯定的なことばで呼ぶのだが。(まあ、否定的と受け止めるひとがいるなら、それはそれでかまわないけれど。)
 ここで動いていることばの「力」が「頭」というより「肉体」であるからこそ、それは生き生きとしている。
 「頭」ということばを阿部はつかっていないが、「体感」ということばのなかにある「体」と「感じ」が、「頭」を想像させる。「頭」を否定して「肉体」でことばを動かしている、「ことばの肉体」が動いて、こんな行になった、と言っているように感じられる。補足すると、まあ、「頭」は「仮定(理性による考察の出発)」ということばのなかにあり、それに対向する形で「体感」、「肉体」と「感性」があり、その「頭」と「体感」を比較すると「体感」のほうが「確実」であると阿部は言っていることになる。--と判断して、私は阿部の「肉体」がことばの運動の中心にあると感じるのである。
 この「肉体」の強靱な印象は、とてもおもしろい「錯乱」を引き起こす。「幻覚」のようなものを引き起こす。これがまた、とてもおもしろい。ジェットコースターに乗っている気分である。「わあああああおーーーーっ」と叫び、手放して空気のなかにとびだしていく感じだなあ。

あふれる樹間がひかりにゆれ
風のすみかも開閉するとき
そこに同じものの瀰漫がある

 「瀰漫」って、何さ。読める? 私は読めない。だから、かっこいいと思う。私の知らないことを阿部は知っていて、みんなが知っていて当然という感じでつかっている。私はばかだからこういうときすぐ「わからない、知らない」と言ってしまう方だけれど、こういうことばに出合ったら知っているふりをしたくなるでしょう? わからないことだからこそ知っているふりをして「うん、そう」といいたくなるでしょ。
 こういうとき「意味」は「超越」されている。「意味」は「無意味」。つまり、完全に詩になっている。かっこいい。「わあああああおーーーーっ」私の肉体はそう叫ぶだけ。それで満足。「瀰漫」なんかわからなくていい。こんなにかっこいいことばである。次に出合えば、それを思い出す。そのとき、いま感じたことを思い出し、そのことばの文脈のなかで重ねれば、そこに「意味」はおのずとあらわれてくる。「意味」が肉体からあらわれるまで、それは「肉体」のなかにただしまい込んでおけばいいのである。
 「意味」なんか考えると阿部のスピードについていけなくなる。

時間のまばたきのようなもの
均質のくりかえしの均質
これが拡がりの姿なので
ゆるやかさに酔った気になって
身が紙ふぶきに似てゆく

 「均質のくりかえしの均質」。そう繰り返されるものは「くりかえし」という「均質」として「肉体」にぴったり合致する。ここではどんなスピードも「均質」であることによって「肉体」にたたき込まれるから「まばたき」のような時間さえも「ゆるやかさ」になる。
 「まばたき」と「ゆるやか」は「矛盾」だけれど、そういう「矛盾」をのみこんでしまうのが「肉体」である。「肉体」で「覚える」ことがらは、すべて「動詞(動き)」を中心としているから、どんなに速くてもゆるやかと言えるし、どんなにゆったりしていてもすばやいと言い換えることができる。--ほら、一流アスリートの肉体の動きはなめらかでゆったりしているからこそスピードがあるでしょ?

 いやあ、いいなあ。このスピード感覚。ことばの肉体のかっこよさ。ダニエル・クレイブみたいじゃないか。現代詩の007だね。
 ひとつだけ苦情(?)を書くと、詩が長すぎる。「四方」という詩は19ページでおわっていてもいい。20ページまでつづいているのだが、ページをめくると、そのページをめくるという肉体の動きに時間がかかってしまって、ことばの肉体の動きが中断する。これはとても残念なことである。
 阿部は、まあ、そんなことをしたら詩が中途半端になってしまう、というかもしれない。でも、詩なんて中途半端でいい。どっちにしろ「わからない」ことが詩なのだから、長々とつづけたってしょうがない。「意味」や「主張」など、だれも期待していない。(と、私は感じている。--007 の映画に「意味」を見出したいと思うひとがいないのと同じように。)
 ことばは、いま、こんなふうに突っ走っている。ついて来れるかい--そう見栄を切って日本語を挑発するには、この「オンデマンド・サーヴィス」はおもしろいかもしれない。

 



みんなを、屋根に。
阿部 嘉昭
思潮社
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川上亜紀「青空に浮かぶトンデモナイ悲しみのこと」

2012-12-12 10:53:47 | 詩集
川上亜紀「青空に浮かぶトンデモナイ悲しみのこと」(「現代詩手帖」2012年12月号)

 「現代詩手帖」12月号は「アンソロジー」が掲載されている。読み落とした詩がたくさんのっているので読みごたえがある。川上亜紀「青空に浮かぶトンデモナイ悲しみのこと」は『三月兎の耳をつけてほんとの話を書くわたし』のなかの一篇だが、詩集で読んだとき、私は読み落としていた。

きがつくと青空には入道雲の代わりに
トンデモナイ悲しみが浮かんでいて
わたしは傘をさして足を速めた
(おいかけてくるんだねそいつが)

 この書き出しでは「トンデモナイ悲しみ」がどういうものか、具体的にはさっぱりわからない。2連目。

夏はそれでもどこまでも眩しくて
白と黒の縞柄の傘がつくる影は淡く小さい
わたしはサングラスをかけて
そのトンデモナイ悲しみをそっと眺めた
(空が眩しいのでよく見えない)

 ここでも、「トンデモナイ悲しみ」はわからない。わからないけれど、とてもいい。他人の悲しみなんて、具体的にはわからなくて「悲しみ」が川上には見えるんだろうなあ、くらいの軽い感じがちょうどいいのかもしれない。
 「トンデモナイ悲しみ」と書いているけれど、ことばはとても軽快で、そこには「トンデモナイ悲しみ」のかわりに、はつらつとした「肉体」と「若さ」がある。「輝き」がある。茨木のり子の「私が美しかったころ」に似たリズムである。
 もし「トンデモナイ悲しみ」があるとしたら、それはどんなときでも「はつらつと動いてしまう肉体・知性」というものかもしれない。うちひしがれてじっとうずくまっているのではなく、そんなことはできずに、何か動いてしまう力--そこに「トンデモナイ」なにかがある。「トンデモナイ」ものだから、それをどう呼んでいいかわからない。だから、いまは「悲しみ」と呼んでみたのである。
 「トンデモナイ」ものであるから、「悲しみ」は「よろこび」かもしれないし、「不安」かもしれないが、そんな「流通言語」のための「定義」はどうだっていいのだ。「流通言語」ではとらえきれないから「トンデモナイ」のだ。
 この軽快さ、この強靱さはいいなあ。

あれこれと破れた記憶を抱えて
クリーニング屋に持っていったが
「猫の毛がついたものはお断りします」の貼り紙
繕いは駅の向こうの店でやっていますよと断られる

 こういうとき、感じるのは「悲しみ」? 怒りかもしれないなあ。でも「怒り」と言われたらクリーニング店のひとは逆に怒るかな?
 まあ、こういうことに遭遇したときは、たしかに「うれしくはない」。だからといって「悲しみ」と言ってしまっても、きっとひとにはわかってもらいにくい。
 このあと、詩は、かなり「転調」する。4連目を省略して、5連目。

廃線になった列車の線路を見にいった島で
片腕のない男がサトウキビ畑の脇に立っていたっけ
でもそれがいつのことか思い出せない
映画館の暗闇から外に出て見上げた空は
夕焼けでジャムのように甘酸っぱくて
友達が教えてくれた喫茶店でコーヒーを飲んだっけ
でもそれがいつのことか思い出せない

 5連目はまだつづくのだが、ここにあらわれた「思い出せない」ということばで、私は、はっとしたのだ。別ないい方をすると「誤読」するきっかけのようなものをみつけた、と思ったのだ。
 そうか、「思い出せない」か。
 たとえば川上はクリーニング店でのことを「思い出せる」。「いま/ここ」ではないけれど、まだ「いま/ここ」と呼んでいい場で起きたことである。これは廃線を見にいった島、映画館からでたあとの夕焼けをみた街との対比でいうのだけれど。そして、そうやって対比してみると、川上の「思い出せない」ことには不思議な特徴がある。「こと」は思い出せる。片腕のない男が立っていたこと--それをみたこと、は思い出せる。夕焼けをみたこと、コーヒーを飲んだことは思い出せる。「いつ」が思い出せない。
 これはことばをかえていうと。
 「こと」というのは自分の肉体が動いてつかみとる何かである。「こと」というのは「名詞」だけれど、実は「動詞」がそこにひそんでいる。「動詞」がひそんでいるということは、そこでは肉体が動いているということである。
 「いつ」という「時間」も「肉体」に深く関係してくるときもあるけれど、それが「思い出す」ということとつながると、実は、とても変な動き方(?)をする。
 片腕のない男を見たこと、コーヒーを飲んだこと、それからクリーニング店で断られたこと--そこには「時系列」があって、ほんとうはまじりわあない。けれど、思い出すとき、その三つのことの「あいだ」に「時間」はない。すぐそばに隣り合っている。「肉体」は「時間」を消してしまう。
 これはよくよく考えると「トンデモナイ」ことのように私には思える。
 そして川上の言っている「トンデモナイ」も、どこかでそういうものとつながっている。

きがつくと青空には入道雲の代わりに
トンデモナイ悲しみが浮かんでいて
わたしは傘をさして足を速めた
(おいかけてくるんだねそいつが)

 「トンデモナイ悲しみ」は「いつ」のもの? つまり、「いつ」起きたことがらに起因している?
 私の疑問は変?
 そうだよね。「悲しみ」と書かれているけれど、ここでは「どこで」も「何が原因で」も書かれていないのだから、私がそこから「いつ」だけを取り上げて、そこでつまずくというのは、とても変。そういうことを取り上げても「悲しみ」はわからない……。
 でも、私は「いつ」にこだわる。
 というのは5連目の「いつのことか思い出せない」と違って、1連目では、それが「いま」であることはたしかだからである。「きがつくと」、つまり気がついた「いま」、それは起きている。そして、この「いま」を「いま」だと感じているのは(ことばにしないから、実は「無意識」というか、意識することを忘れているのは)、「肉体」である。
 「肉体」が「いつ」からほうりだされてしまっている。
 「肉体」が「過去」の「時間」から解放されて(?)、自由になって、ほうりだされている。
 茨木のり子の詩を思い出したのも、そこでは茨木の肉体は「戦争」という「過去」からほうりだされて動いているからだ。
 「過去」からほうりだされた「肉体」は、つまり「過去」に頼ってはいけないということでもある。だから、そこに「不安」もまじってくる。しかし、それは「不安」であっても、そこには「自由」の「よろこび」がある。この「自由」と「よろこび」は「トンデモナイ」ものである。言い換えると「過去」の「定義」ではとらえることのできないもの。「過去」という時間からの「エクスタシー」のようなものである。
 「過去の定義」を解体し、「時間」の束縛を切断し、「肉体」のエクスタシー、「いま」のエクスタシーのなかに突入していく。そこで何が起きるか知ったことではない。知ったことではないけれど、それを「肉体」で受け止める。何が起きたって「肉体の私」は「私の肉体」のままである。どんなに「切断」してしまったとしても、そこには絶対的に「接続・連続」がある。
 これも「トンデモナイ」ことである。
 「トンデモナイ」は「肉体」そのものが「思想」である、ということだ。「頭」を拒絶して「肉体が思想である」と宣言することである。

