ロバート・ゼメキス監督「マーウェン」(★★★★)
監督 ロバート・ゼメキス 出演 スティーブ・カレル、人形たち
スティーブ・カレルが人形をつかって写真を撮っている。それをロバート・ゼメキスが映画にしている。
と、映画なのに、わざわざ映画にしている、と書いたのは。
これは、つまり「虚構」を少しずつつくりあげることで、自分自身を救っている男の話であり、この男を映画にすることでロバート・ゼメキスは自分自身を救っているのだ。
それが証拠(?)に、この映画は「事実」に基づいているらしいが、なんと「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の「タイムマシン」が登場するからである。「バック・トゥ・ザ・フューチャー」をつくっていたとき、ロバート・ゼメキスがどんな問題をかかえていたのかしらない。けれどロバート・ゼメキスにとって映画をつくることは彼自身を救い出すことだったのだと感じるのである。
ロバート・ゼメキスはスティーブ・カレルをつかって、人形を撮影し続けた写真家を描いている。スティーブ・カレルは人形をつかって写真を撮る男を演じることで彼ではなくなっている。人形たちはスティーブ・カレルによって少しずつ形を変え、演技しながら人形ではなくなっていく。人形ではなく、スティーブ・カレルのまわりにいる実在の女性になっていく。これは奇妙な奇妙な、生々しい手触りのある虚構なのだが、これを周囲の人が虚構であると突っぱねるのではなく、「現実」として受け入れながらいっしょに生きている。
このとき、虚構って何なのか。虚構によって救われているのは何なのか、という奇妙な「疑い」が私の肉体のなかから現われる。「疑い(疑問)」という「名詞」ではなく「疑う」という「動詞」になって動いているのを感じる。
人形に引きつけられているのか、スティーブ・カレルに引きつけられているのか、映画のなかで展開されるストーリーに引きつけられているのか。言い換えると、私は何を見ているのか。それがよくわからない。
スティーブ・カレルは変な役者で、色がない。透明である。そして、その透明が沈んでいく。クリストフ・ワルツも透明な役者で、芸達者だが、透明な部分は沈んでいかない。輝きになって存在を引き立てる。悪人をやってもなぜか色気がある。ところがスティーブ・カレルは前任をやっても色気がない。
あ、脱線したか。
で、その色気のなさが、この映画では奇妙な力になっている。人間が本来持っている色気(いのちの輝き)というものが人形に乗り移って、虚構のなかで生きている。さらにそれが動くことで、さらに色っぽくなる。その人形を撮った写真が、人形よりもさらに色っぽい。写真の中に、人形に「物語」を吹き込んだ人間のいのちそのものが映し出されているという感じなのだ。
スティーブ・カレルはぜんぜん色っぽくない。目立たない。けれど人形になったスティーブ・カレルは色っぽく、彼を取り巻く女性たちにしっかり愛されている。女性たちが人形のスティーブ・カレルのいのちを助け続ける。(あ、これは、人形劇?のストーリーの話です。)
奇妙な奇妙な映画なのだけれど、人形を少しずつ動かしているので、「手作り」の感じが残っていて、それもまた魅力的だ。もしスティーブ・カレルの役をクリストフ・ワルツがやったらぜんぜん違っていただろうなあとも思う。
あ、最初にロバート・ゼメキスのことを書いたのに、途中からすっかり消えてしまっている。私はロバート・ゼメキスの映画はあまり好きではない。どういうわけか「細部」にリアリティーを感じられない。嘘っぽい映像に感じる。「ほんもの」ではなく「嘘(虚構)」つくるという意識が強いのかもしれない。でも、それがこの映画では、とても効果的だ。人形は人間ではない。けれど人間を演じる。人間の「意識」のなかで共演する。何か、そうするしかない「意識」のあがきのようなものが、スクリーンからにじみ出している感じがする。
「フォレスト・ガンプ 一期一会」をもう一度見る機会があるかな、あればいいなあと思った。
