詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

生前退位「一代限り」の根拠は?

2016-12-15 08:46:08 | 自民党憲法改正草案を読む
生前退位「一代限り」の根拠は?
               自民党憲法改正草案を読む/番外53(情報の読み方)

 2016年12月15日読売新聞(西部版・14版)に天皇の生前退位問題に関する記事がある。見出しは、

退位 特例法提言へ/有識者会議 世論の支持重視

 この見出しは「注意」が必要だ。記事には、こうある。

 有識者会議が陛下の退位を実現するようもとめる方針を固めたのは、報道各社の世論調査で一貫して多くの国民が退位を支持している点を重視したからだ。

 国民の多くが支持しているのは天皇の生前退位であって、「特例法」ではない。生前退位をどうやって実現するか。皇室典範を改正すべきなのか、特例法なのか、特例法の場合「一代限り」なのか。そういうことを「世論調査」したのか。
 国民が天皇の生前退位を支持している。だから退位を実現するように法整備を考える、というのは「論理的」。しかし、国民が支持しているから「特例法」で対応するというのは、論理的に飛躍がある。

 こういう論理の飛躍の背後には、飛躍を求める「声」が隠されている。「特例法」を求めているのは安倍であって、国民ではない。国民がそれを求めているというのなら、その「証拠」を出すべきだろう。
 生前退位を国民の多くが求めているということは各種の世論調査で明らかになっている。
 もし「特例法」での生前退位を国民の多くがもとめているというデータがあるなら、有識者会議はそれを前面に出して論理を補強するだろう。データがないから、データを出さない。かわりに「特例法」そのものとは無関係なデータを出して、論理を装っている。
 この偽装をもっと問題にする必要がある。
 報道機関は、オスプレイの事故を見ても、政府の見解通りの表現しかしない。

 野党は、戦前退位について、どう考えているのか。

 最大の焦点は民進党の対応だ。同党の細野豪志代表代行は14日、「国民の代表樽国会の意思として、皇室典範で恒久的な制度と位置づけるべきだ」と述べた。

 そう考えるなら、どうしてもっと積極的にその考えを国民に訴えないのか。安倍が主導している「有識者会議」の専門家のヒヤリングでは、「条件付きを含め退位を容認した9人のうち、4人が皇室典範改正による制度化を求めた」という。
 人選次第では皇室典範改正を求めることはもっと多いかもしれない。安倍が「特例法」を持ち出す前に、民進党は「皇室典範の改正」をなぜ打ち出さないのか。「皇室典範改正」の方が憲法と整合性がある、というような主張をするために「有識者会議」をなぜ設置しないのか。「特例法」では憲法違反にならないか、という問題をなぜ提起しないのか。
 安倍を相手にするのではなく、国民を直接相手にして「議論」をつくりだしていくという姿勢が欠け過ぎている。
 「カジノ法案」にしても、自民党の法案をそのまま鵜呑みにしたのではない、修正を加えたから民進党の役割は果たしたと考えていないか。


詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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スティーブン・フリアーズ監督「マダム・フローレンス! 夢見るふたり」(★★+★)

2016-12-14 21:37:35 | 映画
監督 スティーブン・フリアーズ 出演 メリル・ストリープ、ヒュー・グラント、サイモン・ヘルバーク

 メリル・ストリープ、ヒュー・グラント、サイモン・ヘルバークの三人が、それぞれ巧みな演技をしている。サイモン・ヘルバークがいちばん「もうけもの」かもしれない。「事実」を知っている。そのうえ、「ピアニスト」という夢を追いかけている。「嘘」に加担すればピアニストのキャリアに傷がつく。だから「振幅」がいちばん大きい。メリル・ストリープ、ヒュー・グラントの影に隠れているけれど。
 この映画で疑問に残るのは、マダム・フローレンス(メリル・ストリープ)が自分は音痴であるとほんとうに知らなかったのかということ。知っていたのではないだろうか。歌っているだけでは音痴に気づかないということはあるけれど、自分のレコードを聞いて、それでも自分の歌がすばらしいと思うかどうか。レコードを聞いても音がずれているとわからないのだとしたら、彼女自身が聞いていた「音楽」は何だったのか。だれそれの歌はすばらしいと言うとき、判断の基準が何だったのかわからなくなる。
 私はマダム・フローレンスはすべてを知っていたと思う。知っていながら、あえて「音痴」なのに歌を歌った。それは、すべての人の愛を確かめるための、さびしい方法(手段)だったのである。
 だれもが彼女の資産を狙っていることに気づいている。だれに資産を譲るべきか、相手を探していた。「おべんちゃら」を聞きながら、「おべんちゃら」の奥にある「ほんとう」を探していたのだと思う。
 こういうとき、相手役がイギリス人(ヒュー・グラント)というのはなかなかおもしろい。イギリス人はどんなことであれ、本人が「告白」しないかぎり「嘘」を追及しない。本人が自分のことばで語ることが「ほんとう」。語らない限り「秘密」もない。この映画で言えば、ヒュー・グラントがメリル・ストリープは音痴だと言わない限り、ヒュー・グラントは嘘をついていることにはならない。浮気していても言わない限りしていることにはならない。
 さすがイギリス人だけあって、この「ことばにしていないことは事実ではない」「ことばにしていることだけが事実である」という雰囲気をヒュー・グラントが前面に押し出し、他人を説得していくシーンは迫力がある。
 語らないことばのなかにある「真実」という点から思い返すと、マダム・フローレンスが追い求めたものはそれだったかもしれない、とも思う。悪評を新聞で読み、マダム・フローレンスが倒れる。自宅で眠る。そのあと、家政婦(?)に「奥様は眠りました」と促され、ヒュー・グラントが「日常」の浮気に出かけようとする。メリル・ストリープが起きてきて「そばにいて」と頼む。ヒュー・グラントが毎晩出かけることを知っていて、眠ったふりをしていたのかもしれない。ヒュー・グラントが言わないのなら、そこには「秘密」はないのだ、というイギリス風の「個人主義」をメリル・ストリープは受け入れて生きてきたことになる。
 で、最後に「知っているのよ」と態度で語りかける。アメリカ人は「ことば」よりも「態度(肉体)」で真実を語る。この「肉体」と「ことば」の交錯するシーンが、この映画のほんとうのクライマックス。ヒュー・グラントは、ここで初めて「真実」を知る。いままで自分が「わかっていた」ものはイギリス(ヒュー・グラント)から見た「真実」であって、アメリカ(メリル・ストリープ)から見た「真実」ではない、と知る。「真実」は彼が考えているところ以外にあったのだ。
 「ことばはすべて真実である」と考えるイギリス人は、ここではしかし、それを「ことば」にしない。アメリカ人になって、メリル・ストリープによりそう。このあたりの「呼吸」が、とても上手い。ヒュー・グラントの、ちょっとわざとらしい顔が、アメリカ人になろうとしていて、とてもいい。
 私はこういう「愛の物語」は面倒くさい感じがして好きではないのだが、ヒュー・グラントの「味」に、ときどき映画であることを忘れた。
 メリル・ストリープの「音痴」は怪演。最後にきちんとした歌声も聞ける。正確に歌えるひとが、わざとらしさを感じさせずに「音痴」を演じるというのは大変なことだと思う。泳げるひとが入水自殺するとき、体が自然に浮いてしまうのでむずかしいというが、歌の上手いひとは自然に音程が合ってしまうだろう。それを外すのは至難の技だと思う。自然な表情で演じるのだから、すごい。あるいは、自然に歌ったあと、アフレコで音を重ねているのだろうか。製作現場の秘密を知りたい気持ちがする。
 サイモン・ヘルバークは、二人に比べて誇張が多いのだが、その結果、この映画がコメディーであることがよくわかって、これはこれでいいなあ、と思った。サイモン・ヘルバークがいなければ、きっとシリアスになっていた。先に私が書いたことにつながるが、とても面倒な恋愛映画になっていたと思う。深刻にならなかったのは、サイモン・ヘルバークのにやけた顔の手柄である。
                  (天神東宝スクリーン4、2016年12月14日)


 *

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なぜ「一代限り」なのか。

2016-12-14 20:30:00 | 自民党憲法改正草案を読む
なぜ「一代限り」なのか。
               自民党憲法改正草案を読む/番外53(情報の読み方)

