詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジョン・タトゥーロ監督「ジゴロ・イン・ニューヨーク」(★★★)

2014-07-14 11:06:35 | 映画
監督 ジョン・タトゥーロ 出演 ジョン・タトゥーロ、ウッディ・アレン、バネッサ・パラディ


 映画を見ながら、40年ほど前の「さよならの微笑」というフランス映画を思い出しつづけた。似てるんだなあ、味わいが。
 「さよならの微笑」は二組の夫婦の話。一方は夫が浮気癖があり、他方は妻が浮気っぽい。で、取り残されたまじめな二人がなんとなく気心があって、恋愛し、もとの夫と妻を捨てて町を出て行くというストーリーなのだけれど、このストーリーの紹介だけではジゴロとは関係ないように見えてしまうねえ。
 どこが似ているか。
 ジョン・タトゥーロと「さよならの微笑」に出てきた男(名前は何?)が似ている。ジョン・タトゥーロは職業を転々としたあと、いまは花屋で働いているのだが、生け花が得意であり、またダンスも上手だ。生き方に幅があり、その幅の広さで女をゆったりと受け止める。セックスで金を稼いでいるというぎすぎすした感じがない。
 「さよならの微笑」に出てきた男は、次々に職業を変えている。その理由を男は「自分をひとつの枠のなかにとじこめたくない。いろいろな可能性を広げる」というようなことを言っていた。「ひとつの道」をきわめる、その道で社会に貢献するというのではなく、自分に何ができるかそれを楽しみながら生きている。それが、とても似ている。
 うーん、ヨーロッパ味だなあ。
 さらに、「さよならの微笑」では、女と男は、最初はたがいの不幸(?)によりそうように親密になる。ただし肉体関係はない。まわりが二人が親密だと知れ渡ってしまったあと、他人がセックスしていると思い込んでいるのなら、セックスしないでいるのは意味がない(?)と思いセックスし、さらに親しくなるのだが、そのストーリーの抱え込んでいる味が、またまた、似ているねえ。
 ジョン・タトゥーロはジゴロをやる一方、聖職者の未亡人と出会い、恋に落ちる。その恋が、他人から見ればセックスしているのであって恋ではないのだが、ふたりは逆にセックスはしないでほんとうに恋してしまう。ジョン・タトゥーロは女の肌に触れるが、それは背中である。キスもするが、性交まではしている感じではない。恋をしているから、セックスはしなくてもいいのだ。こころが触れ合っている。
 で、恋をすると。
 ジゴロができなくなる。レズビアンのカップルに3人でセックスしようと誘われ、その場に赴くのだが、実際に性交しはじめると、前のようには体が動かない。それを見て、シャロン・ストーンが「恋してるのね」という。そして、顔に触れ「美しい」とうっとりする。
 セックスしながら、セックスではなく恋にあこがれている。--これは、ジョン・タトゥーロの「意見(主張)」ではなくて、そこに登場する女の主張なのだが。
 この「主張」の出し方が、またまた「さよならの微笑」の味に似ている。
 男が主役であるようにみせかけて、味は女味。女の好みの味で統一されている。女はどんな男が好きなのか、ということが明確に描かれている。ストーリーにもどっていうと、女は自分の気持ちをわかってくれて、少しずつリードしてくれる男が好き。少しずつだと、どきどきしながらも安心する。ゆったりする。最初のジョン・タトゥーロとシャロン・ストーンのデートなんて、それが鮮明にでている。ゆったりはじまって、最後は何もかも忘れるくらい--というのが女の理想だね。
 で、この映画が「さよならの微笑」と違うのは、「女味」を中心に据えながら、それを「男味」で最後は隠しているところ。女ごころがわかるというのは、ちょっと恥ずかしいのかな? 恋する女に捨てられて、ジョン・タトゥーロはいったんは町を去る決意をするのだが、コーヒー店で出会ったフランスの女にちょっとこころを奪われ、またジゴロにもどってもいいかな、と、心が少年っぽい。成熟しない。永遠の未熟の魅力(?)で生きるウディ・アレンが、その未熟をそそのかしているのが、まあ、こっけいである。

