詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岩阪恵子『その路地をぬけて』

2016-12-22 09:33:32 | 詩集
岩阪恵子『その路地をぬけて』(思潮社、2016年12月10日発行)

 岩阪恵子『その路地をぬけて』は奇妙な本である。「詩集」とは書いていないのだが詩集なのだろう。思潮社から出版されているのだから。こんなことを思うのは、収録されている作品がすべて「散文」形式だからである。ただ「短編小説」というにはあまりにも短い。いわゆる「ショートショート」というものかもしれない。
 わけがわからないまま、読み進む。日常が淡々と書かれているように思える。どこに感動していいのか、これがまたわからない。それでは読むのをやめてしまえばいいのかもしれないが、なんとなく読む。つまずくということもないが、やめるというのとも違う。変な感じである。
 22ページに「ひとりでいると」という作品がある。この作品は、少し変わっている。「意味」が強い。

 ひとりでいると、思考や感情は体の内奥に押しこめられ、
しだいに積み重なり、容量を増していって、のどを塞ぎかね
ないほどふくらんでくる。
 でも慌てることはない。そうなっても声に出したり、話を
したりしないでいたい。
 臭気芬々とした汚泥のようなそれら堆積物を少しずつ取り
出し、辛抱強く捏ねあげ、かたちを整え、息を吹き込み、辛
うじて世間にも通用する言葉というものに換えて、ふたたび
この世に旅立たせてやりたい。

 詩集全体の「自己解説」か。しかし「意味/要約」と受け止めると、何か味気ない。誰だって、そう思って書いている、ということになりそう。胸にたまった「思考や感情」を整えずに書いていないひとはいない。
 「少しずつ」「辛抱強く」というところに岩阪の「思想」があるのかもしれないが、キーワードと呼ぶことに私はためらってしまう。
 「世間にも通用する言葉」が、「待てよ」と言うのかもしれない。
 この詩は「説明しやすそう」だが、「説明しやすそう」なところが気になる。「本質」とは、私は呼びたくない。
 さらに読み進む。おもしろい作品がつづく。「蝉のぬけがら」は長い。いろいろな「思考や感情」が「蝉のぬけがら」に託されている。「サルマタと半ズボン」は楽しい。三好達治と岩阪がどこかで重なりながら動いている。戦争を挟んで、戦後。大きく変わったようだが、「表にあらわれてこないところ、言葉になりにくい臍のようなところについては、しかしほとんど変わらないままだったのではないか。」の「言葉になりにくい臍のようなところ」を岩阪が書きたいことを「要約」していると思う。ここを「思想の核(キーワード)」と呼んでもいいのかもしれないが、私はやっぱり躊躇する。「意味」がわかりすぎて、言い換えると「世間にも通用する言葉」になってしまっている気がする。「本音」と「建前」で言いなおすと「建前」のことばという気がする。
 でも、こんなふうにきちんと「建前」をことばにできるというのは、それはそれで「思想」なのだという気もするし……。
 なにかもやもやしたものを抱えながら、さらに読み進む。
 72ページ、「巣」という作品で、はっと気がつく。「鳥、ほか」という「連作」のうちの一篇。

 裸になったコナラの木の梢にバレーボールのボールくらい
の丸いものがくっついているのが見え、ずっと気になってい
た。なんだろう、鳥の巣だろうか。一度双眼鏡でたしかめて
みよう。見上げるたびそう思いながら、その場を離れるとた
ちまち忘れてしまった。ところが大雪のあとコナラの横を通
ると、その丸いものは積もった雪のうえに落ちていた。それ
は半ば欠けており、巣には違いなかったが、鳥ではなくスズ
メバチの、しかも古いものでったのだがっかりした。でもな
ぜがっかりしたのだろう。

 私が「あ、これがキーワードだ」と思ったのは「でもなぜがっかりしたのだろう。」の「なぜ」だ。72ページ以前に「なぜ」が登場してきているかどうか、私は確認しない。ここで「なぜ」に気がついたということで十分だと思うからである。
 そうか、岩阪は「なぜ」ということばを「体の内奥」にためこんでいたのか。あらゆることばが「なぜ」と一緒に動いていたのか。

 ひとりでいると、思考や感情は体の内奥に押しこめられ、
しだいに積み重なり、容量を増していって、のどを塞ぎかね
ないほどふくらんでくる。

 ここには「なぜ」がない。しかし「なぜふくらんでくるのだろう」という「問い」をつけくわえてもいいと思う。「なぜ」という気持ちがあるから、次のことばが動いていく。「ふたたびこの世に旅立たせてやりたい。」というとき、そのことばは「なぜ」という「問い」に対する「答え」を持っているに違いないと思う。「世間にも通用する言葉」とは「問い」ではなく「答え」だからである。
 「答え」であるけれど、「答え」はみつからない。「答え」がみつからないからこそ、「思考や感情」は体の内部に「なぜ」という「問い」を抱えて、蓄積される。
 「キーワード」は、たいていは書かれない。書かないとことばが動かないときだけ、仕方なしに書かれる。そして書かれていないけれど、それを補って読むことができる。補って読む方が、わかりやすくなる。
 「目玉クリップ」は目玉クリップを愛用し続けた夫の思い出を書いている。夫の死後、目玉クリップがたくさん出てきた。それを見ると……。

紙の束を留めていた夫の手がしきりに思い出される。どちら
かといえば不器用な手だったが。わたしの目にじわっと涙が
溜まる。

 「なぜ」わたしの目にじわっと涙が溜まるのか。「答え」を言わなくても、だれにでもわかる。しかし、わかることを、「なぜ」と岩阪は問い返している。書いてはいないが。なぜ問い返すかといえば、問いのなかで夫がよりいきいきと蘇るからである。問い返さないとき、夫は蘇らないというと言い過ぎになるが、それくらい無意識に問うているのである。
 夫は「なぜ」目玉クリップを愛用したのか、というときも「なぜ」を補うことができるが、それよりも「なぜ」私は夫を思い出すとき目玉クリップを一緒に思い出すのか、目玉クリップを見ると「なぜ」夫を思い出すのか、涙が出てくるのか、問い返すときの方が、そこに「愛」が浮かび上がる。
 「なぜ」に対する「 答え」の形は、「昼の星」に美しく書かれている。

 そういえばわたしたちは、本来は見えるものをあたかも無
いもののように見ずに済ませ、静寂の底から湧きあがってく
るひそやかな音を近くの騒音でかき消し、感じやすい心をわ
ざと乾涸させてしまっているのではなかろうか。

 「そういえば」の「そう」は明確ではない。漠然としている。身振りで指し示している。ことば以前の、つかみどころのないなに。それを「提示」し、そのあとで言いなおす。言いなおしたことばの方が「意味」があるから、そちらを重視する傾向があるが、私は言いなおした「意味」よりも、それに先立つ「そういえば」の「そう」の方が「なぜ」の「答え」になっていると感じる。「そういえば」と言ったとき、そのあとにつづくことばを岩阪はつかんでいる。「そういえば」というしかない形。

 岩阪のことばが、拡散し、消えていかないのは「なぜ」と「そういえば」の呼応が詩のなかに隠れていて、おのずと「形式」を作っているからだと感じた。


その路地をぬけて
岩阪 恵子
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

千人のオフィーリア(メモ27)

2016-12-22 00:00:00 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ27)

私は帽子。日食の日の、麦わらの。
覚えているかしら。
髪をほどいたら
編み目の隙間から無数に散らばった、
三日月の形の太陽。
         天のひとつが地上では無数にくだける。
--海の底の、貝の夢のよう。
オフィーリアが言って、
--私が見えるようにしたのよ
と教えてあげた私は帽子。麦わらの。
--ほら、風のように揺らしながら数えるのよ。
  十八まで数えれば恋の年。
  じょうずに足せば三十七、

オフィーリア、オフィーリア。
あのときから離れたことなど一度もなかったのに、
オフィーリア、どこを流れているの?
私は帽子、リボンのほどけた帽子。麦わらの。
リボンの先はオフィーリアにとどくかしら。
菫色のリボンは
あの日の記念。
四阿の床に三日月の太陽が散らばり、
まわりが菫色になった、
腰のリボンも。
オフィーリア、
蝶結びをほどいて、
帽子に結びなおしたのは誰?

遠い野で菫の上に椅子が倒れる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パオロ・ビルツィ監督「人間の値打ち」(★★★★)

2016-12-21 20:58:06 | 映画
監督 パオロ・ビルツィ 出演 バレリア・ブルーニ・テデスキ、ファブリッツィオ・ベンティボリオ、マティルデ・ジョリ

 交通事故の「真犯人」探し、がストーリーを動かしていく。しかし意外と簡単に「真犯人」を明らかにする。テーマは「真犯人探し」ではないのだ。「事故/事件」のまわりで、ひとがどう動いたか、がテーマ。
 そのテーマにそって言いなおすと、最後が絶妙な展開である。観客は「真犯人」がだれかわかっている。しかし、どうして「真犯人」がつかまったのかは明らかにされていない。
 少女の父親が「証拠/情報」を金持ちの母親に売り、金持ちの母親が「情報」を警察に持ち込んだから?
 いちばん「論理的」だが、私はそうは見なかった。
 これでは少女の父親がいちばん非人間的になってしまう。金のことしか考えていない人間になってしまう。金持ちの母親が警察に通報するというのも、後味が悪い。
 ラストシーンの刑務所に入った少年と、面会に来た少女の美しさにそぐわない。
 だから、私はこんなふうに見る。
 少年は「逃げる」ということを拒否したのだ。そのために自殺しようとした。死ぬことで犯罪を償おうとした。同時に、それは少年をかばう少女を救う唯一の方法だった。少女さえ「証言」しなければ、罪を金持ちの息子に押しつけることができる。少年は「無罪」でいられる。でも、そうなったとき「虚偽の証言」をしてしまった少女はどうなるのだろうか。刑務所には入らない。けれど、ずーっと嘘を人生を生きていかないといけない。少年は、これを知っていて、「犯人」になることを選んだ。ただし、刑務所に入るのはいやなので自殺しようとしたということだろう。
 でも、なんとか助かった。命を取り留めた。
 命を取り留めたあと、少年は刑務所に入る。刑期を終えることで、新しい人間として生まれ変わる。少女もそのときいっしょに生まれ変わっている。そう暗示している。
 この「再生」の展開の仕方はとても魅力的である。
 映画のほんとうのテーマは「再生」かもしれない。だからこそ、「再生」できなかった少女の父親は重要人物であるにもかかわらず、事件が解決したあとは出てこない。少女の父親は「人間」として死んだのである。金持ちの母親は、生きてはいるが、虚無を生きている。状況を傍観することしかできなくなっている。つまり「死んでいる」。
 繰り返しになってしまうが、この二人の「死/半死」と比較すると、刑務所の少年と少女が「生まれ変わって生きている」ということがよく分かる。

 「人間の値打ち」を何によって測るか。映画の最後には、死亡した被害者への「賠償金」が「値段」として出てくるが、これは「反語」のようなもの。映画は「正直」と「再生する力」を「人間の値打ち」として静かに語っているように思う。
 いい映画だと思った。