きがつくと空の上から
オレンジと黄色の縞のシャツを着たトンデモナイ悲しみが
細いサングラスをかけてわたしを見ている
トンデモナイ悲しみのまわりには
雲がきれぎれに浮かんでいた
「きれいなシャツですね」
思わず声をかけるとトンデモナイ悲しみは小さな雲をしたがえて
すっーと地面すれすれのところまで降りてきた
「悲しんでいるひとはわたしを見るとこわがって遠ざかっていくので、今年の夏は思い切って派手な服を着てみました」
「それはいい思いつきですね」
「けれども楽しい気持ちのひとにはわたしなんか見えないのです」

そこでわたしはトンデモナイ悲しみと二人で
街に遊びにいくことにしたのだった

 いいなあ。これは。
 わけがわからないけれど「肉体」がある。「肉体」は「遊ぶ」ことができる。「遊び」とは「無意味」である。「無意味」とは「意味」の拒絶であり、言い換えると「詩」である。「無意味(詩)」とは、「過去の時間」から切断された「いま」でしかありえない「こと」である。その「こと」を「こと」にするのは「肉体」である。




三月兎の耳をつけてほんとの話を書くわたし
川上 亜紀
思潮社
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谷川俊太郎「龍を見る」

2012-12-11 11:01:49 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「龍を見る」(「現代詩手帖」2012年12月号)

 谷川俊太郎「龍を見る」の初出は「文藝春秋」2012年02月号。2012年が辰年なので、それにあわせて書いたのだろう。この「何かあわせて」というのも「わざと」のひとつだが、谷川の詩の場合、なぜか「わざと」をあまり感じない。自然な感じがする。「あいさつ」の仕方が身についている(肉体になっている)ということなのだろう。

龍を見るという理系の友人がいる
現れるのは毎年初夏の辰の刻のころ
怖いかと訊くと首を横に振る
体のくねらせかたなどむしろ色っぽいのだと
鼻息の匂いはラベンダーに似て
口には無音の音楽を含んでいるという
あっという間に雲間に消えるが後味がいい
自分が大地から天空へ育まれるような心地がする
CGの龍なんぞは絵空事だと
自分が龍になったつもりか友人は息巻く

 1行目。「理系の」ということばが、とてもおもしろい。龍は架空の動物。そういうものを見るのは「文系」の人間と相場がきまっている。つまり、そういうことが「流通言語」の「定型」になっているのだが、この「流通言語」の部分をちょっとくすぐるような感じでことばが動く。そうすると関心は、龍ではなく、「理系の友人」の方に向いてしまう。
 あとは蛇足、というと谷川に叱られるかもしれないけれど、あとはその「方向」にむかってことばが自然に動いていく。龍よりも、「友人」の人間性(?)に引き込まれていく。龍なんてもともといないのだから、どれだけ描写したって「うそ」になる。けれど「友人」というのは実在する。「理系の友人」というもの実在する。--ほんとうに谷川に「理系の友人」がいるか、それは「だれ」かということは問題ではなく、谷川にそういう「友人」がいるということは、想像の「許容範囲」。想像できる。龍だって想像なのだが、「理系の友人」のほうが想像であっても「実在」する。
 龍は怖くない、と主張する。華奢な男ではなく、まあ、がっしりした男なのかもしれない。龍の体のくねらせ方は色っぽい、と言う。スケベなところがある男なのだろう。それからラベンダーのにおいがわかる、感性の開放された人間であるということもわかる。こういう人間だから龍の体のうねりにも色っぽいと感じるのだろう。さらに音楽のたしなみもあるんだなあ。無音の音楽なんて、武満徹の沈黙と測りあう音楽みたいでかっこいい。そうか。「理系」というけれど、たまたま仕事(?)が理系なだけであって、感覚としては「文系」かな--というような感じで「友人」はさらに「実在感」を増していく。つまり「肉体」になっていく。
 で、その「肉体」が……。

あっという間に雲間に消えるが後味がいい
自分が大地から天空へ育まれるような心地がする

 あらら。龍になって、天空へ飛んで行く。そうか。何かを「見る」ということは、「何か」になることである。龍は、もう、そこにはいない。そのかわりに「理系の友人」が龍そのものになっている。

CGの龍なんぞは絵空事だと
自分が龍になったつもりか友人は息巻く

 谷川は冷静に(?)、「自分が龍になったつもりか」と、あくまで「友人」は「友人」であって、龍ではない、と言っているのだが。
 ほんとうに、そうかな?
 「友人は息巻く」というのは「友人」の描写であるけれど--つまり、そこには「友人」を描写する谷川がいるはずなのだけれど、読んでいると、ふっと谷川が消えてしまって、「友人」だけが見える。
 これは別なことばで言いなおすと、谷川は「友人」そのものになって、そこで「息巻いている」。「友人は息巻く」と書いているのだけれど、「谷川は息巻く」という感じに読めてしまう。私は「誤読」してしまう。
 なぜこんなことが起きるかというと「息巻く」という「動詞」のせいなのである。「動詞」は「肉体」といっしょに動く。つまり「動詞」のあるところ、「肉体」がある。その「肉体」を「見る」とき、そこに存在するのは「肉体を見る別の肉体」というよりも、「見られる肉体」だけが存在する。「肉体」が無意識のうちに「一体化」している。「融合」している。

 あれっ。

 と、ここまで書いて私は思うのである。
 この関係は龍と、龍を見る理系の友人の関係そのものではないだろうか。龍が存在する。そしてそれを「見る」理系の友人がいる。だが、見ているうちに友人は龍になってしまった。
 同じように、龍を見るという友人がいる。その話を聞いている谷川がいる。だが聞いているうちに谷川は友人になってしまった。--ということは、谷川は龍になってしまったということでもある。
 そこまで「一体化」したからこそ、ことばは自然に動くのである。

 で、唐突に「あいさつ」に戻るのだが、そうか、「あいさつ」とは、「いま/ここ」にいる人と「一体化」することなのか、と気づくのである。
 この「日記」を書きはじめたとき、私は「あいさつの仕方が肉体になっている」と書くには書いたが、実は、それが何のことかわからずに書きはじめていた。(わからないから書きはじめていた、というべきなのかもしれない。)
 「あいさつ」というのは、まあ、「私はあやしいものではありません」という「証明」のようなものなのだけれど、これって、最初はぎこちないよね。「あやしいものではありません」というだけでは、まだまだ「あやしい」人間である。「あやしくなくなる」のは、相手と何かが「あう」ということを体験してからだ。「人生観」とか「趣味」とか、そういうおおげさなものではなく、たとえば笑顔のタイミングとか、声の調子とか。「肉体」そのものが「肉体」として、違和感なくつたわる。--それを「あう」というののだと思うけれど。
 だから、知らない人に「あいさつ」をするのはなかなかむずかしい。「あわせる」のはむずかしい。
 谷川にとってもそれはむずかしいことだったかもしれないけれど、長い年月(失礼!)を生きることで、むずかしさを克服し、しなやかに「あいさつ」を肉体にしみこませた。覚え込ませた。覚えたことはつかえる。人に「あわせる」ことができるのが谷川なのだ。そういう「あいさつの肉体(思想)」を谷川は生きているのだ。

 私は、谷川が他のひととコラボレーションをするのを2回見ている。そのときのことを、いま、ふいに思い出した。「主役」は谷川なのだが、いつも前面に出ているわけではない。他のひとが詩を読んだり絵を描いたり音楽を演奏したりするときは、彼らの肉体と作品が前面に出るように、すーっと消える。消えるといっても「引く」のではなく、他人そのものと「一体化」している。
 あ、あれも「あいさつ」の呼吸だったんだなあ。

 で、この「あいさつ」の効果(?)といえばいいのかな。効能といえばいいのかな?
 谷川の詩を読むと、それがときどき谷川の詩であるかどうかわからなくなるときがある。それは、たとえばモーツァルトの「タタタンタタタンタタタンタン」とかベートーベンの「ダダダダーン」を口にするとき、それをモーツァルトとかベートーベンとか意識しないのに似ている。肉体が勝手に音とリズムを繰り返す。同じように、谷川の詩を読んだあと、そのことばが「肉体」に入ってきて、「私のことば」そのものになる。言い換えると、それを「声」にするとき谷川を意識しないで、そのことばがまるで自分の「声」そのものになっていると感じることがある。
 だれかが「こんにちは」と笑顔で声をかけてくる。つられて「こんにちは」と声が出る。そのとき、私は「こんにちは」の「意味」など考えない。ただ「肉体」が反応している。「肉体」が反応しているということさえも意識しない。--こういう意識されない「肉体」こそが「思想」であると私は思っているのだが、そういう「思想」の最良のものを谷川は「あいさつ」の形で輝かせるのだと思う。
 辰年にあわせ龍が登場する詩を書く--「わざと」なのに「わざと」と感じさせないのは、それが「肉体」になっていて、その「肉体」が「肉体」のまま私につたわってくるからだと思う。




すき好きノート
谷川 俊太郎
アリス館
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福間健二「きみのために詩を書くよ」

2012-12-10 10:53:00 | 詩(雑誌・同人誌)
福間健二「きみのために詩を書くよ」(「現代詩手帖」2012年12月号)

 福間健二「きみのために詩を書くよ」(初出「朝日新聞」2012年01月17日)は最初何が書いてあるかわからなかった。けれど、きのう高橋睦郎の「風景」について書いたあと読み直すと、とてもよくわかる。よくわかると言っても、それは私のことだからよく「誤読」できる、ということである。
 高橋睦郎の詩を読んだとき「改めて」ということばにふれた。「改めて」は「風景」のキーワードだが、この「改めて」を別のことばで言いなおすとどうなるか。
 「わざと」である。西脇順三郎が「現代詩」を定義して、「現代詩とは、わざと書かれたものである」と言ったが、その「わざと」を高橋は「改めて」と言い直し、それを詩そのもののなかに隠した。木も川も丘も出てこない「風景」は「わざと」そう書かれたのである。ほんとうは目の前にあるかもしれないさまざまなものを「わざと」隠して、光と影との交錯のなかに閉じ込めた。その「わざと」そうすることのなかに、詩--つまり、「流通言語」とは違うことばの動きがある。ことばは、そんなふうに動くことができる、ということを書いてみせたのが高橋の詩である。
 長い前置きになったが、福間も「わざと」ことばを書いている。「流通言語」ではなく、「流通言語」をつまずかせるような形でことばを動かしている。

何をさえぎる雨? たぶん、明日への見通しだよ。国分尼
寺跡から府中街道の方へ出るトンネルの壁のくぼみにきみ
は隠れていた。その十本の指が十本ともかすかな光を発し
て、侵略、的、少女。この秋のヴァージョン。生きていれ
ばいい、のかな。生きて、詩を書く。詩を読む。みんなが
もっと普通にやれるようになるといいんだけどね。

 しゃれた少し前のコマーシャルのようなことばの動き。とりわけ、そのなかの、

侵略、的、少女。

 これが「わざと」っぽい。なぜ、読点がある?「侵略的少女」だと「意味」が違ってくる? まあ、違うのかもしれないけれど、その違いは?
 論理的に説明しようとすると、わからなくなる。
 「侵略的少女」と書いてしまうと、それこそコマーシャルになってしまう。「流通言語」そのものになってしまうので、ちょっと「分断」をいれることで、「流通」に歯止めをかけているのかもしれない。

 ということは、それはそれとしておいておいて。私は、ここで少し「飛躍」をする。
 最初は「侵略、的、少女」という魅力的なことばにひかれ、それについてあれこれ思うのだが、福間の「わざと」は、それとは別なところにある。そして、その「別なわざと」を隠すために、「侵略、的、少女」という「わざと」を飾っている。それで読者の目をくらまそうとしている。
 ほんとうの「わざと」は、その直前の、

その十本の指が十本ともかすかな光を発して、

 この「十本の指が十本とも」という部分。手の指のすべてのことを指していっているのだが、手をわざわざ指に微分し、さらにその微分に「十」という数字を割り振る。手の指が十本であることはわかりきっていることなので見落としてしまいそうだが、ふつうは、こういう面倒くさい言い方はしない。「手の指が全部かすかに発光して」くらいの印象である。細部を見ない。手の指が光って見えれば、「手の指が光っているね」ですむのだが、それを「十本の指が十本とも」というのは、とても奇妙である。
 なぜ、こんなふうに数字にこだわったのか。「わざと」数字を詩のなかにまぎれこませたのか。
 その理由は詩のつづきを読むとわかる。

きみと話した一時間。この惑星のどこか、死をねがう子た
ちを追い抜いた旅路のはての駅と食堂が出てくる詩を思い
出した。遠い昔の家での話をきみはして、ぼくは自分が詩
を書いていることを話したね。ロマン派の詩人たちから盗
んだ七つの重大欠陥を八つにも九つにもして。じゃあね。
またいつか。

雨のあがった夜の遺跡。石と枯葉の上にその光る指をひと
つずつ落としてきみは去り、わかった。おたがいの明日の
なかにとびだして破裂して狂う、その入口が十個あるの
だ。それを踏まないように、十一月、十二月、ゆっくりと
動き、自分の息の音を聞いて、新しい年。寒さに負ける死
とのどんな取引も拒んで、きみのために詩を書くよ。

 2、3連目に「七つ」「八つ」「九つ」「十(個)」「十一(月)」「十二(月)」と数字が並ぶ。数え歌である。その数字を唐突に感じさせないために(なぜ、「ひとつ」から始まらないのかという疑問を引き起こさないようにするために)、「十本の指が十本とも」ということばが「わざと」書かれているのである。
 「一時間」と「一」も出てくるには出てくるが、そのあと「二、三、四……」とやってしまうと、うるさくて「わざと」が目立ちすぎるから、その目立たないように「わざと」途中だけ「数え歌」にしている。さらにいえば、そういう「数え歌」の「わざと」を隠すために、「侵略、的、少女」という「表記」の方法が取られている。
 もちろん逆に「侵略、的、少女」という「分断」を挟んだことばは、「数え歌」を隠すというよりも、「数え歌」が「数字」をはさんで飛躍することを強調している--ということもできる。
 こういうことは「事実」ではなく、単なる「論理」の問題だから、正反対のことが簡単に言えてしまうのである。「論理」というのは単純に言えば自分の立っている位置を証明するだけのものであり、立っている位置が反対側に行けば逆向きのベクトルが動くだけのことだからである。
 福間は、まあ、こういう「ことばの運動の論理」を熟知しているのだろう。そして、その「熟知している技術」を利用して、「流通言語」と交差するような形でことばを動かすのだろう。
 そこに不思議な「軽み」「明るさ」のようなもの--ひとのこころを刺戟する何かが見える、感じられるということなのだろう。「死をねがう子たちを追い抜いた」というような、簡単にいってしまえないようなことさえ、なんでもないことのように書いて、そして隠してしまう--ともかく「技巧的」(「わざと」さえも隠してしまうほどの「技巧」を駆使した)作品である。
 
 高橋の「わざと」には「改めて」ということばのように、何かしら「未消化」なことばの動きがあって、そこに「正直さ」を私は感じるのだが、福間の詩の場合、私は「正直」をどこに感じていいのかわからない。「うまい」ということに「正直」を感じればいいのかもしれないけれど、ここまで「うまく」書かれてしまうと、私はどうもに「人間」に出合った、「肉体」と向き合ったという気持ちがしない。


青い家
福間 健二
思潮社
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高橋睦郎「風景」

2012-12-09 10:03:53 | 詩集
高橋睦郎「風景」(「現代詩手帖」2012年12月号)

 高橋睦郎「風景」(初出「読売新聞」2012年01月21日朝刊)にも、きのう読んだ長田弘の作品と同じように「うつくしい」ということばがたくさん出てくる。そして、高橋もひらがなで「うつくしい」をあらわしている。

光が降りそそいでいた
水があふれやまなかった
ものみな細やかな影を呼吸していた
こんなにおだやかな こんなにうつくしい
風景が かつて何処(どこ)かにあったろうか
幸福感に満たされて 改めて見渡した時
そこには ひとりの人影もなかった
もちろん 私自身の影もなかった
そこにいない私が そこの風景を
ひとしひと感じ取っている
だから こんなにもうつくしく
だから こんなにもやすらかなのだ
そこにいない私が 深くうなづいていた
うなづきながら 涙をながしていた
人間を超えた 生命を超えた世界への
ゆるぎない信頼と祝福の涙だった
私は何処にも存在しなかった
私の不在ゆえに 世界は完璧だった

 うーん、この詩のどこがいいのだろう。どうして「年鑑」に収録されているのだろう。ほんとうにこれが2012年の「収穫」なのか。高橋の代表作なのか。
 だいたい、ここに書かれている「風景」が見える?
 長田の詩の場合でも、そこに書かれている「風景」が見えるかといわれるとはっきりしないが、少なくとも「木」を思い描くことができた。では、高橋の詩の場合は?
 「光」が登場する。「水」も登場する。そして「影」が登場する。でも、何の影?
 しかも「ものみな細やかな影を呼吸していた」というのだけれど、その「ものみな」って何? 「影を呼吸する」って、どういうこと?
 わからないねえ。
 わからないのに「こんなにおだやかな こんなにうつくしい」と言われてもねえ。その「うつくしさ」はぜんぜんわからない。「おだやかさ」もどう思い描いていいのかわからない。
 さらに「そこには ひとりの人影もなかった/もちろん 私自身の影もなかった」とつづくのだけれど、「私自身の影もなかった」とは「私がいなかった」ということだから、では、これは、だれが見た風景?
 変だねえ。
 「高橋睦郎」という「名前」がなかったら、私はこういうことばを読み捨ててしまっていただろうと思う。「高橋睦郎」という名前があるから、ふーん、これが高橋の今年の代表作か、どこがいいのかな? どこに詩を見つけることができるかな。私は「定見」などもたない俗物だから、そこでちょっと立ち止まるのである。

 で、まあ、そんな気持ちで読みなおしてみた。

 で、読みなおして気がついたことは、ふたつある。
 ひとつは

幸福感に満たされて 改めて見渡した時

 この「改めて」がこの詩のキーワードであるということ。キーワードというのは、そのことばがないと「世界」が存在しないことば。いわば「核心」。ただし、それは「個性的」ではない。だれもがつかうことばである。たぶん書いている高橋は「無意識」につかっていると思う。言い換えると、ことばが「肉体」になってしまっている、思想になってしまっていることばである。
 そこにはほんとうは木があったかもしれない。川があったかもしれない。丘があって、小鳥や小さな動物たちもいたかもしれない。それを見て「おだやかでうつくしい」と高橋は思ったかもしれない。ねして、詩人だから、そのおだやかでうつくしい風景をことばにしようとして、
 改めて、
 世界を見つめる。
 このとき「見つめる(見渡す)」のは、高橋の場合「目」ではない。「ことば」である。目で見たものを、ことばにする。ことばで「改めて」見る。
 そうすると、まず最初に「人間」がその風景のなかにいないということに気がついた。光、水、影は存在するが「人間」がいない。人影がない。人がいなくても、そこには世界があり、また「ことば」がある。
 「ことば」だけがある。「ことば」だけで世界を成立させることができる。「ことば」だけで世界をそこにあらわすことができる。「無」から「有」への転換を「ことば」だけですることができる。
 「改めて」は、「ことば」による「無」から「有」への転換である。

 そう書くと何かかっこいいことを発見したような気持ちになってしまうが……。これは、しかし、とても変である。まず「世界(風景)」があった。それを「改めて」ことばとしてそこに存在させるわけだから、その運動は有(世界がある)からことばがある(有)への転換である。
 「無」なんて、関係がない。
 ふつうはたしかに風景があってそれをことばにするときは、単に世界をことばで反復することだから、「無」は関係がないし、無から有への転換など、でたらめの妄想になる。それはそうなのだが、

改めて

 このことばが、その、ふつうの描写の場合は入っていないことに注意しなければならないのだと思う。ふつうは「改めて」ことばを動かす、「改めて」世界を描写するというようなことなど考えないで、「ことば」を動かしている。
 ところが、そのだれもしないことを高橋は「改めて」ということばを契機にやりはじめるのである。
 では、それは「意識的」なのか。
 そうではないと思う。
 「意識的」にことばで世界をあらわすときには、「もの」がはっきり見えるように書き表す。たとえば木の枝はどんなふうにねじ曲がっていた、そしてそれはどんな印象を与えたか--そういう具合に「具体性」をこころがける。それがふつうである。
 まあ、高橋もそういうことをしようとしたのかもしれないが、この「改めて」はだれにとってもあまりにも「無意識」にはじまる。あまりにも「常識的」にはじまる。
 それは「常識(無意識)」なのだが、それを「改めて」とふと「無意識」にもらしてしまったために、高橋の「ことば」は風景ではなく、ことばそのものへと引き込まれてしまったのである。
 どうすることもできない、何か変なことが、瞬間的に起きてしまったのである。
 そういうことを、私は「改めて」という「ことば」をとおして感じた。

