監督 スパイク・ジョーンズ 出演 ホアキン・フェニックス、スカーレット・ヨハンソン、エイミー・アダムス
手紙の代書人という仕事をしている男が妻と離婚の危機にある。その男がパソコンのOSと恋をする--というきわめて微妙な世界を描いている。微妙というのは、その世界がパソコン中毒(ネット中毒)と微妙に重なってみえるからである。現実世界ではなくバーチャルな世界で自分の生きがいをみつける、ということが。
で、まあ、そういうストーリーはそれとして、とてもおもしろい工夫がこの映画にしてある。そこにこの映画の、映画ならではの魅力(味)がある。時代は近未来ということになるのだが。
ファッションが、とてもおもしろい。ホアキン・フェニックスの全身がスクリーンに映った瞬間、「あ、ダサイ」と思わなかった? 私は思った。そしてほかの同僚の全身が映ったとき、この映画の工夫のひとつがわかった。
どこがダサイかというと、男たちがシャツをズボン(パンツというべきか)の外に出していない。ズボンのなかにシャツの裾をしっかりしまいこんでいる。いま、こんなスタイルは銀行員、警察官くらいというと大げさだが、「軽い」職業の人間はみんなシャツの裾を出している。それだけではなく、そのズボンのウエストの位置が非常に高い。いまは尻が半分くらい出るくらい(出すくらい?)のズボンのはき方が若者のあいだではやっているが、そういうスタイルと比較すると50年前のズボンのはき方である。そして、よく見るとホアキン・フェニックスはベルトをしていない。ベルトのかわりに、なんというのだろう、ウエストまわりの最上部がかなり幅をとっている。ズボンの股上が長い。いやあ、これはぜったい50年前の映画だぞ、と私は思う。ファッションからね。ファッションというのは精神を代弁するから、この映画の「精神」もきっと昔を感じさせるもので落ち着くんだろうなあ、と私は予感してしまう。
で、実際に、映画の中身は50年前、というか昔から変わらない男と女のすれ違い。人間の男とパソコンOS(女)との恋愛を装っているが、二人のあいだに起きることは同じ。相手に親近感をもって近づき、恋愛し、セックスし、関係がしっかりできあがると同時に、ちょっとマンネリ。ほかのことがしてみたい。刺戟がほしい。そうこうしているうちに、相手の「愛」を疑うようになる。そして、ささいなことでけんかし、わかれる……というようなことが起きる。それに悩む、相も変わらぬ男と女の人間模様が浮かび上がる。
これを、映画でどうやって表現するか。パソコンのOSというのは「姿」がない。で、それを逆手にとって、この映画ではOS(女、スカーレット・ヨハンソン)は姿をあらわさず、声(音声)だけで登場し、かわりにホアキン・フェニックスのアップを延々と映し出す。ことば、ことば、ことばの映画は、私は嫌いだが(影像と音楽で見せるのが映画であって、せりふで勝負するのは芝居と小説)、この映画は「ことば」をホアキン・フェニックスの「顔」で覆い隠す。いやあ、すごいなあ。ホアキン・フェニックスは上唇の傷痕を鬚で隠して美形を完璧にした上で、眼と、そのときどきのライティングによる陰影で、語られることばを「顔」にしてしまう。スカーレット・ヨハンソンの「声」までも、まるでホアキン・フェニックスの「肉体」から出てきたみたいに「顔」にしてしまう。
途中で、会社の同僚がホアキン・フェニックスの書いた手紙を見て、「まるで女が書いたみたい。こんな手紙をもらったら恋をしてしまう。おまえのなかには女がいる」云々というようなことを言うが、まさに、それ。すべてことば、つまりスカーレット・ヨハンソンのこころ(?)の動きまでも、ホアキン・フェニックスが表現する。まるで実際に対面しているときのように、ホアキン・フェニックスの顔が動く。その動きを通して、そこにいない女の肉体が見える。
先日見た役所広司の顔と違い、ホアキン・フェニックスの顔は激しく動かない。少ししか動かない。で、その少しの動きを丁寧に丁寧に見せる。お、こんないい男だったのか。顔に余分な贅肉がなく、ほほに影ができるときはその影が深い哀しみのようにも見えてくる。ある女性がホアキン・フェニックスはセクシーと言っていたが、この映画の顔を見て、なるほどこれがセクシーか、と気づいた。--というくらいに、ことばを忘れてしまう。ホアキン・フェニックスの台詞は忘れてしまうが、彼の顔は忘れられなくなる。これは、すごいぞ。私は、この映画でホアキン・フェニックスにほれてしまった。それまでは、うまいとは思ってもいい男だとは思わなかった。こんないい男なら、女はほれるなあ、と感心してしまった。
