詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ミキ・デザキ監督「主戦場」(再び)

2019-06-15 17:30:18 | 映画
ミキ・デザキ監督「主戦場」(再び)

監督 ミキ・デザキ

 「慰安婦少女像」をめぐって、私には、長い間わからないことが一つあった。なぜ、アメリカに像をつくろうとするのか。慰安婦問題が「日韓」の問題なら、アメリカに慰安婦像をつくることは、あまり関係がないのではないか。アメリカに像をつくっても、韓国人や日本人の目に触れる機会は少ない。慰安婦の歴史はアメリカ人とは直接関係がない。(奴隷を解放したリンカーンの像を韓国につくっても、韓国の歴史とは関係がないのと同じように。)では、アメリカはなぜ像をつくることを支持したのか。「人権問題」に対する意識だけで、慰安婦像をつくることを支持したのか。どうも、理解できなかった。しかし、「理由」が、この映画を見てわかった。
 韓国はアメリカを利用しているのである。韓国が、アメリカを説得したのだ。実に頭がいい。言い換えると、思想が明確だ。
 アメリカは世界戦略上、韓国を重視している。利用している。もしかすると日本よりも重視しているかもしれない。いや、私なら、日本よりも重視する。なんといっても北朝鮮と陸続きである。それは中国とも、ロシアとも陸続きであるということだ。つまり、陸軍がそのまま北朝鮮、ロシア、中国へと移動できる。
 アメリカが韓国に「日韓和解(日韓合意)」を要求し、韓国を利用するなら、韓国の主張をアメリカは支持すべきである。韓国は、アメリカの世界戦略を受け入れる「見返り」に、そう主張しているのだ。日本は韓国を侵略した。その結果、朝鮮半島の分断も起きた。その侵略戦争のとき、日本軍は韓国人女性の人権を踏みにじった。女性を慰安婦にした。この歴史をしっかりと認識し、その認識の「証」として慰安婦像をアメリカにもつくらせる。歴史認識が共有されるなら、アメリカが韓国を世界戦略に利用することを容認する。そういう「思想」を韓国は明確に主張した。慰安婦像は、アメリカが日本より韓国を重視している証拠になる。アメリカがなんというか知らないが、韓国は、そう受け止めるだろう。その韓国重視の証拠がないかぎりは、韓米日(たぶん韓国なら、こういうだろう)の関係は安定しない。このことを「世界中」に明確にしたのだ。
 韓国人はとても頭がいいし、思想を生きるのが韓国人の特徴だから、その思想を貫いたのである。
 ここから、こんなことも思う。
 アメリカは広島と長崎に原子爆弾を落とした。そのために多くの市民が死亡した。このことに対して、日本はもっと抗議をすべきなのだ。原子爆弾をつかわなくても戦争を終わらせることはできる。広島の被害の大きさから、長崎で何が起きるかアメリカは知っているはずである。それなのに、アメリカは蛮行をくりかえした。
 アメリカが世界戦略上、日本の地理的位置を重視するのはわかる。そして、日米協力というものが必要というのなら、日本がアメリカから協力を求められたとき、「でも、アメリカが原子爆弾を落としたために、日本人を何人も死んだ。そしていまも後遺症で苦しんでいる」とチクリチクリと厭味をいうべきなのだ。「きちんと広島、長崎で慰霊をして、原爆はつかわないと誓ってください」と言うべきなのだ。鶴見俊輔が言っているように、そういう「権利」は日本人にはある。そしてその「権利」は「人間としての義務」だ。
 日本が(安倍が)、世界戦略上、「日米同盟」が重要というのなら重要でかまわないが、それは何もアメリカの言い分どおりに従うということではない。現実として(実働として)「日米同盟」は守るが、原爆に対する厭味はやめない。そういう「生き方」ができるはずである。
 いくら日本がアメリカの「核の傘」に守られているのだとしても、それはアメリカの戦略。日本としては核兵器には反対と言えるはずである。核保有国と手を結ぶのではなく、核を持たない多くの国と手を結び、「核兵器のために日本はこれだけ苦しんできた」と訴えることはできる。
 そういうことを、「論理の矛盾」と指摘する人がいるだろう。日本政府の立場は、「アメリカの核に守られているのに、核兵器反対と主張するのは論理的矛盾だ」というものだ。しかし、「思想」というのは「論理」ではない。「矛盾」したところがあっても、ぜんぜんかまわない。人間はいろいろな矛盾を抱えながら生きているから、ところどころに矛盾が噴出してきてもいい。噴出してくる矛盾を抱えながら、そのときそのとき、できることをするしかないのだ。
 韓国の多くのひとは、侵略戦争をしかけてきた日本と協力することを好まないだろう。「韓米日」の軍事協力に疑問を感じているだろう。でも、現実として、それが必要ならば、どこかで「疑問」をしっかり明らかにしておく。日本に対して、厭味をつたえておく。それを忘れない。
 こういう生き方を、私たちは学ばなければならない。
 そんな厭味がなんになるかわからないかもしれないが、少なくとも、ある行動が「暴走」するのを防ぐことができる。厭味を言われた瞬間、だれでも、一瞬、行動が止まる。それが大事だ。
 実際、慰安婦像(少女像)を見たとき、私はひるんでしまう。私が韓国人女性を強姦したわけではない。戦争に行ったわけではない。私自身は、何も悪いことはしていない。でも、何か、ひるむ。
 慰安婦問題に対して、日本政府は、「日韓合意」で決着した、と主張する。保証金も払った。すべて解決した。そう主張するとき「慰安婦像」は「厭味」に感じられるのだろう。「反省して、金を払ったんだから、像を取り除いてほしい」というとき日本政府が感じるのは、きっと「金」では解決できない心情というものがあるということを知っているからだ。厭味というのは、心情を刺戟する。だから効果的なのだ。だから必要なのだ。
 ほんとうに「日韓合意」ですべて決着がついていると信じているなら、慰安婦像は、日本軍が韓国人女性を慰安婦にしたという歴史的事実を語っているだけに過ぎないから気にする必要はない。気になるのは、歴史というのは単に「事実」ではなく、そこには「心情」があるからだ。そして人間は心情なしでは生きていけないからだ。「思想」は「理性」だけではなく「心情」も必要なのだ。

