詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中尾太一『ア・ノート・オブ・フェイス』

2014-07-22 09:47:08 | 詩集
中尾太一『ア・ノート・オブ・フェイス』(思潮社、2014年07月01日発行)

 中尾太一『ア・ノート・オブ・フェイス』の音楽は、私には過激すぎる。私はどうしようもない音痴なので、中尾のことばの速さに驚いているうちに、どれがどの音と響きあっているのかがわからなくなる。
 わからないのだが、わからないまま、わからないことを書いておこう。40ページ「a crossing」という部分の書き出し。ルビがあるのだが、ルビは( )で補った。中尾の意図に反するだろうけれど。

辞書(diccionary)から生まれた造花の隣
もうここにはない物語は口を窄み(蕾)
県境の峠を遠く見つめているようだ(boader)
「そこ」ですべてが書かれたのか
書かれたすべてが「そこ」になるのか

 私はこの5行のなかで、「窄み(蕾)」ということばにひかれた。「口をすぼみ」と「つぼみ」が音として重なり合う。そしてそのとき、すぼめた口がつぼみのように見えてくる。それが開いていくというのではなく、逆に、前の行に「(造)花」があるので、時間が逆流するように閉じていく感じがする。「つぼみ」というのは開いてこそ意味(?)があるのに、逆に動いている。それが、口を「すぼめる」(閉ざす)ということと交錯する。この「交錯」のなかに、私は「音楽」を感じた。
 この「音楽」を説明するのは、ちょっとむずかしい。私の「感覚の意見」であって、どうにもことばにならないのだが、あえていえば、私はどのようなことば(文章)もそれ自体がいわゆる楽曲(音楽)の「調」のようなものを持っていると感じている。それぞれが独自の「調」をもっていて、その「調」のなかでことばが動いていくとき、それがとても気持ちよく感じられる。「意味」はどうでもよくて、あ、これは快感だなあ、ここには酔ってしまうなあという感じになる。そして、この「調」が「転調」ならいいのだが、別の「調」とごちゃまぜになってしまうと、なんだかいやだなあと感じる。
 私が中尾の詩について「ことばの交錯」と書いたのは、音楽用語(?)で言い換えると「和音」になるかもしれない。別の音が出会って響くとき、それがひとつの音よりも美しく聞こえるときがある。その瞬間の「響き」。--どうして、その音が出会うと「気持ちがいい」のか、まあ音楽理論として何かあるのかもしれないけれど、そして同じようなことが「言語理論」としてあるのかもしれないけれど。それは「音韻論」なのか、「意味論」なのか、よくわからないのだけれど……。
 まあ、あるのだろう。いや、「ある」と私は感じている。そしてほとんど本能的に、自分にとって「気持ちのいい」と感じられるものだけを選んで読み取っている。それが、この部分にある。
 「県境の峠を遠く見つめているようだ(boader)」は、よくわからないどころか、まったくわからないのだけれど、「ようだ」「boader」の響きに、へええ、と声が漏れてしまった。中尾は「ようだ」の「だ」の音をぱっと途切れる音ではなく、だんだん弱くなって消えていく、間延びした(?)ような音として聞いているのかと思った瞬間、そうだなあ、「……のようだ」というとき何かぼんやりしたものが語尾にまじるなあと思い出し、私の「肉体」のどこかが刺戟された。
 「県境」は「けんきょう」と読むのか「けんざかい」と読むのか。私は「けんきょう」と読んだのだが、私のワープロは「けんきょう」と打って文字変換をこころみると「県境」が出て来ない。えっ、「けんざかい」なのか。でも、そうすると、あとの音が合わない。「とうげ」「とおく」「よう(だ)」の「文字」としては「う」「お」と書き分けられるのだが、口の感じ、喉の動きとしては、発声器官を解放したままゆっくりと時間を伸ばす感じでひとつのものが「けんざかい」では合致しない。「けんきょう」でないと「和音」にならない。「ようだ」「boader」というルビに従うならば、絶対に「けんきょう」でなくてはいけない。
 そういう、どうでもいいようなこと(意味とは無関係のようなこと)を感じながら、私は、ことばのなかを動いていく。そうすると、

「そこ」ですべてが書かれたのか
書かれたすべてが「そこ」になるのか

 という不思議な反復が出てくる。問い返しが出てくる。
 あ、これは「ルビ」だな、と思う。「「そこ」ですべてが書かれたのか」という行の次に「書かれたすべてが「そこ」になるのか」と書かれているが、「書かれたすべてが「そこ」になるのか」というのは「「そこ」ですべてが書かれたのか」に対する「ルビ」である。
 そして、その中尾の「ルビ」というのは、普通の日本語表記の「ルビ」とは違って、単なる「読み方」ではない。「読み方」というよりは「意味」の付加、「意味」の攪乱(「意味」の破壊、再構築、脱構築)なのだ。
 こういう「ことばの音楽」は、うーん、「暮らし(生きている肉体)」からは生まれて来ないかもしれないぞ。生まれてくるとしたら「文学(書籍/印刷物)」、あるいは「辞書」からだろうなあ。冒頭の「辞書」に(diccionary)と「ルビ」を打たなければならないのは、こういうことと関係しているかもしれない。「辞書」(diccionary)という「ルビ」だけ、「窄み」(つぼみ)」「ようだ」(boader)、さらには4、5行目の「音」の重なり合いとは構造が違っているでしょ?
 この「暮らし(生きている肉体)」からは生まれて来ない音楽--それを中尾は「造花」の「造」に語らせているのかもしれない。自然に対して「人工」、自然に対する「技巧(わざと)」。「ルビ」よって「わざと」自然ではない音楽をつくる。(「わざと」に注目すれば、まあ、これは西脇順三郎のやろうとしたことの、21世紀風の継承ということになるのかもしれない。)

 で、中尾の詩が、膨大な「ルビ」の音楽であるということは、何となく(つまり感覚の意見として)私にはわかったのだが……。もちろん、私のわかったことは私の「誤読」であり、中尾の意図とは関係ないのだが。
 その「わかった」とを詩集全体を通してつかみなおそうとすると、私は、とても疲れてしまう。スピードが速い。情報量が多い。ついていけなくなる。これは私の「肉体」的な問題がつよく影響している。私は網膜剥離の手術をして、左目が極端に悪い。視力がない。このため、細かい文字を読むことができない。5行くらいならなんとかなるが1ページとなるとかなりむずかしい。全編(詩集全体)となると、モーツァルトの「レクイエム」を歌えと言われているような感じがする。そんなこと、音痴の私にできるわけがない、と音楽なら簡単に言えるけれど……。

 ことばとことばの出会い、そこからはじまる「音楽」には「ルビ」のほかにもある。その例も少しあげておく。46ページ「my flood, Kuro san」の書き出し。

リテラシー殺した言語の悪魔(マグマ)が目を覚ます
帽子を目深にかぶった鬼の目からアミダの街路、その排水路に向かって
二度か三度か折れ曲がって道を外れていく
次は誰かとサイを振り
犀川に狂う俺に当たれば
最悪のクロさんの思い出が一人目の涙の赤を塗りつぶす

 リテ「ラシー」「殺し」、「悪魔(マグマ)」「目深」、「アミダ」(書かれていないが、「涙」=目からこぼれるもの、6行目に反復される)、「サイ」「犀川」という「音」そのものの重なり。音遊び。
 「ルビ」が「印刷物」の音楽だとすれば、これは「口語」の音楽か。

 いずれにしろ、この「音楽」についていくには、私の肉体はむりである。そこに「音楽」があることがわかるけれど(音楽があるから楽しいのだけれど)、それを楽しむには私の肉体は老いぼれすぎていて、速度的に間に合わない。

 もっと目と耳のいいひとの感想(批評)を読んでみてください。私の感想は、中尾の詩を読むときの参考にならないだろうと思う。











a note of faith―ア・ノート・オブ・フェイス
中尾 太一
思潮社
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池井昌樹『冠雪富士』(31)

2014-07-22 09:44:49 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(31)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「企て」は、「あぶない」人間と間違えられたときのことを書いている。

