山田由紀乃「ゴッホのひまわり」、上原和恵「ほこりの中に――暁波に」(現代詩講座@リードカフェ、2014年06月18日)
今回のテーマは劉暁波『牢屋の鼠』(田島安江訳、書肆侃侃房)を読み、そこからインスピレーションを得て、何かを書く。
受講生の相互批評で注目を集めた作品がふたつ。まず、山田由紀乃「ゴッホのひまわり」。
「3連目が好き。何でもないエピソードを書いているようで、内面に触れてくるものがある」「いつもの山田さんの作品より好き。やさしさがある。4連目の「ゴッホ以外は」がはっとする」「1連目と5連目の関係がうまく書かれている。ひまわりはひまわりであって、1連目、5連目のゴッホのひまわりではない。山田さんが好きなのはゴッホのひまわり。その対比が詩になっている」「ゴッホのひまわりと一体になっている」「ゴッホの激しさ、作品とゴッホ自身のふたつが、詩の中に入っている」
好評の一方、「最終連「ゴッホの絵はさびしくはない」がわからない」「色が感じられない。この詩を読んでも、ゴッホの絵の色が思い浮かばない」という声もあった。
「ゴッホの絵はさびしくはない」というのは、ゴッホの絵のなかには、その大勝であるひまわりのほかに、ゴッホの生活が含まれている(間接的に描かれている)という意味だろう。
その生活というのは、3連目に書かれている。「ゴッホは靴になって絵を描いた」がとても印象的だが、このことばと「さびしくはない」が対になっている。そこには描かれていないが「靴」がある。ゴッホと一緒に歩き回った靴がある。
この詩が美しいのは3、4連目が強烈だからである。そこにはゴッホの絵というよりも、ゴッホ自身が描かれている。歩いて、疲れて、それでも絵を描くゴッホがいる。
そこにゴッホがいるから、絵を見るひとは、何かほっとすくわれる気持ちがする。そこに書かれているものが純粋なひまわりだとかベッドだとか靴だとか--つまり、ゴッホの肉体とは無関係に存在してしまう「静物」だとしたら、ひとはほっとしない。人にであった気持ち、ゴッホにであった気持ちになれない。
そのことをゴッホの立場から言い直せば、そこには苦しい自分自身がいる。ひまわりを描いてもベッドを描いても靴を描いても、それは自画像になってしまう。だから、苦しい。ゴッホ以外は安心するけれど、ゴッホは、その絵がゴッホをあらわせばあらわすほど苦しくなる。
これは芸術の矛盾というものかもしれないが、それをこの詩はきちんととらえ、向き合っている。
私は、しかし、不満を持っている。2連目と最終連に出てくる「姉」が、人間として動いていない。山田は「姉」を知っているだろうけれど、私は知らない。その知らない姉が、まったく動いて見えない。なぜ、姉はゴッホの絵が好きだったのか。それが書かれていないので、山田がいまゴッホが好き(絵の中にゴッホがいる)という感じと姉の思いの違い(あるいは同じ?)がわからない。
それでもこの詩をいい詩だなあと思うのは、3、4、5連がすばらしいからである。
ゴッホはひまわりを描くことで「ゴッホはひまわりになって見ている」がとてもいい。何かを描くことは、その対象になることだ。つまり自分ではなくなることだ。
詩も同じ。書きはじめたら、その対象になってしまう。自分が自分でなくなる。そういうことばの運動の中に詩がある。2連目と最終連の最初の2行を省略して読み直して見てほしい。
もう一篇。上原和恵「ほこりの中に――暁波に」。
受講生の感想。「まとまっている。3連目の「机のほこりを手紙の分だけ払い」がいい」「女性だけにしかわからないのでは。イメージの展開が大きい。男の予想とは違うところへことばが動いていく」「やさしさがあふれている。ラブレターみたい。女らしい」「4連目は暁波の気持ちを代弁しようとしているのかもしれないが、少し違うように感じる。二人は互いに相手を引き受けている」
上原の気持ちとしては、たしかに二人は相互に相手を引き受けているのだろうけれど、それでも自分の方が引き受けている割合がすくないのではないだろうかと不安になる、そういう愛を感じたということだと思う。
たばこの煙、そこから連想するほこり。ほこりの中に光が射してくると、ほこりの動きが見える。同じようにたばこの煙も光のなかで動くのが見える。ほこりもけむりも「自由」にうごきまわっているのに、私は動き回れない、自由ではない--そういう気持ちが重ねられている。
