詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ドゥニ・ビルヌーブ監督「複製された男」(★★★)

2014-07-20 17:40:57 | 映画
監督 ドゥニ・ビルヌーブ 出演 ジェイク・ギレンホール、メラニー・ロラン、サラ・ガドン


 自分とそっくりな男がいた--という設定のストーリー。ひとりは大学で歴史を教えている。テーマは「繰り返し」。もうひとりは三流役者。役者のテーマは他人のコピー(繰り返し)ということか。
 こういうはじまった瞬間に結論があるような映画は、私は好きではない。
 意味ありげに蜘蛛が出てくる。蜘蛛の糸。路面電車の電線(蜘蛛の糸に見える)、蜘蛛の仮面を被った女が天井を歩いてくる、町を歩く巨大な蜘蛛、蜘蛛の自動車事故のあとのガラスの蜘蛛の巣状の亀裂、部屋の中の巨大な蜘蛛……。こういうものに、私は「意味」を求めない。繰り返しがあるだけ。歴史を教えているジェイク・ギレンホールの「ことば」に従えば、あらゆることは繰り返すけれど、人はそこから何も学ばない、というだけ。
 でもね。
 こういうのは、つまらない男の視点。
 この映画で見るべき点は、女の視点。ジェイク・ギレンホールという仕掛けを利用して、女の生き方を的確に描いている。
 何か理不尽なことが起きたとき、どう対処するか。女の方法は三つある。
 母親のイザベラ・ロッシーニは無視。息子と同じ男がいる。そんなことはあってはならない。だから無視する。無視することで、そういう現実を存在させない。
 恋人のメラニー・ロランは違いを明確に識別し、その違いによって俳優の男を拒絶する。メラニー・ロランが見つけ出した違いというのは、指に残る指輪の跡という非常に微妙なものだが、そういうささいなことがらにも女は気づく。男は、そういうささいなことがらに女は気づかないと思っている。ここから悲劇がはじまる。
 もうひとつの方法は、それが理不尽であっても受け入れるという方法。役者の妻を演じたサラ・ガドンの役どころ。彼女が妊娠しているのは、他人を受け入れ、それによって新しい何かを生み出すのが女であるということを象徴している。
 ジェイク・ギレンホールとサラ・ガドンのセックスシーンはとてもおもしろい。サラ・ガドンは指輪をしている。ジェイク・ギレンホールはもともと指輪をしていないから、指輪に対する意識がない。二人が指を絡ませたとき、サラ・ガドンの指輪がアップされるが、このとき彼女はジェイク・ギレンホールが夫ではないと気がついている。二人が入れ代わったことに気がついている。しかし、彼を受け入れる。「現実」を受け入れる。それだけではなく、さらにその「現実」をたしかなものにするために、積極的に、男にセックスを迫っていく。
 このとき、ジェイク・ギレンホールは、いわば蜘蛛の巣にかかった餌だね。
 女は必要ではない餌は無視する。嫌いな餌は拒絶する。しかし、必要ならば餌を受け入れる。--と三分類してしまうと、問題が変になるかもしれないけれど。

 これに比べると、男というのは馬鹿だから、男の欲望をコピーしているだけである。男は男をコピーする。自分の方法を考え出さない。ひとりでも多くの女とセックスをしてみたい、という夢を男の夢としてコピーするだけである。そして、そういうコピーの過程で同じ間違いを繰り返す(女の信頼をうしなうという過ち、女との愛を台無しにするという過ち)のだが、まあ、気がつかない。自分だけは大丈夫と思う。

 こういう単純な映画(形而上学を装った映画は、みんな単純である。矛盾がないからすっきりしてしまう)を、それではどうやって「ごまかして」映画にするか。
 この映画は色彩に工夫している。全体がセピア色がかっている。冒頭のあやしげなストリップショーのようなシーンが薄暗いために、最初はこの色彩の工夫に気がつかず、何か変だなあと気がついたらセピア色だった、ということなのだが。
 最後の方、ジェイク・ギレンホールの歴史の教授と役者が入れ代わった後、色彩が鮮明になる。現実的になる。その仕掛けが、男の欲望の色として反映されている。どんなに愛されていても自分の女とのセックスはセピア色に見える。初めての女とのセックスは極彩色に見える。
 で、ね。その色彩(視力)の変化の仕掛けみたいにブルーベリーが出てくるのだが、これがおかしい。ジェイク・ギレンホールが母親に会ったとき、ブルーベリージュースが出てくる。俳優は有機栽培のブルーベリーにこだわっている。ブルーベリーは実際に視力をととのえるのに効果があるからね。なんだか健康食品の宣伝みたいだけれど……。

 しかし、どうしてなんだろう。「形而上学(哲学)」的テーマの映画というのはどうしても「底」が浅くなる。えっ、現実ってこんな変な(突発的な)形で欲望を剥き出しにするのか、というようなことが起きない。
 ストーリーに合致する影像を探し出してつなげるからなんだろうなあ。
 ジェイク・ギレンホールの二人が最初にあって、手を見せあうシーンなんか、とてもいやだなあ。ばからしいなあ、と思う。
 メラニー・ロランにもっといろいろ演じさせてほしかったなあ。あんなにうまいのに、これではもったいない。
                   (ユナイテッドシネマ・キャナルシティ1)

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池井昌樹『冠雪富士』(29)

2014-07-20 10:26:29 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(29)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「千両」の世界は「未来」に似ている。「現代(未来?)」になじめずにいる池井の姿が書かれている。

へんなひとたちばかりいる
へんなみらいにいきている
わたしはへんなじいさんだから
へんなところにいるのだろうか

 「へん」が4回繰り返されている。1行目、2行目の「へん」は「わけのわからない」「奇妙な」くらいの意味だろうか。4行目も「わけのわからない」かもしれない。それは池井から見て「へん」という意味である。
 けれど3行目は、どうだろう。ここで「へん」と言っているのは池井ではなく、池井のまわりの「わかもの(未来)」である。池井は「へん」であることを納得していない。
 だから、

ほんとのところほんとうは
こんなところにいたくない

「ほんと」「ほんとう」と同じ意味のことばが繰り返されている。こんな「へんな」ところにいたくない。「へん」が、池井は嫌いなのだ。

むかしながらのこのほしで
むかしながらにくらしたい

 「むかし」は池井にとっては「へん」ではない、ということである。「いま」も「未来」も「へん」である。「むかし」はそうではない。そういう論理の先に「いまからみるとへん」な池井がいる。池井は「いま」でも「未来」でもなく、「むかし」をそのまま生きている。だからいまを基準にして池井をみると「へんなじいさん」になる。
 自分が「へん」であるということを認めるのは、だれでも嫌いである。

けれどむかしはかえらない
ひとはいよいよへんになり
ますますみらいはへんになり
わたしはみるみるおいぼれて
やがてくちはてきえうせるとき

 で、そういう「くらい」感じのする「未来」を思ってみるのだが、そのとき、

まってましたといわんばかりに
あかるいよいのひとつぼし
むかしながらにあおあおと

 あ、ここが不思議だねえ。ここがいいなあ。
 「へんな」いやな時代がやってくるのだけれど、空にはかわらず「よいのひとつぼし」(金星)が輝いている。

むかしながらにあおあおと

 ここで再び「むかしながら」が出てくるのだけれど、意味は昔と変わらずということになるのだが。
 でも、この「むかしながら」って、「むかし」だけが意識されているのだろうか。むしろ「みらいも」という意味ではないのだろうか。
 むかしとかわらないだけではなく、未来もあおあおと輝く。
 その金星を池井は見てる。思い描いているのではなく、「肉眼」で、その本物を見ている。
 夕方になると空に金星が輝くのは、「むかし」も「未来」も関係ない。つまり、それは「永遠に」輝く。
 そうであるなら、

