詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹『冠雪富士』(26)

2014-07-17 09:46:22 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(26)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「弥生狂想」も少ないことばが繰り返し書かれている。

いつかゆめみられたぼくが
いまもあるいているように
こんなとしよせくたびれて
ここをあるいているような

いつかゆめみたあのぼくは
いまもどこかにいるような
こんなとしよせくたびれた
ぼくをゆめみているような

いまもいつかもゆめのなか
ゆめならいつかさめそうで
ここもどこかもゆめのなか
どこかであくびするおとが

 「ゆめみられたぼく」「ゆめみたあのぼく」。「ぼく」は同じなのか、違う存在なのか。ことばが似すぎていて、よくわからない。しっかり区別(識別)しなければいけないのだろうか。
 詩なのだから、いいかげんでいいと私は思っている。
 年をとって(私と池井は同じ年なのだが)、なんだか疲れて、過去といまを行き来している。「いま/ここ」と「かつて/どこか」を行き来している。歩いているのは目的があるからなのか、目的がないからなのか。ほんとうは区別できることがらだけれど、そういうこともせず、どっちが夢なのかと考えるでもなくぼんやり放心している。
 その「ぼんやり/放心」が同じことばの(似たことばの)繰り返しで、まるで歌のように響いてくる。
 「歌」の功罪(?)はいろいろあるだろうが、ぼんやりと声が解放されていくのは気持ちがいい。
 私は詩を朗読しないが、池井は朗読をする。それは声を出すことで、肉体のなかの何かが少しずつ解きほぐされるからだろう。肉体のなかには、何か、区別できずに融合しているものがある。「いま/ここ」「かつて/どこか」は違うものだけれど、それが重なるというよりも溶け合ってゆらいでいる「場」がある。それは、「声」を出すと、声に乗って「肉体」の外へ出てくる。さまよってくる。それを見る(聞く?)のは、なんとなく気持ちがいい。
 あ、こんな抽象的なことは、わけがわからないかもしれないなあ。
 私は自分が大声だし、声を出すのが好きだし、声を聞くのも好きだ。というより、私は実は聞いたことしか理解できない。「読む」だけでは、まったく「わからない」。読んでわかることは、聞いたことがあることだけである。聞いたことがないと、私は何もわからない。「聞く」と何がわかるかというと、その「声」を出している「肉体」が「わかる」。
 この池井の詩では「いま/ここ」と「いつか/どこか」が「いつか/ここ」「いまも/どこか」とゆらぎながら、「……ように」「……ような」が「声」になって響くが、そのとき「肉体」はすべての区別をやめてしまって「ような(ように)」で満ち足りた感じになっている。明確じゃなくていい。「ような(ように)」のあいまいななかで、あいまいなまま何かに触れる--その「あいまいさ」がどことなくいいのだ。あいまいさが、何かをほどく。あいまいさが、何かを吸収して、消してしまう。
 その「ような(ように)」のなかでぼんやりしていると……。

やよいさんがつかぜふけば
かわいいこえもはこばれて
こんなとしよせくたびれた
ぼくはとっくにきえうせて

 「ぼく」は消え失せて、弥生三月、「かわいいこえ」が運ばれてくる。それは「いつかゆめみられたぼく」「いつかゆめみたぼく」の「こえ」である。その「こえ」になろうとして詩を書いたわけではないだろうけれど、詩を書いていると、知らず知らず、その「こえ」のところにたどりついてしまった。
 「いま/ここ」「いつか/どこか」もない永遠の「ような」声にたどりついてしまった。





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谷川俊太郎の『こころ』を読む
谷内 修三
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(117)

2014-07-17 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(117)        2014年07月17日(木曜日)

 「色ガラスのこと」は中井久夫の注釈によれば、ビザンツの歴史家グレゴラスによって報じられていることを踏まえて書かれている。ヨアネス・カンタクゼノスと妃イリニの戴冠式のことである。

イリニはアンドロニコス・アサンの娘なのに
ふたりの宝石は数える程。
(衰亡の我が帝国はいたくまずしく)
ふたりは人工の石を身に着けた。かずかずの
ガラスの玉を。赤、青、緑--。
だが、私は知る、これらの色ガラスの玉に
卑しさはなく、安っぽさもおおよそなかった。
それどころか、王位に就くふたりの
理不尽な不運への
かなしく敢然たる抗議のごとくだった。

 「だが、私は知る、」以下がカヴァフィスの主観である。この「私」の主張は清潔だ。他者を気にしていない。ガラス玉を、卑しさはなく、安っぽさもないと否定する。そういう声があることを知っているから、まず否定する。他者の視線を蹴散らす。そして、「それどころか」と論理を逆の方向展開する。この論法の手順は、単刀直入なことばの動きを身上とするカヴァフィスには珍しい。論理を展開するにしても、論理の気配を感じさせないのがカヴァフィスなのに、ここでは論理が逆の方向へ動いていくことを「それどころか」でまず暗示する。
 言いたいことがたくさんある。たくさんあるから、論理の動きを予想させる必要があった。まず「理不尽な不運」というもの。次に

かなしく敢然たる抗議

 この「かなしく」と「敢然たる」ということばの結びつき--それをカヴァフィスは強調したい。「かなしく」と「敢然たる」は必ずしも「一致」する感情、概念ではない。ひとは悲しかったら敢然とはしない。思い切って何かをするのではなく、何もできないのが「かなしい」なのだから、ここは矛盾しているとさえ言える。
 しかし、こういう「流通言語」からみると「矛盾」としかいえないところに詩がある。詩は、もともと「流通言語」ではとらえられない何か、うまくことばにならない何かをことばにしたものである。
 この矛盾を、矛盾ではない、「真実である」と訴えるための助走が「それどころか」である。強調したいことがある。それを言うから注目してくれ、というのが「それどころか」という論理に含まれた「声」である。
 途中の「私」の主張、完全なる個人的見解の「私」が詩の基本だ。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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