詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎「部屋の記憶」

2014-07-01 11:53:57 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「部屋の記憶」(谷川俊太郎のポエメール デジタル mag2 0001619839 <mailmag@mag2.com> )

 谷川俊太郎「部屋の記憶」を読みながら、妙にこころをくすぐられる。その一連目。

その部屋には古びたソファがある
本でいっぱいの黴臭い本棚がある
手製の短波ラジオからフェーディングを伴って
耳慣れない人語が聞こえる
未来の恋人の気配が漂っている
白木の棺の幻も

 「古びたソファ」「黴臭い本棚」。遠い部屋を思い浮かべる。このときの「遠い」は「時間」の「遠い」、つまり「過去」だね。「古い」も「黴臭い」も「過去」そのもの。なんだか、ありきたりなのだけれど……。
 「本でいっぱいの黴臭い本棚がある」は泣きたくなるくらいの不思議がつまっている。この行を読んで思い浮かべるのは、本? 本棚? 区別ができない。一気に、その「場」と一体になってしまう。「古びたソファ」のときはソファだけが見えたのだけれど、2行目で本を見ていいのか本棚を見ていいのか、わからなくなる。こういう「わからない」感じが、「記憶」のいちばんの不思議さ。全部わかるのに、どこに焦点をあてていいか「わからない」。みんなが等価値。思い出に蘇ってくるものに、これがいちばん、これが二番ということはない。
 3行目が「いじわる」だねえ。「フェーディング」。おぼえています? 短波ラジオ知ってます? 「手製」って、わかる? いまはパソコンを手作りする時代だけれど、私の世代は短波ラジオ。(お、谷川と私は同世代か……。)電波が遠ざかったり近づいたり、昔はすべてが明晰じゃなかったなあ。その不明瞭ななかから何か、わかることを必死になってつかみ取る。その最初の体験が手作り短波ラジオ、その困難さのなかで知るかっこいいことばが「フェーディング」。
 「いま」と「過去」が攪拌されて、それもいまの若者は知らないだろうなあ、という奇妙な「優越感」を煽られて、この詩なら知ってるぞ(知ってる世界だぞ)と思う。これが、なんともくすぐったい。いい感じ。うれしい感じ。
 で、
 そんな懐かしさをちらっちらっと見せながら、ことばは「未来の恋人」、「白木の棺」というような、えっ、これ、何? 古い思い出をセンチメンタルに語るだけの詩ではないの? 次はどうなるの? 何か「推理小説」でも読ませる感じで、ことばが変化する。
 えっ、なにこれ。

そこで夜更かしをした
手巻きの蓄音機でベートーベンを聴いた
百科事典で〈交接〉の項を引いた
初めてコニャックを舐めた
そこで未知の故郷を夢見ていた
宇宙に浮いているその部屋で

 2連目の書き出しもいいなあ。手製の短波ラジオよりも時間はさらに遠くなり「手巻きの蓄音機」か。レコード。SP盤の時代。そのことと、そのあとの「百科事典で〈交接〉の項を引いた」「初めてコニャックを舐めた」。これは、時間的には、どういう関係にあるだろう。同じ「過去」(思い出)ではあるけれど、その「過去」と「過去」の間には「間」がある。蓄音機はいつと特定できるものではないけれど、「交接」ということば、その説明だけで興奮する、自慰、射精ができるというのは性を「頭」と「自分のからだ」だけで知る思春期の初め。コニャックをなめるというのは、それよりもあとだな。つまり、ここには「時(瞬間)」がばらばらに同居している。そのばらばらが同居することで「ひとりの人間」をつくっている。
 こういうのも、なんだかくすぐったいね。「肉体」のなかに、いろんな「時」がざわめいて、肉体そのものが揺さぶられる。
 そのあとに、またちょっとわかりにくい「謎のようなことば」が出てくる。
 「未知の故郷」「宇宙に浮いている」。
 「未知」というくらいだから、それは「故郷(過去に住んだことのある場所)」ではないのだけれど、それは1、2連目の「記憶」をかかえこんでいる「場」なんだろうなあ、とわかる。感じてしまう。

 で、3連目で予想通り(?)の種明かしがあるというか、結論があるのだけれど。
 でも、私が詩を感じるのは、その「結論(意味)」ではなく、「手製の短波ラジオ」とか「フェーディング」ということば、「交接」ということばの出てき方、その手触り(私は、そのことばと一緒にある「中学生の肉体」を思い出す)なんだなあ。あ、このことばといっしょに、私の肉体が動いたことがある、そのときその肉体にしか見えない何かを見たぞ、という記憶をゆさぶる刺戟--そこに詩を感じる。
 
