詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(34)

2019-06-23 10:08:24 | 嵯峨信之/動詞
雑草詩篇 Ⅱ

* (曙はその銀色の)

曙はその銀色のターバンをはずして
雪の沈黙の中から
今日 ある世界として現われる

 一行目の銀色は想像を裏切るが、二行目の雪によって「現実」になる。この「なる」を「ある」と言いなおして、三行目は書かれている、と私は読む。
 「或る」ではなく「在る」。
 「在る」と「現われる」が同時に書かれることは、「学校文法」からみれば「間違い」である。「学校文法」的には「あるひとつの世界」として「現われる」ということになるが、それでは「弱い」。「論理的」すぎてつまらない。「現われた世界が、在る」とことばを倒置させて読むのでもなく、いま「在る」世界が「在るという姿」そのままに「あらわれる」。むき出しの「在る」を体験するのだ。







*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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三木清『三木清全集』16

2019-06-22 22:43:29 | その他(音楽、小説etc)
三木清『三木清全集』16(岩波書店、1985年11月06日、第2刷発行)

 少し気になることがあって『三木清全集』16を開いてみた。『時代と道徳』が収録されている。1935年03月19日から翌年11月24日まで、読売新聞夕刊に週一回書かれた時評である。
 しばしば現代の状況が「戦前の状況」に似ていると言われる。「政治状況」を指していうことが多いのだが、そうではなくて「全体の状況」が似ていると思う。私は「戦前の状況」を具体的には知らないが、現代の状況について考えるとき、ああ、これはどこかで読んだことがあるような、と思うのである。どこで、だろう。私の持っている本のなかでは、三木清くらいしか思いつかなくて、ふと開いてみたる。
 「東洋人に還る」(12月22日)には、こんな文章がある。(旧字は現在の字体で代用。一部、表記を変えたものもある。他の文章も同じ)

 現在、大多数の学生の脳裡に去来するのは何よりも就職問題である。しかも野心的な成功の望みを絶たれた彼等は、むしろただ、無意識的にせよ、伝来の明哲保身イデオロギーに助けられて、思想問題や社会問題の如きに深入りする危険を避け、先づ就職だと考へるのである。

 これは「東洋人に還る」というテーマからは少し脇道にずれた部分なのだが、だからこそ、何やら恐ろしい感じがする。
 現代の若者は、正規社員になろうと必死である。非正規雇用では将来がどうなるかわからない。もちろん野心的な若者もいるだろうが、野心よりも先ず保身。
 年金問題(年金だけでは2000万円不足する)などに、なぜ若者が怒らないのかという意見がネットに書き込まれている。書き込んでいるのは、若者ではなく中高年、老人である。理由は、簡単なのだ。そういうことを書き込んで、安倍批判(権力批判)をしていると安倍に知られたら、正規雇用の道は閉ざされるのではないか、と心配している。そういう「危険」を犯したくない、と判断している。

 「暗示の影響」(01月14日)は、「人心が不安焦燥の状態にある場合、暗示の力は特に大きい」と書いたあと、こんなことを書いている。

 暗示の行過ぎや穿違ひは、暗示が権力者から与へられる場合に特に多いであらう。とりわけ平生あまり独立の判断力を働かせることができないやうな状態におかれてゐる者においてはそれが多いのである。例へば俗吏根性といふのがそれで、権力者の一言によつて種々の暗示にかかり、その心をいろいろ忖度して行過ぎたもしくは穿違へたことをして大衆に迷惑を及ぼすことが少くない。

 まるで「森友学園」事件の佐川のことを言っているみたいではないか。「忖度」ということばまで出てくる。

 「公衆の解消」(03月31日)は、「公衆は解消した、もしくは解消しつつある」という不気味なことばではじまる。

 公衆とは与論といふ知的表現をもつたものである。与論論と公衆との関係は精神と身体の関係である。近代においては与論を作り、与論を代表し、与論を再生産するものは主としてジャーナリズムである。だが与論形成の根底にはつねに談話がある。いかに新聞雑誌が発行されても、ひとが談話しないならば、それは精神に持続的な浸透的な作用を及ぼすことがないであらう。

 報道や言論の自由が甚だしく制限され、公共性をもたぬ流言蜚語が蔓延し、民衆の政治的関心といふものがそのやうな流言蜚語によつて刺戟されてをり、そして彼等の意見が与論として表現される公共の場所をもたないとき、公衆は解消する。

 談話の公共性が存しないとき、ジャーナリズムが本来の機能を発揮し得ないとき、公衆或ひは大衆の公衆性は失はれる。それは何を結果するであらうか。深く考ふべき問題である。

 「談話」の定義がむずかしいが、私は簡単に「直接的な対話(おしゃべり)/ことばのやりとり」と読んでおく。いま、ネットではさまざまな意見が書かれている。しかし、それは「口語体」で書かれていても、おしゃべりでも、対話でもない。単なる言いっぱなしだ。しかも、同じ意見の持ち主が寄り集まっているので、反対意見がない。つまり、おしゃべりを通して、それぞれの意見が変化していくということがない。対話(おしゃべり)を通しての意見の変化を「与論をつくる」「与論を再生産する」と三木はとらえていると思うが、そういう動きは現代の日本、現代のジャーナリズムにはない。
 政権と記者クラブの「記者会見」を見ていても、そこには「質問」(政権から、言いたくないことを聞き出す)の工夫がなく、単に政権の言ったことをそのまま聞くだけである。「大衆のことば」を代弁し、「大衆」として「談話」することがない。

 読んでいると、一冊丸ごと転写したくなる。そういう本である。ぜひ、読んでみてください。そして、現代がいかに「戦前」と似ているかを、社会全体の動きとしてとらえる手がかりにしてみてください。




*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(33)

2019-06-22 09:49:03 | 嵯峨信之/動詞
* (その地図は)

