詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山田由紀乃「ゴッホのひまわり」、上原和恵「ほこりの中に――暁波に」

2014-07-12 11:43:24 | 現代詩講座
山田由紀乃「ゴッホのひまわり」、上原和恵「ほこりの中に――暁波に」(現代詩講座@リードカフェ、2014年06月18日)

 今回のテーマは劉暁波『牢屋の鼠』(田島安江訳、書肆侃侃房)を読み、そこからインスピレーションを得て、何かを書く。
 受講生の相互批評で注目を集めた作品がふたつ。まず、山田由紀乃「ゴッホのひまわり」。

いなかの祖母の玉蜀黍畑の畔に
炎暑にあえぐ向日葵を見た
畑の真夏の真昼の
なにもないなにもないなにもない
空漠のさみしさが満ちていた

ゴッホのひまわりが好き
中学生の姉がささやいた
わたしは大人になって
小林秀雄のゴッホの手紙を読んで
彗星のような炎が走りはじめた

ゴッホは絶対にその靴を履いた
その靴を履いてアルルを歩き回った
テオのアパートへ重々しく入って行ったときも
アルルの赤い土がこびりついていた
アトリエでゴッホは靴になって絵を描いた

ゴッホはベッドを描いた
知り尽くしている部屋
肉体そのもののベッド
だれもがほっと救われた気持ちになる
ゴッホ以外は

玉蜀黍畑の畔にゴッホのひまわりはない
ゴッホの絵の内側のブツブツから
ゴッホはひまわりになって見ている
もう耐えられない青い宇宙を背負って

わたしもゴッホが好き
いまわたしは姉にささやく
ゴッホの絵はさびしくない
ゴッホは絵の中にいる

 「3連目が好き。何でもないエピソードを書いているようで、内面に触れてくるものがある」「いつもの山田さんの作品より好き。やさしさがある。4連目の「ゴッホ以外は」がはっとする」「1連目と5連目の関係がうまく書かれている。ひまわりはひまわりであって、1連目、5連目のゴッホのひまわりではない。山田さんが好きなのはゴッホのひまわり。その対比が詩になっている」「ゴッホのひまわりと一体になっている」「ゴッホの激しさ、作品とゴッホ自身のふたつが、詩の中に入っている」
 好評の一方、「最終連「ゴッホの絵はさびしくはない」がわからない」「色が感じられない。この詩を読んでも、ゴッホの絵の色が思い浮かばない」という声もあった。
 「ゴッホの絵はさびしくはない」というのは、ゴッホの絵のなかには、その大勝であるひまわりのほかに、ゴッホの生活が含まれている(間接的に描かれている)という意味だろう。
 その生活というのは、3連目に書かれている。「ゴッホは靴になって絵を描いた」がとても印象的だが、このことばと「さびしくはない」が対になっている。そこには描かれていないが「靴」がある。ゴッホと一緒に歩き回った靴がある。
 この詩が美しいのは3、4連目が強烈だからである。そこにはゴッホの絵というよりも、ゴッホ自身が描かれている。歩いて、疲れて、それでも絵を描くゴッホがいる。
 そこにゴッホがいるから、絵を見るひとは、何かほっとすくわれる気持ちがする。そこに書かれているものが純粋なひまわりだとかベッドだとか靴だとか--つまり、ゴッホの肉体とは無関係に存在してしまう「静物」だとしたら、ひとはほっとしない。人にであった気持ち、ゴッホにであった気持ちになれない。
 そのことをゴッホの立場から言い直せば、そこには苦しい自分自身がいる。ひまわりを描いてもベッドを描いても靴を描いても、それは自画像になってしまう。だから、苦しい。ゴッホ以外は安心するけれど、ゴッホは、その絵がゴッホをあらわせばあらわすほど苦しくなる。
 これは芸術の矛盾というものかもしれないが、それをこの詩はきちんととらえ、向き合っている。
 私は、しかし、不満を持っている。2連目と最終連に出てくる「姉」が、人間として動いていない。山田は「姉」を知っているだろうけれど、私は知らない。その知らない姉が、まったく動いて見えない。なぜ、姉はゴッホの絵が好きだったのか。それが書かれていないので、山田がいまゴッホが好き(絵の中にゴッホがいる)という感じと姉の思いの違い(あるいは同じ?)がわからない。
 それでもこの詩をいい詩だなあと思うのは、3、4、5連がすばらしいからである。
 ゴッホはひまわりを描くことで「ゴッホはひまわりになって見ている」がとてもいい。何かを描くことは、その対象になることだ。つまり自分ではなくなることだ。
 詩も同じ。書きはじめたら、その対象になってしまう。自分が自分でなくなる。そういうことばの運動の中に詩がある。2連目と最終連の最初の2行を省略して読み直して見てほしい。

