詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

坂多瑩子「雨」ほか

2014-07-04 12:46:42 | 詩(雑誌・同人誌)
坂多瑩子「雨」ほか(「狼」23、2014年06月発行)

 坂多瑩子「雨」は書き出しがとてもおもしろい。

ざくろの木の下にころがっているティーポットの
欠けた口に雨が降りそそいでいる
ポットの目盛りが②からちっとも増えない
ポットのなかは薄明かりで

 「ポットの目盛りが②からちっとも増えない」のは、どこかに穴かひびがあって、そこから降ってくる雨と同じ量の水が漏れるからか、それとも雨の量が少ないからか。でも、②まで溜まったのだから雨が降る量が少ないということはないだろうなあ。
 ということよりも、②の目盛りに気がついた視力がおもしろい。
 ということよりも、②の目盛りから増えないとわかるまでみつめている視力の持続力がおもしろい。
 私は目が悪いので、そういうことに時間をかけなくなっているので、そうか、じっと何かをみつめれば、そしてその見えたものをことばにすれば、そこに詩は動くんだな、と思った。
 そのあとは、しかし、少し物足りない。

私は泳いでいた
島が見える
島にはあかりが
赤い色がゆれていて
祭りの日だ

 「島」が見えて、島に「あかり」、あかりは「赤い色」、赤い色は「祭り」の日の色。--視力は持続というか、しり取りのように動いていくが、その動きのなかに書き出しほどの停滞感がない。持続というのは停滞感と一緒にあって、あ、こんなに私はまちきれない、このひとはよくこんな何もないところで待ちつづけているなあ、ことばを動かしつづけることができるなあと思うときに、なんだろう、ブラックホールに吸い込まれていくような魅力がある。あ、だめだ、吸い込まれていく、だんだん動けなくなる……という感じ。突きつめていくと『ゴドーを待ちながら』の重力の時間になるのだけれど。
 もし、持続が「動き」へと変化するなら、その動きは自分には追いつけないくらいのスピードであってほしい。
 坂多のことばのリズムは、どちらでもない。ちょっと軽すぎて、②を発見したときのような「手触り」、「増えない」と気づいたときのしつこさがない。
 それは書きたいことが違うから--と、言われればそれまでだけれど。
 この裏切り(?)は--つまり、1連目からの「切断」の仕方は、私にはよくわからない。

祭りの日
なんて絵本か写真でしか知らない
おとなもこどももうれしそうな顔をして
だからキライだ

 そうか、この「キライ」にリズムの変化の理由があるのか。「キライ」なものを、さっさとやりすごしたい。
 わからないではないけれど、そんなことをすると「意味」が強くなるぞ。
 きっと「意味」が出てきて、詩を締めくくることになるぞ、と思っていたら。

雨はまだ降っている
泳ぎ疲れた
いつからいっしょに泳いでいるあんた達
いったいどこからきたの
水の底の原っぱに電車がとまっている
あれに乗ってきた
こどもがいった
氷菓子
提灯
ハッカパイプ

ここはきっと祭りの日の捨て場所
看板がカタカタとめくれてティーポットに雨が降りそそぎ
ざくろの木の下 金魚が泳いでいる


 どうも、祭りの日に屋台で買った金魚(金魚すくいの金魚)が金魚鉢がわりのティーポットごと捨てられている。それを見たときのことを書いているということがわかる。
 雨で少しくすんで見える水のなかを泳ぐ金魚は赤い灯のように見える。祭りの提灯の色に見える。だから祭りを思い出し、そこから祭りが終わったあとの金魚の時間を書いたのだろう。それを捨てた人間の時間を書いたのだとわかる。
 でも、私は、こんなことはわかりたくない。こんなストーリーをわかりたくない。
 そんなストーリーよりも、ポットの目盛りの②に気づく坂多自身のなかにある「時間(ストーリー)」をえぐるように書いてほしいと思う。ふつう、気がつかないよ。金魚が捨てられていると気がついても、そのポットに目盛りがあり、②から水が増えないということには。そういうことに気がつくには気がつくだけの、何かしらの「個性的な事実」が坂多にあるはず。それを「視力」でこじ開けてほしかったなあ、と思う。
 一連目がおもしろいだけに、とても残念。



