詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹『冠雪富士』(32)

2014-07-23 09:17:22 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(32)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「人事」という詩は、この詩集に何回か登場することばのスタイルと似ている。同じことばを少し変えて繰り返し、「歌」のようにことばに酔うのだが、さらに繰り返すこと酔いのなかから、ふっと、新しいことばがこぼれて出てくる。それはある意味では酔い疲れた男の「へど」のようにも見えるが、そこには何か未消化なものが鮮やかな形で開いている。それを「美しい」と言う人は少ないかもしれないけれど。辟易した気持ちで見る人もいるだろうけれど。

よるとしなみにはかてないと
いつかよくきかされたけど
なんのことやらわからずに
ただゆきすぎておいこして
えきのかいだんとぼとぼと
ひとりうつむきのぼるころ
こみあげてくるこのおもい
よるとしなみにはかてないな
どこをまわってへめぐって
うちよせたのかこのおもい
あすのわがみもしらぬげに
ただゆきすぎておいこして
よるとしなみにさらわれて
こんなさかんなゆうばえを
ひとごとのようほれぼれと

 池井には「へど」を吐いた気持ちなどない。覚えなどない、と言うだろうなあ。
 吐いてしまえばすっきりする。そうして、そんなことを忘れて、「ゆうばえ」をほれぼれとみつめてしまう。

こんなさかんなゆうばえ

 の「こんな」を見るために、「こんな」に気づくために、池井はどこかを歩いてきた。「こんな」は「いま/ここ」にのみ存在する。そして「いま/ここ」にだけ存在するから、いつでもそれは「見えた」。ただし、そのときは「こんな」という意識はなかった。知らず知らずに見ていて、「いま/ここ」で「こんな」に気がつく。
 そうして「ほれぼれ」と放心する。その「放心」のなかへ、「いつか/どこか」で見た夕映えのすべてが集まってくる。
 それは「人事」とは無縁の美しいものだ。「人事」ではなく「自然(宇宙)」に属する何かだ。
 池井は、ここでは「歌」を歌っている。

 また、最後の「ひとごとのよう」が、不思議とおもしろい。「自分のこと」なのに「自分のことではない」。けれど、それをやっぱり「自分」だと思う気持ちがどこかにある。「自分」と「自分以外」が溶け合っている。
 「自分」が「ひとごと」になって、そこに「永遠」があらわれる。
 「ひとごと」が「自分のこと」になるとき、「永遠」が急にやってくる。この「急に」は別なことばで言うと「知らず知らずに(知らないうちに)」でもある。短い時間と長い時間が出会って、「時間」が消える。
 こういう瞬間、「論理(説明)」はいらない。ただ、それに共鳴する「歌」が必要だ。池井は、その「歌」を歌っている。酔ってぼんやりしたときに思い出して歌う流行歌のようなものだけれど、そしてそういうものに「意味」はないのだけれど、ついつい歌ってしまう「こと」のなかに、何か「真実」がある。


冠雪富士
池井 昌樹
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(123) 

2014-07-23 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(123)        2014年07月23日(水曜日)

 「小アジアの地区にて」は「ことば」というものについていろいろ考えさせてくれる。文学について、と言い換えてもいい。

アクティウムからの知らせ、あの海戦の結果は
むろん意外だった。
しかし、新たな宣言起草は必要ない。
名前だけ変えればいい。
だから結論のところをこうする。
「オクタウィウス、かの災い、カエサルの戯画より
ローマ人を解放して」を
「アントニウス、かの災いより
ローマ人を解放して……」とする。
原稿全体は見事ぴったりさ。

 何か「こと」が起きる。その「こと」とは「名詞」ではなく「動詞」である。いまの引用でいえば「解放する」という動詞が「こと」の基本である。「かの災い」は「解放する」という動詞と連動している。ローマ人を苦しめている悪政である。だれが解放しようが、関係がない。いや、解放した人にとっては自分が「主語(主役)」であるということは大事なことだが、人は「主役」などどうでもいい。主役はたいていひとりであり、苦しんでいる市民(主役以外の人間)の方が多いのだから。--という事情は、もちろん「主役」には関係がない。だから「主役」もちゃんと書き換える。でも、「主役」によって「動詞」を書き換えるということはしない。これが大事だ。
 「主役(主語)」は動詞が書き換えられなかったこと、「こと」が書き換えられなかったことを知らない。
 「主語」を書き換えた後、「こと」のまわりに付随する修飾語ももちろん書き換える。このとき、その修飾語は「主語(主役)」向きにととのえられる。修飾語が変わると世界全体が変わったように見えるが、「こと」は変わらない。
 その「こと」は変わらない--という視点から、カヴァフィスの書いている詩全体を見渡すとどういうことがわかるだろうか。
 カヴァフィスは史実を題材にして多くの詩を書く。史実は主語と動詞でできているが、動詞というのは主語が変わっても「こと」自体は変わらない。たとえば、「戦争をする」という動詞。古代、ギリシャとローマが戦争をする。近代ではギリシャとトルコが戦争をする。そのとき、そこに割って入ってくる(加担してくる)外国の動きがある。その「加担する」という動詞も変わりようがない。戦争の中で、ギリシャ国民が「苦しむ」という動詞も変わりがない。だから、古代の史実のなかにある「こと」を生かしながら(「こと」を成り立たせている動詞を生かしながら)、そこに現代の似姿を浮き彫りにすることができる。カヴァフィスは、その手法で現代のギリシャ、現在のカヴァフィス自身の立場を書く。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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