風景の描き方もいいなあ。時代は「未来」。舞台はどこかわからないが建物の感じがアメリカとは少し違って見える。上海か、香港か。あるいは中東のビルか。急につくられた人工的なビル群という感じの全体風景と、エレベーターのなかの樹影の装飾(それとも実際に見える外の風景?)が、いかにも「自然嗜好」が残っているという感じで「未来」を感じさせる。「人工」を「自然(の影)」によって強調している。それがうるさくない。岬でのピクニックは、私にはロカ岬に見えたが、ロカ岬であることをわざと隠しているのも、なんとも言えずおもしろい。都市のシーンも、きっと見るひとがみれば「ここは、あそこ」とわかるのだろうけれど。
で、最後にどうなるか。ホアキン・フェニックスがOSとの恋愛を捨て(あるいは、OSから捨てられと言った方がいいのかもしれないが)、人間のふつうの世界にもどってくる--というようなことは、私はあまり関心がないのだが。
この最後で、またファッションのことを書いておこう。最後の最後、ホアキン・フェニックスはシャツの裾をズボンの外に出している。つまり、今風にしている。それまでの世界が一種の人工的で不自然な「未来」だったのに対して、いま/ここに生きている人間の姿に戻している。
ここが、この映画のポイント。
コンピューターから離れ、人間同士が、一緒に実を寄せ合って語る。そのとき、ことばは何を話していても「愛」になる。感動的なことを言わなくてもいい--なんて書いてしまうと説教になるね。だから、映画は何も言わずに終わる。昔なじみのホアキン・フェニックスとエイミー・アダムスがビルの屋上から街の夜明けを見るというシーンで終わる。そのときの「ことば」がズボンの外に出したホアキン・フェニックスのシャツの裾なのです。見落としちゃ、だめだよ。
(t-joy 博多11、2014年06月06日)
手紙の代書人という仕事をしている男が妻と離婚の危機にある。その男がパソコンのOSと恋をする--というきわめて微妙な世界を描いている。微妙というのは、その世界がパソコン中毒(ネット中毒)と微妙に重なってみえるからである。現実世界ではなくバーチャルな世界で自分の生きがいをみつける、ということが。
で、まあ、そういうストーリーはそれとして、とてもおもしろい工夫がこの映画にしてある。そこにこの映画の、映画ならではの魅力(味)がある。時代は近未来ということになるのだが。
ファッションが、とてもおもしろい。ホアキン・フェニックスの全身がスクリーンに映った瞬間、「あ、ダサイ」と思わなかった? 私は思った。そしてほかの同僚の全身が映ったとき、この映画の工夫のひとつがわかった。
どこがダサイかというと、男たちがシャツをズボン(パンツというべきか)の外に出していない。ズボンのなかにシャツの裾をしっかりしまいこんでいる。いま、こんなスタイルは銀行員、警察官くらいというと大げさだが、「軽い」職業の人間はみんなシャツの裾を出している。それだけではなく、そのズボンのウエストの位置が非常に高い。いまは尻が半分くらい出るくらい(出すくらい?)のズボンのはき方が若者のあいだではやっているが、そういうスタイルと比較すると50年前のズボンのはき方である。そして、よく見るとホアキン・フェニックスはベルトをしていない。ベルトのかわりに、なんというのだろう、ウエストまわりの最上部がかなり幅をとっている。ズボンの股上が長い。いやあ、これはぜったい50年前の映画だぞ、と私は思う。ファッションからね。ファッションというのは精神を代弁するから、この映画の「精神」もきっと昔を感じさせるもので落ち着くんだろうなあ、と私は予感してしまう。
で、実際に、映画の中身は50年前、というか昔から変わらない男と女のすれ違い。人間の男とパソコンOS(女)との恋愛を装っているが、二人のあいだに起きることは同じ。相手に親近感をもって近づき、恋愛し、セックスし、関係がしっかりできあがると同時に、ちょっとマンネリ。ほかのことがしてみたい。刺戟がほしい。そうこうしているうちに、相手の「愛」を疑うようになる。そして、ささいなことでけんかし、わかれる……というようなことが起きる。それに悩む、相も変わらぬ男と女の人間模様が浮かび上がる。
