詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

秋亜綺羅「さみしいがいっぱい」

2014-07-09 20:41:37 | 詩(雑誌・同人誌)
秋亜綺羅「さみしいがいっぱい」(「文学界」2014年08月号)

 池井昌樹の詩が「必然」だとすれば、秋亜綺羅は「必然」を拒み、「偶然」をめざしている。「偶然」というのは、その一瞬にしか存在しない。しかし、一瞬とはいえ存在してしまう。その存在してしまう力のなかに、何かを見ようとする。「必然」のようにいつまでも存在しつづけるものは書かなくても存在する、ことばの力を必要としない、と考えるのかもしれない。
 「さみしいがいっぱい」の書き出しは、しかし「偶然」からはじまるわけではない。

すべてのものはゼロで割ると無限大になる

 これは、いまば「算数」の「定理/公理」。「定理/公理」だから「必然」ということになる。けれど、現実には何かをゼロで割るということはありえない。現実に「すべてのものはゼロで割ると無限大になる」ことが「事実」として存在するのは、「ゼロで割る」ということを思考するときだけである。思考の一瞬において、それは思考のなかだけで存在する。それも、正確には「算数」の思考のなかだけで存在する。
 これを秋亜綺羅は「算数」から別の世界にひっぱりだす。そんなことをする「必要」はないのだが、ある瞬間に「偶然」あらわれた何かのようにひっぱりだす。いわば手術台の上のミシンとこうもり傘の出会いである。
 次のように。

すべてのものはゼロで割ると無限大になる
空っぽなここにろはなにもないわけじゃなく

 「空っぽなこころ」を「ゼロで割る」ということを、ちょっと考えてみる。タイトルにしたがって「空っぽなこころ」を「さみしい」と考えてみると、(さみしくて空っぽになったこころと考えてみると)、その瞬間、さみしいが無限大になり空っぽなこころを埋めつくす。--さみしいが無限大に増殖しても、さみしい。それは、なぜ? さみしいがいっぱいなのに、なぜ?
 秋亜綺羅は、しかし、そういうことを「論理的」に追い詰めたりはしない。「論理」を追い詰める、「論理」を持続すると、そこから「瞬間」が消える。「持続」は「瞬間」ではないからね。「持続」というのは、一種の「嘘」だからね、「偶然」を真実と考える秋亜綺羅にとっては。
 で、こういうとき、その「持続」を切断し、さらに別の「偶然」へと飛躍しないといけない。この「持続」を切断し、新たな飛躍をするという運動のなかに、秋亜綺羅の詩がある。秋亜綺羅がそう明確に語っているわけではないが、秋亜綺羅の詩を読むと、まあ、そういうことを考えているんだろうなあ、と思う。

すべてのものはゼロで割ると無限大になる
空っぽなここにろはなにもないわけじゃなく
こころない惑星の空には悪意が満ちているだろうか

 2行目から3行目への切断と飛躍は、けれども持続の名残ももっている。「空っぽのこころ」には何もない。何もない「空っぽのこころ」をゼロで割ると、空っぽが無限大になる--こういう「論理」は「空っぽのこころ」への「悪意」のようなものだ。そんな「論理」で寄り添われてしまっては「空っぽのこころ」は何をしていいかわからなくなる。
 で、そういうことを考えてもしかたがないので、別な切断と持続を見てみると。
 2行目の「空っぽのこころ」が「こころない」(こころが無い、ゼロ)へとしり取りをしながらずらされ、「空っぽ」から「空」が同じようにしり取りとずらしを経て引き出され、さらに「空」と「惑星」が呼びあっていることがわかる。
 秋亜綺羅は「偶然」を装いながら、非常にめんどうくさいことばのあやとりしている。あやとりというのは、ゆっくりやるとおもしろくない。あ、いま存在したのは何? とわかったのか、わからないのか、見えたものが「幻」だったのか「現実」だったのかわからないようにスピードをあげてやると、「幻」が「現実」に見えてしまう。そういうものである。秋亜綺羅は、ことばを、そんなふうに動かしている。
 「偶然」と言いながら、めどうくさい「論理」の「構造」を生きている。秋亜綺羅は「論理」好みというよりも、この「構造」好みである。そして、この「構造」を「仕掛け」と言い換えてみると、寺山修司のやっていた「天井桟敷」の芝居、「仕掛け芝居」と重なる。「仕掛け」によって、リアリティーを揺さぶる。揺さぶられる想像力が見る一瞬の「幻」を、ひとが見落としている「現実」と主張するという芝居に変わる。

