詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹『冠雪富士』(20)

2014-07-11 10:13:21 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(20)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「侏儒の人」は、池井が幼いときにみた「蕨餅売り」のことを書いている。池井の仲間はみなその蕨餅売りが好きだった。「老爺のままの姿で忽然と世に顕れた何かの精だと信じていた。」という文が出てくるが、ここにある「矛盾」を「矛盾」という意識もないままに、こどもは「矛盾」にひかれるものである。
 ひとはこの世にあらわれる、つまり生まれるときは赤ん坊である。そして、その赤ん坊が育ち、おとなになり、老人になる。ところが蕨餅売りは、老人のままの姿であらわれた。つまり、「時間」を超越しているのだ。「時間」は「老爺」のまま止まっている。その「止まっている時間」のなかへ、池井たちは蕨餅を食べることで入っていく。異界の体験である。

   黄粉を振り掛けたその玲瓏を私たちは夢中で頬張り嚥み込ん
だ。舟の底まで綺麗に舐った。それは息を詰め清冽を潜る禊のよう
な清しさだった。

 この「夢中」を池井は「禊」と呼んでいる。
 「矛盾」が、たぶん、池井たちを「いま/ここ」ではない世界(異界)へ連れて行く。そこはたぶん、「侏儒の人」を畸型から解放する「場」だ。そこにはただ「玲瓏」「綺麗」「清冽」というものが純粋なまま保たれている。
 そのとき「蕨餅」は、「侏儒の人」のように、その「場」を印づける「現実」であって、その「現実」を「肉体」で食べつくすとき、そこに「真実」があらわれる。「現実」と「真実」の区別がつかなくなる。「玲瓏」「綺麗」「清冽」は、それだけでは架空のものだが、「畸型」がぶつかると、「玲瓏」「綺麗」「清冽」から余分なものが落ちて「真実」になる--うーん、これでは抽象的すぎるか。しかし池井は、そこで「異なっているもの」がもっている「異なっていないもの」(矛盾)に触れたのだ。

 「侏儒の人」は何かを否定された人間である。けれど、その人はまた、否定されながら現実の何かを否定している。彼を否定する力を否定することで生きている。彼は彼自身の「いのち」を肯定している。そこには純粋な輝きがある。すべてをとろけさせる力がある。
 と、いうようなことも書きたいが、これでは「意味」になりすぎる。
 子どもは、そういう「意味」とは関係なしに、何かをつかむ。何かのなかにとろけて、一体になり、体にしみ込ませる。この感じが「舟の底まで綺麗に舐った。」に濃厚に広がっている。
 池井は、その肉体にしみ込んだものを「玲瓏」「綺麗」「清冽」ということばでしっかりととらえなおしている。そして絶対に手放さない。

 夏がくるたびに、池井は蕨餅売りの老人を思い出し、その老人について考える。彼はどこで、どうしていたのだろう。

            恐らく生涯独身で、貧しい生計のため蕨
餅を丹精し続けるだけの長い孤独な歳月。大人なら誰もが良く察し
ていただろうその境遇を、子どもは何も知らなかった。けれど子ど
もは皆知っていた。あの人は、私たちへ善きことを為すためにのみ
遣わされた者--美しい精だったと。

 大人は知っている、けれど子どもは知らない。これは侏儒の人を「老爺」のまま生まれてきたと子どもが思うのと似ている。そんなことはない。大人は知っている。どうやって生きてきたかを知っている。けれど、そのどうやって生きてきたかを知らない子どもは、彼が生きてきたとに感じる苦悩(矛盾を乗り越えて生きるときの苦悩)を根底で支えているものが「玲瓏」「綺麗」「清冽」であることを知っている。それを教えるために、この世にやってきたと知っている。
 何か美しい祈りのようなものが、彼を生かしている。
 それを「意味」ではなく、「肉体」で直感的につかみとり、蕨餅を「舟の底まで綺麗に舐る」ようにして、子どもは味わい尽くすのだ。その、「意味」になる前の「いのち」のあり方を、池井は思い出している。

                  その鈴の音、疳高い呼び声
を思い出すたび、この世のものの他にない胸の何処か、この世のも
のとも思われぬあのときめきと清しさがまだ息づいているようで、
良い齢をして、涙ぐましくなってくるのだ。

 「この世のものの他にない胸の何処か」「この世のものとも思われぬあのときめき」にも、「矛盾」があり、その「矛盾」が美しさがそこにあると告げる。相いれぬものがぶつかり、そのぶつかるという「行為/瞬間」のなかで、まだ「ことば」にならないものが生まれては消えていく。
冠雪富士
池井 昌樹
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(111)

2014-07-11 10:10:20 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(111)        2014年07月11日(金曜日)

 「ニコメディアのユリアノス」については中井久夫が注釈で、ユリアノスは公式にはキリスト教徒であったが、ひそかに異教の儀式にこころを傾けていた。そして精神的にはキリスト教徒であると示すことが安全であった、と書いている。ニコメディアにユリアノスがいたのは二十歳の時であった、マクシムスはユリアノスに魔術を手ほどきしたとも書いている。
 そのユリアノスにガルスという男が進言する。その様子を中井久夫は、描写と進言を区別せずに訳出していて、これが不思議なリズムになっている。

ユリアノスの寵臣らはみなアホウ。
マルドニアスの曰く、行き過ぎもいいところでございます。

噂の広まらぬよう、なんとしてでもいたすべきです。
そこでユリアノスはニコメディアの教会に参詣。

 まるで劇を見るよう。いや、ト書きつきの劇の台本を読むようだ。カヴァフィスの詩の劇的要素を、中井久夫は「アホウ」というような口語をまじえながら詩に引き戻している。「アホウ」と「……ございます」「……です」という丁寧な言い回しが向き合って、複数の人間が動き回っている感じがいきいきと伝わる。
 複数の人間を感じさせた上で、詩は展開する。

また下から二位の聖職者に身をやつして、
いともうやうやしく、聖書を大声で読んだ。

そのキリスト者になっての
敬虔さ加減にみんなは呆れっぱなし。

 ユリアノスの思惑がどうだったのかは別にして、その行動を「みんな」が侮蔑していたことがわかる。ユリアノスが何のためにそういうことをしているのか、「みんな」わかっていた。「そのキリスト者になっての」の「なっての」(ふりをしての)という冷めた見方が強烈である。「みんな」は知らないと思っていたのはユリアノスだけである。
 そういう状況のときの、大衆(みんな)の心の動き(主観)が、この詩をいきいきさせている。「呆れっぱなし」は、その大衆の肉体で表現した声である。ことばにしなくても肉体(態度)にあらわれてしまう「本心(本音)」あるいは「主観」というものがある。それはときとしてことばよりも明確である。
 カヴァフィスは個人の主観を強烈に描き出すことが多いが、こんなふうに「大衆」の無言の声をもはっきりと聞き取り再現する耳(眼)を持っていた。
 中井久夫は、またカヴァフィスと同じように、複数の人間の声を聞きとる耳と、聞きとった声を再現する声を持っている。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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