 そして、その「変なこと」は、どんなふうに「ことば」に影響したかというと……。これが私が気づいた二つ目のことなのだが。
 「ふりそそいでいた」「あふれやまなかった」「呼吸していた」「……した」と「過去形」で動いていたことばが、

ひしひしと感じている

 突然、そこだけ「現在形」になる。「動き」そのものになる。
 「改めて」世界を見渡すと、すべては「過去形」として存在し、「感じている」ということだけが「現在形」としてある。
 「ことば」は「過去」をつくりだしながら、「現在」を動く。
 「感じている」という「現在」は、そして、ことばを動かしてしまうと次々に「過去形」になる。「うなづいていた」「涙をながしていた」。
 私たちは「いま/ここ」という現在にしか存在しえないが--というのは変な言い方だが、「いま/ここ」という現在にいて、「ことば」を動かすと(ことばによって「改めて」世界を見渡すと)、そこには「現在」が「過去」としてあらわれてきてしまう。どうしようもない「亀裂」のようなものがあらわれてしまう。
 この亀裂から、では、私たちはどこへ動いていくべきなのか。
 私には高橋は「ことば」の方へ動いてくように見える。
 「私」は存在しない。ただ「ことば」だけがある。「ことば」の風景がある。「私」が不在になり、ことばだけが存在するときの方が「風景」は完璧なのだ。「ことば」自身で動いて行けるからだ。「私」がいれば、どうしたってことばは「私」の意識や無意識にひっぱり回される。

 「ことばの風景」は「人間を超えた 生命を超えた世界」なのかもしれない。
 
 うーん。でも、きょう書いたことは「保留」だな。
 きょう書いたことは、私がほんとうに感じたことではない。どうしてこの作品が「年鑑」に収録されているのだろう。どこに高橋の詩の魅力があるのだろう。それを考えてみようと思い、「頭」が動かしたことばである。
 「頭」で動かしたことばにはどこかに「無理・嘘」がある。きょう書いたことは私の肉体になるかどうかわからない。




詩心二千年――スサノヲから3・11へ
高橋 睦郎
岩波書店
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サム・メンデス監督「007 スカイフォール」(★★★★)

2012-12-08 09:20:10 | 映画
監督 サム・メンデス 出演 ダニエル・クレイグ、ハビエル・バルデム

 映画がはじまってすぐダニエル・クレイグが一生懸命走る。足で走るだけではなく、車で走り、バイクで走るというのもあるのだけれど、乗り物に乗るにしても「肉体」が動いている。何よりも「肉体」のアクションが印象に残る。それが象徴的なのが列車の上の格闘シーン。列車は動いている。その乗り物は脇役で主役はあくまで人間の「肉体」。
 この「肉体」の感じが、なかなかクラシックでいいなあ。やっていることは全部「映画」、つまり「嘘」なんだけれど、その「嘘」が「肉体」によって「ほんもの」になる。「肉体」に迫ってくる。
 で、ダニエル・クレイグが、これだけ窮屈な服はないだろうというくらい「肉体」にぴっちりはりついた服を着ている。これじゃあ余裕がなくてアクションをできないよ、というようなことは言わせずに、まあ、よく動く。ショーン・コネリーじゃ、いくら若くてもだめだね。彼にはダニエル・クレイグのアクション以前に、ファッションがむり。あんなぴちぴち服を着たら、ダンディーではなくなる。ショーン・コネリーの時代は、服を脱いだら(裸になったら)、想像もしなかった肉体が出てきた(セクシーだった)という時代なのだが、現代は「胸毛」くらいではセクシーではないのだ。脂肪がなくて、鍛え上げた筋肉というのがセクシーなのだ。それは服を着ているとき、その動きからもう始まっているのだ。服を脱ぐ必要のないセクシーさ。
 そして、この「肉体=セクシー」の強調が、昔なつかしい女(裸)と銃と車という「男の夢」を代弁する。いまどきこんな映画は……というようなことは、しかし、思わないんだなあ。いやあ、いいなあ、この感じ。なつかしいなあ。クラシックだなあ。映画はやっぱりこうでなくっちゃ。--まあ、これはマッチョ思想なんだけれど。いいんじゃない? 映画のなかくらい。映画の感想くらい。
 あ、なぜ、こんな「肉体」のことを延々と書くかというと。それは「敵役」のハビエル・バルデムと比較するためなんですねえ。ハビエル・バルデムは、どんな気持ちの悪い男にもなれるという強烈な「顔」を持っている。目も鼻も口も大きい。すべてが顔からはみ出す。つまり、目は目だけでセクシーに相手をのみこんでしまうというような顔をしている。そのハビエル・バルデムは脱がない。そのかわりに、入れ歯を外してみせて、「ほんとうは薬物のせいでこんなに醜い顔になっている」と、いわば「顔」を裸にしてみせるという具合。
 この対比、おもしろいでしょ?
 肉体のセクシーも顔のセクシーも時代とともに変わってきたんだねえ。変わってきたんだけれど、どんなにかわっても、やっぱり「肉体」にこそ人間は(観客は)反応する。そういうことを踏まえて映画がつくられているんだなあと思う。それで、それがとってもとってもとってもおもしろいのである。
 「肉体」の強調というか、「肉体」への回帰は、クライマックスにもよくあらわれている。舞台はスコットランドの荒地。家が一軒。協会がひとつ。ほかは何もない。雑草が生えているだけの荒地。そこで最後の戦いがおこなわれるのだけれど、何もないから、どうしても「肉体」だけが際立つ。
 そしてね。そのとき、その荒地、自分が育った土地(家を含む)というのはやっぱり「肉体」なのだということがわかる。そのとき銃よりもナイフの方が「肉体」だということもわかる。「裸」で戦うとき、ひとは「自分の場」で戦えば勝てる。なぜかといえば、人間の「裸」をその土地の「裸」は守ってくれる。同じ「空気」を生きているので、「裸」が一体になれるのだ。
 よそものはそういう具合にはいかない。知らない「場」では「裸」では戦えない。そこにあるものをつかって「武器」をつくりだすということもできない。外から「武器」を持っていくしかない。自分をまもる「服」を常に着ていないといけない。ハビエル・バルデムは「裸」になれないどころか、「部下」という鎧がないと戦えない。ダニエル・クレイグは古くからそこにいる知り合いと二人だけで、「場」を利用しながら戦う。そこにあるもの、たとえば「空きビン」をさらに「裸」にしてガラスの破片にし、そこから「武器」をつくりだすということをする。「完成品」を「素材」にかえし、つまり「裸」にして、それが「裸」のままの力でどこまで戦えるかを考え、鍛えなおす。
 これを見ながら私は、ベトナム戦争と、その直後につくられたフランスの「追想」という映画を思い出したのだけれど。ベトナムがアメリカに勝てたのは、戦いの場がベトナムだったから。そこが「裸」で暮らして「場」であったから。素手で、そこにあるものを加工しながらでも戦える--それが裸で戦うこと。「追想」の主人公も自分の住み慣れた「家」を舞台に少ない武器でドイツ兵と戦い勝ち抜く。
 もしほんとうに戦いぬかなけれはならないことあるなら、ひとは、自分の「裸」を受け入れてくれる「場」へ帰って戦うべきなのだ。その「場」のすべてを「裸」にして、そこから世界を組み立てなおしながら戦う。そうするときひとは「侵入者」に絶対に負けることはない。
 この映画では、Mが最後に死んでしまうのだが、彼女はボンドの「味方」であっても、やはりその「場」の人間ではない。ひとりの「侵入者」であることを考えると、その死は「必然」なのである。ひとが生きる(裸でも生き抜くことができる)のは、自分の「場」以上に適したところはない。
 --映画のテーマはそういうことではないのだが、そういうことを考えてしまうくらい、この映画はおもしろかった。どこまでもどこまでも「誤読」できる映画である。強引に「誤読」を繰り返せば、「007」は肉体と女と銃のアクションというの「007」の出発点に戻ること--「裸」になることで、新しく甦ることができたのだとも言える。
              (2012年12月07日、天神東宝・ソラリアスクリーン7)




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20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
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長田弘「秘密の木」

2012-12-07 11:08:03 | 詩集
長田弘「秘密の木」(「現代詩手帖」2012年12月号)

 長田弘「秘密の木」(初出『詩の樹の下で』2011年12月発行)を読むと、この詩人はとても孤独なひとだと直感的に感じる。孤独のなかで、遠いどこかの孤独、全体に触れあえない孤独と語り合っているという感じがする。その対話は離れた場所から見ているととても美しい。そして、その対話は美しいのだけれど、そこに入って行っていいのか(私も仲間に入れてください、と言っていいのか)、それがどうもわからない。そういうふうに語りかけることがはばかられる。あまりに美しすぎて。

 大きな木のうつくしさは、どこまでも、その全体のうつ
くしさだ。大きな木の中心には、直立する幹があり、木の
中心から多くの枝が枝分かれしていって、さらにその枝々
からもいくつもの、いくつもの小枝に細く分かれて行く。
 枝々の先々を、葉の繁りが柔らかく覆って、葉は日の光
を散らして、静かな影をひろげる。うつくしいのは、遠く
から見る樹形が、空のなかにいつもきれいな均衡をたも
ち、どんなときにも樹下のひそやかな静けさをうしなわな
い木だ。
 遠くからその木を見ながら、その木にむかって近づいて
ゆくと、木がみるみるうちに見上げる高さと大きさになっ
てきて、逆に、じぶんはどんどん小さくなってゆく。人は
小さな存在なのだ。
 うつくしい大きな木が抱いている、この世でもっとも慕
わしい、しかも、もっとも本質的な秘密。うつくしい大き
な木のある場所が、小さな存在としての人の生きてきた場
所なのだという秘密。

