詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ダグ・リーマン監督「オール・ユー・ニード・イズ・キル」(★★★)

2014-07-24 11:29:08 | 映画
監督 ダグ・リーマン 出演 トム・クルーズ、エミリー・ブラント

 トム・クルーズという役者をうまいと思ったことはなかったが、あ、うまい、と今回は感心してしまった。
 軍の広報マンで、戦争(実戦)なんか私の知ったことではないという能天気な役どころからはじまり、なぜ自分が戦場にいなければいけないのか、戦わないといけないのかと抗議し、そのうち戦士に変身していくのだが、その変化をちゃんと「顔」で表現していた。何度も何度もおなじ戦場で同じことをしているので、すべてがわかっている。その「わかっている」がだんだん顔に出てくる。同時に、そこにいる他者に対する態度もかわってくる。自信と落ち着きだね。
 そして最後、そこでは未体験のことが起きる。そのときの顔も違っている。自信と落ち着きは消え、「はじめて」のできごとに不安を抱えながら、それでも使命に燃えているという顔つきになっている。
 対するエミリー・ブラントの表情の変化もいい。最初は自分のかわりを見つけた。これで戦争に勝てるかもしれないと希望のようなものとがわいてくる。経験があるのでトム・クルーズへの対応の仕方も自信にあふれている。「私の方が知っている」という具合だ。それがだんだん立場が逆になる。トム・クルーズの体験の方がエミリー・ブラントの体験を超えてしまう。
 クライマックス直前の農家の納屋(小屋)というか、庭のシーン。トム・クルーズがコーヒーの砂糖をいれてやる。「砂糖三袋だったね」。そのとき、彼女がふいに気がつく。「これは何回目?」。彼女は記憶していないが、トム・クルーズは記憶している。その違いを明確に悟る。そのとき彼女はリーダーではなくなる。同僚でも部下でもなくなる。「助けられる人間」になる。無力を悟るとでも言えばいいのか。
 で、この相手が気づくまで待っている--というトム・クルーズの姿勢。これって、「恋愛」の極意だね。自分はなんでも知っている。でも知らない振りをして、相手が「あっ、知っているんだ。信頼していいんだ」と心を開くまで待っている。これが恋愛を成功させるさせるコツ。さすが、美形のモテ男。うまいもんだね。
 と、いったん脱線させて。
 この「無力」の自覚からが「戦争映画」の本領だな。
 無力であると自覚し、その無力を克服しながら、敵と戦う。これは、最後のトム・クルーズの戦い方と同じ。ここで、無力なふたりが真に強力し合う。(愛するひとのためだから。--そして、愛というのも、まったく知らない世界へ素手で飛び込んで行くことだねえ……。)
 最後の最後。体験したことのない世界。それまではゲームのように間違えたならもう一度リセットすればよかったのだが、もうリセットはきかない。それを承知で、巨大なパワーに立ち向かっていく。まるで、愛するひとのためなら自分がどうなってもかまわないと決意して、そのひとについていくという恋愛の極致そのもの。
 あ、あ、あ。パソコンのゲームの宣伝だと思って気楽に見ていたら、とんでもない戦争称賛映画だった--という感じなのだが。戦争は恋愛だ、とカムフラージュすることも忘れていないすごい映画なのだ、という感じなのだが。
 まあ、トム・クルーズの演技に驚いたので、そこは目をつぶろう。
 同じことの繰り返しのシーンの処理の仕方も、てきぱきしていてよかった。脚本よりもカメラワークの方がすばらしいと思った。目の記憶力をたくみにつかっている。「ことば」で同じシーンを繰り返すと時間がかかるが、影像なら瞬間的にすむ。うまいもんだね。                       (天神東宝6、2014年07月22日)

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池井昌樹『冠雪富士』(33)

2014-07-24 09:09:58 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(33)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「星空」は「人事」と同じように「歌」である。同じことばを繰り返し、同じつもりが少しだけずれて行く。その「ずれ」をしっかり見つめると(「ずれ」にどっぷりつかっていると)、その瞬間に、とんでもない「遠く」とふいにつながってしまう。つろがろうとおもってつながるのではなく、無意識のうちに、本能としてつながってしまう。「いのち」がつながってしまう。

しんじられないことだけれども
こんなにむごいひとのよに
まだぼくをまつひとがいて
まだぼくをまつそのもとへ
はなうたまじり
かえってゆくが
ほんとはそんなひともなく
ほんとはそんなぼくもなく
こんなにむごいひとのよは
あかりしらじらまたたいて
ねこがよぎればそれきりの
あけくれかさねゆくばかり

 仕事が終わって家へ帰る。家には池井を待っている人がいる。それは「現実」である。「ほんとはそんなひともなく/ほんとはそんなぼくもなく」は「ほんと」と書かれているが「真実」ではない。
 そして「真実ではない」からこそ「真実である」。
 と書くと完全に「矛盾」だが、「矛盾」だからこそ、そこには「現実の真実」ではなく「詩の真実」がある。「詩の真実」はいつでも「矛盾」の形でしか書くことができない。まだことばになっていない、ことばとして流通していないことば、社会に生まれる前のことばが詩だからである。
 というのは、あまりに抽象的すぎるか……。

 この「矛盾」は、次のように言いなおされる。

そんなこのよのどこかしら
ぼくをなおまつひとがいて
ぼくをなおまつそのもとへ

 「家」ではなく「このよのどこかしら」に「ぼくをまつひと」がいる。それはだれなのかわからない。「どこ」にいるのかわからないのだから「だれ」かもわからない。そのとき「ぼく」もまた「だれ」かはわからない存在である。「池井」であることは間違いないが、その「池井」は「池井が意識している池井」ではないかもしれない。いや「池井が意識できない池井」である。このとき「意識できない」というのは「流通言語として説明できるようなことばにはならないことがら、未生の意識」ということである。
 池井は、この世の中には、どこかで、誰かが誰かを待っている。そういう「こと」があることだけを知っている。その「誰」はわからないし、「どこか」もわからない。わからないけれど、待っている「こと」だけはたしかである。なぜか。待っているという「こと」がなければ、池井は「かえってゆく」という「こと」ができない。池井は「かえってゆく」という「こと」をしている。そのとき、どこかで「池井を待っている」という「こと」が生まれはじめている。帰って行く「こと」で、池井は、待っているという「こと」を生み出している。
 そして、その「こと」のなかで、池井は生まれ変わる。また、その「こと」のなかで、待っているひとも生まれ変わる。

はなうたまじり
ひとりぼっちで
いつしかよるもふけまさり
しんじられないことだけれども
ほしぞらのようにまたたいて

 池井が生まれ変わり、待っているひとが生まれ変わる。その瞬間、そこでは「場」も生まれ変わる。それは「しんじられないこと」かもしれないけれど、信じてみればいい。そうすると、生まれ変わった「場」がはっきりと見える。

ほしぞらのようにまたたいて

 あ、これは正確に読むのがむずかしい。「ほしぞらのように」だから「比喩」なのだが、比喩とわかっていても、私は瞬間的に「星空」そのものを見てしまうし、またその「星空」が「またたいている」のも見てしまう。満天の星。それがまたたいる。輝いている。その輝きを見てしまう。

ほしぞらのようにまたたいて

 この行が、何を言おうとしているのか、それを「文章」として完成させることができない。「意味」がとれない。「意味」を無視して、星空を実感してしまう。
 誰かが自分を待っている--そう思って家へ帰るとき、その家がどこにあるのかも忘れて(意識することを忘れて、ということになるね)、ふと、満天の星の輝きを見る。あ、あそこが「家」だと思う。あの星が「ぼくをまっているひと」だと思う。そういう「錯覚」の幸福。

 詩は--「意味」を間違えていいのだ。「誤読」していいのだ。「意味」を正確に読まなくても、そこに書いてあることを正確に理解しなくても、そのことばを読んで何かが具体的に見えてくればそれでいい。
 何かが具体的に見えたとき、その具体的な「もの/こと」のなかで、私は詩人(池井)と一緒にいると感じる。つながっていると感じる。「ほしぞら」がはっきり見えたよ、と池井に言いたくなる--これは、そういう詩である。



谷川俊太郎の『こころ』を読む
谷内 修三
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(124)

2014-07-24 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(124)        2014年07月24日(木曜日)

 「セラペイオンの祈祷師」。中井久夫の注釈によれば「セラピスは、エジプトの共通宗教をめざしてエジプトのギリシャ人王朝の第一代プトレマイオス一世『救世王』によって導入された神。」セラペイオンはプトレマイオス一世が建立し、「三九二年にテオドシウス皇帝が破壊するまで存続した」という。

キリストさま。イエスさま。私は考えでも言葉でも行いでも
あなたさまのいとも聖なる教会の戒律を遵守しておりまする。
あなたさまを否む輩はすべて斥けておりまする。
でも、今の私は父の追悼の思いでいっぱい。かなしいです。
私は悲しい。ああ、イエスさま、父が悲しい。
父は--ええ、口にするのも何でございますが
あの忌まわしいセラペイオスの神官でしたけれど。

 息子は父を亡くして悲しい。同時に、父親の悲しさも実感している。父親はキリスト教徒ではなく、セラペイオンを信仰している。その父は死んだあとどうなるのだろうか。だれが父の冥福を祈るのか。そのときの宗教は何なのか。
 ギリシャには、いつもこの問題が起きつづけたのか。カヴァフィスは、ことあるごとに史実を題材に、「現在(カヴァフィスの現在)」のなかに動いている「声(主観)」を引き上げてきてはことばにしている。

私は悲しい。ああ、イエスさま、父が悲しい。

 一行のなかで、主語が「私」から「父」にかわる。しかし、用言は「悲しい」のまま、かわらない。「悲しい」という「こと/うごき」が二人を結びつける。「悲しい」のなかで二人は見分けがつかなくなる。
 このとき、息子は「キリスト教徒」から「セラペイオン」の神のもとに帰っている。父と同じものを信仰し、父を悲しいと言っている。父の悲しさを実感している。
 後天的に「学ぶ」宗教よりも、生まれたときから一緒にいる父の、その父とのつながりの方が、最後には重く響いてくるのだ。
 これに先立つ一連目では、「父」は「お父さん」と書かれている。

やししかったお父さん。最後はうんとお爺さんだったけれど
かわらず私をいつくしんだお父さん。
父を悼む。今は亡きやさしかりし老いたる父を。

 この「お父さん」と「父」とのつかいわけ、家庭内での「肉声」と社会的な場でのことば。「肉声」が排除された「形式」。私たちはいつでも「声」を否定されながら生きている。「声」の復活を求めて生きている。

カヴァフィス全詩集
コンスタンディノス・ペトルゥ カヴァフィス
みすず書房
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