ことばのなかで、世界が、そのことばを超えて拡大している。比喩・暗喩が交錯して動いている。
私も、このしては3連目の
がとても好きである。
手紙が机の上においてあって、ほこりが積もる。手紙をとると、ほこりの積もっていない手紙の面積の、まっさらな机があらわれる--というのではないのだけれど(机の上においていた手紙、その上に積もってくるほこりを、手紙の分だけふりはらって、手紙をほこりの中から救いだして、というのが実際なのだろうけれど)、手紙の「面積」が視力へ直接飛びこんでくる感じがする。眼でしっかり対象を見つめているのがわかる。
その視覚が
をとらえる。この視力の自然な動きに、それこそ自然に引きつけられる。そして、その視力が、
と触覚(さわる)に変化していくのもいい。人間の感覚は「肉体」のなかで密接につながり、融合している。その感覚の動き、変化--それは、どんな「牢獄」も閉じ込めることのできないものである。
不自由なのだけれど、その感覚の動き、感覚の融合のなかにある根源的な「いのち」のかたちが「一筋の月の光」に明るい。
*
次回「現代詩講座@リードカフェ」は7月16日(水曜日)16時から。
受講希望者は書肆侃侃房(←検索)の安田さんまで連絡してください。
今回のテーマは劉暁波『牢屋の鼠』(田島安江訳、書肆侃侃房)を読み、そこからインスピレーションを得て、何かを書く。
受講生の相互批評で注目を集めた作品がふたつ。まず、山田由紀乃「ゴッホのひまわり」。
いなかの祖母の玉蜀黍畑の畔に
炎暑にあえぐ向日葵を見た
畑の真夏の真昼の
なにもないなにもないなにもない
空漠のさみしさが満ちていた
ゴッホのひまわりが好き
中学生の姉がささやいた
わたしは大人になって
小林秀雄のゴッホの手紙を読んで
彗星のような炎が走りはじめた
ゴッホは絶対にその靴を履いた
その靴を履いてアルルを歩き回った
テオのアパートへ重々しく入って行ったときも
アルルの赤い土がこびりついていた
アトリエでゴッホは靴になって絵を描いた
ゴッホはベッドを描いた
知り尽くしている部屋
肉体そのもののベッド
だれもがほっと救われた気持ちになる
ゴッホ以外は
玉蜀黍畑の畔にゴッホのひまわりはない
ゴッホの絵の内側のブツブツから
ゴッホはひまわりになって見ている
もう耐えられない青い宇宙を背負って
わたしもゴッホが好き
いまわたしは姉にささやく
ゴッホの絵はさびしくない
ゴッホは絵の中にいる
「3連目が好き。何でもないエピソードを書いているようで、内面に触れてくるものがある」「いつもの山田さんの作品より好き。やさしさがある。4連目の「ゴッホ以外は」がはっとする」「1連目と5連目の関係がうまく書かれている。ひまわりはひまわりであって、1連目、5連目のゴッホのひまわりではない。山田さんが好きなのはゴッホのひまわり。その対比が詩になっている」「ゴッホのひまわりと一体になっている」「ゴッホの激しさ、作品とゴッホ自身のふたつが、詩の中に入っている」
好評の一方、「最終連「ゴッホの絵はさびしくはない」がわからない」「色が感じられない。この詩を読んでも、ゴッホの絵の色が思い浮かばない」という声もあった。
「ゴッホの絵はさびしくはない」というのは、ゴッホの絵のなかには、その大勝であるひまわりのほかに、ゴッホの生活が含まれている(間接的に描かれている)という意味だろう。
その生活というのは、3連目に書かれている。「ゴッホは靴になって絵を描いた」がとても印象的だが、このことばと「さびしくはない」が対になっている。そこには描かれていないが「靴」がある。ゴッホと一緒に歩き回った靴がある。
この詩が美しいのは3、4連目が強烈だからである。そこにはゴッホの絵というよりも、ゴッホ自身が描かれている。歩いて、疲れて、それでも絵を描くゴッホがいる。
そこにゴッホがいるから、絵を見るひとは、何かほっとすくわれる気持ちがする。そこに書かれているものが純粋なひまわりだとかベッドだとか靴だとか--つまり、ゴッホの肉体とは無関係に存在してしまう「静物」だとしたら、ひとはほっとしない。人にであった気持ち、ゴッホにであった気持ちになれない。
そのことをゴッホの立場から言い直せば、そこには苦しい自分自身がいる。ひまわりを描いてもベッドを描いても靴を描いても、それは自画像になってしまう。だから、苦しい。ゴッホ以外は安心するけれど、ゴッホは、その絵がゴッホをあらわせばあらわすほど苦しくなる。
