詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹『冠雪富士』(27)

2014-07-18 10:16:31 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(27) (思潮社、2014年06月30日発行)

 「運命」は風船が怖いというの池井の告白。風船のどこが怖い? 「物言わぬ軽みが怖い。いまにも張り裂けんばかりの照りが怖い。」なるほど、割れるのが怖いらしい。音が怖いということだろう。風船を見ると池井は「かたく眼を閉じ掌を耳にあて」、逃げていたらしい。ところが、

    どんな運命の悪戯か、その風選が春
風に乗り麗かに店内侵入してきたのだ。客た
ちはみなそ知らぬ顔の立ち読みさなか、店員
私は独り異物を店外撤去せにゃならず、南無
三宝、おっかなびっくりへっぴりごしで抱え
た途端鼻先で大音響の大破裂。失神しかけの
私を振り向き客たちはみな白い眼だ。

 うーん、このことばの、どこに詩があるのかなあ。これが詩なのかなあ。60歳過ぎの男が風船の処理に誤り、破裂させてしまう。そして失神しかけてしまう。そういう姿を見れば、だれだって池井を「白い眼」(冷たい眼、批判的な眼)で見る。
 「事実(起きていること)」に眼を向けていたのでは、詩がどこにあるかわからない典型がここにある。どこに、ことばの工夫があるのか。「南無三宝」ということばに詩がある。その「意味」ではなく、「音」に詩がある。「撤去しなければならない」ではなく、「撤去せにゃならず」と口語の語尾が紛れ込んだ音が、その口語のなめらかさのまま「南無三宝」の響きへつづいていく。そのとき、聞こえてくるのは「意味」ではなく、おじいちゃんやおばあちゃんが言っていた口癖の「響き」。「意味」よりも、こういうときには「こういうことば」を言うという音。それがそのまま受け継がれ、それが「肉体」のなかにたまりつづけて、やがてなんとなく、そのおじいちゃんおばあちゃん(それにつながる多くの人々)の「肉体」のなかで動いていたものが「肉体」として、わかる。「意味」にしないまま、「音」(口癖)として、わかる。
 この「音(口癖/肉体)」の共有が、この詩の基本。そこに詩がある。
 で、そういう「音(口癖/肉体)」の共有のつづきとして「おっかなびっくりへっぴりごし」という音もある。「おそるおそる」という意味だが、「おそるおそる」では「肉体(口癖/音)」がもっている共有感が違ってくる。
 詩、そのものが、違ってくる。
 で、そのあと、

                 不運は
斯様に忍び寄る。逃げ隠れても何処までも執
念く私へ忍び寄るそやつを捕え一瞬間で締め
上げて泥を吐かせる裏家業さ。ざまあみろ。

 風船が割れてしまうと、もうこわくないので、一転して強気になる。それがおかしいし、その強気のことばに「斯様(かよう)」「執念(しゅうね)」というような「音(耳から聞いて覚えた文字)」が紛れ込んで、「意味」に変わるところなんかに「肉体」の「さま」が見えるからおもしろい。
 「音」が「文字」になり、「意味」になり、「肉体」のなかからことばにならなかった何かを吐き出す。恐怖を吐き出す。そして、恐怖を吐き出してしまうと、ついでに(?)、罵詈雑言を吐き出す。恨みつらみを吐き出す。そうして、すっきりする。「肉体」が。つまり「肉体」のなかにあるもやもやが、感情が。
 「泥を吐かせる」という口語(やくざことば)、「ざまあみろ」へのつながりのスピードとかもおもしろいねえ。晴々とした池井の肉体(顔つきや体の動き)が見える。そこまで晴々しなくてもいいのに、と笑いだしてしまう。
 
 こういう部分(ことばの変化)を「意味」を追いながら読んであれこれいうよりも、その「音」が出てくるときに見える「人間関係(肉体の動かし方やあれこれ)」の方がおもしろい。その、ことばにしにくい「音」と「人間のさま」のようなものがおもしろい。
 池井は、「純真な真実(?)」だけではなく、こういう「やくざ」(無邪気?)も肉体としてもっている。「肉体」の幅(領域?)が広い。その広さを感じさせる詩だ。

冠雪富士
池井 昌樹
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(118)

2014-07-18 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(118)        

 「その生涯の二十五歳に」は、二十五歳のときの思い出だろうか。行きずりの男色の相手が忘れられずに、

彼は規則正しく宿に足を運んだ。
先月ふたりが会った宿だ。
だが たずねても詮ない
皆の口ぶり。感触からすると
全然顔の知られていない子らしい。

 一行目の「規則正しく」がなんともおもしろい。「顔の知られていない子」から判断すると、若者は「規則正しく」やってくるわけではない。その不規則に出会うために、カヴァフィス自身は同じ時間に宿へ行く。「彼」と書かれているが、自己を第三者ふうに語っている。ふたりが勝手気ままな時間に行っていれば、出会う可能性はさらに小さくなる。ひとりが「規則正しく」そこいれば、他方が偶然来ても出会えるというわけか。

今にもはいってこないか。ひょっとして今夜こそ扉を排して--。

 カヴァフィス自身は「ひょっとして」を排除して「規則正しく」そこにいる。「規則正しい」からこそ「ひょっとして」という思いが強くなる。
 しかし、これが「三週間」もつづくと、気持ちは少し別な様相を見せる。

こうしちゃおれぬの思いはもちろん。
でも、どうにでもなれの気も時々。
冒す危険は承知の助で
あえて受けようと覚悟の彼。このまま行けば
まずは醜聞で破滅とわかっちゃいるが。

 「規則正しく」その宿にあらわれれば、目撃される機会も多くなる。醜聞の危険はそれにつれて高まる。「どうにでもなれ」は自分が「どうなってもかまわない」という気分。「どうなってもかまわない」と覚悟して、相手についていくことを恋と言うが、カヴァフィスの場合、その相手はいなくて、気持ちだけが動いている。
 この「どうにでもなれ」に、その次の行の「承知の助で」という口語が拍車をかける。そこには「規則正しく」というような「律儀」な理性はない。「規則正しく」ということばではじまっていたために、この「本音」の暴走がとてもいきいきと感じられる。最後の行の「わかっちゃいるが」という途中で終わることばもいい。途中で終わっても、ことばは「わかる」。伝わる。完成された文章よりも、この口語の中途で終わる形の方が「主観」が強く動く。動いているのを読者が追認する。読者が「やめられない」を自分で補うのだが、そのとき読者の気持ちはカヴァフィスの気持ちになる。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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