 細部では、少女が少年と出会うシーン。少年が少女の肖像画を描き、それを見た少女が「ほんとうの自分」を見つめられていると感じたと語るシーンが、とてもいい。そのあと二人で道端に座って語るシーンもいい。
 少年は、少女が少年をかばうこと(どういう人間であるかということ)も、たぶんこのときにわかっていた。見抜いていた。だから苦しんで、自殺しようとしたのである。
 あからさまな「伏線」ではなく、何気なく描かれているだけに、とても印象に残る。
 描かれた「絵」が少女に似ているというよりも、少女が「絵」に似ていると感じさせる映像(演技)もすばらしい。
 少女を演じたマティルデ・ジョリ。これまで見たことがあるかどうかわからないが、見続けたい女優だ。
                      (KBCシネマ1、2016年12月21日)



 KBCシネマのスクリーンはあまりにも暗い。映画そのものの画像の質というよりも、映写器機が原因だと思う。私は目が悪いせいもあるかもしれないが、KBCシネマで見たあとはからだが以上に疲れてしまう。
 福岡ではミニシアター系の映画館はここしかない。ここで見るしかないのだが、みたいけれどやめるか……とあきらめる作品も出てきてしまう。
 なんとかスクリーンを明るくしてもらいたい。

 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

尾久守侑『国境とJK』

2016-12-21 10:12:55 | 詩集
尾久守侑『国境とJK』(思潮社、2016年11月30日発行)

 尾久守侑『国境とJK』は何が書いてあるか、わからない。わからないけれど、気になるものがある。
 「海街」の一連目。

どこにいても辿り着いてしまう
青空を見兼ねて、やって来た
アイランド
海まで走る原付バイクに乗っていると
昔とおなじ街に暮らしている瞬間が
何度かあって、それも
ただの気のせいだと思うには
雨が多すぎた

 「どこにいても辿り着いてしまう」。「いる」という「動詞」が「辿り着く」という「動詞」と結びついている。「学校文法」では「矛盾」(間違い)と指摘されるだろう。この「矛盾」した「動詞」の結びつきは、「海まで走る原付バイクに乗っていると/昔とおなじ街に暮らしている」という部分に逆の形で反復されている。「バイクに乗って走る(移動する)」と「おなじ街(動かない)に暮らしている(いる)」。
 「矛盾」を「矛盾」ではなくする「動詞」は何だろう。「ただの気のせいだと思うには」の「思う」かもしれない。「思う」は「思い」という「名詞」に変化する。(「思い」は「思う」から派生した名詞と考えることができるだろう。)。「思い」は「気でもある」。

どこにいても(思いは/気は)辿り着いてしまう

海まで走る原付バイクに乗っていると
昔とおなじ街に暮らしている(思う)瞬間が
何度かあって
 
 「動詞」以外にも「矛盾」というか、相反するものの結合がある。「青空」と「雨(空)」。ここには「見兼ねて」という「動詞」がからみついている。「見ることができない/見るに耐えない」。「できない/耐えない」は「気/思い」が「できない/耐えない」ということだろう。
 「思い/気」が「矛盾」したものを強く結びつけている。「思い/気」というものが尾久守侑の「キーワード」なのだろうと思う。
 だが、よくわからない。

あれから毎日
晴れているのに雨がふる                      (「海街」)
 
つめたいラジオから               (「ぼくの海流に雪はつもる」)

 「矛盾」、「矛盾」とは言えないかもしれないが「異質なものの結合」と呼べるいくつかの行(ことば)を読み進んで「コールドゲーム」という作品に出会う。この詩は尾久の作品のなかでは「矛盾」が目に留まらない作品と言える。
 ここで、思わず「傍線」を引いたことばがある。

すべての色素を失って歩く
国道から校舎への
三百メートル
Yシャツの袖をまくって
紺の手提げカバンを
肩にかけて追い抜いていく野球部の
朝練の空
それが僕にはみえなくて
とったばかりの
二輪の免許で
かたちの変わる海岸線を走った

 「みえなくて」と「みえない」。「思い/気」が「名詞(主語/テーマ)」のキーワードだとしたら、「みえない」は「動詞/述語」のキーワード。「思い」も「気」も「みえない」。「みえない」けれど「ある/存在している」。そういうものを書こうとしている。ことばの運動によって「みえない存在(ある)」をつかみ取ろうとしている。

すべての色素を失って歩く

 魅力的な一行は、「すべての色素をうしなって、色素がみえなくなった(みえなくなったという気持ち、思いを抱きながら)歩く」ということになるだろう。

肩にかけて追い抜いていく野球部の
朝練の空
それが僕にはみえなくて

 というのは、野球部(員)の「感じている/つかみとっている」朝の練習のときの「空」が「みえない」。おなじ「思い/気持ち」で朝の空をつかみきれないということか。「つかみきれない」は「認識できない」でもあるのだけれど、「認識」というよりもなにかあいまいな「思い/気分」の方が強い。
 このあと「みえない」はもう一度出てくる。

卒業まであと 日
破り去られた数字のなかに
僕はいきていた
うしろから
勢いよく肩を叩いたきみの
たぶん、北のほうの訛りと
お気に入りの
水玉のワンピースが
ゆらゆらと揺曳して
みえなくなった

 この「みえなくなった」は「遠ざかった」という「意味」なので「ある」のに「みえない」というのとは違うのだが、この微妙な「違い」がキーワードをみえにくくしているのがおもしろいと思った。無意識のうちにキーワードを隠してしまうのかもしれない。一種の「本能」。大事なものは、ほんとうに必要なときにしか出てこない。言い換えのできないときにだけ「ことば」として動き、言い換えができるときは隠れてしまう。キーワードとは、そういうものだと私は思っている。
 この「みえない」「思い/気」は最終連で、また言いなおされている。

大小のテレビにうつった
高校野球
アップになった
不甲斐ないエースの顔は
紛れもない僕だった
つめたい雨のふる外野席
コールド負け寸前の僕を応援する
夏服のきみがいた
水玉と
クリームソーダの季節
アンパイアの掛け声で
黒焦げのグローブを
ぐっと握りしめると
空が一瞬で
透明になった

 「透明」は「みえない」。「透明」は尾久のキーワードを結晶させる「象徴」である。「透明」へ向けて尾久のことばは動く。
 そこに「ある」のに「みえない」。「みえない」を「みえる」にかえるためには、尾久のことばがそこに「ある」ものよりもさらに「透明」になる。
 「つめたい雨のふる」空は「透明」ではない。しかし、それを「一瞬で/透明」に「する」。尾久は「透明になった」と書いているが、尾久が「透明」に「する」。

 「透明」「みる/みえない」は、多くの詩に書き残されている。詩集のタイトルになっている「国境とJK」には少し違った形に言いなおされている。

先の丸まった鉛筆で
マークシートを塗りつぶす
答えはどこにあるのだろうか

 「答えがみえない」。「透明」は「鉛筆で塗りつぶす」という逆のことばで浮かび上がってくる。「黒」の反対側に「透明」がある。

いつもの教室
皺一つないチェックのスカート

だれとメールしているのか
おしえてくれなくて

そう、顔のないせんせいが云ったのだ

 「皺一つない」の「ない」も「みえない」。「おしえてくれなくて」の「なくて」も「みえない」。「顔のないせんせい」の「ない」も「みえない」。そこには「不透明」も含まれるのだが、尾久は「不透明」も「思い/気」をくぐらせることで「透明」に濾過してしまう。尾久の「透明な(純粋な)思い/気」があらゆめる存在を「透明」にかえて、詩に結晶させる。
 私の読み方は強引すぎて「誤読」にしかならないのだが。
 「ナショナルセンター」には次のことばがある。

どしゃぶりのハチ公前から、TSUTAYAにむかって歩いていくさやかさん。よくみると泣いていた。空が灰色だった。考えてみれば雨の日にあまり空は見ない。

 灰色の雨空を見る。その「見た」ものの影で「泣いていたさやかさん」が「透明」になっていく。名色の空を見ることが「泣いていたさやかさん」を「透明」に「する」。「さやかさん」を「透明にする」のか「泣いていた」ということを「透明にする」のか。区別できない美しさが、青春の透明さというものかもしれない。

国境とJK
尾久 守侑
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冨上芳秀「あなたは轍」、山本テオ「それはそうだからといって問題ない」

2016-12-20 10:02:23 | 詩(雑誌・同人誌)
冨上芳秀「あなたは轍」、山本テオ「それはそうだからといって問題ない」(「gui」109 、2016年12月01日発行)

 冨上芳秀「あなたは轍」は声に出して読む詩、なのだろう。

あなたは私、あなたはしたわ
あなたはハシタナイわ
あなたは恥たなあ、いいわ
あなたは渡した、あなたは輪渡した
あなたは泡和した、あなたは合した、
あなたは明日、あなたは愛した
あなたは対した私
あなたは秘した渡し、あなたは慕わしい
あなたは合した皺、あなたは足した綿
あなたは舌、足足した
穴多は轍、棚田は分かち
貴方は業師、私ははがし

 しかし声に出して読みたくなるかというと、ならない。声に意味が溶け込んでいない。意味が声をとがらせている。声が肉体にはいってこないで、頭に入ってくるところがある。頭で考えないと、音が意味にならない。意味になるまでの一瞬が、「聞こえない雑音」のようにうるさい。
 あるいは逆か。
 音の前に文字がある。文字が意味を先取りし、そのあとに音がついてくる。「ハシタナイわ」が「恥たなあ、いいわ」にかわっていくところなど、私は興ざめしてしまう。
 私はカタカナ難読症とでもいうのだろうか、カタカナが読めないので「ハシタナイ」が最初何かわからなかった。次の行に「恥」と漢字が出てきたので「ハシタナイ」は「はずかしい」かとやっと気づいた。
 「はしたない」「はじた」と音そのものとして書いてくれればいいのに、と思った。
 私だけの感覚かもしれないが。
 でも、「意味」を語るとき、どういう音のことばを選ぶか、音を自然に聞こえるようにするかというのは、大切だと思う。

あなたは私、わたしはしたいわ
あなたは私、わたしはしたないわ
あなたは私、わたし あっあっ いっいっ
あなたは私、わたしははじた
あなたは私、わたしはっはっ じだなあ ああ いいっわ

 などと、勝手にひらがなにしてみる。
 「した」が「舌」にかわるまでつづけることができれば、肉体に迫ってくるかなあ。しかし私は「音合わせ」というのが苦手。いや、嫌いなのだった。音と意味を調整するのがめんどうくさい。
 こういう作業(?)は谷川俊太郎とか平田俊子がうまい。ふたりとも音が好きなんだろうなあ。
 ただ漢字まじりでも「あなたは明日、あなたは愛した」という一行は「音」として読むことができた。「明日」「愛した」というのは頻繁に耳にするから「漢字」を読んでも意味を考えたりしないからかもしれない。




