詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

スパイク・ジョーンズ監督「her 世界でひとつの彼女」(★★★★)

2014-07-06 20:23:25 | 映画
監督 スパイク・ジョーンズ 出演 ホアキン・フェニックス、スカーレット・ヨハンソン、エイミー・アダムス


 手紙の代書人という仕事をしている男が妻と離婚の危機にある。その男がパソコンのOSと恋をする--というきわめて微妙な世界を描いている。微妙というのは、その世界がパソコン中毒(ネット中毒)と微妙に重なってみえるからである。現実世界ではなくバーチャルな世界で自分の生きがいをみつける、ということが。
 で、まあ、そういうストーリーはそれとして、とてもおもしろい工夫がこの映画にしてある。そこにこの映画の、映画ならではの魅力(味)がある。時代は近未来ということになるのだが。
 ファッションが、とてもおもしろい。ホアキン・フェニックスの全身がスクリーンに映った瞬間、「あ、ダサイ」と思わなかった? 私は思った。そしてほかの同僚の全身が映ったとき、この映画の工夫のひとつがわかった。
 どこがダサイかというと、男たちがシャツをズボン(パンツというべきか)の外に出していない。ズボンのなかにシャツの裾をしっかりしまいこんでいる。いま、こんなスタイルは銀行員、警察官くらいというと大げさだが、「軽い」職業の人間はみんなシャツの裾を出している。それだけではなく、そのズボンのウエストの位置が非常に高い。いまは尻が半分くらい出るくらい(出すくらい?)のズボンのはき方が若者のあいだではやっているが、そういうスタイルと比較すると50年前のズボンのはき方である。そして、よく見るとホアキン・フェニックスはベルトをしていない。ベルトのかわりに、なんというのだろう、ウエストまわりの最上部がかなり幅をとっている。ズボンの股上が長い。いやあ、これはぜったい50年前の映画だぞ、と私は思う。ファッションからね。ファッションというのは精神を代弁するから、この映画の「精神」もきっと昔を感じさせるもので落ち着くんだろうなあ、と私は予感してしまう。
 で、実際に、映画の中身は50年前、というか昔から変わらない男と女のすれ違い。人間の男とパソコンOS(女)との恋愛を装っているが、二人のあいだに起きることは同じ。相手に親近感をもって近づき、恋愛し、セックスし、関係がしっかりできあがると同時に、ちょっとマンネリ。ほかのことがしてみたい。刺戟がほしい。そうこうしているうちに、相手の「愛」を疑うようになる。そして、ささいなことでけんかし、わかれる……というようなことが起きる。それに悩む、相も変わらぬ男と女の人間模様が浮かび上がる。
 これを、映画でどうやって表現するか。パソコンのOSというのは「姿」がない。で、それを逆手にとって、この映画ではOS(女、スカーレット・ヨハンソン)は姿をあらわさず、声(音声)だけで登場し、かわりにホアキン・フェニックスのアップを延々と映し出す。ことば、ことば、ことばの映画は、私は嫌いだが(影像と音楽で見せるのが映画であって、せりふで勝負するのは芝居と小説)、この映画は「ことば」をホアキン・フェニックスの「顔」で覆い隠す。いやあ、すごいなあ。ホアキン・フェニックスは上唇の傷痕を鬚で隠して美形を完璧にした上で、眼と、そのときどきのライティングによる陰影で、語られることばを「顔」にしてしまう。スカーレット・ヨハンソンの「声」までも、まるでホアキン・フェニックスの「肉体」から出てきたみたいに「顔」にしてしまう。
 途中で、会社の同僚がホアキン・フェニックスの書いた手紙を見て、「まるで女が書いたみたい。こんな手紙をもらったら恋をしてしまう。おまえのなかには女がいる」云々というようなことを言うが、まさに、それ。すべてことば、つまりスカーレット・ヨハンソンのこころ(?)の動きまでも、ホアキン・フェニックスが表現する。まるで実際に対面しているときのように、ホアキン・フェニックスの顔が動く。その動きを通して、そこにいない女の肉体が見える。
 先日見た役所広司の顔と違い、ホアキン・フェニックスの顔は激しく動かない。少ししか動かない。で、その少しの動きを丁寧に丁寧に見せる。お、こんないい男だったのか。顔に余分な贅肉がなく、ほほに影ができるときはその影が深い哀しみのようにも見えてくる。ある女性がホアキン・フェニックスはセクシーと言っていたが、この映画の顔を見て、なるほどこれがセクシーか、と気づいた。--というくらいに、ことばを忘れてしまう。ホアキン・フェニックスの台詞は忘れてしまうが、彼の顔は忘れられなくなる。これは、すごいぞ。私は、この映画でホアキン・フェニックスにほれてしまった。それまでは、うまいとは思ってもいい男だとは思わなかった。こんないい男なら、女はほれるなあ、と感心してしまった。
 風景の描き方もいいなあ。時代は「未来」。舞台はどこかわからないが建物の感じがアメリカとは少し違って見える。上海か、香港か。あるいは中東のビルか。急につくられた人工的なビル群という感じの全体風景と、エレベーターのなかの樹影の装飾(それとも実際に見える外の風景?)が、いかにも「自然嗜好」が残っているという感じで「未来」を感じさせる。「人工」を「自然(の影)」によって強調している。それがうるさくない。岬でのピクニックは、私にはロカ岬に見えたが、ロカ岬であることをわざと隠しているのも、なんとも言えずおもしろい。都市のシーンも、きっと見るひとがみれば「ここは、あそこ」とわかるのだろうけれど。
 で、最後にどうなるか。ホアキン・フェニックスがOSとの恋愛を捨て(あるいは、OSから捨てられと言った方がいいのかもしれないが)、人間のふつうの世界にもどってくる--というようなことは、私はあまり関心がないのだが。
 この最後で、またファッションのことを書いておこう。最後の最後、ホアキン・フェニックスはシャツの裾をズボンの外に出している。つまり、今風にしている。それまでの世界が一種の人工的で不自然な「未来」だったのに対して、いま/ここに生きている人間の姿に戻している。
 ここが、この映画のポイント。
 コンピューターから離れ、人間同士が、一緒に実を寄せ合って語る。そのとき、ことばは何を話していても「愛」になる。感動的なことを言わなくてもいい--なんて書いてしまうと説教になるね。だから、映画は何も言わずに終わる。昔なじみのホアキン・フェニックスとエイミー・アダムスがビルの屋上から街の夜明けを見るというシーンで終わる。そのときの「ことば」がズボンの外に出したホアキン・フェニックスのシャツの裾なのです。見落としちゃ、だめだよ。
                       (t-joy 博多11、2014年06月06日)