 長谷川忍「街頭」も書き出しにはこころを動かされる部分がある。

咲き始めたオキザリスの花弁に
ふと気づいた。

読みかけの短編小説に描かれていた
都心の蒼い空を
偶然みつけてしまう。

 「都心の蒼い空」というのはキザが真っ正面から歩いてくるようなことばで、思わず避けてしまいそうになるが、「読みかけの短編小説」が抽象的なので、このまま抽象を進んで行くのなら、「偶然」はおもしろくなるだろうなあ、と思う。「オキザリス」という花は私は知らないが、そういう具体からはじまったことばが抽象をくぐりぬけて、架空を走り抜けるならそこに新しい「都市」が見えてくるかも--そういう気持ちにさせられる。
 でも、そのあと

言葉を綴ることに疲れて
ミニシアターに入ってみる
古い小津映画を観る。

 になると、これは「流通詩」だねえ。いや、小津が出てきたっていいのだけれど、「古い」というようなありきたりのことばでは小津に長谷川が出会っている印象がない。長谷川ではなく、だれのものともわからない概念に出会っている感じがする。それも新しい概念ではなく「流通済み」の概念。
 抽象こそ、「流通済み」を切り捨てなければならないんだけれどなあ、と思う。
ジャム 煮えよ
坂多 瑩子
港の人
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池井昌樹『冠雪富士』(13)

2014-07-04 09:54:17 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(13)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「内緒」にも母が出てくる。でも、この母は、少し変わっている。

いなかのいえのひだまりに
しんぶんがみひろげ
あつあつコロッケたべたっけ
かあちゃんと
くすくすわらってたべたっけ
まだかえらないとうちゃんや
じいちゃんばあちゃんいぬのコロ
みんなにないしょでたべたっけ
いなかのいえのひだまりに

 「かあちゃん」ということばで登場する。よそのひとの眼を意識していない。身内だけのときは「かあちゃん」と呼び、他人がいるときは「はは」と書く。そういう区別が池井のなかにはあるのだろう。ここでは、他人を気にしていない。
 なぜか。「内緒」の世界だからだ。母と二人だけ。だから「かあちゃん」と無防備なことばが出ている。
 そのコロッケは、たぶん買ってきたコロッケだろう。家でつくってもあつあつだが、つくったあとが残る。買ってくれば料理の痕跡がないから、だれにもわからない。父や祖父母にはわからない。その二人だけの秘密が「内緒」であり、二人だけだから、この「かあちゃん」は非常に濃密(?)だ。揚げたてのコロッケのように、池井の肉体にぴったり重なっている。この密着感、幸福感が「くすくすわらって」にあふれている。大笑いしてもだれにも聞かれないのだけれど、「くすくす」と笑う。それが何かを隠しているようで楽しい。「内緒」の「緒」は「一緒に」の「緒」。
 この幸福感には「たべる」という肉体が関係しているかもしれない。何かを一緒に食べるということは、その何かを共有することだ。コロッケを二人で食べるのだから、これは正確に考えると「分有」ということになるのだけれど、その食べられたはずの「コロッケ」が二人の肉体を「共有」するのか、それとも「食べる」という動詞を二人が「共有」するのかわからないが、「一緒に」何かをもっている感じがする。もしかすると、それは「コロッケ」でも「胃袋(口/肉体)」ではなく、「ひだまり」とか「あつあつ」という別なものとつながっているのかもしれない。
 この「もの」を超えて「共有」がはじまる瞬間に、ここでは「たべたっけ」という音の繰り返し、音楽が一緒にある。「コロッケ」と「たべたっけ」のなかにも共通する響き、音楽があり、それが歌になるので、楽しい。
 書いてある「情報」は母と一緒にコロッケを食べたということだけなのだが、繰り返し繰り返し読んでしまうのは、書いてあることを知りたいからではなく、そこに書いてある「音楽」を味わいたいからだ。
 この長調の明るい音楽が後半はがらりとかわる。