 山本テオ「それはそうだからといって問題ない」はタイトルがめんどうくさい。何か「意味」を読み取らないといけないのか、と身構えてしまうのだが。

キリンは誰にも頭を撫でられたことがない

サイは角が邪魔になって一メートル先がいつも見えない

椅子は人を座らせてばかりで自分はずっと立っている

けれど

仕方がないのだ ほんとうに仕方がないことというのは
どうしようもなく仕方がない のだからそのままにただ
受け入れて そのままのものとして 飲み込み消化する

そしてそれはそれでよいままで

 読み始めると、そんなにめんどうでもないかなあ。「キリンは誰にも頭を撫でられたことがない」が「なるほど」と思わせる。なにが「なるほど」なのか、説明はむずかしいが。「意味/論理」が書かれていて、その「論理/意味」を納得してしまうが、だからといってそれがほんとうに「意味がある/何かの役に立つ」かというと、そうでもない。むしろ「無意味/役に立たない」ということろが楽しい。
 次に何が聞けるかな、と期待してしまう。「無意味」を聴きたくなる。言い換えると音を楽しみたくなるということ。「音楽」のように、ことばが耳に響いてくる。
 冨上のように音に工夫がしてあるわけではないのに、音を感じてしまう。「意味」をはがされたことばが音に変わっていくのかなあ。
 そう思っていると、「けれど」という一行を挟んで、「仕方がないのだ」からだらだらした散文になる。
 この散文には「意味」しかない。
 はずなのだけれど。
 うーん。「意味」よりも、やっぱり「音」しか聞こえてこない。同じ音が繰り返されていて、その繰り返しが「意味」を「無意味」にしている。「意味」をはがしたまま、「肉体」になじませいく感じ。
 これは、私の「肉体」が覚えていることに重ねて言いなおすと。
 私の母は、何か手に負えないことが起きると、仏壇の前で「なんまいだぶつ」と声に出していた。そんなことをしても何の解決にもならないのだが、いま起きていることを受け入れるために、そうしている。「南無阿弥陀仏」には「意味/哲学」はあるのだが、それをどう理解するかはほったらかしにして、声に出して言う、声に出せば正しい「意味」が理解できなくても安心する。「意味」は自分勝手で十分。「南無阿弥陀仏」のほんとうの「意味」をはがしてしまって、自分の願いを「肉体」として声の中に放り込む。そうやって「声」と一体になる。繰り返すことのなかで、ことば(声)と肉体がいれかわっていく。ことばを肉体に取り込んでいるのか、肉体をことばになげいれているのか、区別ができない状態になる。
 そんな感じ。
 そんなことで、いいのか。
 
そしてそれはそれでよいままで

 そうなのだと思う。「仕方がない」のである。
 詩の後半。

コップいっぱいに水を注ぐともう何も入れられない

蛙の手は開きっぱなしで 拳で仇を殴ることもできない

蛍は街灯がついた途端に消えてしまう

手袋は片方なくなっただけで大切にされなくなった

つまり

神は地球をボール状に作ったが 球は跳ねることもなく
そのままそこで誰も 動かせないし それはそれでもう
放っておくのが一番よいとしか思えないほど 仕方ない

 冨上の詩よりも音楽的に聞こえる。口に出して読みたい気持ちになる作品である。蛙の一行は笑いだしてしまう。笑いたくて読み返してしまう。


安西冬衛―モダニズム詩に隠されたロマンティシズム
冨上 芳秀
未来社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北村真『キハーダ』

2016-12-19 09:57:12 | 詩集
北村真『キハーダ』(ボートハウス、2016年12月07日発行)

 北村真『キハーダ』の巻頭の「鳥よ」は印象に残る作品。

あのとき 草の葉は なにに ふれ
なにに ふれることができなかったのか
あのとき 樹木は なにを 聴き
なにを 聴きとることができなかったのか

問いのことばだけが
休耕田に こぼれおちている

あれから 水たまりは なにを 映し
なにを 映していないのか
あの日から 雲は
どこへ 帰ろうとしているのだろう

窓は カーテンを閉じたまま
だれかを 待ち続けている

見てしまったものと
見ることのできなかったもののあわいから

激しく 空を打ち
狂おしく 空を抱きよせ

鳥よ

 「問い」が繰り返され、「鳥よ」と呼びかけて終わる。
 「鳥よ」の一行は左ページの最終行。ページをめくってつづきを読もうとするが、つづきがない。
 次の作品になっている。
 この突然の「中断」に、私のことばは宙づりになる。どこへ行っていいのかわからなくなる。
 何か書きたい。
 でも問いが向き合っている、という最初の印象以上に動かない。
 読み進むと「約束」という詩に出会う。

じゃあ
それだけいって 別れた

じゃあ またね とも
じゃあ そのうちに ともいわず

じゃあ のなかに
しまいこんでいた いくつもの約束

 「しまいこむ」という動詞が「鳥よ」を思い出させる。あの鳥も何かを「しまいこんでいる」。「問い」が発せられたのだから「答え」がしまい込まれているのか。
 さらにページを開き続けると「遡上」。

セイタカアワダチソウの群生する休耕田のなか
舟はどこへ
漕ぎだそうとしているのか

ながれゆくものと
とどまろうとするものとがこすれあい

ほこりっぽい風がふく草むら
家に戻れないシマノさんが
突っ立っている

なにもしらずにやってくるのか
なにもかもしってやってくるのか

 また「問い(疑問)」から詩がはじまる。そして、

なにもしらずにやってくるのか
なにもかもしってやってくるのか

 という「反語」のような問いになる。

あのとき 草の葉は なにに ふれ
なにに ふれることができなかったのか

 というのも「反語」の問いだったかもしれない。「ひとつ」のことを反対側から問い直す。
 反対側から問い直すとは、自分に向き合うことだ。一方的に、ある方向へ問いを投げつけ、答えを切り開いていくのではなく、いま動いた問いそのものをみなおす。問いの中に何か隠れていないか。
 問いの中に、何かを「しまいこんで」いないか。すでに何か存在していないか。
 それを「知らずに」ひとは問いかけるのか。それとも「知っていて」問いかけるのか。あるいは問いかけた瞬間に「知る」のか。
 「約束」のなかでは「じゃあ」ということばがしまい込んでいるもの(隠しているもの)が「またね」であったり「そのうち」だったりすることを「知っている」。いまの「じゃあ」がどちらを隠しているのかは、はっきりとは「知らない」がどちらかでありうることを「知っている」。どちらであると、断定することはできない。どちらかは、わからない。

 わからない。

 わかることを、考えるよう。わかることのなかへとことばを動かしていこう。
 「反語」で向き合う。それは「表面」に出てきた動きである。そうであるなら、そこにほんとうに隠れていたもの(しまいこまれていたもの)は「向き合う」という姿勢、「向き合う」という動詞ということにならないか。
 「またね」「そのうち」は「ことば」になって表に出てきた「みかけ」。その「みかけ」のものがさらに隠し、しまいこんでいるのが「向き合う」はという動詞。
 「向き合う」ということを、その「動詞」を北村は書こうとしている。「向き合う」ことが北村の「思想/肉体の基本」なのだ。
 「答え」は「ことば」にならない。「またね」も「そのうち」もことばにはなるけれど、「確かさ」にはならない。
 「向き合う/向き合った」という「動詞」だけが、いま、ここに、確かなものとして「ある」。

 「鳥よ」にもどってみる。

窓は カーテンを閉じたまま
だれかを 待ち続けている

 「待つ」という動詞が出てくる。「カーテンを閉じたまま」という動き、「隠す」「しまいこむ」という動きといっしょに出てくる。
 いくつかの詩を読み続けると、そこから隠されたもの、しまいこまれたものと「向き合う」という動詞が自然に出てきた。それが自然に出てくるまで、それに向き合い、「待つ」ということなのかもしれない。
 私は、「向き合う」ということばが出てくるのを待ち続けていたのだろう。詩を読むことで、北村が「肉体」として見えてくるまで待っていたのだと思う。
 探すことは大事だ。だが、探しても見つからないことがある。そういうとき、どうするか。「待ち続ける」。ただ「待ち続ける」のではなく、自分と「向き合う」ように、最初に発した問いと「向き合い」ながら「待ち続ける。
 ときには、そばにいる何かに「自分自身」を投げ出して、自分を空っぽにして、言い換えると「問い」そのものへの固執を捨てて、「待つ」。
 「無になる」といえば、言い過ぎだろうか。「答え」を求めすぎて、間違えることになってしまうだろうか。
 「鳥よ」の最後の「鳥よ」という呼びかけは、北村自身が、それまでの「問い」が「無」なって、ただそこにある「現実」になったような、強い手触りがある。「鳥」、「鳥よ」という「呼びかけ」は「無の象徴」なのだ。
 その「強さ」が「印象(に残る)」ということばとして、最初に私を動かしたのだ。

現代の風刺25人詩集
勝嶋 啓太,牧田 久未,北村 真,司 由衣,原子 修,こたき こなみ,原 詩夏至,くにさだ きみ,斎藤 彰吾,浜江 順子,洲浜 昌三,奥村 和子,かわかみ まさと,うえじょう 晶,金田 久璋,奥主 榮,永井 ますみ,村田 辰夫,玉川 侑香,畑中 暁来雄,浅尾 忠男,熊井 三郎,府川 きよし,有馬 敲,佐相 憲一
コールサック社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

千人のオフィーリア(メモ26)

2016-12-18 22:04:23 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ26)

先に恋したのは
ロミオだったかしらジュリエットだったかしら
先に死んだのは
ジュリエットだったかしらロミオだったかしら
綴じ糸がほどけた本みたい
正気ではいられない。
でも素敵ねえ、両親が敵対しているなんて

気づいたのは
私が先だったかしら、
--傷物にされたらどうしよう
お父さまが心配したから
私がその気になったのかしら。
ああつまらない。
お父さまは家臣。言われるがまま。
私にその気がなくっても、
--おおせのとおりに。
手に負えないドラマなんて
燃え上がる血、凍える血なんて
どこにもないなんて。
気づいていないわ、
お父さまは。
そう気づいたのはオフィーリアが先。

先に恋したのは
オフィーリアだったかしらロミオだったかしら
先に死んだのは
ハムレットだったかしらジュリエットだったかしら
先はどっち?
殺し合いをグローブ座の芝居がまねたのだったかしら
座付きの男が殺し合いを横取りしたのだったかしら





*

詩集「改行」(2016年09月25日発行)、残部僅少。
1000円(送料込み/料金後払い)。
yachisyuso@gmail.com
までご連絡ください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ペドロ・アルモドバル監督「ジュリエッタ」(★★★)