その地図は色も塗つてなければ海と空と陸地との区別もない
地名も何も記入されていないが
川だけが名づけられている

 一行目は非常に印象的だ。「地図」とは「地」の「図」だから、ふつうの地図には「海と陸地」の区別はあるが、「海と空」「空と地」の区別はない。空を含めた地図は存在しない。ふつうは存在しないものが、あたかもあるかのように書き出されている。
 これは、しかし、あくまでそれにつづく二行を導くためのことばである。ありえないこと、つまり非論理的なことを書いているが、そこには「非論理」という論理がある。論理を刺戟するものがある。つづく二行は、だから、論理がどんな形で存在しているかを見落としてはいけない。
 「地名」は「川」ということばと出合い「名づける」という動詞を呼び覚ましている。「名づける」とき、すべてが存在し始める。
 ここから一行目へもどると、空も空と名づけられたときから存在することになる。名づけたものにとって、それは省略できない何かである。だからこそ、空をふくめた「地図」が存在してもいい。
 この川は「白い川」と呼ばれている。その最終行。

白い川に説明はない

 「説明」とは論理のことである。
 「名づける」という動詞は論理を超越している。絶対的な「行為」であることを、この最終行は暗示している。

 (途中を省略してあるのでわかりにくいかもしれないが、私は、詩の「解説」を書いているのではないので、こういう書き方になる。私の書いていることばは、あえていえば「註釈」だが、それは私自身のための註釈である。私のことばを動かすための註釈である。他人と共有することを目指してはいない。むしろ他者を拒むためのことばである。わたしはそれを詩と呼ぶことがある。)





*

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田中庸介「涙坂」

2019-06-21 16:52:06 | 詩(雑誌・同人誌)
田中庸介「涙坂」(「ミて」146、2019年03月31日発行)

 田中庸介「涙坂」は、こんなふうに始まる。

三鷹台の駅の裏側の道を辿っていくと
何だか道がよくわからなくなるのは昔と同じだった。
タクシーが偶然そっちを向けて停まったものだから、
ぼくらは九十四歳のじじを乗せて駅裏のハンバーグ屋を出発した。
夜の闇の中、
神田川に沿ってくねくねと道は続く。
あの橋をわたりあの坂を登れば何とかなるかと思ったけれど、
思ったよりもそっちの道は狭くて、
運転手は頭に血がのぼった。
するとじじが
(あそこの店は味がよいね、実に味がよかった
と、突然大声で言った。

 いまはやりのわざと文脈を叩き折ったような文体ではなく、自然な「散文」のリズムが読みやすい。私は自然な「口語」の方が、ことばの運動を正確に伝えてくれると信じている。「じじ」というのは田中からみての「じじ」ではなく、田中のこどもからみての「じじ」である。つまり田中の父であるのだが、この「じじ」という「口語」の選び方自体が日本語の肉体の自然を反映している。ことばの肉体の自然が、田中の詩のなかにあると言う点も、私は好きである。
 この「自然」な書き出しのなかでは、「偶然」と「突然」の出合いがとてもおもしろい。これが「必然」に変わる。その過程は、次の引用までのあいでに、それこそ「散文(事実の積み重ね)」として書かれているのだが、そこは省略して。

無明の中を進むタクシー、
そのヘッドライト、
じじとかかとおれと娘、
おれたちはまだ、あのタクシーに乗っているんじゃないかと思うよ
ねえ、三鷹台の駅前のハンバーグ屋に行ったねえ、
パプリカのかかった温製ポテトサラダを みんなして 食べたよねえ。
そして、あそこの店は味がよい、実に味がよかった、と言ったよねえ。

 「おれたちはまだ、あのタクシーに乗っているんじゃないか」というのは「事実」ではなく「思い」であるのだが、「思うよ」の「よ」ということばによって、家族の「事実」になる。そしてそれが「よねえ」の繰り返しによって共有される。
 このあと詩は、タイトルの「涙坂」に向かって加速するのだが、その加速前の、この一連が、私は特に好きである。
 「意味/涙坂」になる前の、ことばの肉体がある。「かか」とか「あそこ(の)」とかのことばの選択も、自然な肉体が持っている強さを教えてくれる。

 芝居を見ていて、うまいなあと感じる役者の台詞回しは、「ことば(セリフ)」が動く前に、肉体が動く。肉体を「セリフ」が追いかけ、ストーリー(意味)になる瞬間だが、この「無明の中を」から始まる連には、それに通じる「ことばの肉体」がある。





*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(32)

2019-06-21 10:00:24 | 嵯峨信之/動詞
* (友情が重さをますのは)

塩を大きな袋に詰めながら
ひとりの男が唄つている

 唄は男の仕事(塩を詰める)と関係があるか。たぶん、ないだろう。「作業唄」ではなく、男がふと思い出す唄を思う。
 「唄う」という動詞は、どう言うことだろう。
 もし唄わずに、おなじことばを話していたら、この男はとても風変わりに見えるだろう。
 唄う人は人を安心させる。
 唄うというのは、その人の何かを解放すると同時に、聞く人にその解放を伝えるものかもしれない。
 しかし、そういう感想を裏切るように、この詩は、こうつづいている。

魂の外に出ようとするとそこにながれているのは死の唄だ

 いつもとは違い「魂」と嵯峨は書いている。
 「魂しい」と「魂」を嵯峨はつかいわけているようだ。
 概念としての「魂」、嵯峨の実感としての「魂しい」と考えることができる。
 概念の外には「死」が存在する。死んだあと、肉体を「魂」が抜け出すということを人は言うが、肉体をのがれた「魂」は「肉体の死」、あるいは「死の肉体」を目撃することになるのか。
 私は「魂」の存在を実感したことがないので、こういうことについて書くのは、どうもこころもとないが、嵯峨は「魂」を「死」と結びつけ、「魂しい」と「生(いのち)」と結びつけているのではないかという気がする。
 「魂しい」という書き方をすれば、たぶん「死」はこの詩に登場しなかっただろう。つまり、違う詩になっていただろう、と思う。
 単なる「直感」だが。





*

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「谷川俊太郎の世界」

2019-06-20 10:01:34 | 現代詩講座




朝日カルチャーセンターの講座(一部)を冊子にしました。
受講生の作品も掲載しています。

オンデマンド出版です。
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定価は1750円ですが、別途送料が必要です。

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谷川俊太郎の世界(7-2)

2019-06-20 08:01:32 | 現代詩講座
谷川俊太郎の世界(7-2)(朝日カルチャーセンター(福岡)、2019年06月17日)

