一色真理『エヴァ』(土曜美術社出版販売、2014年06月30日発行)
「かけら」という作品が印象に残った。
「かけら」となるが、何のかけらか分からないのに、なぜ「かけら」と思ったのだろう。それは「全体」であるかもしれないのに。
ひとは(ひとの脳は、といった方がいいのかもしれないが)、何かを見たり体験したりすると、それを自分の都合のいいものにかえてしまうものである。ずぼらをする。「全体」ととらえると、その名前が分からないと、それが何かを言いあらわすことができない。けれど、「かけら」なら名前がなくてもとりあえず語ることができる。2連目に「何のかけらかわからない。」とあるが、「何の」がわからなくても「かけら」だとわかるといえる。
その認識がまちがっているかどうかは問題ではない。
なぜかというと、「かけら」ということばをつかったときから、一色の意識は「全体」へ向かわず「かけら」というものはどういうことかということへ向かいはじめているからである。
それが何の「かけら」であれ、「かけら」である限りは
「意味」がない。「全体」には「意味」があっても、「全体」から切り離されてしまった「かけら」には「意味」はない。ここから、一色の「全体」思考と「意味」思考を読み取ることができる。
さらに「今は」ということばに注目するなら、一色が「過去」と「いま」を常に意識していることもわかる。
「かつて(過去には)」は「全体」があり、同時に「意味」があった。一色の意識は、その「過去/全体」を指向している。
そういう精神の基本構造を1、2連目で明確にしたあとでの3連目。ここからが、すこしややこしい。めんどうくさくなる。センチメンタルっぽく見えて、こういう部分について語るときは、何か気をつけないといけないなあという予感があって、それで私はめんどうくさいと思ってしまうのだが、そのめんどうくささとつきあってみる。
これは、どういうことだろうか。かけらとかけらがぶつかるとどうなると考えているのだろうか。かけらが、さらにかけらになるということだろうか。かけらがさににかけらになることはなくても、かけらとかけらが「あわさって」何かをつくるということはない、ということだろうか。
一色がどちらを考えてそう書いたのか分からないが、気になるのは「ぶつかって」である。ぶつかる必要がある? 空を舞っているから、舞う軌道が不規則だからぶつかる可能性がある?
そうではなくて、ここでは一色は「かけら」はかつては「全体」であったのだが、その「全体」と「全体」がぶつかって、その結果「かけら」が生まれたと暗示しているのである。そのことの方が「かけら」そのものよりも一色にとっては重要なのである。
「全体」であることを否定された、その「全体」の一部である「かけら」は、もはや全体にはもどれない。何かとぶつかるだけである。
4連目は、そういう「全体」と「全体」がぶつかりあった「過去」を別なことばで語っている。「過去」に何があったか。「全体」にどういうことが生じたのか。
肉体が「血を流す(流した)」のである。「肉体」は血を流した程度では「かけら」(ばらばらの存在)にはならないが、そのかわりに「精神」が「はらばら」の「破片」になってしまった。「かけら」になってしまった。
「肉体」と「精神」の修羅場を見てきたのだ。見てきたけれど、いま、それを「全体」として受け入れることができずにいる。一色は「過去」という「ストーリー」を拒絶することで、「いま/ここ」にいる。
それは断片(かけら)として生きているということ。
でも、人間は「かけら」として生きることはできない。どこかで、だれか、何かとつながり、つながることではじまる「全体」というものがある。
一色はそのつながりとしての「全体」を破壊されたのだというかもしれない。
そうかもしれない。そうでないかもしれない。「ぶつかられた」方で「かけら」を選択したということもあるかもしれない。「全体」が破壊される方を望んだというここともあるかもしれない。
これは、これ以上書くと、詩の問題ではなくなる。(めんどうくさくなる。)
だから、おしまい。
「かけら」という作品が印象に残った。
風にあおられて
かけらが空をくるくると舞っている。
何のかけらか分からない。
もともと大切な何かの
かけがえのない一部として輝いていたものが
今は意味もなく
名前もなく
どうでもいいものとして空を飛んでいる。
