和田まさ子『なりたいわたし』(思潮社、2014年07月15日発行)
和田まさ子の作品については何度かこの「日記」で書いている。そのとき取り上げなかった作品を取り上げようと思ったけれど、むりにあれこれ考えるのは嫌いなので、前に取り上げた作品についてまた書いてしまう。「生きる練習」と「皿」が、私は好きだ。
「生きる練習」のなかほど。
「サバの味噌煮」といっても、できたてのものではなく、和田がなっているのは一度できあがって冷凍保存されている「サバの味噌煮」。なぜ、そんなものになっているか、ということは問うたってしようがない。和田はなぜ女のなのか、と問うたって仕方がないのに似ている。それは変更がきかない何かなのだ。変更がきかないことを聞いたって仕方がない。
で、「冷凍のサバの味噌煮」与えられた仕事というのは、食べられる柔らかさになって、食べられてしまうということなのだろうけれど。
たとえば、この行の「冷凍庫から冷蔵庫に入る」という部分が、私はとても好き。ぞくぞくしてしまう。冷凍のサバの味噌煮をやわらかくする方法は、何も「冷蔵庫に入る」こととはかぎらない。「冷水」にひたしたっていいだろうし、凍ったままをフライパンで温めてもいいはず。でも、和田は冷蔵庫に入る方を選んでいる。その選択に、和田の「暮らし」が見える。和田の「肉体」が見える。「思想」が見える。そうか、和田はじっくりと時間をかける人間なんだなあ、と思う。時間がかかることを気にしないのだ。
時間が気にならないから、サバの味噌煮のなかへ微速度で入っていく。変化を微速度で再現して見せる。
あ、そんなこと「考える」必要があるの?
まあ、ないね。考えなくたって、どこかからか融けはじめる。そのことにかわりはない。でも考えたい。
うーん、そうなのか。
何かになるということは、何かを考えるということなのか。そして、それはたぶん、自分ではないものについて考えることだね。--ちょっと、めんどうくさいことを書いてしまったかな?
和田は「冷凍のサバの味噌煮」になった、そしていま解凍されていると書いているのだが、和田が「なる」というとき、それは「考える」ことと同じなのだ。サバの味噌煮になってしまったのなら、何も考えなくてもいいじゃないか、どうせ食べられるだけなんだから……というのではなく、自分ではなくなったからこそ和田は「考える」のである。
で、「考える」というのは、どういうことかというと。
私は面倒くさがり屋なので、感覚の意見にしたがって、飛躍して書いてしまうが、「考えるとは、ことばがどんなふうに動いて行けるかを確かめること」なのである。
もし、わたしがサバの味噌煮になったら、ことばはどんなふうに動いて行けるか。何を手がかりに、どこへ動いていくのか、それを確かめることが「考える」ということだ。そして考えるとき、その手がかりにするのが和田の場合、暮らしである。暮らしのなかで身に着けたこと(観にしみ込んでいること)を手がかりに和田はことばを動かす。その、暮らしへの密着感がとてもおもしろい。
知らないことを(たとえばサバの味噌煮になるという未体験のことを)、知っていること、おぼえていること、肉体にしみ込んでいることから見つめかえす。冷凍したものを解凍するとき、あれはどこから融けたっけ……。固体のまわりの液体部分? まわりが融けて液体になるのか、液体が先に融けて固体へ進入していくのか……。そのとき和田は、暮らしを思い返すことはしても、よそから「知識」を借りてくることはない。
繰り返しになるが……。冷凍のサバの味噌煮が解凍されて、融ける。そのときその「融ける」はどこからはじまるのか。それを「考える」。実際に「体験」するまえに、何かが「融ける」というときの動きを思い出して、それをあてはめてみる。「肉体」がおぼえていることを思い出しながら、まだ起きていないことをことばとして動かしてみる。「科学」のことばも、「現代思想」のことばも借りずに、和田は自分の「暮らし」をふりかえる。暮らしを借りてくると言い換えてもいい。
そのとき「肉体のおぼえていること」と「未知のこと」が出会う。出会いながら、その「未知のこと」を「おぼえていること」でととのえようとする。まるで、ことばをととのえて「未知」を描き出せば、「こと」はそのとおりに起こると信じているかのように。
たぶん、私たちは、新しいことをするとき、そんなふうにしてるんだろうなあ、と思う。和田は、そういうことを書いているのではなく、サバの味噌煮が融けるときのことを書いているのだが、そのありふれたことが、何か非日常、未知のことのように見えてくる。「考える」という運動のなかで、何か忘れていたものが「肉体」の奥から甦って、「肉体」をくすぐる。私はくすぐったがり屋なので、笑ってしまう。そして笑っているうちに、それが「肉体」の反応ではなく、「こころ」まで笑いに感染してしまう。「ああ、おかしい」と思ってしまう。
この「おかしさ」「笑い」が詩なんだろうなあ。(あ、飛躍したかな?)