 なぜ、長田を「孤独」と感じたのか。
 辺見の詩と比較していうと(こういう比較は無意味なものだとは思うのだけれど、私はきのう読んだことばの影響を受けながら長田の詩を読んでいるので、どうしても比較してしまうのだ)、長田の詩には大きな飛躍がなく、同じことばが繰り返されているからだ。
 辺見の詩では「きみ(のからだ)」は突然「牛」になった。この「飛躍」のなかにある辺見だけの「接続」というものを私は正確にたどることができない。なぜ「きみ」が「牛」になったか、その「理由(必然性)」をつかみとることができない。そして、それが「わからない」からこそ、「牛」への飛躍、「牛」そのものを実感することができる。
 「他人」というのは「わからない」から他人なのである。「きみ」が「牛」になる理由がわからないからこそ、私は辺見のことばを信じる。信じるという形で、私のなかに動いている「牛」を手がかりに「きみ」をも想像する。「きみ」と「牛」の「絆」のなかに辺見を感じる。それは、私には絶対にわからない何かであるけれど、だからこそ、それを信じるとき、私のなかで何かが動きだす--そういう詩であった。
 長田の詩のなかには、そういう「不思議」(絶対的な拒絶によって逆に私をひきつけることば)というものがない。大きな木を私は美しいと思う。私の古里には神社に大きなけやきの木がある。私はこの木が大好きだ。その木のことを思い出す。私はその木を美しいと感じたことはないが、とても好きである。「美しい」と感じる必要がないくらい好きなのだと思う。長田が書いているように中心に太い幹があり、枝が分かれていく。木はみんなそういうものだと思うけれど、それを長田はていねいにていねいに描写している。そして、その描写のなかに、木の「うつくしさ」が次第にしっかりしたものになってくる。この静かな変化、ことばの動きが美しいのだが、それがシンプルで美しいほど、なんとなく近寄りがたさのようなものを感じてしまう。美しさのなかに長田がとじこもっていくような感じがするのである。そのために「孤独」ということばを思いついてしまうのだと思う。
 ていねいな描写、とさっき書いた。それは「飛躍」の少ない描写ということもできるかもしれない。そしてそれはさらに「論理的」なことばの運動と言い換えることができるかもしれない。たとえば、

 遠くからその木を見ながら、その木にむかって近づいて
ゆくと、木がみるみるうちに見上げる高さと大きさになっ
てきて、逆に、じぶんはどんどん小さくなってゆく。人は
小さな存在なのだ。
 
 この詩は起承転結の4段落から成り立っているが、その「転」の部分。ここには大きいものと小さいものの関係が「論理的」に書かれている。何かが大きくなるとき、相対的にもう一方は小さいものになる。そういう「論理」を書いたあと、長田は、その「論理」を力に木と人間(長田)の関係を密接なものにし、「主語」を「木」から「人間(長田)」にかえてしまう。
 木を描きながら、その木こそ人間なのだという断定する。
 ただしこの木から人間の「飛躍」は、とても「巧妙(?)」に書かれている。木と人間はあきらかに違った存在である。それをそのまま「同一」のものとして語るには長田のことばは繊細すぎる。
 辺見は「きみ」と「牛」を有無を言わさず「同一」のものにしてしまったが、長田は木と人間を「同一」にするのではなく、「木の生きている場所」と「人間の生きている場所」を重ね合わせる。木と人間は同一ではないが、「生きている場所」が同一である。そして、そのとき「場所」は「空間」ではなく、「生きていること」(動詞のあり方)なのだ。どうやって生きるか、どんなふうに生きるか--その「生きる」という動詞があってはじめて生まれてくる「時間」を長田は「場所」と呼び、それが木と人間は同じだという。それは、「私(長田)は木のように生きてきた」と告白するのに等しい。
 自分の「場」を守り、大地にしっかり根を下ろした分だけ空に手を広げる。そういう形でバランスをとりながら自分を育ててきた--そういう「生き方」。
 それは「形」(目に見える「もの」)ではなく、「形」のなかにある「動き(動詞)」であるからこそ、いっそう美しい。形の美しさは「眼」に響いてくるが、「動き」の美しさは「肉体」の内部にまで作用する。動詞の美しさを把握するのは、同じように動いてみる肉体そのものである。
 で、(と、ここで私は少し変なことを言うのである。)
 
 で、その「眼」ではなく「肉体」そのものと関係しているのが2段落目。

 枝々の先々を、葉の繁りが柔らかく覆って、葉は日の光
を散らして、静かな影をひろげる。うつくしいのは、遠く
から見る樹形が、空のなかにいつもきれいな均衡をたも
ち、どんなときにも樹下のひそやかな静けさをうしなわな
い木だ。

 ここの部分の「主語」の乱れ(?)につまずかない? さっと読んでしまえることばなのだけれど、何か「肉体」の内部を刺戟されない? 肉体の内部がねじれるような感じがしない?
 「枝々の先々を、葉の繁りが柔らかく覆って、葉は日の光を散らして、静かな影をひろげる。」この文章の主語は何? 「葉は」ということばが文章のなかほどにあって、そこに格助詞があるために「葉」が主語のように感じられるけれど、ちょっと違うなあ。「葉」を主語だとすると……。

 葉は「枝々の先々を、葉の繁りが柔らかく覆って」となってしまう。「葉」が重複してしまう。ここの文の「主語」は「葉」ではなく「木」である。詩の最初に書かれている「大きな木」そのものが主語として存在し、「主語」の形で文章には書かれていないけれど、ことば全体を動かしている。「葉は……静かな影をひろげる」は「木は日の光を散らして、静かな影をひろげる」と書き換えることができる。
 こういうことは、ふつうはいちいち言わないまま、なんとなく私たちは納得している。意識しないうちに「わかっている」。
 --これが、実はことばの不思議なところなのだと思う。
 数学や科学のようにどこまでも論理的に何かを組み立てるのではなく、どこかで「ぶれ(ずれ)」のようなものを含みながら、「全体」を納得する。そのとき「全体」と「肉体」がたぶん重なり合う。(←これは、私の感覚の意見。大雑把にしか言うことができない。論理的に説明できない。)
 で、いま取り上げた文章の主語が「木」だと仮定したとき、その文につづくことば。

                うつくしいのは、遠く
から見る樹形が、空のなかにいつもきれいな均衡をたも
ち、どんなときにも樹下のひそやかな静けさをうしなわな
い木だ。

 この文の主語は? 文法的には「うつくしいのは」と格助詞つきで書かれている「うつくしい(も)の」かな? これはなんとも中途半端な日本語だね。たぶん「うつくしい(もの」ではなく、「うつくしい(こと)」を含んでいるのだと思う。「こと」というのは「動詞」とともにある動きであり、先に書いたこれが最後の部分(動詞としての「生き方」)に影響しているのだけれど、そういう細部(文法)にこだわらなければ、主語はやはり「木」であると思う。
 「うつくしいのは」ということばは「木がうつくしいのは」という形がわかりやすい。「木がうつくしいのは……」と始め、そのあとことばは「うつくしい」の理由、根拠をならべる。
 「(木が)うつくしいのは、遠くから見る樹形が、空のなかにいつもきれいな均衡をたもち、」--これは「木の」樹形が遠くからみると美しく見えるのは、空のなかにいつもきれいな均衡を保っているから、ということになる。
 で、そうだとすると。で、さらに、その後を見てみると……。
 「木がうつくしいのは」……「どんなときにも樹下のひそやかな静けさをうしなわな
い木だ。」あれっ、「木が」で始まり「木だ」で終わる。
 なんともいえず、肉体がねじくれる。私の肉体か、それとも私の「ことばの肉体」か。その区別は私にはつかないのだけれど。
 「意味」はとてもよくわかるのだけれど、「頭」で考えると、「頭」がねじれるというより、まっすぐに動こうとする「頭」に刺戟されて「肉体」がねじれるような、奇妙な感じになる。

 その瞬間。

 あ、長田はこういう「ねじれ」のようなものを、ひとりで大切に生きてきたのだ。それをまもりながらことばを動かしてきたのだ、と感じる。
 それはちょうど木が、いくつものねじくれた節を内部にかかえながら大きくなっていくのに似ているかもしれない。瞬間的には何か奇妙な感じ、不細工な感じ(?)がするのだけれど、それを乗り越えて枝が広がり葉が繁ると美しい大きな気になるような感じといえばいいのかな。
 そうか、こういう「論理のねじれ」というか「節」のようなものを、しっかりと「肉体」で受け止めて、「頭」で考えるとおかしいけれど(主語が重複するのは下手な文章である、と「学校作文」ではな言うのだけれど)、この「ねじくれ」によって全体そのものは強靱に、いっそう美しくなる--そして、その美しさは「肉体」に響いてくるのである。
 さっき私は、この部分で私の肉体がねじれるような感じがすると書いたが、それは別ないい方をすると、私が無意識に生きている「文法主義(?)」の「ことばの肉体」を「そうじゃない」と叩かれたような感じがするからかもしれない。
 「学校文法のことば」ではなく、もっと違う「ことばの肉体」があり、それの方が「肉体」にぴったりするのだ、ということを、「整体」みたいに長田の「ことばの肉体」が押してきたからかもしれない。

 美しいもののなかにはむりがある。舞台で役者の姿が美しく見えるときは、その肉体のなかに「むり」が働いているときである。むりな動きをすると、それが観客には美しく見えるということを聞いたことがあるが、長田のことばのなかにも、その役者の肉体のむりと似たものが動いている。ふつうの人は動かさない(学校文法で育ったことばでは動かさない)ことばの筋肉が動く。
 そういうことも考えた。
 だが、これをまねする(役者のことばでいえば「盗む」)のはむずかしいなあ。ことばの肉体を最初から鍛えなおさないといけない。
 そんなことは私にはとてもできないので、いやあ、美しい詩だなあと感想を書いて終わることにする。




詩の樹の下で
長田 弘
みすず書房
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辺見庸「海を泳ぐ蒼い牛」

2012-12-06 10:19:21 | 詩集
辺見庸「海を泳ぐ蒼い牛」(「現代詩手帖」2012年12月号)

 辺見庸「海を泳ぐ蒼い牛」(初出『眼の海』2011年11月発行)は東日本大震災のことを描いている。それは描写ではなく、ことばが必然的に動いていくということを、そのまま記録したものである。

あのあと、
きみのからだは、
海をながされ、
波に洗われ、
引き潮にはこばれて、
皮をはがれ、
肉をはがれ、
声をはがれ、
肩甲骨を白くむきだし、
ゆっくり死なされて、
うつぶせてどこまでも沈み、
死につつ、だんだん、
藍青色の大きな牛になっていった。

