岩阪恵子『その路地をぬけて』(思潮社、2016年12月10日発行)
岩阪恵子『その路地をぬけて』は奇妙な本である。「詩集」とは書いていないのだが詩集なのだろう。思潮社から出版されているのだから。こんなことを思うのは、収録されている作品がすべて「散文」形式だからである。ただ「短編小説」というにはあまりにも短い。いわゆる「ショートショート」というものかもしれない。
わけがわからないまま、読み進む。日常が淡々と書かれているように思える。どこに感動していいのか、これがまたわからない。それでは読むのをやめてしまえばいいのかもしれないが、なんとなく読む。つまずくということもないが、やめるというのとも違う。変な感じである。
22ページに「ひとりでいると」という作品がある。この作品は、少し変わっている。「意味」が強い。
詩集全体の「自己解説」か。しかし「意味/要約」と受け止めると、何か味気ない。誰だって、そう思って書いている、ということになりそう。胸にたまった「思考や感情」を整えずに書いていないひとはいない。
「少しずつ」「辛抱強く」というところに岩阪の「思想」があるのかもしれないが、キーワードと呼ぶことに私はためらってしまう。
「世間にも通用する言葉」が、「待てよ」と言うのかもしれない。
この詩は「説明しやすそう」だが、「説明しやすそう」なところが気になる。「本質」とは、私は呼びたくない。
さらに読み進む。おもしろい作品がつづく。「蝉のぬけがら」は長い。いろいろな「思考や感情」が「蝉のぬけがら」に託されている。「サルマタと半ズボン」は楽しい。三好達治と岩阪がどこかで重なりながら動いている。戦争を挟んで、戦後。大きく変わったようだが、「表にあらわれてこないところ、言葉になりにくい臍のようなところについては、しかしほとんど変わらないままだったのではないか。」の「言葉になりにくい臍のようなところ」を岩阪が書きたいことを「要約」していると思う。ここを「思想の核(キーワード)」と呼んでもいいのかもしれないが、私はやっぱり躊躇する。「意味」がわかりすぎて、言い換えると「世間にも通用する言葉」になってしまっている気がする。「本音」と「建前」で言いなおすと「建前」のことばという気がする。
でも、こんなふうにきちんと「建前」をことばにできるというのは、それはそれで「思想」なのだという気もするし……。
なにかもやもやしたものを抱えながら、さらに読み進む。
72ページ、「巣」という作品で、はっと気がつく。「鳥、ほか」という「連作」のうちの一篇。
私が「あ、これがキーワードだ」と思ったのは「でもなぜがっかりしたのだろう。」の「なぜ」だ。72ページ以前に「なぜ」が登場してきているかどうか、私は確認しない。ここで「なぜ」に気がついたということで十分だと思うからである。
そうか、岩阪は「なぜ」ということばを「体の内奥」にためこんでいたのか。あらゆることばが「なぜ」と一緒に動いていたのか。
ここには「なぜ」がない。しかし「なぜふくらんでくるのだろう」という「問い」をつけくわえてもいいと思う。「なぜ」という気持ちがあるから、次のことばが動いていく。「ふたたびこの世に旅立たせてやりたい。」というとき、そのことばは「なぜ」という「問い」に対する「答え」を持っているに違いないと思う。「世間にも通用する言葉」とは「問い」ではなく「答え」だからである。
「答え」であるけれど、「答え」はみつからない。「答え」がみつからないからこそ、「思考や感情」は体の内部に「なぜ」という「問い」を抱えて、蓄積される。
「キーワード」は、たいていは書かれない。書かないとことばが動かないときだけ、仕方なしに書かれる。そして書かれていないけれど、それを補って読むことができる。補って読む方が、わかりやすくなる。
「目玉クリップ」は目玉クリップを愛用し続けた夫の思い出を書いている。夫の死後、目玉クリップがたくさん出てきた。それを見ると……。
「なぜ」わたしの目にじわっと涙が溜まるのか。「答え」を言わなくても、だれにでもわかる。しかし、わかることを、「なぜ」と岩阪は問い返している。書いてはいないが。なぜ問い返すかといえば、問いのなかで夫がよりいきいきと蘇るからである。問い返さないとき、夫は蘇らないというと言い過ぎになるが、それくらい無意識に問うているのである。
