池井昌樹『冠雪富士』(26)(思潮社、2014年06月30日発行)
「弥生狂想」も少ないことばが繰り返し書かれている。
「ゆめみられたぼく」「ゆめみたあのぼく」。「ぼく」は同じなのか、違う存在なのか。ことばが似すぎていて、よくわからない。しっかり区別(識別)しなければいけないのだろうか。
詩なのだから、いいかげんでいいと私は思っている。
年をとって(私と池井は同じ年なのだが)、なんだか疲れて、過去といまを行き来している。「いま/ここ」と「かつて/どこか」を行き来している。歩いているのは目的があるからなのか、目的がないからなのか。ほんとうは区別できることがらだけれど、そういうこともせず、どっちが夢なのかと考えるでもなくぼんやり放心している。
その「ぼんやり/放心」が同じことばの(似たことばの)繰り返しで、まるで歌のように響いてくる。
「歌」の功罪(?)はいろいろあるだろうが、ぼんやりと声が解放されていくのは気持ちがいい。
私は詩を朗読しないが、池井は朗読をする。それは声を出すことで、肉体のなかの何かが少しずつ解きほぐされるからだろう。肉体のなかには、何か、区別できずに融合しているものがある。「いま/ここ」「かつて/どこか」は違うものだけれど、それが重なるというよりも溶け合ってゆらいでいる「場」がある。それは、「声」を出すと、声に乗って「肉体」の外へ出てくる。さまよってくる。それを見る(聞く?)のは、なんとなく気持ちがいい。
あ、こんな抽象的なことは、わけがわからないかもしれないなあ。
私は自分が大声だし、声を出すのが好きだし、声を聞くのも好きだ。というより、私は実は聞いたことしか理解できない。「読む」だけでは、まったく「わからない」。読んでわかることは、聞いたことがあることだけである。聞いたことがないと、私は何もわからない。「聞く」と何がわかるかというと、その「声」を出している「肉体」が「わかる」。
この池井の詩では「いま/ここ」と「いつか/どこか」が「いつか/ここ」「いまも/どこか」とゆらぎながら、「……ように」「……ような」が「声」になって響くが、そのとき「肉体」はすべての区別をやめてしまって「ような(ように)」で満ち足りた感じになっている。明確じゃなくていい。「ような(ように)」のあいまいななかで、あいまいなまま何かに触れる--その「あいまいさ」がどことなくいいのだ。あいまいさが、何かをほどく。あいまいさが、何かを吸収して、消してしまう。
その「ような(ように)」のなかでぼんやりしていると……。
「ぼく」は消え失せて、弥生三月、「かわいいこえ」が運ばれてくる。それは「いつかゆめみられたぼく」「いつかゆめみたぼく」の「こえ」である。その「こえ」になろうとして詩を書いたわけではないだろうけれど、詩を書いていると、知らず知らず、その「こえ」のところにたどりついてしまった。
「いま/ここ」「いつか/どこか」もない永遠の「ような」声にたどりついてしまった。
*
「谷川寸太郎の『こころ』を読む」は、AMAZONよりも思潮社からの直接購入が簡便です。(ただし送料が別途必要です。
思潮社のホームページ
からお申込みください。数日で届きます。
各地の書店でも販売していますが、多くは「取り寄せ」になります。2-3週間かかることがあります。
AMAZONでは「中古品」が6710円で売り出されていますが、思潮社、書店取り扱いの「新品」は1800円(税別)です。
「弥生狂想」も少ないことばが繰り返し書かれている。
いつかゆめみられたぼくが
いまもあるいているように
こんなとしよせくたびれて
ここをあるいているような
いつかゆめみたあのぼくは
いまもどこかにいるような
こんなとしよせくたびれた
ぼくをゆめみているような
いまもいつかもゆめのなか
ゆめならいつかさめそうで
ここもどこかもゆめのなか
どこかであくびするおとが
「ゆめみられたぼく」「ゆめみたあのぼく」。「ぼく」は同じなのか、違う存在なのか。ことばが似すぎていて、よくわからない。しっかり区別(識別)しなければいけないのだろうか。
詩なのだから、いいかげんでいいと私は思っている。
年をとって(私と池井は同じ年なのだが)、なんだか疲れて、過去といまを行き来している。「いま/ここ」と「かつて/どこか」を行き来している。歩いているのは目的があるからなのか、目的がないからなのか。ほんとうは区別できることがらだけれど、そういうこともせず、どっちが夢なのかと考えるでもなくぼんやり放心している。
その「ぼんやり/放心」が同じことばの(似たことばの)繰り返しで、まるで歌のように響いてくる。
「歌」の功罪(?)はいろいろあるだろうが、ぼんやりと声が解放されていくのは気持ちがいい。
私は詩を朗読しないが、池井は朗読をする。それは声を出すことで、肉体のなかの何かが少しずつ解きほぐされるからだろう。肉体のなかには、何か、区別できずに融合しているものがある。「いま/ここ」「かつて/どこか」は違うものだけれど、それが重なるというよりも溶け合ってゆらいでいる「場」がある。それは、「声」を出すと、声に乗って「肉体」の外へ出てくる。さまよってくる。それを見る(聞く?)のは、なんとなく気持ちがいい。
あ、こんな抽象的なことは、わけがわからないかもしれないなあ。
私は自分が大声だし、声を出すのが好きだし、声を聞くのも好きだ。というより、私は実は聞いたことしか理解できない。「読む」だけでは、まったく「わからない」。読んでわかることは、聞いたことがあることだけである。聞いたことがないと、私は何もわからない。「聞く」と何がわかるかというと、その「声」を出している「肉体」が「わかる」。
この池井の詩では「いま/ここ」と「いつか/どこか」が「いつか/ここ」「いまも/どこか」とゆらぎながら、「……ように」「……ような」が「声」になって響くが、そのとき「肉体」はすべての区別をやめてしまって「ような(ように)」で満ち足りた感じになっている。明確じゃなくていい。「ような(ように)」のあいまいななかで、あいまいなまま何かに触れる--その「あいまいさ」がどことなくいいのだ。あいまいさが、何かをほどく。あいまいさが、何かを吸収して、消してしまう。
その「ような(ように)」のなかでぼんやりしていると……。
やよいさんがつかぜふけば
かわいいこえもはこばれて
こんなとしよせくたびれた
ぼくはとっくにきえうせて
「ぼく」は消え失せて、弥生三月、「かわいいこえ」が運ばれてくる。それは「いつかゆめみられたぼく」「いつかゆめみたぼく」の「こえ」である。その「こえ」になろうとして詩を書いたわけではないだろうけれど、詩を書いていると、知らず知らず、その「こえ」のところにたどりついてしまった。
「いま/ここ」「いつか/どこか」もない永遠の「ような」声にたどりついてしまった。
*
「谷川寸太郎の『こころ』を読む」は、AMAZONよりも思潮社からの直接購入が簡便です。(ただし送料が別途必要です。
思潮社のホームページ
からお申込みください。数日で届きます。
各地の書店でも販売していますが、多くは「取り寄せ」になります。2-3週間かかることがあります。
AMAZONでは「中古品」が6710円で売り出されていますが、思潮社、書店取り扱いの「新品」は1800円(税別)です。
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