詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

和田まさ子『なりたいわたし』

2014-07-25 09:55:07 | 詩集
和田まさ子『なりたいわたし』(思潮社、2014年07月15日発行)

 和田まさ子の作品については何度かこの「日記」で書いている。そのとき取り上げなかった作品を取り上げようと思ったけれど、むりにあれこれ考えるのは嫌いなので、前に取り上げた作品についてまた書いてしまう。「生きる練習」と「皿」が、私は好きだ。
 「生きる練習」のなかほど。

私はいまサバの味噌煮になっている
サバは好きでもないが
与えられた仕事はしなければならないだろう
生きるために冷凍庫から冷蔵庫に入るしかなく
カチカチのものが
徐々にできたてのものになっていくために時間を逆走する
あるいはそれは再生の試み

 「サバの味噌煮」といっても、できたてのものではなく、和田がなっているのは一度できあがって冷凍保存されている「サバの味噌煮」。なぜ、そんなものになっているか、ということは問うたってしようがない。和田はなぜ女のなのか、と問うたって仕方がないのに似ている。それは変更がきかない何かなのだ。変更がきかないことを聞いたって仕方がない。
 で、「冷凍のサバの味噌煮」与えられた仕事というのは、食べられる柔らかさになって、食べられてしまうということなのだろうけれど。

生きるために冷凍庫から冷蔵庫に入るしかなく

 たとえば、この行の「冷凍庫から冷蔵庫に入る」という部分が、私はとても好き。ぞくぞくしてしまう。冷凍のサバの味噌煮をやわらかくする方法は、何も「冷蔵庫に入る」こととはかぎらない。「冷水」にひたしたっていいだろうし、凍ったままをフライパンで温めてもいいはず。でも、和田は冷蔵庫に入る方を選んでいる。その選択に、和田の「暮らし」が見える。和田の「肉体」が見える。「思想」が見える。そうか、和田はじっくりと時間をかける人間なんだなあ、と思う。時間がかかることを気にしないのだ。
 時間が気にならないから、サバの味噌煮のなかへ微速度で入っていく。変化を微速度で再現して見せる。

どこから解凍されるのか考える
わたしは味噌汁の汁に浸かって
ビニール袋に個梱包されている
はじめに味噌の汁が融けてくるのか
あるいはわたしの背の皮から少しずつ融けるのだろうか

 あ、そんなこと「考える」必要があるの?
 まあ、ないね。考えなくたって、どこかからか融けはじめる。そのことにかわりはない。でも考えたい。
 うーん、そうなのか。
 何かになるということは、何かを考えるということなのか。そして、それはたぶん、自分ではないものについて考えることだね。--ちょっと、めんどうくさいことを書いてしまったかな?
 和田は「冷凍のサバの味噌煮」になった、そしていま解凍されていると書いているのだが、和田が「なる」というとき、それは「考える」ことと同じなのだ。サバの味噌煮になってしまったのなら、何も考えなくてもいいじゃないか、どうせ食べられるだけなんだから……というのではなく、自分ではなくなったからこそ和田は「考える」のである。
 で、「考える」というのは、どういうことかというと。
 私は面倒くさがり屋なので、感覚の意見にしたがって、飛躍して書いてしまうが、「考えるとは、ことばがどんなふうに動いて行けるかを確かめること」なのである。
 もし、わたしがサバの味噌煮になったら、ことばはどんなふうに動いて行けるか。何を手がかりに、どこへ動いていくのか、それを確かめることが「考える」ということだ。そして考えるとき、その手がかりにするのが和田の場合、暮らしである。暮らしのなかで身に着けたこと(観にしみ込んでいること)を手がかりに和田はことばを動かす。その、暮らしへの密着感がとてもおもしろい。
 知らないことを(たとえばサバの味噌煮になるという未体験のことを)、知っていること、おぼえていること、肉体にしみ込んでいることから見つめかえす。冷凍したものを解凍するとき、あれはどこから融けたっけ……。固体のまわりの液体部分? まわりが融けて液体になるのか、液体が先に融けて固体へ進入していくのか……。そのとき和田は、暮らしを思い返すことはしても、よそから「知識」を借りてくることはない。
 繰り返しになるが……。冷凍のサバの味噌煮が解凍されて、融ける。そのときその「融ける」はどこからはじまるのか。それを「考える」。実際に「体験」するまえに、何かが「融ける」というときの動きを思い出して、それをあてはめてみる。「肉体」がおぼえていることを思い出しながら、まだ起きていないことをことばとして動かしてみる。「科学」のことばも、「現代思想」のことばも借りずに、和田は自分の「暮らし」をふりかえる。暮らしを借りてくると言い換えてもいい。
 そのとき「肉体のおぼえていること」と「未知のこと」が出会う。出会いながら、その「未知のこと」を「おぼえていること」でととのえようとする。まるで、ことばをととのえて「未知」を描き出せば、「こと」はそのとおりに起こると信じているかのように。
 たぶん、私たちは、新しいことをするとき、そんなふうにしてるんだろうなあ、と思う。和田は、そういうことを書いているのではなく、サバの味噌煮が融けるときのことを書いているのだが、そのありふれたことが、何か非日常、未知のことのように見えてくる。「考える」という運動のなかで、何か忘れていたものが「肉体」の奥から甦って、「肉体」をくすぐる。私はくすぐったがり屋なので、笑ってしまう。そして笑っているうちに、それが「肉体」の反応ではなく、「こころ」まで笑いに感染してしまう。「ああ、おかしい」と思ってしまう。
 この「おかしさ」「笑い」が詩なんだろうなあ。(あ、飛躍したかな?)

