詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹『冠雪富士』(30)

2014-07-21 09:35:36 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(30)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「白洲」は「法廷」。そこでは詩人・池井が裁かれている。池井が何をしたか。

あまあとのあのにじだって
あのいちめんのほしぼしだって
きぎのはずれやむしのねだって
みんなわたしのなかにあるもの
もとよりともにあるものゆえに
よろこばずにはおれません
いつものようにうちをでて
いつものようにわくわくと
うきうきとただどきどきと

 池井は(詩人は)、世界にあるものに感応し、「わくわく」「うきうき」「どくきどき」している。そしてことばを発する。それが詩。しかし、それが「問題だ」と「はんがんさま」は言う。
 そういう論理の中で、ほーっと思って読んでしまう行が二か所。
 まず「みんなわたしのなかにあるもの」。世界の悦ばしいものは、みんな池井の「肉体」のなかにある。(池井は「肉体」とは書いていないのだが……。「こころ」のなか、「魂」のなか、「精神」のなか、かもしれないが、私は区別せずに「肉体」のなかとつかまえておく。)そして、それは次の行で「もとよりともにあるもの」というとき、「肉体」と「世界」の区別なくなる。「肉体」と「世界」が融合していることがわかる。 「放心」したとき、「肉体」と「世界」が融合し、ひとつになる。--ここまでは、いままでの池井の詩そのものである。
 私がこの詩でびっくりしたのは、

いつものようにうちをでて

 この行。そこで、二度目の「ほーっ」と息を吐き。
 そうか「うち」か。
 「うち」は「家」。「家庭」だな。妻がいて、息子が二人いる。その「家庭」には家庭のよろこびがあるのだけれど、その「家」を出たときの方がこころがいきいき動くのか。そうなのか、と思わず思ったのだ。
 そうすると、池井を裁いているのは「家族」というのことになるのか。「家」ということになるのか。「家」が詩を、罪だと言っているのか。

 その「うち(家)」という「はんがん」に対して、弁明していた池井は、「かくごいたせい」と言われたときに、一転して、次のように言う。

べらんめえ
せなできらめくまんてんのほし
よっくみやがれ
わくわくうきうきどきどきと
さんまんねんかんいきてきた
このひとのよにかくれもねえ
あやしいものとはおれのこと

 この変化がおもしろい。開き直り。
 私はときどき思うのだが(ときどきではなく、最近ではしきりに思うのだが)、「思想(道)」というものは「築く(つくりだす)」ものではない。--というのは、ずいぶん飛躍した言い方、「直観の意見」になってしまうが……。
 「道」というのは、あれこれ「頭」で知っていることを全部捨て去ったとき、ぱっと「肉体」が開かれるところにできる。自分の「前」でも、高村光太郎が言ったように「後ろ(歩いたあと)」にできるのでもない。「肉体」がトンネルのようにぱーっと開かれる。その「開かれた部分(枠のなさ)」が「道」なのだ。
 強引に池井の書いていることに結びつけて言うと。
 先に引用した世界にある美しいもの(虹、星々、木々の葉擦れ、虫の音)はすべて「わたしのなかにある」、それは世界に存在するものと、池井自身の内部にあるものとの「共鳴」であり、その共鳴の瞬間が「わくわく」「うきうき」「どきどき」なのだ--というような論理。そういう「論理」を語っているとき、それは「道」のように見えるけれど、ほんとうはそうではない。単なる「かっこうつけ」である。そんな「論理」のなかを、人は歩いてはいけない。かっこうはいいが、うさんくさい。人を感動させ、たぶらかすものである。
 そんな「論理」を吐き捨ててしまって、「おれは論理なんか生きない」と開き直ったとき、「肉体」を突き破ってあふれてくる「勢い」、それが「道」である。「勢い」だから、それがどこへ向かっているかはわからない。ただ「勢い」だけがある。「勢い」が枠を叩きこわす。その瞬間に、「肉体」の内部に「道」ができる。
 
わくわくうきうきどきどきと
さんまんねんかんいきてきた

 これが「道(思想/肉体)」のすべてである。
 「さんまんねんかんいきてきた」なんて嘘である。そんな人間なんかいない。池井は1953年の生まれである。完全な嘘。でたらめ。--だから「ほんとう」。「ほんとう」の「勢い」がある。
 そこには「枠」がない。「枠」がない(枠におさまり切れない)ものは、みんな「悪人」である。それは「流通経済」を否定する。「合理主義」、あるいは「意味」を否定する。「意味」というのは、「合理主義」に合致するもの、世界を支配する論理につごうのいいものの見方に過ぎない。
 世界を支配する「合理主義」は「わくわくうきうきどきどき」を嫌う。「わくわくうきうきどきどき」していたら、そこで「流通」が停滞するからである。「歩み」が止まるからである。あるいは乱れてとんでもない方向へ行ってしまう空手ある。池井の「勢い」はどこへ行くかわからない。制御できない。
 池井は、いったんは「わくわくうきうきどきどき」と「世界」の融合というような詩の「論理」を説明するが、それを吐き捨てて、

