谷川俊太郎「部屋の記憶」(谷川俊太郎のポエメール デジタル mag2 0001619839 <mailmag@mag2.com> )
谷川俊太郎「部屋の記憶」を読みながら、妙にこころをくすぐられる。その一連目。
「古びたソファ」「黴臭い本棚」。遠い部屋を思い浮かべる。このときの「遠い」は「時間」の「遠い」、つまり「過去」だね。「古い」も「黴臭い」も「過去」そのもの。なんだか、ありきたりなのだけれど……。
「本でいっぱいの黴臭い本棚がある」は泣きたくなるくらいの不思議がつまっている。この行を読んで思い浮かべるのは、本? 本棚? 区別ができない。一気に、その「場」と一体になってしまう。「古びたソファ」のときはソファだけが見えたのだけれど、2行目で本を見ていいのか本棚を見ていいのか、わからなくなる。こういう「わからない」感じが、「記憶」のいちばんの不思議さ。全部わかるのに、どこに焦点をあてていいか「わからない」。みんなが等価値。思い出に蘇ってくるものに、これがいちばん、これが二番ということはない。
3行目が「いじわる」だねえ。「フェーディング」。おぼえています? 短波ラジオ知ってます? 「手製」って、わかる? いまはパソコンを手作りする時代だけれど、私の世代は短波ラジオ。(お、谷川と私は同世代か……。)電波が遠ざかったり近づいたり、昔はすべてが明晰じゃなかったなあ。その不明瞭ななかから何か、わかることを必死になってつかみ取る。その最初の体験が手作り短波ラジオ、その困難さのなかで知るかっこいいことばが「フェーディング」。
「いま」と「過去」が攪拌されて、それもいまの若者は知らないだろうなあ、という奇妙な「優越感」を煽られて、この詩なら知ってるぞ(知ってる世界だぞ)と思う。これが、なんともくすぐったい。いい感じ。うれしい感じ。
で、
そんな懐かしさをちらっちらっと見せながら、ことばは「未来の恋人」、「白木の棺」というような、えっ、これ、何? 古い思い出をセンチメンタルに語るだけの詩ではないの? 次はどうなるの? 何か「推理小説」でも読ませる感じで、ことばが変化する。
えっ、なにこれ。
2連目の書き出しもいいなあ。手製の短波ラジオよりも時間はさらに遠くなり「手巻きの蓄音機」か。レコード。SP盤の時代。そのことと、そのあとの「百科事典で〈交接〉の項を引いた」「初めてコニャックを舐めた」。これは、時間的には、どういう関係にあるだろう。同じ「過去」(思い出)ではあるけれど、その「過去」と「過去」の間には「間」がある。蓄音機はいつと特定できるものではないけれど、「交接」ということば、その説明だけで興奮する、自慰、射精ができるというのは性を「頭」と「自分のからだ」だけで知る思春期の初め。コニャックをなめるというのは、それよりもあとだな。つまり、ここには「時(瞬間)」がばらばらに同居している。そのばらばらが同居することで「ひとりの人間」をつくっている。
こういうのも、なんだかくすぐったいね。「肉体」のなかに、いろんな「時」がざわめいて、肉体そのものが揺さぶられる。
そのあとに、またちょっとわかりにくい「謎のようなことば」が出てくる。
「未知の故郷」「宇宙に浮いている」。
「未知」というくらいだから、それは「故郷(過去に住んだことのある場所)」ではないのだけれど、それは1、2連目の「記憶」をかかえこんでいる「場」なんだろうなあ、とわかる。感じてしまう。
で、3連目で予想通り(?)の種明かしがあるというか、結論があるのだけれど。
でも、私が詩を感じるのは、その「結論(意味)」ではなく、「手製の短波ラジオ」とか「フェーディング」ということば、「交接」ということばの出てき方、その手触り(私は、そのことばと一緒にある「中学生の肉体」を思い出す)なんだなあ。あ、このことばといっしょに、私の肉体が動いたことがある、そのときその肉体にしか見えない何かを見たぞ、という記憶をゆさぶる刺戟--そこに詩を感じる。
ふいに思い出すのだが、瀧井孝作の「俳句仲間」に、瀧井孝作が初めてセックスするシーンが出てくる。相手の女が「お腰が汚れちゃった」というようなことを言うんだけれど、いいなあ、あの清潔さ。その清潔に通じる感じが、百科事典で「交接」を調べる部分にもあるね。「正直」な美しさがある。「事実」の美しさがある。ふつう、こういう「事実」は言わない。自慢できるものではないから。でも、そういうことばの「正直」が、でも、文学の核心でもあるのだなあ、と思う。つまり、詩のありかなんだと思う。
そういうことばを、さっと紛れ込ませる。そして知らん顔をして「意味(結論)」も言ってしまう。
それが谷川の詩の、ひとつのスタイルだね。
谷川俊太郎「部屋の記憶」を読みながら、妙にこころをくすぐられる。その一連目。
その部屋には古びたソファがある
本でいっぱいの黴臭い本棚がある
手製の短波ラジオからフェーディングを伴って
耳慣れない人語が聞こえる