味噌の中は塩辛くてひりひりするのか
ねっとりとした感覚は心地よいのか
わたしがここにいるとはだれも知らないのだが
もうそれはどうでもいいことで
さあこれからは
解凍されるのを感じていくのだ

 「考える」がいつの間にか「感じる」と動詞が変わっていくのだが、どうしてだろう。「ひりひり」するのか、「ねっとり」するのか、とことばが「肉体」に則して動くからだろう。自分の「肉体」を基準にして、その「肉体」に起きる変化を見つめるからだろう。ここでは和田は「融ける」を考えているのではなく、それといっしょにある「肉体」を考えている。「肉体」にこだわっている。「肉体」を思い出している。「非日常(ありえないこと)」を書きながら、和田は「肉体」を離れない。むしろ「肉体」の奥へと引き返していく。「肉体」のなかでことばを動かす。こういう、「肉体」を離れない「思想」は強いなあ、と感じる。


なりたいわたし
和田 まさ子
思潮社
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池井昌樹『冠雪富士』(33)

2014-07-25 09:52:49 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(33)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「赦されて」。これも同じように「歌」なのだが、

ぼくはなんにもできなかったし
なんにもしてやれなかったし
そのうえなんにもおぼえてないし
どんなばちでもあたっていいのに
どこかではなのにおいがし
やさしいにおいがながれてき
みんなすっかりわすれはて
きれいさっぱりわすれはて
ここはいったいどこいらの
いったいいまはいつころか

 こういうことは、だれにでも思い当たることがあると思うけれど(思うことがあると思うけれど)、よく考えると不思議なことではないだろうか。
 「なんにもおぼえていない」のに「ぼくにはなんにもできなかった」「なんにもしてやれなかった」ということは覚えてる。どうして「できなかった」「してやれなかった」は覚えているのだろう。
 こんなことを書くと「揚げ足取り」をしているみたいだが、そうではなくて、これは意外と重要なことなのではないか、と思う。
 これを「論理的(?)」に問いつめていくと、きっと「間違い」にたどりついてしまう。「論理的」に考えずに、ただ、そうだね、そういうことがあるね、と受けてとめればいいのだけれど--そう知っているけれど、私は少し「理屈」をこねてみたい。

 「できなかった」「してやれなかった」を覚えているのは、ほんとうは「したかった」ことを覚えているということではないだろうか。
 でも、その「したかったこと」とは何だろう。

どこかではなのにおいがし
やさしいにおいがながれてき

 これが「したかった」こと。
 はなのにおい、やさしいにおいといっしょにあること、それをしたかった、してやりたかった。
 これでは、やっぱり何のことがわからないのだが……。

 わからないことは、わからないまま、ぼんやりとほうっておく。そうした上で、思いついたことを書くと、ここに書かれている「におい」。そのことばに、私は、池井の「本質」のようなものを感じる。(ここから、「屁理屈」を言ってみたいのだ、きょうの私は。)
 池井は基本的に「嗅覚」の人間である。嗅覚の詩人だ。
 そこにある「空気」を吸い込み、吐き出し、つまり呼吸して、そこにある空気と一体になる。そのときに「幸福」を感じる。
 色や音や手触りで幸福を感じるのではなく、そこにあるものを「呼吸」し、その「匂い」にすっぽりと包まれる(同時に、その匂いを池井の肉体でつつむ)ときに、「幸福」を感じる。そういう「幸福」のなかにいたかった。そして、誰かに対しては、そういう「幸福」をいっしょに分かち合いたかった。それがしたかったことなのだ。「空気」を吸い込むとき、呼吸するとき、その「空気」というものは、そこにいるすべてのひとに区別なく分け与えられている。この見境のなさ、それが「幸福」である。
 「見境がない」というのは、別のことばで言えば、「空気」は勝手に存在しているということでもある。

 ここから、私はちょっと飛躍する。(かなり飛躍する。そして、強引に、飛躍を「地続き」にしてしまう。屁理屈で……。次のように。)