2016-12-18 20:16:07 | 映画
監督 ペドロ・アルモドバル 出演 エマ・スアレス、アドリアーナ・ウガルテ、ダニエル・グラオ

 アルモドバルの映画を見ていると、スペイン人はみんなドン・キホーテなのか、と思ってしまう。個人(主義)のあり方が、イギリスやフランスとは明らかに違う。スペイン人は、私の個人的な印象ではとても気さくで人なつっこい。しかし、その対人的な印象とはまったく逆に不思議な狂気を持っている。みんなが「個人のストーリー」に固執する。ドン・キホーテが「遍歴の騎士」というストーリーに固執して周囲をひっかきまわすのと同じように、登場人物が「自分のストーリー」に夢中。他人と触れ合っても「自分のストーリー」でしか世界を見ない。
 最初のエピソード。アドリアーナ・ウガルテが列車に乗っていると、男が「席は空いているか」。男は女と話したいのだが、女は拒む。そのあと、男が列車のいったん停車を利用して(?)飛び込み自殺をする。女は「男が自殺したのは、自分が会話を拒んだからじゃないだろうか」と思い悩む。思い悩んでも、まあ、別にかまわないのだけれど、その「空想のストーリー」に別な男をひきずりこむ。この強引さが、ドン・キホーテがサンチョ・パンサを「遍歴の騎士」というストーリーに引きずり込むのとそっくりである。
 男は男で「女のストーリー」に引き込まれながらも、「女のストーリー」を「女を求める男」という「ストーリー」に転換する。「男が女を求める(女を求めることを我慢できない)」というストーリーには、雪野を走る雄鹿のストーリーも重なる。雄鹿は列車に並走して走る。それは「雌」の匂いを列車の中にかぎつけたからだ、というストーリーが。そして、実際にセックスがはじまる。
 このセックスシーンが、とてもいい。アルモドバルならではの「幻想」が美しい。騎乗位の女の裸体が列車の窓ガラスに映る。外が暗いから。半透明の裸の向こう側の荒野が動く。不鮮明な映像が、雄鹿が列車の内部をのぞきながら並走しているよう見え。
 ここで、この映画に、夢中になってしまう。
 このあと、映画は「男は女を求めることをやめることができない、だれとでもすぐにセックスをしたがる」というストーリーを狂言回しのように利用しながら、女の別のストーリーが語られる。女の本質に迫るストーリーが。
 「男が女を求めずにいられない」というストーリーを生きるのだとしたら、女の「定型ストーリー」は何だろうか。「こどもを愛さずにはいられない」というストーリーである。女は男なしでも生きられるが、女はこどもなしでは生きられない。
 主人公ジュリエッタは男に誘われてリスボンへ引っ越す予定だったが、昔わかれた娘の話を聞き、娘がもどってくるとしたらマドリッド以外にない。そう思い、マドリッドを離れるのを拒む。詳しい事情は話さず、ただかたくなに「自分だけのストーリー」を生きる。
 こんなに娘を愛しているのに、なぜ、娘は私を捨ててどこかへ消えてしまったのか。さびしくてたまらない。娘の「ストーリー」のなかで私はどんな人間なのか。
 娘の「ストーリー」のなかで、母親はどんなふうに生きているか。父親は漁に出て嵐の日に死んだ。事故死だが、原因は母親が父とけんかしたからだ。けんかの原意は父の女癖にあるのだが、娘は父親の女癖の被害者(?)ではないので、女(母親)には同情しない。死んでしまった父を愛するがゆえに、母を憎み、離れていく。「母が父を殺した」というのが娘の「ストーリー」。
 食い違う「ストーリー」をどうやって「統合」するか。
 ここからがアルモドバル味かなあ。母と娘が直接あって「和解」するわけではない。ここがアメリカ映画と大きく異なる。マドリッドの自宅に娘から手紙が届く。娘は息子を事故で失う。こどもを失って、母の悲しみを知ったと書いてある。同じ「ストーリー」を生きることで、母のことを思い出した。「愛する」という行為のなかで「和解」する。母は手紙の住所を頼りに娘に会いに行く。
 この「ストーリー」を「女は愛するときに女になる(そして女同士和解する)」というふうに読み変えると、映画のなかで繰り広げられた「三角関係」の「克服」がわかりやすくなる。
 男(父)は主人公のジュリエッタ(エマ・スアレス、アドリアーナ・ウガルテ)とは別に恋人(インマ・クエスタ)がいた。二人は男を失った悲しみのなかで「和解」する。友人になる。愛するがゆえに、なんでも受け入れてしまうという人間に生まれ変わる。だからこそ、こんなに愛しているのに、なぜ娘は自分のもとから離れていくのか、という悲しみが強烈になるのだけれど。
 そう気づいた瞬間に、この映画は記憶のなかで、強烈に動き始める。「結論/結末」に感動するというよりも、「結末」がそれまで見てきたものを鮮やかに思い出させるという映画である。見ながら楽しむというよりも、見終わったあと思い出し、語るための映画といえるかもしれない。「文学的」である。その「文学味」を強烈な色と絵で隠すのがアルモドバルの、もうひとつの個性だね。

 最初に書いたスペイン人の人なつっこさと「個人のストーリー」への固執という「矛盾」のような問題を考え直してみると……。
 「個人ストーリー」に固執するからこそ、他人の「個人ストーリー」と自分の「個人ストーリー」の重なる部分を見つけ出し、「私たちは同じ人間」という気持ちになろうとしているのかもしれない。「共通項」を探し求める熱心さが「人なつっこさ」になっているのかもしれない、と思ったりする。
 スペイン人を評価することばに「シンパティコ/シンパティカ」ということばがある。「シンパシー」と語源が重なるかもしれない。「共感」。「共」は「個人的ストーリー」の「共通」の「共」。「個人的ストーリー」を積極的に語り合い、「共通するもの」を探そうという思いから生まれているのかもしれない。
                     (KBCシアター2、2016年12月18日)

 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
欲望の法則 [DVD]
クリエーター情報なし
アルバトロス
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「北方領土」の行方

2016-12-18 01:06:32 | 自民党憲法改正草案を読む
「北方領土」の行方
               自民党憲法改正草案を読む/番外57(情報の読み方)

 安倍・プーチン会談が、プーチンの大勝利に終わった。
 その「原因」と、北方四島の行方について、「妄想」を書いてみる。
 失敗の原因は12月初めの岸田・ラブロフの外相会談で岸田が「根回し」に失敗したからである。外相会談後の記者会見で、ラブロフは「共同経済活動は安倍が5月に提案した」と内幕を暴露した。なぜ、こんなことを暴露したのか。
 私は、こう「妄想」した。
 岸田が「日本は金を出資するのだから、ロシアは見返りに歯舞、色丹くらいは返還すべきである。資金を受け取る側は、それくらいして当然だろう」と言ってしまったのだ。「本音」だろう。
 これに対してラブロフは怒った。「ロシアが金を恵んでくれ、と言ったのではない。安倍がプーチンに共同経済活動(金の出資)を持ちかけた。ロシアで日本が金稼ぎをしたいのだろう。ロシア側から見返りを提供する必要はない。むしろ、ロシアで金稼ぎをさせてやるわけだから、見返りは日本が提供すべきである」。
 ここまで言ったかどうかはわからないが、ともかく「共同経済活動(金の出資)」は安倍が言いだしたことなのだから、それに対して「見返り」を要求される筋はないと突っぱねた。突っぱねるだけでは腹の虫が収まらず、「内輪話」をばらすことで、安倍があとへ退けない状況をつくりだした。
 ここで「共同経済活動はやめた」と言い出せば、日本は自分から提案したことも守らないということが「国際的な評価」として広がってしまう。「他人の顔色」を見て行動することしかできない安倍は「国際的評価の低下」を気にして「やめた」と言えなくなった。この段階でラブロフの作戦に負けてしまった。

 首脳会談まで10日以上もある。正直に「会談しても、平和条約締結の見込みはない。だから会談は延期する」と言えばよかったのに、そうしなかったことが、「大失敗」に拍車をかけた。
 何かできることはないかと画策しているうちに、アメリカ主導の対露経済制裁に参加している日本は、本気でロシアと「共同経済活動」をする気持ちがあるのか。アメリカから「自立」して活動できるのか、と「難問」を投げかけられた。直接ではないが、読売新聞・日本テレビのインタビューに、そういう発言がある。日本の「自立」性を問題視する発言がある。読売新聞・日本テレビは岸田の失敗を挽回するために何ができるかを探ろうとしたのかもしれないが、逆に押し切られた。岸田と同じように、ロシアの主張をより明確に浮かび上がらせることしかできなかった。
 見栄っ張りの安倍は、ここでも引き返す機会を逃した。読売新聞・日本テレビが聞き出したプーチンの「本音」を踏まえ、日露関係よりも日米関係の方が重要である。だから今回の「共同経済活動」の提案は白紙に戻すと言えばよかったのに、そうしなかった。
 なぜか。「白紙に戻す」と言ってしまうと、「経済協力」と引き換えに歯舞・色丹を取り戻すという「作戦」も捨ててしまうことになる。安倍は歯舞・色丹の「返還」を手柄に衆院の解散、選挙をもくろんでいた。(と、噂されている。私と同じように、多くの人が「妄想」するのである。)「白紙に戻す」と言えば「2島返還」は完全になくなる。国民の期待を裏切ることになる。あらゆることで「嘘つき」呼ばわりされている安倍は、北方四島でも「嘘つき」のレッテルを貼られることになる。それが、見栄っ張りの安倍には耐えられないということなのだろう。
 安倍は、絶対に、引き返せない。
 見透かしたように、以後はロシア主導で「共同経済活動」計画が動いていく。安倍は「特別な制度」の下での経済活動と言いたいみたいだが、ロシアの法の下での活動を譲らない。「互いの主権を害さない」ということばも途中で出てきたが、これは「経済活動」をするとき「主権」の問題には触れない、「棚上げ」にするということ。しかし、「棚上げ」にするといったって「活動」の「場」がロシアの実効支配の島なのだから、どうしたってロシアの方の下での活動になってしまう。
 こんなことでは、いくら「協力関係」を築いても、北方四島の返還になどなるはずがない。むしろ北方四島がロシア領土であるということを「確定的」にするだけだろう。

 では、永久に北方四島は日本に返還されないのか。返還されるとしたら、どういう条件が考えられるか。
 私は、「妄想」してみる。
 「沖縄形式」なら、北方四島は「返還」される。北方四島にロシアの基地がある。その基地つきで、そしてそのとき「日米地位協定」のように「日露地位協定」が結ばれるなら、「返還」はあると思う。
 2016年12月17日の朝日新聞(西部版・14版)の1面の「細い糸つなぎ 相互理解を」という意味がよくわからない見出しの「解説」に次のくだりがある。

プーチン氏は、1956年の日ソ共同宣言に従っていずれは歯舞、色丹の2島を引き渡すにしても主権までは渡すかは分からないという「0島返還」の立場から一歩も動かなかった。
 浮き彫りになったのは、プーチン氏の日米同盟への根強い不信感だ。共同会見では、日米安保条約に言及。ロシア海軍の太平洋での活動が制約されることに懸念を示した。将来米軍基地が置かれる可能性があるならば、島の返還などとんでもない、という主張だ。