未来の恋人の気配が漂っている
白木の棺の幻も
「古びたソファ」「黴臭い本棚」。遠い部屋を思い浮かべる。このときの「遠い」は「時間」の「遠い」、つまり「過去」だね。「古い」も「黴臭い」も「過去」そのもの。なんだか、ありきたりなのだけれど……。
「本でいっぱいの黴臭い本棚がある」は泣きたくなるくらいの不思議がつまっている。この行を読んで思い浮かべるのは、本? 本棚? 区別ができない。一気に、その「場」と一体になってしまう。「古びたソファ」のときはソファだけが見えたのだけれど、2行目で本を見ていいのか本棚を見ていいのか、わからなくなる。こういう「わからない」感じが、「記憶」のいちばんの不思議さ。全部わかるのに、どこに焦点をあてていいか「わからない」。みんなが等価値。思い出に蘇ってくるものに、これがいちばん、これが二番ということはない。
3行目が「いじわる」だねえ。「フェーディング」。おぼえています? 短波ラジオ知ってます? 「手製」って、わかる? いまはパソコンを手作りする時代だけれど、私の世代は短波ラジオ。(お、谷川と私は同世代か……。)電波が遠ざかったり近づいたり、昔はすべてが明晰じゃなかったなあ。その不明瞭ななかから何か、わかることを必死になってつかみ取る。その最初の体験が手作り短波ラジオ、その困難さのなかで知るかっこいいことばが「フェーディング」。
「いま」と「過去」が攪拌されて、それもいまの若者は知らないだろうなあ、という奇妙な「優越感」を煽られて、この詩なら知ってるぞ(知ってる世界だぞ)と思う。これが、なんともくすぐったい。いい感じ。うれしい感じ。
で、
そんな懐かしさをちらっちらっと見せながら、ことばは「未来の恋人」、「白木の棺」というような、えっ、これ、何? 古い思い出をセンチメンタルに語るだけの詩ではないの? 次はどうなるの? 何か「推理小説」でも読ませる感じで、ことばが変化する。
えっ、なにこれ。
そこで夜更かしをした
手巻きの蓄音機でベートーベンを聴いた
百科事典で〈交接〉の項を引いた
初めてコニャックを舐めた
そこで未知の故郷を夢見ていた
宇宙に浮いているその部屋で
2連目の書き出しもいいなあ。手製の短波ラジオよりも時間はさらに遠くなり「手巻きの蓄音機」か。レコード。SP盤の時代。そのことと、そのあとの「百科事典で〈交接〉の項を引いた」「初めてコニャックを舐めた」。これは、時間的には、どういう関係にあるだろう。同じ「過去」(思い出)ではあるけれど、その「過去」と「過去」の間には「間」がある。蓄音機はいつと特定できるものではないけれど、「交接」ということば、その説明だけで興奮する、自慰、射精ができるというのは性を「頭」と「自分のからだ」だけで知る思春期の初め。コニャックをなめるというのは、それよりもあとだな。つまり、ここには「時(瞬間)」がばらばらに同居している。そのばらばらが同居することで「ひとりの人間」をつくっている。
こういうのも、なんだかくすぐったいね。「肉体」のなかに、いろんな「時」がざわめいて、肉体そのものが揺さぶられる。
そのあとに、またちょっとわかりにくい「謎のようなことば」が出てくる。
「未知の故郷」「宇宙に浮いている」。
「未知」というくらいだから、それは「故郷(過去に住んだことのある場所)」ではないのだけれど、それは1、2連目の「記憶」をかかえこんでいる「場」なんだろうなあ、とわかる。感じてしまう。
で、3連目で予想通り(?)の種明かしがあるというか、結論があるのだけれど。
でも、私が詩を感じるのは、その「結論(意味)」ではなく、「手製の短波ラジオ」とか「フェーディング」ということば、「交接」ということばの出てき方、その手触り(私は、そのことばと一緒にある「中学生の肉体」を思い出す)なんだなあ。あ、このことばといっしょに、私の肉体が動いたことがある、そのときその肉体にしか見えない何かを見たぞ、という記憶をゆさぶる刺戟--そこに詩を感じる。
ふいに思い出すのだが、瀧井孝作の「俳句仲間」に、瀧井孝作が初めてセックスするシーンが出てくる。相手の女が「お腰が汚れちゃった」というようなことを言うんだけれど、いいなあ、あの清潔さ。その清潔に通じる感じが、百科事典で「交接」を調べる部分にもあるね。「正直」な美しさがある。「事実」の美しさがある。ふつう、こういう「事実」は言わない。自慢できるものではないから。でも、そういうことばの「正直」が、でも、文学の核心でもあるのだなあ、と思う。つまり、詩のありかなんだと思う。
そういうことばを、さっと紛れ込ませる。そして知らん顔をして「意味(結論)」も言ってしまう。
それが谷川の詩の、ひとつのスタイルだね。
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谷内 修三 | |
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