 慰安婦は存在しなかったと主張する人たち。彼らは「心情」だけを語っているように見えるが、まったく逆で「心情」を語っていないのだろう。杉田水脈は韓国人や中国人に最先端の科学技術をつかったものはつくれないというような差別的な発言をしていたが、それも「心情」ではなく、彼女なりの「論理」である。そして「心情」を含まない「論理」というのは、「頭」だけで動かしてできるものだから、どんなでたらめでも言える。韓国人や中国人は日本人より劣っていると平気で「論理」にしてしまう。

 (KBCシネマ1、2019年06月08日)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(26)

2019-06-15 14:55:33 | 嵯峨信之/動詞
* (石臼を)

すつかり疲労したわたしは冷めたい路上に横たわる
大地に舌をつけて
ただ生の苦い塩を舐める

 「冷めたい」と「塩」が呼び合っているように感じられる。
「舌」は「舐める」につながり、「舐める」が「塩」を呼び寄せるのだが、それに先立つ「冷めたい」がこころに響く。





*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメールでも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(25)

2019-06-14 14:57:28 | 嵯峨信之/動詞
* (魂しいのなかに)

魂しいのなかに
なぜぼくをつれ戻そうとするのか

 私は「魂」というものの存在を実感したことがないので、「頭」でことばを動かすしかないのだが、一般に「魂」は人間の体のなかにあると理解されていると思う。いいかえると「ぼく」のなかに「魂」はある。
 ところが、嵯峨は、逆のことを書いている。
 まず「魂しい」があって、そのなかに「ぼくをつれ戻す」。
 でも、だれが? 「魂しい」が、ということになる。
 そのとき「魂しい」とはだれのものなのか。「ぼく」のものか。「ぼく」以外のものか。
 「論理」に整合性を持たせようとすると、「魂しい」は「ぼく」のものではない。「魂しい」という名の、一種の人間(いのち)の「理想」のようなものである。そのなかに「戻る」ことによって、「ぼく」は人間に「なる」ということかもしれない。







*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメールでも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(24)

2019-06-13 10:58:23 | 嵯峨信之/動詞
* (言葉が)

だれも見ていないところでは
言葉は素裸になる

 どうして嵯峨はそれを知っているのか。「だれも見ていないところ」で起きることならば、嵯峨にもそれを目撃する機会はない。
 だから、これは「現実」ではなく「理想」なのだ。
 嵯峨は「素裸」のことばを求めている。
 だれにもつかわれていないことば、新しい動きをすることばを。





*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメールでも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(23)

2019-06-12 10:59:56 | 嵯峨信之/動詞
「雑草詩篇 Ⅰ」

* (地平線から)

地平線から解き放たれて
鳥たちは西の空へなだれ落ちていつた

 これは「天地」が逆になった世界か。空へ飛び立っていく姿を「落ちていつた」と書いたのか。つまり「落ちていつた」は比喩なのか。
 私は「比喩」とは読まなかった。
 鳥が自分の立っている場所よりも低い空を飛ぶのを見ることがある。たとえば山の頂きから。あるいは、芭蕉のように峠から。
 夕暮れ、鳥たちが崖を下るように、「下」にある空に向かって「なだれ落ちていく」ように飛ぶことはある。
 嵯峨は「なだれ落ちる」という動詞をつかいたかったのだ。しかもそれを「解き放つ」ということばの言いなおしとして。

小さな齧歯類は暗い沼の淵をそそくさと横切つた

「なだれ落ちる」は「暗い」と結びつく。「西の空」も「暗い」夜と結びつく。

嵯峨のことばは、「暗さ」そのものとは結びついている感じはしないが、間接的に響きあっている印象がある。この作品では、その要素が強く出ている。
















*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメールでも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(22)

2019-06-11 11:00:44 | 嵯峨信之/動詞
* (心の領地に)

心の領地に
ぼくの行つていない小村がある
その未知の村の片隅に
泉が小さく溢れている

 「未知の村」なのに「泉が小さく溢れている」ことがわかる。これは矛盾だが、矛盾だからこそそれが「真実」になる。「真実」とは「確信」のことである。
 泉の水が溢れるように、「信じる」という動詞が溢れる。他人にはわからなくても、嵯峨にはそれがわかる。



*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメールでも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(21)

2019-06-10 11:01:55 | 嵯峨信之/動詞

* (水の渦巻を)

水の渦巻を解こうとしても
解いたものはだれもいない
ひたすら時の要素のなかへほどけている

 「解く」と「ほどける」。「ほどく」ではなく「ほどけている」。
 それは「答え」なのか、あるいは「答え」のあり方なのか。
 「ほどかれている」と読み直したい。「解こうとする」から「解けない」。そのままにしておけば、自然に「ほどかれて」、それはどこかへ消えていく。
 「ほどけている」よりも「ひたすら」の方にことばの重心があるのかもしれない。とどまることなく、「ひたすら」ほどかれたものが去っていく。

もしぼくがすべての時から解き放たれるなら
言葉からもぼくはたち去るだろう





*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメールでも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ミキ・デザキ監督「主戦場」(追加)

2019-06-10 07:41:26 | 映画
ミキ・デザキ監督「主戦場」(追加)

監督 ミキ・デザキ

 きのう書いた感想では書き切れなかったものがある。追加で書いておく。

 この映画でいちばんの疑問点は、「慰安婦はいなかった」(慰安婦問題は存在しない)と主張する杉田水脈らの論理が非常に「人種差別的」であるのに、彼らが平然とそれを語っていることである。そしてまた、映画が公開され、人気を呼ぶと、彼らが「だまされた」「レッテル張りだ」と映画公開に対して抗議し、映画の上映の中止を求めたことである。いつも主張していることを、いつもどおりに語っている(と、私には思える)。それが「自身たっぷり」の表情になってあらわれている。どうして映画を批判するのかわからない。
 この疑問を解く「カギ」はサラリと描かれている安倍の姿である。安倍が政権を握ってから人種差別的な発言が横行するようになった。杉田は「中国や韓国には日本を上回る技術を開発する能力はない」と断言しているが、スマートフォンは中国、韓国製の方が日本製よりはるかに売れている。それを見るだけでも、杉田が事実とは違うことを言っていることがわかるが、こうした杉田のような発言は、安倍の登場と同時に加速した。
 なぜ、こういうことが平気でできるのか。
 アメリカが世界戦略の一貫として安倍を支えているからだ。アメリカは安倍を必要としている。その安倍におもねって発言していれば、安倍に重用される。そうわかっているからだ。きのう書いたが、杉田らはまた「政治的人間」なのである。「人間関係(人に好かれるかどうか)」だけを頼りに発言しているのだ。
 逆に見ていけばいいだろうか。映画のなかで紹介されている「河野談話」を発表した河野は、首相をつとめていない。背景に複雑な政党間の動きがあるのだが、きっとアメリカの思惑もからんでいる。政権がめまぐるしく交代したが、アメリカが「理想の首相」を見出せずに、方針がきまらなかったということだろう。(途中で、小沢の「追放」ということが起きる。この点については、「不思議なクニの憲法」という映画のなかで、孫崎享が克明に語ってる。アメリカが画策したのである。)
 このだれとだれがいつからいつまで首相だったか、資料を見ないといえないくらいの首相交代は、第二次安倍政権の成立と共に終わる。一気に、「長期政権」の時代に変わる。そのとき「河野談話」の「見直し」ということが、するりと滑り込んできている。言い換えると、河野談話から、講和談話見直しまでの期間が、目まぐるしく政権が交代した時期なのである。(第一次安倍政権のときは、「見直し」はしていない。)映画には描かれていないが、その間の首相と河野談話の「評価」を併記してみると、この問題の「本質」が見えてくる。
 そして、河野談話の「見直し」ということにあわせて、2015年に「日韓合意(慰安婦合意?)」が成立している。「金を払って決着」というところを「妥協点」にしようとした。このことは映画にも描かれ、この「日韓合意」がアメリカの世界戦略の一貫だったと説明されている。日韓対立がつづいていては、極東におけるアメリカの戦略(軍事的安定)が成立しないからだ。アメリカの世界戦略を有効にするために、「日韓合意」が締結させられたのである。これに対して、韓国国内から激しい批判が起きた。「人権」が「金」でかってに処理されたからだ。一方日本では「金をもらって決着したのに、なぜ、問題をぶりかえすのか」という論理が展開された。「人権」問題は金で解決できることではないのに……。
 この「日韓合意」は、アメリカにとって重要な「合意」手ある。極東の「安定(アメリカの望む安定)」には「日韓」の「協力」と日本の「軍備」が重要である。「日韓の協力」というよりも、日本の軍備強化という点で、安倍の思想とアメリカの戦略は「一致」した。アメリカにとって安倍の「理想」は好都合だった。安倍はどんどん軍備を強化する。武器の調達はアメリカからである。アメリカの軍需産業は潤う。アメリカの軍需産業は、アメリカ大統領を支える。アメリカは安倍を手離さない。「政治的人間」である杉田らは、それを見抜き、安倍にすり寄っている。安倍がアメリカに媚びへつらっているのと同じである。媚びへつらっているかぎり、「政権」の「うまみ」を独占できる。安倍がアメリカが「味方」してくれているから、いつまでも首相でいられると思っているように、杉田らは安倍にすり寄っていればいつまでも社会から重宝されると思っているのだ。
 日本は「政治」で動いている国なので、アメリカは簡単に支配できる。けれども韓国は「思想の国」である。同じようには支配できない。だから「慰安婦問題」が再燃する。アメリカの「人権派の思想」がそれに同調する。もちろん、「慰安婦問題はなかった」という主張も、それにあわせて展開されるが。
 つまり、「人権」か「国際戦略」か、という攻防がアメリカの内部にもあり、それが日本にも反映されてきている。日本のなかにある問題がアメリカに反映しているということではない。韓国は被害者なので、一貫して「慰安婦問題」を訴えることができる。
 そして日本のなかに存在する「人種差別」意識が、アメリカが安倍を支えているということを利用する形で拡大した。ヘイトスピーチが横行し始めたのは第二次安倍政権以後であることが、それを裏付けている。「日本会議」や「靖国神社」が、それを利用している。