 もう一篇。上原和恵「ほこりの中に――暁波に」。

煙草を吹かした煙を追いかけると
あなたのやさしいまなざしが
ほこりの中に溶けていく

彼らの食い入る視線は
ほんの少し開いたカーテンや
締めきった窓から煙やほこりが
舞い上がるのさえ
見逃がさない

あなたとほほ笑む写真が
うす汚れ壁から見つめている
壊れた鏡は
涙でむせた顔を一層ゆがませる
机のほこりを手紙の分だけ払い
一画一画ほこりにまみれた字が
あなたが私を触ることができるもの

生きるツールは彼らに占められ
日常は止まり
鼠のように動き回ることも許されない
身体にほこりが積もり
心や魂までも覆い
息をするのも苦しいほど
ほこりに埋まってしまうときもあり
すべてを引き受けることもできず
あなたの苦しみの半分も背負っていない

今宵カーテンの隙間から射す一筋の月の光に
ほこりはキラキラと舞っている

 受講生の感想。「まとまっている。3連目の「机のほこりを手紙の分だけ払い」がいい」「女性だけにしかわからないのでは。イメージの展開が大きい。男の予想とは違うところへことばが動いていく」「やさしさがあふれている。ラブレターみたい。女らしい」「4連目は暁波の気持ちを代弁しようとしているのかもしれないが、少し違うように感じる。二人は互いに相手を引き受けている」
 上原の気持ちとしては、たしかに二人は相互に相手を引き受けているのだろうけれど、それでも自分の方が引き受けている割合がすくないのではないだろうかと不安になる、そういう愛を感じたということだと思う。
 たばこの煙、そこから連想するほこり。ほこりの中に光が射してくると、ほこりの動きが見える。同じようにたばこの煙も光のなかで動くのが見える。ほこりもけむりも「自由」にうごきまわっているのに、私は動き回れない、自由ではない--そういう気持ちが重ねられている。
 ことばのなかで、世界が、そのことばを超えて拡大している。比喩・暗喩が交錯して動いている。
 私も、このしては3連目の

机のほこりを手紙の分だけ払い

 がとても好きである。
 手紙が机の上においてあって、ほこりが積もる。手紙をとると、ほこりの積もっていない手紙の面積の、まっさらな机があらわれる--というのではないのだけれど(机の上においていた手紙、その上に積もってくるほこりを、手紙の分だけふりはらって、手紙をほこりの中から救いだして、というのが実際なのだろうけれど)、手紙の「面積」が視力へ直接飛びこんでくる感じがする。眼でしっかり対象を見つめているのがわかる。
 その視覚が

一画一画ほこりにまみれた字

 をとらえる。この視力の自然な動きに、それこそ自然に引きつけられる。そして、その視力が、

あなたが私を触ることができるもの

 と触覚(さわる)に変化していくのもいい。人間の感覚は「肉体」のなかで密接につながり、融合している。その感覚の動き、変化--それは、どんな「牢獄」も閉じ込めることのできないものである。
 不自由なのだけれど、その感覚の動き、感覚の融合のなかにある根源的な「いのち」のかたちが「一筋の月の光」に明るい。

*

 次回「現代詩講座@リードカフェ」は7月16日(水曜日)16時から。
 受講希望者は書肆侃侃房(←検索)の安田さんまで連絡してください。


詩集 牢屋の鼠
劉暁波
書肆侃侃房
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池井昌樹『冠雪富士』(21)

