詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹『冠雪富士』(38)

2014-07-30 10:21:44 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(38)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「雲の祭日」はある日突然連絡のとれなくなった息子のことが心配になり、妻と二人でアパートまで息子の安否を確認に行くことを描いている。やっと探し当てたアパートで、息子は「携帯電話を変えた」と言う。急にたずねてきた両親にびっくりする息子に対して「鰻でも喰えばいい」と1万円渡して帰ってくる。連絡がとれずに心配してたずねてきたとは言えないのだ。まあ、「親馬鹿」ぶりをただことが起きた順番に、小学生の日記のように書いているのだが、その最後の部分。

                一万円は痛かったな。いいよ、
それくらい。夕闇の籠め始めた帰路、バスに乗ればよいものを、私
も妻も何か高揚して歩道を歩んだ。子がいてくれるのは、いいな。
うん。そしてまた黙って歩いた。遠くを台風が過ぎるらしい夕映え
の終わりの空には様々な姿した雲が様々に姿変えつつ流れ、だんだ
ん涼しくなってきた。背中の汗、すごいよ。妻が囁いた。ヒトのこ
と、言えるか。私は応えた。肩を並べて初めての帰路だったが、家
にはまだ、まだ遠いのだ。

 息子はもしかしたら死んでしまったのではないか、という不安が消えて、ほっとする。それから「一万円は痛かったな」と、ふと、さっきの自分の行動を思い出し、ことばがでる。ほんとうは、もっと別のことが言いたいのだが、すぐにはそういうことばは出て来ない。
 阪神大震災のあと、季村敏夫は『日々の、すみか』(書肆山田)で「出来事は遅れてあらわれた。」と書いたが、大災害であれ、こどもとの連絡がとれないということであれ、どんなことでも人は初めて経験する。そして、その初めてのときは「ことば」は遅れてあらわれる。「あったこと」はすぐにはことばにはならない。何といっていいかわからないので、とりあえず、何かを言う。それは、いつかどこかで言ったような、ありきたりのことばである。そして、それは必ずしもその場にぴったりのことばではない。でも、それを言うしかない。何か言わないと、何かことばにしないと、次のことばが動いてくれない。
 その、「一万円は痛かったな」ということばに対して、妻が「いいよ、それくらい。」と応える。何でもないようだが、ここから季村の言う「出来事」があらわれる。「遅れて」あらわれる。池井と妻のこころがいっしょになって動く。家族という「こと」が静かに動く。その静かさが「こと」の確かさを証明する。「静か」が「たしかなこと」になる。
 息子の安否が確認できた。元気でいた。勤務先からの急な電話に応える息子の姿も見た。その家族の安心に比べると、一万円というのは何でもないことなのだ。
 そして、そのあとの、

子がいてくれるのは、いいな。
うん。

 この、「飛躍」がいい。息子のことが心配だった。一万円、ふいの出費があった。でも、息子が生きていること、元気で働いていることがわかった。それを「息子が元気でいてよかった」ではなく「子がいてくれるのは、いいな」と言う。子どものことを言っているのではない。自分のことを言っている。自分ではないだれかのことを、自分のことのように心配し、それから安心する。そういう「どきどき」を体験しながら生きるのは、つらいけれど、うれしい。そういう感じだ。
 最初に、この詩は小学生の日記のようだと書いたが、小学生の日記のように書きつないでいって、言うことがなくなった瞬間(書くべき出来事、報告すべき出来事がなくなった瞬間)、池井自身の「肉体」のなかにある「出来事」があらわれる。妻と愛し合って、子どもが生まれた、という「出来事」がふいにあらわれる。それは、ずっとつづいてきた「出来事」だけれど、初めてのようにしてあらわれる。つまり、「遅れて」あらわれる。「出来事」がことばになるまでの間に「遅れ(時差)」のようなものがある。その「遅れ」のなかへ、池井と妻は、帰っていく。
 突然、「幸福」がよみがえってくる。「いのち」がつながっている「幸福」が、「遅れて」やってくる。「実感」があとからやってくる。「出来事」というのは「実感」のことなんだなあ。「出来事」を「実感」と言い換えると、たぶん、ことばのしなければならない仕事、詩の仕事も見えてくる。無意識に感じているけれど、うまくことばにできないことを、口に出して言えるようにする。そのことばの形をととのえる--それが詩なんだなあ。
 だらだらと「親馬鹿」を書いてきて、最後も「親馬鹿」ではあるのだけれど、その「親馬鹿」のことばをととのえている。それがそのまま「暮らし」をととのえる力になっていく。ことばのしなければならない「必然」が、詩の形で動いている。

背中の汗、すごいよ。妻が囁いた。
ヒトのこと、言えるか。私が応えた。

 漫才のようなやりとりを、夕映えの雲が姿を変えながら祝福している。
 ことばが「正直」に帰っていくとき、「必然」の詩が生まれる。ことばは、「正直」という「家(詩)」をめざして、どこまでも歩いていく。
谷川俊太郎の『こころ』を読む
谷内 修三
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(130)

2014-07-30 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(130)        

 「一八九六年の日々」はある男色の青年(?)の「堕落」を書いている。

その堕落は完璧だった。あいつの性的偏向は
御法度。断罪されても しかたのないものだった。

 そして、彼といっしょにいるのを見られたら「具合が悪い」ということになって、世間から抹殺されたのだが……。

だがこれで話は終わりかい。  それじゃあんまりだろ。
あいつの美の思い出は ずっといい。
そうなれば話は別。そこから見れば
ひたむきな愛の子。ほんものさ。
その純粋な肉の官能、 理屈抜きの純粋の肉体感覚を
ためらうことなく 名誉名声よりも上に置いているあいつ。

 この評価の部分がおもしろい。カヴァフィスはあいかわらず具体的な描写をしない。「あいつ」の美とは書いても、それがどんな美であるか、その「個性」を書かない。
 「ひたむき」「ほんもの」「純粋」ということばが「あいつ」の「個性」というのでは、読者はどういう「あいつ」を思い浮かべていいのかわからない。
 もしかすると男色には「個性」というものがないのかもしれない。あるいは「個性的すぎる」のかもしれない。自分の「ほんもの」「純粋」だけを信じているので、それを他のひとにわからせる必要がない。だから「ほんもの」「純粋」ですませられるのかもしれない。
 こんなことでは詩は味気なくなるはずなのに、カヴァフィスの詩は味気なくない。ことばを読んでいて、おもしろい。「あいつ」の姿が見えてこないのに、なぜか、彼を「美男子」と思い込んでしまう。
 そう思い込ませるのは何か。
 語り手の口調。ことばのリズム。「口語」の感覚である。
 この詩では「あいつ」はまったく動かないが(堕落した、ということはわかるが)、語り手は忙しい。「断罪されても しかたない」と批判したり「それじゃあんまりだろ」と反論したり。
 特に「反論」の口調がいい。「あんまりだろ」という「口語」の響き。「ほんものさ。」というたった一語の肯定。ぷつんぷつんと断片的にことばが動いてきて、「純粋」「肉の官能」「肉体感覚」とことばを繰り返すことでスピードをつけ、肉体のよろこびを「名誉名声よりも上に置いている」という長い文章(長い修飾語)。「上」というのは具体的なようで、ここでは抽象的だ。長い文章で、突然抽象的になる変化のなかに、あ、話者はこれをいいたかったのかという感じが強くなる。
 ことばの躍動を中井は訳出している。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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