池井昌樹『冠雪富士』(19)(思潮社、2014年06月30日発行)
「産土行」は、バスを待っている詩。
詩であると同時に「歌」でもある。声に出して、声のなかで思い出す。声を出すとき「肉体」が動く。その「動き」を全部説明することはできないけれど、説明しなくても「肉体」は、何かを納得する。「ばすのりば」が繰り返される。それは同じことばだけれど、同じではない。繰り返しだけれど、繰り返しではない。むしろ「リセット」である。
1行目は「ばすのりば」そのものが主役。
でも、2行目で、それがどこにあるかを書いたとき、主語は「ばすのりば」ではなくなる。「もくぞうえき」か「かたほとり」か。どちらでも、読者が好きな方を「主語」と受け取ればいい。このときの「主語」というのはいちばん大事なことば、くらいのいみだけれど。
だから3行目で、もう一度「ばすのりば」へと「主語」を戻してくる。(「すこしくぼんだ」に目を向けるひともいるだろうけれど。)
そして、「ばすのりば」そのものの描写が、それからの「主語」になっていくのだが、こういうことばの「戻し方」は、私の感覚では「歌」。声を出して、その声のなかで、何かを思い出す。浮かび上がらせる。「肉体」のなかから。「ばすのりば」ということばを口にすると、そのたびに覚えている「ばすのりば」があらわれる。「ばすのりば」と一緒にあった「もの/こと」が、そのときの「肉体」と一緒にあらわれる。
「肉体」が思い出すのは「ひとたち」「たばこ」「あめ」「まつ」という「もの/こと」。そして同時にそれが「いまはもうない」ということも。
繰り返してのなかには、同じことと違うことが同居する。
ここでは「いまはもうない」が繰り返され、それが「歌」になる。「歌」には「意味」はない。「意味」があるとすれば、繰り返さざるを得ないということ。繰り返してしまうということ。そこに「意味」がある。
「いまはもうない」。でも、それなのに、そこではひとがたばこをのみ、あめをなめ、ばすをまつ。
どうして?
こういうことは考えてはいけない。理由だとか、論理だとか、あれやこれやのめんどうくさいことは考えてはいけない。頭をつかってはいけない。
頭をつかわずに「肉体」を動かして、「歌う」。それだけでいい。「歌う」ときに、その声とともに、一瞬一瞬、リセットされる「肉体」の奥から何かが浮かんで来ようとする感じを、心臓の音のように聞きとればいい。
あ、それは聞きとらなくても、別に不都合ではないよ。
心臓の音なんて、ふつうは誰も聞かない。聞かなくても動いていてくれるのが心臓だから。
何も起きない。同じことが同じリズムで繰り返される。「歌」は、そうやってだんだん広がっていく。
同じことを繰り返す。--これを、池井はここでは少し違ったことばで言いなおしている、と私は思う。
この「よりそって」が、実は繰り返し。「いまはもうない」ということばに「よりそって」同じ「いまはもうない」が存在する。一緒にならんで存在する。一緒につらなって存在する。つながっていく。
ことばを繰り返すとき、「肉体」のなかで起きるのは、これだね。
声は一瞬ごとに消えていく。その消えていく声に「よりそって」次の声が現れ、さらに次の声がつづく。「よりそう」がリセットされる。リセットは「生まれてくる」でもあるんだね。
この「生まれる」を池井は、いつものように放心して、「いまはもうないひと」と一緒になって、追体験している。いや、新しい「体験」を生み出している、かな?
どっちでもいい--というといいかげんだが。
そういうことはいいかげんにしておいて、この池井の「歌」に声をあわせて、一緒に「歌う」ということをすれば、いいのだと思う。「歌の内容」ではなく、「歌う」(一緒に歌う)ということに、「思想(ほんとうの肉体)」がある。
「産土行」は、バスを待っている詩。
うぶすなゆきのばすのりば
もくぞうえきのかたほとり
すこしくぼんだばすのりば
詩であると同時に「歌」でもある。声に出して、声のなかで思い出す。声を出すとき「肉体」が動く。その「動き」を全部説明することはできないけれど、説明しなくても「肉体」は、何かを納得する。「ばすのりば」が繰り返される。それは同じことばだけれど、同じではない。繰り返しだけれど、繰り返しではない。むしろ「リセット」である。
1行目は「ばすのりば」そのものが主役。
でも、2行目で、それがどこにあるかを書いたとき、主語は「ばすのりば」ではなくなる。「もくぞうえき」か「かたほとり」か。どちらでも、読者が好きな方を「主語」と受け取ればいい。このときの「主語」というのはいちばん大事なことば、くらいのいみだけれど。
だから3行目で、もう一度「ばすのりば」へと「主語」を戻してくる。(「すこしくぼんだ」に目を向けるひともいるだろうけれど。)
そして、「ばすのりば」そのものの描写が、それからの「主語」になっていくのだが、こういうことばの「戻し方」は、私の感覚では「歌」。声を出して、その声のなかで、何かを思い出す。浮かび上がらせる。「肉体」のなかから。「ばすのりば」ということばを口にすると、そのたびに覚えている「ばすのりば」があらわれる。「ばすのりば」と一緒にあった「もの/こと」が、そのときの「肉体」と一緒にあらわれる。
いまはもうないひとたちが
いまはもうないたばこのみ
いまはもうないあめをなめ
いまはもうないばすをまつ
うぶすなゆきのばすのりば
「肉体」が思い出すのは「ひとたち」「たばこ」「あめ」「まつ」という「もの/こと」。そして同時にそれが「いまはもうない」ということも。
繰り返してのなかには、同じことと違うことが同居する。
ここでは「いまはもうない」が繰り返され、それが「歌」になる。「歌」には「意味」はない。「意味」があるとすれば、繰り返さざるを得ないということ。繰り返してしまうということ。そこに「意味」がある。
「いまはもうない」。でも、それなのに、そこではひとがたばこをのみ、あめをなめ、ばすをまつ。
どうして?
こういうことは考えてはいけない。理由だとか、論理だとか、あれやこれやのめんどうくさいことは考えてはいけない。頭をつかってはいけない。
頭をつかわずに「肉体」を動かして、「歌う」。それだけでいい。「歌う」ときに、その声とともに、一瞬一瞬、リセットされる「肉体」の奥から何かが浮かんで来ようとする感じを、心臓の音のように聞きとればいい。
あ、それは聞きとらなくても、別に不都合ではないよ。
心臓の音なんて、ふつうは誰も聞かない。聞かなくても動いていてくれるのが心臓だから。
いまはもうないあのひとと
おさないぼくとよりそって
ほつれたいとのよりどころ
うぶすなゆきのばすをまつ
うぶすなゆきのばすのりば
いまはもうないばすだけが
いまもだれかをのせてゆく
だからだまってまっている
みんなだまってまっている
何も起きない。同じことが同じリズムで繰り返される。「歌」は、そうやってだんだん広がっていく。
同じことを繰り返す。--これを、池井はここでは少し違ったことばで言いなおしている、と私は思う。
おさないぼくとよりそって
この「よりそって」が、実は繰り返し。「いまはもうない」ということばに「よりそって」同じ「いまはもうない」が存在する。一緒にならんで存在する。一緒につらなって存在する。つながっていく。
ことばを繰り返すとき、「肉体」のなかで起きるのは、これだね。
声は一瞬ごとに消えていく。その消えていく声に「よりそって」次の声が現れ、さらに次の声がつづく。「よりそう」がリセットされる。リセットは「生まれてくる」でもあるんだね。
この「生まれる」を池井は、いつものように放心して、「いまはもうないひと」と一緒になって、追体験している。いや、新しい「体験」を生み出している、かな?
どっちでもいい--というといいかげんだが。
そういうことはいいかげんにしておいて、この池井の「歌」に声をあわせて、一緒に「歌う」ということをすれば、いいのだと思う。「歌の内容」ではなく、「歌う」(一緒に歌う)ということに、「思想(ほんとうの肉体)」がある。
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