(中洲大洋スクリーン2、2019年07月24日日)
監督 ロバート・ゼメキス 出演 スティーブ・カレル、人形たち
スティーブ・カレルが人形をつかって写真を撮っている。それをロバート・ゼメキスが映画にしている。
と、映画なのに、わざわざ映画にしている、と書いたのは。
これは、つまり「虚構」を少しずつつくりあげることで、自分自身を救っている男の話であり、この男を映画にすることでロバート・ゼメキスは自分自身を救っているのだ。
それが証拠(?)に、この映画は「事実」に基づいているらしいが、なんと「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の「タイムマシン」が登場するからである。「バック・トゥ・ザ・フューチャー」をつくっていたとき、ロバート・ゼメキスがどんな問題をかかえていたのかしらない。けれどロバート・ゼメキスにとって映画をつくることは彼自身を救い出すことだったのだと感じるのである。
ロバート・ゼメキスはスティーブ・カレルをつかって、人形を撮影し続けた写真家を描いている。スティーブ・カレルは人形をつかって写真を撮る男を演じることで彼ではなくなっている。人形たちはスティーブ・カレルによって少しずつ形を変え、演技しながら人形ではなくなっていく。人形ではなく、スティーブ・カレルのまわりにいる実在の女性になっていく。これは奇妙な奇妙な、生々しい手触りのある虚構なのだが、これを周囲の人が虚構であると突っぱねるのではなく、「現実」として受け入れながらいっしょに生きている。
このとき、虚構って何なのか。虚構によって救われているのは何なのか、という奇妙な「疑い」が私の肉体のなかから現われる。「疑い(疑問)」という「名詞」ではなく「疑う」という「動詞」になって動いているのを感じる。
人形に引きつけられているのか、スティーブ・カレルに引きつけられているのか、映画のなかで展開されるストーリーに引きつけられているのか。言い換えると、私は何を見ているのか。それがよくわからない。
スティーブ・カレルは変な役者で、色がない。透明である。そして、その透明が沈んでいく。クリストフ・ワルツも透明な役者で、芸達者だが、透明な部分は沈んでいかない。輝きになって存在を引き立てる。悪人をやってもなぜか色気がある。ところがスティーブ・カレルは前任をやっても色気がない。
あ、脱線したか。
で、その色気のなさが、この映画では奇妙な力になっている。人間が本来持っている色気(いのちの輝き)というものが人形に乗り移って、虚構のなかで生きている。さらにそれが動くことで、さらに色っぽくなる。その人形を撮った写真が、人形よりもさらに色っぽい。写真の中に、人形に「物語」を吹き込んだ人間のいのちそのものが映し出されているという感じなのだ。
スティーブ・カレルはぜんぜん色っぽくない。目立たない。けれど人形になったスティーブ・カレルは色っぽく、彼を取り巻く女性たちにしっかり愛されている。女性たちが人形のスティーブ・カレルのいのちを助け続ける。(あ、これは、人形劇?のストーリーの話です。)
奇妙な奇妙な映画なのだけれど、人形を少しずつ動かしているので、「手作り」の感じが残っていて、それもまた魅力的だ。もしスティーブ・カレルの役をクリストフ・ワルツがやったらぜんぜん違っていただろうなあとも思う。
あ、最初にロバート・ゼメキスのことを書いたのに、途中からすっかり消えてしまっている。私はロバート・ゼメキスの映画はあまり好きではない。どういうわけか「細部」にリアリティーを感じられない。嘘っぽい映像に感じる。「ほんもの」ではなく「嘘(虚構)」つくるという意識が強いのかもしれない。でも、それがこの映画では、とても効果的だ。人形は人間ではない。けれど人間を演じる。人間の「意識」のなかで共演する。何か、そうするしかない「意識」のあがきのようなものが、スクリーンからにじみ出している感じがする。
「フォレスト・ガンプ 一期一会」をもう一度見る機会があるかな、あればいいなあと思った。
(中洲大洋スクリーン2、2019年07月24日日)