池井昌樹『冠雪富士』(20)(思潮社、2014年06月30日発行)
「侏儒の人」は、池井が幼いときにみた「蕨餅売り」のことを書いている。池井の仲間はみなその蕨餅売りが好きだった。「老爺のままの姿で忽然と世に顕れた何かの精だと信じていた。」という文が出てくるが、ここにある「矛盾」を「矛盾」という意識もないままに、こどもは「矛盾」にひかれるものである。
ひとはこの世にあらわれる、つまり生まれるときは赤ん坊である。そして、その赤ん坊が育ち、おとなになり、老人になる。ところが蕨餅売りは、老人のままの姿であらわれた。つまり、「時間」を超越しているのだ。「時間」は「老爺」のまま止まっている。その「止まっている時間」のなかへ、池井たちは蕨餅を食べることで入っていく。異界の体験である。
この「夢中」を池井は「禊」と呼んでいる。
「矛盾」が、たぶん、池井たちを「いま/ここ」ではない世界(異界)へ連れて行く。そこはたぶん、「侏儒の人」を畸型から解放する「場」だ。そこにはただ「玲瓏」「綺麗」「清冽」というものが純粋なまま保たれている。
そのとき「蕨餅」は、「侏儒の人」のように、その「場」を印づける「現実」であって、その「現実」を「肉体」で食べつくすとき、そこに「真実」があらわれる。「現実」と「真実」の区別がつかなくなる。「玲瓏」「綺麗」「清冽」は、それだけでは架空のものだが、「畸型」がぶつかると、「玲瓏」「綺麗」「清冽」から余分なものが落ちて「真実」になる--うーん、これでは抽象的すぎるか。しかし池井は、そこで「異なっているもの」がもっている「異なっていないもの」(矛盾)に触れたのだ。
「侏儒の人」は何かを否定された人間である。けれど、その人はまた、否定されながら現実の何かを否定している。彼を否定する力を否定することで生きている。彼は彼自身の「いのち」を肯定している。そこには純粋な輝きがある。すべてをとろけさせる力がある。
と、いうようなことも書きたいが、これでは「意味」になりすぎる。
子どもは、そういう「意味」とは関係なしに、何かをつかむ。何かのなかにとろけて、一体になり、体にしみ込ませる。この感じが「舟の底まで綺麗に舐った。」に濃厚に広がっている。
池井は、その肉体にしみ込んだものを「玲瓏」「綺麗」「清冽」ということばでしっかりととらえなおしている。そして絶対に手放さない。
夏がくるたびに、池井は蕨餅売りの老人を思い出し、その老人について考える。彼はどこで、どうしていたのだろう。
大人は知っている、けれど子どもは知らない。これは侏儒の人を「老爺」のまま生まれてきたと子どもが思うのと似ている。そんなことはない。大人は知っている。どうやって生きてきたかを知っている。けれど、そのどうやって生きてきたかを知らない子どもは、彼が生きてきたとに感じる苦悩(矛盾を乗り越えて生きるときの苦悩)を根底で支えているものが「玲瓏」「綺麗」「清冽」であることを知っている。それを教えるために、この世にやってきたと知っている。
何か美しい祈りのようなものが、彼を生かしている。
それを「意味」ではなく、「肉体」で直感的につかみとり、蕨餅を「舟の底まで綺麗に舐る」ようにして、子どもは味わい尽くすのだ。その、「意味」になる前の「いのち」のあり方を、池井は思い出している。
「この世のものの他にない胸の何処か」「この世のものとも思われぬあのときめき」にも、「矛盾」があり、その「矛盾」が美しさがそこにあると告げる。相いれぬものがぶつかり、そのぶつかるという「行為/瞬間」のなかで、まだ「ことば」にならないものが生まれては消えていく。
「侏儒の人」は、池井が幼いときにみた「蕨餅売り」のことを書いている。池井の仲間はみなその蕨餅売りが好きだった。「老爺のままの姿で忽然と世に顕れた何かの精だと信じていた。」という文が出てくるが、ここにある「矛盾」を「矛盾」という意識もないままに、こどもは「矛盾」にひかれるものである。
