詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

一色真理『エヴァ』

2014-07-07 11:45:02 | 詩集
一色真理『エヴァ』(土曜美術社出版販売、2014年06月30日発行)

 「かけら」という作品が印象に残った。

風にあおられて
かけらが空をくるくると舞っている。

何のかけらか分からない。
もともと大切な何かの
かけがえのない一部として輝いていたものが
今は意味もなく
名前もなく
どうでもいいものとして空を飛んでいる。

何かのかけらとかけらがぶつかっても
それはやっぱりかけら。

手の指や足の膝や血を流す首に見えたとしても
それはかけら。

 「かけら」となるが、何のかけらか分からないのに、なぜ「かけら」と思ったのだろう。それは「全体」であるかもしれないのに。
 ひとは(ひとの脳は、といった方がいいのかもしれないが)、何かを見たり体験したりすると、それを自分の都合のいいものにかえてしまうものである。ずぼらをする。「全体」ととらえると、その名前が分からないと、それが何かを言いあらわすことができない。けれど、「かけら」なら名前がなくてもとりあえず語ることができる。2連目に「何のかけらかわからない。」とあるが、「何の」がわからなくても「かけら」だとわかるといえる。
 その認識がまちがっているかどうかは問題ではない。
 なぜかというと、「かけら」ということばをつかったときから、一色の意識は「全体」へ向かわず「かけら」というものはどういうことかということへ向かいはじめているからである。
 それが何の「かけら」であれ、「かけら」である限りは

今は意味もなく

 「意味」がない。「全体」には「意味」があっても、「全体」から切り離されてしまった「かけら」には「意味」はない。ここから、一色の「全体」思考と「意味」思考を読み取ることができる。
 さらに「今は」ということばに注目するなら、一色が「過去」と「いま」を常に意識していることもわかる。
 「かつて(過去には)」は「全体」があり、同時に「意味」があった。一色の意識は、その「過去/全体」を指向している。

 そういう精神の基本構造を1、2連目で明確にしたあとでの3連目。ここからが、すこしややこしい。めんどうくさくなる。センチメンタルっぽく見えて、こういう部分について語るときは、何か気をつけないといけないなあという予感があって、それで私はめんどうくさいと思ってしまうのだが、そのめんどうくささとつきあってみる。

何かのかけらとかけらがぶつかっても
それはやっぱりかけら。

 これは、どういうことだろうか。かけらとかけらがぶつかるとどうなると考えているのだろうか。かけらが、さらにかけらになるということだろうか。かけらがさににかけらになることはなくても、かけらとかけらが「あわさって」何かをつくるということはない、ということだろうか。
 一色がどちらを考えてそう書いたのか分からないが、気になるのは「ぶつかって」である。ぶつかる必要がある? 空を舞っているから、舞う軌道が不規則だからぶつかる可能性がある?
 そうではなくて、ここでは一色は「かけら」はかつては「全体」であったのだが、その「全体」と「全体」がぶつかって、その結果「かけら」が生まれたと暗示しているのである。そのことの方が「かけら」そのものよりも一色にとっては重要なのである。
 「全体」であることを否定された、その「全体」の一部である「かけら」は、もはや全体にはもどれない。何かとぶつかるだけである。
 4連目は、そういう「全体」と「全体」がぶつかりあった「過去」を別なことばで語っている。「過去」に何があったか。「全体」にどういうことが生じたのか。

手の指や足の膝や血を流す首に見えたとしても

 肉体が「血を流す(流した)」のである。「肉体」は血を流した程度では「かけら」(ばらばらの存在)にはならないが、そのかわりに「精神」が「はらばら」の「破片」になってしまった。「かけら」になってしまった。
 「肉体」と「精神」の修羅場を見てきたのだ。見てきたけれど、いま、それを「全体」として受け入れることができずにいる。一色は「過去」という「ストーリー」を拒絶することで、「いま/ここ」にいる。
 それは断片(かけら)として生きているということ。
 でも、人間は「かけら」として生きることはできない。どこかで、だれか、何かとつながり、つながることではじまる「全体」というものがある。
 一色はそのつながりとしての「全体」を破壊されたのだというかもしれない。