2014-07-12 10:42:06 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(21)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「異相の月」は「こんや異相のげん月のした。」という宮沢賢治「原体剣舞連」の一行を出典としている。池井の、宮沢賢治についての思い出である。その一行に、池井は深い郷愁を覚えている。「本家の長男であり、長兄でもあった賢治の幸福」を、池井は自分自身の長男であることに重ね合わせ、自分の幸福のように感じている。「皆で集まれば芸術談義に花を咲かせたという仲良し兄弟妹、」「宮沢家は芸術面に熱く濃い血の家柄だったようだ。」と書いたあと、池井は続けている。

     私の家も、母の実家もそのような血の家柄だった。米穀
店でもあった母の実家には様々な能面狂言面が壁に掛けられ、独特
な匂いがあった。ゴーガンの複製画に衝撃を受けたのもその家だっ
た。祖母を囲んだ大勢の伯父伯母従兄弟従姉妹に挟まれている楽し
さを私は今も忘れない。

 私がこの作品で書きたいことは、このあとの方に出てくるのだが、ここを引用したのは「独特の匂い」と、「匂い」ということばがあったらかである。池井の詩を最初に読んだのは「雨の日の畳」(だったかな?)という作品で、そこには「匂い」が書かれていた。私は肉体的にいうと粘膜系統が弱いので「匂い」はとても苦手である。いい匂いもあるだろうけれど、「匂い」は基本的に呼吸が苦しい。で、あ、こんなふうに「匂い」で世界をとらえる人間がいるのかと、匂いが気持ちがいいのか、かなり違和感を覚えた。匂いを嗅いでいる巨大な「肉体」が、ふっと見えたのである。それを思い出した。
 ここに書かれている「独特の匂い」は「独特の雰囲気」というものだが、それを「雰囲気」といわずに「匂い」と書くのは、そこに「雰囲気(気分)」を超える具体的な「匂い」(肉体を刺戟するもの)があるからだと思う。「匂い」というものは、基本的に「肉体」の内部に何かを入れてしまう危険な要素がある。(見る、聞く、とはずいぶん違う。見る、聞くは非接触である。接触という点では、匂い、匂う、嗅ぐは、食べる、飲む、舐めるに似ている。)
 肉体で、外部を消化する--そういう力を池井の肉体はもっている。初めて池井をみたとき、その肥満体に、そうか、何でも肉体のなかに取り込んでしまう人間なのだな、と私は、いまでいう「ひいた」感じになったことも思い出した。私は「食べる」のが苦手な人間である。特に「匂い」を体内に入れることには、非常に抵抗感がある。池井は逆に、何でも「嗅いでしまう」、「匂い」で判断する人間である、と私は思っている。
 脱線したが、詩は、このあと、それまででてきたことばを一気に純化させる。ごちゃごちゃがさーっと水底に沈むみたいに、混沌が結晶しながら沈み、混沌(家系の自慢話?)が消えたところから、光が広がる。

            あの車座の輪の何処かに、若かりし賢治
の坊主頭もあったはずだが……。子は親になり親は老いやがては朽
ちる。人の世は子から子へ刻々とあらたまり、過去は刻々と忘れ去
られる理なのだが、その理の中でさえ決して喪われることのない
一場面がある。こんや異相のげん月のした。あの第一行を刻し、三
十七歳で逝った賢治。彼を愛し、彼を育んだ形跡もないものたち。
その吐息が、土の匂いが、陽の温もりが、木々の葉擦れが、今、此
処でのことのように、何の前触れもなく、私の中からまざまざと甦
ってきたのだった。

