今日も起き抜けにオリンピック。フィギユアスケート女子フリー。
昨日とは別人のような浅田真央選手の演技を観て、ホッとするというか、感激するというか。
昨日とは別人のような浅田真央選手の演技を観て、ホッとするというか、感激するというか。
でも「別人のような」といっても、同一人物であることにちがいはないんですよねぇ。体も技術も心も同じ人。
にもかかわらず、昨日、あんなにマズくって、今日は自己ベストの出来栄え。
誰もがいうとおり、リンクの上での気持ちが問題なのでしょう。もっといえば、脳神経の働き。
神経系のテンションや連携や集中がうまくいってこその演技なのですね。それらを統合するのは意識なんでしょうけれど、かといって、意識が勝ってもいけない。意識しないで体が動くように意識をもってゆく――そこがむずかしいんじゃないかな。
私のような仕事をしている者にとっては、言葉がとても大事で、最終的には仕事も言葉で残してゆく。
しかし、アスリートは体での表現が最終目標。
言葉は、たぶん、そのための補助手段なのでしょう。
そうした違いが、たとえばツイッターでのつぶやきの「文科系」と「体育会系」との如実な違いとなって出てくるように思います。
意識は言葉によってとらえられるように思われているけれど、最近は、どうも違うんじゃないかと考えるようになりました。もの書きと役者、アスリート、あるいは歌手など、人は立場によって絶対に別々の関係を意識と言葉の間につくっている。
とりとめのないことになってしまいましたが、意識のあり方と肉体や環境や記憶などとの関わりはずっと気になっているテーマで、最近ではアントニオ・R・ダマシオの『自己が心にやってくる』(山形浩生訳、早川書房)が、考えるための良い手がかりとなっています。