何かのかけらとかけらがぶつかっても
それはやっぱりかけら。
手の指や足の膝や血を流す首に見えたとしても
それはかけら。
「かけら」となるが、何のかけらか分からないのに、なぜ「かけら」と思ったのだろう。それは「全体」であるかもしれないのに。
ひとは(ひとの脳は、といった方がいいのかもしれないが)、何かを見たり体験したりすると、それを自分の都合のいいものにかえてしまうものである。ずぼらをする。「全体」ととらえると、その名前が分からないと、それが何かを言いあらわすことができない。けれど、「かけら」なら名前がなくてもとりあえず語ることができる。2連目に「何のかけらかわからない。」とあるが、「何の」がわからなくても「かけら」だとわかるといえる。
その認識がまちがっているかどうかは問題ではない。
なぜかというと、「かけら」ということばをつかったときから、一色の意識は「全体」へ向かわず「かけら」というものはどういうことかということへ向かいはじめているからである。
それが何の「かけら」であれ、「かけら」である限りは
今は意味もなく
「意味」がない。「全体」には「意味」があっても、「全体」から切り離されてしまった「かけら」には「意味」はない。ここから、一色の「全体」思考と「意味」思考を読み取ることができる。
さらに「今は」ということばに注目するなら、一色が「過去」と「いま」を常に意識していることもわかる。
「かつて(過去には)」は「全体」があり、同時に「意味」があった。一色の意識は、その「過去/全体」を指向している。
そういう精神の基本構造を1、2連目で明確にしたあとでの3連目。ここからが、すこしややこしい。めんどうくさくなる。センチメンタルっぽく見えて、こういう部分について語るときは、何か気をつけないといけないなあという予感があって、それで私はめんどうくさいと思ってしまうのだが、そのめんどうくささとつきあってみる。
何かのかけらとかけらがぶつかっても
それはやっぱりかけら。
これは、どういうことだろうか。かけらとかけらがぶつかるとどうなると考えているのだろうか。かけらが、さらにかけらになるということだろうか。かけらがさににかけらになることはなくても、かけらとかけらが「あわさって」何かをつくるということはない、ということだろうか。
一色がどちらを考えてそう書いたのか分からないが、気になるのは「ぶつかって」である。ぶつかる必要がある? 空を舞っているから、舞う軌道が不規則だからぶつかる可能性がある?
そうではなくて、ここでは一色は「かけら」はかつては「全体」であったのだが、その「全体」と「全体」がぶつかって、その結果「かけら」が生まれたと暗示しているのである。そのことの方が「かけら」そのものよりも一色にとっては重要なのである。
「全体」であることを否定された、その「全体」の一部である「かけら」は、もはや全体にはもどれない。何かとぶつかるだけである。
4連目は、そういう「全体」と「全体」がぶつかりあった「過去」を別なことばで語っている。「過去」に何があったか。「全体」にどういうことが生じたのか。
手の指や足の膝や血を流す首に見えたとしても
肉体が「血を流す(流した)」のである。「肉体」は血を流した程度では「かけら」(ばらばらの存在)にはならないが、そのかわりに「精神」が「はらばら」の「破片」になってしまった。「かけら」になってしまった。
「肉体」と「精神」の修羅場を見てきたのだ。見てきたけれど、いま、それを「全体」として受け入れることができずにいる。一色は「過去」という「ストーリー」を拒絶することで、「いま/ここ」にいる。
それは断片(かけら)として生きているということ。
でも、人間は「かけら」として生きることはできない。どこかで、だれか、何かとつながり、つながることではじまる「全体」というものがある。
一色はそのつながりとしての「全体」を破壊されたのだというかもしれない。
そうかもしれない。そうでないかもしれない。「ぶつかられた」方で「かけら」を選択したということもあるかもしれない。「全体」が破壊される方を望んだというここともあるかもしれない。
これは、これ以上書くと、詩の問題ではなくなる。(めんどうくさくなる。)
だから、おしまい。
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