 そうかもしれない。そうでないかもしれない。「ぶつかられた」方で「かけら」を選択したということもあるかもしれない。「全体」が破壊される方を望んだというここともあるかもしれない。
 これは、これ以上書くと、詩の問題ではなくなる。(めんどうくさくなる。)
 だから、おしまい。




一色真理詩集 (新・日本現代詩文庫108)
一色真理
土曜美術社出版販売
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池井昌樹『冠雪富士』(16)

2014-07-07 10:36:23 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(16)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「冠雪富士」にかぎらないが、今回の詩集は「日記」のように読むことができる。ある日、あのとき何をしたのか……それを淡々とつづっている。「冠雪富士」は池井の誕生日の一日を記している。

晴れて還暦、定年を迎えた。こんな出来損ないが三十四年ものあい
だ、曲がりなりにも同じ本屋でいさせてもらえた。僥倖のほかはな
い。細やかなそのお祝いに、というわけでもないが、妻と久々連れ
立って表参道まで谷内六郎展を観に出掛けた。混み合う朝の井の頭
線の車窓から、見事に雪を頂いた富士が一瞬、歓声を挙げる間もな
く過ぎ去った。それは驚くばかり間近で鮮やかだった。

 タイトルは、この一瞬見えた富士からとっている。しかし、この富士はそのあと詩の主役になるわけではない。富士のことは、これっきりである。ほんとうの主役は、その富士の印象「驚くばかり間近で鮮やかだった。」にとってかわる。
 谷内六郎展を見て、谷内六郎はこの世にはもういない。この一日がやがて跡形もなくなるように、ひとの一生もまたあとかたもなく消え、池井の誕生日を知っているひともいなくなるだろう、というような、その日の思い浮かんだことが思い浮かんだ順に書きつらねられ(まさに、子どもの日記だね)、それがその後……。

      誕生日を知るものなんか金輪際もうないんだろうな、
酔いにまかせて独り言ううち、つましい尾頭付を皆で囲んだ幼い日
が思い起こされ、矢も楯もたまらず、いまは施設で暮らす郷里の母
に電話した。「二月一日は何の日じゃ」。「何の日じゃいうて、まさき
の誕生日じゃろうが」。息子は胸が熱くなった。「おなかすかしたま
さきがまっとるけん、早よう帰らんならんのじゃ」。「そのまさきと
は、このわしのことじゃろうが」、とはいわなかった。

 時間が突然、ここで止まる。そして、その止まった時間のなかに、富士とは別の「間近」と「鮮やか」が突然あらわれる。
 坂出の施設に暮らしている母は遠く離れている。その母と話すとき、その遠い距離は消える。間近になる。母は池井の誕生日を覚えている。覚えていてくれたということが、「遠い」距離をちぢめる。「間近」にする。さらに池井を心配して「おなかすかしたまさきがまっとるけん、早よう帰らんならんのじゃ」と母は言う。認知症なのか、現実(息子は坂出の家にはいない)がわかっていない。けれど、そのわかっていない「肉体」のなかに、昔のままの母が生きていて、池井のことを思っている。自分のことを思っているのではなく、いつも池井のことを思っている。その思いが、さらに母を「間近」にする。そして「鮮やか」にする。
 それは朝の電車のなかから見えた富士、冠雪した美しい富士のように、ぱっと過ぎ去っていくものかもしれないが、それを見たひとにははっきりと見える。
 この美しさをどうしたものだろう。何をつけくわえるべきだろう。何もつけくわえるものがない。それはちょうど、母に対し「そのまさきとは、このわしのことじゃろうが」、とは言わなかったのに似ている。言うと違うものになる。

 この詩には、池井がその日出会った「間近で鮮やかな」なものが書かれている。そして、その書き方はまるで小学生の「日記」のように時系列順に綴られているのだが、一か所、不思議なことばの運動がある。

