秋亜綺羅「さみしいがいっぱい」(「文学界」2014年08月号)
池井昌樹の詩が「必然」だとすれば、秋亜綺羅は「必然」を拒み、「偶然」をめざしている。「偶然」というのは、その一瞬にしか存在しない。しかし、一瞬とはいえ存在してしまう。その存在してしまう力のなかに、何かを見ようとする。「必然」のようにいつまでも存在しつづけるものは書かなくても存在する、ことばの力を必要としない、と考えるのかもしれない。
「さみしいがいっぱい」の書き出しは、しかし「偶然」からはじまるわけではない。
これは、いまば「算数」の「定理/公理」。「定理/公理」だから「必然」ということになる。けれど、現実には何かをゼロで割るということはありえない。現実に「すべてのものはゼロで割ると無限大になる」ことが「事実」として存在するのは、「ゼロで割る」ということを思考するときだけである。思考の一瞬において、それは思考のなかだけで存在する。それも、正確には「算数」の思考のなかだけで存在する。
これを秋亜綺羅は「算数」から別の世界にひっぱりだす。そんなことをする「必要」はないのだが、ある瞬間に「偶然」あらわれた何かのようにひっぱりだす。いわば手術台の上のミシンとこうもり傘の出会いである。
次のように。
「空っぽなこころ」を「ゼロで割る」ということを、ちょっと考えてみる。タイトルにしたがって「空っぽなこころ」を「さみしい」と考えてみると、(さみしくて空っぽになったこころと考えてみると)、その瞬間、さみしいが無限大になり空っぽなこころを埋めつくす。--さみしいが無限大に増殖しても、さみしい。それは、なぜ? さみしいがいっぱいなのに、なぜ?
秋亜綺羅は、しかし、そういうことを「論理的」に追い詰めたりはしない。「論理」を追い詰める、「論理」を持続すると、そこから「瞬間」が消える。「持続」は「瞬間」ではないからね。「持続」というのは、一種の「嘘」だからね、「偶然」を真実と考える秋亜綺羅にとっては。
で、こういうとき、その「持続」を切断し、さらに別の「偶然」へと飛躍しないといけない。この「持続」を切断し、新たな飛躍をするという運動のなかに、秋亜綺羅の詩がある。秋亜綺羅がそう明確に語っているわけではないが、秋亜綺羅の詩を読むと、まあ、そういうことを考えているんだろうなあ、と思う。
2行目から3行目への切断と飛躍は、けれども持続の名残ももっている。「空っぽのこころ」には何もない。何もない「空っぽのこころ」をゼロで割ると、空っぽが無限大になる--こういう「論理」は「空っぽのこころ」への「悪意」のようなものだ。そんな「論理」で寄り添われてしまっては「空っぽのこころ」は何をしていいかわからなくなる。
で、そういうことを考えてもしかたがないので、別な切断と持続を見てみると。
2行目の「空っぽのこころ」が「こころない」(こころが無い、ゼロ)へとしり取りをしながらずらされ、「空っぽ」から「空」が同じようにしり取りとずらしを経て引き出され、さらに「空」と「惑星」が呼びあっていることがわかる。
秋亜綺羅は「偶然」を装いながら、非常にめんどうくさいことばのあやとりしている。あやとりというのは、ゆっくりやるとおもしろくない。あ、いま存在したのは何? とわかったのか、わからないのか、見えたものが「幻」だったのか「現実」だったのかわからないようにスピードをあげてやると、「幻」が「現実」に見えてしまう。そういうものである。秋亜綺羅は、ことばを、そんなふうに動かしている。
「偶然」と言いながら、めどうくさい「論理」の「構造」を生きている。秋亜綺羅は「論理」好みというよりも、この「構造」好みである。そして、この「構造」を「仕掛け」と言い換えてみると、寺山修司のやっていた「天井桟敷」の芝居、「仕掛け芝居」と重なる。「仕掛け」によって、リアリティーを揺さぶる。揺さぶられる想像力が見る一瞬の「幻」を、ひとが見落としている「現実」と主張するという芝居に変わる。