 「慰安婦問題」は「日韓問題」ではない。「人権問題」でもない。むしろ「アメリカの世界戦略問題」である、という視点から考え直さないと、「和解」にはたどりつけないだろうと教えてくれる映画だ。
 (KBCシネマ1、2019年06月08日)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ミキ・デザキ監督「主戦場」(★★+★★★)

2019-06-09 22:34:55 | 映画
ミキ・デザキ監督「主戦場」(★★+★★★)

監督 ミキ・デザキ

 慰安婦問題と日本人、韓国人、さらにアメリカ人はどう向き合っているか。話題のドキュメンタリーである。
 私は、「慰安婦は存在しなかった」という人の意見をきちんと聞いたことがなかったので、それをきちんと聞いてみたかった。ちょっと「肩すかし」である。学者らしき人も登場し発言しているが、杉田水脈、ケント・ギルバート、櫻井よしこら、「事実」をつきつめるというよりも「心情」を語るという感じの主張が多く、「慰安婦は存在した」と語る人の「事実」を記録したいという主張と隔たりが大きすぎて、論戦になっていない。
 慰安婦の問題がむずかしいのは、「証言」の困難さにある。「慰安婦は存在しなかった」と主張する人は、「慰安婦をさせられた」という女性の証言が必ずしも一貫していなことを「根拠」にあげるが、性的被害を被害者が「一貫した論理」で語ることはもともとむずかしいことだろう。そのときの屈辱や悲しみがこみあげてきて、「正確」に語れと要求するのは失礼だろう。「正確さ」がない(矛盾した証言がある)と批判するが、むしろつらい体験を矛盾なく語っているとすれば、その「正確さ」の方に疑問があるとさえ言えるかもしれない。
 また被害者がいれば、加害者もいることになるが、加害者の方には自分のしたことを正直に語る責務があるかもしれないが、同時に自分のしたことを語らない権利もある。どんなことがらに対しても、人は自分にとって不利なことは証言しなくていいという権利を持っている。自分がしたことが悪いことであり、それを語れば非難されるとわかっていれば、非難を承知で告白するのはかなり勇気のある人間である。
 性被害の実像は、客観的にはなりにくい。この客観的になりにくい被害とどう向き合うかは、困難な問題を多く含んでいる。

 慰安婦問題は、歴史問題というよりも、人権問題なのである。言い換えると、絶対に「過去(歴史)」にはならない問題、常に「現在」の問題なのである。「慰安婦は存在しなかった」と主張する人たちには、この感覚が完全に欠如している。
 慰安婦でなくても、たとえば、本人の意思で結婚した夫婦であっても、生活している過程で愛情が破綻した場合、人はセックスを拒否できる。意志にそぐわないセックスを強要すれば、それは人権侵害になる。ドメスティックバイオレンスなど、いま、日本でも話題になっていることを土台にしても、それは明らかである。そのために苦悩している女性がいる。また男性もいるだろう。セクシャルハラスメントも同じである。
 歴史問題であるけれど、現実の問題でもあるという視点からの意見は、また「慰安婦は存在した」と主張している人の側からもあって当然だと思うのだが、そういう指摘も明確には感じられなかった。それも残念だった。

