池井昌樹『冠雪富士』(24)(思潮社、2014年06月30日発行)
「揚々と」にも「肩車」と同じように、繰り返しが出てくる。「意味」だけ伝えるなら、繰り返す必要はない。そういうことばの動き方をする詩である。
「もうかえろう」としか池井は言っていない。それも「いつも」と同じように帰るわけだから、わざわざ「いつものみち」とことわる必要もない。「意味」だけ書くのだったら。
「意味」ではないもの、「意味」以前を書きたい。でも、どのことばの「意味以前」を書きたいのか。それはいちばん繰り返しの多いことばである。
「いつも」ということばは誰もがつかう。そして誰もが「意味」を知っている。その「いつも」を「違う意味」で池井は書こうとしている。そしてその「違い」が「いつも」のなかから、つまり池井の「肉体(思想)」のなかから自然に生まれ出てくるのを待つために(生まれるのを誘うために)、池井は「いつも」を繰り返す。
「いつも」はどう変わるか。
「いつも」なら「わがや」へ帰る。けれど、きょうは「いつも」のように「わがや」を通りすぎて、その先にある「どこか」へ帰る。その「どこか」は「ほんとのいつも」なのだ。「いつも」と人が一般的につかっている「意味」以前の、「ほんとのいつも」である。
でも、それは、どんな「いつも」?
はっきりとはわからない。けれど「なつかしい」何かだ。
この2行は流通言語として「意味」を考えると、とても矛盾している。「なつかしい」という気持ちが起きるのは、それから遠く離れているときである。毎日毎日帰っている我が家がなつかしいということは一般的にはありえない。長い間帰っていないふるさとの家(生家)ならなつかしいは「意味」として機能するが、毎日帰る家がなつかしいという人など、一般的にはいない。
ということは、逆に言うと、この池井が書いている「なつかしい」は「流通言語」でいう「なつかしい」とは違うものなのだ。「意味」以前のものなのだ。
そうであるなら「いつも」もまた流通言語の「いつも」とは違っている。
流通言語ではない「いつも」と、流通言語ではない「なつかしい」が、この詩では出会っている。「意味」以前で、融合している。「いつも」と「なつかしい」は区別があって、区別がない。
だから、詩は、次のように読み直すことができる。
「なつかしい」は「いつもの」と書かれていた部分である。
池井はその不思議な「いつも/なつかしい」が融合した世界へ「ひとり」で帰る。
それは、その「いつも/なつかしい」が「ひとり」分の「領域」しかもたないからなのだ。
これからあとは、説明するのがとても面倒くさいのではしょって書いてしまうが(説明するには、この詩だけではなく、複数の詩を例として引用しなければならなくなるから、私は面倒だと感じるのである)、この「いつも/なつかしい」は池井にとっての「放心」の「場」である。その「場」には池井ではない「誰か」が池井を見守っている。その池井を見守る視線を感じながら、池井は「見守られて存在すること」を永遠と感じ、永遠の中で「放心」する。「永遠」と一体になる。
池井は、したがって(?)、ふたつの詩を書く。
ひとつは、その「永遠」のなかで「放心」している詩。幸福な詩。
もうひとつは、その「永遠」のなかで「放心」することを夢みる詩。夢の中で幸福になる詩。
この作品は、後者である。それが証拠に、「ゆめみるように」と池井は書くのである。
「揚々と」にも「肩車」と同じように、繰り返しが出てくる。「意味」だけ伝えるなら、繰り返す必要はない。そういうことばの動き方をする詩である。
きょうはもうはやくかえろう
こんなにくたびれはてたから
どんなさそいもことわって
どんなしごともなげうって
きょうはもうかえってしまおう
いつものみちをいつものように
いつものでんしゃをのりかえて
いつものようにいつものみちを
ようようとぼくはかえろう
「もうかえろう」としか池井は言っていない。それも「いつも」と同じように帰るわけだから、わざわざ「いつものみち」とことわる必要もない。「意味」だけ書くのだったら。
「意味」ではないもの、「意味」以前を書きたい。でも、どのことばの「意味以前」を書きたいのか。それはいちばん繰り返しの多いことばである。
いつも
「いつも」ということばは誰もがつかう。そして誰もが「意味」を知っている。その「いつも」を「違う意味」で池井は書こうとしている。そしてその「違い」が「いつも」のなかから、つまり池井の「肉体(思想)」のなかから自然に生まれ出てくるのを待つために(生まれるのを誘うために)、池井は「いつも」を繰り返す。
「いつも」はどう変わるか。
ようようとぼくはかえろう
やさしいあかりのともるまど
さかなやくけむりのにおい
なつかしい
わがやのまえもゆきすぎて
ゆめみるように
ひとりかえろう
「いつも」なら「わがや」へ帰る。けれど、きょうは「いつも」のように「わがや」を通りすぎて、その先にある「どこか」へ帰る。その「どこか」は「ほんとのいつも」なのだ。「いつも」と人が一般的につかっている「意味」以前の、「ほんとのいつも」である。
でも、それは、どんな「いつも」?
はっきりとはわからない。けれど「なつかしい」何かだ。
なつかしい
わがやのまえもゆきすぎて
この2行は流通言語として「意味」を考えると、とても矛盾している。「なつかしい」という気持ちが起きるのは、それから遠く離れているときである。毎日毎日帰っている我が家がなつかしいということは一般的にはありえない。長い間帰っていないふるさとの家(生家)ならなつかしいは「意味」として機能するが、毎日帰る家がなつかしいという人など、一般的にはいない。
ということは、逆に言うと、この池井が書いている「なつかしい」は「流通言語」でいう「なつかしい」とは違うものなのだ。「意味」以前のものなのだ。
そうであるなら「いつも」もまた流通言語の「いつも」とは違っている。
流通言語ではない「いつも」と、流通言語ではない「なつかしい」が、この詩では出会っている。「意味」以前で、融合している。「いつも」と「なつかしい」は区別があって、区別がない。
だから、詩は、次のように読み直すことができる。
きょうはもうかえってしまおう
「なつかしい」みちをいつものように
「なつかしい」でんしゃをのりかえて
いつものように「なつかしい」みちを
ようようとぼくはかえろう
「なつかしい」は「いつもの」と書かれていた部分である。
池井はその不思議な「いつも/なつかしい」が融合した世界へ「ひとり」で帰る。
それは、その「いつも/なつかしい」が「ひとり」分の「領域」しかもたないからなのだ。
これからあとは、説明するのがとても面倒くさいのではしょって書いてしまうが(説明するには、この詩だけではなく、複数の詩を例として引用しなければならなくなるから、私は面倒だと感じるのである)、この「いつも/なつかしい」は池井にとっての「放心」の「場」である。その「場」には池井ではない「誰か」が池井を見守っている。その池井を見守る視線を感じながら、池井は「見守られて存在すること」を永遠と感じ、永遠の中で「放心」する。「永遠」と一体になる。
池井は、したがって(?)、ふたつの詩を書く。
ひとつは、その「永遠」のなかで「放心」している詩。幸福な詩。
もうひとつは、その「永遠」のなかで「放心」することを夢みる詩。夢の中で幸福になる詩。
この作品は、後者である。それが証拠に、「ゆめみるように」と池井は書くのである。
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