秋亜綺羅に昨年あったとき、秋亜綺羅は「毎回詩に、必ずひとつ新しいことをやる」と言っていた。新しい仕掛けをひとつ試みる、という意味だろう。まあ、それは秋亜綺羅にとっては「新しい仕掛け」なのだろうが、読者の私にとってみれば、「仕掛け」であることにかわりはないので、「新しい」と言われてもよくわからない。
1行目から3行目まで、わりと丁寧に「仕掛け」の類を追っては見たが、こういうことをやっていると、詩を読んでいるという感じがどんどん減ってしまうので、はしょって最後の3行まで飛んでしまおう。
「空っぽなこころ」でも、人は「ゼロ」ではない。逆に、「空っぽなこころ」がひとを「無限大」にする。「空っぽ=ゼロ」がひとを割りつづけている、「空っぽなこころ=さみしい」がひとを「さみしい」でいっぱいにしている。
このあと、秋亜綺羅は、「ひと=ひとつ=一」から「もう一軒いこうよ」の「一」を引き出し、そのあと「百」年の孤独という具合に数字で遊んでいる。「空っぽなこころ=さみしい」を「孤独」と言い換えてもいる。「無限大」を「百」とも言い換えている。「百年の孤独の水割り」なんて、かなりうるさいことばだ。(実際の焼酎の銘柄、商品名というよりも、死んだガルシア・マルケスの小説への賛辞がここにはあるのかもしれないけれど……。)
で、この「うるさい」だけの「仕掛け」の、どこに「新しいこと」があるのか。
よくわからないが、私は、なんとなく、
この一行に、それを感じている。
うわーっ、うさんくさい。
まるで生活に疲れた中年の抒情詩。清水哲男じゃないか。
そして、その誘いが「百年の孤独のゼロ割り」になってしまうと、それこそ清水哲男そのものだね(さっきは書かなかったけれど)、寺山修司なら、こんなことばは絶対に書かない。
秋亜綺羅の「仕掛け」はもともとうさんくさいものだけれど、そのうさんくささは「高校生」の肉体が変化していくときのうさんくささであって、肉体の成長がとまった中年の「なれあい」にすりかえられたのでは、
いやあ、
「私はあした早いので帰ります」
と、ことわるね。私は。
最初の3行目にあったことばのスピードが、抒情のべたつきでねっとりしている。こういう粘着質は、私は嫌いだ。
池井昌樹の詩が「必然」だとすれば、秋亜綺羅は「必然」を拒み、「偶然」をめざしている。「偶然」というのは、その一瞬にしか存在しない。しかし、一瞬とはいえ存在してしまう。その存在してしまう力のなかに、何かを見ようとする。「必然」のようにいつまでも存在しつづけるものは書かなくても存在する、ことばの力を必要としない、と考えるのかもしれない。
「さみしいがいっぱい」の書き出しは、しかし「偶然」からはじまるわけではない。
すべてのものはゼロで割ると無限大になる
これは、いまば「算数」の「定理/公理」。「定理/公理」だから「必然」ということになる。けれど、現実には何かをゼロで割るということはありえない。現実に「すべてのものはゼロで割ると無限大になる」ことが「事実」として存在するのは、「ゼロで割る」ということを思考するときだけである。思考の一瞬において、それは思考のなかだけで存在する。それも、正確には「算数」の思考のなかだけで存在する。
これを秋亜綺羅は「算数」から別の世界にひっぱりだす。そんなことをする「必要」はないのだが、ある瞬間に「偶然」あらわれた何かのようにひっぱりだす。いわば手術台の上のミシンとこうもり傘の出会いである。
次のように。
すべてのものはゼロで割ると無限大になる
空っぽなここにろはなにもないわけじゃなく
「空っぽなこころ」を「ゼロで割る」ということを、ちょっと考えてみる。タイトルにしたがって「空っぽなこころ」を「さみしい」と考えてみると、(さみしくて空っぽになったこころと考えてみると)、その瞬間、さみしいが無限大になり空っぽなこころを埋めつくす。--さみしいが無限大に増殖しても、さみしい。それは、なぜ? さみしいがいっぱいなのに、なぜ?
秋亜綺羅は、しかし、そういうことを「論理的」に追い詰めたりはしない。「論理」を追い詰める、「論理」を持続すると、そこから「瞬間」が消える。「持続」は「瞬間」ではないからね。「持続」というのは、一種の「嘘」だからね、「偶然」を真実と考える秋亜綺羅にとっては。
で、こういうとき、その「持続」を切断し、さらに別の「偶然」へと飛躍しないといけない。この「持続」を切断し、新たな飛躍をするという運動のなかに、秋亜綺羅の詩がある。秋亜綺羅がそう明確に語っているわけではないが、秋亜綺羅の詩を読むと、まあ、そういうことを考えているんだろうなあ、と思う。
すべてのものはゼロで割ると無限大になる
空っぽなここにろはなにもないわけじゃなく
こころない惑星の空には悪意が満ちているだろうか
2行目から3行目への切断と飛躍は、けれども持続の名残ももっている。「空っぽのこころ」には何もない。何もない「空っぽのこころ」をゼロで割ると、空っぽが無限大になる--こういう「論理」は「空っぽのこころ」への「悪意」のようなものだ。そんな「論理」で寄り添われてしまっては「空っぽのこころ」は何をしていいかわからなくなる。
で、そういうことを考えてもしかたがないので、別な切断と持続を見てみると。
2行目の「空っぽのこころ」が「こころない」(こころが無い、ゼロ)へとしり取りをしながらずらされ、「空っぽ」から「空」が同じようにしり取りとずらしを経て引き出され、さらに「空」と「惑星」が呼びあっていることがわかる。
秋亜綺羅は「偶然」を装いながら、非常にめんどうくさいことばのあやとりしている。あやとりというのは、ゆっくりやるとおもしろくない。あ、いま存在したのは何? とわかったのか、わからないのか、見えたものが「幻」だったのか「現実」だったのかわからないようにスピードをあげてやると、「幻」が「現実」に見えてしまう。そういうものである。秋亜綺羅は、ことばを、そんなふうに動かしている。
「偶然」と言いながら、めどうくさい「論理」の「構造」を生きている。秋亜綺羅は「論理」好みというよりも、この「構造」好みである。そして、この「構造」を「仕掛け」と言い換えてみると、寺山修司のやっていた「天井桟敷」の芝居、「仕掛け芝居」と重なる。「仕掛け」によって、リアリティーを揺さぶる。揺さぶられる想像力が見る一瞬の「幻」を、ひとが見落としている「現実」と主張するという芝居に変わる。
秋亜綺羅に昨年あったとき、秋亜綺羅は「毎回詩に、必ずひとつ新しいことをやる」と言っていた。新しい仕掛けをひとつ試みる、という意味だろう。まあ、それは秋亜綺羅にとっては「新しい仕掛け」なのだろうが、読者の私にとってみれば、「仕掛け」であることにかわりはないので、「新しい」と言われてもよくわからない。
1行目から3行目まで、わりと丁寧に「仕掛け」の類を追っては見たが、こういうことをやっていると、詩を読んでいるという感じがどんどん減ってしまうので、はしょって最後の3行まで飛んでしまおう。
ひとはいつゼロになれるんだろうね
もう一軒いこうよ
百年の孤独のゼロ割りを注文しようじゃないか
「空っぽなこころ」でも、人は「ゼロ」ではない。逆に、「空っぽなこころ」がひとを「無限大」にする。「空っぽ=ゼロ」がひとを割りつづけている、「空っぽなこころ=さみしい」がひとを「さみしい」でいっぱいにしている。
このあと、秋亜綺羅は、「ひと=ひとつ=一」から「もう一軒いこうよ」の「一」を引き出し、そのあと「百」年の孤独という具合に数字で遊んでいる。「空っぽなこころ=さみしい」を「孤独」と言い換えてもいる。「無限大」を「百」とも言い換えている。「百年の孤独の水割り」なんて、かなりうるさいことばだ。(実際の焼酎の銘柄、商品名というよりも、死んだガルシア・マルケスの小説への賛辞がここにはあるのかもしれないけれど……。)
で、この「うるさい」だけの「仕掛け」の、どこに「新しいこと」があるのか。
よくわからないが、私は、なんとなく、
もう一軒いこうよ
この一行に、それを感じている。
うわーっ、うさんくさい。
まるで生活に疲れた中年の抒情詩。清水哲男じゃないか。
そして、その誘いが「百年の孤独のゼロ割り」になってしまうと、それこそ清水哲男そのものだね(さっきは書かなかったけれど)、寺山修司なら、こんなことばは絶対に書かない。
秋亜綺羅の「仕掛け」はもともとうさんくさいものだけれど、そのうさんくささは「高校生」の肉体が変化していくときのうさんくささであって、肉体の成長がとまった中年の「なれあい」にすりかえられたのでは、
いやあ、
「私はあした早いので帰ります」
と、ことわるね。私は。
最初の3行目にあったことばのスピードが、抒情のべたつきでねっとりしている。こういう粘着質は、私は嫌いだ。
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