 で、余談(?)になるのだが。
 この最後のオチに登場するフランス語(の女)、さらにヴァネッサ・パラディ(たしかフランス人だよね)は「フランス」味がこの映画に漂っているのも--やっぱり「さよならの微笑」につながるねえ。「さよならの微笑」を現代のアメリカ(ニューヨーク)に置き換えると、こんな感じになるのだろうなあ、とも思った。

 それにしても、ジョン・タトゥーロもウディ・アレンも女優のつかい方がうまい。シャロン・ストーンなんて、とんでもない役どころなんだけれど、ジョン・タトゥーロがセックスできなくなるのを見て「恋をしてるのね」と見抜き、顔がぱっと輝くシーンなんかすごいなあ。ジョン・タトゥーロの顔に触れながら「美しい」というときはさらに美しい。女から見れば、男はいつも少年。守ってやらないとだめなんだ--という感じなのかもしれないが、「美しい」と言われてジョン・タトゥーロの顔(目)が美男子に変わっていく一瞬もすばらしい。
 「ジゴロ」を題材にしながら、テーマは「女性味の恋愛」。で、思い出したが、ジョン・タトゥーロとのセックスを「アイスクリームの味にたとえるならどんな味?」「ピスタチオ」なんていう会話も、女性の味の好みを語っていておもしろいなあ。
 ウディ・アレンはジョン・タトゥーロの女の描き方に共感して出演したんだろうなあ。女の好みが同じなのだと思った。バネッサ・パラディの清純さと成熟の共存は「マンハッタン」のマリエル・ヘミングウェーに似ている。
                      (KBCシネマ2、2014年07月13日)


さよならの微笑 [VHS]
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大映
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池井昌樹『冠雪富士』(23)

2014-07-14 09:49:34 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(23)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「肩車」は、まず木登りから詩がはじまる。

きさえあったらさるのよう
おおよろこびでのぼったな
きだってよろこんでたもんな
あのえだのうえそのうえへ
いつでもはだしでのぼったな
ひやひやわくわくのぼったな

 「きだってよろこんでたもんな」という表現、自分と他者(木)の区別がなくなるとこが池井の特徴だが、この前半にはもう一つ池井の特徴がある。
 昔、中学生のころ、そのことに気がついていたが、長い間忘れていた。ふいに思い出した。「ひやひやわくわく」。この音の繰り返し。オノマトペ。これが池井の詩にはとても多い。オノマトペの定義はむずかしいが、「意味」にならないことを音にしたものという印象が私にはある。「意味」にならないことなら書かなくてもいいのかもしれないが、それを書きたいという欲望が池井にはある。意味以前の音、意味以前のことばということになるかな?
 「ひやひやわくわく」は、どちらかというと「意味」がとりやすい。つまり、「興奮して」とし「こわさを感じながらも好奇心にかられて」という具合に言いなおすことができるが、それよりももっと「意味」になりにくいオノマトペを池井はつかっていた。具体例を思い出せないのだが、オノマトペがでてきたら池井の詩である--という印象が、中学、高校時代の私の記憶である。
 で、このオノマトペ指向(嗜好?)と、池井のひらがなの詩は、深いところでつながっている。
 今引用した部分でいうと「のぼったな」ということばが3回、出てくる。6行のうち3行が「のぼったな」で終わっている。これは池井独特の「オノマトペ」のひとつなのだ。そこには「意味」はあるが、意味を書きたくて繰り返しているのではない。意味を強調したくて繰り返しているのではない。むしろ「意味」にならないことをいいたくて繰り返している。繰り返すことによって音に酔い、音に酔うことで意味を忘れ(意味を捨て去り)、その「意味」の向こうへたどりつこうとしている。
 「のぼったな」は、次の部分で、別の「オノマトペ」に席を譲る。