 参加者は青栁俊哉、池田清子、井本美彩子、香月ハルカ、萩尾ひとみ。

井本美彩子

午後七時のニュースが始まったころ
腹のふくれた巨大な蜘蛛が
暗がりから
じっとこっちを見ていた

「もうすぐ子を撒きちらすのよ」
すこしばかり眉間に皺をよせて
母がつぶやいた
「昔からそうなんだ」
父があきらめたように言った

撒きちらされた子どもたちが
夜の中泳ぐ
口から無数の糸を吐いて
どこまでも夜に乗る
わたしたちをもう見つめるだけの
あなたが たたずむ その夜に
糸を吐く
ねえ またいつか会えますか
わたしも いつかまで 知っていた
あの夜の中

そして今日も
午後七時のニュースが始まった
というのに
あの巨大な蜘蛛は
もういない

「この前はありだったなあ、今回は蜘蛛。子を撒きちらすんですか?」
「蜘蛛の子を撒きちらすということばがある」
「撒きちらします。すごいですよ」
「私の感性がついていかないのだけれど、実際に蜘蛛の子が散るのを見たことがあるんですか?」
「二連目までは、実際のことです」
「ねえ またいつか会えますか、というのは誰が誰に会うんですか」
--作者に聞くのではなくて、考えましょう。誤解かもしれないけれど、その誤解なのかに新しい詩があるかもしれない。
「蜘蛛ですかね。またこの蜘蛛に会いたい」
「自分の心の中にある好きな人」
「私も、ここの部分がよくわからない。わたしも いつかまで 知っていた、というのは何を知っていたんだろう」
「いつかまで、というのも何か不思議な表現」
--ふつうは何といいます?
「そのときまで、かな」
--井本さん、何かいいたいかもしれないけれど、もう少し待ってくださいね。この人たち、いったい何言ってるんだろうという感じかもしれないけれど。(笑い)この二行について考えるおもしろいと思う。
 ちょっと視点を変えて、その前の、あなたが たたずむ その夜にの、あなたというのは誰だろう。そこから考えてみましょうか。あなたのまえに、蜘蛛、母と父と、書かれていないけれど私が登場している。あなたは、母? 父?
「もう見つめるだけの、とあるから、あなたは去っていくんですか」
「蜘蛛かな。でも、感想のなかで出てきた恋人かもしれない、という気もしてくる。」
「蜘蛛に象徴されている何かかもしれないけれど」
「蜘蛛の子はまだ生まれて。まだ生まれないまま死の世界からあらわれてくるもの」
--あ、すごいなあ。私は、蜘蛛を見たときの、過去の私、という具合に読んだ。母や父といっしょに蜘蛛を見たときの私にもう一度会えるかな、と。そのときの私は蜘蛛の子を散らすということを知らない。けれど父や母は知っている。それを聞いて、ああ、そうなんだと思った私。小さいころの一瞬に会える。子どもにはわからないけれど、大人は知っている世界がある。それを知って、ドキドキした感じの子ども時代の私、と読んだのですが。最後の連のは、あの巨大な蜘蛛はもういないと書いてある。蜘蛛だけではなく、あの蜘蛛を見た私も今はいない。過去になった、と読んだのですが。
 で、井本さんは?
「あ、聞かないと言ったのに」(笑い)
「蜘蛛は座敷の暗がりに来ている。座敷というのは、小さいときの感じでは、家のほかの部屋とは違う空間という感じがある。その座敷に蜘蛛の子が散らばっているイメージがあって、その座敷には、いなくなった人たちが佇んでいる。そのなかで祖先、先祖のこととかを思い出している。座敷というのは、死んだ人たちがいると同時に、生まれてくる人がいるという感じ」
「すると、いつかまで知っていた、というのは?」
「小さい子どものときまでは感じとれていた座敷の感覚」
「なるほど」


ゆめ 香月ハルカ

ももいろのはなふさが
あおいそらに
ふっくらとたれている

しらぬまにうえられたやえざくら
たびだった かれに
ひとめみせてあげたい

ずっとおもいつづけていたら
ゆめで であえた
でもやえざくらはみえなかった

ゆめはふしぎなじかん
どこにもすがたはないけれど
おもいがつながることがある
ぼんやりめざめても
からだのどこかにのこっている
ゆめはねむりのなかのむげんのせかい

「四月に最初の詩を書いたとき、ちょうど庭には八重桜が咲いていた。そのときに書きかけていた詩です。夫を亡くして十六年たっている。母が残した広い庭があって、母が亡くなって、夫が退職したあといろいろ手入れをした。そのなかに桜があった。ことしは特にきれいに咲いた。そのことを書いてみたくて書いた。夢で実際に夫に会って、夢というのは不思議だなあ、と」
「ゆめはねむりのなかのむげんのせかい、というのはいいですね」
「何か思っていると、夢に出てくるということはありますよね」
「こういう夢を見たい」
「夢で会いたいなあと思って」
「ずっとおもいつづけていたら、ゆめで であえた、というのがいいですね」
「おもいがつながることがある、というのも」
「からだのどこかにのこっている、というのが印象的。私はときどき前の日に見た夢が次の日に寝るときに余韻として残っているときがある」
「つづきをみます?」
「そういうことではないのだけれど、何か残っている感じがする」
「でもやえざくらはみえなかった、というのが気にかかった」
--私も、やえざくらはみえなかった、が印象に残った。彼に会えたけれど、やえざくらはみえなかったというのは、完璧ではないということなのだけれど、だからこそ逆に真実だと感じさせる。また、だからこそ夢という感じもする。夢のもどかしさというか、リアルな感じがいいなあ、と思った。両方ともかなえられてしまったら、実際に見た夢ではなくなるような、頭で作り上げた夢のような。
 もうひとつ、からだのどこかにのこっているもとても印象的で、好きな行なのだけれど、ふつうは夢はどこに残っているといいます?
「私は追いかけられたりする夢が多くて、残ってほしくない。(笑い)こわい夢は、記憶に残っている」
「どこって聞かれたら、頭かな。頭じゃなくて、からだのどこかというのは素敵な表現ですね」
「全身、かな。体の芯、かな」
--どこに残っている。なかなか特定するのはむずかしいですね。そういう特定できないことを特定できないまま、からだのどこか、と書くということも大事なことかなと思う。わからないものをわからないままにして、それがことばとして書かれていると、とても印象的になると思う。池田さんの書いた「穴」もそうですね。ことばとしてわかるけれど、何かわからないものを含んでいて、それが書かれていると刺戟的。言われてみて、はじめてわかるようなところがあると、ああ、ほんとうのことを書いているな、詩だなあと感じる。自分では言えないものが書かれている、そのことばに出会ったとき、私は、ここが詩なんだなあと思う。
「全部ひらがなで書かれているもいいですね」

