監督 中島哲也 出演 役所広司、小松菜奈
私は中島哲也と相性が悪いのかもしれない。「告白」もまったくおもしろくなかったが、今回の「渇き」も最初から最後までうんざりしながら見ていた。私は06月30日(日曜日)に見たのだが、高校生らしい感じの女子がたくさんいて、その観客層に驚きながら見ていた。私のまわりでは、私と右隣のカップル以外に男はいなかった。
何がうんざりするかというと。
冒頭からそうなのだがアップ、アップ、アップの連続。そして、そのアップにはちゃんと理由がある。ひとが見る現実というのは拡大された局所だけであり、全体は把握できない。局所をつなぎあわせて全体を自分のなかで、自分の都合のいいようにつなぎあわせているだけ--そういう「哲学」にもとづいて映画がつくられている。
映画は、そのアップの世界を人間の姿形(目に見える肉体)の部分だけに限定せず、精神の局所にまで踏み込み、「頭の中のアップ」をアニメというか、人工処理した影像で見せる。
これを、「おっ、ここまでやるか」と肯定的にとらえれば、中島監督が好きになるだろう。徹底して自己の「影像哲学」(映画哲学)を貫く姿勢を称賛する気持ちになれるだろう。
私は、なれません。ほんとうに、うんざり。(で、最近は目も悪くなっているので、うんざりしたものについては書くのはやめようと思っていたのだが、このうんざりは吐き出してしまわないと、あとに影響すると思って書いている。)
こんな、ありきたりな、人間に見えるものは局所だけ、連続した世界は見えないなんてことをアップの多用で具体化するというのは、あまりにも見え透いている。「哲学」として「底」が浅すぎる。
ストーリーは、行方がわからなくなった娘を探す元刑事を描いている。娘を探しているうちに、それまで知らなかった娘の「ほんとうの姿」が見えてくる。で、その「ほんとうの姿」というのが、まあ、父親として受け入れにくいものである。そのことに動揺しながら、こんなはずはない。「裏」になにかあるのだ、と考え、さらに追い詰めていくと、そこに社会の裏の姿がリンクするように浮き上がってくる。彼が働いていた警察組織の内部の「ほんとうの姿」も見えてくる。
ありきたりだなあ。個人の人間の「暗部」を社会組織の「暗部」によって証明するなんて。個人の「暗部」に徹底的につきあえないから、それを組織の「暗部」へ転写することで、あたかも社会問題を描いているようにみせかける。現実社会の問題に向き合いながら映画をつくっているようにみせかける。こんな見え透いた映画作りは、嫌いだなあ。
役所広司は、一生懸命がんばっているのだけれど、おもしろくない。人間の愚かさが出て来ない。欲望が感じられない。欲望というのは、どんな欲望であれ、他人からみればこっけいである。思わず笑いだしてしまうところがある。
「渇き」と同じようにグロテスクな「冷たい熱帯魚」。でんでんが、人殺しを演じていたが、グロテスクだけれど思わず笑ってしまうでしょ? ひとを殺してはいけないのだけれど、思わずおもしろそうと思ってしまうでしょ? そういうものに触れながら、自分にはっと気がつく--そういうのが映画の、具体的な肉体影像の極致。
役所広司で言うなら、「さゆり(サユリ?)」のふられる役どころ。ちょっと女に親切にしてもらって、あ、この女、自分に気があると勘違いして、次にあったときに、こまめに気遣いをする。あそこで私は大笑いしてしまった。結局、ふられるというか、利用されるだけの役どころなのだが、大笑いしたのは。「おおい、役所広司よ、おまえちゃんと脚本読んだのか。利用されてふられるってこと知ってるのか」と叫びたくなったからだ。もちろん、そんなことは知っていて、それを承知で何も知らない初な男を演じているのだけれど、その「結末を知らない」(今しかわからない)という感覚の演技がすばらしかった。
この映画には、そういうことが全然ない。
役所広司は映画の結末を知っていて、演技している。もちろん全体を知っていることは重要なのだけれど、その瞬間瞬間は知らない感じにならないといけない。
特に、高校の女教師と出会い、話すシーン。ここは変だったなあ。女教師が何か隠している、ではなく、役所広司が何か隠している(結末を知っていて、何かを抑制している)という不自然な感じ、それまでとは違う演技をしている。むりやり自分(役どころの感情、肉体)を剥き出しにしていく「匂い」がない。あ、これは最後にもう一度この女教師が出てくるぞ、そのときのために肉体(感情)を抑えているんだな、と思ったら、その通りになった。
これじゃあ、つまんないよね。
裏切ってくれないと。
裏切られて、ええっ、ほんとうはこうだんたんだ、と発見する喜びを、映画館で、観客のみんなと共有したい。そのために映画館に行くのだから。
(2014年06月30日、天神ソラリア7)
