坂多瑩子「雨」ほか(「狼」23、2014年06月発行)
坂多瑩子「雨」は書き出しがとてもおもしろい。
「ポットの目盛りが②からちっとも増えない」のは、どこかに穴かひびがあって、そこから降ってくる雨と同じ量の水が漏れるからか、それとも雨の量が少ないからか。でも、②まで溜まったのだから雨が降る量が少ないということはないだろうなあ。
ということよりも、②の目盛りに気がついた視力がおもしろい。
ということよりも、②の目盛りから増えないとわかるまでみつめている視力の持続力がおもしろい。
私は目が悪いので、そういうことに時間をかけなくなっているので、そうか、じっと何かをみつめれば、そしてその見えたものをことばにすれば、そこに詩は動くんだな、と思った。
そのあとは、しかし、少し物足りない。
「島」が見えて、島に「あかり」、あかりは「赤い色」、赤い色は「祭り」の日の色。--視力は持続というか、しり取りのように動いていくが、その動きのなかに書き出しほどの停滞感がない。持続というのは停滞感と一緒にあって、あ、こんなに私はまちきれない、このひとはよくこんな何もないところで待ちつづけているなあ、ことばを動かしつづけることができるなあと思うときに、なんだろう、ブラックホールに吸い込まれていくような魅力がある。あ、だめだ、吸い込まれていく、だんだん動けなくなる……という感じ。突きつめていくと『ゴドーを待ちながら』の重力の時間になるのだけれど。
もし、持続が「動き」へと変化するなら、その動きは自分には追いつけないくらいのスピードであってほしい。
坂多のことばのリズムは、どちらでもない。ちょっと軽すぎて、②を発見したときのような「手触り」、「増えない」と気づいたときのしつこさがない。
それは書きたいことが違うから--と、言われればそれまでだけれど。
この裏切り(?)は--つまり、1連目からの「切断」の仕方は、私にはよくわからない。
そうか、この「キライ」にリズムの変化の理由があるのか。「キライ」なものを、さっさとやりすごしたい。
わからないではないけれど、そんなことをすると「意味」が強くなるぞ。
きっと「意味」が出てきて、詩を締めくくることになるぞ、と思っていたら。
どうも、祭りの日に屋台で買った金魚(金魚すくいの金魚)が金魚鉢がわりのティーポットごと捨てられている。それを見たときのことを書いているということがわかる。
雨で少しくすんで見える水のなかを泳ぐ金魚は赤い灯のように見える。祭りの提灯の色に見える。だから祭りを思い出し、そこから祭りが終わったあとの金魚の時間を書いたのだろう。それを捨てた人間の時間を書いたのだとわかる。
でも、私は、こんなことはわかりたくない。こんなストーリーをわかりたくない。
そんなストーリーよりも、ポットの目盛りの②に気づく坂多自身のなかにある「時間(ストーリー)」をえぐるように書いてほしいと思う。ふつう、気がつかないよ。金魚が捨てられていると気がついても、そのポットに目盛りがあり、②から水が増えないということには。そういうことに気がつくには気がつくだけの、何かしらの「個性的な事実」が坂多にあるはず。それを「視力」でこじ開けてほしかったなあ、と思う。
一連目がおもしろいだけに、とても残念。
*
長谷川忍「街頭」も書き出しにはこころを動かされる部分がある。
「都心の蒼い空」というのはキザが真っ正面から歩いてくるようなことばで、思わず避けてしまいそうになるが、「読みかけの短編小説」が抽象的なので、このまま抽象を進んで行くのなら、「偶然」はおもしろくなるだろうなあ、と思う。「オキザリス」という花は私は知らないが、そういう具体からはじまったことばが抽象をくぐりぬけて、架空を走り抜けるならそこに新しい「都市」が見えてくるかも--そういう気持ちにさせられる。
でも、そのあと
になると、これは「流通詩」だねえ。いや、小津が出てきたっていいのだけれど、「古い」というようなありきたりのことばでは小津に長谷川が出会っている印象がない。長谷川ではなく、だれのものともわからない概念に出会っている感じがする。それも新しい概念ではなく「流通済み」の概念。
抽象こそ、「流通済み」を切り捨てなければならないんだけれどなあ、と思う。
坂多瑩子「雨」は書き出しがとてもおもしろい。
ざくろの木の下にころがっているティーポットの
欠けた口に雨が降りそそいでいる
ポットの目盛りが②からちっとも増えない
ポットのなかは薄明かりで
「ポットの目盛りが②からちっとも増えない」のは、どこかに穴かひびがあって、そこから降ってくる雨と同じ量の水が漏れるからか、それとも雨の量が少ないからか。でも、②まで溜まったのだから雨が降る量が少ないということはないだろうなあ。