 2016年12月14日読売新聞夕刊(西部版・4版)のトップ記事。見出しは、

退位「一代限り」で一致/有識者会議 制度化は「困難」

 有識者会議後、御厨貴が記者会見している。「退位を制度化することはむずかしいとの認識でおおむね一致した」という。

来年1月にもまとめる論点整理で、現在の天皇陛下に限り退位を認める方向を示すことを大筋で確認したものだ。
 御厨氏によると、この日の会合では、退位について「時代により国民の意識や社会情勢は変わる。将来にわたって判断できるような要件を設けることには無理がある」「将来にわたる制度化をした場合、硬直的なものとなり、恣意的な退位や、退位の強制が可能となり、象徴天皇と政治のあり方をかえって動揺させることもあり得る」などの意見が出た。

 この記事をどう読むかは非常にむずかしい。
 私は「邪推/妄想」するので、これは今の天皇をなんとしても退位させたいという安倍の意向に沿った「結論」と読んだ。なぜ「邪推/妄想」するかというと「などの意見が出た」と書いているのに、そのふたつの「意見」は対立していないからである。いくつかの意見があるなら、当然「対立意見」があるはず。「対立意見」がないということは、最初から「対立意見」を排除する形で会議が動いているという証拠。
 で。
 「一代限り」は、ともかく今の天皇を退位させることが「先決事項」ということだろう。「制度化」すると、その「制度」にしばられて、次の天皇のとき、さらにはその次の天皇のとき、「自由」がきかなくなる。
 次の天皇がやはり安倍の気に食わない存在になったらどうするか。「退位」の条件に「高齢」を限定すると、その年齢になるまでは次の天皇を「退位」させることができない。これでは「不都合」ということだろう。
 次の天皇が気に入らないときは、またそのときで「特例法」を考えるべきであるということだろう。
 「時代により国民の意識や社会情勢は変わる。将来にわたって判断できるような要件を設けることには無理がある」は、

時代により権力者の意識や、権力者が望む社会の形が変わる。恒久的な制度にしてしまうと、権力者の思うような働きかけができない。今回、官邸側は天皇に対して「摂政」の設置を持ちかけたが、天皇が拒否したという経緯がある。そういう働きかけが、いっそう困難になる。だから「制度化」しない。

 という具合に、私は読んでしまう。
 「将来にわたる制度化をした場合、硬直的なものとなり、恣意的な退位や、退位の強制が可能となり、象徴天皇と政治のあり方をかえって動揺させることもあり得る」というのは、論理的におかしい。「制度化」した場合、「硬直的」になるというのはそのとおりだが、「硬直的」であるかぎり「恣意的」なものが入ることはできない。また「制度化」されているなら、それは「強制」ではないだろう。「制度化」されていないのに、思惑で退位させることを「恣意的」「強制的」というのではないのか。
 だからこの部分は、

将来にわたる制度化をした場合、硬直的なものとなり、権力者の思惑を反映させることができない。権力者による恣意的な退位や、退位の強制が「不可能」となり、権力者にとってつごうのいい政治ができなくなる。象徴天皇が政治の邪魔をし、かえって政治を動揺させることもあり得る。

 ということではないのか。
 で、そういうふうに読み替えてみると、今起きていることがより鮮明にわかる。
 安倍は、天皇が「象徴としてのつとめ」を果たして、国民と触れ合い、国民の信頼を得ていることが「邪魔」なのである。天皇は、どうみても「護憲派」である。「憲法を守れ」と言っている。いまの天皇の下では憲法を改正し、戦争へ突き進むことはなかなかむずかしい。
 天皇が安倍の政治を邪魔し、政策を動揺させている。安倍にとって、天皇は都合が悪い。
 とりあえず、いまの天皇を「退位」させる。
 そのあと、どうなるか。それは次の天皇の動きを見てみないことには判断しようがない。だから、将来的には何も決めないでおいておく、ということだろう。

 特例法で、退位を「一代限り」とするのなら、次の天皇のときは「生前退位」は不可能だから、権力者(安倍)の思惑は反映されない--ということになるかもしれないが、私にはとてもそんなふうには思えない。
 「退位」がだめなら「譲位」させるという方法がある。「摂政」を設置するという方法もある。安倍は、今回はあきらめようとしているのかもしれないが、次はぜったい「摂政」を設置したいと狙っている。
 「退位」と「譲位」は同じか。天皇がかわるわけだから同じに見えるかもしれないが、きっと違う。政治は「同じこと」を違うことばで言うときもあれば、「違うこと」を同じことばで言うときもある。「理屈」はどうとでも言える。
 「摂政」の場合は、どうか。前面に出てくるのは天皇ではなく「摂政」なのだから、国事行為においては「摂政」と天皇の権能の差はない。
 ことばは、そのことばがどんな「意味」でつかわれているか、さまざまな文脈のなかで動かしてみないとわからない。
 夕刊の情報は少なすぎて判断できない部分が多いが、安倍の思惑をどう隠して天皇を「退位」させるか、有識者会議の動きと安倍の動きを関係づけながらみつめる必要があると思う。


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プーチンインタビュー(2)

2016-12-14 09:09:01 | 自民党憲法改正草案を読む
プーチンインタビュー(2)
               自民党憲法改正草案を読む/番外52(情報の読み方)

 プーチンインタビューの詳細な記事が2016年12月14日読売新聞(西部版・14版)に掲載されている。一面の見出し。

4島交渉「別の問題」/共同経済活動 露の主権下で

 ポイントがわかりやすくなっている。きのうの夕刊の一面の見出し、

平和条約「条件整備を」/北方領で共同経済活動/「4島」は交渉応じず

 では、何がポイントかわからないだろう。(だから、きのう感想を書いた。)
 で。
 ポイントはわかったが、なぜ、読売新聞と日本テレビがインタビューを公表したか。きょうの朝刊の見出しなら、推測できる。
 プーチンは「強引」である。安倍との会談で一歩も譲る気はない。それを読者に「鮮明に」伝えるためである。首脳会談で安倍の「望み」が実現されないのは、プーチンが強引だからであるということを「事前」に伝えているのである。
 ここからさらに推測できること
(1)北方領土問題は「継続協議」になる。「継続」ということばを引き出すことで、北方四島の問題を日本が放棄した(あきらめた)という印象を消すことができる。
(2)「共同経済活動」はロシアの主権下(法の下)でおこなわれる。ただし、「ビザなし渡航」を拡大することができれば、これまでの「法」の拘束ががゆるんだことになる。つまり「成果」である。
 北方領土への「熱意の継続」と「ロシアの法の拘束をゆるめた」を安倍は強調するだろう。その「強調」を影から支えるのが今回のインタビュー。手ごわい相手に対して「よくやった」という称賛の「前準備」なのだろう。

 一面には東京本社編集局長の文章が同時掲載されている。そのなかでは、次の部分が印象に残る。

 来年1月に大統領に就くトランプ氏は、プーチン氏を「有能な指導者」と評し、米露間系の修復を図る姿勢を示している。政治地図の変化によっては、北方領土問題解決への契機を見いだせるのではないか。

 これはきのうの感想で書いた次の部分に対応する。

 「日本が(米国との)同盟で負う義務の枠内で、露日の合意がどのくらい実現できるのか、我々は見極めなければならない。日本はどの程度、独自に物事を決められるのか」

 米露関係が変われば、当然、アメリカが日本に対して要求してくることも変わる。それによって、日露の関係も変化してくる。
 つまりは、アメリカ次第だ。
 安倍は、アメリカの言うことを聞かなければならない。(日米同盟は「日米地位協定」を隠すための方便。)日露首脳会談が安倍の望む形にならないとしたら、それはアメリカのせいでもある。アメリカとロシアの関係が改善しないから、日露の関係も改善しない、という「言い訳」の準備である。

 読めば読むほど、あすからの「日露首脳会談」の無意味さがわかる。
 
 安倍の真珠湾慰霊は、では中国、韓国をはじめとするアジア諸国への慰霊はどうするのか、という問題を呼ぶだろう。日本はアメリカとだけ戦争したわけではない。
 景気は年金を引き下げないといけないところまで悪化している。「カジノ解禁」くらいで景気がよくなるはずがないのに、「景気対策」の目玉としてアピールしようとしている。



*

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プーチンインタビュー

2016-12-14 00:49:46 | 自民党憲法改正草案を読む
プーチンインタビュー
               自民党憲法改正草案を読む/番外51(情報の読み方)