息子は胸が熱くなった。

 「主語」が「息子」になっている。
 それまでの文には「主語」が省略されている。しかし、その「主語」はすぐに「私」であることがわかる。書き出しは「主語」を補って書き直せば、「私は晴れて還暦、定年を迎えた。」である。「息子は」ではない。「息子」があらわれる直前の文章も「主語」を補えば「私は郷里の母に電話した」になる。
 それが突然、「息子」にかわる。なぜなんだろう。「私は胸が熱くなった。」ではなぜいけないんだろう。
 これはとてもむずかしい問題なのだが。
 私は「息子が」と「主語」を変更したところがこの詩を美しくしていると思う。「私は胸が熱くなった。」では六十歳の池井がそのままあらわれてきて、とてもセンチメンタルになる。ひとりで胸を熱くしていればいいさ、と言いたくなる。あんたの感激なんかにつきあっていられない、と冷たく言い放ちそうになる。こんな「日記」なんか、私には関係がない、と言いたくなる。
 ところが「息子が」と書かれた瞬間、その「息子が」を読んだ瞬間、そこから「池井」が消える。六十歳の池井が消えて、「母と息子」という関係がぱっと飛びこんでくる。池井と母のことを書いているのに、池井ではなく「母と息子」という純化された(?)関係、その関係のなかにある「愛情」という「ほんとう」が噴出してくる。
 「母と息子」というのは抽象的で、ほんとうなら、そういう抽象はつまらない「流通概念」なのだが、ここに書かれているのは「抽象以前」の何かだ。「いのちのつながり」が「抽象」にならずに、「抽象」を突き破って「間近に鮮やかに」動いている感じがする。
 池井は「息子」という「具体」になっている。それは「私」よりも生々しい。「息子」と一緒に、そこでは幼い日々の時間が一緒に動いている。施設に入る前の母、幼い池井を見守っている母が一緒にいる。
 その母が、池井が幼いときのままの元気な体と頭でいたのなら、「そのまさきとは、このわしのことじゃろうが」という「軽口」で母に何かを語ることもできたのである。でも、いまは、それができない。そういう「哀しみ」が、これもまた「間近」に「鮮やか」に見える。


冠雪富士
クリエーター情報なし
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(107)        

2014-07-07 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(107)        

 「絶望して」は男色の詩。三連から成り立っているが、書き出しはみな「あの子とはすっぱり切れた。」である。関係がなくなった。しかし、肉体の関係がなくなっても記憶は残る。「すっぱり切る」ことができない。これは自分に言い聞かせていることばだ。

あの子とはすっぱり切れた。彼はなんとかして
あの子の唇を手に入れようとした、新しい愛人を得るごとに、その唇から。
新しい愛人ごとに、新しい身体を抱くごとに、
ああ、これはあの子だ、と思おうとした。
私が今身体を埋めているのはあの子だと--。

 一行目。「彼は」と書かれている。自分の体験を「第三者」に託して語ろうとしている。しかし、「新しい愛人」「新しい身体」と「新しい」を繰り返せば繰り返すほど、新しくないもの、古いものが記憶の奥から蘇る。まるで「肉体」の奥から理性を突き破って暴れ出る欲望のように。その欲望と向き合ってるうちに「彼」が「彼」ではなくなる。「彼」と客観的に書けなくなってしまう。「私」があられてしまう。中井久夫は主語を省略できる日本語の特性を生かして、二行目から四行目までは主語を書かず、五行目で「私」に巧みにすりかえている。
 この「彼」は三連目に、もう一度復活してくる。

あの子とはすっぱり切れた。始めからないことみたいに。
彼はまぼろしを呼び出し、幻覚をかき立て、
ほかの若者の唇にあの子の唇を思おうとした。
もう一度あの子とのような愛欲を味わおうと、じれた。

 だが、一度「私」が出てきてしまうと、もう「彼」は「彼」ではない。「私」としか読むことができない。カヴァフィスは、「あの子」(の唇)が忘れられないのなら、「私」を「彼」という第三者にして切り離そうとする。「あの子」がカヴァフィスを捨てたのだが、カヴァフィスが「私」を捨てることで、悲しみから立ち直ろうとする。
 けれど、そんなことはできない。ひとは、だれも、自分自身の欲望から脱けだせない。それが、また詩人の救いでもある。あの子はあんなことを言ったけれど、結局この愛欲にもどってくると信じている。カヴァフィス自身がそうなのだ。それが二連目。

あの可愛い子が言った、ぬけでたい、この泥沼から、
この性の悦びの病みただれた、しみついた、けがれた形から。
この性の悦びの恥多い、汚れた形から
今ならまだ間に合う、ぬけだせると言いおった。

 それは若い時代のカヴァフィス自身のことばなのだろう。でも、ぬけだせなかった。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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