むかしながらのこのほしで
むかしながらにくらしたい

 は「永遠に」このほしで、「永遠に」くらしたい、という意味にならないだろうか。
 また「永遠」は池井にとって「こんなところ」ではなく「ほんとのところ」である。

 池井は「へんなひと」「へんなみらい」と書いているが、一方で宵の明星のように「かわらない」永遠があることを知ってる。「知識」として知っているのではなく、それを幾度となく見つめた「肉体」として知っている。肉体」として覚えている。「視力」として知っている。「視力」として覚えている。
 そして、それは池井が消え失せたときも、きっと

まっていましたといわんばかりに

 どこからかあらわれる。
 そのことを池井は、池井の「肉体」は信じ込んでいる。宵の明星があらわれることを、池井は死んでしまっても忘れることはできない。
 この詩は、そう語っている。
 だから、なんというのだろう、ちっとも暗くない。池井がどんなに「いま」と「未来」に傷ついているとしても、不思議に明るい。池井の「肉体」のなかには、「永遠」に汚れない宵の明星がある。

 今回の詩集には、「論理」で押し通そうとすると何かうまく押し通せないものがたくさん書かれている。矛盾しているというか、破綻しているというか……。
 しかし、その矛盾や破綻のなかに、不思議な詩がある。
 池井の絶望を裏切るように宵の明星が輝くように(輝くのを永遠にやめないように)、その絶望のことばの奥から、永遠にとぎれることのないものがあらわれてくる。
 この奇妙な矛盾が、詩、そのものなんだなあと読みながら思う。





谷川俊太郎の『こころ』を読む
谷内 修三
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(120)

2014-07-20 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(120)        2014年07月20日(日曜日)

 「退屈な村で」は男色の詩になるのだと思うが、非常に清潔である。男色ではなく、異性の肉体への欲望とも読めるが、カヴァフィスを読んでいると、ついつい男色を想像する。この作品が清潔なのは、ことばに間延びしたところがないからだ。

退屈な村で働く男。
とはいえ店番。こんなに若くて。
今から二、三ヶ月後、
いやもう二、三ヶ月先だろうな、
仕事が終わる。さあ、休みを取って
市に行ける。頭から飛び込むぞ。

 一行目の「退屈な村」が特徴的だが、どんな具合に「退屈」なのか、その実際を描写することばがない。「退屈」だけで、片づけてしまっている。「退屈な村」の「退屈」を書くのが目的ではなく、そこにいる男のこころの動きを書くのが主眼だからだ。
 「今から二、三ヶ月後、/いやもう二、三ヶ月先だろうな、」この三、四行目は同じ意味である。「後」と「先」は日本語の文字で見ると方向が逆に見えるが、この訳がとてもおもしろい。実質は同じことなのに、方向を逆にすることばのために「二、三ヶ月」がぶつかって、その衝突のなかに時間が消えていくみたいだ。
 これは中井久夫の工夫なのだと思うが、その衝突によって、「繰り返し」が意味の繰り返してではなく、リズムに変化して、ことばを音楽の陶酔に誘う。
 短い文がたたみかけるように動く。その動きがとても早いので、男の「欲望」を見ているというよりも「純粋な期待(夢)」を聞いているような感じがする。「肉欲」というより「こころの躍動」、若い男の、若い血の鼓動(陶酔)を聞いている感じがする。

今日も性の欲望にふくらんで眠りに就く。
からだの情熱の火の燃えさかる若さ。
繊細な激情に身をゆだねた
彼の身体のうるわしい若さよ。
眠りの中で快楽が訪れた。
眠る彼は見た、憧れの姿を、
そしてかき抱いた、憧れの肉を。

 なかほどの「うるわしい」という形容詞がおもしろい。「うるわしい」は「用言」だから、この「用言」は動きが、他の動詞のように動かない。そこに停滞している。そして、そこでいったん停止するからこそ、微妙にねじれる。肉欲は直接肉体をつかむのではなく「夢(眠りのなか)」で暴走する。
 「うるわしい」の停滞、つづく「若さ」という名詞の停滞を、「訪れる」「眠る」「見る」「かき抱く」という複数の動詞が次々に突き破って動き、そのスピードが清潔だ。

カヴァフィス全詩集
コンスタンディノス・ペトルゥ カヴァフィス
みすず書房
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