池井昌樹『冠雪富士』(37)(思潮社、2014年06月30日発行)
「草葉」という詩まで読み進んできて、こんなところで、こんなことをいうのも変なことなのだが、池井の今回の詩集には「固有名詞」がないものがある。そういう作品が多い。たとえばこの「草葉」。
どこのことを書いているのだろう。詩の途中まで読み進むと「ばすまつまでのつかのまを」という行が出てくるので、まあ、池井の家の近くなんだろうとは思うが、それにしても「実体」が見えにくい。そこに書いてある「もの」が具体的に見えてこない。「いろんなはな」「いろんなくさ」「いろんなちいさなものたち」と書かれても、花も草も虫も、私には見えてこない。何を思い浮かべていいのかわからない。「くさばのかげ」ということばからは私は「墓」を思い浮かべてしまうが、そうすると「いろんなちいさなものたち」というのは死者かな……でも死者だとどうもこの作品には合わないなあ。
で、具体的なことは何もわからないのだけれど、「いろんな」ということばが気にかかる。「固有名詞」がないから「いろんな」になってしまうのだが、なぜ「いろんな」と書いてしまうのか。「いろんな」をつないでいるものは何だろう。
「いろんな」は「なもない」言い換えられている。「いろんな」は同時に「あんな」とも言い換えられている。「いろんな」だけでは池井と「いろんなもの」との関係がわかりにくかったが「あんな」と言い換えられてみると、その「いろんな」のなかには池井は含まれていない。池井から離れた存在であることがわかる。そうして、その「いろんな(あんな)」は「かえるところがある」ということで共通している。そうしたものたちを「かえるところがある」というとき、池井は「かえることろがない」と感じていることになる。
池井はどこへ「かえりたい」のか。
ふいに「みんな」が出てくるが、この「みんな」には「いろんなはな」などは含まれていない。「みんな」は「人間」である。そして、それは「いろんな人間」であるはずなのに、ここには「いろんな」は書かれていない。「いろんな」とは感じていないということになる。
「みんな」ということばが「人間」をつないでいる。そこにいる人間をつなぐ何かを感じて池井は「みんな」と書いている。
最後に「みんな」ではない「だれか」が突然あらわれてくる。「固有名詞」は割り振られていないが、この「だれか」は「固有名詞」である。つまり、置き換えがきかない。でも、それはだれ?
「みおろしているいまもなお」の「みおろしている」という動詞を手がかりにすれば、それは一行目で「こんなところでみおろせば」というときの「主語」とおなじになるだろう。あのときあんなところで「みおろす」ことをしていたひとが、「いまもまだ」「あんなところで」「みおろしている」。つまり、池井が、あんなところで、いまもまだ、いろんな花や草を見おろし、虫たちを見おろしている。
池井の意識(こころ/あたま?)のなかで、世界がぐるりとめぐって重なっている。
そうであるなら、最初に「こんなところでみおろせば」と書いたとき、池井は、もうそのことを予感していたのかもしれない。草花を見おろしている「池井」をだれかが見おろしている。あるいは、草花を見おろす池井のなかにだれかがいて、いっしょに草花を見おろしている。
「こんなことろで」と書いてあるのは、それは「ほんらい」の場所ではないからだろう。「場所」はほんらいのものではないが、「見おろす」(見おろしている視線を感じる)という「こと」は「ほんとう」なのかもしれない。
何かを見おろす、見おろして何かを感じるという「こと」のなかに「ほんとう」がある。だれかの視線を反復すること(こんなところで、反復すること)のなかに「ほんとう」がある。「こんなところ」と呼ぶのはそれが「ほんとう」ではないからなのだが、「みおろし」「いろんなはな」「いろんなくさ」を見ることは「ほんとう」なのだ。
繰り返すことができることだけが「ほんとう」であり、繰り返されるものは、繰り返されるたびに、繰り返しのなかで「ほんとう」になっていく。--というのは、抽象的すぎる言い方だが。
「池井」が花を見るということを繰り返す。その「見る」ということは「ほんとう」。「動詞」が「ほんとう」。見られている「対象(もの/花・草・虫)」はそれぞれの固有名詞を必要としなくなり「花・草・虫」という「一般名詞」に帰っていく。かえってゆくところというのは「一般名詞」。この「一般」を別なことばで言うと「普遍」、あるいは「永遠」になる。花や草や虫には、そういう「一般」(普遍/永遠)がある。
池井、あるいは「みんな」と呼ばれている人間には、その「普遍/永遠」とは何だろう。「家」ではない。「家族」ではない。(家、家族であるときもあるが……。)
人間にとっては「見おろせば」の「見る」という「動詞」である。「動詞」なのかで、ひとは「普遍/永遠」になる。だからこそ、
なのだ。「いまもまだ」と池井は書いているが、そこには「時間」がない。「いま」も「かこ」もない。時間がないから便宜上「いまもまだ」と「持続」として書くのである。「普遍/永遠」は人間にとっては「持続」のことである。「持続」できること(反復し、持続すること)が「普遍/永遠」である。そして「持続」は「ここ」でも「あんなところ」でもできる。「場」を選ばない。「持続(反復)」があらゆることを「いま/ここ」を「普遍/永遠」にかえるのだ。
何をするでもなく、何をしていいのかわからず、ただ草花をみつめ、虫を見ている。そのことのなかにも「永遠」がある。
繰り返し繰り返し考え、感じたために、その「繰り返し」だけが浮かんでくるようになった。「繰り返し」は、そのものが「肉体」として感じられるようになる(対象が無意識になる)ので「固有名詞」ではなくなるのだ。
「草葉」という詩まで読み進んできて、こんなところで、こんなことをいうのも変なことなのだが、池井の今回の詩集には「固有名詞」がないものがある。そういう作品が多い。たとえばこの「草葉」。
こんなところでみおろせば
いろんなはながさきみだれ
いろんなくさがおいしげり
くさばのかげではたくさんの
いろんなちいさなものたちが
あちこちいったりきたりして
どこのことを書いているのだろう。詩の途中まで読み進むと「ばすまつまでのつかのまを」という行が出てくるので、まあ、池井の家の近くなんだろうとは思うが、それにしても「実体」が見えにくい。そこに書いてある「もの」が具体的に見えてこない。「いろんなはな」「いろんなくさ」「いろんなちいさなものたち」と書かれても、花も草も虫も、私には見えてこない。何を思い浮かべていいのかわからない。「くさばのかげ」ということばからは私は「墓」を思い浮かべてしまうが、そうすると「いろんなちいさなものたち」というのは死者かな……でも死者だとどうもこの作品には合わないなあ。
で、具体的なことは何もわからないのだけれど、「いろんな」ということばが気にかかる。「固有名詞」がないから「いろんな」になってしまうのだが、なぜ「いろんな」と書いてしまうのか。「いろんな」をつないでいるものは何だろう。
なもないあんなものたちも
ああしてゆききするところ
かえるところがあるんだな
「いろんな」は「なもない」言い換えられている。「いろんな」は同時に「あんな」とも言い換えられている。「いろんな」だけでは池井と「いろんなもの」との関係がわかりにくかったが「あんな」と言い換えられてみると、その「いろんな」のなかには池井は含まれていない。池井から離れた存在であることがわかる。そうして、その「いろんな(あんな)」は「かえるところがある」ということで共通している。そうしたものたちを「かえるところがある」というとき、池井は「かえることろがない」と感じていることになる。
池井はどこへ「かえりたい」のか。
さくらのころもすぎこして
いまはあおばがかがやいて
いつかこずえがかぜにゆれ
それをだまってみあげている
ばすまつまでのつかのまを
みんなだまってかたよせて
ふいに「みんな」が出てくるが、この「みんな」には「いろんなはな」などは含まれていない。「みんな」は「人間」である。そして、それは「いろんな人間」であるはずなのに、ここには「いろんな」は書かれていない。「いろんな」とは感じていないということになる。
「みんな」ということばが「人間」をつないでいる。そこにいる人間をつなぐ何かを感じて池井は「みんな」と書いている。
ひがしずみまたひはのぼり
ひはのぼりまたひがしずみ
くさばのかげにひがともり
おちこちあかりのうるむころ
あんなところでだれかしら
みおろしているいまもまだ
最後に「みんな」ではない「だれか」が突然あらわれてくる。「固有名詞」は割り振られていないが、この「だれか」は「固有名詞」である。つまり、置き換えがきかない。でも、それはだれ?