ということよりも、②の目盛りに気がついた視力がおもしろい。
ということよりも、②の目盛りから増えないとわかるまでみつめている視力の持続力がおもしろい。
私は目が悪いので、そういうことに時間をかけなくなっているので、そうか、じっと何かをみつめれば、そしてその見えたものをことばにすれば、そこに詩は動くんだな、と思った。
そのあとは、しかし、少し物足りない。
私は泳いでいた
島が見える
島にはあかりが
赤い色がゆれていて
祭りの日だ
「島」が見えて、島に「あかり」、あかりは「赤い色」、赤い色は「祭り」の日の色。--視力は持続というか、しり取りのように動いていくが、その動きのなかに書き出しほどの停滞感がない。持続というのは停滞感と一緒にあって、あ、こんなに私はまちきれない、このひとはよくこんな何もないところで待ちつづけているなあ、ことばを動かしつづけることができるなあと思うときに、なんだろう、ブラックホールに吸い込まれていくような魅力がある。あ、だめだ、吸い込まれていく、だんだん動けなくなる……という感じ。突きつめていくと『ゴドーを待ちながら』の重力の時間になるのだけれど。
もし、持続が「動き」へと変化するなら、その動きは自分には追いつけないくらいのスピードであってほしい。
坂多のことばのリズムは、どちらでもない。ちょっと軽すぎて、②を発見したときのような「手触り」、「増えない」と気づいたときのしつこさがない。
それは書きたいことが違うから--と、言われればそれまでだけれど。
この裏切り(?)は--つまり、1連目からの「切断」の仕方は、私にはよくわからない。
祭りの日
なんて絵本か写真でしか知らない
おとなもこどももうれしそうな顔をして
だからキライだ
そうか、この「キライ」にリズムの変化の理由があるのか。「キライ」なものを、さっさとやりすごしたい。
わからないではないけれど、そんなことをすると「意味」が強くなるぞ。
きっと「意味」が出てきて、詩を締めくくることになるぞ、と思っていたら。
雨はまだ降っている
泳ぎ疲れた
いつからいっしょに泳いでいるあんた達
いったいどこからきたの
水の底の原っぱに電車がとまっている
あれに乗ってきた
こどもがいった
氷菓子
提灯
ハッカパイプ
ここはきっと祭りの日の捨て場所
看板がカタカタとめくれてティーポットに雨が降りそそぎ
ざくろの木の下 金魚が泳いでいる
雨
どうも、祭りの日に屋台で買った金魚(金魚すくいの金魚)が金魚鉢がわりのティーポットごと捨てられている。それを見たときのことを書いているということがわかる。
雨で少しくすんで見える水のなかを泳ぐ金魚は赤い灯のように見える。祭りの提灯の色に見える。だから祭りを思い出し、そこから祭りが終わったあとの金魚の時間を書いたのだろう。それを捨てた人間の時間を書いたのだとわかる。
でも、私は、こんなことはわかりたくない。こんなストーリーをわかりたくない。
そんなストーリーよりも、ポットの目盛りの②に気づく坂多自身のなかにある「時間(ストーリー)」をえぐるように書いてほしいと思う。ふつう、気がつかないよ。金魚が捨てられていると気がついても、そのポットに目盛りがあり、②から水が増えないということには。そういうことに気がつくには気がつくだけの、何かしらの「個性的な事実」が坂多にあるはず。それを「視力」でこじ開けてほしかったなあ、と思う。
一連目がおもしろいだけに、とても残念。
*
長谷川忍「街頭」も書き出しにはこころを動かされる部分がある。
咲き始めたオキザリスの花弁に
ふと気づいた。
読みかけの短編小説に描かれていた
都心の蒼い空を
偶然みつけてしまう。
「都心の蒼い空」というのはキザが真っ正面から歩いてくるようなことばで、思わず避けてしまいそうになるが、「読みかけの短編小説」が抽象的なので、このまま抽象を進んで行くのなら、「偶然」はおもしろくなるだろうなあ、と思う。「オキザリス」という花は私は知らないが、そういう具体からはじまったことばが抽象をくぐりぬけて、架空を走り抜けるならそこに新しい「都市」が見えてくるかも--そういう気持ちにさせられる。
でも、そのあと
言葉を綴ることに疲れて
ミニシアターに入ってみる
古い小津映画を観る。
になると、これは「流通詩」だねえ。いや、小津が出てきたっていいのだけれど、「古い」というようなありきたりのことばでは小津に長谷川が出会っている印象がない。長谷川ではなく、だれのものともわからない概念に出会っている感じがする。それも新しい概念ではなく「流通済み」の概念。
抽象こそ、「流通済み」を切り捨てなければならないんだけれどなあ、と思う。
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