 秋亜綺羅に昨年あったとき、秋亜綺羅は「毎回詩に、必ずひとつ新しいことをやる」と言っていた。新しい仕掛けをひとつ試みる、という意味だろう。まあ、それは秋亜綺羅にとっては「新しい仕掛け」なのだろうが、読者の私にとってみれば、「仕掛け」であることにかわりはないので、「新しい」と言われてもよくわからない。
 1行目から3行目まで、わりと丁寧に「仕掛け」の類を追っては見たが、こういうことをやっていると、詩を読んでいるという感じがどんどん減ってしまうので、はしょって最後の3行まで飛んでしまおう。

ひとはいつゼロになれるんだろうね
もう一軒いこうよ
百年の孤独のゼロ割りを注文しようじゃないか

 「空っぽなこころ」でも、人は「ゼロ」ではない。逆に、「空っぽなこころ」がひとを「無限大」にする。「空っぽ=ゼロ」がひとを割りつづけている、「空っぽなこころ=さみしい」がひとを「さみしい」でいっぱいにしている。
 このあと、秋亜綺羅は、「ひと=ひとつ=一」から「もう一軒いこうよ」の「一」を引き出し、そのあと「百」年の孤独という具合に数字で遊んでいる。「空っぽなこころ=さみしい」を「孤独」と言い換えてもいる。「無限大」を「百」とも言い換えている。「百年の孤独の水割り」なんて、かなりうるさいことばだ。(実際の焼酎の銘柄、商品名というよりも、死んだガルシア・マルケスの小説への賛辞がここにはあるのかもしれないけれど……。)
 で、この「うるさい」だけの「仕掛け」の、どこに「新しいこと」があるのか。
 よくわからないが、私は、なんとなく、

もう一軒いこうよ

 この一行に、それを感じている。
 うわーっ、うさんくさい。
 まるで生活に疲れた中年の抒情詩。清水哲男じゃないか。
 そして、その誘いが「百年の孤独のゼロ割り」になってしまうと、それこそ清水哲男そのものだね(さっきは書かなかったけれど)、寺山修司なら、こんなことばは絶対に書かない。
 秋亜綺羅の「仕掛け」はもともとうさんくさいものだけれど、そのうさんくささは「高校生」の肉体が変化していくときのうさんくささであって、肉体の成長がとまった中年の「なれあい」にすりかえられたのでは、
 いやあ、
 「私はあした早いので帰ります」
 と、ことわるね。私は。
 最初の3行目にあったことばのスピードが、抒情のべたつきでねっとりしている。こういう粘着質は、私は嫌いだ。

透明海岸から鳥の島まで
秋 亜綺羅
思潮社


谷川俊太郎の『こころ』を読む
谷内 修三
思潮社
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池井昌樹『冠雪富士』(18)

2014-07-09 08:32:09 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(18)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「からたちの花」。失恋して落ち込んでいたときに詩人の友人が花見に誘ってくれた。池井は酔いしれて、

「からたちの花」を大声で歌った。歌い終え腰を下ろすと、闇の周
囲から拍手が起きた。それは思い掛けない万雷の拍手だった。心の
閊えが一度にとれて、涙ぐましい気持ちになった。やさしさに包ま
れていると思った。

