詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

杉本真維子「皆神山のこと」

2020-07-28 17:21:49 | 詩(雑誌・同人誌)
杉本真維子「皆神山のこと」(「イリプスⅡ」31、2020年07月10日発行)

 杉本真維子「皆神山のこと」は四連で構成され、「起承転結」になっている。いや、起承転結ではないのかもしれないが、三連目が「意味」だけではなく、ことばのリズム、選ばれていることばが異質なので、「転」を連想させる。
 そして。
 ここが問題。三連目だけ、ことばのトーンが違う。そのことによって、ことば全体を二重化する。その「二重性」を感じさせるところに詩があるというか、詩を感じるのだが……。
 起承転結というのは、つづめて言うと、最初と最後、かけ離れたものを結合し閉じることで、世界を二重化することなのだ。ものと、ことばの二重化。「ふつうの意味のことば=もの(存在)」と「ことばだけでとらえることができる精神世界」を結びつけ、二重化し、「精神世界」への移行をうながす運動なのだ。
 でも、どうなんだろう。
 杉本のことばは、この作品の中では「片手落ち」ということばをめぐって動く。一連目に出てきて、それを追いかけ、「起承転結」を展開し、「片手落ち」でおわる。
 この「完結性」は、詩というよりも「小説」ではないだろうか。飛躍というよりも論理的結論と言えばいいのか……。

皆神山のふもとにすむ
こやまというひとに
近親の死を
片手落ち、と言われたことがある
あれは、鼻歌のような
陽気な吉日
現代的な駐車場から、
ふわっふわっと、
白衣が揺れるのを見た
ふだんは薬剤師をしているという

 ここには、多くの省略がある。省略せずに書けば「小説」になるものが、省略によって詩になっている。このときの詩とは、「ことば」が「ことば」として存在するということである。「ことば」は「ことば」であることを頼りに、そこに存在しているという「不安定」な感じが、想像力を刺戟し、想像力によって飛躍せよと読者に呼びかける。それを詩だと感じさせる。
 言い直すと。
 
片手落ち、と言われたことがある

 だれが、そう言われたのか。読者はどうしてもここで、そうかんがか手しまう。書かれていないから。書かれていないことを考えるように、ことばが動いている。これを想像力を刺戟すると私は呼んでいる。
 ふつうの詩ならば(あるいは、私小説でもそうかもしれないが)、「私」が言われたのである。作品の「主役」は「私」。でも、この作品では、「私」は完全に杉本と重なるわけではない。
 で、それが証拠に、二連目。

導かれ
別の日には
皆神山でおみくじをひいた
あの群発地震の観測所も
松代大本営跡も見学し
よい思い出であった
けれど
集合場所には誰よりも早く到着し
礼を尽くしているような顔をして
ほんとうは周囲を牽制していた
そういう社会性のある男には
どうしてもなりたくなかった
だから
皆神山よ

 「そういう社会性のある男には/どうしてもなりたくなかった」。一連目の「こやまというひと」は「社会性のある男」と言い直され、「そういう男にはなりたくなかった」。もし、省略されている「私」が杉本であるならば、二連目は「そういう社会性のあるひとには/どうしてもなりたくなかった」であるだろう。杉本は女なのだから。
 もちろん杉本は、ここに書かれている(書かれていないが、登場する)「私」は架空の存在であり、杉本自身ではない。架空の存在を「男」と想定し、ことばを動かしていると言い張ることはできる。つまり、「論理」はあとからテキトウに説明できる。(論理はいつでも「後出しじゃんけん」である。だから、私はそれを信じない。)
 私が指摘したいのは「ひと/男」という「二重性」のなかでことばが動き、その「二重性」を利用して(罠に誘い込むようにして)「ストーリー」がすすめられていく。それが「小説」の構造なのだということである。
 よく読まずに書くのだが、杉本は、非常に「論理性」の強い文体を生きている。そして、論理性の強さゆえに、論理にならないものがぽきっぽきっと折れるようにして噴出する。そこにことばの悲鳴のようなものが聞こえ、それが詩を感じさせる。
 まあ、こんな「感覚的」なことは読まずに書けることである。(読まずに書くのだが、と書いたのは、そういう意味である。)
 だから、そういうことはメモとして残しておくことにして……。
 論理性、散文性を説明しなおすと、こういうことである。
 「集合場所には誰よりも早く到着し/礼を尽くしているような顔をして/ほんとうは周囲を牽制していた」という人間観察力、あるいは批評性。これは、どうしても「散文」のものである。「事実」を積み重ねて(集合場所には誰よりも早く到着し/礼を尽くしているような顔をして)、その上で「結論」を提出する。「ほんとうは周囲を牽制していた」と。
 詩は、こういう面倒なことをしない。
 ただ「結論」があって(あったと仮定して)、それを次々に解体し「意味」を「無意味」に変えていくのが詩だ。

 あっ、脱線したか。
 でも、どこから脱線したのか、それがよくわからない。意外と、脱線したところにこそ「線路」があるべきだったのかもしれない。
 引き返してみる。

 「片手落ち、と言われたことがある」とは、誰が言われたのか。わからない。わかることは「言われた」という「過去」と、それを「ある」という「現在」形で思い出しているという「二重性」である。「過去」は存在するように見えるが、それはいつでも「ある」という形でしか表現できないという問題がある。思い出した瞬間、「過去」は「いま」と区別がつかない。「時間の距離感」が存在しない。
 あらゆることが、ことばのなかでは「距離感」を失う。そして二重化する。
 「現代的な駐車場から、/ふわっふわっと、/白衣が揺れるのを見た」。誰が、白衣を見たのか。そもそも「白衣」を見たのか、「揺れる」を見たのか。さらに「ふだんは薬剤師をしているという」のは、誰のことか。「白衣」のひとか、それとも「こやまというひと」か。こういうことは、書いている杉本には「解決済み」のことである。しかし、読者にとっては「未解決」というか、初めて聞かされることである。
 既知と未知が出会う。
 このとき、「未知」こそが詩である。「未知」を印象づけるために「既知」を論理的には提出しない、という「手法」が、ここでは選ばれていることになる。これは「小説」というよりも「芝居(演劇)」の手法であると捉えた方がいいかもしれない。
 「芝居(舞台)」のよしあしは、役者が「過去(既知)」を舞台にあらわれた瞬間、どれだけ抱え込んでいるか、役者の過去を「未知」の手触りとして感じさせるか。これを「存在感」というが、そういうものが「こやまというひと」に託され、それを利用して、杉本のことばは「二重性」を運動そのものに変えていく。
 未知の存在感(過去がある、と感じさせること)を利用して、杉本は詩を「演出する」野である。演出家が訳者の存在感を利用して、芝居にリアリティを与えるように、杉本は「過去があると感じさせることば」を利用して、作品にリアリティを与えていく。「近親の死を/片手落ち、と言われたことがある」。この行を読まされたら、どうしたって、私(読者)の知らない「過去」が書かれている、と感じるでしょ?

 ああ、だんだん、ことばの動きが面倒になってきた。端折ってしまおう。
 杉本の作品の最後は、こうである。

強制労働のころ、一本の丸太を枕に、並んで眠られれた
朝は、丸太の端を、一度打たれて
一斉に叩き起こされた
やはり、片手落ち、と言われた

 「眠らされた」「叩き起こされた」のはだれか。「こやまというひと」か。もしかすると、「杉本」かもしれない。話を聞きながら、「こやまというひと」になっているのかもしれない。「叩き起こされ」て、目がさめて、ほら、知らなかっただろう。そういうことを「片手落ち」というのだ、と、「杉本」は言われた。
 覚醒の中で、「こやまというひと」と「杉本」が、ずれながら重なる。この「二重化」の運動が書かれているのだと思う。
 で。
 ちょっと追加すれば、この最後の一行には「ことがある」がやはり省略されているのだ。

やはり、片手落ち、と言われた「ことがある」

 そう補うと、一連目と重なることがよくわかる。
 「ことがある」ことがあったのだ。何かが起きて、それが「既知(存在感)」に変化して存在したことがある、ということがあったのだ。それが、あるのだ。
 でも、杉本は「ことがある」を書かない。断ち切ってしまう。ここではあえて「言われた」と「過去」を放り出す。「存在感」そのものを放り出す。その「過去」を拾いに行くとき、読者は、「杉本」になる。「杉本」になって、「言われたことがある」を自分の問題として引き受けてしまう。








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破棄された詩のための注釈01

2020-07-27 22:54:36 | 破棄された詩のための注釈

破棄された詩のための注釈01

 「花は盛りを過ぎていた」と書いて消した。「花は、これから開こうとしていた」の方が、主人公の悲しみを孤立させる、より印象的になると思った。しかし「花は」と書いたあと、ふたたび「盛りを過ぎていた」とつづけてしまった。
 深紅の花弁のふちにあらわれた細い金色が、花を浸食する錆のように思えた。
 どうしても、「錆」ということばを書きたかったからである。
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鎌田尚美「洪水」ほか

2020-07-27 17:06:36 | 詩(雑誌・同人誌)


鎌田尚美「洪水」ほか(「現代詩手帖」2020年07月号)