 プーチンの訪日を前に、読売新聞と日本テレビがクレムリンでプーチンにインタビューしている。その記事が読売新聞夕刊(2016年12月13日、西部版・4版)に載っている。15、16日の安倍・プーチン会談を前にしてのインタビューである。内容は安倍・プーチン会談での「テーマ」(報道されている予測)に重なる。先の外相会談が失敗したから、読売新聞と日本テレビが、安倍のかわりに「探り」を入れているという感じだ。いや、事実上の安倍・プーチン会談ではないか。
 そのことにも驚くが、首脳会談がおこなわれる前にインタビューの内容を公表していることにも驚いた。もう安倍・プーチン会談は必要がない。なぜ、公表したのだろう。

 公表されている内容の、次の点がポイント。
 プーチンは「北方四島」について、「日ソ共同宣言」(1956年)を基礎とすると主張している。平和条約締結後に、歯舞と色丹を「引き渡す」。国後、択捉を加えて問題化することは「共同宣言の枠を超えている」と拒否している。
 記事の言い方だと、歯舞、色丹の「引き渡し」はまだ可能かもしれないと感じられるが、絶対にない。安倍が「国後、択捉については返還要求をしません」と言ってしまえば「北方四島は日本の領土」という主張を否定することになる。そんなことは安倍にはできない。
 3面に「インタビューの詳報」が載っている。次の部分が印象的だ。

 --北方領土の問題はロシアから見ても、唯一残された国境線の問題だというふうに認識している。
 ロシアには領土問題は全くないと思っている。ロシアとの間に領土問題があると考えているのは日本だ。

 痛烈である。あたりまえだが、北方四島をロシアは実効支配している。日本の自衛隊が北方四島でロシア軍と戦っているわけでもない。「国境」は安定している。
 さらに「北方四島」での「共同経済活動」についての「問い」と「答え」もおもしろい。

 --(北方四島での共同経済活動は)ロシアの法律の下でなのか、日本の法の下でなのか、第三の機関を作って、その法の下でなのか。大統領の考えは?
 日本人は非常に創造的で頭のいい国民だと思う。いまあなた方は、議論に値するアプローチのすばらしい例を示した。日本の主権下、島々で経済活動を展開する問題が提起された。しかし第一歩がそうだと第二歩は必要ないことになってしまう。

 「ロシアの法律の下で」に決まっていると主張している。これは当然のことなのだが、その直前の「日本人は非常に創造的で頭のいい国民だと思う。いまあなた方は、議論に値するアプローチのすばらしい例を示した。」が実におもしろい。私は笑いだしてしまった。私の言い方で言いなおすと、このプーチンの「ほめことば」は、「日本が秘密裏に考えていることを教えてくれてありがとう(そんなととは知っているけれどね)」と言っているのに等しい。「日本から見れば、それはすばらしいアプローチだけれど、そんなことをしたらロシアの存在意義がなくなる。するわけないだろう」と叱り飛ばしているのである。でも叱り飛ばすだけでは申し訳ないから「第一歩がそうだと第二歩は必要ないことになってしまう」と少し「夢」をちらつかせている。「第一歩」はロシアの方の下で、それがうまくいけば「第二歩」を考えてみることはできる、と。でも、これは「第一歩」の段階で日本からしぼれるものは何でもしぼる。しぼれるものがなくなったら「第二歩」として歯舞、色丹は「引き渡し」してもいいかも、と言っているにすぎない。どの段階でロシアが満足する? 保障は全然ない。「第一歩」しかロシアは考えていない。
 日本からどれだけ「経済協力」を引き出すか。プーチンの首脳会談の目的はそれだけである。
 で、それが次の主張になる。2014年のウクライナへの軍事介入以降、ロシアに対してG7が経済制裁をしている。日本も制裁に参加している。

 「制裁を受けたまま、日本と経済関係をより高いレベルに上げられるのか」「ウクライナやシリアの問題を、なぜ日本は露日関係に結びつけるのか」「日本が(米国との)同盟で負う義務の枠内で、露日の合意がどのくらい実現できるのか、我々は見極めなければならない。日本はどの程度、独自に物事を決められるのか」

 アメリカの「承認」なしには何もできないだろうに、と見透かしている。「アメリカの承認をとったのか、ちゃんと承認を取っておけよ」と言われたようなものである。

 こんな内容のインタビューをなぜ事前に公表したのだろうか。「日露会談」では日本が期待しているようなことは何も起きない、と事前に知らせることで国民の失望をやわらげるためなのか。あるいは、プーチンの考えていることを公にし、「世間」から「反論」の仕方を募集でもするつもりなのか。安倍の「知恵袋」に、この問題も考えないといけないと「提言」したいのか。
 あるいは安倍が頼りないから、読売新聞と日本テレビがプーチンの「回答」を引き出してみました、ということなのか。  

 社会面では、秋田犬の「ゆめ」とプーチンの写真、柔道への熱い思いと、プーチンがいかに日本を愛しているか、みたいなことが書かれているが。
 こんなのポーズじゃないか。
 こんなことで日本から「経済協力」(経済投資)を獲得できるなら、とても「安上がり」。安倍が「愛読書はトルストイとドストエフスキー。ボリショイバレエは世界の最高峰」と言えば、「北方四島」は返還される? 返還されない。それなのに「柔道は私の初恋」とリップサービスし、愛犬と遊んで見せるだけで、プーチンは「経済協力」を引き出せるのだ。プーチンは感じのいいひとだ、「経済協力」をとおして、日露の新時代がはじまる、という「幻想」をばらまいている。
 いったい、誰のための、何のための報道なのだろう。



*

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ジェフリー・アングルス「まだ、まだ」

2016-12-13 10:49:05 | 詩(雑誌・同人誌)
ジェフリー・アングルス「まだ、まだ」(ミて」136 、2016年09月30日発行)

 ジェフリー・アングルス「まだ、まだ」はアメリカの詩。

我が家 また空っぽ
あの時いなくなった母は
今日もまたいない
今朝までここにいたのに
この街はずいぶん気に入った
と昨日の集まりで母が言った

 ここに書かれている「話者」は名乗らないのは日本語の文学の伝統を踏まえているが、日本文学の伝統とは違う「肉体」を感じる。

この街はずいぶん気に入った

 この一行の「他人」の登場の仕方。「他人」が「履歴」をもって突然あらわれる。芝居で、存在感のある役者が突然舞台にあらわれる瞬間に似ている。いま描かれている「ストーリー」とは違う「ストーリー」を独自にもっているという感じ。「ストーリー」の「道具」にならない。
 「気」ということばがさりげないのだが、この「気」は「空気」というよりは「石」である。硬い。他人と混じり合わない。この「他人と混じり合わない」何かが「履歴」である。そのひと個人のもの。「肉体」。
 ジェフリー・アングルスは、「肉体(断絶)」を、こう言い換える。

その朝 前庭に飛び込んだ子鹿の
斑点のように 晩夏のまだらな光は
客人の上はばら撒かれていた
一緒にいた雌鹿は母だっただろう

 「子鹿」「雌鹿」という人間ではない存在。それが「母」ということばでつながる。このとき「雌鹿」は「母」の比喩になる。子鹿の「母鹿」なのだが、子鹿の「母」であることをやめて、「関係」を浮かび上がらせることばになる。
 ここからが、さらにアメリカ文学っぽい。

動物図鑑によると 母は秋に
サバイバル戦略を教えるが
雌の子鹿は最初の冬
母鹿とともに残る
雄は離れることが多く
他の若詩歌と生活し始め
男性だけの社会を組む

 「文体」に余分なことばがない。「他人(鹿)」が動く。「比喩」だから、それは「人間」の行動と重なる。ジェフリー・アングルスは、重ねてみていることになるのだが……。
 私がいま書いた、

それは「人間」の行動と重なる

 の「それ」というようなことばがジェフリー・アングルスにはない。「それ」というのは「自分」の立場にこだわって何かを指し示す。「私」と「対象」の関係があることを明るみに出す。
 ジェフリー・アングルスは、こういうことをしない。
 「子鹿」は「その母親の子鹿」。「その母親の子鹿」の「その」を含んだものが省略される。「その」がなくてもわかるからだが、「その」を省略することで、描かれるものが「動物」そのものになる。「人間(話者/ジェフリー・アングルス)」とは別次元の「ストーリー」になる。
 「他者の履歴」そのものが、個別に語られる。「他者」が語るにまかせられている。
 その結果、「気」がべたつかない。「気」が「雰囲気」というようなあいまいなものではなく、固体の中にしっかり閉じ込められて結晶している。他者とは不干渉のまま「もの」として動いていく。
 この関係が、「人間」に再び返ってきて、「現実」をハードボイルドにする。

