詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹『冠雪富士』(19)

2014-07-10 10:18:48 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(19)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「産土行」は、バスを待っている詩。

うぶすなゆきのばすのりば
もくぞうえきのかたほとり
すこしくぼんだばすのりば

 詩であると同時に「歌」でもある。声に出して、声のなかで思い出す。声を出すとき「肉体」が動く。その「動き」を全部説明することはできないけれど、説明しなくても「肉体」は、何かを納得する。「ばすのりば」が繰り返される。それは同じことばだけれど、同じではない。繰り返しだけれど、繰り返しではない。むしろ「リセット」である。
 1行目は「ばすのりば」そのものが主役。
 でも、2行目で、それがどこにあるかを書いたとき、主語は「ばすのりば」ではなくなる。「もくぞうえき」か「かたほとり」か。どちらでも、読者が好きな方を「主語」と受け取ればいい。このときの「主語」というのはいちばん大事なことば、くらいのいみだけれど。
 だから3行目で、もう一度「ばすのりば」へと「主語」を戻してくる。(「すこしくぼんだ」に目を向けるひともいるだろうけれど。)
 そして、「ばすのりば」そのものの描写が、それからの「主語」になっていくのだが、こういうことばの「戻し方」は、私の感覚では「歌」。声を出して、その声のなかで、何かを思い出す。浮かび上がらせる。「肉体」のなかから。「ばすのりば」ということばを口にすると、そのたびに覚えている「ばすのりば」があらわれる。「ばすのりば」と一緒にあった「もの/こと」が、そのときの「肉体」と一緒にあらわれる。

いまはもうないひとたちが
いまはもうないたばこのみ
いまはもうないあめをなめ
いまはもうないばすをまつ
うぶすなゆきのばすのりば

 「肉体」が思い出すのは「ひとたち」「たばこ」「あめ」「まつ」という「もの/こと」。そして同時にそれが「いまはもうない」ということも。
 繰り返してのなかには、同じことと違うことが同居する。
 ここでは「いまはもうない」が繰り返され、それが「歌」になる。「歌」には「意味」はない。「意味」があるとすれば、繰り返さざるを得ないということ。繰り返してしまうということ。そこに「意味」がある。
 「いまはもうない」。でも、それなのに、そこではひとがたばこをのみ、あめをなめ、ばすをまつ。
 どうして?
 こういうことは考えてはいけない。理由だとか、論理だとか、あれやこれやのめんどうくさいことは考えてはいけない。頭をつかってはいけない。
 頭をつかわずに「肉体」を動かして、「歌う」。それだけでいい。「歌う」ときに、その声とともに、一瞬一瞬、リセットされる「肉体」の奥から何かが浮かんで来ようとする感じを、心臓の音のように聞きとればいい。
 あ、それは聞きとらなくても、別に不都合ではないよ。
 心臓の音なんて、ふつうは誰も聞かない。聞かなくても動いていてくれるのが心臓だから。

いまはもうないあのひとと
おさないぼくとよりそって
ほつれたいとのよりどころ
うぶすなゆきのばすをまつ
うぶすなゆきのばすのりば
いまはもうないばすだけが
いまもだれかをのせてゆく
だからだまってまっている
みんなだまってまっている

 何も起きない。同じことが同じリズムで繰り返される。「歌」は、そうやってだんだん広がっていく。
 同じことを繰り返す。--これを、池井はここでは少し違ったことばで言いなおしている、と私は思う。

おさないぼくとよりそって

 この「よりそって」が、実は繰り返し。「いまはもうない」ということばに「よりそって」同じ「いまはもうない」が存在する。一緒にならんで存在する。一緒につらなって存在する。つながっていく。
 ことばを繰り返すとき、「肉体」のなかで起きるのは、これだね。
 声は一瞬ごとに消えていく。その消えていく声に「よりそって」次の声が現れ、さらに次の声がつづく。「よりそう」がリセットされる。リセットは「生まれてくる」でもあるんだね。
 この「生まれる」を池井は、いつものように放心して、「いまはもうないひと」と一緒になって、追体験している。いや、新しい「体験」を生み出している、かな?
 どっちでもいい--というといいかげんだが。
 そういうことはいいかげんにしておいて、この池井の「歌」に声をあわせて、一緒に「歌う」ということをすれば、いいのだと思う。「歌の内容」ではなく、「歌う」(一緒に歌う)ということに、「思想(ほんとうの肉体)」がある。


冠雪富士
池井 昌樹
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(110)

2014-07-10 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(110)        

 「シドンの劇場、紀元四〇〇年」の文体は非常に軽い。そして、ゆるんでいる。それがそのまま主人公の「こころの文体」とでもいう感じである。いや、文体とはもともと「ことば」だけのことではなく、「ことば」は意識の動きをあらわしているのだから、それがそのまま「こころ」のあり方を示していて当然なのだが。
 おもしろいのは、中井久夫が、そういう「こころの文体」をしっかり「ことば」に移しかえていることである。

れっきとした市民の子。何よりもまず見目よい青年俳優。
何かにつけて人に好かれる私。
その私が時おりまさかという大胆なギリシャ詩を作って
回覧する--むろんごく内密に。

 一行目には「私は」という主語が省略されている。日本語だから省略してもわかるのだけれど、この省略に「うぬぼれ」がまじっている。「私は」と書かなくたって「私」とわかるだろう、という美形の青年俳優の強さが輝いている。二行目の最後になって、やっと「私」が倒置法で登場する。
 そのやっと出てきた「主役」を三行目で、もう一度「私が」と自己主張させてから動きだす。歌舞伎のみえのように、「私はここにいる」と強烈に「私」を印象づける。
 こういう翻訳を読むと、中井久夫はほんとうに耳のいい人間で、どんなことばも「声」そのもの、「肉体」を持った人間の動きとして見ていることが(聞いていること)がわかる。
 「大胆な詩」ではなく「大胆なギリシャ詩」という表現はカヴァフィスるのものだろうが、ここでわざわざ「ギリシャ」ということばを出すのは、後半への誘い水であり、カヴァフィスの自己弁護でもある。「私の書いているのはギリシャ詩である」と明言している。そして詩なのだから、公に読まれなくてもいい。必要なひとに、「内密に」読まれればいいとも付け加えている。
 さらに、

神さま、私の詩が倫理などをぺらぺらしゃべくる灰色連の
目にふれませんように。ことごとく特殊な性の喜び、
実を結ばない、呪われた愛に至るよろこびの詩ですから。

 と念をおすのだが、その途中に「倫理などをぺらぺらしゃべくる灰色連」ということばが出てくるところが非常におもしろい。この「連中」を中井久夫は「おそらくキリスト教と」と書いているが、そうなのだろう。私はそれがだれであるかということよりも、「ぺらぺらしゃべくる」ということばで、他人のことばを批判している点が興味深い。カヴァフィスの詩のことばは「ぺらぺらしゃべくる」というリズムではない。青年俳優に軽い調子で語らせながら「ぺらぺら」を批判しているのがとてもおもしろい。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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