それからなにがあったのか
それからコロはいなくなり
そふぼもちちもいなくなり
ははをしせつへおいやって
いまはもぬけのからのいえ
いなかのいえのひだまりを
いまごろぼくはおもうのだ
あとかたもないこのぼくは
かあちゃんと

 「かあちゃん」は母に、とうちゃん、じいちゃん、ばあちゃんは祖父母にかわっている。そして、コロッケを食べたは消えて、かわりに「施設へ追いやる」がわりこんでくる。そのとき蘇るのは「いなかのいえのひだまり」。太陽が射してぽかぽか。あ、この「自然」は無慈悲にも変化しない。長調から短調へとかわることはない。その家にだれがいなくなっても、つづいていく変わらぬものがある。
 それが、変わってしまったものをいっそう強調する。
 その瞬間、

かあちゃん

 が再び蘇る。それは池井との「内緒」を知っている「かあちゃん」だが、その「かあちゃんと」何をするのか。この詩は書いていない。書けないのだ。蘇ってくる「かあちゃん」といういのちそのものに涙があふれ、それを整える時間がない。整えようとする「理性」を、感動がおしやってしまう。
 その瞬間、そこに、ぱっと、もう一度「いなかのいえのひだまり」が、内側から開くようにあらわれてくる。そして、そこにコロッケと新聞紙と、あつあつと、くすくすとがあらわれながら「内緒だよ」とささやく。
 かあちゃんが言ったのか、池井が言ったのか。二人で「内緒だよ」と「一緒に」言ったのだ。


冠雪富士
池井 昌樹
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(104)

2014-07-04 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(104)        2014年07月04日(金曜日)

 「アカイア同盟のために闘った戦士に」は前半が「墓碑銘」である。後半の二連目で、その「墓碑銘」を書いたのはアレクサンドリア在住のアカイア人であると種明かしをしている。時代は、プトレマイオス・ラテュロスの時代である。古代である。

百戦百勝の敵なるをいささかも怖れず
気高く闘って倒れた不屈の諸君。
ディアイオス、クリトラオスの指揮のしくじりは
むろん諸君の罪ではない。
ギリシャの民の誇りがほとばしる時には
必ずや諸君を讃えて「これぞわが民族の子」というだろう。

 この詩の注釈で、中井久夫は詩の書かれた年(一九二二年)を踏まえながら、セフェリスの説を紹介している。カヴァフィスの詩は古代を題材にしていても、そこに「現代性」を読み取ることができる。この詩にはギリシャ・トルコ戦争を読み取ることができるという。その証拠として中井は一九一四年から一九一八年にかけて若者の墓碑銘が集中的につくられていることをあげている。
 この詩では、カヴァフィスが「アレクサンドリア在住の一アカイア人」になって、墓碑銘を書いている--セフェリスと中井はそう言うのである。そこには若者への愛があふれている。特に「ディアイオス、クリトラオスの指揮のしくじりは/むろん諸君の罪ではない。」という部分に。これは単に敗北が若者のせいではない、指揮官に責任があるというだけではない。若者、彼ら自身の死も若者のせいではないということだ。死にまさる「しくじり」はないが、それは若者よ、諸君のせいではない。
 それに加えてカヴァフィスは讃える。自分に民族の誇りがあふれるとき、必ず若者たちを思い出す。そして、「これぞわが民族の子」と言う。「子」ということばのなかに、血が流れている。
 これはまた、カヴァフィス自身が「私はわが民族の子である」と宣言しているということでもあると思う。
 詩は、二行ずつでひとつの「文意」をつくり、「気高さ」を讃え、「無垢(無罪)」を証明し、「愛」を語る。この素早く、しかし確実な展開は、とても美しい。修飾語を拒んで書きつづけるカヴァフィスが、最小限のことばで若者を讃えるとき、その若者の短いいのちが強烈に輝く。
 また、この詩は「葡萄酒大杯作者」とつながっている。「葡萄酒」では十年という年月が明確に書かれていたが、この詩でも期間こそ明記されていないが「長い年月」がある。その年月、時間の長さを忘れてはいけない。時間の長さ、時間を持続させるものとして「民族」がある。
 時間とカヴァフィスのなかで凝縮したり拡大したりする。そうして立体的になる。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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