「みおろしているいまもなお」の「みおろしている」という動詞を手がかりにすれば、それは一行目で「こんなところでみおろせば」というときの「主語」とおなじになるだろう。あのときあんなところで「みおろす」ことをしていたひとが、「いまもまだ」「あんなところで」「みおろしている」。つまり、池井が、あんなところで、いまもまだ、いろんな花や草を見おろし、虫たちを見おろしている。
池井の意識(こころ/あたま?)のなかで、世界がぐるりとめぐって重なっている。
そうであるなら、最初に「こんなところでみおろせば」と書いたとき、池井は、もうそのことを予感していたのかもしれない。草花を見おろしている「池井」をだれかが見おろしている。あるいは、草花を見おろす池井のなかにだれかがいて、いっしょに草花を見おろしている。
「こんなことろで」と書いてあるのは、それは「ほんらい」の場所ではないからだろう。「場所」はほんらいのものではないが、「見おろす」(見おろしている視線を感じる)という「こと」は「ほんとう」なのかもしれない。
何かを見おろす、見おろして何かを感じるという「こと」のなかに「ほんとう」がある。だれかの視線を反復すること(こんなところで、反復すること)のなかに「ほんとう」がある。「こんなところ」と呼ぶのはそれが「ほんとう」ではないからなのだが、「みおろし」「いろんなはな」「いろんなくさ」を見ることは「ほんとう」なのだ。
繰り返すことができることだけが「ほんとう」であり、繰り返されるものは、繰り返されるたびに、繰り返しのなかで「ほんとう」になっていく。--というのは、抽象的すぎる言い方だが。
「池井」が花を見るということを繰り返す。その「見る」ということは「ほんとう」。「動詞」が「ほんとう」。見られている「対象(もの/花・草・虫)」はそれぞれの固有名詞を必要としなくなり「花・草・虫」という「一般名詞」に帰っていく。かえってゆくところというのは「一般名詞」。この「一般」を別なことばで言うと「普遍」、あるいは「永遠」になる。花や草や虫には、そういう「一般」(普遍/永遠)がある。
池井、あるいは「みんな」と呼ばれている人間には、その「普遍/永遠」とは何だろう。「家」ではない。「家族」ではない。(家、家族であるときもあるが……。)
人間にとっては「見おろせば」の「見る」という「動詞」である。「動詞」なのかで、ひとは「普遍/永遠」になる。だからこそ、
あんなところでだれかしら
みおろしているいまもまだ
なのだ。「いまもまだ」と池井は書いているが、そこには「時間」がない。「いま」も「かこ」もない。時間がないから便宜上「いまもまだ」と「持続」として書くのである。「普遍/永遠」は人間にとっては「持続」のことである。「持続」できること(反復し、持続すること)が「普遍/永遠」である。そして「持続」は「ここ」でも「あんなところ」でもできる。「場」を選ばない。「持続(反復)」があらゆることを「いま/ここ」を「普遍/永遠」にかえるのだ。
何をするでもなく、何をしていいのかわからず、ただ草花をみつめ、虫を見ている。そのことのなかにも「永遠」がある。
繰り返し繰り返し考え、感じたために、その「繰り返し」だけが浮かんでくるようになった。「繰り返し」は、そのものが「肉体」として感じられるようになる(対象が無意識になる)ので「固有名詞」ではなくなるのだ。
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谷内 修三 | |
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