 ふいに思い出すのだが、瀧井孝作の「俳句仲間」に、瀧井孝作が初めてセックスするシーンが出てくる。相手の女が「お腰が汚れちゃった」というようなことを言うんだけれど、いいなあ、あの清潔さ。その清潔に通じる感じが、百科事典で「交接」を調べる部分にもあるね。「正直」な美しさがある。「事実」の美しさがある。ふつう、こういう「事実」は言わない。自慢できるものではないから。でも、そういうことばの「正直」が、でも、文学の核心でもあるのだなあ、と思う。つまり、詩のありかなんだと思う。
 そういうことばを、さっと紛れ込ませる。そして知らん顔をして「意味(結論)」も言ってしまう。
 それが谷川の詩の、ひとつのスタイルだね。




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谷内 修三
思潮社
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池井昌樹『冠雪富士』(10)

2014-07-01 10:38:38 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(9)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「蜜柑色の家」は「地元公立高校入試にただ一人落第した私は隣町高松の私立高校へ通うことになった。」という一行から始まる。そのころの通学の思い出、三者面談のあと、高松駅前の食堂でラーメンと鉄火巻を食べたことなどが語られているのだが、その思い出にさらに過去の思い出が重なる。

       ラーメンは幼い私を連れて母が、私を楯に、贔屓の
橋蔵映画を観た帰りに食べさせてくれた。丼の底の一滴まで綺麗に
啜った。鉄火巻は父が教えてくれた。買ってもらったばかりの自転
車で父と初めて遠乗りした折り、丸亀という街で食べた。この世に
こんな旨いものがあるのかと瞠目した。

 ラーメンの味、鉄火巻の味を、「味覚」ではなく母と父の一緒の時間として描いている。父の方の描き方はあまり親身ではない(?)が、母に対する関する観察がとてもおもしろい。大川橋蔵が好きだったのか。チャンバラ映画を見たのか。池井は、母親に利用されているということを感じながら、それを楽しんでいたのか。「丼の底の一滴まで綺麗に啜った。」はラーメンの汁を啜るというよりも、母と一緒にいる時間そのものの濃密さを啜る感じがする。幸福はラーメンというよりも、母と一緒に、いつもとは違う場所にいて、違うことをしているという喜びの中にあるのかもしれない。
 父と食べた鉄火巻も、もし、それが坂出の商店街のなかの店なら味が違っていただろう。いつもとは違う街、丸亀で食べたからおいしい。それは、父と、いつもとは違う場所に一緒にいるからだ。父の描き方が親身ではないと書いたけれど、池井はしっかりと「時間」そのものは書いている。

 こういう思い出を書いているとき、池井のなかで「時制」はどうなっているのかなあ。
 何かを思い出すとき、時間はどうなっているのだろう。
 この詩の中には「ずいぶん遠くへきたもんだ」ということばが繰り返されているが、その「遠さ」がほんとうに「遠い」のではなく、とても「近い」。それが「近すぎる」ので、「いま」が何か異様に見える。ほんとうは「遠い」はずなのに、こんなに近くに、初めてラーメンを食べたときのこと、初めて鉄火巻を食べたときのことが、三者面談の日にラーメンをたべたこと、鉄火巻を食べたことと「一緒」になって動いている。
 「遠い」思い出こそ、いちばん「近い」。

しかし、あれから、ラーメンと鉄火巻に充ち足りた私と訪問着姿の
若い母はどうしただろう。煮汁の出汁の匂いのする薄暗い駅舎の改
札を抜け、微かに潮鳴りを聞きながら、いまはないディーゼル列車
にゆられ、いまはない窓外を眺め、いまはない、ドコヘ帰っていっ
たのだろう。

 「いまはない」は「いまは現実にはない」ということであって、その「ない」はほんとうに「ない」のではない。

  いまはもうなにもかもことごとく喪われてしまったにも拘らず、
いまもなお、あの頃のまま、蜜柑色の陽に包まれた家。父の十三回
忌もすぎ、母が施設に入り、いまはもぬけのからの家。