ジョンは畑からまた収穫物を取る
リサの離婚はまだ決着していない
そして 相変わらずハンサムな
サムは新しい家を建てると言う
冬までに出来るといいねと思った

 「ジョン」「リサ」「サム」の関係(つながり)が説明されない。「その」を省略して「個人」が動いている。「個」が動いて「社会」になっている。つながりは「その」という「意識」ではなく、「そこにいるか、いないか」である。
 いっしょにいても「個人(個)」なのだから、一緒にいなければさらに「個人(個)」である。それをしっかりみつめている。


わたしの日付変更線
ジェフリー・アングルス
思潮社
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千人のオフィーリア(メモ25)

2016-12-12 11:19:07 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ25)

三日後のオフィーリアが侮辱する。
「あなたの連れ、にぶいんじゃない?」
振り返ると鏡の中に一時間前のオフィーリア、
自分の目しか見えないくらいに目をみひらいて、
「どうして?」
訪ねる声がふるえるのは憎しみの予感か、恐怖か。
「三日前、ドアを開いて入ってきた男にあなたが目を向けたすきに、
彼は私を見たのよ。私は横を向いていたけど気づいたわ。
でも、なんてにぶいんだろう。
私がわざと横を向いているのに気づかないなんて、
盗み見している男に気づいていないと思うなんて、」

「長い廊下をつけてくる足音を聞いたとき、
私がどんなに振り返りたいこころを抑えていたか知らないなんて、
ゆるせないわ。」
「待って」
四日後のオフィーリアはさえぎる。
「それ、私が書いた手紙よ。
ラブレターまで盗むの?
何の権利があって?」
「私がオフィーリアだからよ」
八十五歳になったオフィーリアが笑う。




*

詩集「改行」(2016年09月25日発行)、残部僅少。
1000円(送料込み/料金後払い)。
yachisyuso@gmail.com
までご連絡ください。
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サミュエル・ベンシェトリ監督「アスファルト」(★★★)

2016-12-12 08:55:25 | 映画
監督 サミュエル・ベンシェトリ 出演 イザベル・ユペール

 フランス人(あるいはパリっ子)とはどんな人間なのか。フランスの個人主義がどういうものか。それがわかる。といっても、私の勝手な「誤読」だが。
 いちばんわかりやすいのが、最初のエピソードの男。アパートのエレベーターがトラブルつづき。管理組合は修理しない。住民が金を出し合って新しいエレベーターに交換することになる。しかし、ひとりが金を出さないという。「2階に住んでおり、エレベーターなんかつかわない」。で、「では金を出さなくてもいい。ただしエレベーターはつかうな」。
 この男。「会議」があった部屋で、スポーツジムにあるような自転車を見つける。エレベーターには金を出さずに、同じ自転車を買う。そして、自転車を「自動走行(?)」にして漕いでみる。自転車がかってに足を動かしてくれる。これじゃあ、運動にならないとも思うのだが、運動していないから途中で気を失う。自転車はまわりつづけ、足を痛める。車いす生活になる。さて、困った。2階まで、どうやって階段を上る?
 ここからがフランス人。「助けて」とは言わない。ひとがいなくなる瞬間をみつけて、なんとか自分の部屋に帰る。このあとが、また大変。ドアの隙間からエレベーターの利用時間をチェックする。夜中から早朝まで誰も利用しない。あたりまえだ。そこで買い物に出かける。でも、店は閉まっている。どこか何か売っていないか。病院に自動販売機がある。そこなら食い物がある。で、真夜中に病院の自動販売機を目指して買い出し。この、ど根性がフランス人。自己主張を曲げない。わがまま。わがままの責任は自分でとる。
 これは別な角度から言いなおすと、他人には干渉しない、ということ。車椅子なのでエレベーターをつかいたい? そんなこと知らない。エレベーターには乗らないから金を出さないといったのはお前。「助けよう」とは言わない。
 こんなことで、社会が成り立つ? なぜか、成り立ってしまう。どうしてだろう。ひとを愛しているからだ。そして、この「愛」というのが「対等」の関係を守ることにつながっているからだ。
 イザベル・ユペール(落ちぶれた女優)と鍵っ子高校生(母親はいるが出てこない)。年齢に差があるのに、年齢差を越えて「対等」に語り合う。プロの女優に対して、演技に注文をつける。イザベル・ユペールは最初は反発するが、指示に従い、台詞回しを変える。このシーンが「おっ、すごい」と目を見張る。下手くそな演技が、撮りなおすたびに変化し、最後は「迫真」。高校生の、観客としての視線がイザベル・ユペールを変えていく。ここには少年の映画への「愛」がある。映画への「愛」をとおして、イザベル・ユペールと少年が「支えあう」る。
 「不干渉」(非干渉が正しい?)と「不干渉の干渉」が奇妙な形で表現されているのが、墜落した(?)宇宙飛行士を匿うアラブ系の女性と周囲の関係。空から落ちてきた宇宙飛行士を見ているひとがいるのに、だれも騒がない。
 宇宙飛行士がNASAに電話して「助けてくれ」というと、NASAは「ちょっと待て。墜落したことがばれると予算が出なくなる」。あ、こんな「わがまま」な屁理屈をストーリーにしてしまうこと自体がフランスだけどね。アメリカじゃ、絶対に考えられない。コメディーだとしても。
 で、宇宙飛行士を匿うことになった女性だが。息子がいる。息子は刑務所に入っている。寂しくて仕方がない。だから宇宙飛行士を息子がわりに匿う。得意料理をつくって愛情を注ぐ。「母」を演じながらいきいきとしてくる。これがおもしろい。NASAから口止めされているのだが、刑務所で面会した息子に「宇宙飛行士を匿っている」とついつい口走り(うれしくてたまらない、犯罪者になって、息子の「罪」を共有している)、「アルツハイマーになったのか」なんて言われてしまうんだけれどね。

 それにしても。
 なぜ、フランス人の「わがまま」を見ても「嫌い」にならないのだろうか。「わがまま」な人間はいやなものだが、フランス人の「わがまま」を見ていても「いや」という感じが起きない。「不器用」だからかもしれない。「不器用」が「個性」になって「規則」のようなものをほぐすからかもしれない。「合理性」からはみだしてししまうものが「肉体」を刺戟してくる。いとおしくなる。
 こういう映画を見ると、フランス人がとても好きになる。
                      (2016年12月11日、KBCシネマ2)





 *

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「この世界の片隅で」(追加)

2016-12-12 08:33:19 | 映画
「この世界の片隅で」(追加)

 私がいまいちばん気になっているのは「静か」ということば。
 日露首脳会談は、どうみても「北方四島」の問題はたなあげ。歯舞、択捉の二島先行返還などありえない。先の外相会談で明確になった。日本が金を投資させられるだけ。
 その「予測」が広がると、読売新聞は「プーチン氏の来日は、静かな環境で迎えたい」と社説に書き(12月05日朝刊)、安倍は「静かな雰囲気の中で胸襟を開いて率直に議論する」(12月05日読売新聞夕刊)で語っている。
 「静かな雰囲気」とは「安倍批判が聞こえない環境で」ということであり、ことばを変えると「安倍批判をするな」ということである。
 たとえば首脳会談がおこなわれる山口県に右翼の街頭宣伝車があつまり「ロシアは北方領土から出て行け」と騒いだとしよう。国民の目は安倍が「前宣伝」していた歯舞、択捉の返還はどうなるだろうと注目してみつめることになる。何の成果もないと、きっと失望する。安倍批判が広がる。
 そういうことがあっては安倍が困る(支持率が低下する)から、何もなかったかのように「静かに」していろ、というのである。
 北方領土返還問題には触れず、「経済協力」と、「経済協力」に必要な「ビザなし上陸」だけを安倍はアピールするだろう。首脳会談は成功した、と宣伝するだろう。
 北方問題についてだれかが騒がないと、つまり「静か」にしていると、その問題は存在しなかったことになる。

 「静か」作戦は、夏の参院選で絶大な効果を上げた。大成功だった。
 私は7月3日(いわゆる選挙サンデー、投票日の一週間前の日曜日)に「異変」に気づいた。籾井NHKが参院選報道を抑えた。だれも「参院選」といわなくなった。
 その結果「参院選」は存在しなくなった。(週間予定でもNHKは予告しなかったし、投票日の前日のニュースでも「七月十日」は、「なな」と「とう」で「納豆の日」とういくらい、参院選隠しに終始した。)わずかに伝えるニュースは「民進党にはもれなく共産党がついてくる」という安倍の「言い回し」だけである。この報道によって参院選は自民党か共産党かの二者択一の選挙になり、他の政党は存在しないことになってしまった。

