惑星ダルの日常(goo版)

(森下一仁の近況です。タイトルをはじめ、ほとんどの写真は交差法で立体視できます)

人間と文学

2011-07-29 22:00:15 | ひと
 人は、自分のもっているモデルの範囲内でしか、ものごとを捉えられないだろう。だから、ある人物を見て、「ああいう人だ、こういう人だ」と判断するのも、当人の抱いている人間観の中でのことになってしまう。
 小松左京という人のことを考えていると、どうしても自分の持っている人間観、人物像というものの小ささ、ありきたりさに気づかざるを得ない。
 やたらにデカくて、想像の範囲を超えた人なんですよね。
 一日、小松さんのことを考えていて、そう思わざるをえませんでした。

 たとえば『SFへの遺言』の冒頭部分にある、第五福竜丸事件についての次のような言葉――

 ……珊瑚礁の島が1つ全部煙になってしまった。広島に落ちたのは20キロトンだけれども、その頃になるとメガトン級になってきた。僕らは戦争中に1トン爆弾の威力は知っているわけですよ。1トンというのは、どんなにものすごいか。それの2万発分が原爆、さらにそれが百万発分になってきたので、これは人類史はもうお笑いだと思ったんだな。
 あきれて、笑うしかないことをやってしまうようになった人類。
 その人類のことを知り、考えることを自分の仕事にしようとした小松さん。こんな人、そうそうはいません。
 上の発言のあとには次のような言葉が続きます――
 その時の決意は運動とか党派性でやってもどうにもならん。これは「個人の責任」として引き受けるよりしょうがない。だから、文学だったんですね。
 ここにある「文学」は、従来の意味での「文学」とはすでに別ものとしかいいようがありません。小松さんという人間はもちろん、その文学も、特別でした。