 新人作品(投稿欄)を読んでみる。
 鎌田尚美「洪水」を暁方ミセイと時里二郎の二人が選んでいる。

畦の雑草も水を引き入れたばかりの田も、な
にもかもが 雨に 雨に 打たれていた
真っ白な鈴蘭は毒を孕み、薄桃色の夕化粧が
花弁に赤い脈を打ち、ぼおうっと薄白く煙る
中で全身を雨に打たせ、生生しく撓るように
揺れ騒めいている

 私は田舎育ちなので、こういう風景はすぐに思い出すことができる。でも、都会のひとはどうなのだろう。
 私は五十年ほど前「詩学」に投稿していた。そのとき、私の集落で見たものを書いたのだが、飯島耕一に「これはトンボや蝉のいる世界だね」と一蹴された。私はトンボや蝉と一緒にいた。そして、そうか「現代詩というのは、こんな田舎のことを書かないのか」と思った。
 で。
 どうなんだろう。「水を引き入れたばかりの田」。これを何人が「肉体」そのものとして受け止めることができるか。水が広がって、嵩を増して、落ち着く。その落ち着きの静かな匂い。雨に打たれる畦と雑草のよろこび。雨と田の水と草の匂いのまじる豊かさ。
 フェイスブックなどを読むと、時里は自然のなかを歩いているから、まあ、知っているのだと思うけれど。でも、それをそのまま書くことで、私の投稿時代から五十年もたって、いったいだれがこれを実感できるのだろうかと、疑問に思う。
 「真っ白な鈴蘭は毒を孕み」というのは、そのころ私が「大都会」と憧れていたボードレーヌを思い出させる。「毒」がそう感じさせる。「薄桃色の夕化粧が花弁に赤い脈を打ち」は、やはりボードレーヌかなあ。ランボーかもしれないし、ディラン・トマスかもしれない。いずれにしろ、五十年よりも、もっと古い。
 もちろんいまも、そういう風景はあるし、そういう感覚もある。でも何か、嘘っぽい。そして、もちろんそれは承知のことなのだろう。たとえば「グラジオラス」が実は「ビニール袋」だったというような「今風」な認識がことばとして追加されるのだが、この「現実」の出し方が、私には非常に「作為的」に見える。こういう「作為」が時里の世界に通じるとは理解できても、私は、ちょっと「いやな感じ」を覚えてしまう。「グラジオラス」が「ビニール袋」だったのか、「ビニール袋」「グラジオラス」に見えたのか、そういうことを書くなら書くでおもしろいとは感じるが、そこへ導くことばが「畦の雑草も水を引き入れたばかりの田」というのは、どうかなあ、と疑問に感じるのだ。
 この詩には、

渡辺よ そうなのか
本当はなにもかもがいやになって死んでもいい
と思う雨の夜があったんじゃないのか

 という魅力的な三行がある。この「認識(記憶)の顕現」は、「畦の雑草も水を引き入れたばかりの田」の世界につづくならつづくで、私には納得できる。また、グラジオラスがビニール袋だったという世界につづいても納得できる。しかし田の水、グラジオラスがビニール袋という経路を通ったあとだと、違和感が残る。その「違和感」こそが「現代詩」の「現代」の部分、といわれれば、まあ、そうなのかもしれないと思うしかないが。

 暁方が選んでいる、宇ノ倉なるみ「大丈夫。」

右足の親指の変化にきづいた
靴下の中になにかどろっとしてものが
こころもとなく纏わりついている
そしてまるで歯科医にかかったかのように
右足の親指の感覚が
ぼやけている
なんだかあたたかい
これは
指が溶けているんだ

 「どろっとしたもの」「纏わりつく」が「歯科医(たぶん、局部麻酔麻酔)」を経て、「ぼやけ」「あたたかい」から「溶ける」という動詞に変化する。「纏わりつく」と「溶ける」が「ひとつ」になる感じを、「歯科医」という科学的(?)なものが「橋渡し」する。
 宮沢賢治だなあ、と思う。
 鈴木康太「昼」(暁方選)の、

股は
りん然と
にがい春に
そまってゆき

 この「りん然」と「にがい」の組み合わせなども。

 時里が選んでいる作品では、張文経「はだから」がおもしろい。

空が湿疹しているから
かきむしった
指がすこしずつゆびになり
ゆ、び、になって
水 といいちがう仕草でこぼれた

 「湿疹」の「湿」のなかに、その「サンズイ」のなかに「水」がかくれている。それが「ゆ、び、」という二音節を経て「水(み、ず、)」にかわる。これを「仕草」という名詞のなかに閉じこめる。隠す。その隠し方(ことばの仕草)は、「物語」の入り口である。そして、その「ことばの仕草」というのは、物語のすべてである。

傷から生まれてくる
もっと小さいものたちを
まだ
見ることができる、できる、よ、
あれを血とはよばないんだよ、
という人はそのとき そらと名のった

 「傷」は「湿疹」を「かきむしった」ことから生まれたのだろう。だから「水」が「血」に変化していく「物語」は必然でもある。
 それにしても、そのあとで「そらと名のった」と書き出しの「空」へと循環させる(ことばをひきもどす)手法はおもしろいなあ。ここから必然的に「二重」というものが(物語の二重性というものが)、さらに複雑化していく。
 先月も書いたことだが、選ばれた作品を読むと、なぜか選者の作風が見えてくる、というのはおもしろいものだ。











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(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
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ワーケーション?

2020-07-27 14:57:18 | 自民党憲法改正草案を読む
ワーケーション?
   自民党憲法改正草案を読む/番外371(情報の読み方)

 2020年07月27日のNHKニュース。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200727/k10012534331000.html?fbclid=IwAR0KCVfBt69Q6n0zVsDtXyKp3ycyvxmjdDsgCLt4VGnRvUCVHe50xP2rg8U

菅官房長官「ワーケーション」普及で観光促進を

 「ワーケーション」って何? こう説明されている。

新型コロナウイルスの影響で観光需要が低迷するなか、菅官房長官は感染対策を行ったうえで「Go To キャンペーン」の活用を呼びかけるとともに、観光や働き方の新たな形として休暇を楽しみながらテレワークで働く「ワーケーション」の普及に取り組む考えを示しました。

 ワーキング+バケーション、ということだろう。働きながら観光、観光しながら働く。 そんなことして楽しい? 仕事を離れるからバケーションなのだ。リフレッシュするためにバケーションかあるのだ。
 なぜ、観光にまで行って、働かないといけないのか。
 これでは仕事中毒だろう。

 菅は、「いや違う。観光しながら働くのではなく、観光地にオフィス(サテライト)をつくって働く」というかもしれないが。

 それにしても。
 日本の産業は、もう「観光産業」しか残っていないのか。
 製造業は壊滅、ということなのだろうか。たしかにそうかもしれない。
 トヨタだって、電気自動車で出遅れている。10年後も存在しているかどうかは、あやしい。存在していたとしたって、いまのソニーくらいの印象だろう。ウォークマンのソニーがアイポッドのマックにとってかわられたように、トヨタは電気自動車をつくる会社に取って代わられる。
 だから、日本独自の「文化」を売る「観光産業」しか道はない、というのは、わかる。
 でも。
 その観光産業にしても、外国人観光客が入ってこないことには「日本の収入」にはならない。
 低賃金化がすすむ日本人は、旅行したくても旅行できない。日本人が日本国内を旅行していても、日本が豊かになるわけではない。
 いま「goto」を利用している人は、金のあるめぐまれた人間だけ。
 彼らだって、何度も何度も「日本の観光地」を、自腹を切って旅行などしないだろう。
 頼みの外国人観光客は、コロナがおさまらないかぎり日本にはやってこない。
 外国政府が、日本を「渡航禁止国」に指定すれば、その国のひとは入って来ない。
 日本が新しい「感染源」になるのを防ぐことかいちばん大事だろう。
 観光産業の「休業補償」ができないなら、観光産業で働いている人に、一時的にしろ、他の産業で働いてもらう制度を作ればいいのだ。
 外国人労働者に頼っていた産業は、外国人労働者が日本に来なくなったために苦境に陥っているところがある。
 そういう「職場」を観光産業に従事しているひとを斡旋するシステムを確立すべきなのだ。
 一般の企業では、仕事がなくなったとき( 解雇されたとき) 、人は、他の仕事を探す。
 そういうことを観光産業の従事者にも、積極的に推し進める。転職をサポートするシステムを作るべきだろう。
 少なくともコロナが終息するまでは、観光地の復活・復興というのは期待できない。
で。
 こういうことを考えれば考えるほど、「goto」は、観光産業を支援するふりをしながら、菅とか二階とか( そのお友だち企業) が「中抜き」で金稼ぎをするためのものだとわかる。
 「goto」をすすめるにしても、それはコロナ終息が絶対条件である。

 「ワーケーション」というわけのわからないことばで、ごまかすな。
 「goto」もそうだが、新しいことば、特にカタカナ( 英語) のことばが出てきたら、それは国民をだますためのことばだと判断した方がいい。
 だれもがわかることばで言い直すと、嘘がばれるから、「新しいことば」に頼るのだ。












#検察庁法改正に反対 #安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


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近藤久也『水の匂い』

2020-07-26 18:45:52 | 詩集
近藤久也『水の匂い』(栗売社、2020年02月25日発行)

