詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

監督中島哲也「渇き」(★)

2014-07-03 10:08:06 | 映画
監督 中島哲也 出演 役所広司、小松菜奈


 私は中島哲也と相性が悪いのかもしれない。「告白」もまったくおもしろくなかったが、今回の「渇き」も最初から最後までうんざりしながら見ていた。私は06月30日(日曜日)に見たのだが、高校生らしい感じの女子がたくさんいて、その観客層に驚きながら見ていた。私のまわりでは、私と右隣のカップル以外に男はいなかった。
 何がうんざりするかというと。
 冒頭からそうなのだがアップ、アップ、アップの連続。そして、そのアップにはちゃんと理由がある。ひとが見る現実というのは拡大された局所だけであり、全体は把握できない。局所をつなぎあわせて全体を自分のなかで、自分の都合のいいようにつなぎあわせているだけ--そういう「哲学」にもとづいて映画がつくられている。
 映画は、そのアップの世界を人間の姿形(目に見える肉体)の部分だけに限定せず、精神の局所にまで踏み込み、「頭の中のアップ」をアニメというか、人工処理した影像で見せる。
 これを、「おっ、ここまでやるか」と肯定的にとらえれば、中島監督が好きになるだろう。徹底して自己の「影像哲学」(映画哲学)を貫く姿勢を称賛する気持ちになれるだろう。
 私は、なれません。ほんとうに、うんざり。(で、最近は目も悪くなっているので、うんざりしたものについては書くのはやめようと思っていたのだが、このうんざりは吐き出してしまわないと、あとに影響すると思って書いている。)
 こんな、ありきたりな、人間に見えるものは局所だけ、連続した世界は見えないなんてことをアップの多用で具体化するというのは、あまりにも見え透いている。「哲学」として「底」が浅すぎる。
 ストーリーは、行方がわからなくなった娘を探す元刑事を描いている。娘を探しているうちに、それまで知らなかった娘の「ほんとうの姿」が見えてくる。で、その「ほんとうの姿」というのが、まあ、父親として受け入れにくいものである。そのことに動揺しながら、こんなはずはない。「裏」になにかあるのだ、と考え、さらに追い詰めていくと、そこに社会の裏の姿がリンクするように浮き上がってくる。彼が働いていた警察組織の内部の「ほんとうの姿」も見えてくる。
 ありきたりだなあ。個人の人間の「暗部」を社会組織の「暗部」によって証明するなんて。個人の「暗部」に徹底的につきあえないから、それを組織の「暗部」へ転写することで、あたかも社会問題を描いているようにみせかける。現実社会の問題に向き合いながら映画をつくっているようにみせかける。こんな見え透いた映画作りは、嫌いだなあ。

 役所広司は、一生懸命がんばっているのだけれど、おもしろくない。人間の愚かさが出て来ない。欲望が感じられない。欲望というのは、どんな欲望であれ、他人からみればこっけいである。思わず笑いだしてしまうところがある。
 「渇き」と同じようにグロテスクな「冷たい熱帯魚」。でんでんが、人殺しを演じていたが、グロテスクだけれど思わず笑ってしまうでしょ? ひとを殺してはいけないのだけれど、思わずおもしろそうと思ってしまうでしょ? そういうものに触れながら、自分にはっと気がつく--そういうのが映画の、具体的な肉体影像の極致。
 役所広司で言うなら、「さゆり(サユリ?)」のふられる役どころ。ちょっと女に親切にしてもらって、あ、この女、自分に気があると勘違いして、次にあったときに、こまめに気遣いをする。あそこで私は大笑いしてしまった。結局、ふられるというか、利用されるだけの役どころなのだが、大笑いしたのは。「おおい、役所広司よ、おまえちゃんと脚本読んだのか。利用されてふられるってこと知ってるのか」と叫びたくなったからだ。もちろん、そんなことは知っていて、それを承知で何も知らない初な男を演じているのだけれど、その「結末を知らない」(今しかわからない)という感覚の演技がすばらしかった。
 この映画には、そういうことが全然ない。
 役所広司は映画の結末を知っていて、演技している。もちろん全体を知っていることは重要なのだけれど、その瞬間瞬間は知らない感じにならないといけない。
 特に、高校の女教師と出会い、話すシーン。ここは変だったなあ。女教師が何か隠している、ではなく、役所広司が何か隠している(結末を知っていて、何かを抑制している)という不自然な感じ、それまでとは違う演技をしている。むりやり自分(役どころの感情、肉体)を剥き出しにしていく「匂い」がない。あ、これは最後にもう一度この女教師が出てくるぞ、そのときのために肉体(感情)を抑えているんだな、と思ったら、その通りになった。
 これじゃあ、つまんないよね。
 裏切ってくれないと。
 裏切られて、ええっ、ほんとうはこうだんたんだ、と発見する喜びを、映画館で、観客のみんなと共有したい。そのために映画館に行くのだから。
                       (2014年06月30日、天神ソラリア7)

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池井昌樹『冠雪富士』(12)

2014-07-03 09:14:39 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(12)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「月」という詩の書き出しは「手の鳴るほうへ」と書き出しが同じである。詩の終わり方も似ている。同じ日に書いたのかもしれない。