 「静か」であることは、「政権」にとってつねに「有利」に働く。
 問題がどこにあるか、それを指摘する「少数意見」は抹殺される。
 あらゆる声を聞く、多様な声によって「騒がしい」というのが「民主主義」。「静か」は「多様性」を否定する。

 「反戦」を語らない。「イデオロギー」がない。だから「すばらしい」という「この世界の片隅で」への評価は、安倍の好む「静か」につながっている。
 この映画を「反戦」語る出発点にすると、映画の感動が薄れる。「反戦」ということばをつかわずに、そこに描かれている「暮らし/生き方」に感動しろ、というのは、次に戦争が起きたときは、国民は映画の登場人物のように「反戦」を語らず、「日々の暮らしを工夫して生きろ」という「押しつけ」になって働きかけてくる。
 「野にある食べられる草花をつかえば食卓は豊かになる。おいしく健康な生活ができる。ほしがりません、勝つまでは」を実行しろ。「政府批判はしません、勝つまでは」。「静かな雰囲気」のなかで安倍のいう通りにします。そういうことが強制される。

 「静か」を主張するあらゆるものに、私は反対したい。
 
 天皇の「生前退位」問題も、「静かな雰囲気」のなかで検討されている。「生前退位」というの表現は天皇が「生きている」という生々しさ、一種の「うるささ」が伴うので、いまは報道機関は「退位」としか言わない。誰の指示かわからないが、朝日、毎日、読売新聞は足並みをそろえている。(テレビは見ないので、NHKがどうなのかは知らない。)
 「静かな」というのは、安倍の思うがままということである。
 安倍の考えに反対のことを言えば、どうしたって「うるさくなる」。意見が対立するというのは議論がはじまるということであり、議論とはうるさいものだからである。
 「有識者会議」などというものは、議論をするための組織ではなく、議論を抑圧するためのものである。「論点の整理」とは反対意見を封じるためにどういう考えを前面に出すかというだけのことである。

 最近話題になった「流行語大賞」の「日本死ね」騒動も同じ問題として考えてみることができる。
 「死ね」というのは物騒な表現である。怒りがこめられた「うるさい」ことばである。「うるさいことば(乱暴なことば)」を排除し、「静かな雰囲気」で語り合わなければならない、というのが「日本死ね」を批判している人たちの考えの奥にある。
 安倍の好んでつかう「しっかり説明する」は、国民が説明を要求することをあきらめるまで「しっかり口を閉ざす」、余分なことを言わない、「静か」を守り続けるということである。

 「静か」とか「静かな雰囲気」ということばは目立たない。目を引かない。だから、おそろしい。どなことばにも「思想」はある。それを見落としてはならない。



 *

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是永駿『宙の上』

2016-12-11 19:41:05 | 詩集
是永駿『宙の上』(書肆山田、2016年11月25日発行)

 是永駿『宙の上』に「文学」を感じた。きのう読んだ高橋紀子『蛍火』(以心社)とは違う意味での「文学」である。高橋の作品は「ことば」と「ことば」の呼応が「文学」の伝統を踏まえている。「文学の肉体」を生きている。「ことば」「文学」は「日本語」「日本文学」ということ。「ことば」の背景に「日本」を感じる。ところが、是永の詩には「日本」を感じない。何かが違う。だが「キリン」を読み、突然、印象が変わった。「あ、文学だ」と納得した。そのことを書く。
 「キリン」のなかに「異国」ということばと「ふるさと」ということばが出てくる。

近くに大きな動物園ができて
キリンが異国の島影を
遠いふるさとの山巓か何かに
思いなして
悠々と丘に放たれる

 「キリン」は是永の詩(ことば)、「比喩」。是永のことばにとって「日本語/日本文学」は「ふるさと」ではない。「異国」である。「日本文学」のなかにある「島影」(少しはなれたところにある存在)を「ふるさと」と「思う」ことで生きている。そういう感じがした。
 それは、「ことば」がつくる「風景」という印象でもある。「風景/現実」があって、そこから「ことば」が生まれてくるというよりも、「ことば」が最初にあって、「ことば」が動くことで「風景」をつくりだしていく。
 「動物園」がほんとうに是永の住んでいる「近く」にできたのかどうか、わからない。私は一行目は「架空/虚構」のことばだと思った。「キリン」ということばがあって、「キリン」が「動物園」を呼び寄せた。「近く」につくらせたと感じた。

悠々と丘に放たれる

 は「キリン」が「放たれる」。では、誰が「放つ」のか。「動物園のひと」かもしれないが、私は是永だと感じた。
 直前の

思いなして

 誰が「思う」の主語か。やはり「動物園のひと」か。是永はそのひとに聞いたのか。たぶん、想像だろう。想像だとしたら、その「思い」はすでに「動物園のひと」のものではなく是永自身のものである。
 キリンが「島影」を「山巓」と思うのでもなければ、「動物園のひと」が「島影」を「山巓」と思うのでもない。是永が、そう思い、思うだけではなく、「思い」を「キリン」に託している。
 「キリン」がすべての「ことば」を呼び寄せる。

海からの風が
目にしたばかりの白い船と
風を生んだ山脈について
語り聞かせる

 この「海(白い船)」は「島影」、「山脈」は「山巓」と呼応している。この呼応は、私の感覚では「日本文学」の「肉体」ではない。もっと広い「空間」を感じる。「キリン」は「異国」を呼び寄せる。「キリン」自体が「異国」の存在だから当然なのかもしれないが、この呼吸は高橋の呼吸とはずいぶん違うと感じる。(きのう高橋の詩を読んだから、そう感じるだけかもしれないが。)

金柑の実をカリリといわせる頃には
冬の風が
キリンの耳を驚かせる
やがて
風の中の
サバンナの草の匂いが消え
囲われた柵が
廃墟のように立ちふさがる
そして
輝き始めた夏の日に
逃れようもない
氾濫する幻覚
遠い異国の地で
キリンは哀しみの葉を食べている

 「哀しみの葉」。「意味」はわかる。「哀しんでいる」ということを「哀しみを食べている」という「比喩」であらわし、「哀しみ」を「葉」と言い換えることで「実体化」している。実際に葉があるわけではない。「金柑の葉」を食べているわけではない。「哀しみ」が「葉」を生み出し、それを食べている。書かれているのは「現実/事実」ではなく、「ことば」が呼び寄せた何かなのである。

 「朱夏」という作品。

左の耳のうしろあたりに
光の穂が降りてきて
眼球が軽くなる
ほのめく闇の奥にひとつの果実

球体の月が夏の真昼の空に浮かぶ

 「月」ははじめから存在しているのではない。一連目の「光」と「闇」の呼応が「眼球」と「果実」を動かし、「月」として生み出されている。ことばが生み出した「光景」である。
 「現実」から「ことば」を探しているのではなく、「ことば」から「現実」を探り当てている。「ことば」で「現実」の奥に入り込み、基底から「現実」をつくりなおしている、という感じがする。

 詩集のタイトルとなっている「宙(そら)の上」は、この運動が過激である。

昨日(きのう)から
このハスの葉を塒(ねぐら)に
雨蛙が一匹
明けて今朝は
息をひそめて
宙を仰いでいる
浮雲に何かあるかの如く
雨蛙が注視するのは
天女淫する宙の上

 これは「地上の光景」。「明けて今朝は」というのは「時間の経過」をあらわしているというよりも、「時間」を動かして「今朝(きょう)」を生み出したもの。ハスの葉の上に蛙がいることは珍しくないから「現実」と思ってしまうが、蛙が「天女淫する宙の上」を「注視する」となると、「現実」ではない。
 是永が「雨蛙」になって「ことば」を動かし、「光景」をつくりだしている。
 「ことば」がつくりだす「光景」というのは「現実」にはしばられない。「ことば」の欲望が「現実」を生み出していく。「ことば」の欲望とは、ことばを書く是永の欲望であり、本能のことになる。

(宙の上では)
わたしがこうやって
踊りを踊ることなど
何でもありゃしない
いつまででも踊ってあげる
でも踊っているうちに
体が火照ってくるのを時々
冷やしてほしいの
いいでしょ
あなたの冷たい体で
あなたは動かなくていいの
わたしがぜんぶ
やってあげる
あの町ではあなたが
何もかもしてくれたわ
その恩返しよ
耳のつけかえなんて
わたし得意なんだから