これを、映画でどうやって表現するか。パソコンのOSというのは「姿」がない。で、それを逆手にとって、この映画ではOS(女、スカーレット・ヨハンソン)は姿をあらわさず、声(音声)だけで登場し、かわりにホアキン・フェニックスのアップを延々と映し出す。ことば、ことば、ことばの映画は、私は嫌いだが(影像と音楽で見せるのが映画であって、せりふで勝負するのは芝居と小説)、この映画は「ことば」をホアキン・フェニックスの「顔」で覆い隠す。いやあ、すごいなあ。ホアキン・フェニックスは上唇の傷痕を鬚で隠して美形を完璧にした上で、眼と、そのときどきのライティングによる陰影で、語られることばを「顔」にしてしまう。スカーレット・ヨハンソンの「声」までも、まるでホアキン・フェニックスの「肉体」から出てきたみたいに「顔」にしてしまう。
途中で、会社の同僚がホアキン・フェニックスの書いた手紙を見て、「まるで女が書いたみたい。こんな手紙をもらったら恋をしてしまう。おまえのなかには女がいる」云々というようなことを言うが、まさに、それ。すべてことば、つまりスカーレット・ヨハンソンのこころ(?)の動きまでも、ホアキン・フェニックスが表現する。まるで実際に対面しているときのように、ホアキン・フェニックスの顔が動く。その動きを通して、そこにいない女の肉体が見える。
先日見た役所広司の顔と違い、ホアキン・フェニックスの顔は激しく動かない。少ししか動かない。で、その少しの動きを丁寧に丁寧に見せる。お、こんないい男だったのか。顔に余分な贅肉がなく、ほほに影ができるときはその影が深い哀しみのようにも見えてくる。ある女性がホアキン・フェニックスはセクシーと言っていたが、この映画の顔を見て、なるほどこれがセクシーか、と気づいた。--というくらいに、ことばを忘れてしまう。ホアキン・フェニックスの台詞は忘れてしまうが、彼の顔は忘れられなくなる。これは、すごいぞ。私は、この映画でホアキン・フェニックスにほれてしまった。それまでは、うまいとは思ってもいい男だとは思わなかった。こんないい男なら、女はほれるなあ、と感心してしまった。
風景の描き方もいいなあ。時代は「未来」。舞台はどこかわからないが建物の感じがアメリカとは少し違って見える。上海か、香港か。あるいは中東のビルか。急につくられた人工的なビル群という感じの全体風景と、エレベーターのなかの樹影の装飾(それとも実際に見える外の風景?)が、いかにも「自然嗜好」が残っているという感じで「未来」を感じさせる。「人工」を「自然(の影)」によって強調している。それがうるさくない。岬でのピクニックは、私にはロカ岬に見えたが、ロカ岬であることをわざと隠しているのも、なんとも言えずおもしろい。都市のシーンも、きっと見るひとがみれば「ここは、あそこ」とわかるのだろうけれど。
で、最後にどうなるか。ホアキン・フェニックスがOSとの恋愛を捨て(あるいは、OSから捨てられと言った方がいいのかもしれないが)、人間のふつうの世界にもどってくる--というようなことは、私はあまり関心がないのだが。
この最後で、またファッションのことを書いておこう。最後の最後、ホアキン・フェニックスはシャツの裾をズボンの外に出している。つまり、今風にしている。それまでの世界が一種の人工的で不自然な「未来」だったのに対して、いま/ここに生きている人間の姿に戻している。
ここが、この映画のポイント。
コンピューターから離れ、人間同士が、一緒に実を寄せ合って語る。そのとき、ことばは何を話していても「愛」になる。感動的なことを言わなくてもいい--なんて書いてしまうと説教になるね。だから、映画は何も言わずに終わる。昔なじみのホアキン・フェニックスとエイミー・アダムスがビルの屋上から街の夜明けを見るというシーンで終わる。そのときの「ことば」がズボンの外に出したホアキン・フェニックスのシャツの裾なのです。見落としちゃ、だめだよ。
(t-joy 博多11、2014年06月06日)
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