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池井昌樹『冠雪富士』(15)

2014-07-06 11:22:02 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(15)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「秋天」に書いてあることは単純だ。しかし、そのどこに詩があるのか、それをうまく言えるかどうかはこころもとない。「ここ」と強く感じるけれど、その「ここ」を説明しようとすると、うーん、説明がしにくいなあ、と思ってしまう。

ほんとだったらいまごろは
うんどうかいのはなびがはじけ
こうていのくさむらで
かけっこれんしゅうしていたな
こおろぎいっぱいはねてたな

 ひゃくえんまでときめられた
 おやつはどれにしようかな
 しろいまえかけしめたはは
 もぎてんにいてわらったな
 ほんとだったらいまごろは

 秋の運動会。そのことを思い出している。秋、空が晴れ渡ったいまごろ。「秋天」と呼ばれるその季節。
 その「いまごろ」は、「いま」ではない。でも「いまごろ」という。過去なのに「いま」と呼ぶ。そして、それを「ほんとだったら」と引き寄せようとするとき、引き寄せられないものがある。「いま」とは絶対に重ならないものがある。そのために「ほんと」が「ほんと」にならない。だから「だったら」と言わないといけない。
 この、日本語の文法破りの、「論理」では説明できない部分に、池井の詩がある。

 これを、どう言えばいいのかなあ。

 なぜ、「ほんと」じゃないのか。
 そのことを池井は3連目で言いなおしている。

だからほんとじゃないんだな
いなかのしせつにいるははも
とかいでくさっているぼくも
つとめがなくなりそうなのも
ほんとはほんとじゃないんだな

 いや、言いなおそうとして、言いなおせなかったと言うべきなのか。
 「ほんと」は子どものときの、あの秋の日の運動会にある。母がいて、運動場の隅の模擬店で「おやつ」を売っている。どのおやつにしようか、百円を握り締めて(東京オリンピックのころ、百円玉が登場したな)、迷っている。その迷いを母が見ている。あのときが「ほんと」であって、「いま」は「ほんと」じゃない。
 施設に入っている母--それは、「ほんと」じゃない。
 けれど、それは「現実」。

 「ほんと」と呼ばれているのは「現実」ではない。
 では、過去なのか。あの運動会の一日が「ほんと」か。
 うーん、どうも、それも違う。
 「ほんと」は「現実」ではなく、「幸福」のことなのだ。

幸福だったらいまごろは
うんどうかいのはなびがはじけ

 なのだ。
 これはもう一度言い換えて、

小学時代の、秋のいまごろ、
うんどうかいのはなびがはじけるころ、
あのときは幸福だった

 と読み替えると、池井が「ほんと」ということばで語ろうとしているものがわかる。
 「幸福」と「いま」が堅く結びついている。「いま」という瞬間が「幸福」と結びついて「いま」を越えて「永遠」になる。それが「ほんと」。池井の言う「ほんと」。それが「時間(いま)」を越えているものだからこそ、それから何十年もたった「いま」も、あのときの「いま」をそっくりそのまま、肉体で感じてしまう。あの「秋天」の光を思い出すだけで、「永遠」に「肉体」が包まれる。
 いまある、どんな現実も「幸福(永遠)」と結びつかない限り「ほんと」ではない。
 施設にいる母、仕事を失いそうな池井--それは「現実」だが、「幸福」ではない。「幸福」を傷つける。だから、そういうものを「ほんと」と言ってはいけない。