 (宙の上では)という二連目の書き出しがとてもおもしろい。「地上(雨蛙)」から「宙の上」へと「世界」を転換するとき、わざわざ「宙の上では」と書いている。そう書かないと「宙の上」が生まれてこない。
 ここに是永の「思想」がある。書かないと「現実」が生まれてこないということは、書けば「現実」が生まれるということ。是永は「ことば」によって「現実」を生み出す。
 「踊っているうちに/体が火照ってくる」は「ことば」を書いているうちに「ことばが詩になる(熱くなる/火照る)」ということだろうか。それをときどき「あなた(読者)」に向かって投げかける。「ことば」を受け止めてほしい。その「ことば」はいままでの「耳」では聞き取れないかもしれない。だから「耳」ごとつけかえてあげる、と言っているように私には思える。
 「読者」に「新しい耳」を「生み出す」。「耳をつけかえる」。それが「詩(ことば)」の仕事だ。天女は是永の自画像である。

 私は詩集を一読して感想を書き始めたが、「耳をつけかえられた」のだとしたら、「新しい耳」で読み直さないといけないのかもしれない。「新しい耳」に是永のことばがどう響くか。それを書かないことには(この感想を書き直さないことには)、感想にならないのかもしれない。しかし、そうしてしまえばそれはそれで、いま書いたことばをすべて封印してしまうことになる。だから(?)、動いたままを、いましか書けないことを書いておく。






宙の上
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「この世界の片隅で」「君の名は」

2016-12-11 09:52:10 | 映画
「この世界の片隅で」「君の名は」

 映画を見ないで、感想を書くのは邪道なのだが。
 私はいま評判の2本のアニメを、見たいという気持ちになれない。
 「この世界の片隅で」は戦争時の「暮らし」を描いている。「反戦」と声高に語っていない(イデオロギーがない)ところがすばらしい云々と喧伝されている。
 黒木和雄監督「TOMORRO/W明日」(出演・桃井かおり、原作・井上光晴『明日・1945年8月8日・長崎』)とどう違うのだろう。舞台が長崎から広島にかわっている。もちろん、それぞれの「場」で戦争と暮らしは描かれなければならないのだが。広島は広島で、そのときの「暮らし」を描きのこすことは大切とわかっているが、「評判」のあり方が気になってしようがない。「評判」を聞くと気がそがれてしまう。
 「8月8日」は「8月9日」の一日前。「明日、8月9日」には長崎に原爆が落とされる。それを知らずにつづく「一日」。そのなかにある「暮らし」。これを群像劇で描いている。
 そのなかで、桃井かおりが「お手玉」をみつけ、それをほぐし、あんこをつくるシーンが大好きである。「ああ、おいしい」と味見するシーンに涙が出た。お手玉にはお手玉の「思い出」があるだろう。それを突き破って「お手玉には小豆が入っている。小豆があればあんこがつくれる」と思う瞬間の「意識の飛躍」。生きたい、甘いものを食べたい、という「欲望/本能」が「思い出」に勝つ瞬間と言えばいいのだろうか。それが、たまらなく美しい。かなしい。いとおしい。
 無事出産した赤ん坊をみつめ、おっぱいを含ませる桃井かおりのシーンも思い出すが、なによりも、お手玉をほぐしてあんこをつくるシーンが好き。

 「TOMORROW/明日」は、「この世界の片隅で」を勧めてくれたひとの話では1988年の映画。30年ほど前の映画である。そのときもたしか「日常が淡々と描かれている」というような評価が多かった。ただ、そのときは「反戦」と叫んでいないからすばらしい、イデオロギーがないからすばらしい、というような声は、私は聞かなかった。
 いまなぜ、たぶん同じスタイルの作品が「反戦」を叫んでいない、イデオロギーがないという形で評価されるのか。そこに、とても疑問を感じる。戦時中の「暮らし」の工夫、必死に生きていくひとの姿は、それだけで思想(イデオロギー)である。しあわせに生きたいという思想より大切な思想はない。幸せを考えない思想など、存在しない。
 ふつうのひとの、ふつうの暮らしのなかの思想。それを「反戦」ではない、「イデオロギーがない」というとき、そのことばが狙っているものは何だろう。「思想」隠しは、なぜ、おこなわれるのだろう。
 戦争が起きたとき、「戦争反対」と「イデオロギー」を叫ぶのではなく、「ふつうの暮らし」をしつづけろ、食料が乏しいなら工夫しろ、という具合に働きかけてこないか。「我慢して生きるよろこびをみつけろ」という具合に、働きかけてこないか。
 戦争法が施行され、安倍の手で戦争が着実に準備されている。暮らしの大切さなど無視して、年金は切り下げられるということが実際に起きようとしている。こうしたことに不平をいわず「日々の暮らしを工夫し、生きるよろこびをみつけろ」ということばとなって跳ね返ってこないか。
 私は、それが心配である。
 監督の意図は知らない。しかし、「この世界の片隅で」は確実に安倍の政策に利用される形で喧伝されている。
 実写ではなく、「アニメ」であるというのも問題が多い。アニメには「美化」が入り込みやすい。主人公が暮らしのなかで工夫することがらは、「実物」では違った映像にならないか。予告編(だったと思う)に登場する野の草を利用して料理するシーンなども、実際につくったものを「実写」すれば、アニメほど美しくは見えないかもしれない。おいしそうに見えないかもしれない。そこに問題がある。
 「TOMORROW/明日」のお手玉と小豆、あんこは、私の世代ではとても身近である。お手玉一個のなかに入っている小豆の量を知っている。一握りに満たない。それを煮て、あんこにして、食べる。その切実さが「肉体」に響く。
 私は田舎育ちだから、野の草(山菜)を食べるのは「日常」だった。腹が減ればスカンポと呼ばれるすっぱい草やゴボウのように黒い野草の茎もかじった。「肉体」は、そういうことを覚えている。アニメでは、その「肉体の記憶」が変に洗い流され、「美化」されているように感じる。「肉体」に「もの」が直接迫ってくるのではなく、ストーリーとして「頭」に侵入してくる。
 「この世界の片隅で」は、どんなに「暮らし」を描こうと、それは「頭」に入ってくるストーリー(架空)でしかないような気がする。「感情移入」が「肉体」ではなく、「頭」経由になる。「反戦」と叫んでいない、「イデオロギー」がない、というのは「頭」経由の「頭」拒否のことばである。「思想」を「頭」の「仕事」と考え、「頭」を拒否する。自分で考えない。「考える」こと、「思想」は「指導者(独裁者)」にまかせて、ふつうのひとは「暮らしを工夫するだけでいい」ということなってしまいそうである。
 独裁者は「考えない肉体」を求めている。独裁者の思想にそって動く「肉体」をもとめている。「戦争」をするのは「頭」ではなく「肉体」である。「肉体」がなければ「戦争」はできない。
 戦争は怖い、死ぬのはいやだ、という「肉体/本能」の拒絶反応(思想)を、私は大切にしたい。「肉体感覚」のないものは、警戒したい。
 
 あ、かなり脱線したか。
 もう一本の「君の名は」はポスターがとても美しい。少年のシャツの上の木漏れ日、あるいは木の葉の影と言えばいいのか、光と影のバランスが美しい。実写でも同じ美しさをスクリーンに定着できるかどうか疑問である。「この世界の片隅で」で触れた「美化」の問題が、この映画では拡大されていない。その「拡大」が「麻薬」のように「頭」を汚染していないか。
 「現実」と「芸術」は違う。「映画」も「芸術」だから、実写だからといって、そこに「人工的な操作」が行われていないというわけではないのだが。
 「この世界の片隅で」のポスターの木漏れ日を見て、私はルノワールの絵を思い出した。印象派の木漏れ日の描き方、影の色を思い出した。「色」は他の色とのバランスの上で選択されている。操作されている。そういう作品を見たあとでは、私たちは(私だけかもしれないが)、「現実」を「芸術」をくぐり抜けた形で見てしまう。「現実」が「芸術」を模倣しているように感じる。
 「美化(芸術化?)」された映像をとおして、「美化」されたストーリーを見る。これでは「頭」が「美」以外のものを拒絶するだろう。「美化されたストーリー」以外を、「頭」は受け付けなくなるだろう。

 私はなんとなく不気味なものを感じている。
 「この世界の片隅で」「君の名は」はまったく別の映画なのかもしれないが、私は、その「人気」の奥底に「共通」のものを感じる。

 映画を見て、そのうえで批判すべきなのかもしれないが、私は目が悪くてあまり多くの映画を見ることができない。もっと見たい映画がある。だから、見ないまま、思ったことを書いておく。
 「この世界の片隅で」に感動したひとは、ぜひ、「TOMORROW/明日」を見てほしい。「美しい夏キリシマ」と、時間があれば「祭りの準備」「原子力戦争」も見てほしいなあ、と思う。「この世界の片隅で」を見ないくせに、こんなことを書くのは「反則」かもしれないが。









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高橋紀子『蛍火』

2016-12-10 09:13:22 | 詩集
高橋紀子『蛍火』(以心社、2016年11月25日発行)

 高橋紀子『蛍火』のタイトルになっている詩は、こうはじまる。

吊り橋は 暗闇から暗闇の対岸へ向かって
架けられていた 不安定な足下には ほの
明るい川が流れているのだが 歩くたびに
渇いた音を軋ませて揺れ動く

 「川」は「水」。濡れている。潤っている。そこに「渇いた」という逆のイメージがぶつかる。ここがとてもおもしろい。橋の上と下(川)で「渇く」と「濡れる」にわかれるように、「暗闇から暗闇の対岸へ」という書き出しのふたつの暗闇が、まったく違う「暗闇」にわかれていくように感じた。わかれながら、「橋」によって結ばれる、という印象。
 でも。

この岸よりかの岸へと おそるおそる渡る
その人とのあわいに 蛍の火が灯る

蒸し暑い昼の熱を かすかにとどめる木立
のなかに 嫋嫋とした遠い弦の響きが漂い
あおじろい蛍火をともなって魔界へと誘う

 「魔界」が「定型」に感じられて、私は、あまりおもしろいとは思わない。ただ、こういう「定型」にふれると、一方で「安心」してしまうということもある。「ほのか」(一連目)から「かすか」(二連目)へ、「渇いた音」(一連目)から「嫋嫋とした遠い弦の響き」(二連目)についても言えるのだが、ことばが「文学の肉体」をもっていると感じる。「ことば」を「文学」が引き締めているとも感じる。

 自分だけのことばと「定型」のことば。バランスがむずかしい。
 「深紅」は、そのバランスが絶妙である。「あなたの死によって 薔薇よりも紅い薔薇になれる」という喪失の詩なのだが。

いま あなたを喪い 花として ようやく
より紅い花に 心底 なれる

あなたがいなくなるとすぐに 世界はしんと
静まり返り ひたむきに朽ちてゆく

なろう 一途に生き抜いて 無心な薔薇に

朝がおとずれてあなたは死に わたしはただ
わたしのためだけに生まれ変わる

 「心底」がいい。「心底」では言い足りない感じがして、「ひたむき」「一途」と言いなおされ、それにつれて「定型」という感じになるのだけれど、それが「無心」によって「別次元」にかわる。「心底」から「無心」へ。「心」が何かをわたってしまう。越えてしまう。「蛍火」の「橋」を思い出してしまう。
 「皮膚」の「あなたの目の球面に/わたしの全身が映し取られて/わたしの内部は外部になる」というおもしろい行も好きだが。
 「百合 Ⅰ」が、私は特に好きだ。

夜になると
切り取られた茎の先からひそかに
どろりとした液体を吐き出します
器の水がねっとりします

 「ひそか」の力が「どろり」を「ねっとり」に変える。「ひそか」におこなわれることでないなら「ねっとり」にはならないだろうなあ。
 この変化は、こう言いなおされる。あるいは、このあとに書かれることを最初の四行が先取りしているといえばいいのか。「暗闇から暗闇の対岸へ」は、どちらが「対岸」かわからない。相互が「対岸」であるというのに似ている。

真っ赤な蕊をもぎ取られ
口紅を落とした女の貌です
誰もいない家の飾り窓から
なめらかでしなやかなからだを
まえのめりにかたむけます

 「ねっとり」しているなあ。「まえのめり」がとくにいい。「肉体」が動く。「ねっとり」が「肉体」になる。「のめり」のなかに「ねっとり」が「音」としても響く。

根にまつわりつく土のざらつきを
まだおぼえています
ひらきたての花びらが翼の形だったことも
羽ばたくことにより
ゆるぎない種の繋がりをねがったことも
まだおぼえています

 こにも「翼」と「羽ばたく」という連絡があるのだが、同時に「まつわりつく」と「ざらつき」の対比もある。「川(水)」と「渇き」に似た逆のぶつかり合い。その「違和」のようなものを押さえつけて「まだおぼえています」の繰り返し。これが「ねっとり」。「ひらきたての」も「ねっとり」しているが「まだおぼえています」にはかなわない。強い強い「接続」である。
 「忘れてくれたっていいじゃないか/忘れろよ」と言いたくなるでしょ? 「まだおぼえています」なんて言われたら、男はうれしいよりも、こわくなる。「ねっとり」と絡みつかれた感じだなあ。

根を切り取られた疵は
いまだ閉じず夜はさらに深まり
花びらは捩じれて汚れて痩せていきます
莟みはいつまでたっても莟みのままです
百合はまだ生きています
百合はもう死んでいます

 うーん、怖い。「ねっとり」とした情念だ。
 あ、「好き」と書いたはずなのに……。




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ロバート・バドロー監督「ブルーに生まれついて」(★★)

2016-12-09 11:02:58 | 映画
ロバート・バドロー監督「ブルーに生まれついて」(★★)

監督 ロバート・バドロー 出演 イーサン・ホーク、カルメン・イジョゴ

 私は「悲哀」とか「哀愁」というものが苦手である。
 チェット・ベイカーがドラッグがらみ(?)で売人に殴られる。歯と顎が壊される。トランペット吹きには致命的だ。そこから立ち直り、またドラッグにおぼれていくまでを描いているのだが。
 立ち直りの途中。演奏を聞いたプロデューサー(?)が「技術的には前より劣っているが、かえって味が出てきた」というようなことを言う。この「味」が「悲哀」「哀愁」に通じると思う。
 うーん。
 このシーン、とても大事だと思うのだが、ことばが邪魔しているね。
 がらんとした(これがふつう?)の録音スタジオ。モノトーンの色彩。トランペットを吹くイーサン・ホークの肉体の形。「静物」のよう。全体が「静物画」のようだ。その「視覚」の雰囲気と音の触れ合い。それで充分なのに、せりふの「ひとこと」が多くて、「悲哀/哀愁」を押しつけられたような気分になる。
 私は音楽的な人間ではない。だから、「味が出てきた」と言われないと「違い」をことばにしてつかみとれないけれど、こういうことは「味がある」というような「流通言語」で語られると、「わかりすぎて」わからなくなる。感じていないのに、わかった気持ちにさせられる。
 「悲哀」「哀愁」ということばもそうだなあ。「わからない」。ひとくくりにできない。その瞬間に動いている「独特」の感じ。「辞書」にあることばでは言い表せない何か。それを、そのままにしておきたい。あのスタジオの、チャット・ベイカーなんか知らないという「空気」そのものを、そのままにしておきたい。「それ」とか「あれ」という感じのままに。
 で、好きなシーンはと言えば、あの録音シーンから「ことば」を除外したシーン(頭の中で思い描いてみる)と、故郷のシーン。故郷にも何もない。広い空間があるだけ。どう向き合っていいかわからない。そのとき、彼には父親がくれたトランペットがあった。トランペットを吹くと音が出る。その音と向き合っている。音との向き合い方の中で、風景そのものが少しずつ違っていく。チェット・ペイカー自身もかわっていったんだろうなあ。
 帰って来た息子を見て、喜びが自然にこぼれる母親。「お前は何をしに帰って来たんだ」と突き放すような父親の態度の違い。受け入れるものと、拒絶するもの。しかし、その拒絶するもののなかにも受け入れる何かがある。受け入れられた記憶がある。ゆさぶられながら、チェット・ベイカーは「ひとり」になる。そばにひとがいるけれど、「ひとり」。これが、なぜか「スタジオ」に似ている。
 音楽は「和音」。一緒に演奏している人との関係で音が変わっていく。変わっていくのだけれど、変わりながら変わらないものがある。彼自身の中で動き始める「和音」にならない「音」があり、それが「和音」を独特にする。「個(孤?)」の不思議なあり方。
 父が録音したたった一枚のレコード。それを真ん中にして向き合うとき、ふたりの「音」は一瞬結びつく。けれど、離れていくしかない。離れていくとき、「結びつき」を感じると言い換えた方がいいかもしれないけれど。
 嫌いなシーン。クライマックスの、最後の演奏。オーディションがあるからニューヨークに行けない、と言っていた恋人がヴィレッジバンガード(だったかな?)に演奏を聞きに来る。聞きながら涙を流す。チェット・ベイカーが再びドラッグに手を出したことを音からわかってしまう。そして、去っていく。このときの「涙」が録音スタジオの「味が出てきた」という台詞と同じように、「意味」の押しつけ。窮屈な感じがする。「ひと」ではなく「場」の陰影だけで「音」の違いが出てくると傑作になるのになあ、と感じた。

 チェット・ベイカーの「音」に詳しい人にはおもしろい映画かもしれないが、音痴の私には「押しつけ」が多い映画に感じられた。
                      (KBCシネマ2、2016年11月30日)



 *

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そうかな?