 「歴史」の問題として、私にとって収穫だったのは、日韓交流が日韓独自の交渉によって形成されたものではなく、常にアメリカの世界戦略によってつくられたものであるという指摘だ。アメリカは世界戦略の一貫として、日本と韓国を利用している。日本と韓国が敵対していては、アメリカの世界戦略が機能しない。オバマさえ、その戦略にしたがって日韓和解をお膳立てした。もちろんほかの見方もあるだろうが、この映画では、その問題を手早く描いていた。
 そして。
 実は、これこそが「主戦場」というタイトルに影響している。というか、ミキ・デザキ監督が描きたかったのは、これだと気づかされた。「慰安婦問題」をどう処理するかの「主戦場」は「日韓」ではなく、アメリカが舞台なのだ。アメリカの「世界戦略」が舞台なのだ。
 だからこそアメリカの大学院生が、自分の国の問題として、この映画をつくったんだろうなあ。日本人や韓国人のためにつくった映画ではない。
 トランプがこの映画では描かれていないが、つまりトランプが「日韓」の関係をどう考えているかわからないが、日韓問題はアメリカの世界戦略と関係づけて見ていかないと、どうなるかわからない。
 極端な話、北朝鮮とアメリカが「敵対関係」を解消し、「友好条約」を締結した場合、日韓の関係はどうなるのか。南北統一が実現したら、日本と南北統一国家との関係はどうなるのか。それに対してアメリカはどう関与してくるのか。
 アメリカでは「慰安婦問題」を世界戦略(世界に共通する人権の問題)として向き合っている。少なくともこの映画ではそう描かれているのに、日本は(日本の政府は)、「日韓の戦後処理問題」としてしかとらえていない。
 私は、なんというか、落ち込んでしまった。しばらく椅子から立ち上がれなかった。
 「慰安婦問題」を、この映画が描いているように、アメリカの世界戦略と関係しているとは考えたことがなかったからだ。アメリカから見れば、日本は、ほんとうにアメリカの一部なのだと、はっきり感じた。

 ということとは別に、こんなことも考えた。
 よく中国は経済の国、韓国(朝鮮)は思想の国、日本は政治の国と言われる。この映画では中国は出てこないが、韓国人の動き、日本人の動きを見ると、たしかにそうなのだと思う。
 冒頭、元慰安婦だった女性が韓国の大臣に対して、「なぜ被害者である自分たちの意見も聞かずに、勝手に日本と交渉をし、協定を締結したのか」というような批判をする。自分の「人権」を明確に主張している。個人の権利として、自分のことばで語っている。思想そのものを語っている。自分の尊厳を取り戻す権利は自分にあるのであって、国が勝手に決めることではないと主張している。思想の国だ。ひとりひとりが思想を持っている国だ。
 日本はどうか。どうやって国を動かしていくか。アメリカの要求にあわせて動いている。「政治」というのは簡単に言いなおせば、こび、へつらいによって、関係をスムーズにするということ。思想によって方針を決めるのではない。アメリカに気に入られるように国家の方針を決める。
 これは、安倍によって、さらに加速している。
 で、問題は。
 私はまた引き返してしまうのだが。
 いまは人権侵害が「売り」のトランプが大統領だから、安倍は思うがままに人権侵害路線で、トランプに媚びへつらっているが、人権派の大統領が誕生したとき、どうなるのかなあとも思う。安倍のもとでは、日本は完全に孤立し、それこそ戦争へ突入するというたいへんなことが起きるのではないのか。
 これは、そういう意味では、日本への警告の映画だとも言える。
 (KBCシネマ1、2019年06月08日)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(20)

2019-06-09 11:37:33 | 嵯峨信之/動詞
* (時はいやおうもなく)

時はいやおうもなくぼくの全身を消そうとする

 「時」に意志はあるか。「時」が消そうとするのか。
 「ぼく」がそう感じるだけなのか。
 そのとき「ぼく」は消されたがっているのか。消されることに抵抗しているのか。
 「いやおうもなく」は、そのどちらにも加担しない。「動詞」が何であれ、「いやおうもなく」という「動き」があるだけだ。その「いやおうもなく」が「時」だと言っているようだ。






*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメールでも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

谷川俊太郎の世界(6)

2019-06-08 22:57:36 | 現代詩講座
谷川俊太郎の世界(6)(朝日カルチャーセンター(福岡)、2019年06月03日)
                         
 「みち」「やめます」「まだうまれないこども」の三篇を読んだ。参加者は、池田清子、香月ハルカ、井本美彩子、青柳俊哉、萩尾ひとみと私(谷内修三)。まず「まだうまれないこども」をどう読んだかを紹介する。
 私は、いっしょにこの詩を読んだ女性から、とても大事なことを教えられた。頭をガツンと殴られた。目が覚めた。