 ということがあった。それから年月がすぎ、友人は妻を亡くし、再婚し、さらに妻を亡くすということがあった。

  長い長い、長い歳月が過ぎたのだ。人は往き、人は生れ、町は
刻々変貌し、けれど私は変わらない。「からたちの花」を歌ってい
る。心の中でのことなのだから、振り向くものは誰もいない。みな
俯いて背を向けて、魔法の小箱を覗き込み、いっしんふらん、彷徨
うばかり。それにしても、と思うのだ。あの大勢のあの拍手、あの
ものたちは誰だったのか。何処へ失せたのか。心の中のことだけれ
ども、みんなみんな、やさしかったよ。

 これは最後の部分だが、「けれど私は変わらない」が池井の思想(肉体)である。町は変わる。ひとの動きも変わる。でも、池井の「肉体」は池井の「肉体」のまま、ずっとつづいている。年月を重ね、年をとっても池井の「肉体」はそのまま池井である。
 わかりきったことか。
 しかし、わかりきったことが思想であり、詩である。わかりきらないことを、発見した新しいこと、自分の個性が見つけ出した何かみたいに書けば詩になる、思想になるという風潮があるが、そうではなく変わらないものを変わらないまま、変わらないことばで書くのが思想であり、詩というものだと私は最近思っている。
 わかりきっているのは、それが「必然」だからである。変わらないのは、やはりそれが「必然」だからである。そして、その「必然」は、「心の中」にある。「心の中」にあるから「思想」という。(私は「こころ」と「肉体」とを区別しないので、「思想」を「肉体」と呼ぶことがある。)
 池井は二度書いている。

心の中でのことなのだから

心の中でのことだけれど

 「心の中」の「こと」とは何か。
 池井が「からたちの花」を歌い、その歌を聞いた花見の客が拍手をした。--それは、どういうことなのか。池井には、そのとき鬱屈があった。どう表現していいかわからず、ただ声を張り上げて歌を歌った。聞いた人は、池井の鬱屈(その歌にこめた思い)は知らない。ただ、池井が何らかの思いを抱いて、声を張り上げて歌を歌っているという「こと」はわかる。歌っているという「こと」がわかるとき、また池井が何らかの思いを抱いているという「こと」もわかる。そのとき、叙事(歌っているということ)が抒情(歌に思いを託しているということ)にかわり、その抒情のなかで、人は、一体になる。
 思っている「こと」は正確にわからなくても(だいたい他人の思いなどは正確にはわからない)、そこに起きている「こと」に触れて、思っていく「こと」の方へ近づいていく。このとき、人は自分の「こころのこと」を少し忘れる。自分の「こころのこと」を少し忘れて、他人の(池井の)「こころのこと」を少し考える。
 他人のこころのことを考える--これを池井は「やさしい」と定義している。
 この「やさしい」の定義は、昔からかわらない。誰が考えても「やさしい」の定義はそこへ落ち着く。--この「必然」の思考、それが「思想」というものだ。