さんぐらすしているとはいえ
あぶないものではありません
ちかごろめっくりめがよわり

 という1連目からはじまり、マスクをしているのは花粉症、頭陀袋をもっているのは昼の弁当のおむすびを入れているから、これから仕事に向かうところ……という具合に、いつものことばの調子で書かれている。
 そのあとで、

それでもあぶないあやしいと
それほどいぶかしまれるなら
あなたへこっそりうちあける

ばすのつくまでのつかのまに
ほんとうは
こんなあぶないくわだてを

それがなにかはいえないけれど
ほんとうに
こんなあやしいたくらみを

たったいま
あなたへおめにかけましょう
ささやかなこのことのはで

 「ことのは」でおめにかける「あやしいたくらみ」(あぶないたくらみ)とは詩のこと。「白洲」に書かれていた「あやしい」を引き継いでいる。でも、この詩を読む限りは、どこが「あやしい」のか、どこが「あぶない」のかはわからない。池井が自分で「あやしい(あぶない)」と言っているだけである。
 わからなくていいのだ。
 池井はいつでも「ほんとう」が「あやしい」「あぶない」ものだと知っている。その「ほんとう」につかまってまうと、逃げられない。池井そっくりの姿形、サングラスをかけてマスクをつけて、昼間は働き、夜は詩を書く--そういう60歳過ぎの男がしないようなことをひっそりとしなくてはならない。
 この静かにことばのなかには、そういう「脅し」がこめられている。
 その「脅し」を池井は「ささやか」と呼んでいる。

 ささやかではあるかもしれないが、「共感」するなよ、共感すると取りかえしがつかなくなるぞ、池井になってしまうぞ、と私はつけくわえておきたい。
谷川俊太郎の『こころ』を読む
谷内 修三
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(122)

2014-07-22 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(122)        

 「クレイトスの病い」は、前半と後半で世界ががらりと変わる。前半は美男で教養のあるクレイトスが熱病にかかったことが書かれている。青年俳優に恋をしていたのだが、失恋し、その気落ちを熱病が襲ったので、危篤状態に。両親はおろおろするばかりなのだが、乳母は……。

育てた乳母はいかにも年寄り。
だがひたすらクレイトスの生命を心配。
気もすずろになって
若い日この家の下女にならない前に
信仰してた偶像を思い出した。
ここは名高いキリスト者一家。
乳母もキリスト者なっていたが、
奉納のパンとワインと蜂蜜をこっそり持ち込み、
偶像に供えて、若い日の記憶のかすかに残る
呪文をきれぎれに唱えた。だが
乳母にはわかっちゃいなかった、黒色の魔神は
キリスト教徒が治ろうが治るまいが
知っちゃいないってことが。

 この後半も、その後半なのかで前半と後半に分かれる。前半は乳母の心配と行動を描き、後半で「黒色魔神」の主張が語られる。この「黒色魔神」の主張が強烈である。魔神が気に留めるのは彼を信仰する人々であって、キリスト教徒ではない。これはあたりまえのことだが、そのあたりまえのことをここで言わせているのは、この詩の時代、アレクサンドリアではキリスト教とギリシャでのそれまでの信仰が拮抗していたことを明らかにするためである。
 カヴァフィスは、この詩では、前半に若い男色を登場させ、男色の世界を描いているかのように装っている。失恋の失意と病気の追い打ちという悲劇を書いているというように装っている。
 しかし、カヴァフィスが気にしているのは、ひとりの若者の運命ではない。
 カヴァフィスが史実を材料に詩を書くとき、その史実と「現在」が重ね合わせられ、ギリシャの動き、カヴァフィスの思想を反映させているというのは中井久夫の指摘である。この詩には「史実」らしいことは見受けられないが(クレイトスがだれなのか、よくわからないが、架空の人物だろう)、この詩も「現実」と重ね合わせられていると思う。
 一方にキリスト教の世界があり、他方にギリシャの伝統宗教の世界がある。同じように、一方にトルコとの関係があり、他方にイギリスとの関係があるというギリシャの特有性。ギリシャ人を支えているのは何なのか--そういう問いが隠された詩なのだと思う。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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