私は中島哲也と相性が悪いのかもしれない。「告白」もまったくおもしろくなかったが、今回の「渇き」も最初から最後までうんざりしながら見ていた。私は06月30日(日曜日)に見たのだが、高校生らしい感じの女子がたくさんいて、その観客層に驚きながら見ていた。私のまわりでは、私と右隣のカップル以外に男はいなかった。
何がうんざりするかというと。
冒頭からそうなのだがアップ、アップ、アップの連続。そして、そのアップにはちゃんと理由がある。ひとが見る現実というのは拡大された局所だけであり、全体は把握できない。局所をつなぎあわせて全体を自分のなかで、自分の都合のいいようにつなぎあわせているだけ--そういう「哲学」にもとづいて映画がつくられている。
映画は、そのアップの世界を人間の姿形(目に見える肉体)の部分だけに限定せず、精神の局所にまで踏み込み、「頭の中のアップ」をアニメというか、人工処理した影像で見せる。
これを、「おっ、ここまでやるか」と肯定的にとらえれば、中島監督が好きになるだろう。徹底して自己の「影像哲学」(映画哲学)を貫く姿勢を称賛する気持ちになれるだろう。
私は、なれません。ほんとうに、うんざり。(で、最近は目も悪くなっているので、うんざりしたものについては書くのはやめようと思っていたのだが、このうんざりは吐き出してしまわないと、あとに影響すると思って書いている。)
こんな、ありきたりな、人間に見えるものは局所だけ、連続した世界は見えないなんてことをアップの多用で具体化するというのは、あまりにも見え透いている。「哲学」として「底」が浅すぎる。
ストーリーは、行方がわからなくなった娘を探す元刑事を描いている。娘を探しているうちに、それまで知らなかった娘の「ほんとうの姿」が見えてくる。で、その「ほんとうの姿」というのが、まあ、父親として受け入れにくいものである。そのことに動揺しながら、こんなはずはない。「裏」になにかあるのだ、と考え、さらに追い詰めていくと、そこに社会の裏の姿がリンクするように浮き上がってくる。彼が働いていた警察組織の内部の「ほんとうの姿」も見えてくる。
ありきたりだなあ。個人の人間の「暗部」を社会組織の「暗部」によって証明するなんて。個人の「暗部」に徹底的につきあえないから、それを組織の「暗部」へ転写することで、あたかも社会問題を描いているようにみせかける。現実社会の問題に向き合いながら映画をつくっているようにみせかける。こんな見え透いた映画作りは、嫌いだなあ。
役所広司は、一生懸命がんばっているのだけれど、おもしろくない。人間の愚かさが出て来ない。欲望が感じられない。欲望というのは、どんな欲望であれ、他人からみればこっけいである。思わず笑いだしてしまうところがある。
「渇き」と同じようにグロテスクな「冷たい熱帯魚」。でんでんが、人殺しを演じていたが、グロテスクだけれど思わず笑ってしまうでしょ? ひとを殺してはいけないのだけれど、思わずおもしろそうと思ってしまうでしょ? そういうものに触れながら、自分にはっと気がつく--そういうのが映画の、具体的な肉体影像の極致。
役所広司で言うなら、「さゆり(サユリ?)」のふられる役どころ。ちょっと女に親切にしてもらって、あ、この女、自分に気があると勘違いして、次にあったときに、こまめに気遣いをする。あそこで私は大笑いしてしまった。結局、ふられるというか、利用されるだけの役どころなのだが、大笑いしたのは。「おおい、役所広司よ、おまえちゃんと脚本読んだのか。利用されてふられるってこと知ってるのか」と叫びたくなったからだ。もちろん、そんなことは知っていて、それを承知で何も知らない初な男を演じているのだけれど、その「結末を知らない」(今しかわからない)という感覚の演技がすばらしかった。
この映画には、そういうことが全然ない。
役所広司は映画の結末を知っていて、演技している。もちろん全体を知っていることは重要なのだけれど、その瞬間瞬間は知らない感じにならないといけない。
特に、高校の女教師と出会い、話すシーン。ここは変だったなあ。女教師が何か隠している、ではなく、役所広司が何か隠している(結末を知っていて、何かを抑制している)という不自然な感じ、それまでとは違う演技をしている。むりやり自分(役どころの感情、肉体)を剥き出しにしていく「匂い」がない。あ、これは最後にもう一度この女教師が出てくるぞ、そのときのために肉体(感情)を抑えているんだな、と思ったら、その通りになった。
これじゃあ、つまんないよね。
裏切ってくれないと。
裏切られて、ええっ、ほんとうはこうだんたんだ、と発見する喜びを、映画館で、観客のみんなと共有したい。そのために映画館に行くのだから。
(2014年06月30日、天神ソラリア7)
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