詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹『冠雪富士』(37)

2014-07-29 10:19:45 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(37)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「草葉」という詩まで読み進んできて、こんなところで、こんなことをいうのも変なことなのだが、池井の今回の詩集には「固有名詞」がないものがある。そういう作品が多い。たとえばこの「草葉」。

こんなところでみおろせば
いろんなはながさきみだれ
いろんなくさがおいしげり

 くさばのかげではたくさんの
 いろんなちいさなものたちが
 あちこちいったりきたりして

 どこのことを書いているのだろう。詩の途中まで読み進むと「ばすまつまでのつかのまを」という行が出てくるので、まあ、池井の家の近くなんだろうとは思うが、それにしても「実体」が見えにくい。そこに書いてある「もの」が具体的に見えてこない。「いろんなはな」「いろんなくさ」「いろんなちいさなものたち」と書かれても、花も草も虫も、私には見えてこない。何を思い浮かべていいのかわからない。「くさばのかげ」ということばからは私は「墓」を思い浮かべてしまうが、そうすると「いろんなちいさなものたち」というのは死者かな……でも死者だとどうもこの作品には合わないなあ。
 で、具体的なことは何もわからないのだけれど、「いろんな」ということばが気にかかる。「固有名詞」がないから「いろんな」になってしまうのだが、なぜ「いろんな」と書いてしまうのか。「いろんな」をつないでいるものは何だろう。

なもないあんなものたちも
ああしてゆききするところ
かえるところがあるんだな

 「いろんな」は「なもない」言い換えられている。「いろんな」は同時に「あんな」とも言い換えられている。「いろんな」だけでは池井と「いろんなもの」との関係がわかりにくかったが「あんな」と言い換えられてみると、その「いろんな」のなかには池井は含まれていない。池井から離れた存在であることがわかる。そうして、その「いろんな(あんな)」は「かえるところがある」ということで共通している。そうしたものたちを「かえるところがある」というとき、池井は「かえることろがない」と感じていることになる。
 池井はどこへ「かえりたい」のか。

 さくらのころもすぎこして
 いまはあおばがかがやいて
 いつかこずえがかぜにゆれ

それをだまってみあげている
ばすまつまでのつかのまを
みんなだまってかたよせて

 ふいに「みんな」が出てくるが、この「みんな」には「いろんなはな」などは含まれていない。「みんな」は「人間」である。そして、それは「いろんな人間」であるはずなのに、ここには「いろんな」は書かれていない。「いろんな」とは感じていないということになる。
 「みんな」ということばが「人間」をつないでいる。そこにいる人間をつなぐ何かを感じて池井は「みんな」と書いている。

 ひがしずみまたひはのぼり
 ひはのぼりまたひがしずみ
 くさばのかげにひがともり

おちこちあかりのうるむころ
あんなところでだれかしら
みおろしているいまもまだ

 最後に「みんな」ではない「だれか」が突然あらわれてくる。「固有名詞」は割り振られていないが、この「だれか」は「固有名詞」である。つまり、置き換えがきかない。でも、それはだれ?
 「みおろしているいまもなお」の「みおろしている」という動詞を手がかりにすれば、それは一行目で「こんなところでみおろせば」というときの「主語」とおなじになるだろう。あのときあんなところで「みおろす」ことをしていたひとが、「いまもまだ」「あんなところで」「みおろしている」。つまり、池井が、あんなところで、いまもまだ、いろんな花や草を見おろし、虫たちを見おろしている。
 池井の意識(こころ/あたま?)のなかで、世界がぐるりとめぐって重なっている。
 そうであるなら、最初に「こんなところでみおろせば」と書いたとき、池井は、もうそのことを予感していたのかもしれない。草花を見おろしている「池井」をだれかが見おろしている。あるいは、草花を見おろす池井のなかにだれかがいて、いっしょに草花を見おろしている。
 「こんなことろで」と書いてあるのは、それは「ほんらい」の場所ではないからだろう。「場所」はほんらいのものではないが、「見おろす」(見おろしている視線を感じる)という「こと」は「ほんとう」なのかもしれない。
 何かを見おろす、見おろして何かを感じるという「こと」のなかに「ほんとう」がある。だれかの視線を反復すること(こんなところで、反復すること)のなかに「ほんとう」がある。「こんなところ」と呼ぶのはそれが「ほんとう」ではないからなのだが、「みおろし」「いろんなはな」「いろんなくさ」を見ることは「ほんとう」なのだ。
 繰り返すことができることだけが「ほんとう」であり、繰り返されるものは、繰り返されるたびに、繰り返しのなかで「ほんとう」になっていく。--というのは、抽象的すぎる言い方だが。
 「池井」が花を見るということを繰り返す。その「見る」ということは「ほんとう」。「動詞」が「ほんとう」。見られている「対象(もの/花・草・虫)」はそれぞれの固有名詞を必要としなくなり「花・草・虫」という「一般名詞」に帰っていく。かえってゆくところというのは「一般名詞」。この「一般」を別なことばで言うと「普遍」、あるいは「永遠」になる。花や草や虫には、そういう「一般」(普遍/永遠)がある。
 池井、あるいは「みんな」と呼ばれている人間には、その「普遍/永遠」とは何だろう。「家」ではない。「家族」ではない。(家、家族であるときもあるが……。)
 人間にとっては「見おろせば」の「見る」という「動詞」である。「動詞」なのかで、ひとは「普遍/永遠」になる。だからこそ、