 「きみ」とはだれか。名前で呼ぶと、そこにはあまりにも強い「絆」が生まれる。「絆」をこえた「絆」が生まれる。そうして、そうなってしまうと、そこに起きていることは「自分自身」の「肉体」そのものになる。もちろん、そうやって動くことばもあるのだが、自分がその「肉体」になってしまうと、とてもことばを動かしている余裕はない。「生きる」ということに懸命になる。その「懸命」さのなかで、動かしえなかったことば--そのことばを引き受けて書きはじめるには「きみ」と呼ぶしかなかったのだろう。「きみ」と呼ぶことで、その「いのち」を「自分の肉体」だけで受け止めるのではなく、「いま/ここ」にいるすべての人間とともに受け止めよう、すべての人間といっしょに、そのときの、ことば以前のことばを生きてみようとしている。「ことば」として「きみ」を「共有」するといえばいいのだろうか。「共有」という表現は冷たくて、適切ではないと思うが……。
 「きみ」に起きたこと。それは辺見の「肉体」に起きたことではないから、ことばはとても慎重に動く。ゆっくりと、ことばを探している。「ながされ」「洗われ」「はこばれ」「はがれ」--すべて「受け身」である。「きみ」に起きたことは、君が能動的に起こしたことではなく、あくまで受動的に起きたことである。
 でも、そのあとの、

肩甲骨を白くむきだし

 この「むきだし」はどうだろうか。受け身ではない。だが、それは、それでは「きみ」が自発的におこなったことか。そうでもない。皮をはがれ、肉をはがれ、その結果、肩甲骨が剥き出しの状態にされたのである。けれど、それを「むきだし」と言うとき、そこに不思議な何かが動く。能動であることば--それが、不思議な「意志」のようなものを感じさせる。
 それは「ゆっくりと死なされ」が「死につつ」ということばにかわるところにも感じられる。「死につつ」--死を自分で選んで死んでいくのではないが「死につつ」というとき、そこに「自分で選んだ何か」というような印象が生まれる。それは「死なされる」のではなく、自分で「生きる」という方法として「死」を選ぶという感じ。
 「死なされて」たまるか。
 この「……されてたまるか」をすべての行に補うと、この詩のことばが、ぐっと印象が変わる。

海をながされ「てたまるか」、
波に洗われ「てたまるか」、
引き潮にはこばれて「たまるか」、
皮をはがれ「てたまるか」、
肉をはがれ「てたまるか」、
声をはがれ「てたまるか」、
「だから、そのことに抗議して」
肩甲骨を白くむきだし、
ゆっくり死なされて「たまるか、それに抗議して」、
うつぶせてどこまでも沈み、
死につつ、だんだん、
藍青色の大きな牛になっていった。

 この「なっていった」と「された」のではない。自分で選んで「なった」のである。「声」をはがれたので、「声」ではなく、「声」よりもはっきりした「もの」になって、何かを訴える。剥き出しの肩甲骨も抗議であり、牛も抗議なのだ。
 ここから、ことばはさらに動いていく。「意味」ではなく、「怒り」そのものを「怒っている」というのではなく、どんなふうに「こころ」が「もの」になって--「もの」になってというのは変だが、ようするに「具体的」な動きになって「自分の肉体」を獲得していくか、「肉体」に何が起きたかを、伝えることばに「なっていく」。

生前、牛になるのをのぞんでいたからでも、
さりとて、死後、牛になる罰でもなく、
ただ、ゆくりなく大きな蒼い牛になって、
月の夜、
沖の海の底から
ごぼごぼごぼと、
タールのように黒い水面に浮き上がり、
首を戦艦の舳先のようにもちあげ、
両の眼の輝板(タペタム)を
眩しい金色の探照灯にして、
ふたすじの金色の光を遠くに射ながら、
ものも言わずに、
海原をまっすぐに渚へと泳いだ。
塩水に濡れたふたつの角がぬめった。
岸は太古であった。
岸は轟(どよへい)いていた。

 なぜ、しかし、牛なのか。

生前、牛になるのをのぞんでいたからでも、
さりとて、死後、牛になる罰でもなく、

 わからない。それはこの詩を書いている辺見にもきっとわからない。それはどこからともなくやってくる「必然」なのである。「きみ」という死者を「牛」と呼ぶことは非礼かもしれない。しかし、それが非礼であっても、そうするしかない。
 ここには辺見と牛とのあいだの、それこそ「絆」があるのだ。荒川洋治が「絆とは 牛やイヌや鷹をつなぐものである」と書いていたが、どこか、それにつながる「絆」がある。ロープでもリードでもない何かがある。そして「牛になる」ことではじめて、その牛といっしょに動くことばがある。それは「牛になる」こと以外には動かせないことばである。--「牛」には「させられる」(受動)ではなく、あくまで「なる(能動)」であり、それがことばを動かす。
 同じ行をまた引用してしまうが、

沖の海の底から
ごぼごぼごぼと、
タールのように黒い水面に浮き上がり、
首を戦艦の舳先のようにもちあげ、
両の眼の輝板を
眩しい金色の探照灯にして、
ふたすじの金色の光を遠くに射ながら、
ものも言わずに、
海原をまっすぐに渚へと泳いだ。

 これは、すごい。「牛」はもう「牛」ではない。「戦艦」という「比喩」が出てくるが、私はこういう「牛」を見たことがない。そこには私の知らない「牛」がいて、そのとき私が知らないのは「牛」ではなく、「牛」のなかにある「いのち」なのだとわかる。

海をながされ「てたまるか」、
波に洗われ「てたまるか」、
引き潮にはこばれて「たまるか」、
皮をはがれ「てたまるか」、
肉をはがれ「てたまるか」、
声をはがれ「てたまるか」、

 「ものも言わずに」、つまり「……されてたまるか」とも言わずに、それを「肉体」そのもので抗議するとき、その「声」は「牛」になり、同時に「戦艦」になる。首は舳先になる。眼は探照灯になる。「舳先」も「探照灯」も「比喩」ではない。それは「なる」という「運動」そのものの「軌跡」なのだ。
 「きみ」が「牛」に「なる」。牛が「戦艦」に「なる」。牛の首が「舳先」に「なる」。両の目が「探照灯」に「なる」。この「なる」という運動のなかにあるエネルギーが、岸を「太古」にする。
 辺見は「岸は太古であった」と客観的(?)に書いているが、それは「ある」ということばで書かれているけれど、牛がいなければ太古ではありえないのだから、岸は牛によって太古に「なった」。そして太古として「ある」ということなのだ。
 あるいは、牛は岸を太古に「する」のである。そう言い換えた方がいいだろう。岸は太古に「なる」と言うと、そこには岸の「意志」が働いているように感じられるが、そうではない。岸に意志があるのではなく、あくまで牛の意志が岸を突き動かし、その結果、岸が太古に「なる」。
 それは牛が「……されて」という受動からはじまったように、太古に「された」のである。太古に「した」のは牛である。牛が岸を太古に「する」。

 「きみのからだは、/海をながされ」とはじまった「きみ」の「受動」は、「牛」に「なる(自発)」をへて、岸を太古に「する」という強烈な「能動」にかわる。そこに「いのち」の「いかり」が噴出している。いのちの爆発が、そのまま他者に作用する、その作用としての「能動」が、ここに生々しく書かれている。
 「きみのからだは、/海をながされ」と書くとき、たぶん、辺見は悲しみを生きていた。その悲しみが、書いているうちに、ことばを違ったものにしていく。ことばは悲しみだけを生きていることはできない。悲しみが怒りになって動きはじめる。それは必然的なことである。その必然を、辺見は「論理」ではなく、論理以前の、混沌とした「いのちのエネルギーの爆発」そのものとして存在させている。




眼の海
辺見 庸
毎日新聞社
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荒川洋治「外灯」

2012-12-05 00:39:18 | 詩集
荒川洋治「外灯」(「現代詩手帖」2012年12月号)

 荒川洋治「外灯」(初出「榛名団」1、2011年11月発行)について語るのは、とてもやっかいだ。この詩は一見谷川俊太郎の詩とは反対のもののようにみえる。そこに書かれている「意味」はとてもわかりやすい。もちろん「わかりやすい」といっても、そのわかったと思ったことは私の「誤読」かかもしれないのだが……。

四日目
川のある「わが会社」からの帰り道
ひとりの青年が
西日本の両手を離したまま
自転車に乗り
川沿いの道をかけていく
草の屈託のようで
手がつけられない
それは普通のことであり
ひるのひなかを
矢のように流れ
絆とは 牛やイヌや鷹をつなぐものである
わが社会では

 荒川は東日本大震災以後、あっというまにつかわれるようになった「絆」ということばに対して異議をとなえている。
 それは、途中を省略して、次の部分を読むとさらにはっきりする。

絆とは
馬やイヌや鷹をつなぐものであり
わが社会では
つかってはならない
人と人を結びつけてはならない

 きのう読んだ谷川の詩では君の「いのち」から「生きる」ということが誘い出されていた。読者が自然に「いのち」の強さを感じるように書かれていた。「絶望」と「いのち」の関係を追っているうちに「生きる」ことを見出すように書かれていた。そこに「意味」があった。
 「絶望」と「いのち」は断絶しながらつながっている。その「つながり」を、さて、何と呼ぶべきか。
 絆?
 ちょっと違うが、ほんとうに違うかどうかはよくわからない。
 東日本大震災後、しきりに語られるようになった「絆」は、たぶん、ひとりで絶望しないで、人と人はつながっている。助け合って生きていこう、というような「意味」でつかわれていると思う。
 ここにも「つながり」がある。
 そして、その「つながり」には、やはり「絶望」と「いのち」がどこかで行き交っている。だから、谷川の詩と荒川の詩は「似通っている」ということもできるのだけれど、谷川の詩が、人が寄り添うこと、寄り添うことで生きる力につながる何かを引き出すことに「意味」を見出しているのに対して、荒川は「つながり(絆)」を拒否している。「結びつけてはならない」と主張している。
 つまり、正反対のことを書いているようにみえる。

 でも、そうなのかなあ。

 私は、かなり不安になるのである。「絆」を否定するとき、荒川はでは何を肯定しているのか。
 こういうことは、考えはじめるととてもややこしくなる。
 で、別な考え方をする。
 この詩で好きなところはどこ? なぜ私は荒川のこの詩について感想を書いてみようと思ったのか。感想を書くことで自分のことばを試してみようと思ったのか。荒川に対してどんなふうに近づいてけると思ったのか……。ややこしくなった。もとに戻そう。
 どこが好き?