夫は「なぜ」目玉クリップを愛用したのか、というときも「なぜ」を補うことができるが、それよりも「なぜ」私は夫を思い出すとき目玉クリップを一緒に思い出すのか、目玉クリップを見ると「なぜ」夫を思い出すのか、涙が出てくるのか、問い返すときの方が、そこに「愛」が浮かび上がる。
「なぜ」に対する「 答え」の形は、「昼の星」に美しく書かれている。
「そういえば」の「そう」は明確ではない。漠然としている。身振りで指し示している。ことば以前の、つかみどころのないなに。それを「提示」し、そのあとで言いなおす。言いなおしたことばの方が「意味」があるから、そちらを重視する傾向があるが、私は言いなおした「意味」よりも、それに先立つ「そういえば」の「そう」の方が「なぜ」の「答え」になっていると感じる。「そういえば」と言ったとき、そのあとにつづくことばを岩阪はつかんでいる。「そういえば」というしかない形。
岩阪のことばが、拡散し、消えていかないのは「なぜ」と「そういえば」の呼応が詩のなかに隠れていて、おのずと「形式」を作っているからだと感じた。
岩阪恵子『その路地をぬけて』は奇妙な本である。「詩集」とは書いていないのだが詩集なのだろう。思潮社から出版されているのだから。こんなことを思うのは、収録されている作品がすべて「散文」形式だからである。ただ「短編小説」というにはあまりにも短い。いわゆる「ショートショート」というものかもしれない。
わけがわからないまま、読み進む。日常が淡々と書かれているように思える。どこに感動していいのか、これがまたわからない。それでは読むのをやめてしまえばいいのかもしれないが、なんとなく読む。つまずくということもないが、やめるというのとも違う。変な感じである。
22ページに「ひとりでいると」という作品がある。この作品は、少し変わっている。「意味」が強い。
ひとりでいると、思考や感情は体の内奥に押しこめられ、
しだいに積み重なり、容量を増していって、のどを塞ぎかね
ないほどふくらんでくる。
でも慌てることはない。そうなっても声に出したり、話を
したりしないでいたい。
臭気芬々とした汚泥のようなそれら堆積物を少しずつ取り
出し、辛抱強く捏ねあげ、かたちを整え、息を吹き込み、辛
うじて世間にも通用する言葉というものに換えて、ふたたび
この世に旅立たせてやりたい。
詩集全体の「自己解説」か。しかし「意味/要約」と受け止めると、何か味気ない。誰だって、そう思って書いている、ということになりそう。胸にたまった「思考や感情」を整えずに書いていないひとはいない。
「少しずつ」「辛抱強く」というところに岩阪の「思想」があるのかもしれないが、キーワードと呼ぶことに私はためらってしまう。
「世間にも通用する言葉」が、「待てよ」と言うのかもしれない。
この詩は「説明しやすそう」だが、「説明しやすそう」なところが気になる。「本質」とは、私は呼びたくない。
さらに読み進む。おもしろい作品がつづく。「蝉のぬけがら」は長い。いろいろな「思考や感情」が「蝉のぬけがら」に託されている。「サルマタと半ズボン」は楽しい。三好達治と岩阪がどこかで重なりながら動いている。戦争を挟んで、戦後。大きく変わったようだが、「表にあらわれてこないところ、言葉になりにくい臍のようなところについては、しかしほとんど変わらないままだったのではないか。」の「言葉になりにくい臍のようなところ」を岩阪が書きたいことを「要約」していると思う。ここを「思想の核(キーワード)」と呼んでもいいのかもしれないが、私はやっぱり躊躇する。「意味」がわかりすぎて、言い換えると「世間にも通用する言葉」になってしまっている気がする。「本音」と「建前」で言いなおすと「建前」のことばという気がする。
でも、こんなふうにきちんと「建前」をことばにできるというのは、それはそれで「思想」なのだという気もするし……。
なにかもやもやしたものを抱えながら、さらに読み進む。
72ページ、「巣」という作品で、はっと気がつく。「鳥、ほか」という「連作」のうちの一篇。