まだうまれないこどもは
ハハのおなかのなかで
まどろんでいる
ハハはすなのうえにたって
うみをみつめている

まだうまれないこどもは
ハハのおなかのなかで
ほほえんでいる
ハハはさかみちをのぼる
きょうをたしかめながら

まだうまれないこどもが
ハハのおなかのなかで
みじろぎする
ハハはねむっている
いのちをしんじきって

--どんな印象を持ちました?
「おだやかな、とがったところのない詩ですね」
「自分のおなかのなかにこどもがいたときのことを思い出した」
「読むと妊娠しているお母さんの姿が浮かんできますね。でも詩のタイトルとは、うまれないこども、というのがおもしろい」
--この詩では、こどもと母親がずーっと対比される形で書かれているけれど、ここは少し変かな、というところはありませんか?
「三連目の、みじろぎするという動きが、引いている感じ。まどろんでいるや、ほほえんでいると少し違う。でも、それを母が信じきっているというのがいいなあ」
--引いている、というのはどういうことですか? もう少しつけ加えてもらえますか? みじろぎと引いているの感じが、よくわからないのだけれど。
「こどもが、まだうまれたくない、と言っている。それを受け止めている」
--あ、そうなんだ。私は単純に赤ん坊がおなかのなかで蹴っていると思ったのだけれど。みなさん、どうです?
「みじろぎ、って動いているということですよね」
「いまの感想を聞いて、ふに落ちたんだけれど、最初に読んだとき、最後のいのちをしんじきってが、よくわからなかった」
「幸せな親子を単純に描いているのかな。もっとウラというと変だけれど、違うことを書いているのかも、とも」
--あ、そうですか? 私は単純に幸福な姿を美しく描いていると思ったのだけれど。
「最後の、信じきって、が気になる」
--少し視点を変えましょうか。この詩は三蓮からできていて、こども、ハハが繰り返しか書かれているんだけれど。井本さん、外国人に日本語を教えていますよね。外国人に日本語を教えるという立場から見ると、この詩に、変なところはありません?
「まだうまれないこども、という言い方かな」
--助詞のつかい方で気になることはありませんか? 一連目、まだうまれないこども「は」、ハハ「は」と主語の助詞が「は」になってますね。二連目も、こども「は」、ハハ「は」ですね。でも三連目だけ、こども「が」、ハハ「は」になっている。どうして三連目だけ、こども「が」にしたんだろう。
「あ、そうですねえ」
--「は」でも意味は同じですよね。「は」でそろえた方が、全体の統一感がある。なぜ「が」にしたんだろう。
「一連目、二連目は、ハハは起きているけれど、三連目ではハハは眠っていますね」
「三連目だけ、こどもが起きている。ハハは眠っているけれど」
--あ、なるほど。でも、そういうときは、日本語の助詞の使い方としては、ふつうは、変わっている部分を強調するとりたての助詞「は」をつかう。ほかの部分は「が」をつかうんじゃないかな?
「気がつかなかったなあ」
--谷川が意識して書いているか、無意識に「が」にしたのかわからないけれど、私は意識的に変えていると思う。そういう意味で、この「が」がキーワードだと思っています。それで、このことについて語り合えたらいいなと思う。
「私も、ここだけ「が」になっているのが気になりました」
「まどろんだり、ほほえんだりということではなく、ここだけ身じろぎすると、はっきりしたうごきがあるからかな」
「うごきが、ここだけ大きくなっている。それを強調している」
--そういう意味では、実際、もうすぐうまれてくる感じなのかな? 力強くなっているのかな。
「ほほえんだり、まどろんだりはお母さんにはわからないけれど、身じろぎはわかる」
「動くのはけっこう早くからわかりますね」
--ハハの描写で言うと、一連目はうみをみつめると具体的だけれど、二連目のきょうをたしかめながらはとても抽象的ですね。この「きょう」はほかのことばでいうと何になります?
「いきていることをたしかめる」
「いのち? いのちをたしかめながらに通じる」
--そうすると二連目の「きょう」は「いのち」と言い換えられるし、三連目の「いのち」は「きょう」と言い換えることもできそうですね。それで、全体が融合し、落ちついた感じがすごくするのだと私は思うのだけれど。
 それから、三連目の「ハハはねむっている/いのちをしんじきって」は、普通に読むと「ハハはいのちをしんじきってねむっている」ということなのだと思うけれど、私はちょっと赤ん坊がいのちをしんじきってみじろぎする、ということも感じる。それで、いのちをしんじきるということばのなかでこどもとハハが一体になっている、という幸福感を感じる。
 それから不思議なことは、この詩はハハはと客観的に書かれているのでハハではない人が書いたと受け取れるけれど、ハハ自身が自分のことをハハと客観視して書いたとも読めますね。私はどちらかというと谷川が書いたというよりも、あるハハが自分のことを書いた詩と受け止めて読む。
 でも、これは谷川が書いた。そのとき一番不思議なのは、谷川は自分自身ではハハの体験をしていないのに、まるでハハのように書ける。
で、私はいつも思うのは、谷川は非常に耳の言い人で、他人の話を聞いて、それをそのまま自分の声としてことばにすることができるということ。七色の声、七変化の声という気がする。
「よく聞いているのだと思う」
「でも、まだうまれないこどもという表現は不思議。うまれてくるこども、とは言うけれど」
「そうだよね、ふつうはうまれてくるこどもというね」
「うまれないこどもには違和感がある」
「そうだよね。だから、詩に、なんとういかネガティブなものを感じる」
「思っちゃいけないけど、もしかすると、このままうまれないのかも、とか」
--あ、そうか。最後のぎょうが気になるというのは、そういうことだったんですね。井本さんの指摘も、そういうことだったんですね。びっくりしました。やっぱり、性別も年齢も違うひとといっしょに詩を読むというのは、驚きがあるなあ。言われてみて、初めて気がつきました。たしかに、自分の体のなかに赤ちゃんがいて、そのこどものことを「まだうまれない」とは言えないだろうなあ。
「もうすぐうまれてくるこども、っていいますね。女はね」
「男性から見ると、こういう表現はそれほど不自然じゃない、ということですか」
--私は不自然とは感じなかった。
 また谷川は、よく「未生」ということばをつかう。まだうまれない、というのは谷川にとっては、ふつうに使うことばであって、それがそのまま無意識に出たということだと思う。
 でもたしかに「まだうまれない」というは、「外」からの見方であって、妊娠している女性はそんなふうには言わないというのはよくわかります。
 私は、肉体感覚として「これからうまれてくる」という感じを知らないので、「まだうまれない」とは違和感を感じなかった。
 逆に言えば、もし女性が谷川の篠なかに「未生」ということばを読んだとき、なぜ未生なのかと思うかもしれませんね。
 きょうは皆さんに勉強させていただきました。ありがとうございます、と言いたいです。