 「幸福」だけを「真実(ほんと)」として追い求める池井の切実さが「ほんとだったらいまごろは」という不思議にねじれた日本語になっている。
 もう六十歳をすぎた池井が、小学校の運動会で走っているというようなことは「現実」的には不可能である。それでも、あのときを「ほんとだったら」と呼び寄せてしまう力、「幸福」のとろけるような時間をいつでも感じてしまう力、その何と言えばいいのだろう、甘えん坊なのか、欲張りなのかよくわからないが、不純なものがいっさいない力--それが現実とぶつかる瞬間の動き、ぶつかってことばがねじれる瞬間に、詩、と呼ぶしかないものが動いている。

 「幸福」は、どこにある。

 ほんとだったらいまごろは
 そろそろべんとうをひらくころ
 ははのむすんだおむすびの
 ぬくもりのまださめぬころ

 だれかと(母と)「一緒に」いる、それが池井にとっての「ほんと(幸福)」である。愛してくれるひとと一緒でない時間は、全部、まちがっている。
 母のつくったおむすびのぬくもりは、炊いたごはんのぬくもりであると同時に、それを握った母の手のぬくもりでもある。その手のぬくもりを、池井は食べていた。それが「ほんと」。そういう暮らしが「ほんと」なのだ。
 いま、池井の遠くにあって、その「ほんと」は池井を見つめている。
 それに見つめられて池井は「幸福」であり、同時に「不幸」である。「ほんと」が遠くにあることがわかるから、かなしい。どんなに遠くに離れても、「ほんと」は池井の肉体から消えることはない--それが、「間違い(ほんとの反対)」だらけの現実のなかで、より哀しみをかき立てる。
 そして、池井はこの詩を書くとき(書いているとき)、その「哀しみ」がまた「いま」を越えて存在する「永遠」であるということも知っている。
 「幸福の永遠」と「哀しみの永遠」が、この詩のなかで出会っている。



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中井久夫訳カヴァフィスを読む(106)

2014-07-06 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(106)        2014年07月06日(日曜日)

 「古書の中に」は「百年物の古書の中に」はさまれたままになっていた水彩画を見つけたときのことを書いている。水彩画は少年を描いている。男色の相手の少年である。

描かれている少年はただものではない。
世間通用限度内の健全な形式の愛欲で済む者向きの子じゃない。
暗い栗色のひとみ。
顔のこの世にまたとない美、
異常の魅惑の美よ。
理想のくちびる--愛を享ける側の身体に
官能の喜悦を与えるくちびる。
卑俗な倫理が恥を知れという形の
共寝のためにつくられた理想の四肢よ。

 あいかわらずカヴァフィスは「この世にまたとない美」とか「異常の魅惑の美」とか「理想のくちびる」とか、具体的とは言えないことばで「美」(美しいもの)を語っている。こんなことばでは、だれの官能も刺戟されないだろう。「官能の喜悦」ということばも出てくるが、これも具体的ではない。
 少年の「美」は、まったくわからないのだが、この詩では、別のことがわかる。その少年を見たときのカヴァフィスの概念(精神)に起きる変化である。
 「世間通用限度内の健全な形式の愛欲で済む者向きの子じゃない」。「世間」で認められている「健全」な愛というものなど、無視したい。それとは違うことをしたい。概念の運動が欲望を誘う。そのとき「美」が瞬間的に自己主張する。
 そして、そういう「美」に触れたときに、「卑俗な倫理」に対して「恥を知れ」と言いたくなる。「卑俗な倫理」は、カヴァフィスが知っている「美」を知らない。官能を知らない。一度その味を知ったら「世間一般」に通用する倫理などどうでもいい。
 世間はカヴァフィスに対して「恥を知れ」と言うだろうが、カヴァフィスは言い返すのだ。「恥を知るべきなのは世間通用の、卑俗な倫理」なのだと。
 この激しい主張、激しい「主観」が、詩というものである。
 そして、さらにおもしろいのは、そういう「主観」はカヴァフィスが単独で作り上げたものではないということだ。それを作り上げたのは、カヴァフィスというよりも少年なのだ。しかも、「概念」ではなく、肉体、その四肢なのだ。

共寝のためにつくられた理想の四肢よ。

 これは強烈だ。「世間通用」の「卑俗な倫理」が概念であるのに対し、「四肢」は生きて、そこにある肉体。どんな概念(倫理)も肉体の強さには敵わない。「理想の四肢」も抽象的だが、その直前の「卑俗な倫理」「恥」という概念への攻撃があるので、具体的な肉体として迫ってくる。概念の運動と肉体の誘惑が衝突し、ことばが活性化している。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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