裸になったコナラの木の梢にバレーボールのボールくらい
の丸いものがくっついているのが見え、ずっと気になってい
た。なんだろう、鳥の巣だろうか。一度双眼鏡でたしかめて
みよう。見上げるたびそう思いながら、その場を離れるとた
ちまち忘れてしまった。ところが大雪のあとコナラの横を通
ると、その丸いものは積もった雪のうえに落ちていた。それ
は半ば欠けており、巣には違いなかったが、鳥ではなくスズ
メバチの、しかも古いものでったのだがっかりした。でもな
ぜがっかりしたのだろう。
私が「あ、これがキーワードだ」と思ったのは「でもなぜがっかりしたのだろう。」の「なぜ」だ。72ページ以前に「なぜ」が登場してきているかどうか、私は確認しない。ここで「なぜ」に気がついたということで十分だと思うからである。
そうか、岩阪は「なぜ」ということばを「体の内奥」にためこんでいたのか。あらゆることばが「なぜ」と一緒に動いていたのか。
ひとりでいると、思考や感情は体の内奥に押しこめられ、
しだいに積み重なり、容量を増していって、のどを塞ぎかね
ないほどふくらんでくる。
ここには「なぜ」がない。しかし「なぜふくらんでくるのだろう」という「問い」をつけくわえてもいいと思う。「なぜ」という気持ちがあるから、次のことばが動いていく。「ふたたびこの世に旅立たせてやりたい。」というとき、そのことばは「なぜ」という「問い」に対する「答え」を持っているに違いないと思う。「世間にも通用する言葉」とは「問い」ではなく「答え」だからである。
「答え」であるけれど、「答え」はみつからない。「答え」がみつからないからこそ、「思考や感情」は体の内部に「なぜ」という「問い」を抱えて、蓄積される。
「キーワード」は、たいていは書かれない。書かないとことばが動かないときだけ、仕方なしに書かれる。そして書かれていないけれど、それを補って読むことができる。補って読む方が、わかりやすくなる。
「目玉クリップ」は目玉クリップを愛用し続けた夫の思い出を書いている。夫の死後、目玉クリップがたくさん出てきた。それを見ると……。
紙の束を留めていた夫の手がしきりに思い出される。どちら
かといえば不器用な手だったが。わたしの目にじわっと涙が
溜まる。
「なぜ」わたしの目にじわっと涙が溜まるのか。「答え」を言わなくても、だれにでもわかる。しかし、わかることを、「なぜ」と岩阪は問い返している。書いてはいないが。なぜ問い返すかといえば、問いのなかで夫がよりいきいきと蘇るからである。問い返さないとき、夫は蘇らないというと言い過ぎになるが、それくらい無意識に問うているのである。
夫は「なぜ」目玉クリップを愛用したのか、というときも「なぜ」を補うことができるが、それよりも「なぜ」私は夫を思い出すとき目玉クリップを一緒に思い出すのか、目玉クリップを見ると「なぜ」夫を思い出すのか、涙が出てくるのか、問い返すときの方が、そこに「愛」が浮かび上がる。
「なぜ」に対する「 答え」の形は、「昼の星」に美しく書かれている。
そういえばわたしたちは、本来は見えるものをあたかも無
いもののように見ずに済ませ、静寂の底から湧きあがってく
るひそやかな音を近くの騒音でかき消し、感じやすい心をわ
ざと乾涸させてしまっているのではなかろうか。
「そういえば」の「そう」は明確ではない。漠然としている。身振りで指し示している。ことば以前の、つかみどころのないなに。それを「提示」し、そのあとで言いなおす。言いなおしたことばの方が「意味」があるから、そちらを重視する傾向があるが、私は言いなおした「意味」よりも、それに先立つ「そういえば」の「そう」の方が「なぜ」の「答え」になっていると感じる。「そういえば」と言ったとき、そのあとにつづくことばを岩阪はつかんでいる。「そういえば」というしかない形。
岩阪のことばが、拡散し、消えていかないのは「なぜ」と「そういえば」の呼応が詩のなかに隠れていて、おのずと「形式」を作っているからだと感じた。
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