詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹『冠雪富士』(28)

2014-07-19 09:50:35 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(28)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「未来」のことばを動かしているのも、いままで池井があまり書かなかった「声」である。(私は、池井の詩を全部読んでいるわけではないので、ただなんとなく、そう感じるだけであって、ほんとうはたくさん書いているかもしれないし、この詩が初めてかもしれない。--こういうことに対して、私は「厳密」を求めない。あれっ、池井はこんな
「声」も出すのだ、と思うだけである。)

これですよ
ゆびさしたのは
ぬぎすてられたぼろジャンパー
これもです
ペットボトルにあきかんのやま
そうしてこれも
エレヴェイタアはへどのうみ
かれらにちがいないですな
とうとうやってきましたな
かたをおとしてためいきついて
あおざめているわれら旧人
われらとかれら新人は
ヒトであっても係累はなく
うけつぎうけつがれるなにもなく

 自分とは断絶した生き方をしている人間(若者)に出会ったときの感想である。池井の詩はいつでも池井自身が何を受け継いでいるかを書いている。この詩でも間接的に池井が受け継いでいるものを語りはするが、直接的に語っているのは、池井を受け継がない若者の姿である。

そろそろかれらのおでましだ
ケータイかたてにかたいからせて
当世暴君おでましだ
しっぽをまいてたいさんだ
新人さまのばらいろの
かがやけるみらいのかなた
まなこらんらんかがやかせ
おいかけてくるもののかげ
またおいすがるいきづかい
幕開けだ!

 で、その「若者」なのだが。池井の考えていることが、実は、わたしにはわからない。「われら旧人」と「かれら新人」は「ヒトではあっても係留はなく」と書かれていたはずだが、ほんとうに「係留」はないのかな? 
 揚げ足取りみたいな言い方になるが、ほんとうに「係留」がないのだとしたら「暴君」という表現は何を意味するだろうか。「われら旧人」の間には「暴君」はいなかっただろうか。「暴君」のいない「当世」はあっただろうか。
 たとえば、2014年の安倍晋三。かれは「旧人」だろうか、「新人」だろうか。どっちかわからないが、私には「暴君」に見える。あちこちにペットボトル、空き缶を散らかしはしないかもしれないが、ヘド以上のものをまきちらして、そのヘドを別のことばでいいつくろっている。安倍の論理は、どうみても非論理だが(論理的に破綻しているが)、数の力で論理と言い張っている。「暴君ではない」と言い張っている。
 彼に比べると、ぼろジャンパーを捨てたり、ポットボトル、ヘドなんて何の問題もない。ひとを殺すわけではないのだから。
 というのは脱線で。
 「当世暴君……」からの、ことば。明るくない? 「かがやけるみらい」「まなこらんらんかがやかせ」と「かがやく」が2回出てくるから? いや、これは皮肉? あ、私は皮肉というものがわからない人間で、ことばをそのまま受け取ってしまって、「ばらいろの/かがやけるみらい」しか見えない。
 池井の書こうとしていることに反するかもしれないけれど、この詩の後半を読んでいると、「当世暴君」になって暴れたいという気持ちになってくる。
 池井が「しっぽをまいてたいさん」したあと、どうするのかわからないけれど、私は退散するふりをして、ちょっと隠れていて、若者が切り開いてくれたあとを若者ぶって走ってみたいなあ。ひとの切り開いてくれた道をのこのこというのはつまらないかもしれないけれど、へえーっ、若者って、こんなふうに世界が見えるのかと楽しんでみるのもいいなあ。
 で、追いかけながら、いま書いたこととまったく矛盾するわけだけれど、こんな若者許さんぞ、と「安倍晋三」に豹変して、「旧人」パワーで若者をぼこぼこ殴るなんていうのも老人の楽しみかな? おもしろいかもしれないなあ。ひとを攻撃するときは、絶対安全な後ろから、反撃されない距離で(逃げれる方法を確保して)、というくらいのことはしたい。自分が痛いのはいやだから。

 そんなこと書いていない? 私の「誤読」?
 「誤読」は、知っている。というか、私は「正解」(正しい読み方)など最初からこころがけていない。
 この詩には、なんというか「未来批判」(若者批判)みたいな「意味」が書かれているようだけれど、でも「絶望」の暗さがない。ことばが軽やかだ。「歌」になっている。
 それがいい。

 人間って変なものだと思う。映画の殺しのシーンなんか、殺人が絶対的な悪だとわかっていても、わくわくするでしょ? 「ゴッドファザー」で車に乗った男が後ろから首を閉められて殺される。舌が唇からまるまったままはみ出し、目がぎょろりと開いている。苦しくて足をばたばたさせてフロントガラスを割ってしまう。そういうものに、私はみとれてしまう。恍惚としてしまう。あれは何なのかなあ。死ぬ瞬間に、こんな力が「肉体」から出てくるのか、と感じているのかなあ。苦しいって、こんなに影像としておもしろいのか、と思っているのか。殺してみたいのか、殺されてみたいのか。ことばを探すと、ぜんぜんわからなくなるのだけれど。
 わからなくてもいい。
 何かが反応している。私の中で。
 それと同じような、反応が起きている。この池井の詩、特に後半を読むときは。「意味」を考えはじめるとわけがわからなくなるが、後半のリズムと音の明るさが、私にはうれしい。そのうれしさに反応するのが、私の何なのか私はわからないけれど、反応している自分が好き。

冠雪富士
池井 昌樹
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(119)

2014-07-19 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(119)
        
 「イタリアの岸で」は、「声にならない声」を書いている。「主観」が主観でありながら、いつものカヴァフィスの強い調子がない。

ギリシャ系イタリア青年キモス。メネドロスの子。
快楽にいのちを捧げつくすこころ。
南イタリアの植民市に住む青年はだいたい皆そう、
ぜいたく運にめぐまれた者ならば--。

 一連目は、男色を描いた文体とつながる簡潔さを持っている。「ぜいたく運にめぐまれた者」という強靱なことばの結合がカヴァフィスらしい。(中井久夫の文体が強靱でおもしろい。)
 ところが二連目から、すこし違う。

だが今日という今日はいつもと違う。
さすがのキモスもしおれて心ここにあらずのさま。
キモスは見る、船が岸壁で荷を降ろすのを。
ペロポネソスからの戦利品。
思いは千々に乱れて尽きず。

 「快楽にいのちを捧げつくすこころ」という剛直さが消えて、「しおれて心こころあらずのさま」。弱々しい。頼りない。
 そして、その弱く頼りない感じを、中井久夫は「さま」(様子)ということばで、あいまいに表現している。一連目では「こころ」がはっきり見えたのに、二連目では「こころ」が「さま」の奥に揺れている。「こころ」ではないものが、肉体の前に(表面に?/上層に?)漂っていて、そこから「こころ」が推測できるとき「……のさま」というのだと思う。
 そういう対比のあとで、

ギリシャから分捕る。コリントスよりの戦利品。

 これは「荷箱に大書されている文字」と中井久夫は注に書いているが、キモスの視線はいつものように男色の相手に注がれているのではない。船の荷物、その箱に書かれた文字に注がれている。そして、自分にはギリシャ人の血が流れていることを自覚して、単純に喜べないでいる。こころは男色の相手に向かって動くときのように欲望の剛直さを持っていない。あからさまではない--といいたいけれど、そのゆらぎは「あからさま」である。「……のさま」の、まさに、その「さま」が見えている。
 カヴァフィスは、ことばにされなかったこころの動きをも、こんなふうに的確に表現する。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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