子犬 萩尾ひとみ

あの日、何匹かいた子犬の中から
一番おとなしそうな君を選んだ
でも、大人しかったのは一晩だけ
次の日から、君は超おてんば
柴犬の雑種だと信じていた家族をうらぎり
君はしっかりテリア?の風貌

君の目には、いつもぼくが映っていた
僕は、よそ見ばかりしていたのに
君は、毎日、僕の帰りを待っていてくれた
君は幸せだったかい

私はあなたよりずっと早く歳をとって
私の目にはもうあなたは映らない
私の耳にはあなたの声は届かない
それでも、私はあなたを感じています
全身であなたを感じています
あなたのことが大好きだから

「私、きょうはこれないかなあ、と思うくらい、犬が危ない状態なんです。でも、きのうの夜、何か書いておこうと思って」
「超おてんばの超がおもしろい。僕は、よそ見ばかりしていたのに、も印象に残る」
「愛情がいきいきと伝わってくる」
「三連目で私が出てくる。その前は僕。大人になった私が子ども時代に死んでしまった犬、かわいがっていたことを思い出しているのかな」
「三連目が、よくわからない。逆かなあ」
--逆というのは?
「犬は人間より早く歳をとりますね。だから、私があなたより早く歳をとるというのが、逆に感じる」
--あ、いま、とても大事なことを言ってくれたと思う。ちょっと、ほかの人の感想を聞きたいのだけれど、一連目に君、二連目に僕、三連目に私が出てくる。僕は、誰だとおもいます?
「飼い主」
--三連目の私は?
「飼い主」
「私も飼い主だと思う」
--みなさん、私は飼い主?
 主語を逆に考えてみるとどうなりますか? 一連目の君は犬。二連目の君も犬。僕は飼い主。僕になっているけれど、これは萩尾さんが僕になって書いている。三連目の私は主語が交代していて私が犬であなたが飼い主。そう読めませんか? 私が犬で、あなたと書かれているのが僕、つまり飼い主。そう読むと、犬(私)は飼い主(僕)よりずっと早く歳をとる、というのは犬と人間の関係になる。
「あ、やっとわかった」
--一連目、二連目は人間が主語になっているけれど、三連目は犬が主語になっている。「そんなに、わかりにくかったですか? すぐわかると思って書いたんだけれど」
--私もすぐわかるだろうと思っていたんだけれど。それでちょっと長々と説明してしまったんだけれど。
「聞けばわかるんだろうけれど」
--あ、作者に聞いちゃおもしろくないんですよ。やっぱり、違っていてもいいから考える。たぶん、よくわからない部分、ひっかかった部分に、作者のいちばんいいたいことが書いてある。その人にしか書けないことだから、ほかの人にはわからない。そう思って読むと楽しいと思う。そのときに、そこに書かれている「動詞」を中心にして読むと、「動詞」にあわせて自分の体が動いていくので、ことばではなく体でそのひとのことがわかる。それで、この詩の場合、私を犬と考えるだけではなくて、犬になってください。そうすると、最後の二行がよくわかる。あなたのことが大好きだから、という感じがわかる。

次回は7月1日(月曜日)午後1時-2時30分
1回かぎりの飛び入り受講もできます。
問い合わせは092・431・7751 朝日カルチャーセンター福岡まで。







*

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(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(31)

2019-06-20 00:00:00 | 嵯峨信之/動詞
* (このように細々と)

その音がやむと
大空のはてを
僧侶の一行が遠ざかつていくのが見えた

 「音」と「イメージ」の関係が印象的だ。
 音が「やむ」とイメージが「見える」。しかも「見える」ものは「遠ざかつていく」。つまり消えていく。音とイメージは、一瞬のうちに交代し、「消える」という動詞のなかでひとつになる。「消える」という動詞はここには書かれていないのだが。




*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメールでも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
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谷川俊太郎の世界(7-1)

2019-06-19 11:26:17 | 現代詩講座
谷川俊太郎の世界(7-1)(朝日カルチャーセンター(福岡)、2019年06月17日)

 今回は作品を持ち寄っての「合評会」。参加者は青栁俊哉、池田清子、井本美彩子、香月ハルカ、萩尾ひとみ。

あじさい 青栁俊哉

眠りのほとりに 
夜明け前からはげしい雨がちる

青くそまっていた庭のあじさいが枯れて
花も茎も葉も 
おりかさなるように砂地にたおれている
雨にうたれ 黒くちいさくくずれていく花に
指をふれる うすくもろい殻( から) のよう 
花のたましいの襞( ひだ)
侵すことのできない神聖な空間を身におびている

あじさいの花は来年もさく
その花と 黒い花はおなじものだ

あじさいの中へしずかにながれ
きえていく雨の朝
くりかえす花の音をきいている 

「格調が高い。自分のなかにはないことば、語彙力のすごさに圧倒される」
「ふつうはあまりつかわないことばが、きちんとつかわれている」
「書かれている世界が深い。花のたましいの襞/侵すことのできない神聖な空間を身におびている、という行がすばらしい。うすくもろい殻のよう、が、花の魂と言い換えられている。表現、比喩が美しい」
「あじさいの花は来年もさく/その花と 黒い花はおなじものだ、というのが印象的。黒く枯れたあじさいと、来年も美しい色に咲くあじさいがおなじものというところに、ずーんと来た。いま、あじさいが盛りですね。私はきれいなときのあじさいは見ているけれど、黒く枯れたあじさいは見ていない。青栁さんは、枯れたあじさいに目を向けているところがすごい。あじさいというタイトルを読んだとき、色鮮やかなあじさいを思ったので、衝撃が大きかった」
「二連目の、黒くくずれた花が、神聖な空間と結びつくところに感動した」
「最後の、くりかえす花の音が印象的だけれど、少しわからない」
--何だと思います?
「雨の音が関係しているのかな」
「雨が花におちる音」
「意味はわからないまま、花の音はすてきだなあと思っただけで、それ以上は考えなかった。でも、最後の三行を読んだら、静かに流れていく雨の音なのかなあ、と思った」
「あじさいの花が咲いて枯れて、また咲いてかれる。過去からつづいているサイクルのようなもの」
--青栁さんがどういう意味を込めて書いたのかは別にして、私も、花が咲いて枯れるという繰り返しだと思ってみ読ました。三連目にはくりかえしということばは書かれていないけれど、来年もくりかえし咲く。その書かれなかったくりかえしが、最後にことばになってでてきいているのかな、と思った。
 ちょっと前後するけれど、一連目の、眠りのほとりのほとりということばのつかいかたはどうですか? ふつうにつかいます?
「聞けばわかるけれど、自分からは言わない」
「なんとなくわかるけれど、はっきりとはわからない」
--そういうことばに出会うと、詩だなあと感じません? 知っているけれど、自分の知っていることと少し違う。新鮮な感じがする。あ、そうか、と思う感じ。
「雨がちる、もそうですね。花が散るとはいうけれど、雨がちるとは、私は言わない」
--散る、はどういうことだと思います?
「はじめて聞く表現ですね……」
「雨がおちる。落ちるは、ぽとんと落ちる。でも、散るは、広がる感じ」
「散るは、一点ではなく、広い範囲を感じさせる表現」
「はげしいと結びついている」
--、落ちるよりもちるの方が激しい感じがしますね。雨そのものが散るのではなく、花びらにぶつかって、それから散る。そこから、雨の激しさが見える。
青栁「あ、私が間違えています。降ると書いたつもり」
「えっ、いまさら」(笑い)
「いい間違いじゃないですか。発見があるというか」
--降るよりも散るの方が、いろいろ考えさせられるでいいんじゃないですか? 詩は不思議で、いまでこそ原稿はたいていワープロで書くので誤植が少ないけれど、活字の時代は書く人と活字を拾う人が違うので、間違いが多かったかもしれない。でも、その間違えた方がかえって刺戟的ということもあったと思う。
「想像が膨らむ」
--読者がかってに読むというのもいいかもしれない。(ということで、「完成形」は「ちる」のままに落ち着きました。)青栁さんは、みなさんの感想を聞いてどう感じましたか。
「くりかえすということばで永遠性をあらわしたかったので、言いたかったことはつたわったかな、と思いました」

まだ詩は詩えない 池田清子

小さい頃 詩人になりたかった
若い頃
根は明るいのに 暗いと思おうとしていると
友達から言われたことがある

うれしいことがあると
こんなに幸せでいいのだろうかと悩む

悩んでいなければ
自分が自分でなくなるような気がしていた

悩みを自分の頭の中で作り出し
そこに生活はなかった

結婚をすることは
生活することだった

生活をする中で
詩を詩うことはなかった

悩みの中にいた頃は
非論理の世界であり
詩の世界に身を置けた

今はまだ
詩を詩えない


はじめてのきもち   池田清子

はじめてのきもちで
むねがいっぱいになって
どうしていいかわからない

つれあいがなくなって
その場所が すっぽり穴のようになって
何を入れても
何を置いても
何を埋めても
あいたまま

穴に布をかぶせようか
息ができるように紙をかぶせようか
紙を破って出てきてくれるかしら

そうだ
穴ごと見えない麻袋に入れて
持って歩くことにしよう

それがいい

「まだ詩は詩えないは五月につくった。はじめてのきもちは、谷川さんの三行を借りて、つづきを書いてみた。六月に書いた」
「前回、ご主人がなくなったという話をきいたことを思い出した。はじめてのきもちの、最後の、それがいい、がじんと来る」
「穴に布をかぶせようか、からの後半が切ないですね」
「二篇つづけて読むと、生活の中で詩は詩えないだったのが、はじめてのきもちで、詩になっている。そこに、ほっとするというか、救われたような感じがする」
「気持ちがそのまま素直にことばになっていて、詩の世界へはいっていきやすいなあ、と感じた」
--ことばというのは不思議ですね。そこにどんなに悲しいことが書いてあっても、それがほんとうのことなら、そのことばのなかへ入っていき、こころが落ち着く感じがする。自分が感じていることを確かめて落ち着くのかもしれない。共感がひとを落ち着かせる力になるのかもしれない。
 二篇の感想をいうと複雑になるかもしれない。まず、「詩は詩えない」の感想から語りましょうか。
 私の方から質問します。詩人になりたかった、と書くとき、池田さんは詩人をどんな人間だと感じていると思いますか。詩の中に書いてあることばを使って説明すると。
「非論理の世界の人」
「結婚生活に追われて、詩を書けないんですよね」
--詩ということばを聞くと、どういうことを思いますか?
「自分とは違う世界。詩は、自分とは違う世界のことを書いてある」
--一連目に、根は明るいのに 暗いと思おうとしていると書いてあるけれど、明るいのが詩人? 暗いのが詩人?
「暗いのが詩人」
--えっ。(笑い)確かに池田さんはそう書いてるんですが。池田さんにとっては、詩人というのは暗い人なんですね。明るく振る舞うと詩人じゃなくなる。詩人になるためには悩まなくてはいけないだと思っているかな?
「生活のなかでも悩むことはあるし、思いめぐらすことはあるので、悩みを頭の中で作り出しからあとは、ちょっと不思議だなあと感じた。暮らしの中で忙しいだろうし、いろいろなことに出会うので、優雅ではいられないということなのかもしれない。でも、結婚する前は、そうではない世界もあったんですよね」
--終わりから二連目は、結婚する前の世界ですね。
「最後の二行は、どういうことですか」
「つながりが、ちょっとわからない」
--一連目に、明るい、暗いが出てくるけれど、最後の連の詩は、明るい詩かな、暗い詩かな。
「一連目は小さいときのこと」
「今はまだ、ということは、もうすぐ詩えるようになるってこと?」
--それを考えましょう。
「まだ、気持ちの余裕がない」
--私の考えを言ってしまうのもあまりよくないとは思うのだけれど。この詩のなかには悩むということばが何回か出てくる。悩むというのは暗いこと。悩みはたいてい非論理。悩みと非論理と詩は池田さんの中ではかたく結びついているのではないか。同じようなものだと読めると思う。それで、とてもおもしろいのは、悩みを頭の中でつくりだしという表現。ふつう、悩みとつくりだすものじゃなくて、どこかから突然やってくる。解決しなければいけないのが悩み。この、悩みを頭の中でつくりだしにいちばん近いことばは何だろう。
「暗いと思おうとしている」
「こんなに幸せでいいのだろうかと悩む」
「悩んでいなければ、自分が自分でなくなる気がしていた」
--たぶん、その二行を言いなおしたのが悩みを頭の中で作り出すということろうと私も思います。それはわざと暗くなろうとしているとも読める。
 ふつうは悩んでいると自分が自分でなくなる、なんでこんなことを悩まなければいけないんだと思うものだと思うけれど、池田さんは逆に書いている。そこに、池田さんのほんとうに思っていることがあらわれていると思う。
「悩みから、抜け出したいと、ふつうは思いますね」
「悩むというのは、いやなことばっかりじゃないですね」
「若いときって、悩まなくていいことになやむっていう、面倒くさいようなところもありますね」
 詩は、池田さんが書いていることとは逆に、明るいもの、夢を与えてくれるものととらえる考え方もある。一方で、詩は暗くて、ふつうは考えないようなことを、さらに暗く考えるものという考えることもできる。池田さんの詩を読むと、明るくみんなと騒ぐんじゃなくて、沈思黙考というか、それこそ孤独で、ひとりで悩むのが詩と考えているのか、と私は読みます。
 でも、結婚すると、忙しくてそういうことをしている時間がない。生活が悩みを消してしまう。悩んでいる時間を与えてくれない。雨が降ってくれば、宇宙のどこから雨が降ってくるかと考えるよりも、洗濯物をとりこむとか、そういう具合にふりまわされる。悩みを、もっと深めていく、たとえばドストエフスキーのようなことばにまで育てていく時間がなかった、と私は読みました。
 最後の二行は、まだ生活が忙しくて、悩みを悩みのまま抱え込んでいる時間がないということなのかな、と読みました。それで、さっき指摘のあった、悩んでいなければ、自分が自分でなくなる気がしていたというのは、とても興味深い二行だと思った。ふつうは悩んでいるときというのは、悩みたくない、悩みのために自分が自分でなくなると思う。それを逆に言っている。そこに真実があると思う。
 今はまだ、詩を詩えないというのは、自分の悩み(思考)に没入できない。まだ生活に追われている部分が多い、と書いているかな、と思って読みました。
 で、いまの詩にも「悩み」は書かれているのだけれど、もっと「悩み」というか「考えていること」を自分のことばで書いてみたのが、もう一篇の詩「はじめてのきもち」になるかな。ことばで、自分をひろげていく。
 この作品については、どんなことを感じましたか?
「前の作品とつながっている感じ。五月の気持ちと、六月の気持ち。ご主人を亡くされたのだけれど、そこから次のステップに進もうとしているということを感じた」
「前回、自分のことを語ったので、書けたかなあという気持ちはある」
「二連目までは私にも書けるかなあと思うけれど、三連目からはすごいなあと感じた。布をかぶせようとか、紙をかぶせようとか、そういう表現が」
「穴をこんなふうに表現できるのがすごいなあ。穴を見えない麻袋に入れて持ち歩くというのは、切実な感じがする」
「最後の、それがいい、がとてもいいですね」
「三連目がもどかしいというか、葛藤を感じる。布をかぶせよう、息ができるように、出てきてくれるかしらという動きの中に」
--いま、もどかしいということばがつかわれたんだけれど、この三連目、出てきてくれるかしらというのは何が出てくるんだろう。
「亡くなったご主人をぱっと思った」
「私もそう思う」
「具体的には考えなかったけれど、自分が生きていることの根本的なものという気がします」
--池田さんの人生について何も知らなかったと仮定して、この三行だけを読んだとしたら何が出てきますか?
「穴」
--穴ですよね。それがポイントですね。穴って、どういうものですか。
「何もない」
「比喩ですね」
--比喩ですね。何の比喩なんだろう。
「ご主人に対する恋心」
--それがぽっかりあいている。何もない。「ない」ものを、穴ごと見えない麻袋に入れてという表現になる。「ない」けれど、池田さんは「ある」と感じる。この矛盾のようなものが、さっき感想に出てきた生きていることの根本的な何かというものにつながっているのだろうと思います。その「ない」ものを「ある」と感じて、持ち歩くというのはとてもいいなあ。
「やっぱり、小さいときから詩人になりたかったから、こういうことばが出てくるんですね」
「とてもいいですね」
--最後の部分には、ことばでしか言えない何かがあると、切実に感じる。
 それから、私は、最後の部分を「そうだ/それがいい」ということばで挟んでいるのがとてもすばらしいと感じました。詩を書き慣れているというか、詩にすれてしまっていると、たぶん「そうだ/それがいい」は書かないと思う。省略して、穴ごと持って歩くを独立させて、読者の視線をそこに引きつける。読者に、考えさせる。
 でも、詩を書き初めの頃は、読者のことなんか考えない。自分のことばを追いかけるのに手一杯。その真剣な感じの強さが「そうだ/それがいい」に溢れている。ことばが浮いていない。実感があって、いいなあ、と思う。
「私だったら、心臓に穴があいているとか、そういうありがちな表現になってしまう。そうならずに書いているところがすごい」









*

評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
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オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

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嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(30)

2019-06-19 00:00:00 | 嵯峨信之/動詞
* (文字板の上を)

文字板の上を這いずりまわる昆虫
虫たちの小さな出合い 別れ
司会者が笑いながらその時刻を空に書いている

 「司会者」とは誰だろうか。何の「比喩」だろうか。
 私は「太陽」を思い浮かべた。「時刻を空に書いている」。こういうことができるのは太陽だ。そして「時刻」は「正午(真昼)」を想像した。いちばん強い光が虫たちの影をいちばん小さくする。裸の虫たちが出合い、別れる、その瞬間を想像した。

 「這いずりまわる」というのは、私の耳には非音楽的に響く。けれど、そのあとの光景を「真昼」ととらえると、風景は一気に「絵画的」になる。そうして、そのあと明るい「笑い」が広がる。



*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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野村喜和夫『薄明のサウダージ』

2019-06-18 12:09:00 | アルメ時代
野村喜和夫『薄明のサウダージ』(書肆山田、2019年05月20日発行)
薄明のサウダージ
野村 喜和夫
書肆山田


 野村喜和夫『薄明のサウダージ』。一篇だけの感想を書くことでは詩集の感想を書いたことにならないのはわかっているが、一篇だけ引用する。いや、一篇の一部を。

かつて
すべては象であった
と模造の象のうへで喚いてゐる

 「模造の象のうへで喚いている」は「事実」であるかもしれない。しかし「かつて/すべては象であった」というのは、「事実」であるとは言えない。「すべて」が「象」であるとは思えない。「象」以外にもトラや犬もいるだろう、草や木もあるだろう、人間だっているだろうし、家だってあるだろう。それら(すべて)は「象」ではない、と思う。
 もし書き出しの二行が「事実」であるとするならば、そこには前提がいる。

かつて
すべて(の象)は(ほんものの)象であった
(つまり、模造の象はいなかった)
と模造の象のうへで喚いてゐる

 と、ことばを補えば、最初の三行は「論理的」になる。野村は「でたらめ」を書いているようであって、実は「論理的」にことばを動かしていることになる。
 これが、きょう、私が書きたいことである。
 「論理的」というのは、ただし、少し(かなり)説明がいる。ふつうの「論理的」とは違うからである。
 詩の続き。

あれはだれか
雲の二乗と二倍の雲の和は
象であつたし
女を二乗して三倍の私の影に加へたものから
空気を抜けば
ひとひらの海のやうな象であつた

 これは、どうみたって「でたらめ」の算数である。こんな計算が成り立つはずがない。算数にならない。
 しかし、ここには「論理」がある。どういう「論理」かというと「算数」をつかうという「論理」である。算数をつかいつづけるという意味においては「論理的」なのである。言いなおすと、この詩は、

あれはだれか
雲の二乗と二倍の雲の和は
象であつたし
女に塩酸と過酸化マンガンを加え、フランス語に翻訳したものから
ドストエフスキーの述語を取り除けば
加速器のなかで衝突するクオークのやうな象であつた

 と、もっと「でたらめ」に書くこともできるからである。
 しかし、野村は「科学/化学」「語学」「文学」「物理」というような「方法」をごちゃまぜにせず、常に「算数(数学ではない)」を「方法」として選び、そのなかでことばを動かしている。
 「方法」の一貫性において、野村は「論理的」なのである。

女を四倍にして海を引くと
女と私を足して二倍した風に
さらに一本の樹木を加へたものに等しい
といふ象であつたし
時のたまり場から虹や雪片を
引いたものを二乗すると
女に私を掛けて涅槃を引いた墳墓に等しい
といふ象であつた
狂ほしいほどに象であつた

 ね、「算数」しか出てこないでしょ?
 「算数」のまわりに「女」とか「海」とか「樹木」とか「虹」とか「雪片」とか、すでに詩でつかいふるされたことばが飾られる。「涅槃」「墳墓」は多少風変わりだが、それにしたって「現代詩」を読む人ならどこかで読んだことがあることばだろう。初めて触れることばではないだろう。
 こういうことばをつかって、野村は何をやっているか。
 私のことばでいえば「音楽」である。
 「音楽」は大きく分けて二つある。「クラシック」と「ジャズ/ポピュラー」。違いは何か。大雑把な感じを言えば……。クラシックは「旋律」は演奏者が変えることはできない。でも「テンポ」は指揮者まかせ。指揮しだいで「テンポ」が変わり、「テンポ」の変化とともに曲の表情が変わる。「ジャズ/ポピュラー」は逆。「リズム」はドラムが中心につくりだし、一曲の間、それは変わらない。しかし「旋律」は演奏者の勝手にまかされることがある。アドリブだね。私は音楽の専門家ではないから、まあ、いいかげんな「定義」だが。
 野村のやっていることは「ジャズ/ポピュラー」に近い。この詩の場合は「算数」という「リズム」が守られている。「算数」という「論理」を「リズム」に替えて、作品を統一し、「旋律」は思いつくままに。

 私は、野村の、この軽い音楽が気に入っている。「大好き」(これがないと生きていけない)というのではないが、「嫌い(腹が立つ)」ということはない。同世代ということが影響しているかもしれない。「音楽」というのは「通時性」よりも「共時性」が強いものなのかもしれない。






*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(29)

2019-06-18 09:14:54 | 嵯峨信之/動詞
* (水子たちが)

きまつているのは
水子たちはどこかへ行かねばならぬということだ

 「きまつている」。これは、だれが決めたことだろうか。「きまつている」は「決める」よりも強い。「決める」を超える力がそこにある。
 そして、その力が「行く」をぐいぐいと押す。
 もどることはできない。「行く」だけなのである。

帰路のないひそかな遠いところへ

 「ひそかな」ということばは、「きまつている」と結びついている。「きまつている」(確実である)から、「ひそか」であっても揺るがない。水子は消えるが、その消える場所は「消える」ということがない。



*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(28)

2019-06-17 00:00:00 | 嵯峨信之/動詞
* (行きつ戻りつすることで)

行きつ戻りつすることで文字を覚える

 どこを「行きつ戻りつする」のだろうか。「場所」ではないのかもしれない。何かと出会う。その前を通りすぎる。再び戻ってくる。繰り返していると、「出会ったもの」の印象が変わってくる。少しずつ自分になじんでくる。「肉体」が何かを「覚える」。「出会ったもの」の全体的な感じを覚える。
 しかし、嵯峨が書いているのは、「文字を覚える」である。「文字」とは「肉体の記憶」というよりも「頭」の記憶かもしれない。
 嵯峨のことばの特徴の一つに「清潔さ」がある。「肉体」でつかみとるというよりも「頭」で整理しなおしている感じがする。嵯峨は「頭」ではなく「魂しい」というかもしれないが。






*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(27)

2019-06-16 09:07:29 | 嵯峨信之/動詞
* (歩いても)

雨になつた
そのときぼくにははじめてわかつたのだ
死んだあとの静かな土地には
地名が消えていることを

 「雨になつた」という一行は、それにつづくことばを導き出すためのものだが、とても印象に残る。後半の「意味」の重いことばと向き合って屹立している。
 「なる」という動詞の強さによるものだろう。
 「なる」があってはじめて「消える」が効果的だ。
 「消える」の主語「地名」は、やはり何かが「地名」に「なった」ものなのだ。