西日本の両手を離したまま
自転車に乗り
川沿いの道をかけていく
草の屈託のようで
手がつけられない
それは普通のことであり

 ここが好き。「西日本の両手」とは何か。わからない。「西日本」は「東日本」とは反対(?)の方向をさしているということはわかるが、こんなことは「頭」で「わかったつもり」になることであって、ほんとうはわかならいことである。そういうことは、私は「保留」しておく。何も考えずにほうっておく。
 そうしてわからないことをほうりだして、何が私の「肉体」に迫ってきたかというと……。
 自転車に乗って両手を離して走る。それは「草の屈託のようで/手がつけられない」--この「手がつけられない」がとても気に入ったのだ。よくわかったのだ。両手を離して自転車にるの。風を切る。気持ちがいい。何にも「つながっていない」。これは気持ちがよくて、なおかつ、

それは普通のことであり

 ああ、いいなあ。「手がつけられない」それが「普通である」。
 で、「手がつけられない」って何だろう。何に手がつけられないのだろう。
 たぶん、「両手を離して自転車に乗る」というようなこと。できないことをしてしまうこと。できとなかったことをしてしまうこと。そして、そのときに感じる「よろこび」。これは「手がつけられない」。夢中になる。その何か、新しいこと、自分がいままでしなかったようなことをしてしまい、夢中になるということは「手がつけられない」と同時に、「普通のこと」である。
 手がつけられない何か--それが人間を「つないでいる」「結びつけている」。もし、人と人をつなぐものがあるとしたは、それは「手がつけられない」何かなのだ。
 で、この「手がつけられない何か」とは何かということを考えはじめると、私はなぜか、谷川俊太郎の書いていた、

絶望が終点ではないと
君のいのちは知っているから

 を思い出してしまうのだ。
 絶望が終点ではないと知っている「いのち」、その「いのち」の力には「手がつけられない」。自分のなかにあるのに、自分を超越している。それがふいにあらわれてくる。

 そして(と書いても、これは「論理的」な「そして」ではなく、飛躍した「そして」であるのだが……)、たしかに私が「東日本大震災」で何かを感じたとすれば、「手のつけられないいのち」に共感したのである。ふるえたのである。大災害のなかで「生きている」。そればかりかだれかに「感謝している」。その「いのち」、あるいは「感謝のこころ」を動かしているものは「手がつけられない」。いいかえると、全体的な「ちから」である。
 「他者のちから」。ぜったい自分のものではない「いのち」。それを私はたしかにあらゆる瞬間に感じた。被災した人の語ることば。(それを私は直接聞いたわけではなく、新聞で読んだのだが……。)そこには何かしら私には絶対にたどりつけない「ちから」があった。それは悲しみ、絶望であっても、何か「手のつけられない」純粋なちからにあふれていた。絶望や、悲しみさえも。
 それは「絆」によって、私がその悲しみや絶望をささえる、というものではなく、逆である。私がふれた絶望、悲しみ(と、私に思えるもの)によって、逆に私が何かしらささえられているような感じがするものである。

 で、これは。と、ここでまた私はとんでもない「飛躍」をしてしまうのだが。
 それは私が牛やイヌに感じるものとも似ている。(私は馬や鷹を飼ったことがないというか、馬といっしょに暮らした時間がないので、荒川が書いている馬と鷹についてはふれることができないのだが……。)牛をロープでつないで歩くとき、イヌをリードでつないであるいているとき、そのロープやリードは「形式」であり、それとは別の「絆」を感じて歩くのである。ロープ、リードでつなぎながら、それは「いらないなあ」と感じるとき、そこに「絆」がある。見えない何かをみるために「絆(ロープ、リード)」がある、といえばいいのかなあ。
 そんなことを考えると、あ、たしかに「絆」というのは、何かちがうなあ、と思うのだ。人間と人間を結びつけるとき「絆」ということばで結びつけると何か違う感じがするのだ。
 人間と人間を結びつけるなら、「絆」ではなく、逆の何か--たとえば自転車を手離しで乗る、そのよろこびのようなもの、その「手のつけられない」何かであってほしいなあ、と思う。「遊ぶ」よろこびのようなものであってほしいと思う。

 この「手のつけられないいのちの力」というのは、谷川の書いた「いのち」とは違うところにあるのかなあ。それとも同じものなのかなあ。--同じではないのだけれど、同じだと感じるのである。
 矛盾した言い方だが、同じではないから、同じだと思う。
 きっと、この矛盾のなかに詩があるのだと思う。





詩とことば (岩波現代文庫)
荒川 洋治
岩波書店
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谷川俊太郎「絶望」

2012-12-04 10:15:18 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「絶望」(「朝日新聞」、2012年12月03日夕刊)

 谷川俊太郎は不思議な詩人だ。「絶望」は一読すると「教訓くさい」(説教くさい)。だから、いやだなあ……といいたいのだが。

絶望していると君は言う
だが君は生きている
絶望が終点ではないと
君のいのちは知っているから

絶望とは
裸の生の現実に傷つくこと
世界が錯綜(さくそう)する欲望の網の目に
囚(とら)われていると納得すること

絶望からしか
本当の現実は見えない
本当の希望は生まれない
君はいま出発点に立っている

 「意味」がまっすぐに動いてくる。書いてあることはその通りだと思う。でも、谷川俊太郎のように人生に成功したひとに、こんなまっすぐなことばを言われても、ねえ。そんなことが言えるのは「希望をちゃんと実現できたからだよ、というような「やっかみ」がいいたくなる、
 というのは違って。
 たしかに「意味」しか書かれていないし、その「意味」も谷川独自のものというよりも、どこかでだれかがいっているようなことなのだが、
 というのは、やはりどこか違っていて……。

 教訓めいている、説教めいている--それなのに、なぜ、私の胸にすとんと落ちてきたのだろう。納得できたのだろう。「いやだなあ」という気持ちにならずに、もう一度読み返してみようと思ったのはなぜなのだろう。

君のいのちは知っているから

 この1連目の4行目が、なんとも不思議である。私は、ここで、谷川にこころをつかみとられた。この行も、もちろんだれかがいいそうなことではなある。でも「いのち」ということばが美しい。「絶望」「終点」「現実」「錯綜」「欲望」という漢字熟語が窮屈なのに対して、何か、「やわらかい」感じがする。「知っている」もとてもやわらかい。
 そしてなによりも。

から

 末尾の「から」が、とてもいいのだ。
 「知っている」でことばが終わると、そんなことを谷川に決めつけられたくないという反発が生まれるかもしれない。
 この「から」は「理由」をあらわしているのけれど、それは何というのだろう、客観的な理由ではない。「客観的理由」というよりも、「主観」への呼びかけである。
 うまく言えないなあ。
 言い換えると……。この「から」は、英語で言えば「didn't you? 」である。スペイン語なら「verdad? 」になるのかな。いわゆる「付加疑問文」。「知っているでしょ?」(知っていたでしょ?)「そうでしょ?」
 つまり、これは谷川が自分の考えを言うと同時に、いま私が言ったことは、「君がこころの奥で感じていることだよね」と「君」からことばを引き出しているのである。
 だから。
 それにつづく2、3連目のことばは、谷川が書いているけれど、谷川は「これは私のことばではないよ。君が知っていること、君の方が私よりも詳しく知っていること、実感していることだよね」と言っているのだ。
 君のいのち(肉体)の奥に動いているこころに耳をすませてごらんよ。聞こえてくるよ、「君はいま出発点に立っている」とこころが自分に言い聞かせているのが。

 「……から」というのはだれでもがつかう。だからそこに「思想(肉体)」があるとはなかなか気がつかない。だからこそ、それを「思想(肉体)」として動かすとき、そこにはだれもかかなかった「やさしさ」が生まれる。「私は君のそばにいるよ。君の側にいると、君のこころの声が聞こえてくるよ」。

 この詩はだれにむけて書かれたものかわからない。「君」はだれかわからない。だから、私は「君とは私だ」と「誤読」したい。そういう気持ちになる。私はいま絶望しているわけではないが、絶望したときは、この詩を思い出したい。「君のいのちは知っているから」と「……から」と言ってくれる谷川とおなじ時間を生きているということを思い出したい。谷川を思い出したい。



ことばあそびうた (日本傑作絵本シリーズ)
谷川 俊太郎
福音館書店
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石田瑞穂『まどろみの島』

2012-12-03 11:12:05 | 詩集
石田瑞穂『まどろみの島』(思潮社、2012年10月20日発行)

 石田瑞穂『まどろみの島』には「あとがき」がある。親しかった従妹が急逝した。そのあと「呆然自失」の状態でイギリスに行った。そのときのノートを頼りに6行のことばを書いた。それは詩であり、手紙である。「死者には、もう夢のなかでしか会えない」という思いで書いたものである。
 そうやって書かれた、たとえば次の作品。

嵐の最中に凍りついた波頭のように
澄みきった大気のなかに雪の峰が
くっきりと浮かび上がります
翼が傾く瞬間 何かの拍子に
銀に輝く雪と川が落日の炎に燃えて
川もまた地球を流れる血潮だと知る
                                 スカイ島上空

 「あとがき」を読まずに読むと、これは風景のスケッチである。ここに「物語」を見つけ出すことはむずかしい。きのう読んだ田中の作品と比較するとよくわかる。田中の作品のなかには「主役」の「私」がいて、それが「目的」をもって動いている。そのことがわかるように書かれている。けれど石田の作品にはそれがない。「目的」がない。飛行機に乗っていて地上をながめていることがわかるが、なぜ石田が飛行機に乗っているかわからない。「目的」がない。
 田中の作品が「物語(ストーリー)」を感じさせるのはそこに「目的」が書かれていて、その「目的」が同時になかなか実現されないというか--だんだん違うもの出合いながら、そうして迂回しながら逆に凝縮するという「結果」に落ち着くのに対して、石田の作品には「結果(結末)」がない。田中の作品を手がかりにすれば、「目的」とは「結末」であり、詩とは「目的」が「結末」に結晶するまでの「過程(運動)」ということになる。石田の場合は、そうではない。
 石田のことばも「迂回」といえば「迂回」かもしれない。従妹を亡くし、呆然としている石田がこころが落ち着くまでの「過程」のことばなのだから。
 でも、田中の作品のことばと石田のことばは大きく違う。「迂回」という点では一致したとしても、まったく違った運動である。
 どこが違うか。簡単に言ってしまえば、田中のことばは「意識(精神)が凝縮する」という運動なのに対して、石田のことばは「放心」である。「凝縮」ではなく、ただ「いま/ここ」にある意識(従妹が亡くなり悲しいという気持ち)を解き放つ。「悲しみ」に凝縮させるのではなく、「悲しみ」から自分を解き放つ、という運動である。
 おもしろいのは、と書いてしまうと、悲しみにある石田に申し訳ないが、そういう「放心」のなかには、「放心」でしかたどりつけないものがある。「放心」した状態で世界で向き合うとき、その「放心」の中心へ向かって何かが飛び込んでくる。そして、それが一瞬のうちに結晶化し、「放心」には実は「中心」があるということを知らせる。「中心」を持つことによって「放心」はただ開かれた何かであるというより、世界を生み出すビッグバンのようなものに変わるのである。
 あ、ことばが急ぎすぎているね。抽象的すぎたね。これはよくないことである。詩にもどって言いなおそう。