これは芸術の矛盾というものかもしれないが、それをこの詩はきちんととらえ、向き合っている。
私は、しかし、不満を持っている。2連目と最終連に出てくる「姉」が、人間として動いていない。山田は「姉」を知っているだろうけれど、私は知らない。その知らない姉が、まったく動いて見えない。なぜ、姉はゴッホの絵が好きだったのか。それが書かれていないので、山田がいまゴッホが好き(絵の中にゴッホがいる)という感じと姉の思いの違い(あるいは同じ?)がわからない。
それでもこの詩をいい詩だなあと思うのは、3、4、5連がすばらしいからである。
ゴッホはひまわりを描くことで「ゴッホはひまわりになって見ている」がとてもいい。何かを描くことは、その対象になることだ。つまり自分ではなくなることだ。
詩も同じ。書きはじめたら、その対象になってしまう。自分が自分でなくなる。そういうことばの運動の中に詩がある。2連目と最終連の最初の2行を省略して読み直して見てほしい。
もう一篇。上原和恵「ほこりの中に――暁波に」。
煙草を吹かした煙を追いかけると
あなたのやさしいまなざしが
ほこりの中に溶けていく
彼らの食い入る視線は
ほんの少し開いたカーテンや
締めきった窓から煙やほこりが
舞い上がるのさえ
見逃がさない
あなたとほほ笑む写真が
うす汚れ壁から見つめている
壊れた鏡は
涙でむせた顔を一層ゆがませる
机のほこりを手紙の分だけ払い
一画一画ほこりにまみれた字が
あなたが私を触ることができるもの
生きるツールは彼らに占められ
日常は止まり
鼠のように動き回ることも許されない
身体にほこりが積もり
心や魂までも覆い
息をするのも苦しいほど
ほこりに埋まってしまうときもあり
すべてを引き受けることもできず
あなたの苦しみの半分も背負っていない
今宵カーテンの隙間から射す一筋の月の光に
ほこりはキラキラと舞っている
受講生の感想。「まとまっている。3連目の「机のほこりを手紙の分だけ払い」がいい」「女性だけにしかわからないのでは。イメージの展開が大きい。男の予想とは違うところへことばが動いていく」「やさしさがあふれている。ラブレターみたい。女らしい」「4連目は暁波の気持ちを代弁しようとしているのかもしれないが、少し違うように感じる。二人は互いに相手を引き受けている」
上原の気持ちとしては、たしかに二人は相互に相手を引き受けているのだろうけれど、それでも自分の方が引き受けている割合がすくないのではないだろうかと不安になる、そういう愛を感じたということだと思う。
たばこの煙、そこから連想するほこり。ほこりの中に光が射してくると、ほこりの動きが見える。同じようにたばこの煙も光のなかで動くのが見える。ほこりもけむりも「自由」にうごきまわっているのに、私は動き回れない、自由ではない--そういう気持ちが重ねられている。
ことばのなかで、世界が、そのことばを超えて拡大している。比喩・暗喩が交錯して動いている。
私も、このしては3連目の
机のほこりを手紙の分だけ払い
がとても好きである。
手紙が机の上においてあって、ほこりが積もる。手紙をとると、ほこりの積もっていない手紙の面積の、まっさらな机があらわれる--というのではないのだけれど(机の上においていた手紙、その上に積もってくるほこりを、手紙の分だけふりはらって、手紙をほこりの中から救いだして、というのが実際なのだろうけれど)、手紙の「面積」が視力へ直接飛びこんでくる感じがする。眼でしっかり対象を見つめているのがわかる。
その視覚が
一画一画ほこりにまみれた字
をとらえる。この視力の自然な動きに、それこそ自然に引きつけられる。そして、その視力が、
あなたが私を触ることができるもの
と触覚(さわる)に変化していくのもいい。人間の感覚は「肉体」のなかで密接につながり、融合している。その感覚の動き、変化--それは、どんな「牢獄」も閉じ込めることのできないものである。
不自由なのだけれど、その感覚の動き、感覚の融合のなかにある根源的な「いのち」のかたちが「一筋の月の光」に明るい。
*
次回「現代詩講座@リードカフェ」は7月16日(水曜日)16時から。
受講希望者は書肆侃侃房(←検索)の安田さんまで連絡してください。
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