 この四行の先立つ連に、次の行がある。

永遠と一日とのあいだを行つたり来たりしているのだろう

 「永遠と一日」からは「永遠+一日」(永遠よりも、もう一日長い)という感じを思い浮かべてしまうが、嵯峨は対比してつかっている。
 この対比を借用すると、「雨になつた」は「一日」、「地名が消える」は「永遠」なのかもしれないが、「雨になつた」が「永遠」、「地名が消える」は「一日」と読んでみるのも刺戟的かもしれない。





*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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2000万円トリック

2019-06-15 22:28:06 | 自民党憲法改正草案を読む
2000万円トリック
             自民党憲法改正草案を読む/番外274(情報の読み方)

 年金だけでは、老後2000万円不足する(年金以外に、老後資産2000万円必要)という問題の「続報」が読売新聞2019年06月15日朝刊(西部版・14版)に載っている。
 その記事のなかに、こういう部分がある。

麻生氏(金融相)は報告書の内容について「あたかも公的年金だけでは月々5万円足りないと述べている。我々は公的年金が老後の基本中の基本だと思っており、政府のスタンスとかなり違う」と語り、政府としては参考にしない考えを強調した。

 麻生のこのことばをそのまま読めば、「政府のスタンス」としては「公的年金が老後の基本中の基本」であり、「月々5万円足りない」という報告は「参考」にならない、ということになる。
 では、月々いくらの不足(赤字)なら「政府のスタンス」と合致するのか。それが不明確である。
 金融庁の局長は、

「高齢者のライフスタイルはさまざまで、数字を単純に比較して議論したことはミスリードだったと反省している」と謝罪した。

 という記述もある。
 もちろんライフスタイルは人それぞれである。家に引きこもり、電気、ガス、水道の使用も控え、食事も質素なものにするという生活なら年金だけで暮らして行ける、あるいは黒字になるという人もいるかもしれない。
 どういうライフスタイルか想定せずに「数字を単純に比較」するひとはいるだろうか。たぶん、見聞きしているふつうの生活、あるいは自分の生活を基準にして、数字を比較したのではないのか。それは「単純」な比較ではないはずだ。

 私は、この問題がねじまがったのは(変な具合に展開したのは)、麻生の最初の「とっかかり」が、麻生の狙いと、国民の反応との違いが原因だったと思う。
 年金だけでは老後の生活はむり、ということは以前から言われている。そしてそのとき、よく見聞きしたのが3000万円の資産が必要だというものだった。2000万円よりもはるかに多い。麻生もその数字を知っていたと思う。
 報告書は、麻生の意図を酌んで、赤字額を3000万円ではなく2000万円におさえた。そのために「投資」の勧めも盛り込んだ。2000万円をうまく運用すれば3000万円としてつかえる、ということだ。麻生は、これに飛びついた。3000万円不足するという「定説」よりも1000万円も少ない。少なくてすむのは、安倍政権のおかげだ、とアピールできると思ったのだろう。
 だからこそ、「退職金がいくらになるか、計算してみたことがあるか」というような軽口も飛び出したのだと思う。(私は、ちょっと事情があって、新聞を正確に読む時間がなかった。新聞の取り置きもしていないので、引用できないのだが)「年金受給までに2000万円くらい貯めろよ」といいたかったのだ。それくらいは「簡単」というのが麻生の認識なのだろう。何かに、麻生の懇意にしているバーでの飲み代が年間2000万円と書いてあった。麻生にしてみれば、一軒のバーの飲み代が足りないだけ、という感覚なのだ。それくらいすぐに用意できるというのが麻生の感覚なのだ。それが、そのまま出てしまった。
 ところが、麻生が喜び勇んで「2000万円赤字(にすぎない)」と言ったのに、国民の反応は「2000万円も赤字なのか」だった。このため、あわてたのだ。
 金融庁も、苦労して数字を2000万円におさえたのに、麻生の発表の仕方がまずかったので、とんだとばっちりを受けたということだろう。
 ほんとうに2000万円あれば安心できるのか、世間では3000万円という声が聞かれるが、というところから、この問題を追及しないといけない。このままでは、2000万円必要なのかという「不安」を引き起こすと同時に、2000万円確保すればなんとかなるという「間違った安心感」を定着させることにもなりかねない。
 多くの野党の追及は、この点を外していた。彼らにも年金生活の「実感」がないのだろう。
 国会の審議を全部見ているわけではないのだが、共産党の小池の追及が唯一的を射ていたと、私は思う。「2000万円では足りない、3600万円必要だ」というようなことを言った。予算配分の仕方を根本から帰る必要があると指摘していた。私の実感に近い。

 私は年金生活者だが、何もなくても月々5万円は赤字になる。冠婚葬祭があったり(実際にあったのだが)、病気をしたり(これも実際にあったのだが、そして治療はつづいているのだが)、5万円ではとても足りない。さらに、マンションの修繕積立費が来月から1・5倍に上がる(5年後は2倍になる)というようなこともあり、退職金や預金はあっというまになくなりそうである。
 これは年金支給額が減らない、物価が上昇しないということを前提にした上での感想である。物価が、安倍の目論見のように年に2パーセントもあがっていくなら、どこをどうきりつめていいか見当もつかない。

 2000万円不足というのは、嘘に決まっている。嘘に決まっているけれど、その最低限の嘘を手がかりに、どうすれば2000万円を1000万円に、さらにはゼロにまで近づけることができるか。そういうことを考えないといけないのに、2000万円も確保できるはずがないという声にあわてふためいて、「表現の仕方を反省したい」というのは、その場しのぎのごまかしである。

 さらに問題は、多くの人がすでに指摘しているが、月々5万円の赤字、トータルで2000万円資産が必要と言われた人は厚生年金を受給している人である。国民年金だけで暮らしている人を含んでいない。国民年金だけの人は、もっともっとたいへんである。国民年金に加入している人は「定年」のない人が多いかもしれないが、「定年」がないかといって働き続けられるとはかぎらない。健康の問題がある。
 麻生は「表現反省」(表現の問題)というのだが、年金と老後に必要な資産は「表現(トリック)」ではなく「現実の金」である。「事実」である。表現なんかどうでもいい。「事実」から出発しなおす必要がある。





#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


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