池井昌樹『冠雪富士』(22)(思潮社、2014年06月30日発行)
「とんちゃんのおうどんやさん」は幼い日のうどんの思い出、うどん屋に登場したテレビ(月光仮面)の思い出が、まず語られる。
「うどん」ではなく「おうどん」。そのことばに池井の幼い日が象徴されている。(私は「うどん」に「お」をつけたことなど一度としてないが、池井は、まあ、そういう育ちなのだ。)
で、「お」によってはじまる「非日常」。池井は「質素な暮らし」と書いているが、質素ではあっても「非日常」があるということは、すでに「質素」ではないかもしれない。でも、そのことに池井は気づいてはいない、と書いてしまうと、詩が別の方向に動いて行ってしまう。
詩に戻ろう。
まず「芳香」、匂いから池井の感覚が動きはじめている。これは「異相の月」で触れたことに通じるが、池井の「感覚の原点」である。嗅覚で世界を把握する。世界を、その空気を自分の肉体の中にいれる。
次に、「辛すぎるからと母の取り除く唐辛子の赤がおうどんの出汁に溶けてゆく一部始終を凝と視ていた。」と凝視、視力(視覚)がやってくるのだが、その「視覚」が見ているものが「溶けてゆく」であるのも池井の特徴である。唐辛子の赤い色が出汁に溶けていく--一体になっていくのを、凝視し、うっとりしている。放心している。凝視とはいうものの、それは「見る」の放棄である。「視覚」を捨てるのだ。
そうすると、
感覚は消えるのではなく、ほかの感覚を目覚めさせる。聴覚が目覚め、嗅覚、視覚と渡り歩き、それが組み合わさり、融合して「気の遠くなるほど明る」くなる。実際、池井はそのとき「放心して」いる。「気(心)」がどこか遠くへ行ってしまっている。ただし、この「遠く」とは、たぶん「頭」から遠くなのであって、「こころ」自身は「こころ」の奥底へかえっていき、あらゆる区別がなくなるということ。
この感覚の融合を「匂い」のなかでつかみとる動きは、もう一度、この詩のなかで書かれている。ちょうどなかほどあたり。
「匂い」を「生活臭」「悪臭」ととらえなおしている。ただし、それは「いま/ここ」の池井が感じることであって、幼いときは「希望の匂い」「泣きたいような芳香」だったと書いている。
「匂い」が変わっている。「匂い」そのものは変わらなくて、ほんとうは池井自身の「肉体」が変わってしまったので「希望の匂い」「芳香」が「生活臭」「悪臭」に変わったのである。
「貧しい」ということばがここでも出てくるが、最初に出てきたとき「貧しい」は実は「貧しい」ではなかった。母親がうどんのなかの唐辛子をとってくれる(そんなふうに子どもの世話をする)というのは「貧しい」生活ではなく、豊かな生活である。
「貧しい」、あるいは生きるために人はどんな具合に苦労しているのかわかるのは、実際に池井がその苦労をしてからのことである。「芳香」が「悪臭」であるとわかるまでに池井がどんな苦労をしてきたかは、この詩には書いてない。
かわりに、こう書かれている。
この「とんちゃんのおうどんやさんなら」というのは、長くて引用できなかったが、途中で出てくる、「とんちゃんとけんかしたらテレビを見せてくれなかったとんちゃんのおうどんやさん」ということ。親がこどもを真剣に愛し、そのためなら何だってするということ。それを池井は、池井の息子(義父の孫)を「見遣る」目つきに感じた。その目は、かつては娘(池井の妻)にも注がれていた。
そして、その「見遣る」という行為、その目差しに、いたることろにあって、それが「生活」を支えていた。自分のためではなく、子どものために働く--その貧しさは、貧しさではない。そのときの生活臭は「臭い」ではなく、「芳香」の隠し味なのだ。
「生活臭」「悪臭」ということばを作品の中程でつかっているが、池井は、それをもう一度「芳香」「希望の匂い」として感じている。
外からではなく、池井の「肉体」のなかから。先の詩のことばのつづき。
何かが込み上げてくるとき「ウッとする」。池井は、ここでは「ウッとした」とは書いていないが、やはり「ウッとしている」。ただし、それはとんちゃんのうどん屋で戸をあけたときに押し寄せるにように外からやってくるものへの反応ではなく、池井の「肉体」のなかで起きている反応のために「ウッとしている」。
かつて池井の「肉体」の外にあったものが、いまは池井の「肉体」のなかにある。
それは、かつて放心する池井を見守っていた「視線」を、いまは池井がもっている、そうしてだれかを見つめているということになる。
幼い日の思い出と、最近思ったことをただ書きつないでいるだけの詩に見えるけれど、その奥には真摯な「暮らし」がつづいている。その真摯がこの、ただあったことをかきつづっただけのことばを詩に、「必然」に変えている。
「とんちゃんのおうどんやさん」は幼い日のうどんの思い出、うどん屋に登場したテレビ(月光仮面)の思い出が、まず語られる。
ガタピシの木戸を開ければウッとした。天にも昇る芳香だった。生
まれた家の数軒隣にとんちゃんのおうどんやさんがあった。家は大
家族で質素な暮しだったから滅多に食べさせてもらえない憧れのお
うどんを前に夢心地だった。辛すぎるからと母の取り除く唐辛子の
赤がおうどんの出汁に溶けてゆく一部始終を凝と視ていた。
「うどん」ではなく「おうどん」。そのことばに池井の幼い日が象徴されている。(私は「うどん」に「お」をつけたことなど一度としてないが、池井は、まあ、そういう育ちなのだ。)