 最後の1行を読み直そう。

川もまた地球を流れる血潮だと知る

 これは夕日に照らされた川が赤く染まり「血潮(血管)」のように見えるということを「比喩」をつかって書いたものである。
 で、この詩で重要なのは、その「比喩」よりも「また」である。「また」が石田のキーワード、石田の「思想」である。赤く染まった川を地球の血潮であるととらえる「比喩」に思想があるのではなく、「また」にこそ「思想」が、石田の「肉体」がしっかりと根をおろしている。
 「また」ということばはなくても「意味」はかわらない。赤く染まった川が血潮に見えるという「意味」はかわらない。風景の「核心」はかわらない。だから「また」はなくてもいい--かといえば、そうではない。「また」こそが石田のいいたいことなのだ。
 人間には「血潮(血管)」がある。石田に「血潮」があり、また従妹にも「血潮」がある。そして、それを石田は地球にも「また」血潮が流れているということをとおして再確認する。石田に「血潮」がある。「また」地球にも「血潮」がある。そう気づいたとき、従妹にも「また」「血潮」があったということをあらためて知るのである。
 従妹ににも「また」血潮がある--ということは、従妹が人間である限りいわなくてもわかってることである。わかっていることだけれど、それを「実感」したいのだ。そしてそれは従妹にも「また」血潮が流れている、ということでは「実感」にはならない。
 川も「また」地球を流れる血潮だ--とことばにすることで、その「また」のなかに「従妹もまた」が切り離せない形で「一体化」してくるのである。「また」のなかには「主語」として書かれていない従妹が生きている。
 亡くなった従妹はときどき「あなた」という形で石田の詩に登場するが、多くの作品では「あなた(従妹)」は書かれない。書かれないのは、石田が従妹のことを忘れているからではなく、彼女が石田の肉体となっているからである。石田にとっては従妹は「あなた」ということばを必要としない存在である。対象として認識する必要がないくらい肉体になってしまっている。つまり「思想」になってしまっている。
 その「肉体の思想(思想の肉体)」が凝縮していることばが「また」なのである。

 だから、石田の作品には、あらゆるところに「また」を補うことができる。そして「また」を補うとき、同時にそこには従妹の姿が浮かんでくる。石田と「一体」になって、風景をみつめ、何事かを考えている従妹がそこに浮かび上がる。

ここには八百もの島があるという
内陸へ細く弓を引く
嶮しいフィヨルドの海に取り囲まれ
世界からの孤立と孤独を報せる
モールス信号のようなゲール語が今も話される
私たちの故国は遠い虹の袂にあります
                               スカイ・ブリッジ

 この作品では「また」はどこに省略された形(書かれない形、肉体そのものになった形)で存在するか。--これを正確にいうのはむずかしい。「誤読」を承知でいえば、

私たちの故国は「また」遠い虹の袂にあります

 ということになる。「誤読」というよりも、まあ、これは私はそういうふうに読みたいということなのだが……。
 で、その「また」を「血潮の川」のように言いなおそうとするととてもむずかしいのだが、橋の上からフィヨルドに囲まれた島をみる。波のしぶきが虹となって輝いている。その虹に囲まれて孤立する島のように、「また」あなた(従妹)は孤立していたのだと、石田は思い出している。「孤立」していても、それは「故国」なのだ。「私の場所」であり、「また」あなた(従妹)の生きている国なのだ。
 そう思って読むと、「また」は、

嶮しいフィヨルドの海に取り囲まれ
「また」世界からの孤立と孤独を報せる

 かもしれない。「また」は「孤立」「孤独」と結びつき、そこに「また」あなた(従妹)を浮かび上がらせる。そうして、それは「また」石田自身でもある。
 あるいは

世界からの孤立と孤独を報せる
モールス信号のようなゲール語が「また」今も話される

 かもしれない。
 誰にも通じない--というか、だれかに通じてほしいと祈りながら発する「モールス信号」のようなことば、それは「また」あなた(従妹)のことばであり、石田のことばでもある。
 「また」は書かれていない。だからこそ、私たちはどこにでも「また」を補って石田の詩を読むことができる。それは書かれていないことばを読むわけだから「誤読」なのだが、こういう「誤読」でしかたどりつけない「物語(ストーリーの核心)」がある。



 田中は「物語」を「論理」として組み立てたが、石田は「物語」を断片化し、そのなかに「また」という思想を隠すことよって、「論理(ストーリーとして語れるもの)」ではないもの、詩を、屹立させているといえばいいのかもしれない。



まどろみの島
石田 瑞穂
思潮社
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田中武「藤部花離の詩集 後日譚」

2012-12-02 10:24:28 | 詩(雑誌・同人誌)
田中武「藤部花離の詩集 後日譚」(「その空の原で」3、2012年10月20日発行)

 田中武「藤部花離の詩集 後日譚」は「譚」ということばがあらわしているようにストーリーがある。その1連目。

詩集『幸福喇叭』の発行元となっている「折半堂」は、小さな和菓子の店であった。
ついでがあったからというのは自身への言い訳である。県北の町の冴えない夏祭り(ポスターには越の夏の掉尾を飾る、と書かれていた)をわざわざ見物に出かけたのは。
由緒はあるらしいが、見映えのしない古びた山車がひょろひょろと過ぎたあとはもう人影もまばらな通りに、それでも祭のあかしの花綵と幟旗の立つ商店街にその店はあった。

 ここにこの作品の全てがある。
 詩集-発行元、というつながりは「出版社」というのが自然である。「折半堂」の「堂」の文字は出版を想像させる。「三省堂」とか「ふらんす堂」という出版社がある。しかし、この詩では、その「堂」は「和菓子の店」へとなつがる。「出版社」につながるふりをして「和菓子店」。
 そこに「ずれ」がある。「飛躍」がある。
 つづいて書かれているのは「ついでがあったからというのは自身への言い訳である。」という、これまた、「ずれ」である。「飛躍」である。詩集の出版元を尋ねる、というのは「本来の目的」ではない。「ついで」である。しかし、それは「自身への言い訳」であるから、ほんとうは「出版元」を尋ねるのが目的である。だから、これは「ずれ」でも「飛躍」でもない。ことばを探していえば「迂回」ということになるかもしれない。近づくにしても、遠回りしていく。そして「言い訳」ということばに注目するなら、その「迂回」が「自分自身」への「迂回」であることがわかる。田中はここでだれかに「言い訳」しているのではなく、自分に言い聞かせている。自分を納得させている。このことはあとでもふれるが、田中のことばの運動の特徴の一つである。つまり、そこに「思想」がある。
 「迂回」はまた「わざわざ見物に出かけたのは」という倒置法にもあらわれている。倒置法というのは「迂回」というより「迂回」以上のものである。ふつう「迂回」は目的地が出発点とは別にある。しかし倒置法は、何といえばいいのか、後ろから前へ「帰る」(戻る)。前へ進むのとは逆の運動である。倒置法は「迂回」ではなく、ほんとうの「迂回」はかっこのなかにくくられた一文の形の方である。ことばがどこかへたどりつくのを引き延ばすために、かっこのなかの文章は、かっこという形で挿入されたのである。「挿入」が「迂回」と同義である。
 「迂回」と倒置法の違いをもっと見ていくと……。倒置法は、ことばの順序は前後が入れ代わるのだが(そして、それを読むときひとは、ことばをもう一度入れ換えてたどりなおす--つまり逆方向へいったん引き返すのだが)、ストーリーであるから、前に戻りながらも、前に進む。つまり「矛盾(?)」した動きをする。
 倒置法という「文法」はつかわなくても、同じようなことができる。
 「由緒はあるらしい……」の文章は「店=折半堂」へ戻ることで、出版元を尋ねるというストーリーそのものの「前進」させる。そして、ここにも「見映えのしない……通りに」ということばと、「それでも……商店街に」という修飾語(?)の「迂回」がある。
 この作品のことばは、整理していいなおすと、「ずれ(飛躍)」、「迂回(挿入)」、「倒置法」というような、一直線ではない運動をしながら先へ進む。迂回による引き延ばし、倒置法による逆方向への進行、挿入による分断と接続--なにかしら「逆」のもの、「矛盾」したものを常にことばのなかに取り込む。
 「他者」を取り込むという具合に言うと、まあ、これからあとの説明を省略できるのだが……。(このあと、作品は60代の店主、9歳のままの知能のこども、仮=花離という手の込んだペンネームなどをたどりながら、進み、次第に言語空間の内部を複雑にしながら、その複雑さを結晶化させる。--これを全部ていねいに説明するのはめんどうなので省略してしまうが……。)

 このとき。(と、私は「飛躍」してしまう。つまり、説明を拒否して、テキトウに書いてしまうのだが。)
 そういう迂回とか挿入とか、めんどうくさいあれこれを内部に含みながら結晶化する文体--それが、実は、田中にとっての「肉体」なのである。
 ストーリーだけなら、田中の書いている「文体」はとてもめんどうくさい。「要約」してしまえば簡単なことを、田中は「わざと」複雑にしている。「わざと」迂回し、「わざと」挿入によってしか、田中のことばは結晶化できない。迂回し、挿入し……というとき、そこにあらわれてくる「他者」が田中のことばを引き延ばしながら、そこに一つの形を与える。
 きのう読んだ粒来のことばが人間の「肉体」そのものを現前させるとするなら、田中のことばは「ことばの肉体」を人間の「肉体」のなかに組み込ませてしまう。人間の「肉体」を「ことばの肉体」でのっとってしまう--のっとってしまうといっても、上を覆ってしまうのではなく、なかに入っていく。
 で、最初に少し書いたことと関係してくるのだが。
 こういうことばの運動は一種の「言い訳」である。他人を説得するのではなく、自分が納得するために、ことばを動かす。自分を納得させるためだけのためのことばだから、それは何度でも「過去」へ「過去」へと遡るようにして、そこにあるもの(あったもの--この作品では「詩集」、そしてそれを書いた人など)を少しずつ具体化する。
 「過去」を「奥」と言い換えるとわかりやすくなる。「存在の奥」、「存在の内部」というともっと「哲学的」に「流通言語」っぽくなるかもしれない。
 田中のことばは、そのことばが先へ進むほど(つまりストーリーとして展開していくほど)、逆に「内部」を耕し、その「奥」を豊かにする。結晶は「奥」で花開くのである。
 だから、ほら(とここでも、私ははしょって飛躍する)。

明るい暮れ方の野の道は限りなくわたしの中へ沈んでいった。

 詩は、そうやっておわる。
 あらゆる迂回、挿入、倒置法などの径路を経ながら、「世界」は「わたしの内部」になる。
 きのう読んだ粒来の詩が、ことばを拒絶する(ことばを捨てる)ことで肉体を現前させるのに対し、田中はことばを全て「内部」に閉じ込める、そして田中は世界と「一体」になる。田中にとって「世界」とは「ことば」なのだ。粒来にとって「肉体」が「世界」であるのとは対照的である。



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谷内 修三
思潮社
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