 「なんにもおぼえていない」のに、いま、ここで感じているものが、「はなのにおい」「やさしいにおい」であることがわかる。「におい」(嗅覚)は人間のもっとも原始的な感覚であり、最後まで記憶に残っているそうだが、池井はその「におい」を忘れることができずにいる。そして「におい」が甦るとき、「におい」のなかから「はなの」と「やさしい」があらわれてくる。形をとる。
 それは、池井の存在とは別に、勝手に存在している。
 池井がどう感じていようが、その感じていることとは無関係に「におい」のなかに、「はな」は存在し「やさしい」は存在している。この「はな」や「やさしい」の勝手さを、「非情」ということもできるし「永遠」と呼ぶこともできる。
 「非情」と私が呼んでしまうのは、「はな」も「やさしい」も池井の「情」とは無関係だからである。「永遠」と呼んでしまうのは、それが池井の存在している「時間」とは無関係の別の時間に属しているからである。
 池井は何にもおぼえていないと書きながら、その非情/永遠の存在だけはしっかりおぼえている。忘れることができない。
 それを「におい」を嗅ぐように、呼吸したい。

 そう思ったとき、また、別のことにも気がつく。
 池井はいつだって「どこかではなのにおいがし/やさしい匂いがなかれてき」ということを体験している。池井はその「幸福」から離れて生きることができない人間なのである。だからこそ、誰かに対して「なんにもできなかったし」、誰かに対して「なにんもしてやれなかった」という思いが募る。
 それは、また池井が誰かから「何かをしてもらった」ということは、忘れることなくおぼえているということでもある。

なんだかなつかしいひざに
しどけなくただあまたれて
びろうどばりのあるばむの
せぴあいろしたいちまいに
もうあとかたもないものたちと
うまれてまもないこのぼくと
ぼくだけいまにもなきそうに
あらぬかたみて

 これは池井の子どものときの記憶である。「おぼえていること」である。
 池井は家族に愛されていた。家族の愛につつまれていた。それは「はなのにおい」につつまれること、「やさしいにおい」につつまれることと同じである。
 しかし、そういうときも、池井は、そこにある「におい」だけでは満足せずに、「あらぬかた」を「みて」いる。
 「どこかではなのにおいがし/やさしいにおいがながれてき」ているのを感じている。ものごころのつかない先から。「永遠/非情」に見つめられ、見つめかえし、その「におい」を感じている。

 池井は詩人であることを「赦されて」いる。いま、そうなのではなく、生まれたときから、「赦されて」ている。「赦されて」いる人間だけが感じる「苦悩」のなかに池井はいる。
 「宿命」とか「運命」というものを私は信じるわけではないが、池井の詩を読むと、そこに何か「必然」を感じてしまう。詩人の「必然」。私なんかとは無縁の「必然」の美しさを感じてしまう。


詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(125)

2014-07-25 09:49:32 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(125)        2014年07月25日(金曜日)

 「タベルナにて」は失恋した男の「声」を書いている。

ベイルートのタベルナ、あいまい宿をはいずりまわる私。
アレクサンドリアに いたたまれなかった。
タミデスに去られた。ちくしょう。
手に手を取って 行ってしまった、長官の息子めと。
ナイルのほとりの別荘がほしいためだ。市中の豪邸だもな。

 途中にはさまれた「ちくしょう。」が美しい。短くて、響きが強い。次の行の「息子め」の「め」もいい。「息子」と言うだけでは言い足りない。けれど、長々しくは言いたくない。「め」に「主観」が炸裂する。
 「ナイル……」以下のことばは、長い。一行目の「はいずりまわる」ということばそのままに、「理由」を求めてはいずりまわっている。そこには「声」の強さがない。「主観」がない。--というのは、変な言い方かもしれないが、「理由」をつけて自分を納得させようとする「弱い」何かが動いているだけだ。「理由」はいわば「客観」であり、それは「主観の声」を弱めてしまう。
 ここから「抒情」がはじまる。「弱い主観の声(声の主観の弱々しさ)」が共感を求めてさまようとき、それは「抒情」になる。
 失恋した(捨てられてしまった)男の「救い」とは……。

いちばん花のある子だったタミデスが まる二年
私のものだった。あまさず 私のものだった。
しかも邸やナイルに臨む別荘目当てじゃなかったってこと。

 豪邸やナイルの近くの別荘目当てではなく、タミデスが「永遠にあせない美のような、わが身体」が目当てだったと、思い込んでいる。そう思えることが「救い」なのだ。
 だが、これはほんとうだろうか。
 この「救い」は私には、どうも「嘘」に思えて仕方がない。豪邸と別荘をもたない自分には、かわりに美しい身体がある--というのだが、それがほんとうに美しいのなら(魅力的なら)タミデスは去らないだろう。「私」は「永遠にあせない美」と思っているが、それは「豪邸」と「別荘」の前に瞬時に消えてしまった。
 タミデスが「私」にそういうものを求めなかったのは、そのときは、そういうものが存在すると知らなかっただけである。そういう「肉体」以外のもので誘ってくる人間がいると知らなかっただけである。そういう「残酷な事実」を隠して、「論理的な分析」で自分をごまかす--そこに「抒情」のいやらしさがある。
 それは人間のいちばん弱い「声」をゆさぶってくる。「これなら自分にも言える声」と思わせる「声」で共感を求めて、すり寄ってくる。これなら他人に同情(共感)してもらえるかもしれないとささやきながら。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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