 北方四島に米軍基地ができ、それが「北の沖縄」になるなら、とんでもないことだ。そんなことは許せない、というのは逆から見れば、ロシアは北方四島を「ロシアの沖縄」にしたいということである。ロシアの基地を置き、ロシアの基地が日本の法律の適用外になるなら返してもかまわない、ということだ。
 これはアメリカと手を切れ、ロシアと同盟を結べ、ということでもある。
 「平和条約」ではなく「日露安保条約」なら、プーチンは歯舞・色丹は「引き渡す」。そして「引き渡し」と引き換えに基地をつくる。もちろん日米の動き次第では、歯舞・色丹をはじめ4島に基地をつくるだろう。いまある施設をさらにら強力なものにするだろう。

 今回の安倍・プーチン会談は「ロシアの思想」を明確にしただけの会談だった。ロシアの主張の前に、安倍は何一つ主張できなかった、ということだけが明らかになった。
 このままでは絶対に北方四島の返還などありえない。
 朝日新聞の書いている「細い糸」がもしあるにしても、それは「つなぐ」ことはできない。完全に切れてしまった。
 「金さえ出せば何でもできる」という安倍の思い込みが、岸田に感染し、そこから失敗がはじまっている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

そとめそふ『卵のころ』

2016-12-17 10:49:43 | 詩集
そとめそふ『卵のころ』(ミッドナイト・プレス、2016年11月27日発行)

 そとめふそ。五月女素夫、という名前の方が私にはなじみがある。久しぶりに、そとめの詩に出会えてうれしい。
 『卵のころ』は横書きの詩と縦書きの詩から構成されている。横書きの方は「poem essens 」というタイトル通り「詩のエッセンス」が断章とし書かれている。  

考える ということ そのことがもう
ずいぶん 淋しい行為だったのかもしれない             (24ページ)

 文字が「中央揃え」で組まれている。引用は「頭」を揃えた。
 どの「断章」もとても短い。引用した2行は「思考/精神」と「感情」をぶつける。どちらが「主役」なのか、わからない。「精神/理性」と「感情/感性」は「相対的」なものではないのかもしれない。「特定」できないものかもしれない。
 「精神/理性」と「感情/感性」を区別しないで「こと」に向き合っているそとめがいる、ととらえるべきなのだろう。
 「こと」というのは、そとめが「ということ」「そのこと」と呼んでいる「こと」である。学校文法ではその「こと」を「考える」という「動詞」を指していると「分類」するかもしれない。
 でも、私は、そうしたくない。
 「ということ」といったん言って、もう一度「そのこと」と言いなおしている。この重複はことばの経済学からいうと「むだ」。どちらかひとつでいい、と「学校作文」は指摘するかもしれない。「こと」が「考える」を指し示すなら、たしかにそうなるだろう。
 しかし、それなら、そとめは繰り返さないだろう。
 目を向けなければならないのは「こと」そのものよりも「という」「その」という「指し示し」かもしれない。「という」「その」というあいまいな、何か身振りのようなもの。「具体的」には指し示せない、「ことば以前」の何か。「未分化/未分節」を経由することで「考える」という「精神の運動/理性の運動」が「淋しい」という「感情/感覚/感性」へと変わる。
 この不思議な「運動」をそとめは形を変えながら「断章」にしていると感じた。

指さきから 本へ 入っていく                   (26ページ)

 「断章」のなかでは、この一行がいちばん印象に残った。「指」は「その」とか「あれ」とか指し示す身振りといっしょにある。「ことば」を「頭」で読むのではなく、「頭」で整理する前の「肉体」で読むときの「感覚」(非論理/未分節の論理)が、「淋しい」感じで動いていると思った。

 縦書きの詩の中からは、どの作品を引用しようか。何について語ることができる。「砂丘」について書いてみよう。

砂丘
見えてはいるが だれにも見えはしないもの

 「見えてはいるが」「見えはしないもの」。これは「矛盾」。学校作文(文法)なら、どっちなんだ、と怒りだすかもしれない。
 しかし、こういう「矛盾」は世界にはあると思う。
 「見えている」は「存在している」。「見えていない」は「存在とは意識されていない」ということ。「見る/見える」は「目(肉体)」には「見える」が、「頭(意識)」には「見えない」と読み直すならば、その「存在」は「未分節」のなかにある。「混沌」のなかにある。
 ただし、このときの「見る/見えない」「目(肉体)/頭(意識)」というのは、相対化し、固定化できない。
 時には「頭(意識)」には見えているが、「肉体(目)」には見えないというものもある。素粒子の運動とか、宇宙の天体の法則とか。
 これが現実の「砂丘」について起こりうるか。わからない。けれど、「砂丘」が「比喩」ならば、いつでも起こる。
 「砂丘」という「比喩」とはは何か。
 私は、先に「断章」で触れた「それ」とか「という」とか、あるいは「こと」を思う。「身振り」では指し示すことができる。けれど、「頭」で整理して、論理的に提示することはできない。
 そういう「何か」。
 これをそとめは、こう言いなおす。

ずっと忘れないでいる言葉のように
たたずんでいる

 「言葉」は「対象」とイコールで結びついていない。むしろ「対象」になる前の何か、「未分節」の何か、混沌のなかにある「未生」の何かと結びついて、何かが生まれてくるのを待っている。この「待つ」をそとめは「たたずんでいる」と言いなおしているように思える。

だれかであると同時に だれでもない
きみの知らない夏が また一つ越えていこうとしている

 「だれかである」「だれでもない」という「矛盾」をつなぎとめる「同時に」がこの詩の「核」かもしれない。「矛盾」とは「同時(同じ時間)」であるから「矛盾」。「時間」が違えば、あるいは「場所」が違えば、正反対のものは存在しうる。
 「同じ」ところから「違う」もの、言い換えると「矛盾」したものが、生まれる。「言葉」は「矛盾」を生み出してしまう。
 「矛盾」を生み出してしまうことばの運動--それが、そとめの詩の「現場」ということになる。

境界をうしなっていくまま

言葉よりも とおくを見つめていた
砂丘

 「同時」という瞬間に「境界」はない。「境界」はうしなわれ、そこから「新しい何か」が生み出され、それが「境界」をつくる。「言葉」が「存在」を生み出し、同時に「境界」をつくる。
 この運動を、しかし、そとめは私のように「結論」として語るのではなく、最後の2行でたたき壊す。「砂丘」にもどってしまう。

砂丘
見えてはいるが だれにも見えはしないもの

 書き出しでは「砂丘」は「対象」。ある人には「見えてはいる」。同時にしあるひとには「見えはしない」。「見る/見えない」の主語は「ひと」である。
 最後の二行では「主語」は「砂丘」。倒置法によって、書かれている。ふつうの文章にすると「砂丘は、言葉よりもとおくを見ていた」ということになる。
 もちろん「私」を補い、「私は言葉よりも とおくを見つめていた」。そしてそこに「砂丘」があった。「私は砂丘にいた」と読むこともできる。「特定」はできない。
 「砂丘」と「人」が、ことばを生み出していくとき、入れ替わってしまう。どちらが「砂丘」、どちらが「人」という「固定」がなくなる。(境界がうしなわれる。)

 大きなストーリーが書かれていないのでわかりにくいが、小さな何かにこだわりながら、そういうことを書いていると感じた。


月は金星を釣り
クリエーター情報なし
ミッドナイトプレス
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「互いの主権害さず」とはどういうことか。

2016-12-17 10:30:09 | 自民党憲法改正草案を読む
「互いの主権害さず」とはどういうことか。
               自民党憲法改正草案を読む/番外56(情報の読み方)

 安倍・プーチン会談が終わった。2016年12月04日の「日記」に書いたが、事前に行われて外相会談(根回し会談)の記者会見で、ロシア外相が「共同経済活動は安倍が5月に提案した」と内幕を暴露した。このときからプーチン勝利、安倍大敗北の結末は見えていた。プーチンが失ったものは何もない。
 
 読売新聞の見出しの変化で何があったかを見て見る。
 2016年12月16日読売新聞(西部版・14版)1面。

4島「特別な制度」協議/日露首脳 山口で会談/共同経済活動で/「事務レベルで議論」合意

 「特別な制度」が安倍の獲得したポイントのように書かれている。しかし「特別な制度」とは何なのか、具体的になっていない。これについては16日の「日記」に書いたので省略。

 16日夕刊(西部版・4版)

日露「互いの主権害さず」/4島経済活動 文書に/平和条約へ「重要な一歩」

 「特別な制度」を言いなおしたものが「互いの主権害さず」。だが、やはり「意味」がわからない。「日露首脳による文書のポイント」の2項目めに

「特別な制度」に基づく共同経済活動を実施。日露双方の「主権を害さない」ことを確認。詳細は実務者で協議

 とある。
 「詳細は実務者で協議」というのは「何も決まっていない」ということ。「特別な制度」は「詳細」というよりも「最大のポイント」だと思うが、それをこれから協議する、というだけ。
 問題は「主権を害さない」。これは、私の感覚では「どんな主権を主張しようと勝手だが、相手の主張を認めるわけではない」ということ。つまり「領土問題は棚上げ」。日本が「北方四島は日本の領土」と主張するなら、どうぞしてください。ロシアも「四島はロシアの領土」と主張する、ということ。
 それが「特別な制度」?
 「領土問題」は棚上げにして、共同で経済活動をするというのでは、単に日本が金をロシアに渡すだけという感じがする。

 このあと、どうなったか。17日朝刊(西部版・14版)の1面の見出し。

北方4島 共同経済活動/平和条約へ「一歩」/「特別な制度」協議合意/領土 進展見られず

 「領土問題」がどうなるか。「2島先行返還」があるかどうかが最大のポイント(選挙向けの目玉商品)だったのに、「進展見られず」。つまり、大失敗した。これで平和条約締結へ「一歩」進んだと言えるのか。
 それを押し隠すために「経済活動」を前面に出しているのだが……。
 「共同経済活動」も、どうやって行うのか、あいかわらずわからない。
 「特別な制度」の下で行うと言うが、その「特別な制度」がどういうものか、これから「協議」することに「合意」したというのでは、何も決まっていないということになる。「互いの主権を害さず」は、先に書いたように「棚上げ」というにすぎない。

 「表向き」(?)のことしか書いていない1面の記事では何もわからないのだが、2面におもしろいことが書いてある。「特別な制度」協議合意という1面の「合意」を補足した部分。

 合意は「あくまで方向性」(外務省関係者)だ。首相が言及した「特別な制度」との文言は声明には入らず、制度設計は今後の協議に委ねられた。ロシア側は、ロシアの法律に基づくと説明するなど、食い違いもあり、早期の決着は見通せていない。

 この部分が、きょう読んだニュースの一番のポイント。
 外務省関係者(実務者)が何も決まっていない。協議するということが決まっているだけ、つまり協議を打ち切りにしないということが決まっているだけ、と言ったのだ。「協議の継続」が決まっただけなのである。
 「特別な制度」は安倍が言っているだけ。ようするに「嘘」。「進展があった」と見せかけるだけの「嘘」。
 ロシア側から言わせれば、いろいろ協議はするが、それはロシア側の法を日本側に守らせるための協議ということになる。日本側が「特別な制度」を持ち出したしたとしても、「声明」の「文言」にない。協議する必要がない、と突っぱねられる。

 このことをさらに「裏付ける」のが、「日露政府が発表した声明のポイント」という4項目。夕刊段階の「日露首脳による文書のポイント」を整理しなおしたもの。こう書いてある。

▽共同経済活動の協議では国際的な約束の締結を含む法的基盤の諸問題を検討
▽共同経済活動は平和条約問題に関する両国の立場を害さないことを確認

 「ポイント」から「特別な制度」が抜けている。
 1面の「共同記者会見のポイント」には確かに

▽北方4島での共同経済活動の実施のための「特別な制度」について交渉を開始することで合意

 とあるのだが、これは安倍が勝手に言っているだけ、ということを逆に「照明」している。
 私は「共同記者会見」を見ていないのだが、プーチンは「特別な制度」に言及したのか。していないはずだ。言及していれば、1面に書いてあるだろう。(詳報を読んだが、プーチンの発言部分に「特別な制度」ということばはなかった。)

 10面に「プレス向け声明の全文」というのも掲載されているが、ここにも「特別な制度」ということばはない。「特別な制度」というのは安倍が日本国民についている「嘘」である。プーチンがこのことばを気にしないのは、安倍が日本国民に対してどんな「嘘」をつこうが、そんなことはプーチンとロシア国民の「信頼関係」に関わらないからだ。

 「特別な制度」という安倍のでまかせ(嘘)が、「主権を害さず」というあいまいなことばを引き出し、わけのわからないことになっている。
 安倍の「嘘」のために、何が起きたのか、わからない状態になっている。

 この会談は、日本にとって何か利点があったか。
 2面に、こう書いてある。

両首脳は、元島民が4島間を往来しやすくする仕組みの検討でも合意した。4島への出入域手続き地点は現在、国後島沖の1か所にかぎられており、これを他の島にも増やす方向だ。

 これだけである。しかも、これも「仕組みを検討」することで「合意」したにすぎない。「検討」の結果、いままで通りということもある。
 ロシアの「主権」は侵害されない。日本の「主権」はあいかわらず制限されている。これでは「互いの主権害さず」どころの話ではない。ロシアの「主権」の主張を、そのまま追認しているだけである。

 一方、ロシアはどうか。3面に、

露 譲歩引き出す/G7制裁網に風穴

 の見出し。ロシアが日本から譲歩を引き出した、ということ。

プーチン大統領は今回の訪日で、北方領土での「共同経済活動」に関する協議をはじめるという譲歩を日本から引き出した。対露経済制裁をつづける日本との間で経済分野を中心に80件以上の成果文書をまとめ、事実上、先進7か国(G7)の制裁網に風穴を明ける目標を達成した。(略)
 日本が米国主導の制裁網に加わりながらも、プーチン氏の訪日に合わせ、総額3000億円規模の経済プロジェクトに関する契約や覚書が結ばれた。(略)ロシアの国営メディアは「80件以上のさまざまなレベルでの協力に関するかつてないほどの文書」が調印されたと報じた。

 3000億円の「見返り」が「4島出入域手続き地点の増設の検討」である。
 日本が北方4島を「領土」と主張するのは勝手。島に入るときは、ロシアの「入国手続き」を経た上で、というのではロシアにとって失うものは何もない。「手続き場所」が増えるのは「人件費」がかさむかもしれない。しかし、日本からの訪問者が4島で金を使ってくれるなら、それくらいのことはがまんするだろう。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

林嗣夫「朝」、増田耕三「四万十から四万十へ」

2016-12-16 10:37:02 | 詩(雑誌・同人誌)
林嗣夫「朝」、増田耕三「四万十から四万十へ」(「兆」172 、2016年11月05日発行)

 林嗣夫「朝」は感想を書くのがむずかしい。書きたいことがあるのだが、書くときっと「うるさい」感想になる。「この詩が好き」とだけ言えば十分なのかもしれないが。
 でも、書いてみる。
 読みながら思ったことを、整理せずに。思ったときのままに。

いつものように
暗い四時ごろ目が覚めて
布団の中でじっとしていたら

 一連目は単純な散文。つづきを読むのをやめようかな、と一瞬思う。目が斜めに走ってしまう。

牛乳や 新聞配達の
バイクの音 庭を来る足音
そして去っていく

 朝の「音」の描写も「定型」。
 でも、三行目で、私の目はとまる。「斜め読み」から、まっすぐ縦になる。読み返す。「そして去っていく」。「去っていく」がいいなあ。「来て、去っていく」。「来る」は「来る足音」と「連体形」のなかに隠れていて、ちょっと見にはわからない。「去っていく」があって、「来る」が鮮明になる。
 その意識の往復が、ことばのスピードを上げる。

やがて外の闇に
何か かすかな……
響きのようなものが満ち始める

 「去っていく」のあとに「満ち始める」。
 「去っていく」と「満ち始める」が呼応している。その「呼応」を確かめるように、私の目と完全にとまる。
 「去っていく」のあとの「余白」が八分休符だとしたら、ここは四分休符くらいか。(詩がつづいているので完全休符という感じではない。)
 二連目の「音」が「響き」に変わっているので、そんなふうに思うのだった。

吹くともない風の始まりだろうか
生き物たちのささやきかもしれない
静かな律動に耳を澄ませる

 ここでは「響き」が言いなおされている。「音→響き」が「律動」に。それは「静か」であり、「ささやき」のように小さい。「耳を澄ませる」ときにだけ聞こえる「響き」。
 「来る」は「始まり」と言いなおされている。
 「満ちはじめる」がさらに遡って「始まり(始源)」そのものをとらえようとしている。「響き」の最初の一瞬を思い描いているよう。

夜が明けると まず
近くの畑に降りてみた
目にも鮮やかなカボチャの花!

 あ、「音」が消えた。「響き」が消えた。「音」は「まず」という「静か」ではない響きによって破られる。「カボチャ」も「耳を澄ませ」て聞くような音ではない。
 そして、「音」のあとには「色」がやってくる。
 何色と書いていないが、カボチャの花の「黄色」が目に浮かぶ。「暗闇」とは対照的に明るい。明るい光の中にあって、さらに明るくなる色。
 世界が突然「転調」する。「聴覚」から「視覚」へ。

用意されていたいくつものつぼみが
羽化するように割れ
天に向かって開いている

 これは「視覚」を引き継いだ描写。
 しかし、私はなぜか「音」を聞いた。
 「羽化するように割れ(る)」
 その「割れる音」が聞こえた気がした。昆虫が「羽化する」そのとき、「音」が聞こえるわけではない。(私は「聞いた」ことがない。)しかし、「割れる」ものはたいてい「音」がする。「割れる」のなかには「音」がある。
 「肉体」がそれを覚えている。
 「天に向かって開いている」は「開いた」状態ともとれる。「開く」という動詞をつづけている、つまり「開き続けている」という具合にも読める。私は「開く」がつづいていると感じた。天に向かって「開く」は、点に向かって「伸びる」でもある。
 羽化するように、つまり成長するように、カボチャの花が成長している。その「成長の音」が聞こえる、と感じた。
 あ、ここ、いいなあ。
 三行を思わず、円で囲ってしまう。
 この三行について感想を書きたいなあ、と思ったのだ。

遠いものの声を聴こうと
震えながら受粉を待っていた

 最終連だけは二行。
 カボチャの花の描写だが、「聴く」という動詞が、それまでの林の「肉体」のつづきのように感じられる。「足音」を「聴き」、「風の始まり」の「響き」を「聴き」、「生きもののささやき」を「聴く」。「静かな律動」という「聞こえない音」を「聴く」。
 「聴こえない/静かな律動」とは「遠い音」でもある。「遠い」から「静か」、「遠い」から「聞こえない」。
 「音」はこのとき「声」になっている。世界のあらゆるものが「人間」のいのちの形としてとらえ直されている。
 林は、カボチャの花になって、それを「聴く」。カボチャの花も「人間」だから、そういうことができる。
 「受粉を待つ」は、ことばが受粉して詩という果実になるということかもしれない。こんなふうに「理屈」にしてしまうといけないのだけれど。
 知らず知らずに動いてきたことば、ことばによって動かされてきた「肉体」が、ぱっとカボチャにかわるような、新鮮な驚き。
 「音」と「色」が交錯するのもいいなあ。
 「音」が「声」に変わるのもいいなあ。



 増田耕三「四万十から四万十へ」は「兆」の仲間と同人会をしたときのことを書いている。

夜更けから雨になったが
飲み足りない私はその夜もまた寝つけなかった
林嗣夫さんや小松弘愛さんの寝息を聴きながら
私から一人の男が立ち上がった

 - 四万十川やきねえ、会いに行きたいろう

ふいにそんな林さんの声が聞こえた

 - 増田君。ぼくは手術後で、しょう、しん
   どいき。まあ、気をつけて行てきいや

今度は小松さんの声が聞こえた気がした

 「私から一人の男が立ち上がった」がいい。四万十川を見に行きたい「気持ち」が立ち上がっている。「気持ち」を「肉体」が追いかけていく。「肉体」が林さんの声を聴き、小松さんの声を聴く。
 外へ出ていく増田の動きが目に見える。


詩集 花ものがたり (林嗣夫  詩集)
林嗣夫
ふたば工房
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「特別な制度」とは何か

2016-12-16 08:59:18 | 自民党憲法改正草案を読む
「特別な制度」とは何か
               自民党憲法改正草案を読む/番外55(情報の読み方)

 2016年12月16日読売新聞(西部版・14版)に安倍・プーチン会談のことが掲載されている。1面の見出し。

4島「特別な制度」協議/日露首脳 山口で会談/共同経済活動で/「事務レベルで議論」合意

 「特別な制度」とはどういうことだろうか。
 読売新聞によると、安倍は、

「4島における日露両国の『特別な制度』の下での共同経済活動、そして平和条約の問題について、率直かつ非常に突っ込んだ議論をおこなうことができた」と語った。

 この「特別な制度」についてのプーチンの発言の引用は1面には見当たらない。かわりにウシャコフ大統領補佐官の発言が引用されている。それによると、

「共同経済活動はロシアの法律に基づいて実施される」と述べた。具体的分野として漁業、洋食、観光、医療などを例示した。

 ここからわかることは。
 「特別な制度」という表現は安倍がつかっているだけ、ということ。ロシアは「特別な制度」を「ロシアの法」と言い直し、否定している。
 4面の「15日の首脳会談要旨」には「北方領土」問題については、