 「忘れられたいきかた」という詩がある。「いきかた」は「生き方」だろうか。「行き方」ではないだろう。

好きだな
気配だけって

遠慮がちに
入り込んでくる

 でも、「気配」というのは何だろう。近藤は、こんな風に言い直している。

似たものに
匂い
錯覚

似て非なるものは
妄想

酷似なのが
記憶と怖れ

 なんとなく、納得する。納得したことを、別のことばで説明するのはむずかしい。私のことばで言い直すのはむずかしい。
 詩というのは、こういう瞬間に動いているのだと思う。

 でも。

 何が「でも」なのか、言うことはむずかしいが。
 でも、私は、「浦富海岸」のような具体的な作品の方が好き。

よれよれ男が
腰にパンの塊ぶらさげて
橋の途中までやってきた
欄干とんとん手で鳴らし
しわしわ手指でパンひきちぎり
川面へ放り投げる
いったいどっから寄ってきた
数十匹の銀色の魚ども
我先にと喰い争って
飛び跳ね
パンの塊わたされて
半信半疑でやってみた
来るわ来るわきりもなく
次から次へと
半狂乱の魚ども
いったいあれはなんの魚だ?ウグイ?
(腹は赤くないのに?)
どっかから
もうじき鯉や人面魚も
寄ってくるはず、すごいぞすごいぞ
人面魚ってどんなやつ?
考えてると男は袂の家へ
吸い込まれるようにはいっていった

 途中に出てくる「半狂乱」ということば。これは、先に引用した詩の「気配」とどう違うかな? いや、まったく違うものだとわかっているのだが、私は、なぜか考えてしまうのだ。どこか「通じる」と。
 「狂乱」に重点を置くと、まったく違っている。「狂乱」だけなら「錯覚」「妄想」、あるいは「記憶(怖れ)」に通じる。何か、限界を超えた感じ。でも、超えないのだ。そこに別の世界があると感じながら、超えない。ふみとどまる。
 「半分」だけ、それを感じる。
 その「半」に重心を置くと、「気配」というものと通じないだろうか。

 「狂気」の世界へ、越境するか、しないか。それが、はっきりしない。
 この不思議な「粘着力」。
 この粘着力を引き出しているのが、助詞「を」を省略する文体かもしれない。「を」だけではなく、「の」も省略されている。

よれよれ「の」男が
腰にパンの塊「を」ぶらさげて
橋の途中までやってきた
欄干「を」とんとん手で鳴らし
しわしわ「の」手指でパン「を」ひきちぎり

 助詞は、ことばとことばを「接続」させる働きを持っているが、一方で「接続しないものがある」ということを明確にしながら、それを「接続」させるのかもしれない。「切断されたものがある」。そのばらばらのものを「接続する(接続させる)」ものが助詞。
 しかし、その助詞をあえて省略すると。
 うーん。
 意識が「文法」(ことばの整え方)を乗り越えて、ぬるりと「存在」を接続させてしまう。
 この「つながり」は何?
 「半分の狂気」であると、私は呼びたい。「半分の文法」、「半文法」と呼んでみたい。
 近藤にとっては、きっと「半(半分)」ということが大事なのだ。「一」として完結するのではなく、どこか開かれている。どっちつかず。どっちつかずのまま、現実から越境していくのか、現実に踏みとどまるのか。越境を意識した瞬間に、半分は越境してしまっていると言うのは簡単だから、それは「保留」しておく。
 「半」が重要なのは、

半信半疑

 ということばからもわかる。「半信半疑」を「半分」ということばをつかわずに説明しようとすると、とてもむずかしい。そして、それは説明を必要としないくらい、だれにでもわかること。このへんな感覚こそが詩なのだ。
 「櫂と櫓」は、これを「説明しない」ということばであらわしている。「ことば」にはならない、けれどそこに存在してしまうものが詩。そして、「ことばにならない」と言いながら、ことばで書くのが詩。

父は
説明しない
あからさまなことも秘密のことも
なにごとかの経緯を
なにごとかの成り立ちを
教えないし、しからない
否定しない
主張しない 誇らない

 これは何のことかというと「櫓の漕ぎ方」のことである。父は櫓を漕ぐことができる。兄はそれをやってみるが、舟は進まない。
 「半分」わかっているのに、「半分」わからない。舟は進まないけれど、舟はそこにある。「櫓を漕ぐ」という「肉体」もそこにある。

兄が櫓をにぎっていた
父がなにか言っていた
ぎこちなく兄が
前後に動かした
水脈はすべらず不安そうに
ギコギコ右に左に
舟は揺れた
父の言葉は聞こえなかった











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毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

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2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
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2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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イ・ウォンテ監督「悪人伝」(★★★★★+★★★★★+★★★★★)

2020-07-26 12:31:03 | 映画
イ・ウォンテ監督「悪人伝」(★★★★★+★★★★★+★★★★★)

監督 イ・ウォンテ 出演 マ・ドンソク、キム・ムヨル、キム・ソンギュ

 これは、もうわくわく度がとまらない大傑作。
 何が傑作の理由かといって……。
 チラシに、こう書いてある。

極悪組長×暴力刑事vs無差別殺人鬼

 さて、あなたがこの映画の出演依頼を受けたとしたら、だれを演じたいですか? この「問い」にどう答えるべきか考えると、傑作の理由がわかる。
 映画でも小説でも、それが「傑作」であると感じるのは、自分を主人公に重ねて、主人公のこころの動き(行動)に心酔するからだ。こんな風に生きたい。こんな風に言ってみたい。
 さて、「これが私の夢の生き方だ」と、言いたいのはだれ?
 見終わっても、「答え」が見つからない。

 社会の常識からいえば、まあ、刑事がいちばん無難。暴力刑事ではあるけれど、社会のために働いている。他人から「後ろ指」さされることもない。与えられた仕事をするだけではなく、「正義感」もある。その「正義感」から暴走するのだけれど、この手の刑事はいままでも映画で描かれてきたしなあ。
 それに、この暴力刑事が魅力的なのは、極悪組長と無差別殺人鬼がいてこそなのだ。どちらかひとりでは、そんなにおもしろくない。平凡。そう考えると、「主役」じゃないよね。
 タイトルからわかるように、主役は極悪組長。彼は無差別殺人鬼に襲われ、重傷を負う。面子が丸つぶれ。だから加害者を探し、仕返しがしたい。仕返ししたということを、みんなに示したい。そのために刑事と手を組んで、「捜査情報」をたよりに無差別殺人鬼を追いかける。
 ストーリーとしては、この暴力刑事と極悪組長が手を組むというところにおもしろさの秘密があるのだが、それを支える(?)のが無差別殺人鬼。彼次第では、単なるストーリーになる。なぞというか、殺人鬼の「快感」を体現しなくてはいけない。殺したいと思うことと、実際に殺すこととの間には大きな隔たりがあるのだけれど、その隔たりを感じさせず、接着剤のようにして「快感」がないといけない。「憎しみ」ではなく「快感」。人間として許されることではないのだが、だからこそ、映画なら、そんな「人生」も体験してみたいと思うでしょ?
 だから、たとえば。
 クライマックス。屋上にいるところを見つかり、走って逃げる。そのあとカーチェイスが始まる。結末はわかっている(想像がつく)にもかかわらず、殺人鬼に対して、「逃げろ、逃げろ、逃げ抜け」と私は応援してしまう。これって、「反正義」の感覚だよなあ。「逃げろ、逃げろ」と応援しながら、わくわくする。追跡の途中で刑事の車と組長の車が衝突すると、「やったぜ」と思ったりする。
 その一方で、刑事の車と組長の車が協力して殺人鬼を追い詰めるのを期待している。
 矛盾しているねえ。
 でも、こういう「矛盾」した感覚を引き起こすというのが、「傑作」の基本。
 どうせ、映画なんだから。
 自分が現実には体験できないことを、リアルに感じたい。
 で。
 自分の現実で、いちばん実現(実行)できないのは、どっち?
 極悪組長? 暴力刑事? 無差別殺人鬼?
 全部できないから、全部やってみたい。

 この映画は、荒唐無稽であるだけではなく、細部が非常に綿密。法廷で展開される証言につかわれる「メモ」。その「主語」を破り捨てて、目的語、述語の部分だけを利用するというところなど、うなってしまう。いや、叫んでしまう。
 「うまい!」
 脚本が、完璧。

 でも、なんといっても、この映画はマ・ドンソクの演技につきるかなあ。
 極悪組長とはいっても、この丸顔、しまりのない唇、憂いを含んだ(?)目つき。矛盾した愛嬌というか、かわいらしさがある。それを隠しながら「極悪」を生きているのだが、ときどき「憎しみ」ではなく「よろこび」をあらわす瞬間があり、そのときの表情がいい。
 暴力刑事が部下を殴りつけるとき、「おまえ、やるじゃないか」という表情をしたりする。最後の最後には、刑務所に収監されるのだが、その刑務所に殺人鬼がいるのをみつけ、「ここにいたか、待ってろよ」という感じで、にやりと笑う。いや実際に「にやり」までいかない。「にやり」を隠して、相手を見据える。
 こんなこと、私はしたことがない。
 だから、やってみたい。
 映画なんだから。

               (KBCシネマ、スクリーン1、2020年07月26日)









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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
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「沈黙作戦」の変化

2020-07-25 13:31:46 | 自民党憲法改正草案を読む
「沈黙作戦」の強化
   自民党憲法改正草案を読む/番外370(情報の読み方)

 情報速報ドットコムに「GOTO(トラベル)」関連の記事が載っている。
 https://johosokuhou.com/2020/07/25/34857/?fbclid=IwAR1QJO6T4Rh2Kel1SLJTG5wXFTL123ogU6ta9U4fNykaJQKiG0dd9SvT21g

人口5000人の与論島で計23人が感染、狭い島での感染者に騒然!市長が緊急メッセージ 「医療体制が脆弱な地域」

 これはスタート前から心配されていたこと。
 この現実の前で、政権が沈黙することは許されない。

 「沈黙」と書いて、私は、急に思い出すのだ。安倍の作戦は、すべて「沈黙作戦」と捉えなおすことができる。ただし、その「沈黙する」の「主語」は同じではない。大きく変わっている。そのことを、2016年から振り返ってみる。

①2016年の参院選後、「天皇の生前退位意向」がNHKによってスクープされた。私はこれを「強制生前退位」と呼んでいる。リークしたのはだれなのか、まだ明確にされていないが、私は安倍がリークしたと考えている。(理由は「天皇の沈黙」に書いたので繰り返さない。)つづいて天皇が「ビデオメッセージ」を発表した。そのなかで天皇は2回にわたり「天皇には国政に関する権能はない」と言っているが、これは安倍に言わせられたのである。天皇さえ「沈黙した」。だから、国民は沈黙しろ、政治批判をするな、安倍批判をするな、というのが安倍の主張である。
②その後、森友学園、加計学園、桜を見る会前夜祭と、「安倍のお友だち優遇政策」が次々に明るみに出た。この「政策」への疑問に対して、安倍は「証拠はない」の一点張りで説明を拒んでいる。情報公開を拒み、「文書(書類)は廃棄した」「文書がない」と「検証」を拒否している。これは「文章」を沈黙させることであり、また、実際に仕事をした官僚(公務員)を沈黙させることである。その「沈黙作戦」の犠牲者に財務省の職員がいる。自殺させられた。究極の「沈黙作戦」である。死者は語ることができない。安倍は、人間(安倍のお友だち以外の人間)が死んでしまい、発言できなくなること(沈黙せざるを得なくなること)に対して、平気でいる。
③いま起きていることは、このつづきである。コロナ感染が拡大している。しかし、安倍は(あるいは、二階が)「GOTO」を強行した。安倍も二階も表に出てこない。なぜ、いま、そうしなければならないかを説明しない。他の閣僚が出てきて「経済再生」を口にしているが、安倍は「沈黙」している。自分では語らない。トップが「沈黙する」という作戦に転換している。「沈黙する」けれど、指示はする。追及されたとき、実際に「ことばを発したのは、ぼくちゃんではない。ぼくちゃんが、国民に旅行に行けと言ったわけではない」と言い逃れるつもりなのだ。「ぼくちゃんが、国民に、旅行に行けと言った証拠がどこにありますか?」と、「実証責任」を国民に要求する。

 ここから、こんなことが始まる。
 「GOTO」キャンペーンはたしかに実施した。しかし、旅行先にどこへ行くか、観光地が客を受け入れるかどうかは、「ぼくちゃんは指示していない」。みんな、自分の行きたいところへ「自己責任」で、行った。受け入れ先は、「自己責任」で受け入れた。「東京発着は禁止」「感染防止策の徹底」「ルールを守れ」ということは指示している。あとは、すべて「自己責任」。
 安倍が、与論島問題(さらに、ほかの地域にもひろがるかもしれない)を追及されたら、きっとそう答弁するだろうし、答弁を求められるまでは何も言わない。「沈黙する」を守り通す。不都合なことについては、すべて「沈黙する」。
 安倍は自分の利益(お友だちの利益)のためには、何でもする。しかし、そのことについては「沈黙する」。やりたい放題をやるが、絶対に語らない。
 こういう悪質な「独裁」が始まっているのだ。

 与論島では、まだ、死者は出ていない。だが、出るかもしれない。与論島から「本土」に搬送されて死亡したときは、与論島で死者が出たわけではない、とさえ、安倍は言うかもしれない。与論島で死者が出たということに対しては「沈黙する」。与論島で死者が出たことを認めれば、安倍への追及が激しさを増すからである。

 死者は語れない。
 これがいちばん問題なのだ。自殺した財務省職員は語れない。「死人に口なし」である。ここから、さらに、こういえるのだ。
 「究極の沈黙作戦」は、③のあと、国民へむけられる。批判する人間は「沈黙させろ」という作戦が始まるかもしれない。そのむごたらしい作戦の究極に「戦争」がある。どこの国が相手でもいいから、戦争をしかけろ。安倍を批判する国民は、最前線へ駆り立てろ。そこで死んでしまえば、もう安倍批判はできない。そうやって国民を殺しておいて、死んだ国民を「御霊」と呼ぶことにする。まつるふりをして、「沈黙作戦」を完成させる、つまり「独裁」を完成させる。

 「天皇沈黙作戦」が「御霊作戦(国民沈黙作戦)」への第一歩であることも、私は「天皇の悲鳴」で書いた。
 オリンピックを開催し、「ぼくちゃんが首相、いちばん偉いんだ」というための「人体実験」が「GOTO」という名目(観光地を救済するという名目)で行われているということは、きのう書いた。
 実際に、離島で問題が起きた。この瞬間、「沈黙している」のはだれか。そのことを、追及する必要がある。国民は「沈黙してはならない」。沈黙すれば、次は殺されるのだ。コロナがどんな状況で、何人に感染し、そのうち何人が死んで行くか、その人体実験が「GOTO」キャンペーンで行われている。もちろん、そんなことは安倍は言わない。ほんとうの狙いは語らない(沈黙する)。かわりに「観光産業を救え」という。
 これは、「天皇に国政に関する発言をさせない(沈黙させる)」というかわりに、「高齢になった天皇の負担を軽くする」と言ったのと同じである。「救う」ということばをつかって言い直せば、「天皇に沈黙を強制したのではない、天皇を救うためだった」になる。
 「天皇強制退位」を強行したときから、安倍の「沈黙作戦」はエスカレートしているのである。

















#検察庁法改正に反対 #安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

「天皇の悲鳴」(1000円、送料別)はオンデマンド出版です。
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Estoy loco por espana(番外篇79) Eduardo Mun'oz

2020-07-24 19:32:01 | estoy loco por espana


La trabajo de Eduardo Mun'oz

Es una cara.
Es hombre o mujer? Lo veo como un hombre.
Es un nin’o o un adulto?
La izquierda es un nin’o.
Los ojos simplemente esta’n sorprendidos.
Los ojos redondos muestran sorpresa.
La boca esta’ completamente abierta y el cuerpo ( o espi’ritu) esta’ vaci’o.
El nin’o se olvida a si’í mismo.
La mitad derecha es un adulto.
El adulto critica lo que ven.
Los ojos son tan redondos como el nin’o, pero en realidad esta’n cerrados.
El adulto no acepta lo que ven.
El adulto se protege con una ma’scara de cri’tica.

Hay cosas conflictivas en una gente.
Piensa en el conflicto, incluso en el momento de la sorpresa.
Eduardo hereda de Picasso el método de expresar "mu’ltiples seres".

男か、女か。私は男と見る。
少年か、大人か。
左は少年。目が単純に驚いている。まんまるな目が、驚きをあらわしている。
口もまんまるに開けて、肉体のなかが空っぽになっている。
少年は我を忘れている。
右半分は大人だ。
大人は見たものを批判している。
目を丸く見開いてはいるが、実際は、閉ざしている。
大人は見たものを受け入れていない。
大人は、批判という仮面で、自分自身を守っている。

人間には相反するものがある。
驚いた瞬間にさえ、相反することを考える。
この「複数の自己」を瞬間として表現する方法は、ピカソに通じる。
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村上春樹『一人称単数』

2020-07-24 19:01:26 | その他(音楽、小説etc)


村上春樹『一人称単数』(文藝春秋、2020年07月20日発行)

 私は村上春樹の文体が嫌いである。翻訳されることを意識して書かれた文体だからである。特に長編小説は、翻訳されることが強く意識されている。私は翻訳はしないが、直感的に、そう感じてしまう。澱みがなく、読みやすい。次に出てくることば、次に何が書かれるか「予測」しやすい。
 どんな作品でも(あるいは日常会話でも)、ことばは常に次にどんなことばがあらわれるか、「予測」しながら読む(聞く)のがふつうのやり方だ。この「予測」をどれだけていねいに導くか、あるいは裏切るかが「作品」の価値を決めるときがある。すぐれた文学は「予測」させると同時に、その「予測」を許さないという両面から成り立っているが、「予測を許さない」という部分が多くないと、「初めて読む」という感動が起きない。村上春樹の小説は(私は、嫌いだからほとんど読んだことはないのだが、読んでいるかぎりでいえば)、「予測」が非常に簡単である。すらすらと読める。私は目が悪く、「速読」はむりなのに、である。
 で。
 その「予測可能な文体」のなかに、ときどき、あまりにも「予測」をそのまま利用したことばがあらわれるときがある。このときに、私は、どう言っていいのかわからないが、ぞっとする。ウェルメイドの「料理」であるはずなのに、「味の素」の粒が溶けずにそのまま残っていて、それを噛んでしまったという感じ。それまでの「ていねい」に準備されてきた(つくられてきた)ものが、「手抜き」によって崩れていく。もともと村上春樹の文体は好きではないが、この瞬間は、ぞっとするとしかいえない。
 この部分こそいちばん大切に書かないといけないのに、「味の素(もうつかわれなくなった定型)」で処理されている、と感じる。
 ひとつだけ例を挙げる。「謝肉祭(Carnaval)」の、女友だちが詐欺師だったとわかったあとの部分。女友だちは「醜い」が、「特殊な吸引力」でひとをひきつける(主人公も、その吸引力にひきつけられた)。その夫はハンサムだ。
 その二人の組み合わせから、主人公は、こんなことを考える。

彼女のそのような特殊な吸引力と、若い夫のモデル並みに端正なルックスがひとつに組み合わせられれば、あるいはそこで多くのことが可能になるかもしれない。人々はそのような合成物に抗いがたく引き寄せられていくかもしれない。そこには悪の方程式のようなものが、常識や理屈を飛び越えてたちあげられるかもしれない。(178ページ)

 「特殊な吸引力」については、充分に書き込まれているから、そこには不満はない。しかし、「悪の方程式」はどうだろうか。女の魅力と男の魅力があわさって、他人を簡単にだますということなのだろうが、あまりにも「手抜き」のことばではないだろうか。
 「悪の方程式」に中心があるのではなく、女の「特殊な吸引力」がテーマであることは理解できるが、その「特殊な吸引力」の「もうひとつの証拠」のようなものが、こんな「犯罪小説の定型の説明」につかわれるようなことばで書かれてしまうことに、私は納得ができない。
 ここがいちばん肝心なところ。
 「悪の方程式」を「悪の方程式」ということば(慣用句)ではなく、具体的に書かないと、何といえばいいのか……「女友だち」がストーリー(主人公の人生)から簡単に排除されてしまう。「排除の根拠」になってしまう。
 「悪の方程式」というのは、たぶん、日本語だけではなく、外国の犯罪(小説)の説明につかわれることばだと思うが、そう思うと、よけいにいやになる。
 最近、日本では「夜の街」ということばが、「悪の方程式」のようにつかわれているが、そういうことも思い出した。世間に流布している「定型」を利用した表現をキーワードにつかうのは、なんともおもしろくない。ある主張のためにことばを利用する「政治家の文体」を感じる、といえば、私の「ぞっとする」を言い直したことになるかなあ。









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きょうの読売新聞の「視点」(泣きました)

2020-07-24 13:30:20 | 自民党憲法改正草案を読む
きょうの読売新聞の「視点」(泣きました)
   自民党憲法改正草案を読む/番外369(情報の読み方)

 2020年07月24日の読売新聞(西部版・14版)の26面(社会面)に、非常にいい記事が掲載されていた。「GO TO初の休日」に関する記事だ。
 
豪雨被災地 届かぬ恩恵/旅館 営業見通せず

 九州各県は豪雨に見舞われた。熊本県の人吉温泉。大分県の日田温泉。多くの旅館が被害を受け、まだ後片付けもおわっていない。当然、営業はできない。営業がいつになるかわからない。
 旅館の経営者たちは、こう語っている。

「現時点で政府の支援事業の恩恵はほとんど受けられない。受け入れ態勢が整った後、何からの形で(支援事業=GO TOを)再び実施してもらいたい」
「復旧・復興した被災地に、支援事業の効果が届かないようでは困る」

 彼らは、直接批判を語ってはいないが、私風に言い直せば、こうである。

「被災地はGO TOを受け入れられない。復旧・復興してからGO TOを実施してほしい」

 これは、当然だろう。被災地は、コロナで客が減っただけではなく、復旧・復興のために客を受け入れらない。こういうときに、他の観光地に対しては「GO TO支援」がある。私たちは、見すてられたのか、と言いたいのを我慢して、「復旧・復興したらがんばるから応援してください」と言っている。

 ここから考えるのである。
 「GO TOトラベル」の予算は1・1兆円と言われている。復旧・復興費に投入すれば、状況はずいぶん変わるだろう。はっきりした記憶ではないが、「激甚災害指定」を受けたときの「補助費」が1兆円を超えるというのは記憶にない。
 もし1兆円を投入すれば、今回の九州豪雨の被災地の旅館の復旧など、短期間ですんでしまうのではないだろうか。
 他の観光地も苦しいのは理解できるが、こういうときは、被災地の復旧を優先し、みんなでいっしょに観光をもり立てていこうという気持ちになれないのだろうか。安倍政治の下で、「自分さえもうかればいい(自分のお友だちだけがもうかればいい)」という風潮が、日本中にひろがってしまったのかもしれない。

 「1・1兆円」と書いたついでに。
 1面に「再挑戦 TOKYO2020」という連載がある。なんとしてもオリンピックを開きたいという安倍の姿勢を応援する記事だ。「コロナ対策 暗中模索」という見出しがついているが、記事のメインは金の動きだ。

 東京大会のチケットは、すでに544万枚販売されている。無観客にすると、組織委は約900億円の収入を失い、削減の場合、一部のチケット保有者に観戦を諦めてもらう必要がある。

 「約900億円」は巨額だが「GO TOトラベル」の十分の一より少ない。こう考えると、「GO TO」にかけている予算の大きさがわかる。そして、巨額だから、途中で「中抜き」されても気づく人が少ない。オリンピックのチケットの払い戻しなら、購入者ひとりひとりが金の流れを理解できるし、中抜き(手数料徴収)をされても気がつくが(手数料は組織委が負担するから中抜きということないだろうが)、「GO TO」では、わけがわからない。
 脱線したが。
 オリンピックのチケットの900億円を問題にするなら、「「GO TO」の1・1兆円をもっと問題にすべきだろう。
 この連載には、さらにこういうことも書いてある。

組織委が注目するのは今月10日から観客を入れ始めたプロ野球やJリーグ。入場時に時間差をつけて密集を避けたり、大声での応援やハイタッチを禁じたりしている。武藤敏郎(組織委)事務総長(77)は13日、「非情に参考になる。(入退場や応援法は)五輪でも見当課題になる」と語った。

 なんのことはない。オリンピックに備えて、「人体実験」を強行しているのである。何万人も入場する開会式は、時差をつけての検温やチェックリストの点検などできない。全員を入場させることを考えたら、ぜったい、当日の朝からでは間に合わないだろうと、素人の私は思うけれど。だからこそ、何度も何度も「人体実験」で運営をスムーズにする方法を手さぐりしているのだろう。
 見出しにあるように「暗中模索」だ。
 そして、ここから「GO TO」も見直してみる必要がある。単に観光業者のことを思ってキャンペーンをやっているのではない。大勢の人が移動するとき、どういうトラブルがあるか。すでに沖縄では、空港での検温チェックをふりきって市内に出た人がいると報じられている。オリンピックでは、こういうときどうするのか。東京近辺での宿泊施設の対応はスムーズに進むのか。今回、東京が「GO TO」から除外され、東京での「人体実験」はできないが、このままで大丈夫なのか。
 豪雨被災地の旅館ではないが、コロナ感染者が落ち着いたら、東京を対象にして「GO TO」が行われるのではないのか。そして、それは「業者」の要望というよりも、オリンピックを開きたい安倍の「野望」を反映したものだ。(コロナ感染者が減ったとしても、たぶん完全撲滅にはなっていないだろう。どうしてもコロナ対策は維持しないといけない。)

 なお1面のトップニュースは、

コロナ感染 全国981人/最多更新 東京366人 福岡66人

 全国で「人体実験」が始まったと考えるべきだろう。北欧ではスウェーデンが「集団免疫獲得作戦」を展開し、批判を浴びているが、「GO TO」は「集団免疫獲得人体実験」の開始として受け止める方がいい。
 何がしかの「割引」(補助)で「実態実験」であることをごまかしている。
 二階が(安倍が?)、キャンペーンの実施を前倒しにしたがったのは、「連休」に実験しないことには「混雑時の実験」にならないからである。
 一方で、衆院選が取り沙汰されている。二階の「収入(わいろ献金)」が減って、このままではやっていけないということなのだろう、とも思う。政治家も、やっと、「休業」がつづけば「金が必要になってくる」と気づいたのはいいけれど、自分の金の心配しかしないのが、なんとも醜い。
 政治家への献金が少なくなっているように、休業している人たちは収入がなくなっているのである。休業者は麻生のようにパーティーを開いて金を集めるということもできなければ、何かのイベント(キャンペーン)を企画し、手数料を中抜きするということもできない。

 巨額の金が動いている世界の、その「巨額」が実感できない。
 年金生活の私は、1000円を超す買い物をするとき、ずいぶん迷う。翌日まで待ってみる。一週間伸ばしてみる、というのはしょっちゅうである。
 だから1・1兆円も900億円も、どちらが多いかは「頭」では理解できても、実感としては理解できない。実感がないから、どうしても読みとばしてしまう。そんなものかな、と思ってしまう。そういうときこそ、ほかの「数字」は比較してみる。「頭」の理解を「頭」だけでおわらせず、もっと自分ひきつけてみて、これはおかしいと言い直す。
 そう思って新聞を読むと、また「金」に出会う。
 1面。

ALS患者を嘱託殺人/薬物投与 2医師逮捕

 その末尾に、

事件当日まで2人と林さん(被害者)は面識がなかったとみられるが、山本容疑者の講座には事件前、林さんから百数十万円の振込があったという。

 容疑者の「経済状態」を私は知らないし、そのひとの心理状態もわからないが、百数十万円と1・1兆円、900億円という数字を見比べて、私は絶望感に襲われる。
 たとえば、豪雨で旅館が壊滅的な打撃をうけた旅館に、いますぐ「百数十万円」振り込まれたとしたら、どうだろう。ボランティア頼みの旅館の経営者は、すぐにでも土建業者を雇うのではないだろうか。「1・1兆円」を、そういうことにつかうとしたら、何も人の人が「ありがたい」と思うのではないだろうか。
 そういう思いを駆り立てる記事だった。社会面のリポートは。私は新聞を読んでひさびさに泣いてしまった。くやしい思いが込み上げてきたのだ。私は、被災した当事者ではないけれど。旅館の人たちは、私のようには怒ることができない。補助金がしきゅうされなくなると困るからだ。だから、怒りを押し殺して「お願い」のことばを口にしているのだ。














#検察庁法改正に反対 #安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


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転売はなぜいけない?

2020-07-23 11:34:38 | 自民党憲法改正草案を読む
転売はなぜいけない?
   自民党憲法改正草案を読む/番外367(情報の読み方)

 2020年07月23日の読売新聞(西部版・14版)の29面(社会面)に、小さな記事が載っている。

プレミアム宿泊券/オークション転売/山口県発行

 「事実」関係は、見出しだけで充分わかる。そして、こういう記事には、おうおうにして奇妙な問題が隠されている。
 記事の最後の部分。

県観光政策課は「新型コロナでで劇を受けた宿泊施設のため、プレミアム分を税金で負担する事業。個人の利益のための転売はやめてほしい」としている。

 もっともらしく聞こえるけれど、この論理でいいのか。
 まず、プレミアム宿泊券をみてみる。山口県内のホテル、旅館で利用でき、額面5000円分を2500円で売っている。(個人からいうと5000円分を2500円で買える。)差額は2500円。これは旅行する人の「利益」。
 で、その「2500円」をだれが負担し、その「2500円」はだれの手元へ行くのか。県が負担する。これは、すぐにわかる。でも、だれの手元に「2500円」がゆく? 個人(県民)には2500円がもどってくるわけではない。あくまで、それは「割引」。
 バーゲンで5000円の服を2500円で買ったとする。2500円は客のもうけに見えるが、もうけではない。2500円損をするのは店。5000円で売るはずが2500円でしか売れずに、見込みが外れた、ということ。それでも2500円で売るのは、「収入」をすこしでも確保するためだろう。
 プレミアム宿泊券にもどる。5000円のホテルに2500円で泊まる。(いちばん簡単な例で考える。)ふつうなら、ホテルは2500円の赤字になる。その2500円を県が補助する、というのがプレミアム宿泊券の仕組み。つまり、ホテルの赤字が消える。「補助」というのは赤字にさせないという意味。
 ここで、客が、宿泊券を3000円で売る。その券を買ったひとは5000円のホテルに3000円で泊まることになる。このときホテルはいくらの赤字? 2000円の赤字? 違うね。ホテルは宿泊券を提示することで2500円の補助を受ける。券からの補助が減るわけではない。だから、ホテルにとっては、額面5000円の券を、だれが、いくらで購入しようが関係がない。額面5000円の券があれば、2500円の補助が確保できることにかわりがない。
 損をするのは、2500円で買える券を3000円で買った個人である。もうけは売った個人である。その「利益」「損失」に、ホテルも県も関与していない。そういうことに県が口を挟むのはおかしい。
 単純に考えてみよう。2500円の得(割引)があるなら旅行しようとする人(A)と、2000円の得(割引)でも旅行しようとする人(B)のばあい、2000円の割引でも旅行しようとする人の方が経済的に余裕がある。旅行先で多く金を使うのはBだろう。Aは利益を守るために他の出費を2500円以内におさえようと考えるかもしれない。しかし、Bは出費を2000円以内におさえようなどとは計算しないだろう。いつもより多くつかうかもしれない。そして、この宿泊券は、金持ちに「お得感」を持たせることで、いつもより多く金を使わせようという狙いがこめられているのだから、金持ちが買うなら、それがいくらの値段で売られていようと気にする必要はない。
 少なくとも、旅館、ホテルの「宿泊費」に関していえば、旅館、ホテルは、ぜんぜん「損」をしない。そういう仕組みだ。
 もし「当てがはずれる」としたら、2000円割安で買ったひとは、おみやげ屋で少し出費をおさえるかもしれない、ということだろう。

 こんなところに奇妙な「倫理」めいたものをもちだすことよりも、県がしなければならないことがたくさんあるだろう。「倫理」をもちだして、個人が金儲けをするのは許さないというのは、どうも納得ができない。個人の「転売利益」もまた「経済を動かす(活性化させる)」ひとつの方法だろう。宿泊券を売ったひとは、もうけた「 500円」で何かを買うかもしれない。それが「観光」に結びついていなくても、観光以外の分野で「経済を動かした」ということにかわりはない。
 「観光」だけが「経済」、疲弊しているのは「観光業者」だけと考えるのは、観光業者から献金を受けている二階だけなのではないか。逆に言うと、観光が疲弊して、自分に献金が廻ってこない、これは困ったと二階が嘆いたところから、「GO TO トラベル」につながるいろいろなことが動いているだけなのではないか。
 そういう二階のような人間の「手先」のような仕事をしている人間が、個人に対して「倫理」をふりかざすな。「倫理」を行政がふりかざすとき、「全体主義」が始まる。そして「全体主義」というのは、「全員が特定の個人の利益に奉仕する」ことである。








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青柳俊哉「あじさいの中の雪」、徳永孝「帰り道」、池田清子「一日」

2020-07-23 08:18:05 | 現代詩講座
青柳俊哉「あじさいの中の雪」、徳永孝「帰り道」、池田清子「一日」(朝日カルチャーセンター福岡、2020年07月20日発行)

あじさいの中の雪  青柳俊哉

遠い野原いちめんに
白いかすかな野花がむすうにゆれ
夕闇の庭にあじさいの花がはなやいでくる

どこかしらないところからきて
わたしへむすばれた雪
うまれるまえからあるような霧の深みへ
あじさいの花が光をさしかける 

あじさいの花がわたしの中へ染みていくとき
わたしもあじさいの花の中へ染みていく
あじさいの花が死より深いところへおりていくとき
わたしもだれでもないものへうつっていく

いつしか月あかりがさして
あじさいの花の 雪の光の深みへ
かすかな白いむすうの野花がはなをちらせていく

 「三連目が美しい」という声があった。「美しい、と感じるのはなぜ?」と私は意地悪な質問をする。「あじさいと私が一体になっている。特に、あじさいの花がわたしの中へ染みていくとき/わたしもあじさいの花の中へ染みていくの二行に、相互の交流を感じる。それが一体感につながる」。私は、さらに質問する。「一体感をひとことでいいあらわすことばは、この詩のなかにないだろうか」。「わたしへむすばれた雪、のむすばれたが一体感につながっていく」。「そうですね、私も、むすばれると一体感はつながっている、と思う」。
 そして、その「むすばれる」が単に私とあじさいをつなぐのではなく、「うまれるまえからある」「深み」とも関係している。この「深み」は三連目の「死より深いところ」ともつながっている。「死」は不吉なことばだけれど、ここでは「死ぬ」ではなく「うまれるまえ」とつながっている。「死」よりも「誕生」の方が「深い」と青柳は考えているのだろう。
 「あじさいの花が死より深いところへおりていくとき/わたしもだれでもないものへうつっていく」もあじさいとわたしの一体感をあらわしている。結び合って、あじさいはあじさいではなくなり、わたしはわたしではなくなる。融合した何か(既成のことばではあらわせないもの)として生まれ変わる。「うつっていく」は「生まれ変わる」こと、「かわる」こと。
 「染みていくとき、おりていくとき、のとき、は必要ですか? ときがあると、別々の動きのようにも見える」という疑問の声があった。これはむずかしい問題だけれど、「とき」には時間の前後をあらわすと同時に「同時」をあらわすことがある。「染みていくと同時に……」「おりていくと同時に……」ということではないか。
 「一連目と最終連に、むすう、ということばが繰り返される。最初読んだとき、意味がわかりにくかった。漢字の方がわかりやすいのではないか」という意見があった。青柳は「野の花のイメージ、ぼんやりといちめんにひろがっている感じをあらわしたかった」と答えた。
 「……とき」と通じる問題だと思う。「……と同時に」「無数」と書いてしまうと「意味」が明確になりすぎて、意味にひっぱられて読んでしまう。詩は、いままでとは違った「意味」を書き表すものともいえるので、この詩のように、ときにはあえて「ひらがな」にしてしまうのもいい方法だと思う。
 私は、最後の一行も非常に好きである。あじさいとわたしが一体になっているのに、野の花だけが散っていくのは一体感を裏切るような感じと受け取る人もいるかもしれないが、野の花も散ることであじさいと一体になっている。芝居のフィナーレの「祝祭」のように、辺り一面に花びらが舞い散る感じがする。「祝祭」のなかで一体感がいっそう強まると思う。
 私がこの詩で「注文」をつけたいのは、

いつしか月あかりがさして

 この一行。「夕闇」から始まっているから時間的には矛盾はない。しかし、一体感(祝祭)の感動は、「時間」的には一瞬のことだと思う。夕闇があり、月が昇ってくるというのでは「時間」が間延びしてしまう。三連目の「……とき」も時間の経過を順序立てて書いたものになってしまう。「同時(瞬間)」を強調するならば、「月」を出さない方がいいと思う。夕暮れのなかに残っている光のなかへ、野の花もあじさいもわたしも溶け込んでしまい、何か新しいものとして「瞬間的」に生まれ変わるという具合にした方が、詩の完成度が高まると思う。



帰り道  徳永孝

夜空に
海岸へうちよせる波のような


秋のいわし雲 うろこ雲
それよりも
もっと大きく 低く

いまは つゆあけ近い
もうすぐ夏だ
季節の変わりめ
夏にむけて
自然が ゆっくり動いている

ぼくの準備は できているかな?

心配はいらないだろう
しらずのうちに
ぼくの体も夏を予感している

 「書き出しの三行が斬新。そのスケールの大きな動きのなかに自分も入っていく感じが三連目にあらわれている」という的確な感想があった。
 「夏が三回出てきて、すこしうるさいかな」という声もあった。
 そこで、こんなことを全員で考えてみた。
 この詩は、提出直前に二連目の第四行が削除された。修正液で消した跡があった。こう質問してみた。
 「二連目の四行目には、どんなことばがあったと思いますか?」
 「ゆっくり動いていく。ゆったり動いていく、というような、スケールの大きさをあらわすことばだと思う」
 全員が、そう答えた。徳永が、その通りだといった。
 省略されても、ことばは伝わる。そうであるなら、三回出てくる「夏」のどれを省略しても大丈夫だろうか。
 徳永を含め、全員の意見が「夏にむけて」がいらないだろう、で一致した。
 すこし補足すると、「夏にむけて」がなくても「ゆっくり動いている」ということばのなかには「むけて」が含まれている。「動く」という動詞は、その場で動くということもあるにはあるが、たいていの場合は、「いま/ここ」ではない別の場所へ「むかって」動いていくものである。
 繰り返し繰り返し、同じことばをつかいリズムを生み出すこともあるが(青柳の詩の、「染みていくとき/染みていく」はそうした例である)、省略できるとき省略した方がすっきりと読むことができることもある。
 そういう点からいうと、最終連の「しらずのうちに」ということばはおもしろい。ふつうは、こいうい言い方をしない。これも徳永を含めてのことだが、慣用的には「しらずしらずのうちに」という。「しらず」を繰り返す。しかし、徳永は一回しかつかっていない。けれど、意味はわかる。同時に省略したために、ここではことばが凝縮している。この業種区間が「準備はできているかな?」と「予感」を強く結びつける力となっている。ことばが早く動いている。そこに楽しさがある。



一日 池田清子

神経質に
マキタの掃除機をかけながら

体調不良をいいことに

日がな
ゲームに囚われている

 「マキタの掃除機、のマキタがわからない。たぶん、メーカーなのだろうけれど。おもしろいんだけれど」という感想から始まった。コードレスの掃除機らしい。
 しかし、そういう注釈をつけると、わかりやすくはなるけれど、味気なくなるような気もするという感想につながった。
 これは、むずかしい問題である。でも考えないといけない問題だ。
 逆なことから詩を見つめなおしたい。
 たとえば「ゲーム」と書いてある。このゲームはどんなゲームなのか、わからない。「マキタの掃除機」とは違って、「具体的」な感じがしない。テレビゲーム(コンピューターゲーム)を想像するが、漠然としすぎている。
 詩は「マキタの掃除機」のように、具体的(個別的)なものである。ある瞬間に、それしかない、という形であらわれてくるものが詩である。わからないなりに、「マキタの掃除機」は想像力を刺戟してくる。
 でもゲームだけでは、想像力が刺戟されない。
 これは「神経質」にも「体調不良」にもいえることである。池田は「神経質」がどういうことか、「体調不良」がどういうことかわかっている。でも、読者はわからない。手がかりもない。具体的に何かが書かれていれば、「掃除機をかけながら、ゲームに囚われている」という部分もわかりやすくなるのではないだろうか。
 「掃除機をかけながらゲームはできないと思う。矛盾している」という指摘が出るのは、そういうことが原因だ。
 抽象的なことばは、ものごとを整理するには便利だが、詩は「整理」ではないのだから。
 タイトルの「一日」は「一日中」という意味ではなく、不特定の「ある日」という意味だろう。不特定の、日付が関係しない日なのだけれど、個人的には何かがあった日。劇的なことではないけれど、書かなければならない何かがあった日。その「何か」を感じさせることばが必要だと思う。窓から入ってくる光が「白い四角形になっている」でも、「椅子の影がカーテンに触れている」でも、何か、作者がそこにいることを感じさせるものがもっと書かれた方がいい。そうすると自然と「マキタの掃除機」がどんなものか、伝わってくるだろう。









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Estoy loco por espana(番外篇78) Joaquin Llorens

2020-07-22 10:06:50 | estoy loco por espana
La obra de Joaquin Llorens


La curva dibujada por la li’nea se encuentra con la li’nea recta creada por el so’lido.
Hay un extran’o equilibrio.
El plano cuadrado tambie’n es interesante.
Tambie’n es divertido pulir la superficie de so’lidos y planos.
El pulido desigual le da al metal su suavidad.
La suavidad esta’ conectada a la curva.

El lugar donde se coloca el trabajo (color de fondo) también es hermoso.
En el lugar de la exposicio’n, puede verse diferente.


線が描く曲線と、立体がつくりだす直線が出会う。
不思議なバランスがある。
四角い平面もおもしろい。
立体と平面の、表面の磨き方も楽しい。
均一ではないことが、金属に柔らかさを与えている。
その柔らかさが、曲線につながっている。

作品が置かれている場所(背景の色)も美しい。
展覧会会場では、また違った表情になるかもしれない。
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りょう城『しあわせなはいじん』(2)

2020-07-22 09:42:30 | 詩集


りょう城『しあわせなはいじん』(2)(モノクローム・プロジェクト、2020年01月20日発行)

 たとえば、こんな行がある。

雨の日になぜか落ちてる
軍手が
轢かれる
何度も何度も
何度もよー                           (よだれかけ)
 
 ふと見かけた情景であり、友だちに語りかけることもあるだろう。それが、その語りかけたときの口調のまま「何度も何度も/何度もよー」と書かれる。
 これは、未整理の無意識か。
 そうではなくて、意識的な批評なのだ。「何度も」を私たちはたぶん意識しない。しかし、その意識しないことを、りょうは意識した。そういうことが批評なのである。批評とは特に新しいことをいうことではない。「私は、こんな風に見た(認識した)」と明確に語ることが批評なのである。「なぜ」と考え始めることが批評なのだ。他人のことばを借りてきて、「思想/哲学」風にことばを整えれば批評になるのではない。
 「くさむしらん」は、こうである。

わたしはくさをむしりません。まなつ
でも、家の前のくさをそのままにします。
するとおおやさんがやってきて、刈ったり
抜いたり毒をかけたりします。

 大家は、除草することでりょうを「批判する」。これを批評という人もいるかもしれない。りょうは「毒をかけたります」の「毒」に「批判」をこめている。これを批評という人もいるかもしれない。しかし、私は「除草剤は毒である」というこことばを借りてきたいちゃもんであり、「批評」を装っているが、批評にはなっていないと考える。
 「そのままにします」にこそ、批評がある。
 「そのまま」であることが、いまは批評になる時代なのだ。
 借りてきたことばで、「除草剤は毒だ」といっても批評にならない。そういうことは、もう語り尽くされている。そして、「批評」として認知されている。つまり「定型」になっている。
 「そのまま」とは、何か。
 詩はつづく。

わたしはいぞんしょうしゃにあいます。かくせいざい
やアルコール、ギャンブル、食べ吐き処方薬
脱法ドラッグやガスパンや万引き、などなど。

わたしは煙草をくれる人が好き
です。1ミリのやつは泥水みたいな味が
します。15ミリのをください。

わたしはかさをさしています。雨の日も、
晴の日も曇の日も。風の日はかさが
こわれるのでカオスが路上にあふれ出します。

 「そのまま」は「なるがまま」なのである。「依存症」は、なるがままか、なされるがままか、わからないが、きっと「なるがまま」なのだ。そして、その「なるがまま」の主張を「あるがまま」ことばにしたのが、たばこを描いた三連目だ。
 整えない。社会の常識だとか、世間の声にあわせて、自分を整えない。ことばも、整えない。
 かつて、詩は「抒情」にむけてことばを整えた。古今集には、そのための「技巧」がいっぱいある。もっと前から技巧があったかもしれないが、古今集から技巧のための技巧がはじまり、それは現代詩にもつづいている。
 そう認識した上で、ことばを整えない。整えようとする圧力に抵抗して、整う前のことばを剥き出しにする。
 これが、現代の批評である。
 この「整えることを拒んだことば」を、りょうは「カオス」と呼んでいる。

 一方で、りょうは、こんなふうな詩も書く。「川」。

かなしい川 開通した
開通したら ながれて ながれて
塵芥(ごみ)も 漂う霧も
ながれていった
そのあとは いっぽんの
川の跡
さかなが跳ねても
沁みる

 さっと読むと「抒情詩」である。「沁みる」ということばが、そう感じさせるのだ。
 しかし、よく読むと、何かが違う。「塵芥」を「カオス」と読み替えてみるといい。「カオス」がなくなれば、それは「現実」ではなく、何かが存在した「跡」にしかすぎない。
 りょうは、こういう哲学的な批評も書く。
 「跡」ということばが、あまりにも短いので、見落としてしまいそうだが、見落としてはいけない。
 「いぬ」という詩も、私は大好きだ。

くろい いぬ
ひとりで空をみて、

いわがごつごつして
影には夕暮れのありんこたち
おしごとして、

海には
遠い線のところに
影のふね
けむりだして
おしごとして、

おしっこをがまんして、
くろいいぬ
ひとりで前をみて

 「おしごと」とは何か。最終連の「ひとりで前をみて」いるのは、だれか。いぬか、りょうか。「ひとりで前をみて」、何をしているのか。
 たぶん、それが「おしごと」なのだ。
 「おしごと」のときは、「おしっこをがまん」しなければならないときがある。
 いぬは、おしっこをがまんしているのか。
 どこに「そのまま」があるのか。「あるがまま」があるのか。そして、それはどんなふうにして「いま/ここ」を批評しているのか。
 書かない。
 問いかける形で、私はすでに書いている。書き終わっているからだ。

 コロナ感染が問題になったころに出版されたので、長い間、読まずに来てしまった。私は病弱なので、今回のコロナ問題では非常に影響を受けた。いまも受けている。ふつうの感じでは生きていられない。読むペースも完全に乱れてしまった。書くペースも乱れてしまった。
 まあ、そんなことは、他の人には関係がないことだが。
 でも、書いておきたい。
 長い間、六か月間も、読まずに放置してきたこの一冊に対して、なんだか申し訳ない気持ちになるのだ。
 「批評」が強烈な、とてもいい詩集だ。














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りょう城『しあわせなはいじん』

2020-07-21 17:17:47 | 詩集


りょう城『しあわせなはいじん』(モノクローム・プロジェクト、2020年01月20日発行)

 きのう、朝日カルチャーセンターの講座で、りょう城『しあわせなはいじん』のなかの一篇を読んだ。どれを選ぶか迷ったが、いちばん「わかりにくい」だろうと思うものを選んだ。言い直すと「抒情」から遠い作品。「ホットケーキ」。

ホットケーキを焼くときみたいに
私の顔を焼くとき
小さな泡が追い出される
泡は云う
「ぷす、ぷすです」
「ぷつ、ぷつなんですよ」

カーテンはめくれ
傾いた七色の陽光が
私の穴を照らしだす

穴の先は キラキラした
真っ黒な宇宙だ

じつに、動きある、
光ある、まっ黒な、
死の世界

たのしいゆうげ
ホットケーキのクレーターの顔面
カーテンは静かに月を透かしている

穴は貫通している

 二行目の「私の顔を焼くとき」とはなんだろう。「私の顔」をどうやって焼くのだろうか。ホットケーキを焼くみたいにフライパンで焼くのか。そんなことはできない。だから、わからない、とひとりが言う。
 「穴の先に、光があって広がっていく感じが、何かおもしろい」とひとりが言う。わからないけれど、何か、不思議。
 「私というのは、ホットケーキを焼いている私ではなく、焼かれているホットケーキになった気持ちなのかなあ」と別のひとりが言う。
 この「私はホットケーキ」という「誤読」を積極的に推し進める。強引に「ホットケーキになって、ホットケーキがしゃべっている、と思って読み進める。
 「焼く」ではなく「焼かれる」。「焼かれるホットケーキを見ている(見ながらホットケーキを焼いている)」と読んでみる。
 ホットケーキを焼くと、気泡が出てきて、それが「穴」になる。「ぷす、ぷす」という音が聞こえる? 「ぷつ、ぷつ」という音が聞こえる? 作者のりょうは、その両方を聞いている。
 ここには「区別できない」私がいる。「私」はホットケーキを焼いている。「私」は焼かれている強力粉(薄力粉?)でもある。これは、焼かれている強力粉の「気持ち」がわかるということ。「わかる」は想像してみるということ。
 「ぷす、ぷす、ぷつ、ぷつ」の穴。その穴を見ていると、

穴の先は キラキラした
真っ黒な宇宙だ

じつに、動きある、
光ある、まっ黒な、
死の世界

 それが事実だと仮定して、では、このことばはだれが言ったことばなのだろうか。だれの感情(気持ち/思考)をあらわしているのか。ホットケーキを焼いている私か、私に焼かれているホットケーキか。
 わからない。
 わからないことが重要なのだ。
 わからないものがあり、(ことばにならないものがあり)、それをことばにしようとすると、どうしても「非論理的」になってしまうけれど、それは「必然」なのだ。
 これを「わかる」ように文法的に「修正」してしまうのではなく、修正しないまま、ことばにしてしまう。
 キラキラしている。でも真っ暗とも感じる。光がある。でもまっ黒。死の世界が動いている。死というのは、もしかすると食べられてしまう(焼かれてしまった)ホットケーキの感じかもしれない。キラキラというのは、食べるとおいしいぞと思う人間の気持ちかもしれない。
 あるいは、これは、もしかしたら何かいやなことがあって、その鬱憤晴らしにホットケーキを焼いて、「食ってやる」と思っているのかもしれない。焼きながら思い出した「こんちくしょう」という気持ちが「ぷす、ぷす、ぷつ、ぷつ」込み上げてくる。「こんちくしょう」と思うのは、人を憎むと思えば「まっ黒な感情」かもしれないけれど、「怒り」というのはどこか輝かしい美しさに満ちている。キラキラしている。真剣に怒っているひとは、どこか美しいものを持っている。
 複雑な感情の交錯がある。それが、がホットケーキを焼く(焼かれる)ときの「フライパン」の上で出会っている。
 人間は、人間の気持ちを想像できるのはもちろんだけれど、存在しないはずのホットケーキの気持ちも想像できてしまう。そして、そこから、その二つを区別せずに、人間でも、ホットケーキでもない「何か」になって「世界」を考えてみることができる。
 この「何か」は人間でも、ホットケーキでもない。だから、その「何か」が考えることは、私たちが話す「日本語」と違っていても、ぜんぜんかまわない。

穴の先は キラキラした
真っ黒な宇宙だ

じつに、動きある、
光ある、まっ黒な、
死の世界

 矛盾しているけれど、それで、いい、のだ。
 最初は矛盾していても、それを考え続けていると矛盾を突き飛ばして、何かが動いている。ことばが、生まれてくる。

穴は貫通している

 りょうが書こうとしている「穴」には底がない。「貫通している」。トンネルみたいにつながっている。
 でも、何と何?
 ホットケーキを焼く私と、私に焼かれるホットケーキを「穴」をとおしてつながっている。そのつながりを予感しながら、ことばを動かし、最後に「貫通してしまう」(つなげてしまう)というのが、この詩なのだ。

 最後に、ひとりが、こんなことを言った。
 なんだかとんでもないことを書いているのだけれど、そういうとんでもないことが起きているとき、やっぱりカーテンは揺れて、夕暮れの傾いた太陽がキッチンに射してくるという日常の細部が具体的に書かれている。それが、いい感じだなあ。
 キッチンから宇宙まで貫通するものがある。ホットケーキのプツプツの穴と、月のクレーターが重なる(つながる)みたいに。

 こういう感想に出会えたとき、詩を一緒に読んでいることが楽しくなる。ひとりで読むよりも、多くの人と読みながら、語り合うことが楽しくなる。



 わかりやすい詩を紹介しておく。「耳すなどけい」。

ねむれない夜
まくらに耳をつけると
うごきだした

耳すなどけい

記憶の向こうから
夜のまんなかへ
さらさら
流れだした

親しく
なつかしい
つぶ

寝返りをうつと
耳から
あまのがわ
あふれた

 耳に響いてくる鼓動の音。それを「砂時計」という比喩にしている。寝返りを打つとき、その一粒、二粒がこぼれ、こぼれ始めるとどっとひろがっていく。それは「あまのがわ」みたい。
 つらいことがあって、耳に鼓動が響いてくるのだろうけれど(それを聞いてしまうのだろうけれど)、それが最後に「天の川」にかわる。
 美しいし、「意味」をつけくわえたくなる。「抒情」にしてしまいたくなる。
 
 こういう詩もいいけれど、「ホットケーキ」のような、抒情を叩き壊すことばのパワーをもった作品の方が、私は好きだ。













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