それはきれいなおつきさま
あんたも みてみ
でんわのむこうでいなかのははが
はははしせつへゆくことになり
それはきれいなおつきさま
のぞんでももうかなうまい

 この電話はいつのものだろう。施設に入る前の日の電話かもしれない。池井がかけたのか、母の方からかけてきたのか。母の方からかけてきたのだろう。月がほんとうにきれいだったからかけてきたのか、それとも思うことがあってかけてきたのだが、思うことをいわずに月がきれいと言っているのか。月がきれいと言えば、いいたかった思いは半分は伝わると思ったのか。
 池井は、そういうことを書いていない。書いていないから、読者はそれぞれ自分の母のことを思い出して、自分の母の姿を見る。私は、最後に書いた母の姿を想像した。言いたいことがある。けれど言ってしまえば息子の負担になる。だから、直接言わずに、間接的に何かを伝える。

それはきれいなおつきさま
あんたも みてみ

 これは、きょう初めてのことばではなく、池井の母が何度も何度も池井に言ったのだろう。池井が母と一緒に暮らしていたと、池井は何度その「声」を聞いただろう。あるときは知らん顔をし、あるときは一緒にならんで見たのだろう。母は、月を見ながら、その「一緒」の時間を思い出している。もう一度、一緒の時間を持ちたくて、そう電話してきた。坂出と東京と離れていても、月を見るとき、「一緒」を楽しむことができる。同じ「月」を見るという時間をすごすことができる。
 でも、その「一緒」も、もうこれからは無理なのだ。

むすこはくるしくうしろめたく
いますぐいなかへかけもどりたく
さりとてもどるにもどられず
なにかてだてはないものか
だれにきいてもしのごのばかり
しのごのしのごのうやむやばかり
ふたおやかいごでかよいづめ
つまはかなしくめをふせて
ばんさくははやつきはてて
むすこはみじかいしをかいたのだ
ははとならんでいなかのいえで
つきをみあげるみじかいし
--それはちいさな
  まずしいつきを

 詩を書くことしかできない。詩を書くとき、池井は母と一緒に月を見ている。詩を書くことは、池井にとってはだれかと一緒にいることなのだ。だれかとつながっていることなのだ。つながることなのだ。大切な大切なだれかと。
 だから、
 と書くとかなり逸脱してしまうことになるかもしれないけれど。
 「むすこはすこしくるしくうしろめたく」と書きつないでいくとき、その「声」を坂出の母は聞いている。池井の苦悩を、そばにいて聞いている。そして「わかっているよ。わかっているから、それはいわなくていいよ。さあ、いっしょに月を見ようよ、きれいなおつきさまだよ」と言っている。
 その母を、ほんとうは書いているのだ。

それはきれいなおつきさま
あんたも みてみ

 は、誘いのことばであると同時に、一種の「和解/諒解」のことばなのだ。
 おなじことばの詩を二度書かなければならなかったのは(あるいは、池井はさらに三度四度と書くかもしれないが)、そのことばのなかで母といっしょにならんで生きるためなのだ。

 きのう「兜蟹」について池井は「フィクション」を拒み「ほんとう」にこだわると書いたが、その理由はここにもある。だれかとつながっている、だれかと一緒にいるということは「ほんとう」のことである。それだけが「ほんとう」に値することである。そこに「間違い」が入り込んでしまうと「一緒」ということさえフィクションになってしまう。だから「兜蝦」ではなく「兜蟹」なんだ、とこだわる。「兜蝦」の方が、ふつうの読者(編集者)からみれば自然であっても、それは池井の体験した「ほんとう」とは違う。違うことを書くと、池井の「正直」は減ってしまう。その結果、大切なだれかと「一緒に」いるということに傷が入る。この「傷」が、池井は嫌いなのだ。


冠雪富士
池井 昌樹
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(103)

2014-07-03 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(103)        

 「葡萄酒大杯作者」に登場する銀の大杯に絵が描かれている。美青年が一糸まとわぬ姿で描かれていて、その片足が流れのなかにある。それを見ながら、

おお、思い出よ、ここで助けを。
私のむかし愛した顔かたちは大体こうだったね?
うーむ、弱った、このむつかしさ。
十年、そう、十年たった。あの子が兵士になって
マグネシアのたたかいで倒れてから。

 一連の男色の詩のように読むことができる。描かれている青年の絵を見て、その顔を見て、昔の恋人を思い出している。しかし、その思い出は、ただ切ないだけではない。恋人とただわかれてのではない。彼は戦死したのだ。それも十年前に。
 そう読んだあとで、とても気になることがある。

うーむ、弱った、このむつかしさ。

 これは、どういうことだろう。
 戦死した青年の顔を正確に思い出せない。「大体こうだったね」としか言えない。それは十年たったから。思い出すのが「むつかしい」のか……。
 しかし、何度が指摘したことだが、何かを思い出すとき、時間の隔たりは重要なことがらではない。十年前も、一か月前も、きのうも、思い出すとき、その「思い出」は詩人のすぐそばにある。それは詩人が銀の大杯の絵を見て、すぐにその恋人を思い出したことからもわかる。思い出した瞬間、そこには「十年」という年月は消えているはず。
 難しいのは、「十年前」の彼を思い出すことではない。「十年」という時間を十年として正確に「肉体」に記憶させることである。「十年」を忘れてはいけないのだ。「時間」の、「時」と「時」の、その「間」そのものを、意識しなくてはならない。その「間」に何があったのか。
 別な言い方をすると、「あの子」が戦死したのは「十年前」。それから「十年」がたったのだが、ではその十年の「間」に何があったのか。死んだのは「あの子」だけなのか。そうではない。あの子以外にも、若者がたくさん死んだのだ。戦死したのだ。
 その数えきれない若者の死がある。そういう若者の死を背景にして、「あの子」だけを取り出して、あの子の「顔かたちは大体こうだったね」と言うことが難しいのだ。
 ここには、この詩を書いていた当時の背景、戦争が影響しているかもしれない。カヴァフィスはきっと多くの若者の死を見たのだ。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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