 池井の祖母を中心とした車座--そのどこかに賢治がいるということは、現実としてはありえない。けれど、池井はそれを感じる。賢治がいたと覚えている。もしかすると池井自身が「若い賢治」だったかもしれない。賢治は、母だったかもしれない。従兄弟だったかもしれない。「芸術」を愛するこころが、共有されている。そのとき、そこには賢治がいるということだ。「人」ではなく「芸術を愛するということ」(動詞)を池井は感じている。感じていた。
 人間は死に、いまは過去のものとなる。けれども、芸術を愛するという「動詞」は消えない。ひとりの人間から別の人間へと引き継がれていく。「共有」されていく。そして、それは、「文字」とか「ことば」のなかで確認もできるのだが……。
 池井は、文字とかことばの前に、「匂い」として引き継ぐ。「匂い」を肉体の中に入れてしまう。「匂い」が池井の肉体のなかで引き継がれ、それが、肉体を破って、ふっとあらわれる瞬間がある。「匂い」の空気が、肉体のなかで爆発するのだ。
 そして、「吐息」となってあらわれる。「吐息」は「ことば」にならない「声」である。「ことば」以前の「息」、「生き」(いのち)である。
 「吐息」のなかには、「土の匂い」がある。陽の温もり(触覚)、木々の葉擦れ(聴覚)もあるが、まず、「匂い」(嗅覚)が池井の最初の感覚として動く。--この最後を読むと、
 ほら、
 「独特の匂い」が「雰囲気」ではなく「匂い」そのものとして甦るでしょ? 能面の、木の匂い。能面の裏側の、面をつけていたひとの汗の匂い。顔料の匂い。ゴーガンの絵の紙の匂い。色の匂い。祖母の匂い。父母の匂い。従兄弟たちの匂い。
 むわーんとするね。むせかえるね。戸を開けて、空気を入れておくれよ。
 池井は、戸をあけたりはしない。しっかりと閉めて、そこにある「空気」全部を吸い込み、肺をふくらませ、池井の体温で空気を温めて、吐き出す。
 強い体臭。骨太い体臭。
 それにうっとりできる人が、池井を好きになれる。

 私は、こういう匂いが大嫌い。
 大嫌いだけれど、そこには「ほんとう」がある。その「匂い」にとろける肉体があるということも、わかる。大嫌いだから、はっきり認識できる。認識してしまう。「ほんものの匂い」を。




谷川俊太郎の『こころ』を読む
谷内 修三
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(112)

2014-07-12 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(112)        2014年07月12日(土曜日)

 「時がふたりを変える前に」は、一風変わった声が響いている。男色の恋人との別れを描いている。

ふたりの別れは悲しかった。
別れたくなかった。
よんどころない別れだった。
そうじゃないか。片割れは稼ぎに。移民になるよりなかった。

 経済的な理由。ひとりはアメリカかカナダへ移民にいってしまう。悲劇である。書き出しの二行は悲しすぎてことばが思い浮かばないから、簡潔になってしまうのか。あるいはいつものカヴァフィスの修飾語嫌いが出ているだけなのか。
 おもしろいのは四行目の「そうじゃないか。」である。これはだれに言っているのだろうか。自分に言っているのか。相手に言っているのか。だれに対してであれ、ここには何か「言い訳」めいたものがある。「別れ」に理由が見つかって、それを押し通そうとする感じがする。

ふたりの愛は、そう、以前ほどではなかった。
引力が大いに弱まってはいた。
だが、さあ お別れとなると話は別だ。

 「話は別だ。」とはいいながら、「そう、」という途中に挿入された相槌(?)のようなことば。「弱まってはいた」の「は」という強調。そこには、「よんどころがない」とはいいながら、それを頼りにしているような、奇妙な「あきらめ」というか、執着心がない。「愛」というのは執着のことだと思うが、この詩には執着するという感情とは逆のものが動いている。執着を切り離す理性が動いている。どこか、ほっとしている。
 それが後半、別れを技巧的に美化する。「神の介入(配慮)」へとすりかえる。髪は次のように考えたのだ。

ふたりの気持ちが燃え尽きる前に、
時間がふたりを変える前に。
おたがいに いついつまでも
今のままの姿だと思い続けられるようにと、

 「時間がふたりを変える前に」には、すでに変わりはじめたふたりがいる。「完全に」変える前に、ということである。変わりはじめていなければ「変わる」ということばは出て来ない。
 理性(頭、脳)というものは、どんなことでも自分の都合のいいように論理をつくりだすものである。その冷たい理性の声が「主観」として、この作品に書かれている。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
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