「考える」がいつの間にか「感じる」と動詞が変わっていくのだが、どうしてだろう。「ひりひり」するのか、「ねっとり」するのか、とことばが「肉体」に則して動くからだろう。自分の「肉体」を基準にして、その「肉体」に起きる変化を見つめるからだろう。ここでは和田は「融ける」を考えているのではなく、それといっしょにある「肉体」を考えている。「肉体」にこだわっている。「肉体」を思い出している。「非日常(ありえないこと)」を書きながら、和田は「肉体」を離れない。むしろ「肉体」の奥へと引き返していく。「肉体」のなかでことばを動かす。こういう、「肉体」を離れない「思想」は強いなあ、と感じる。
和田まさ子の作品については何度かこの「日記」で書いている。そのとき取り上げなかった作品を取り上げようと思ったけれど、むりにあれこれ考えるのは嫌いなので、前に取り上げた作品についてまた書いてしまう。「生きる練習」と「皿」が、私は好きだ。
「生きる練習」のなかほど。
私はいまサバの味噌煮になっている
サバは好きでもないが
与えられた仕事はしなければならないだろう
生きるために冷凍庫から冷蔵庫に入るしかなく
カチカチのものが
徐々にできたてのものになっていくために時間を逆走する
あるいはそれは再生の試み
「サバの味噌煮」といっても、できたてのものではなく、和田がなっているのは一度できあがって冷凍保存されている「サバの味噌煮」。なぜ、そんなものになっているか、ということは問うたってしようがない。和田はなぜ女のなのか、と問うたって仕方がないのに似ている。それは変更がきかない何かなのだ。変更がきかないことを聞いたって仕方がない。
で、「冷凍のサバの味噌煮」与えられた仕事というのは、食べられる柔らかさになって、食べられてしまうということなのだろうけれど。
生きるために冷凍庫から冷蔵庫に入るしかなく
たとえば、この行の「冷凍庫から冷蔵庫に入る」という部分が、私はとても好き。ぞくぞくしてしまう。冷凍のサバの味噌煮をやわらかくする方法は、何も「冷蔵庫に入る」こととはかぎらない。「冷水」にひたしたっていいだろうし、凍ったままをフライパンで温めてもいいはず。でも、和田は冷蔵庫に入る方を選んでいる。その選択に、和田の「暮らし」が見える。和田の「肉体」が見える。「思想」が見える。そうか、和田はじっくりと時間をかける人間なんだなあ、と思う。時間がかかることを気にしないのだ。
時間が気にならないから、サバの味噌煮のなかへ微速度で入っていく。変化を微速度で再現して見せる。
どこから解凍されるのか考える
わたしは味噌汁の汁に浸かって
ビニール袋に個梱包されている
はじめに味噌の汁が融けてくるのか
あるいはわたしの背の皮から少しずつ融けるのだろうか
あ、そんなこと「考える」必要があるの?
まあ、ないね。考えなくたって、どこかからか融けはじめる。そのことにかわりはない。でも考えたい。
うーん、そうなのか。
何かになるということは、何かを考えるということなのか。そして、それはたぶん、自分ではないものについて考えることだね。--ちょっと、めんどうくさいことを書いてしまったかな?