かたぐるまでもされたよう
そこからなんでもみえたっけ
しらないまちもしらないかわも
しらないさきまでみえたっけ

 「みえたっけ」が繰り返される。「しらない」が繰り返される。「のぼる」は「みえる」である。「のぼる」は「しらない」ところ(未体験へ)のぼる。「えだのうえのそのうえ」という存在しないところ(しらないところ)までのぼる。そして、その「しらない」ところから「みえる」のは、やっぱり「しらない」である。「のぼる」「みえる」「しらない」は三位一体(?)になって「意味」をつくるのだが、その「意味」を強調するのではなく、「意味」を音楽のなかに隠すように、おなじことばを池井は繰り返す。「意味」にすることを拒んでいる。「意味」にしてしまうと、「意味」以前が消えてしまうからだ。池井の書きたいのは、あくまでも「意味以前」なのだ。
 「意味以前」とは、いったい何なのか。
 詩はつづく。

ほんとにきもちよかったな

 「意味以前」は「きもちいい」であり「ほんと」なのだ。「意味」は「きもちいい」と「ほんと」を別なものに変えてしまう。

いまではだれものぼらない
きにはながさきはなはちり
いつもながらにあおばして
けれどもなんだかさびしそう
こだちもこどももさびしそう
しらないまちもしらないかわも
しらないさきもみえなくて
ひやひやもなくわくわくもなく
ひはのぼりまたひがしずみ

 「ほんと」と「きもちいい」は「さびしい」に変わってしまう。「意味」は「きもち」を「さびしい」に変える。「意味」は、その意味を主張するものの都合にあわせて世界を統合するとき、有効的に機能する。「意味」は「知らない」を封印し、「わかっていること」(知っていること)だけで世界を統一する。そして、合理的に世界が動く(支配できる)ようにするものである。--と、池井は書いているわけではないが、私は、かってにそこに私の考えをくっつけて、そう思っている。
 池井はそういう「意味」の窮屈さを否定し、「意味」以前、「知らない」けれど「見える」ものをことばとして引き継ごうとしている。残そうとしている。それが、池井にとっての詩の仕事だ。









冠雪富士
池井 昌樹
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(114)

2014-07-14 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(114)        

 「アレクサンドリアにて、紀元前三一年」はアントニウスとクレオパトラの連合艦隊がオクタウィウスの艦隊に敗れたときのことを書いている。「真先にアレクサンドリアに逃げ戻ったクレオパトラが勝利を偽装しようとしたのは史実である」と中井久夫は注釈に記している。
 カヴァフィスは、この史実を「敗北」ということばも「偽装」ということばもつかわずに書いている。

まち外れの村から
小間物屋がやってきた。
旅のほこりをそのままに
「えー、香料にゴム!」「極上のオリーブ油はいかが?」
「あなたのお髪に薫らす香水!」
通りを呼ばわり歩いた。
だが、このまちのざわめき、楽隊の音、行列、パレード--。
小間物屋の声などお呼びじゃない。

 小間物屋の声と町のざわめきの対比。小と大の無意味な比較。そして、「大」の方が大雑把な「楽隊の音、行列、パレード」に対して、小間物屋はあくまで「あなたのお髪に薫らす香水!」のように肉体に密着し、具体的だ。また、それよりまえの「旅のほこり」という疲労感が漂う表現が、この対比をよりくっきりしたものにしている。

群衆にこずきまわされ、引きずられ、
これはなんじゃと面食らった小間物屋は
たまらず聞いた--「いったい何がおっぱじまったんで?」
誰かにかつぎ挙げてもらったら壮大な宮殿が見えた。
「アントニウス、ギリシャに大勝」と大書してあった。

 最後の「大勝」と「大書(たいしょう)」のだじゃれが強烈だが、これは中井久夫の翻訳の妙。
 私がしかしいちばんおもしろいと感じるのは、小間物屋の「声」である。「いったい何がおっぱじまったんで?」。これも中井の「声」を聞きとる耳のよさがそのまま生きているが「おっぱじまる」という口語と、それをさらに口語っぽくしている「はじまったんで?」と「で」で終わる言い方がおもしろい。「ですか?」ということだが「か」という疑問をイントネーションであらわしている。書かれた文字なのに、その文字のなかに「声」がそのまま動いているところがリアルだ。
 このリアルさがあって、「壮大な宮殿」の嘘、「大勝」と書いた文字の大きさの嘘が際立つことになる。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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