詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹『冠雪富士』(24)

2014-07-15 10:00:30 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(24)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「揚々と」にも「肩車」と同じように、繰り返しが出てくる。「意味」だけ伝えるなら、繰り返す必要はない。そういうことばの動き方をする詩である。

きょうはもうはやくかえろう
こんなにくたびれはてたから
どんなさそいもことわって
どんなしごともなげうって
きょうはもうかえってしまおう
いつものみちをいつものように
いつものでんしゃをのりかえて
いつものようにいつものみちを
ようようとぼくはかえろう

 「もうかえろう」としか池井は言っていない。それも「いつも」と同じように帰るわけだから、わざわざ「いつものみち」とことわる必要もない。「意味」だけ書くのだったら。
 「意味」ではないもの、「意味」以前を書きたい。でも、どのことばの「意味以前」を書きたいのか。それはいちばん繰り返しの多いことばである。

いつも

 「いつも」ということばは誰もがつかう。そして誰もが「意味」を知っている。その「いつも」を「違う意味」で池井は書こうとしている。そしてその「違い」が「いつも」のなかから、つまり池井の「肉体(思想)」のなかから自然に生まれ出てくるのを待つために(生まれるのを誘うために)、池井は「いつも」を繰り返す。
 「いつも」はどう変わるか。

ようようとぼくはかえろう
やさしいあかりのともるまど
さかなやくけむりのにおい
なつかしい
わがやのまえもゆきすぎて
ゆめみるように
ひとりかえろう

 「いつも」なら「わがや」へ帰る。けれど、きょうは「いつも」のように「わがや」を通りすぎて、その先にある「どこか」へ帰る。その「どこか」は「ほんとのいつも」なのだ。「いつも」と人が一般的につかっている「意味」以前の、「ほんとのいつも」である。
 でも、それは、どんな「いつも」?
 はっきりとはわからない。けれど「なつかしい」何かだ。

なつかしい
わがやのまえもゆきすぎて

 この2行は流通言語として「意味」を考えると、とても矛盾している。「なつかしい」という気持ちが起きるのは、それから遠く離れているときである。毎日毎日帰っている我が家がなつかしいということは一般的にはありえない。長い間帰っていないふるさとの家(生家)ならなつかしいは「意味」として機能するが、毎日帰る家がなつかしいという人など、一般的にはいない。
 ということは、逆に言うと、この池井が書いている「なつかしい」は「流通言語」でいう「なつかしい」とは違うものなのだ。「意味」以前のものなのだ。
 そうであるなら「いつも」もまた流通言語の「いつも」とは違っている。
 流通言語ではない「いつも」と、流通言語ではない「なつかしい」が、この詩では出会っている。「意味」以前で、融合している。「いつも」と「なつかしい」は区別があって、区別がない。
 だから、詩は、次のように読み直すことができる。

きょうはもうかえってしまおう
「なつかしい」みちをいつものように
「なつかしい」でんしゃをのりかえて
いつものように「なつかしい」みちを
ようようとぼくはかえろう

 「なつかしい」は「いつもの」と書かれていた部分である。
 池井はその不思議な「いつも/なつかしい」が融合した世界へ「ひとり」で帰る。
 それは、その「いつも/なつかしい」が「ひとり」分の「領域」しかもたないからなのだ。

 これからあとは、説明するのがとても面倒くさいのではしょって書いてしまうが(説明するには、この詩だけではなく、複数の詩を例として引用しなければならなくなるから、私は面倒だと感じるのである)、この「いつも/なつかしい」は池井にとっての「放心」の「場」である。その「場」には池井ではない「誰か」が池井を見守っている。その池井を見守る視線を感じながら、池井は「見守られて存在すること」を永遠と感じ、永遠の中で「放心」する。「永遠」と一体になる。
 池井は、したがって(?)、ふたつの詩を書く。
 ひとつは、その「永遠」のなかで「放心」している詩。幸福な詩。
 もうひとつは、その「永遠」のなかで「放心」することを夢みる詩。夢の中で幸福になる詩。
 この作品は、後者である。それが証拠に、「ゆめみるように」と池井は書くのである。

谷川俊太郎の『こころ』を読む
谷内 修三
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(115)

2014-07-15 09:57:50 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(115)        

 「ヨアネス・カンタクゼノスが勝った」に関して中井久夫の注釈がある。カンタクゼノスがコンスタンティノポリスで戴冠式をあげた一三四七年は「トルコ在住のギリシャ人とギリシャ在住のトルコ人の強制相互移住の年である。」ギリシャ人もトルコ人も一族の切り開いた土地を捨てて母国へ帰られなければならなかった。そういう「ギリシャ人は、同じ立場のトルコ人の約三倍弱、一二五万人である。」そのひとりが語っている。

男は牧場と畑地を眺めた。
まだ我がものじゃある。
小麦に家畜に果樹園に。
向うは先祖代々の屋敷。
高価な家具よ、銀の器よ。

ああ、ちくしょう、みんな持ってゆきやがる。
今 みんな持ち去ってゆきやがる。

 「男」と第三者風に書きはじめて、その男がすぐに「我」になる。客観から主観に変わって、主観が主張しはじめる。このとき、「我が」は「私」だけにとどまらない。「我が家系」、あるいは「我々」へと変わる。
 これは私の印象だけかもしれないが、このときの「我」という主語の選択は、とてもおもしろい。もし、これが「私」「おれ」「ぼく」という主語だったら「我がものじゃ」は「私のものじゃ」「俺のものじゃ」「ぼくのものじゃ」になり、なんとなく、その主張が個人に限定されてみみっちく感じられる。「我が」といったとき、「我々」という複数がすぐに浮かぶのに対して「私」「おれ」「ぼく」は、そのことばを重ねて複数になることがない。「我」「我が」の方が、悲劇を共有しやすい。
 そういう「我」で土地や作物、家財をながめたあとで、「ああ、ちくしょう、みんな持ってゆきやがる。」と口語で、その悔しさを「我々」(複数)から「我」(個人)へと引き戻す。「我々」複数の悔しさ、怒りなのだが、怒りをみんなでわけもつというよりも、あくまで個人で持ちつづける。怒りは、怒りを組織化すると力になるが、単なる共有では「分散」になってしまう。怒りの分散は諦めである。それでは、悔しさにならない。
 組織化される前の怒りは、あくまで個人の「肉体」のなかでうごめく。暴れる。
 「悲劇」は共有され、哀しみという感情になる。けれど怒りは、共有されて新しい感情になるというのはむずかしいのかもしれない。怒りの組織化には、何か、怒りとは別の「哲学」が必要なのだろう。「我々」から分断された「我」の怒りは、奇妙にねじれる。

カンタクゼノスがあわれみをかけてくれるか?
行ってひざまずいてみようか?

 ぬけがけ。こういう庶民の声もカヴァフィスは聞きとる耳を持っていた。

カヴァフィス全詩集
コンスタンディノス・ペトルゥ カヴァフィス
みすず書房
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緊急お知らせ・「谷川俊太郎の『こころ』を読む」

2014-07-15 09:00:34 | 詩集
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」の販売に関する緊急お知らせ



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また思潮社からも直接購入できます。その際は送料が290円かかります。
思潮社は
162-0842 東京都新宿区市谷砂土原町3-15
         思潮社
電話(営業)03-5805-7501
FAK(営業)03-5805-7502
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