わくわくうきうきどきどきと
さんまんねんかんいきてきた

 と「非論理」を叫ぶ。池井は「三万年間」生きてはいない。嘘である。この嘘、でたらめが「ほんとう」、つまり「肉体」を突き破る「勢い」である。(と、私は繰り返し書いてしまう。言いたいことは何度でも言う。)それが「道(思想)」であり、また「詩」でもある。

 「勢い」を生きるとき、ひるがえって考えるに「うち(家)」は破綻する。
 この詩には直接的には書かれていないが、たとえば池井はふるさとにいる母を施設にあずけている。「母-息子」という「家(家庭)」のつながりは、そのとき破綻している。しかし、その破綻を生きなければ、池井は詩を書きつづけることができない。
 ふいに挿入された一行「いつものようにうちをでて」と、それからあとの「おおみえ」の間に、書かれなかった「こと」を感じ、私は「ほーっ」と息を吐いたのだった。

わくわくうきうきどきどきと
さんまんねんかんいきてきた
このひとのよにかくれもねえ
あやしいものとはおれのこと
おおみえきったそのせつな
  おっさんこのあしふんどんぞ
  いつものゆめをやぶられて
  ケータイかたてのわかものに
  おおあせかきかきあやまって
  またあせをふくバスのなか
はまのまさごはつきるとも
あやしいもののたねはつきまじ
ででんでん……

 「道(思想/肉体)」をバスの中での居眠り、若者との接触にという現実にかえして、それまであったことを「おっさんの夢」にしてしまって、詩は閉じられるのだが。
 この不完全さといえばいいのだろうか、「流通思想(いわゆるかっこいい批評)」になりきれないことば、--そこに、私は不思議な「あたたかさ」を感じる。池井が瞬間瞬間につかみとっている「かっこいい思想(流通批評)」になりそうなものを、あえて完成させず、崩壊させるそのあり方、そこに詩を感じる。
 詩は、「流通思想(流行哲学)」のように閉じてはだめなのだ。完璧に構築されていてはだめなのだ。矛盾し、破綻していないとだめなのだ。

 今度の池井の詩集には、池井にはそのつもりはないだろうけれど、そういう矛盾・破綻のようなものが「全体」として存在する。だから、私はこの詩集を傑作だと思う。傑作だと言う。感覚の意見としてだけれど。
谷川俊太郎の『こころ』を読む
谷内 修三
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中井久夫訳カヴァフィスを読む(121)

2014-07-21 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(121)        

 「ロドスにおけるテュアナのアポロニオス」は「フィロストラトスの『生涯』より採った挿話」と中井久夫が注釈で書いている。「ロドスの青年は豪邸に金を注いで教養をおなざりにしている」と。

よい教育とは、教養とは何ぞやと、
アポロニオスは語った。
ロドス島に豪邸建築中の青年に。
「私が神殿に入るなら」と
このテュアナ人はとうとう言った。「たとえ小さくても
金と象牙の像の神殿を選ぶね。大きな神殿の
ありきたりの粘土像よりいいね」

 無教養をいさめている、成り金趣味の豪邸を批判しているのだろうけれど、私がこの詩でおもしろいと思うのは、その「意味」ではなく、

このテュアナ人はとうとう言った。

 この「とうとう」。長い間、言おう言おうとしていたのだろう。でもなかなか言えなかった。最後になって、ついに言う気になった。言えば嫌われるかもしれない。けれど言わずにいやな気分になるよりはいい。
 でも、その「とうとう」が相手の若者に伝わったか。「金の像」の「比喩」が伝わったか。そもそもなぜ「比喩」を持ち出して他人に語るのか。間接的に語るのか。もう、こころは離れかけていて、「直接」言う気持ちになれないのかもしれない。
 詩の後半、二連目。

「ありきたりの粘土像」ではいかにもげんなり。
だが(ちゃんとみがかれていない者は)
インチキに取り込まれるよ。ありきたりの粘土像になるよ。

 この三行はなんだろう。「教養のない人間は粘土像だ」という批判なのだが、アポロニオスが青年に語ったことばなのか。それとも、言わなかったけれど、こころのなかで思ったことばなのか。
 たぶん、ここまでは言わなかった。でも、言いたかった。
 そんなふうにして読んでみると、「教訓挿話」が突然男色の世界にかわる。
 カヴァフィスは史実を題材に詩を書くが、それは史実を書きたいからではなく、そのときに動くこころのありよう(ありさま)を書きたいのだろう。同じように、何かからの挿話を繰り返すときも、その「意味」ではなく、そのときのこころの動き(主観の変化)を描きたいのだろう。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする