詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ロバート・ゼメキス監督「マーウェン」(★★★★)

2019-07-25 20:24:20 | 映画
ロバート・ゼメキス監督「マーウェン」(★★★★)

監督 ロバート・ゼメキス 出演 スティーブ・カレル、人形たち

 スティーブ・カレルが人形をつかって写真を撮っている。それをロバート・ゼメキスが映画にしている。
 と、映画なのに、わざわざ映画にしている、と書いたのは。
 これは、つまり「虚構」を少しずつつくりあげることで、自分自身を救っている男の話であり、この男を映画にすることでロバート・ゼメキスは自分自身を救っているのだ。
 それが証拠(?)に、この映画は「事実」に基づいているらしいが、なんと「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の「タイムマシン」が登場するからである。「バック・トゥ・ザ・フューチャー」をつくっていたとき、ロバート・ゼメキスがどんな問題をかかえていたのかしらない。けれどロバート・ゼメキスにとって映画をつくることは彼自身を救い出すことだったのだと感じるのである。
 ロバート・ゼメキスはスティーブ・カレルをつかって、人形を撮影し続けた写真家を描いている。スティーブ・カレルは人形をつかって写真を撮る男を演じることで彼ではなくなっている。人形たちはスティーブ・カレルによって少しずつ形を変え、演技しながら人形ではなくなっていく。人形ではなく、スティーブ・カレルのまわりにいる実在の女性になっていく。これは奇妙な奇妙な、生々しい手触りのある虚構なのだが、これを周囲の人が虚構であると突っぱねるのではなく、「現実」として受け入れながらいっしょに生きている。
 このとき、虚構って何なのか。虚構によって救われているのは何なのか、という奇妙な「疑い」が私の肉体のなかから現われる。「疑い(疑問)」という「名詞」ではなく「疑う」という「動詞」になって動いているのを感じる。
 人形に引きつけられているのか、スティーブ・カレルに引きつけられているのか、映画のなかで展開されるストーリーに引きつけられているのか。言い換えると、私は何を見ているのか。それがよくわからない。
 スティーブ・カレルは変な役者で、色がない。透明である。そして、その透明が沈んでいく。クリストフ・ワルツも透明な役者で、芸達者だが、透明な部分は沈んでいかない。輝きになって存在を引き立てる。悪人をやってもなぜか色気がある。ところがスティーブ・カレルは前任をやっても色気がない。
 あ、脱線したか。
 で、その色気のなさが、この映画では奇妙な力になっている。人間が本来持っている色気(いのちの輝き)というものが人形に乗り移って、虚構のなかで生きている。さらにそれが動くことで、さらに色っぽくなる。その人形を撮った写真が、人形よりもさらに色っぽい。写真の中に、人形に「物語」を吹き込んだ人間のいのちそのものが映し出されているという感じなのだ。
 スティーブ・カレルはぜんぜん色っぽくない。目立たない。けれど人形になったスティーブ・カレルは色っぽく、彼を取り巻く女性たちにしっかり愛されている。女性たちが人形のスティーブ・カレルのいのちを助け続ける。(あ、これは、人形劇?のストーリーの話です。)
 奇妙な奇妙な映画なのだけれど、人形を少しずつ動かしているので、「手作り」の感じが残っていて、それもまた魅力的だ。もしスティーブ・カレルの役をクリストフ・ワルツがやったらぜんぜん違っていただろうなあとも思う。
 あ、最初にロバート・ゼメキスのことを書いたのに、途中からすっかり消えてしまっている。私はロバート・ゼメキスの映画はあまり好きではない。どういうわけか「細部」にリアリティーを感じられない。嘘っぽい映像に感じる。「ほんもの」ではなく「嘘(虚構)」つくるという意識が強いのかもしれない。でも、それがこの映画では、とても効果的だ。人形は人間ではない。けれど人間を演じる。人間の「意識」のなかで共演する。何か、そうするしかない「意識」のあがきのようなものが、スクリーンからにじみ出している感じがする。
 「フォレスト・ガンプ 一期一会」をもう一度見る機会があるかな、あればいいなあと思った。
 (中洲大洋スクリーン2、2019年07月24日日)
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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(67)

2019-07-25 10:59:13 | 嵯峨信之/動詞
* (強い力でさえ)(追加)

夢のなかで
彫られた水の上を
一羽の水鳥が泳いでいる

 「強い力でさえ」からはじまる詩は全集の349ページから350ページへとつづいていた。そして、350ページにあるのが引用した行。

 「彫られた水」という表現は「耕された精神」という表現に似たところがある。「彫る」という動詞の主語がすぐにわかるわけではない。隠されている。「一羽の水鳥」によって「彫られた水の上」、つまり水鳥が「泳ぐ」ことによって水を「彫る」、その波の形が水面に模様を「彫る」ということが、イメージが交錯する形で書かれている。
 詩は、イメージの混乱と再統合の運動である。







*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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参院選の勝敗

2019-07-24 22:32:55 | 自民党憲法改正草案を読む
参院選の勝敗
             自民党憲法改正草案を読む/番外278(情報の読み方)

 参院選の「勝敗」について、安倍の「改憲狙い」とからめてマスコミがいろいろ書いている。それはそれでひとつの分析だが、今回の「勝敗」を言うなら、「れいわ(山本太郎)が勝ってマスコミが負けた」ということにつきる。
 マスコミは、「政党要件」を適用することで(たぶん)、「れいわ」について報道しなかった。しかし選挙後、「れいわ」から当選者が出て、政党要件を満たすと、結果を伝えるしかなくなった。(各社が一斉に報道をしなかったのは、事前に「申し合わせ」があったのだろう。自主規制か、権力の圧力かは、これからわかることだろう。)
 こうなることは、選挙がはじまったときかわかっていた。少なくとも「れいわ」への寄付が1億円を突破した段階でわかったはずだ。さらに街頭演説の盛り上がりを見れば、絶対に気づくはずだ。
 すでにフェイスブックなどで書いてきたことだが、「政党要件」の「壁」があるというのなら、ほかの「要件」を適用して「社会現象」として取り上げることができたはずだ。障害者、難病患者、性的な多様性を生きる人、学者、正規社員になれなかった人、タレント。彼らは何を訴えているか。
 「れいわ」の候補者たちは、山本太郎をのぞけば、「大局的な政治」というよりも「自分自身の体験」を「自分のことば」で語った。現実に起きていることを、体験したままに語った。現実に起きている問題、困っている問題を語った。それを解決できなくて、何が政治だろう。
 そうしたテーマは「国会」になじまないというひともいるが、当事者が国会で訴えるしか方法はないと決断させるくらい、いまの政治は「当事者」を無視したところで動いている。沖縄・辺野古の基地建設や秋田の陸上イージス配置問題を見れば、無視された「当事者」の声を代弁するひとが当選したことがわかる。難病患者や障害者の「当事者」の声を代弁する人がいないから、「当事者」が叫ぶしかなかった。それくらい日本の政治はひどいものになっているのだ。
 この「叫び」はマスコミは無視したが、SNSや街頭演説で多くの人に共有された。マスコミだけがそれを共有しなかった。マスコミは「社会の動き」をつかみとることができなかった。マスコミは、SNSと街頭演説に負け、れいわに負けたのだ。多くの国民が共有しているものを共有し、さらにそれを広げていくということができなかった。
 そして負けたのに(負けたからこそ?)、議席を減らした自民党を「勝った」と持ち上げ、「改憲はどうなるか」という「大局報道」に切り換えることで、負けをごまかしている。
 これもすでに書いたことだが、こんなことをしていたら、マスコミは民主主義を破壊したと批判されることになるだろう。

 この選挙期間中、マスコミを少しにぎやかにした話題に、映画「新聞記者」のヒットと、久米宏のNHK番組内でのNHK批判がある。両方とも、「よくやった」という声で受け止められた。しかし、それは私から見ると、両方とも物足りない。映画では安倍ということばはまったく出てこない。安倍批判になっていない。久米宏の発言も、予算と人事に関する「一般常識」であって、どの番組のどの部分がジャーナリズムとして物足りないかはひとことも言っていない。具体的ではない。やはり安倍という名前を出さない批判にすぎない。
 こんな中途半端な批判を「よくやった」と評価するのは、すでに権力に負けている証拠である。「負けているなかで、少し反撃した」というだけであって、安倍はかすり傷を受けたとも感じていないだろう。



 ちょっと脱線したが、今回のれいわの活動は、今後のさまざまな運動の展開の仕方をいろいろ教えてくれた。
 マスコミが権力追認しかしないなら、マスコミをあてにしない。実際、SNSと街頭演説だけで「訴え」を広げることができる。資金も調達できる。マスコミがやらない方法を考え出さないといけない。
 ついでにいうと、マスコミ頼み、労組頼みの立憲民主とは違う方法を考え出さないといけない。
 すでにマスコミは、れいわにマスコミが負けてしまったことを隠すために、改憲論議に加担し始めている。自民党が議席を減らしたのだから、改憲は見送りべきだとは言わずに、今後どう展開するかということしかいわない。議席を三分の二まで持っていくために、どの党を引き込むか、どの党なら応じるか。そういう「予測」を展開している。これはそのまま自民党の「野党切り崩し作戦」を追認するものだ。言いなおすと「改憲推進論」を展開することで安倍にすり寄り、マスコミの「予測」通り改憲が成立した。マスコミの「読み」は正しかった、と主張するつもりなのだ。あるいは、国民に「あきらめ」をすりこむのだ。選挙の情勢世論調査のように、「結果はこうなりますよ」と予告することで。
 これに対抗するには、やはり、れいわの作戦がいいと思う。戦争になったら、難病患者、障害者はどうやって逃げればいいのか。だれが避難を助けてくれるのか。そういうところから「声」を集めていく。高校野球ができなくなる。戦争になっても高校野球をする方法を憲法は考えてくるのか。コンサートが聞けなくなる。戦争になっても、ライブで大騒ぎできることを安倍は保障するのか。多くの人は、それよりももっと大事なものがある、というだろう。しかし、人間にとって自分が生きていくこと、楽しむこと以上に大切なものがあるだろうか。戦争になったら何もかもがおしまいなのだから、戦争しないためにどうするかを考える。「実感」から、出発し、「実感」を思想にしていく。それは「ばらばら」の思想だが、ばらばらだからこそ、強い。「一致団結」する必要はない。ずれながら動いていく。
 れいわの候補者の動きが、そんな感じがした。山本をふくめて10人が「おなじ」という感じではない。むしろ、言っていることがひとりひとり違う。山本を別にすれば、9人は自分の知っていることしか言わない。「一致団結」ではなく、ずれている。そのずれが広がりになっている。9人のうちのだれかに共感できる。
 ひとりひとりが、憲法改正案のここがおかしい、ここは困る、と言えるようになればいい。意見が「ばらばら」になれば、それはマスコミのような組織では「まとめる」ことができなくなる。マスコミは「結論」を言わないといけないと考えているから、どうしても「結論」に向けてしか動かない。マスコミがまとめきれない(追いかけられない)くらいにまで、思想をばらばらにする。ひとりひとりが自分の「声」に忠実になる。
 金集めも、れいわは巧みだった。企業が献金してくれないなら個人に呼びかける。企業と違って個人が献金できる額は限られている。私は金がなかったので、今回は千円寄付した。限られた額でも、寄付したあと寄付したよ、と友人に話してみる。何人かはきっと同じように寄付してくれるだろう。私の場合、実際にひとりはまず三万円寄付し、その後追加寄付もしている。人のつながりを利用して、連携する。組織ではなく、ばらばらの個人が、ばらばらのまま、生きていく。ここでも「一致団結」というよりは、ずれながら、ずれていることを許して広がっていく。
 ずれというのは、具体的には、こういうことだ。今回私はれいわに寄付した。けれど選挙では今までどおり共産党に投票した。人の考えというのは100%だれかと一致するということはないだろう。だから寄付したからといって、一致して行動する必要もない。できる範囲で行動する。それが自民党やマスコミが作り出す「流れ」に対抗する方法になる。「自分」を確立することになる。


 
#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(66)

2019-07-24 09:19:03 | 嵯峨信之/動詞
* (強い力でさえ)

耕やされた精神の所産である

 「耕やされた」は「精神」を修飾する。しかし精神を耕すのは、誰(何)なのか。精神はみずからを耕すのではないだろう。
 「耕やされた精神」ではなく「耕す精神」が何かを生み出す。「精神」ではなく、「強い力」を。
 修飾語と修飾されることばを入れ換え、動詞を動かしてみると、「力」が見えてくる。力はいつも動詞の中にある。










*

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山本育夫「書き下ろし詩集『HANAJI花児』」

2019-07-23 10:51:02 | アルメ時代
山本育夫「書き下ろし詩集『HANAJI花児』」(「博物誌」39、2019年08月01日発行)

 山本育夫「書き下ろし詩集『HANAJI花児』」は「博物誌」復刊にあわせて書かれたもの。二十一篇の詩。全体の特徴を書いてもしようがないが、目につくのはことばの繰り返しである。

19 緊急字体宣言

ドトールコーヒーの幕間から、ちいさな物語がぞ
ろぞろと避難している、恐ろしい声が警報ボタン
を押している、押している、遠くからサイレンが
やってきていま目の前をヒャンヒャンヒャーと通
り過ぎた、歯ぎしりをして投げつけるがその圧倒
的な気分に砕かれていく、砕かれて、男はその字
体を変換する。

 「押している、押している」「砕かれていく、砕かれて」。なぜ繰り返すのか。繰り返しの間(ま)に、ことばにならないものが存在している。ただ繰り返しているのではない。しかし、その「ことばにならないもの」とは何か。ことばにしにくい。だからこそ、わたしはそこでつまずく。立ち止まる。
 「警報ボタン」を押したのはだれか。ここには書かれていない。学校文法的には「押している」の主語は「恐ろしい声」になるが、「声」がボタンを押せるわけがない。だれかが押している。ほんとうはだれかがいるということを、ことばにしないまま確認し(空白のまま確認し)、二度目の「押している」とつづける。このとき山本は(と、とりあえず書いておく。主役は後半に「男」という形で姿を現わす)、見えないだれかを意識している。見えないだれかによって、いまの「避難/警報」が作り出されたものだと意識している。その「意識」を明るみに出すために、山本は「押している」を繰り返す。
 「砕かれている、砕かれて」はどうだろうか。男は「砕かれている」と、まず気づく。そして「砕かれた」自分を意識し、そこから動き始める。「砕かれた」ままではなく、また「砕かれた」と過去形にしてしまうのではなく、「砕かれて(いる)」という現在から動き始める。それは「砕かれて」しまわない、過去形にならないという意識であり、その意識が「緊急事態」を「緊急字体」という具合にことばをねじらせる。
 ことば(あるいは文字)が男にとっての「抵抗」の意識をあらわす。ここに書かれているのは、書かれていない発見と抵抗である。書かれていないものが書かれているというのは矛盾だが、矛盾のなかに「事実」がある。どういう事実かというと、山本のことばが動いたという事実である。
 私はいま引用した「意味」の強い詩よりも、露骨な肉体と「ことば」のぶつかりあいを感じる作品の方が好きだ。

13 小さい、っの字

駅前にある黒くて細長い巨大な容器の内側からあ
ふれ出しているそのあふれは、遠い山岳のひとし
ずくに由来し、はるばるとここまできた、そして
成熟したことばになって地中深くから湧き出して
いるのだその午後にも、男はその水を飲み下し軽
いゲップをする、くちびるに小さい、っの字をひっ
かけたまま

 この詩にも「あふれ出しているそのあふれ」という繰り返しがあり、やはり繰り返しの間には、踏みとどまりと再出発(切断と接続)があるのだが、その「間」にどんなことばが書かれていないのか探し出すのはむずかしい。ただ切断と接続があるとだけ意識しておく。この切断と接続は「湧き出しているのだその午後にも」というねじれた文体の中にもある。学校文法のようにととのえてしまうことのできないものが人間のことばにはある。それをそのままの形で山本は書き、書くことで山本がつまずき、それを読ませることで読者をつまずかせる。
 この違和感は、「ゲップをする、くちびるに小さい、っの字をひっかけたまま」という奇妙な日本語を「肉体」のなかから押し出してしまう。
 「っの字なんか、ひっかからないだろう。見たことないぞ」と私は文句を言ったりする。つまり、文句を言うことで、私のことばが動き出すまでの時間を埋める。そして態勢をととのえ……。
 ゲップをする。ゲップは胃のなかにたまった空気を吐き出すことか。しかし、それは吐き出しきれるか。何かが残る。それを「小さい、っの字をひっかけたまま」と山本は書く。「小さい、っ」は「ゲップ」の「ッ」かもしれない。「字」と山本は書くが、まあ、意識のようなものだ。つまずいたときの「あっ」の「っ」かもしれない。肉体は動く。それが何のための動きか、わからない。でも、そういうものがあって、ことばは「学校文法」から逸脱して、どこにもなかったことば(比喩)として、「いま/ここ」にあらわれてくる。ことばは「意識」だが、「意識」はまた「肉体」でもある。
 これ以上書くと、「結論」のための「嘘」になるので、ここでやめておく。

15 おおお

ファミリーマートの主人は、四六時中のどにたま
るたんを吐き出すためにグググとかガガガとか咳
払いしている、咳き込みすぎて胸が痛くなるころ、
吐き出したことばが店内におびただしくあふれて
しまい、ドアの隙間からシュウシュウと吹き出し
ている、そのドアを男は激しく蹴破って、おおおお、
と声をあげる、ひとかたまりの感情がごろりと現
れる

 「グググ」「ガガガ」はことばではなく、「音」である。しかし、男(山本)はそれを「ことば」ととらえる。「主人」以外には「グググ」「ガガガ」はたしかに「音」にすぎないかもしれないが、苦しんでいる主人にとっては「意味」をもったものだろう。思い通りに「グググ」「ガガガ」と吐き出せたときは、「肉体」が解放される。こういうことは咳き込んだことがあるひとならわかるだろう。あれこそが「肉体」の「意味」だと。
 こういうきわめて「個人的な肉体」(したがって普遍に達した肉体)とどう向き合うことができるか。男は「おおおお」と声を上げる。「グググ」よりも「ががが」よりも一つ音が多い。濁音に対抗するためか。この「おおおお」を男は「感情」と呼んでいる。(あるいは「おおおお」によって洗い粗い清められた「グググ」「ガガガ」が感情なのかもしれないが。)その「感情」はただの「感情」ではなく「ひとかたまりの感情」である。「かたまり」というのは「内部」が結びついている状態だ。それは「整理」されていない。いまはやりのことばで言えば「分節」されていない。「未分節(ほんとうは無分節というらしいが)」のものである。これが「分節」されると「ことば」になり、「認識」になり、共有されるものになるのだが、それはちょっとおもしろくない。「たん」のように、思わす目を背けてしまう汚い(?)かたまりのままほうり出す。
 ぞっとするでしょ?
 これが、詩。
 「意味(頭)」ではなく、まず「肉体」が反応してしまう。ひるんでしまう。つまずいてしまう。そこからどうやって立ち直って、自分のことばを動かすか。
 山本のことばを「味わう」のではない。自分の「肉体」を動かす。吐き出されたものの上に、自分の「肉体」のなかからことばを吐きかけるのか、知らん顔して通り過ぎるのか、あるいは「親切」に後片付けをするのか。
 大げさに言うと、読者は「生き方」を問われる。




*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(65)

2019-07-23 09:01:55 | 嵯峨信之/動詞
* (生きているときも)

蟻は
せいいつぱい太陽を浴びて這つている

 「這う」。確かに蟻は人間の目の高さから見ると「這う」ように動いている。けれど蟻に「這う」という自覚はないだろう。
 嵯峨は「這う」という動詞のなかで蟻になっている。いや、「這う」という動詞になるために蟻を利用している。蟻を描くのではなく「這う」を突き詰めたいのだ。
 「這う」という動きは「困難」「つらさ」といっしょにある。

糸のような時の上をたどりながら
それでもあるかないかの死の影を落している

 「這う」は「たどる」と言いなおされている。「死の影」が蟻の「同行者」になる。








*

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estoy loco por espana (番外33)

2019-07-22 15:18:15 | estoy loco por espana



Joaquin Llorens Santaの作品。
シンプルな平面の交差からはじまる複雑な空間。
空間は外へ広がっていくのか、内部を広げて行くのか。
空間の相反する動きは、宇宙そのものにある。
空に広がる宇宙、心の内部に広がる宇宙。
un espacio complejo que comienza en la intersección de planos simples.
el espacio se expande hacia afuera o se expande el interior?
el movimiento contradictorio del espacio esta en el universo mismo.
un universo que se extiende por el cielo, un universo que se extiende por el corazon.
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estoy loco por espana (番外32)

2019-07-22 15:07:14 | estoy loco por espana






Joaquin Llorens Santaの作品。
立っている男か、あるいは男の頭部か。
頭である、と思う。
ふと抽象化されたジャコメッティを思う。
男の中からまっすぐに直立する意思を取り出し、構成した作品だ。
下の部分、頭を支える首が太い。
その強さは肩の大きさ、さらに男の肉体の大きさを感じさせる。
強靱な肉体が、男の鋭利な精神、透徹した意思、激しい感情を支えている。
Hombre de pie o cabeza de hombre?
Creo que es una cabeza.
Pienso en el abstraído de Giacometti.
Es el trabajo que sacó la intención de pararse directamente desde el interior de un hombre y lo constituyó.
Parte inferior, cuello que soporta la cabeza es grueso.
La fuerza es el tamaño de los hombros y el tamaño del cuerpo del hombre.
Un cuerpo fuerte apoya el espíritu afilado de un hombre, la intención transparente y las emociones intensas.
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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(64)

2019-07-22 08:10:54 | 嵯峨信之/動詞
* (生でもなければ死でもない)

--ぼくの領地
詩とは
そこへ至る遠い道だ

 この詩の「遠い」は「長い」あるいは「困難な」の比喩である。
 「道」そのものが「遠い」ところにあるのではない。嵯峨はすでに「道」を歩んでいる。
 「歩く」は「至る」という動詞の中に隠れている。
 きのうの詩では「遠く(遠い)」は「遠ざかる」という動詞になった。「遠ざかる」は「去っていく」。「至る」は自分から近づいていく。
 揺れ動く青春のこころ(この詩を書いているとき、嵯峨は青春ではないが)が見える。







*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(63)

2019-07-21 09:19:56 | 嵯峨信之/動詞
* (たしかに)

ぼくはうわのそらで話を心の遠くに聞いている

 「うわのそら」と「心の遠くに」はおなじ。なぜ言いなおしたのだろう。「うわのそら」では「実感」ではないと思ったからだ。慣用句は「意味」をつたえるには便利だが、きもちをつたえることにはならない。
 「遠い」は、きのう読んだ詩にも登場した。

しかしぼくの心の一方から他の一方への間ほど遠いところはない

 きょうの詩は「遠い」(形容詞)ではなく「遠く」(副詞)。「動詞」をつかって言いなおすと「遠ざかる」になるか。

ぼくはうわのそらで話を聞き、こころは話から遠ざかっていく

 動詞にすると「肉体」が動いていく。







*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(62)

2019-07-20 09:58:39 | 嵯峨信之/動詞
* (遠いところはどこにもある)

しかしぼくの心の一方から他の一方への間ほど遠いところはない

 嵯峨の詩(ことば)は論理的である。論理という構造の中に詩がある。
 そう理解した上で、あえて書いておく。
 論理は危険だ。何かを言った気持ちにさせてしまう。読んだ気持ちにさせてしまう。論理にあわせて、ことばが動いてしまう。それが何かを「発見」させた気持ちにさせる。
 嵯峨の書いている一行はまったく別な風にも言い得る。

しかしぼくの心の一方から他の一方への間ほど近いところはない

 どんなに矛盾した思いも、こころのなかでは重なり合っている。あるいは、それはまじりあって一つになっている。だから、ことば(論理)にならない。意味にならない。喉を駆け抜けていく叫びにしかならない。そういう日を経験したことがありませんか?








*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(61)

2019-07-19 13:26:20 | 嵯峨信之/動詞
* (窓に凭れていると)

〈それでもあなたを信じる〉という結びの手紙を
 書き了えたばかりだ

 「結び」を「了えた」と言いなおす。そのとき何かが「完結」し、嵯峨の「肉体」から離れていく。
 主観が客観にかわる印象がある。
 これは最終行で、こう言いなおされる。

抵抗はこのようにいつも静かな敗北に終わる

 「結び(のことば)」は「抵抗」である。それは「敗北」にかわることで「完結」する。「結び」がなければ「敗北」ははじまらない。
 嵯峨の「かなしみ」はいつも論理を背負っている。









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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(60)

2019-07-18 11:52:47 | 嵯峨信之/動詞
* (ぼくはきみを知っている)

〈泣くことを覚える以前のきみを〉
きみはぼくを知らぬという

 泣く。ひとは泣き叫びながら生まれる。しかし、これは肉体の反応である。「覚え」てから泣くのではない。だから「泣くこと覚える以前」というのは悲しみを覚える以前ということになる。うれしくて泣くということもあるから、喜びを覚える以前ということでもある。
 悲しみや喜びによって、時に区切りができる。以前と以後がある。そして、人間はそれを「覚える」。
 「覚える」は「知る」につながる。しかし必ずしもそれは一致しない。
 人には知っていることと知らないことがある。覚えていることと覚えていないことがある。ふたりはいつ出会ったといえるのだろう。いつ出会うのだろう。いま出会っているのか。これから出会うのだろうか。きみはぼくを、いつ「覚える」のだろうか。









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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(59)

2019-07-17 09:41:47 | 嵯峨信之/動詞
同行者

* (ある空白について)

鯉とも亀ともつかぬものが心のなかで重く動いていることがある
そのあとにおこる空白の遠さよ--

 「鯉」も「亀」も水中を泳ぐ。「心のなか」は、このとき「水中」だ。そして、鯉の動きも亀の動きも重い。嵯峨のこころは、重いもので満たされている。
 「空白」を「おこる」(起こる)という動詞でとらえているのがおもしろい。「そのあと」の「あと」を手がかりにすると、「空白」は最初から存在するのものではなく、何かが動いたあとで、「おこる」。
 「空白」だから何も書かれていない。何でも書ける。そういう「空白」を「同行者」とするのか。あるいは「空白」を埋めることばを「同行者」とするのか。
 いずれにしろ「同行者」との距離は「遠い」。









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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(58)

2019-07-16 10:41:20 | 嵯峨信之/動詞
* (秋になると)

海を渡つていつたということだが帰つてこなかつた

 この最終行だけを引用すると「誤解」を与えることになると思う。「秋」が「海を渡つていつた」と。全行を読むと「彼」が海を渡っていった。それきり帰って来ないので、彼に会っていないとわかるのだが。
 しかし、私はあえて「誤読」する。
 人との出会い、離別には、時と場所がある。決定的な別れの場合、その人がいなくなるというだけではなく、いっしょに過ごした「時間」そのものが失われた感じがする。
 もちろん季節はめぐってくるが、めぐってくるからこそ、「あの秋」はもう戻ってこないと強く感じる。








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