2016-12-08 19:18:15 | 自民党憲法改正草案を読む
そうかな?
自民党憲法改正草案を読む/番外51(情報の読み方)

 2016年12月08日朝日新聞(西部版・14版)一面。「退位 特例法推す方針/有識者会議 今の天皇限定」という見出しで、天皇の生前退位問題の「予測」が書かれている。
 ポイントの部分の記事は、

退位を強くにじませた天皇陛下のお気持ち表明を受けて、政府が退位を可能とする法制化を図れば憲法に触れる恐れがあると判断。退位を「高齢化時代の天皇像」をめぐる普遍的な課題として捉え、退位の理由として「高齢化による退位」を強調する方針だ。

 これは4面の記事で再度強調される。「高齢化による特例 強調/有識者会議 退位違憲論に配慮」という見出しで一面の記事をほぼコピーしている。

天皇陛下のお気持ち表明を受けて政府が退位の法制化を図れば、「天皇の政治的権能を否定した憲法に違反する」との批判を受けかねない。そこで、有識者会議は「高齢化による退位」を柱に据えて、天皇のお気持ち表明とは切り離して理論構築を図る方向だ。

 さて。
 私は「邪推/妄想」が大好きだから、「天皇のお気持ち表明とは切り離して」に引っ掛かる。確かに8月8日の天皇は「象徴の務め」を語り、全国を訪問したことを丁寧に語った。その部分はとても魅力的なことばだった。
 だが、すでに何度か書いたことだが、私は天皇の「ことば」で何か所かつまずいた。なぜ、こんな言い方をするのだろうと思う部分がある。テレビで聞いて変だなと思い、新聞で読みなおしてさらに変だと思った。
 きょうの朝日新聞で話題になっている「高齢」に関してだが、天皇は2度「80歳を超えた」と言っている。誰もが知っていることを、わざわざ2度言っている。ここが、とても奇妙。
 だから、天皇の「ことば」は自発的なものではなく、籾井NHKの特報から始まる「圧力」によるものだと考えている。
 安倍が天皇の高齢を理由に「摂政」を迫った。それに対して天皇は「摂政ではだめ。天皇には象徴の務めがある」と拒否した。安倍は、この拒否をどう「乗り越え」、天皇を追放するか。いまの天皇は、とてもリベラル。安倍の政治と真っ向から対立している。天皇を除外しないことには「憲法改正」が進められない。
 有識や会議では「象徴としての務め」だけが「天皇の気持ち」と受け止められているが、「高齢化した天皇が退位する」という考えも天皇の「ことば」。「気持ち」ではなく「考え」。そうだとすると、

天皇陛下の「考え」表明を受けて政府が退位の法制化を図れば、「天皇の政治的権能を否定した憲法に違反する」との批判を受けかねない。

という論理が成り立つのに、誰もそれを言っていない。「論理構築」として奇妙ではないだろうか。
国民が感動した(同情した)天皇のことばの一部を取り上げ、一部を故意に隠している。私にはそう思える。安倍の視点で見るとどうなるのか、を考えて情報を読む必要があると思う。
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神尾和寿「三銃士」、大橋政人「吹き溜まり」ほか

2016-12-08 08:53:59 | 詩(雑誌・同人誌)
神尾和寿「三銃士」、大橋政人「吹き溜まり」ほか(「ガーネット」80、2016年11月発行)

 神尾和寿「三銃士」は10の詩群から構成されている。というのは私の読み違いかもしれないが。⑤がおもしろい。

新婚時代は

急激に運動不足になったように感じたため
夕暮れになったらキャッチボールをしようではないかと提案した

野球のことなんか全然知らないままに いいよと答えた妻
のことなんか全然
知りたくない
ままに

とっては投げ
とっては
投げの
おおらかで 泣きたくなるような時代であった

 特に「感想」を書きつらねることもないのだが。
 最後の「泣きたくなるような」というのは「笑いたくなるような」とどう違うかなあ、とふと考えた。
 私は笑いだしてしまったから。
 神尾は「泣きたくなる」のだが、私は「笑いたくなる」。「他人」というか、「人間」というのは、これくらい違う。神尾が「泣きたくなる」と書いても、私は「同情」しない。「わがまま」なのである。「あまのじゃく」なのである。
 だから、もし最終行が

おおらかで 笑いたくなるような時代であった

 であったなら、私は逆に「泣きだしてしまう」かもしれない。
 ちぐはぐで、行き違いがある。生きているというのは、そういうことかもしれない。そして、この「行き違い」こそが「共感」という「錯覚」かもしれない。
 私は「誤読」とひとくくりにしてしまうけれど。



 大橋政人「吹き溜まり」。

空っ風で
空の雲が
吹っとんだ

庭の落ち葉も
吹っとんだ

小さな庭が
少し
広くなった

落ち葉は
ブロック塀の隅や
犬走りの下あたりで
吹き溜まっている

枯れた身を寄せ合って
吹き溜まっていられる奴はいい

 ここまで読み進むと、何となく「枯れ葉」に「身」を重ねてしまう。「身」は大橋でもあるし、私でもある。大橋は、枯れ葉になって、庭に散った。「比喩」だけどね。しかし「安住の地」ではない。風が吹いて、吹き飛ばされて「あっ、庭が広くなった」なんて喜ばれるだけの枯れ葉。そういう「身」が「身を寄せ合っている」。ちょっとした「悲哀」。
 「吹き溜まっていられる奴はいい」は「波瀾」を含んだことばだけれど、うーん、吹き溜まりからはぐれた「一枚の枯れ葉」が大橋なのかなあ、などとかってに「悲劇」を想像する。
 私が、いわば「枯れ葉(落ち葉)」の年齢だから、そう読んでしまうのだろう。
 ところが、詩はここから急展開する。
 思わず、「えっ」と声をあげてしまう。

空は
いつだって
必要以上に広すぎる

囲いがないので
雲の
吹き溜まる場所がない

 うーん。確かに一連目は「空の雲」の描写からはじまるから、この最後の連は詩を閉じるにはふさわしいのかもしれないが、まさか「空/雲」にもどってくるとは思わなかった。一連目は「落ち葉」と「吹っとんだ」を導き出すための「序」だとばかり思っていたので、びっくりしたのである。
 で。
 私は、ここで神尾の詩を読んだときと同じように笑いだした。
 大橋のことばを笑ったのではなく、私自身を笑った。私の「思い込み」を笑ってしまった。
 こういうときも、「詩」を感じるなあ。
 「詩」は「思い込み」を裏切る、「思い込み」を破ってしまう、壊してしまう「ことばの動き」なのだろう。
 神尾の「泣きたくなる」が「なつかしくなる」だったら、きっと「ありきたり」と感じただろうなあ。
 神尾、大橋の「思い込み」の「破壊」の仕方は、しかし「破壊」というおおげさなことばはにつかわしくない。くすぐってみる、という感じかも。
 こういう詩を「ライトバース」と呼ぶ。(ほんとうかな?)



 「ガーネット」には8人の詩人が作品を書いているのだが、嵯峨恵子とやまもとあつこが「認知症」の親のことを書いている。そうか、そういう年代になったのか、と思った。
 高木敏次は、少し若い人かもしれない。詩とは全然関係のないことなのだが、ふと思った。その高木の「再現」。

地図の裏に空があれば
傘は持たない

 この書き出しはとても魅力的だ。けれど「空」が大橋の詩と重なり、「傘」が高階杞一の「雨、みっつよつ」と重なる。

雨が
恋人になった
その日から傘がさせなくなった

 たまたまそうなったのかもしれないが、不思議な「通い合い」が気になって、「感想」を切り離して書くのがむずかしい。
 一人の詩集なら「重なり」から「個性」のようなものを感じ取るのだけれど、複数の人のなかでことばが重なると、私は、書き手をつかみきれない感じになる。「同人誌」を読むのはむずかしい。

アオキ―神尾和寿詩集
神尾和寿
編集工房ノア
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