詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹『冠雪富士』(39)

2014-07-31 10:23:10 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(39)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「夕星」は「ゆうずつ」と読ませるのだろう。こんなことばを私はつかわない。つかわないけれど、出会った瞬間、あ、そういえば、そういうことばがあったなあ、と肉体の奥が揺さぶられる。肉体の奥から「ゆうずつ」という音(声)ともに薄暗いものがまわりから空へ立ち上って行く。そして、そのまだ暗くならない空に静かに光る星になってあらわれる、そういうことが起きる。ことばが情景をひきつれてくる。
 池井は、どうなのか。こんなふうに書いている。

たのもいちめんゆうやみがこめ
のびたきをするにおいがながれ
ぼくはとほうにくれてしまって
ぽつねんとたたずんでいた
おさないころのことだった
あのひとときがむかしになって
もうあとかたもなくなって
けれどこころのどこかしら
そのままそっくりのこっていて
だれのこころかしらないが
ゆうずつうかぶそらのした
ぽつねんとまだ
とほうにくれて

 「ゆうやみ」がまわりに広がる。そのとき池井が最初に感じるのが「におい」であるのは、何度か書いてきたが池井の「根源的な肉体」の反応である。「におい」を呼吸する(体内に取り入れ)、そのまま放心する(途方に暮れる/ぽつねんとたたずむ)のだが、そのあとの、

あのひとときがむかしになって
もうあとかたもなくなって
けれどこころのどこかしら
そのままそっくりのこっていて

 この4行が、書けそうで書けないなあ。
 「あのひとときがむかしになって」の「なって」、「なる」という動詞。それが「あとかたもなくなる」と変化していく。
 この変化は、とても微妙だ。
 「意味」としては、「あのひととき」と「むかし」は同じものだから、「むかしになる」の「なる」はいらない。「あのひとときは、もうあとかたもなくなって」と書いても「意味」はかわらない。
 でも、そうは、言えない。
 「学校作文」や「ジャーナリズムの節約表現」では省略(削除)してしまう、その「なる」という「動詞」を経ることによって、何か微妙なものが、そこに残る。「あのひととき」を思い出すとき、それは「いま」と変わりがない。「いま」のすぐ隣にあらわれてくる。それがすぐ隣よりもちょっと遠いところにある。それが「むかし」に「なる」かもしれない。その微妙な違い、ずれのようなものを意識するから、

けれどこころのどこかしら
そのままそっくりのこっていて

 という感じも生まれてくる。
 「のこっている」のは「なる」があるからだ。「あのひととき」と「むかし」はほんとうは「ひとつ」ではない。「ひとつ」ではないけれど「おなじ」なにかが、そこには「のこっている」。「なる」を超えて、何かが「つながっている」。
 「あのひととき」「むかし」の風景は「現実」からは「あとかたもなくなって」しまったが、池井はその風景を「こころ」のなかに呼び出すことができる--というよりも、「こころ」のなかに残っている風景が甦ってくる。
 その「こころ」を池井は、

だれのこころかしらないが

 と書き直している。自分の「こころ」。でも、それは「池井だけのこころ」ではないのだ。
 池井はいつでも「自分だけ」のことを書く。しかし、書いているとそれは「池井だけ」のことではなくなる。「だれ」のことなのか、わからなくなる。いや、池井はわかっている、自分のことだというかもしれないが、読んでいると、「池井」がくっきりとみえてくればくるほど、それは「池井」ではなくなる。知っている「池井」ではなく、新しい「池井」に生まれ変わっていることに気がつく。毎回、「新しく生まれ変わった池井」に出会うことになる。「だれ」かわからないけれど、池井とつながっている「生まれ変わった池井」に出会うことになる。



冠雪富士
池井 昌樹
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(131)

2014-07-31 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(131)        

 「二十三、四歳の青年ふたり」も男色を描いている。カフェでひとりが相手を待っている。十時半から待って一時半になっても(三時間過ぎても)あらわれない。三枚もっていた銀貨もなくなってくる。

コーヒーを飲みコニャクをすすって二枚が失せた。
シガレットも吸い尽くした。
長い長い待ちびと。心がずたずたに破れてゆくなあ。
こう何時間も独りでいると
道徳に背く自分の人生を
彼とて悩み出しもする。

 客観描写を「主観」が突き破る。「彼の心がずたずたに破れていく」ではなく、彼の「声」がそのままむき出しになる。この乱調のリズムがとてもおもしろい。中井久夫の訳のおもしろさだ。ふいに自分が詩の主人公になったような気持ちにさせられる。「……なあ」という口語の調子が複雑でとてもいい。自分のことなのに、はんぶん外から眺めているような「主観」の「倦怠感」のようなものもある。「主観」の「色」が強い。
 そういう強い「主観の色」のあとに、「彼とて悩み出しもする」とまた静かなことばが動くので、寸前の「心が……」の声が印象的になる。
 このあと、詩の調子はまた激変する。

だが友がきた。見えたとたん、
疲れも悩みも退屈もあっという間にまったく消えた。

 「友がきた。」という短い文が、それまでのリズムを断ち切る。見えたとたんと「友がきた」を別のことばで言いなおして、それから「疲れも悩みも……」と彼の心の変化(肉体の変化)を描くのだが、これは「客観」描写になるのだろうか、「主観」の描写になるのだろうか。「消えたよ」と文末に口語の「よ」を補うと、その前のことばの畳みかけがそのままこころの躍動になる。
 客観か主観かはよくわからないが、「……なあ」という口語の調子が消えて、状況が変わった感じが明確になる。二人の「場」の空気が、とてもよくわかる。

友の知らせ。何という棚ボタ。
六十リラ儲けた。カードでだ。

 悩みが消えて、こころが弾む。その躍動が、ことばを再び短くする。
 それから、愛欲へ走るふたり。そこからまたいつものカヴァフィスにもどる。「さあ、何もかも換気、生命、官能、魅惑。」というような修飾語のないことば。互いを知り合っているふたりには、個性的なことば、具体的なことばなど必要ないとでもいうように。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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