 あらゆるものは「いまもなお」、そこにある。「そこ」というのは、池井の「肉体」である。池井の肉体は「いまもなお」、池井が体験したことを覚えている。特に、母と一緒にした「こと」、父と一緒にした「こと」を忘れることができない。
 そういうことを、池井は、何の工夫もなく(ひとを驚かして、何かを印象づけるということもなく)、ただ思い出す順にしたがって書いている。
 この、池井のことばの、「どこに詩があるか」。
 これに対する「答え」は難しい。

ずいぶん遠くへきたもんだ、心の片隅でそう思いながら。

思えば遠くへきたもんだ、熟と、そう思う。

 「遠くへきたもんだ」と一緒に動いている動詞「思う」。そのなかに詩があるかもしれない。「遠い」ものを「いま/ここ」の近くに引き寄せる力、その思いのなかに。
 思い出は、技巧もなしに書かれているので、池井がそれを真剣に思い出しているという感じの「強さ」はわかりにくいかもしれない。いや、それは「強い」ではないのだ。「強い」なら、読者にわかりやすい。「強い」ものはあざやかだから。
 池井は「正直」に思い出している。
 これが池井の詩の「わかりにくさ」である。
 「正直」がなぜわかりにくいか。「正直」なひとが多すぎるからである。「正直」なひとにとって「正直」はあたりまえなので、あたりまえと「正直」の区別がつかない。それゆえに、驚かず、それゆえに、池井の詩を「現代詩っぽくない」「詩ではない」と感じてしまう。あったことを、あたりまえの調子のことばで書いている、と見える。
 そういう「他人の(読者の)正直」にたどりつくところまで、池井のことばは動いている。ためしに自分でラーメンを最初に食べた記憶、鉄火巻を初めて食べたときの記憶を書いてみるといい。池井のようには書けない。こんな正直に、こんなにあたりまえのことを書くのはとても難しい。

 ゆきあたりばったりに、嘘とはったりを書いている私には、この池井の「正直」は強烈に響いてくる。

冠雪富士
クリエーター情報なし
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(101)

2014-07-01 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(101)        

 「私は芸術にもたらした……」の書き出しはカヴァフィスの特徴をあらわしている。

ここに腰をおろして、すこしくは夢見心地。
感覚と欲望を「芸術」に加えたのはこの私だ。

 二行目の「感覚と欲望」ということば。どういう感覚、欲望なのかは書かずにただ「感覚と欲望」と言う。カヴァフィスには、それがわかってる。感覚も欲望も「主観」にすぎないが、「主観」であるからこそ、説明がいらない。説明しても、他人にはわからない。自分にわかれば充分である。「感覚と欲望」のことを考えているということ、その「こと」さえ読者に伝わればいい。
 「こと」を重視した、このさっぱりしたことばの強さ、スピードは、どうせ読者にはわからないという開き直りとも受け止められるが、私には「孤独」の美しさに見える。世間に背を向け、自分の世界を完結させて、充足している不思議な美しさがある。カヴァフィスは「弁明/釈明」をしない。起きている「こと」は書くが、「説明」はしない。
 このあと、カヴァフィスは、「感覚と欲望」を語りなおしているが、抽象的で、こころの運動を「数学」で表現したもののように、さっぱりしている。ちっとも具体的なところがない。

ただかいま見られることしかなかったものを、
かんばせやからだの線のつかの間の動きを、
ついに成らざりし愛のおぼめく思い出を--。

 具体的ではないのだけれど、カヴァフィスが「美」というものを「かいま見る」ことしかできないもの、「つかの間の動き」ととらえていることは、わかる。「かんばせやからだの線」はいつでも見ることができる。しかし、ある瞬間の、ある動き--それは瞬間的にしか見ることができない。それは次の瞬間には消えている。
 そして、それが「感覚と欲望」というものだ。
 カヴァフィスは「感覚」と「欲望」と書いているが、きっとそれは一つのもの、あるいは一つの「こと」かもしれない。二つにわけて表現すことはできない。そして、それが「融合したひとつのもの(こと)」であるからこそ、それを正直に書こうとすると「修飾語」が消えてしまう。それにふさわしい「修飾語」がない。だから、カヴァフィスは修飾語を拒否する。
 で、この「一つ」をカヴァフィスは、もう一度言い換える。

わが身を今「芸術」にゆだねる。

 「感覚と欲望」は「わが身」である。「付け加える」は「ゆだねる」だ。自分の意思ではない。「対象」に誘われるままに「感覚と欲望」が動いていくのに任せている。



中井久夫の訳詩『リッツォス詩選集』が発行されます。
20年ぶりの訳詩の出版です。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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