詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹『冠雪富士』(36)

2014-07-28 11:03:05 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(36)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「野辺微風」は「人類」の続編と呼べるかもしれない。東日本大震災について何か書こうとして、その何かがうまく書けなかった。書き残したことがある。それを書き直したという印象がある。

こんなことでも なかったら
こうして であえなかったろうに

 こんなことでも なかったら
 だれとも であえなかったろうに

こんなことでも なかったら
こんなことでも なかったら

 「こんなこと」としかいいようのないことがある。起きたことが未体験のことなので、それをことばにする方法がわからない。「こんなこと」としかいいようがない。「こんなこと」で通じてしまうのは、誰もがいっしょに経験したことだからである。具体的なことを言わなくてもわかる、いや具体的なことは「こんなこと」としかいいようがない。まだ、ことばはあらわれてきていないのだ。季村敏夫は阪神大震災のあと『日々の、すみか』(みすず書房)で「出来事は遅れてあらわれた。」と書いたが、「こんなこと」がことばになるにはやはり時間がかかる。「こんなこと」がことばのなかにやってくるのは、もっと遅れてからである。でも、そういうものを待っていて書くのではなく、いま書きたい、いま書かねばならないという気持ちが、ことばを動かして、こうして詩になっている。(「人類」もやむにやまれずに、突き動かされて「ことば」を動かした詩といえるだろう。)

 けれども あいたくなんかなかった
 だれとも あいたくなんかなかった

こんなことさえ なかったら
こんなところで ひとりきり

 「便りのないのは無事な頼り」という言い方があるが、だれとも会わずに暮らせる「平穏」というものもある。誰に会わなくてもつづけられる「日常」というものがある。誰かに会わなければいけないのは非日常なのである。
 東日本大震災のあと、被災者は、誰かに会わなければならなかった。会うことが生きていることを伝える唯一のたしかな方法だからである。そんなふうに切羽つまられること--そんなことなど、だれもしたくなかっただろう。
 しかも、「ひとりきり」で誰かに会う。「ひとりきり」なのは、ほんとうに会いたいひと、いっしょにいたいひとがそこにいないからである。「こんなこと」が人を引き裂いている。
 そんな思いで、人は出会っている。そのとき、安心と、悲しみが同時にある。

 こんなことさえ なかったら
 みんなおんなじ ひとりきり

こんなことさえ なかったら
こんなことさえ なかったら

 こうして さいて いられたろうに
 いちめん ゆれて いられたろうに

 普通は、なんにもないときは、ひとはみな「ひとりきり」である。誰かと会っている、いっしょにいるということを意識する必要はない。けれど、今は、意識するために生きている。いっしょにいるということを確かめるために生きている。だれといっしょにいるのか、だれがいっしょにいないのか、それを確認するために生きている。まずしなければならないのは、そういうことだと神経が張り詰めている。

 それから時間が経って、いま、目の前では野の花が咲いている。風にゆれている。もし、大震災がなかったら。--そう、池井は、この詩を書いたとき思っていたのだと思うが……。そうだとして、

こんなことさえ なかったら
こんなことさえ なかったら

 繰り返されるのは「あんなこと」ではない。「こんなこと」。大震災も福島第一の事故も「あんな」という離れた「こと」ではなく「こんな」という自分に接続したものなのである。
 「こんな」はつづいている。
 池井はいま「こんなこと」と書くことで、大震災と福島第一の事故を引き受けているのである。

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(128)

2014-07-28 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(128)        
 「口語」の不思議さは、「ことば」の「意味(頭の中で整理されることがら)」が正確にわからなくても、それを話しているひとの「感情の真実(こころのなかで起きていること)」がわかることだ。「ユリアノスとアンチオキアびと」の最後の二行。

だからさ、みんな揃って「キ」を選んだ。
揃って「コ」を選んだ。ああ百度でも選んださ。

 「キ」と「コ」が何をあらわすか--それがわかる前に、「キ」と「コ」がこころから望んだものではないことが伝わってくる。正確に口にするなんて、まっぴら。その強い感情から出発して「キ」と「コ」が何をあらわしているか、人は直感的につかみ取る。「頭」を通さずに、嫌悪という感情でつかみ取る。こういうときの感情の判断は頭の判断よりも正確である。感情は絶対に間違えない。事実というより、感情を共有するのかもしれない。
 この「ああ百度でも選んださ。」という投げやりなことばの背後には何があるか。感情は、あるいは本能は、ほんとうは何を選びたかったのか。何に親しんでいたのを奪い取られたのか。
 それは最初に書かれている。

そもそもがだ、みんなだ、一体全体どうしてあの美的生活をだ、
捨てられるってのか。あの快楽の日々のひろがりのすべてを。
さんざめく芝居小屋。あのかがやき。
しなやかな肉のエロスと芸術がひとつに溶ける劇場!

 「キ」。キリスト教以前の生活。快楽に満ちていた。
 「そもそもがだ」「みんなだ」「生活をだ」と「だ」によって、文章を「単語」に切り詰めて、その一瞬一瞬に何かを爆発させる言い方--全体を無視して、その一瞬にかける動き。これはそのままセックスにつながる。「快楽の日々」の人間の動きに合致する。
 「捨てられるってのか。あの快楽の日々のひろがりのすべてを。」という倒置法は「捨てられない」という欲望の強さ(欲望の悔しさ)を強調すると同時に、「快楽」をそれと同等のものに輝かせる。
 倒置法によって強調された「快楽」が、そのまま次の行に直接つながっていく。
 これが「あの快楽の日々のひろがりのすべてを捨てられるってのか。」という普通の文章だったら、次の「さんざめく芝居小屋……」と言いなおされる快楽の広がりが遠くなってしまう。
 中井久夫の訳は、欲望(本能)が触れ合っている部分を、触れあったままの形でつかみ取って再現している。こういう感情(欲望)の正直な動きを「口語」として聞いたあとなので「キ」ト「コ」が何を意味しているのかわからなくても、それが何を指しているのかが直観としてわかってしまう。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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