 6月17日は、詩の創作。自作の詩(20行以内)を持ち寄り、感想を語り合います。
 飛び入りで参加したい方は、朝日カルチャーセンター(福岡)へお申し込みください。電話092・431・7751






*

評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168076093


「詩はどこにあるか」2019年4-5月の詩の批評を一冊にまとめました。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168076118


オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(19)

2019-06-08 09:47:16 | 嵯峨信之/動詞
「火の鳥」

* (なにもかも)

なにもかも燃やしつくそうとして
自分で燃えつきた火の鳥
空を炎でかきまわし
存在しない名をかいて飛びさる火の鳥

 火の鳥は、「どこに」名を書くのか。「何で」名を書くのか。
 二連目。

他の空はむなしく
心のはてまでのびていて大きな虹がかかつているだけだ

 火の鳥がいる場所が火の鳥の空になるのか。
 「他の空」ということばが、何か巨大に感じられる。
 「むなしく」は「他」を修飾するようにも、次の行の「のびる」を修飾するようにも、「虹」を修飾するようにも、さらには「かかる」を修飾するようにも読むことができる。その対象を限定しないことばが、「巨大」という感じを呼び覚ます。
 嵯峨が書きたかったのは一連目かもしれないが、私が「読む」のは二連目である。



*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメールでも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

数字のトリック

2019-06-08 09:13:34 | 自民党憲法改正草案を読む
数字のトリック
             自民党憲法改正草案を読む/番外273(情報の読み方)

 年金をめぐり、麻生が「老後に約2000万円の取り崩しが必要」という「資産形成報告書」の表記をめぐって釈明した、という記事が、2019年06月08日の読売新聞(西部版・14版)2面に載っている。見出しは、

麻生氏「不適切表現」釈明/金融審議会報告書 「老後2000万円必要」

 その記事によると、

報告書では、65歳で定年退職して95歳まで生きる夫婦の場合、毎月約5万円の赤字が続き、30年間で約2000万円が不足するとの試算を示した。この試算は、平均的な家計の支出と年金収入などを単純に差し引きした計算で、貯蓄や退職金などを考慮していなかった。
 麻生氏は「あたかも赤字なんじゃないかというような表現をしたのは、表現自体が不適切。そうじゃない方もいっぱいいる」と話した。

 しかし、これで「釈明」になるのか。
 「貯蓄や退職金などを考慮していなかった」というが、言い換えれば「貯蓄や退職金で2000万円の資産」がなければ「赤字」になるということだろう。年金以外に2000万円必要なことにかわりはない。
 だいたい国民のすべてが65歳の退職時に「貯蓄+退職金」で2000万円の蓄財があるというのは「事実」なのか。麻生自身、「そうじゃない方(2000万円の赤字にならないひと)もいっぱいいる」と言うが、「いっぱい」とは何人、国民の何%か。ぜんぜん具体性がない。
 それに「老後に約2000万円の取り崩しが必要」というときの「取り崩し原資」は何なのか。「貯蓄+退職金」ではないのか。言い換えると、「貯蓄+退職金」で2000万円になるように資産を(貯蓄を)不増やす必要があるということだろう。「貯蓄+退職金」で2000万円あるから、年金が少なくても赤字にならないと、そんなノーテンキな考え方をだれがするだろうか。年金だけでは赤字、何かのための「担保」としての「貯蓄+退職金」を「取り崩す」しかない、というのが一般のひとが考えることではないのか。
 麻生の発言を聞いて、国民のだれが、「65歳時の貯蓄+退職金」のほかに2000万円必要だと思っただろうか。年金だけでは生活できない。退職するまでに、退職金を含めて、2000万円貯蓄しないと生活できない、と受け止めたのではないのか。年金以外に2000万円必要なことにかわりはないのではないのか。
 これでは、とても「釈明」とは言えない。年金だけで生きていけないことが、より明確になったというべきだろう。

 訳がわからないのは、読売新聞の態度である。他紙は知らないが、よくこういう発言をとらえて、読売新聞が「釈明」と受け止めたものだ。
 書いた記者は、「自分の退職金と貯蓄をあわせると65歳のときには2000万円は確保できる。だから、月々約5万円の赤字にはならない」と考えたのか。2000万円がなくなるまでは、年金がいくらであろうと月々の赤字は発生しないと考えたのか。たとえば、年金が月に1万円だとしても、「貯蓄+退職金=2000万円」があるから、毎月の赤字はゼロ、とでも考えたのか。それで、ほんとうに「安心」したのか。
 こんなばかげた説明を「釈明」と呼び、年金だけでは毎月5万円の赤字になっても、貯蓄や退職金があるから大丈夫、心配はいらないと言う「論理」がわからない。だいたい65歳で退職する人の何人が「貯蓄+退職金」で2000万円確保できるのか。その人数を確認したのか。少なくとも、麻生に、そういう人は何人いるのか。「いっぱい」ではなく、具体的に問いただしてみる必要がある。

 今回の「釈明」で明確になったのは、年金だけでは毎月の収支に赤字になる。毎月、どこかから約5万円を工面する必要があるという、麻生が最初に語った「事実」に何の変わりもないということだけだ。
 年金だけでは生活できないというのが、絶対的な「事実」なのだ。
 不足分を国が補てんするということもない、というのも「事実」なのだ。
 問題は「表現」ではなく、「事実」だ。
 新聞は「表現」ではなく、「事実」を伝えるべきだ。




#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

「天皇の悲鳴」(1000円、送料別)はオンデマンド出版です。
アマゾンや一般書店では購入できません。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

ページ右側の「製本のご注文はこちら」のボタンを押して、申し込んでください。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(18)

2019-06-07 12:59:44 | 嵯峨信之/動詞

* (話はやめたまえ)

窓の外を見よう
いま流れている筏はみな雪がつもつている

 「つもつている」という動詞はこころを刺戟する。
 情景とは別に、こころにつもったままの何かがある。「つもる」は「重くなる」につながる。こころのなかに「重い」何かがあって、それが「雪がつもつている」ということばになる。
 「いま」ということばが、その「つもったまま」のものにスポットを当てる。

かつて
つぎつぎに流れてくる筏の上には屍体があつた




*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメールでも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桂川幾郎『偶然という名の現在なの』

2019-06-06 10:42:00 | 詩集
桂川幾郎『偶然という名の現在なの』(ふらんす堂、2019年04月30日発行)

 桂川幾郎『偶然という名の現在なの』にはルビが振ってある。「たまたまというなのいまなの」と読ませる。私はこういう処理を好まない。「偶然」を「たまたま」と読ませたいのか「たまたま」を偶然と書きたいのか、「現在」を「いま」と読ませたいのか「いま」を「現在」と書きたいのか。いずれの場合にしろ、そういうことは「ルビ」で処理するものではないと思う。
 ことばは「音」(声)である。こう書くと、耳の聞こえないひとや声を発することのできないひとに閉めだしてしまうことになるかもしれないが、私はことばを「音」と切り離して考えることができない。私は「聞いた音」しか理解できない。

 「偶然」と書いて「たまたま」と読ませる詩。

たまたまいまここにいるだけで
いなかったかもしれないわたし

たまたまいまここにいるだけで
やがていなくなるにちがいないわたし

だから
わたしは
あなたにわたしたい
わたしを

 最終連で「わたし(私)」と「わたし(渡し)」が交錯する。そこに不思議なおもしろみがある。もしこれが、

だから
私は
あなたに渡したい
私を

 と書かれていたら理屈っぽくなる。「意味」になりそうなものを、寸前で「音」のなかで交錯させている。「音」の交錯を整理するために「文字/漢字」があるけれど、そういう「整理以前」をときはなつ楽しみがある。
 桂川が、ことばをこんなふうに動かして、「意味以前」に近づこうとしているのなら「偶然」と書いて「たまたま」と読ませるのは逆効果のように思う。
 「まあるいあなをみているかえる」も全行ひらがなで書かれた詩。

いま
ここで
いきている

いどのそこで
そっくりかえる

あながみえる

ぽっかりあいた
あなはまんんまる
まっさおなときもある
はいいろのときもある
まんくろなときもある
ゆめからさめると
あかねいろになるときもあって
いきかえる

あなのかなたへかえる
こともあるかと
かんがえる

 「蛙」が「返る/帰る」を通って、「考える」になる。「考える」は「生き返る」と強く結びついている。「生き返る」というより、「生まれ変わる」といった方がいいかもしれない。
 「考える」とは、意識をことばにすること。意識がどう動いているかを「知る」ことに通じるかもしれない。

 この詩は、中井久夫のことばを引いている。
 「井戸の中のカワズ 天の深さを知る」。





*

評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168076093


「詩はどこにあるか」2019年4-5月の詩の批評を一冊にまとめました。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168076118


オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

偶然という名の現在なの
桂川幾郎
ふらんす堂
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする