人は、自分のもっているモデルの範囲内でしか、ものごとを捉えられないだろう。だから、ある人物を見て、「ああいう人だ、こういう人だ」と判断するのも、当人の抱いている人間観の中でのことになってしまう。
小松左京という人のことを考えていると、どうしても自分の持っている人間観、人物像というものの小ささ、ありきたりさに気づかざるを得ない。
やたらにデカくて、想像の範囲を超えた人なんですよね。
一日、小松さんのことを考えていて、そう思わざるをえませんでした。
その人類のことを知り、考えることを自分の仕事にしようとした小松さん。こんな人、そうそうはいません。
上の発言のあとには次のような言葉が続きます――
小松左京という人のことを考えていると、どうしても自分の持っている人間観、人物像というものの小ささ、ありきたりさに気づかざるを得ない。
やたらにデカくて、想像の範囲を超えた人なんですよね。
一日、小松さんのことを考えていて、そう思わざるをえませんでした。
たとえば『SFへの遺言』の冒頭部分にある、第五福竜丸事件についての次のような言葉――
- ……珊瑚礁の島が1つ全部煙になってしまった。広島に落ちたのは20キロトンだけれども、その頃になるとメガトン級になってきた。僕らは戦争中に1トン爆弾の威力は知っているわけですよ。1トンというのは、どんなにものすごいか。それの2万発分が原爆、さらにそれが百万発分になってきたので、これは人類史はもうお笑いだと思ったんだな。
その人類のことを知り、考えることを自分の仕事にしようとした小松さん。こんな人、そうそうはいません。
上の発言のあとには次のような言葉が続きます――
- その時の決意は運動とか党派性でやってもどうにもならん。これは「個人の責任」として引き受けるよりしょうがない。だから、文学だったんですね。