ひとはこの世にあらわれる、つまり生まれるときは赤ん坊である。そして、その赤ん坊が育ち、おとなになり、老人になる。ところが蕨餅売りは、老人のままの姿であらわれた。つまり、「時間」を超越しているのだ。「時間」は「老爺」のまま止まっている。その「止まっている時間」のなかへ、池井たちは蕨餅を食べることで入っていく。異界の体験である。
黄粉を振り掛けたその玲瓏を私たちは夢中で頬張り嚥み込ん
だ。舟の底まで綺麗に舐った。それは息を詰め清冽を潜る禊のよう
な清しさだった。
この「夢中」を池井は「禊」と呼んでいる。
「矛盾」が、たぶん、池井たちを「いま/ここ」ではない世界(異界)へ連れて行く。そこはたぶん、「侏儒の人」を畸型から解放する「場」だ。そこにはただ「玲瓏」「綺麗」「清冽」というものが純粋なまま保たれている。
そのとき「蕨餅」は、「侏儒の人」のように、その「場」を印づける「現実」であって、その「現実」を「肉体」で食べつくすとき、そこに「真実」があらわれる。「現実」と「真実」の区別がつかなくなる。「玲瓏」「綺麗」「清冽」は、それだけでは架空のものだが、「畸型」がぶつかると、「玲瓏」「綺麗」「清冽」から余分なものが落ちて「真実」になる--うーん、これでは抽象的すぎるか。しかし池井は、そこで「異なっているもの」がもっている「異なっていないもの」(矛盾)に触れたのだ。
「侏儒の人」は何かを否定された人間である。けれど、その人はまた、否定されながら現実の何かを否定している。彼を否定する力を否定することで生きている。彼は彼自身の「いのち」を肯定している。そこには純粋な輝きがある。すべてをとろけさせる力がある。
と、いうようなことも書きたいが、これでは「意味」になりすぎる。
子どもは、そういう「意味」とは関係なしに、何かをつかむ。何かのなかにとろけて、一体になり、体にしみ込ませる。この感じが「舟の底まで綺麗に舐った。」に濃厚に広がっている。
池井は、その肉体にしみ込んだものを「玲瓏」「綺麗」「清冽」ということばでしっかりととらえなおしている。そして絶対に手放さない。
夏がくるたびに、池井は蕨餅売りの老人を思い出し、その老人について考える。彼はどこで、どうしていたのだろう。
恐らく生涯独身で、貧しい生計のため蕨
餅を丹精し続けるだけの長い孤独な歳月。大人なら誰もが良く察し
ていただろうその境遇を、子どもは何も知らなかった。けれど子ど
もは皆知っていた。あの人は、私たちへ善きことを為すためにのみ
遣わされた者--美しい精だったと。
大人は知っている、けれど子どもは知らない。これは侏儒の人を「老爺」のまま生まれてきたと子どもが思うのと似ている。そんなことはない。大人は知っている。どうやって生きてきたかを知っている。けれど、そのどうやって生きてきたかを知らない子どもは、彼が生きてきたとに感じる苦悩(矛盾を乗り越えて生きるときの苦悩)を根底で支えているものが「玲瓏」「綺麗」「清冽」であることを知っている。それを教えるために、この世にやってきたと知っている。
何か美しい祈りのようなものが、彼を生かしている。
それを「意味」ではなく、「肉体」で直感的につかみとり、蕨餅を「舟の底まで綺麗に舐る」ようにして、子どもは味わい尽くすのだ。その、「意味」になる前の「いのち」のあり方を、池井は思い出している。
その鈴の音、疳高い呼び声
を思い出すたび、この世のものの他にない胸の何処か、この世のも
のとも思われぬあのときめきと清しさがまだ息づいているようで、
良い齢をして、涙ぐましくなってくるのだ。
「この世のものの他にない胸の何処か」「この世のものとも思われぬあのときめき」にも、「矛盾」があり、その「矛盾」が美しさがそこにあると告げる。相いれぬものがぶつかり、そのぶつかるという「行為/瞬間」のなかで、まだ「ことば」にならないものが生まれては消えていく。
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