やさしさに包まれていると思った。

みんなみんな、やさしかったよ。

 「心の中でのこと」と同じように「やさしい」も二度繰り返されている。繰り返すことで、池井は、それを、「思いつき」ではなく、いつも考えていること(思想)にする。思想は、同じことばを繰り返すことでたしかなものになる。池井は繰り返すことで、それをたしかなものに「する」。
 と、考えると「思想」というものが、いかに平凡で、ありきたりなものであるかがわかる。逆に言うと、平凡で、ありきたりでないものは思想ではないとさえ言える。平凡で、ありきたりで、わかりきったこと以外を、人は他人とは共有できない。
 さらに言うと、どんなことばも平凡でありきたり、わかりきったことにならないかぎり思想とは言えない。そういう意味で、私は20世紀最大の思想家はボーボワールであると考えている。「女は女に生まれるのではない。女になるのだ」ということばで男女の不平等をボーボワールは告発した。マルクスのことばも毛沢東のことばも、ボーボワールの主張のように誰にでも共有はされていない。一部の日本の政治家は、まだ20世紀以前を生きているが、ふつうの市民はボーボワール以後を生きている。ボーボワールを忘れてしまって、男女平等を平凡でありきたりな、わかりきったことだと思っている。
 脱線したが。
 池井の詩のすごみは「必然」ゆえの平凡にある。60歳過ぎの、失恋と、「からたちの花」を歌ったときの思い出、それ以後の友人とのつきあいを、ただ書いただけのことばのすごみは、そういうことをただ書いてしまうということにある。あのとき、ひとのやさしさを感じた。--それが、どうした、と言えば、たしかにそれがどうした、である。しかし、世の中には「それがどうした」しかない。「それがどうした」を自分を整える力として人はそれぞれに「肉体」にしている。
 池井は「けれど私は変わらない」と書いていたが、ほんとうは「私は変えない」である。「やさしさ」の定義、あのとき感じた「やさしさ」を「やさしさ」と呼ぶ--その定義を変えずに生きている、と書いている。




冠雪富士
池井 昌樹
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(109)

2014-07-09 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(109)        2014年07月09日(水曜日)

 「コマギネの王アンティオコスの墓碑銘」は二部構成。前半は、

コマギネの学者王アンティオコスの大葬はてつ。
つつましくやさしき そのひと世を 姉ぎみ王女のいたくいたみて
墓碑銘をのぞみき。エフェソスのソフィスト カリストラトスに命くだるれば、
彼すなわちシリアの臣の進言に従い墓誌をつくりて
老いたる王女のもとにささげぬ。

 と、墓碑銘がつくられた経緯が書かれている。この経緯を中井久夫は古文・漢文の文体で訳出している。「彼すなわち」の「すなわち」は漢文の「即」。古文と漢文の混交で、ことばの速度が非常に速い。その速さ、簡潔さは、まるで墓碑銘そのものである。
 また内容も墓碑銘として読むことができる。「学者王」と呼ばれていた。娘の王女に愛されていた。王女が墓碑銘を望んだ。そこにはまたシリアの臣も登場してきて、歴史の背景がうかがえる。なかなかおもしろい。
 これに向き合うのが、カリストラトスがつくった墓誌は、

「気高き王アンティオコスの徳をよく知りて讃えよ、コマギネの民よ。国運の見通しを誤らざりし指導者。強く、賢く、偏らず、また何よりもまずよき性ありき。すなわちギリシャ的なり。ギリシャ的なるより高き徳、世にあらず。それより高きものはなべて神々に属す」

 ここにも「すなわち」が出てくる。漢文ではやはり「即」だろうけれど、意味が少し違う。ここの「すなわち」はイコールの意味になる。ぴったり合致する、の「ぴったり」、すきまなくが「即」なのだろう。
 前半では王女の命令を受けたら、即座に、時間をおかずに(ぴったりとくっついている時間内に)シリアの臣の進言を聞きにいった、ということだろう。
 このふたつの「すなわち」の「ずれ」のようなものが、そのまま前半の「経緯」と、後半の「墓誌」にあらわれているようにも思う。
 奇妙な言い方になってしまうが、あとの方の「すなわち」の方が、イコールでありながらこころの底ではイコールではない。前半の「すなわち」はこころの動きがそのまま行動になっているが(どう書けば、自分のためになるだろうかと心配し、その心配が進言をあおぐという行動になっているが)、後半は「イコール」でごまかしおけばいいと、こころが行為とはなれている。したがって、墓誌の内容も、愛も尊敬もこもっていない。なおざりだ。「徳」があったと書きながら、どんな徳かは具体的には書かず、そのうえで「ギリシャ」と言い直し、「ギリシャ」より徳の高いのは神々の領域と神にいろいろな批判をあずけてしまっている。
 前半のひきしまった文体に比べると、間延びしきった文体である。そこに、この墓碑銘がいいかげんなものであるという批判もこめられている。



リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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