和田は「冷凍のサバの味噌煮」になった、そしていま解凍されていると書いているのだが、和田が「なる」というとき、それは「考える」ことと同じなのだ。サバの味噌煮になってしまったのなら、何も考えなくてもいいじゃないか、どうせ食べられるだけなんだから……というのではなく、自分ではなくなったからこそ和田は「考える」のである。
で、「考える」というのは、どういうことかというと。
私は面倒くさがり屋なので、感覚の意見にしたがって、飛躍して書いてしまうが、「考えるとは、ことばがどんなふうに動いて行けるかを確かめること」なのである。
もし、わたしがサバの味噌煮になったら、ことばはどんなふうに動いて行けるか。何を手がかりに、どこへ動いていくのか、それを確かめることが「考える」ということだ。そして考えるとき、その手がかりにするのが和田の場合、暮らしである。暮らしのなかで身に着けたこと(観にしみ込んでいること)を手がかりに和田はことばを動かす。その、暮らしへの密着感がとてもおもしろい。
知らないことを(たとえばサバの味噌煮になるという未体験のことを)、知っていること、おぼえていること、肉体にしみ込んでいることから見つめかえす。冷凍したものを解凍するとき、あれはどこから融けたっけ……。固体のまわりの液体部分? まわりが融けて液体になるのか、液体が先に融けて固体へ進入していくのか……。そのとき和田は、暮らしを思い返すことはしても、よそから「知識」を借りてくることはない。
繰り返しになるが……。冷凍のサバの味噌煮が解凍されて、融ける。そのときその「融ける」はどこからはじまるのか。それを「考える」。実際に「体験」するまえに、何かが「融ける」というときの動きを思い出して、それをあてはめてみる。「肉体」がおぼえていることを思い出しながら、まだ起きていないことをことばとして動かしてみる。「科学」のことばも、「現代思想」のことばも借りずに、和田は自分の「暮らし」をふりかえる。暮らしを借りてくると言い換えてもいい。
そのとき「肉体のおぼえていること」と「未知のこと」が出会う。出会いながら、その「未知のこと」を「おぼえていること」でととのえようとする。まるで、ことばをととのえて「未知」を描き出せば、「こと」はそのとおりに起こると信じているかのように。
たぶん、私たちは、新しいことをするとき、そんなふうにしてるんだろうなあ、と思う。和田は、そういうことを書いているのではなく、サバの味噌煮が融けるときのことを書いているのだが、そのありふれたことが、何か非日常、未知のことのように見えてくる。「考える」という運動のなかで、何か忘れていたものが「肉体」の奥から甦って、「肉体」をくすぐる。私はくすぐったがり屋なので、笑ってしまう。そして笑っているうちに、それが「肉体」の反応ではなく、「こころ」まで笑いに感染してしまう。「ああ、おかしい」と思ってしまう。
この「おかしさ」「笑い」が詩なんだろうなあ。(あ、飛躍したかな?)
味噌の中は塩辛くてひりひりするのか
ねっとりとした感覚は心地よいのか
わたしがここにいるとはだれも知らないのだが
もうそれはどうでもいいことで
さあこれからは
解凍されるのを感じていくのだ
「考える」がいつの間にか「感じる」と動詞が変わっていくのだが、どうしてだろう。「ひりひり」するのか、「ねっとり」するのか、とことばが「肉体」に則して動くからだろう。自分の「肉体」を基準にして、その「肉体」に起きる変化を見つめるからだろう。ここでは和田は「融ける」を考えているのではなく、それといっしょにある「肉体」を考えている。「肉体」にこだわっている。「肉体」を思い出している。「非日常(ありえないこと)」を書きながら、和田は「肉体」を離れない。むしろ「肉体」の奥へと引き返していく。「肉体」のなかでことばを動かす。こういう、「肉体」を離れない「思想」は強いなあ、と感じる。
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