あんなところでだれかしら
みおろしているいまもまだ

 なのだ。「いまもまだ」と池井は書いているが、そこには「時間」がない。「いま」も「かこ」もない。時間がないから便宜上「いまもまだ」と「持続」として書くのである。「普遍/永遠」は人間にとっては「持続」のことである。「持続」できること(反復し、持続すること)が「普遍/永遠」である。そして「持続」は「ここ」でも「あんなところ」でもできる。「場」を選ばない。「持続(反復)」があらゆることを「いま/ここ」を「普遍/永遠」にかえるのだ。
 何をするでもなく、何をしていいのかわからず、ただ草花をみつめ、虫を見ている。そのことのなかにも「永遠」がある。
 繰り返し繰り返し考え、感じたために、その「繰り返し」だけが浮かんでくるようになった。「繰り返し」は、そのものが「肉体」として感じられるようになる(対象が無意識になる)ので「固有名詞」ではなくなるのだ。
谷川俊太郎の『こころ』を読む
谷内 修三
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(129)

2014-07-29 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(129)        2014年07月29日(火曜日)

 「アンナ・ダラシニ」は、アレクシオス・コムノニス皇帝が母アンナ・ダラシニを讃えた詔勅について書かれたものである。

聡明な妃殿下アンナ・ダラシニ。
いさおしも立居振る舞いも、模範というもおろか。
賛辞は数かぎりなくあるが、
ここでは一つ挙げるにとどめる。
美しく気品あるこの一句。
「こは”わがもの”そは”汝がもの”てふ
冷たきことばを決して口にされざりし きみ」

 アンナ・ダラシニの評価を簡便に書きつらねたあと、アレクシオス・コムノニス皇帝の詔勅を最後に引用している。詩集の前半にあらわれた「墓碑銘」に何か似ている。誰もが知っていることを(歴史的な評価を)そのまま書いている。それを「他人の書いたことば」で伝えている。
 カヴァフィスの個性は、どこに? カヴァフィスにしか言えないことばは、どれ?
 こういうことを考えると、どうにもわからなくなるのだが、その「わからない部分」にこそ詩がある。
 「カブァフィスの個性」「カヴァフィスにしか言えないことば」というものを考えているとき、私たちは「意味」を想定してしまう。カヴァフィス独自の「評価」を読み取ろうとしている。カヴァフィスは、最初からそういうものを表現しようとはしていない。「意味」ではないものを書いている。
 ことばの調子、ことばのリズムと旋律。ことばを省略し、省略することで、ことばを読んだひと(聞いたひと)が、ことばを補うように仕向けている。読者がことばを補うとき、ことばは読者の「肉体」のなかで動く。読者が自分で考え出してかのように、ことばが動く。(カヴァフィスの原文がどうなのかはわからないが、中井久夫は、そうなるようにことばを書いている。)
 たとえば、「いさおしも立居振る舞いも、模範というもおろか。」という行ならば、読者は、「模範というもおろか、模範を通り越した絶対的な模範である」とことばを追加する。自分で追加したことばは、そこで読むことばよりも早い。読者自身の肉体になじんでいるからである。
 そんなふうに読者のなかで読者のことばが動くように仕向けておいて、絶対的に動かせないことばをそれに対比させる。「引用」。そのとき「文体」をかえる。すると、そこにはっきりと、自分ではない人間の「声」が響きわたる。「異質」なものとして響く。わかりきっている「評価」なのに、初めてのように聞こえる。鮮烈に聞こえる。詩として聞こえる。
 これを中井久夫は「文語(旧仮名遣い)」で表現している。この対比の浮かび上がらせ方はすばらしい。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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