で、「お」によってはじまる「非日常」。池井は「質素な暮らし」と書いているが、質素ではあっても「非日常」があるということは、すでに「質素」ではないかもしれない。でも、そのことに池井は気づいてはいない、と書いてしまうと、詩が別の方向に動いて行ってしまう。
詩に戻ろう。
まず「芳香」、匂いから池井の感覚が動きはじめている。これは「異相の月」で触れたことに通じるが、池井の「感覚の原点」である。嗅覚で世界を把握する。世界を、その空気を自分の肉体の中にいれる。
次に、「辛すぎるからと母の取り除く唐辛子の赤がおうどんの出汁に溶けてゆく一部始終を凝と視ていた。」と凝視、視力(視覚)がやってくるのだが、その「視覚」が見ているものが「溶けてゆく」であるのも池井の特徴である。唐辛子の赤い色が出汁に溶けていく--一体になっていくのを、凝視し、うっとりしている。放心している。凝視とはいうものの、それは「見る」の放棄である。「視覚」を捨てるのだ。
そうすると、
夏は手
廻しの掻き氷。シャカシャカ氷を削る音、鮮やかな蜜の色、胸の空
くその匂い、独りで切り盛りする汗だくの小母さんの声、何もかも、
気の遠くなるほど明るかった。
感覚は消えるのではなく、ほかの感覚を目覚めさせる。聴覚が目覚め、嗅覚、視覚と渡り歩き、それが組み合わさり、融合して「気の遠くなるほど明る」くなる。実際、池井はそのとき「放心して」いる。「気(心)」がどこか遠くへ行ってしまっている。ただし、この「遠く」とは、たぶん「頭」から遠くなのであって、「こころ」自身は「こころ」の奥底へかえっていき、あらゆる区別がなくなるということ。
この感覚の融合を「匂い」のなかでつかみとる動きは、もう一度、この詩のなかで書かれている。ちょうどなかほどあたり。
ガタピシの木戸を開ければウッとした。そ
れは煮干の出汁やら葱やら汗やら様々な生活臭の入り混じった悪臭
に違いなかったが、この世の新参者である幼いものにとっては、こ
の世に生まれた甲斐のある希望の匂い--泣きたいような芳香だっ
た。みんなみんな貧しかった。
「匂い」を「生活臭」「悪臭」ととらえなおしている。ただし、それは「いま/ここ」の池井が感じることであって、幼いときは「希望の匂い」「泣きたいような芳香」だったと書いている。
「匂い」が変わっている。「匂い」そのものは変わらなくて、ほんとうは池井自身の「肉体」が変わってしまったので「希望の匂い」「芳香」が「生活臭」「悪臭」に変わったのである。
「貧しい」ということばがここでも出てくるが、最初に出てきたとき「貧しい」は実は「貧しい」ではなかった。母親がうどんのなかの唐辛子をとってくれる(そんなふうに子どもの世話をする)というのは「貧しい」生活ではなく、豊かな生活である。
「貧しい」、あるいは生きるために人はどんな具合に苦労しているのかわかるのは、実際に池井がその苦労をしてからのことである。「芳香」が「悪臭」であるとわかるまでに池井がどんな苦労をしてきたかは、この詩には書いてない。
かわりに、こう書かれている。
とんちゃんのおうどんやさんが私の中から込み上げてきたのは、義
父の三十五日法要へ妻と連れ立ち車窓を眺めていたときのことだっ
た。漁師町から環境の異なる農家へ婿入りし、その本家を義父は無
言で支えて逝った。一人娘を嫁がせるのはどれほど淋しく無念だっ
たろう。正月毎に幼い伜どもを連れてお邪魔する度、皺深い眼をし
ばたたかせ孫を見遣った。無言で酒を干しながら。--そうか、と
んちゃんのおうどんやさんなら義父にだってあったのだ。
この「とんちゃんのおうどんやさんなら」というのは、長くて引用できなかったが、途中で出てくる、「とんちゃんとけんかしたらテレビを見せてくれなかったとんちゃんのおうどんやさん」ということ。親がこどもを真剣に愛し、そのためなら何だってするということ。それを池井は、池井の息子(義父の孫)を「見遣る」目つきに感じた。その目は、かつては娘(池井の妻)にも注がれていた。
そして、その「見遣る」という行為、その目差しに、いたることろにあって、それが「生活」を支えていた。自分のためではなく、子どものために働く--その貧しさは、貧しさではない。そのときの生活臭は「臭い」ではなく、「芳香」の隠し味なのだ。
「生活臭」「悪臭」ということばを作品の中程でつかっているが、池井は、それをもう一度「芳香」「希望の匂い」として感じている。
外からではなく、池井の「肉体」のなかから。先の詩のことばのつづき。
--そうか、と
んちゃんのおうどんやさんなら義父にだってあったのだ。電車の中
でその思いが熱く苦しく込み上げてきたのだった。
何かが込み上げてくるとき「ウッとする」。池井は、ここでは「ウッとした」とは書いていないが、やはり「ウッとしている」。ただし、それはとんちゃんのうどん屋で戸をあけたときに押し寄せるにように外からやってくるものへの反応ではなく、池井の「肉体」のなかで起きている反応のために「ウッとしている」。
かつて池井の「肉体」の外にあったものが、いまは池井の「肉体」のなかにある。
それは、かつて放心する池井を見守っていた「視線」を、いまは池井がもっている、そうしてだれかを見つめているということになる。
幼い日の思い出と、最近思ったことをただ書きつないでいるだけの詩に見えるけれど、その奥には真摯な「暮らし」がつづいている。その真摯がこの、ただあったことをかきつづっただけのことばを詩に、「必然」に変えている。
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