 両首脳 元冬眠の故郷への自由訪問、4島での日露両国の特別な制度の下での共同経済活動、平和条約について率直かつ突っ込んだ議論。

 とある。「両首脳」と「ひとくくり」にしているので、それが安倍・プーチンの「共通認識」のように見えるが、かなり疑問だ。
 1面の安倍の「率直かつ非常に突っ込んだ議論をおこなうことができた」と4面の要旨の「率直かつ突っ込んだ議論」ということばを手がかりにすれば、この「要旨」は安倍の視点からの要旨ということになる。プーチンの「ことば」は含まれていないだろう。安倍とプーチンの発言を併記すれば矛盾するので、安倍が「要約」しているのである。
 安倍は「率直、突っ込んだ」という「修辞」で内容をごまかしている。
 ウシャコフは、それを「牽制」している。具体的に「共同経済活動はロシアの法律に基づいて実施される」と指摘している。
 ロシアにとって、共同経済活動が「ロシアの法律の下」でおこなわれるなら、それは「特別な制度」ではない。日本の資本が入ってくる、経済人(労働者)が入ってくるにしても、ロシアの方の管理下。他の都市での「企業誘致(企業進出)」と変わりはない。それに付随して島民の「自由訪問」がつけくわえられるにしても、それはロシアが「許可」すること。「入国審査」なしに上陸(入島)できるわけではないだろう。日本人が沖縄へゆくのと同じように4島へ行けるわけではない。
 「特別な制度」とはあくまで日本にとって「特別な制度」なのである。
 いくらか「自由」の度合いが増えているから、それはそれでロシアにとっても「特別な制度」とむりやり考えることもできないことはないが、相変わらずロシアのコントロールの下にあるのだから、「特別」と「わざわざ」いうほどのこともない。
 では、日本にとって何が特別か。「4島(2島かもしれない)」を「返還させる」という目的のための、という点が「特別」なのである。
 モスクワやウラジオストクなどには日本企業が進出しているだろう。経済活動をおこなっているだろう。その経済活動は、やはり「ロシアの法律の下」でおこなわれている。そして、それらは「4島の返還を目的」としたものではない。「特別なもの」ではない。

 もし、あえてロシア側に「特別な制度」の「特別」を探すとしたら……。
 3面に、とても興味深い「分析」が書かれている。「プーチン氏 強硬/共同経済活動「主権下」要求」という見出しがついている。そこに、こう書いてある。

ロシアは自国の主権下での実施を求めている。共同経済活動に日本を引き込み、主権を認めさせることがロシアの狙いだ。

 北方4島での経済活動がロシアの主権下で行われれば、日本がロシアの主権を認めたことになる。ロシアの主権が「確立」される。日本は「返還要求」をできなくなる。
 そういう「チャンス」である。ロシアにとって「特別なチャンス」、日本の要求を完全に封じるチャンスである、という意味で「特別」である。
 プーチンは帰国して言うだろう。
 「日本はロシアでの法の下での経済共同活動を認めた。法の支配権を認めたということである。日本は4島の引き渡し要求を放棄した。島民は安心して暮らしてください」

 こんなあいまいな「特別」ということばをはさむことで、安倍は何を狙っているのか。
 どうとでも読むことができる多義的なことばをはさむことで、北方領土問題について何らかの「進展」があったかのように装う効果がある。
 「外交」とは、もともと「あいまいなことば」を利用して、そこにどれだけ自国の権利を盛り込むか、ということなのだろうが、安倍のことばはあまりにもむごい。
 何の「実質」もない。
 私は12月14日「プーチンインタビュー(2)」という文章で、こういう「予測」を書いた。

(1)北方領土問題は「継続協議」になる。「継続」ということばを引き出すことで、北方四島の問題を日本が放棄した(あきらめた)という印象を消すことができる。
(2)「共同経済活動」はロシアの主権下(法の下)でおこなわれる。ただし、「ビザなし渡航」を拡大することができれば、これまでの「法」の拘束ががゆるんだことになる。つまり「成果」である。
 北方領土への「熱意の継続」と「ロシアの法の拘束をゆるめた」を安倍は強調するだろう。

 「特別な制度」を協議する、ということは協議を「継続する」ということの言い換えにすぎない。
 いや、もっと悪いかもしれない。
 その「協議」では、あくまで経済活動に関する「制度」が話し合われるだけで、4島の「返還問題/帰属問題」は除外される恐れがある。
 「特別な」ということばは、読み方によって「勝手に」意味を説明できることばである。「率直な」とか「突っ込んだ」というような「修辞」にすぎない。「日本国内向け」の「ごまかし」である。

 14面に「首相 首脳会談後の発言」に次のことばがある。

 プーチン大統領と約3時間にわたって首脳会談を行った。私の地元での開催、地元の皆様に温かく迎えていただいた結果、大変良い雰囲気の中で首脳会談を行うことができた。このあと、主に経済問題について会談を行う予定だ。

 「このあと、主に経済問題について会談を行う」とは、もう「北方領土」については会談しない、ということだ。何の進展もなかったと、「敗北」を宣言しているのである。



 もうひとつ気になったことがある。
 安倍はプーチンとの1対1の会談のとき、北方4島の元島民からの手紙をプーチンに渡したという。(3面に書いてある。)

 首相は1対1の会談後、「(元島民は)平均年齢が81歳になる。時間がないという島民の気持ちをしっかり胸に刻んで会談を行った」と記者団に語った。

 安倍の気持ちはわかるが、その手紙を読んでプーチンはどう思うだろうか。何が書いてあったかまでは書かれていないで推測だが、元島民の故郷を思う気持ちや先祖を思う気持ちはプーチンのこころを揺さぶるかもしれない。しかし、揺さぶられれば同時に、いま4島を引き渡せば、いま4島に住んでいるロシア人は同じ気持ちを味わうことになる、とも思うのではないか。
 「特別な制度」ということばと同じように、安倍のやったことは日本人のこころに「期待」を抱かせるが、交渉の相手は日本国民ではなくプーチンである。
 国民に「見せる」交渉ではなく、もっと「実質的」な交渉をしてほしい。「素直」でなくてもいい。「巧妙」に「実質」を勝ち取る交渉をしてほしい。
 「巧妙さ」を国民をだますためのことばに盛り込まないでほしい。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「日刊ゲンダイ」の「論理」を読む

2016-12-16 01:01:41 | 自民党憲法改正草案を読む
「日刊ゲンダイ」の「論理」を読む
               自民党憲法改正草案を読む/番外53(情報の読み方)


 私は他人の書いた文章を読んでもあまり「同感」という気持ちにはならないのだが、2016年12月15日の「日刊ゲンダイデジタル」の「領土問題ゼロ回答へ安倍首相“プーチン恫喝”に大ショック」(http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/195877)にはかなりの部分で「同感」した。
 私が12月14日のブログ(プーチンインタビュー、プーチンインタビュー2)で書いた予測と似ているからである。ともに読売新聞・日本テレビ新聞のインタビューをもとに分析しているから、当然といえば当然だが。
 しかし、その「論理」の進め方まで似ているので、かなり驚いた。(1)領土問題はロシアには存在しない(2)ロシアは経済支援だけを狙っている(3)日本はアメリカから自立しているのか、という具合に進んでゆく。
 「論理」の進み具合(進め方)が似ていると、他人の文章を読んでいる気がしない。次に来る「論理」がわかるので、斜め読みできる。

(1)領土問題

 (日刊ゲンダイ)
 来日直前、読売新聞のインタビューに応じたプーチン大統領が、北方領土の引き渡しについて「ロシアに領土問題はない」と言い放ち、さらに安倍政権を恫喝までしているからだ。もはや、領土問題は「ゼロ回答」に終わり、経済支援だけ食い逃げされるのは確定的である。
 来日直前に発したプーチン発言は強烈だ。
 〈第2次大戦の結果は、しかるべき国際的な文書で確定している〉と、北方領土は国際的にロシア領として認められていると強調。

 「前文」は私は書かないが、「ニッカンゲンダイ」はジャーナリズムの基本にそって「前文(要約)」最初に書いている。そのあとでまず「領土問題」について書いている。。 私もまず「領土問題」から書き始めた。「ロシアに領土問題はない」という主張をインタビューから抜き出して、提示した。

 公表されている内容の、次の点がポイント。
 プーチンは「北方四島」について、「日ソ共同宣言」(1956年)を基礎とすると主張している。平和条約締結後に、歯舞と色丹を「引き渡す」。国後、択捉を加えて問題化することは「共同宣言の枠を超えている」と拒否している。
(略)
3面に「インタビューの詳報」が載っている。次の部分が印象的だ。

 --北方領土の問題はロシアから見ても、唯一残された国境線の問題だというふうに認識している。
 ロシアには領土問題は全くないと思っている。ロシアとの間に領土問題があると考えているのは日本だ。

 痛烈である。あたりまえだが、北方四島をロシアは実効支配している。日本の自衛隊が北方四島でロシア軍と戦っているわけでもない。「国境」は安定している。

 さすが「日刊ゲンダイ」はプロの記者。「要約」がうまい。私は「要約」よりも「細部」にこだわる方なので、どうしてもだらだら書いてしまう。

(2)経済協力/支援問題

 (日刊ゲンダイ)
しかも、日本が経済支援をしても譲歩しないつもりだ。安倍首相が提案した8項目の経済協力プランについて〈(平和条約締結の)条件ではない。必要な雰囲気づくりだ〉と、領土引き渡しには直接結びつかないと明言している。領土問題を「棚上げ」し、経済支援だけ頂戴しようという魂胆なのは明らかだ。

 この部分については、私はこう書いた。

 さらに「北方四島」での「共同経済活動」についての「問い」と「答え」もおもしろい。

 --(北方四島での共同経済活動は)ロシアの法の下でなのか、日本の法の下でなのか、第三の機関を作って、その法の下でなのか。大統領の考えは?
 日本人は非常に創造的で頭のいい国民だと思う。いまあなた方は、議論に値するアプローチのすばらしい例を示した。日本の主権下、島々で経済活動を展開する問題が提起された。しかし第一歩がそうだと第二歩は必要ないことになってしまう。

 「ロシアの法律の下で」に決まっていると主張している。これは当然のことなのだが、その直前の「日本人は非常に創造的で頭のいい国民だと思う。いまあなた方は、議論に値するアプローチのすばらしい例を示した。」が実におもしろい。私は笑いだしてしまった。私の言い方で言いなおすと、このプーチンの「ほめことば」は、「日本が秘密裏に考えていることを教えてくれてありがとう(そんなことは知っているけれどね)」と言っているのに等しい。「日本から見れば、それはすばらしいアプローチだけれど、そんなことをしたらロシアの存在意義がなくなる。するわけないだろう」と叱り飛ばしているのである。でも叱り飛ばすだけでは申し訳ないから「第一歩がそうだと第二歩は必要ないことになってしまう」と少し「夢」をちらつかせている。「第一歩」はロシアの方の下で、それがうまくいけば「第二歩」を考えてみることはできる、と。でも、これは「第一歩」の段階で日本からしぼれるものは何でもしぼる。しぼれるものがなくなったら「第二歩」として歯舞、色丹は「引き渡し」してもいいかも、と言っているにすぎない。どの段階でロシアが満足する? 保障は全然ない。「第一歩」しかロシアは考えていない。
 日本からどれだけ「経済協力」を引き出すか。プーチンの首脳会談の目的はそれだけである。

 私は文章を「要約」するのではなく、書かれていないことばを探して読むのだが、たどりついた結論は同じである。

(3)アメリカと日本の関係

(日刊ゲンダイ)
 その上、プーチンは安倍首相を恫喝までしている。ウクライナ問題をめぐって日本がG7と一緒に経済制裁していることに対して、〈日本はロシアへの制裁に加わった。制裁を受けたまま、どうやって経済関係を高いレベルに発展させるのか〉と制裁解除を要求し、〈日本が日米同盟で負う義務の枠内で日ロの合意をどのくらい実現できるのか、我々は見極めなければいけない〉と、日米関係の見直しまで迫っているのだ。

 これについては、私はこう書いた。

 日本からどれだけ「経済協力」を引き出すか。プーチンの首脳会談の目的はそれだけである。
 で、それが次の主張になる。2014年のウクライナへの軍事介入以降、ロシアに対してG7が経済制裁をしている。日本も制裁に参加している。

 「制裁を受けたまま、日本と経済関係をより高いレベルに上げられるのか」「ウクライナやシリアの問題を、なぜ日本は露日関係に結びつけるのか」「日本が(米国との)同盟で負う義務の枠内で、露日の合意がどのくらい実現できるのか、我々は見極めなければならない。日本はどの程度、独自に物事を決められるのか」

 アメリカの「承認」なしには何もできないだろうに、と見透かしている。「アメリカの承認をとったのか、ちゃんと承認を取っておけよ」と言われたようなものである。

 私は「恫喝」というようなことばは思いつかなかったが……。そのかわりに「アメリカの承認をとったのか、ちゃんと承認を取っておけよ」と言われたようなものである」と書いた。「要約」のかわりに、短いことばを長いことばで言いなおすのが、私の方法だからである。
 まるで私自身の「要約」を読んだ気持ちになってしまった。

 と、言いたいのだけれど。
 ちょっと「違和感」。
 私なら、絶対にこんなふうに書かないなあ、と思うところがある。
 もう一度「日刊ゲンダイ」の「前文」を引用する。便宜上、(番号)を挿入する。

来日直前、読売新聞のインタビューに応じたプーチン大統領が、
(1)北方領土の引き渡しについて「ロシアに領土問題はない」と言い放ち、
(2)さらに安倍政権を恫喝までしているからだ。
(1)もはや、領土問題は「ゼロ回答」に終わり、
(3)経済支援だけ食い逃げされるのは確定的である。

 「前文」の「論理」の順序と、本文の「論理」の順序が違う。「本文は」
(1)領土問題(ロシアに領土問題はない)
(2)経済支援食い逃げ
(3)日米関係を見直せと恫喝
 である。
 ふつうは「前文」の順序に記事を書く。順序が違うと、読んでいて違和感がある。どうして「前文」の順序通りに「本文」を書かなかったのか、ここがとても疑問である。

 「日刊ゲンダイ」のために書いておけば、もちろん私の書いたものとは違う部分がある。そのために「順序」を変える必要があったのか。
 私は(1)(2)(3)と整理したが、「日刊ゲンダイ」の分析は(2)と(3)の間に、次の文章挟んでいる。
 
(日刊ゲンダイ)
「領土引き渡しが進まないことは覚悟していましたが、さすがに会談直前のプーチン発言には官邸もショックを受けています。でも、“地球儀俯瞰外交”を自慢し、プーチン大統領との信頼関係をウリにしてきた安倍首相は、いまさら日ロ会談を失敗させられない。形だけでも整えるしかない。実際、ロシアが望む経済支援は予定通り進めることになります。5月に首相と会った時、プーチン大統領は領土問題の進展に前向きだったのに、土壇場でちゃぶ台返しをされた格好です」(外交関係者)

 「記者」なので、インタビュー記事の分析だけでなく「外交関係者」にインタビューし、コメントを取っている。
 ただ、この部分について言えば、私は「日刊ゲンダイ」の書いていることが納得できない。「5月に首相と会った時、プーチン大統領は領土問題の進展に前向きだったのに、土壇場でちゃぶ台返しをされた格好です」は信じることができない。
 事前にあった日露外相会談。そのとき「5月会談」のことをロシアのラブロフ外相が暴露している。このことについては12月04日に「日露外相会談の大失態」というタイトルで書いている。

 2016年12月04日読売新聞(西部版・14版)の2面に「共同経済活動/首相から提案/5月の首脳会談」という1段見出しの記事がある。

 安倍首相が5月にロシア南部ソチでプーチン大統領と会談した際、北方領土での「共同経済活動」を提案していたことがわかった。複数の日本政府関係者が明らかにした。これまでは、11月のペルーでの日露首脳会談でプーチン氏側が提案したとされていた。
 これに関連し、ロシアのラブロフ外相は日の日露外相会談後の記者会見で、「今年行われた会談で、日本の首相は共同経済活動に関して何ができるか考えてみると提案した。ロシア大統領は同意し、しかるべき検討が始まった」と述べた。

 うーん。私は、うなった。
 この記事は記述の順序(時系列)が逆では? ラブロフが「裏話」を明かした。いままで聞いていることと違う。大急ぎで「政府関係者」に裏を取ったら、5月の会談内容がわかったということでは。
(略)
 ラブロフはなぜそんなことを言ったのか。
 日露首脳会談では北方領土の問題が話題になるはずだが、ロシアの方としては「北方領土の返還(引き渡し)」など知らない。そんなことは「話題」にしたことはない、と言いたいのだろう。日本では「経済協力(経済投資)」の見返りに「二島返還」が語られているが、その「経済協力」というのも日本から言い出したことであって、ロシアが求めたものではない。だから「経済投資の見返りに二島返還」という「論理」はおかしい。「経済投資」は「経済投資」としてのみ話すべきことがらである。それを明らかにするために言ったのである。

 この段階で、日露首脳会談がロシアが日本から経済協力をぶんどるだけの会談に終わることはわかっていた。
 それを見落として、「外交関係者」の「5月に首相と会った時、プーチン大統領は領土問題の進展に前向きだったのに、土壇場でちゃぶ台返しをされた格好です」ということばを「鵜呑み」にしているのが、とても変。
 安倍を批判するなら、その「声」に対して、私なら、「でも5月の会談で、安倍が経済協力、共同経済活動を持ち出したとロシアの外相は言っていないか。5月の会談時点で安倍は会談に失敗していたのではないか」と追及する。
 「日刊ゲンダイ」は最後に天木直人のことばを引いているが、記者の文章(分析)より長く感じられる。こんなふうに他人のことばに頼るのなら、最初から天本の文章だけを紹介すればいいのに、と私は思う。
 疑問の残る記事だった。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金田久璋『賜物』

2016-12-15 09:47:24 | 詩集
金田久璋『賜物』( 100人の詩人・ 100冊の詩集)(土曜美術社出版販売、2016年10月20日発行)

 金田久璋『賜物』にはいくつかの種類(?)の詩がある。前半の、「語り口調」の濃厚な作品がおもしろかった。
 巻頭の「サテュロス」。

口をすぼめて吹けば 北風凩虎落笛(もがりぶえ)
ぽっかり開ければ そよ吹く春風となり
時に熱いうどんを冷まし
凍える指先を温めては

ひとりの口元から
思い思いの風が吹く

 「意味」よりも「ことばの調子」が聞こえてくる。「のど」の中を息が通るときの快感がある。
 一連目には動詞の終止形がない。ことばが「息」のままにつづいていく。「息継ぎ」のたびに「意味」が飛躍していく。つながっているのは「リズム」であり、「意味」ではない。「温めては」という「条件提示」のような形で一連目が終わり、二連目へ飛躍していく。
 一連目に語られたことが「思い思い」という「無意味」なことばで統合される。「思い思い」だから、統一されていなくていい。でも「息(肉体)」がつながる。それが「リズム」ということになる。

口をすぼめて思いっきり吹けば 
矢も飛ぶ 飛ぶ鳥を仕留めることも
すぼめた口を歪めれば おのずと火男(ひょっとこ)のひと踊り
一座の座興の喝采カッさらい

 「思い思い」の「思い」を「思いっきり」で引き継いで、しりとり、語呂合わせのよう。「意味」というよりも口の動き、のどの動きが反復される。「音」そのものが動く。「とぶとぶとり」「ひょっとこ/ひとおどり」「いちざのざきょう」「かっさいかっさらい」。金田に言わせれば「意味」があるということになるかもしれないが、聞く方は「意味」など聞いていない。次にどんな音が出てくるか待っている。
 「読む」のではなく「声」をとおして「聞きたい」詩集である。
 後半、

馬の耳と尾 蹄と脚を持つ 山野の精霊
サテュロスにはとんと気に食わない
「友情もここまでだ。同じ口から、熱いものも冷たいものも
 吐きだすような奴とはな」
「性格のはっきりしない人との友情は避けねばならぬのだ」

『イソップ寓話集』はお馴染みの教訓を垂れるが

そこはそこ
臨機応変ってこともある
北風と太陽を按配よく使い分け
そこそこ方便交え 世間と折り合いをつけて
人生ほどよくしたたかに
時には鼻息荒く
嘯(うそぶ)いて

 「意味(あるいは教訓)」が出てくるが「方便」というものだ。「意味」は「音」(息)の「リズム」をつないでみせる「方便」にすぎないだろう。「意味」は「方便」であってほしいと思う。
 「同じ口から、熱いものも冷たいものも/吐きだす」の「同じもの」は「息」のことであり、「風」のこと。「現実的」にいえば「うどんを冷ます息」も「指先を温める息」も「同じ息」。「違い」はない。「吐き方」が違う。「名詞」ではなく「動詞」が違う。
 「息/風」を「ことば」と読み直すこともできるかもしれない。「同じことば」が「熱いもの」にもなれば「冷たいもの」にもなる。それもこれも「方便」ということになる。「臨機応変」「折り合い」「したたか」と言ってしまえば、身も蓋もないが、「それはそこ」、ここに書かれたことばを「書きことば」ではなく「話しことば」として受け止めればいい。「話しことば」は消えていく。そして、「意味」ではなく話したときの「口調」がなぜかいつまでも「肉体」に残る。もう一度聞いたとき、「意味」ではなく「口調」から、これはだれそれのことばと受け止める。
 そういうところまで、ことばがいってしまうとおもしろいと思う。

 「前と後」には「節操がない」ということばが出てくるが、「ない」ように見えて「ある」ところがちょっと困る。

立ちバックなんてラーゲもあって
咬み合う野生へと退行する
性愛の前向きな貪欲にたじろぐ
「イク」のか「シヌ」のか
それとも「クル」のか
それが問題だ

 とか

ちなみに あなたは
前つき それとも後つき いずれであれ
そこから未来が
過去世を背負い
天使の梯子を伝って 降りてくる

 のあと、

空前絶後 前後不覚
後ろの正面だーれ

 と終わるのは、「詩」を「形」にしてしまっていないだろうか。
 でも、これは私が詩を「黙読」しているからかもしれない。「語り」をきけばまた違った印象になるかもしれない。
賜物
金田久璋
土曜美術社出版販売
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする