池井昌樹『冠雪富士』(30)(思潮社、2014年06月30日発行)
「白洲」は「法廷」。そこでは詩人・池井が裁かれている。池井が何をしたか。
池井は(詩人は)、世界にあるものに感応し、「わくわく」「うきうき」「どくきどき」している。そしてことばを発する。それが詩。しかし、それが「問題だ」と「はんがんさま」は言う。
そういう論理の中で、ほーっと思って読んでしまう行が二か所。
まず「みんなわたしのなかにあるもの」。世界の悦ばしいものは、みんな池井の「肉体」のなかにある。(池井は「肉体」とは書いていないのだが……。「こころ」のなか、「魂」のなか、「精神」のなか、かもしれないが、私は区別せずに「肉体」のなかとつかまえておく。)そして、それは次の行で「もとよりともにあるもの」というとき、「肉体」と「世界」の区別なくなる。「肉体」と「世界」が融合していることがわかる。 「放心」したとき、「肉体」と「世界」が融合し、ひとつになる。--ここまでは、いままでの池井の詩そのものである。
私がこの詩でびっくりしたのは、
この行。そこで、二度目の「ほーっ」と息を吐き。
そうか「うち」か。
「うち」は「家」。「家庭」だな。妻がいて、息子が二人いる。その「家庭」には家庭のよろこびがあるのだけれど、その「家」を出たときの方がこころがいきいき動くのか。そうなのか、と思わず思ったのだ。
そうすると、池井を裁いているのは「家族」というのことになるのか。「家」ということになるのか。「家」が詩を、罪だと言っているのか。
その「うち(家)」という「はんがん」に対して、弁明していた池井は、「かくごいたせい」と言われたときに、一転して、次のように言う。
この変化がおもしろい。開き直り。
私はときどき思うのだが(ときどきではなく、最近ではしきりに思うのだが)、「思想(道)」というものは「築く(つくりだす)」ものではない。--というのは、ずいぶん飛躍した言い方、「直観の意見」になってしまうが……。
「道」というのは、あれこれ「頭」で知っていることを全部捨て去ったとき、ぱっと「肉体」が開かれるところにできる。自分の「前」でも、高村光太郎が言ったように「後ろ(歩いたあと)」にできるのでもない。「肉体」がトンネルのようにぱーっと開かれる。その「開かれた部分(枠のなさ)」が「道」なのだ。
強引に池井の書いていることに結びつけて言うと。
先に引用した世界にある美しいもの(虹、星々、木々の葉擦れ、虫の音)はすべて「わたしのなかにある」、それは世界に存在するものと、池井自身の内部にあるものとの「共鳴」であり、その共鳴の瞬間が「わくわく」「うきうき」「どきどき」なのだ--というような論理。そういう「論理」を語っているとき、それは「道」のように見えるけれど、ほんとうはそうではない。単なる「かっこうつけ」である。そんな「論理」のなかを、人は歩いてはいけない。かっこうはいいが、うさんくさい。人を感動させ、たぶらかすものである。
そんな「論理」を吐き捨ててしまって、「おれは論理なんか生きない」と開き直ったとき、「肉体」を突き破ってあふれてくる「勢い」、それが「道」である。「勢い」だから、それがどこへ向かっているかはわからない。ただ「勢い」だけがある。「勢い」が枠を叩きこわす。その瞬間に、「肉体」の内部に「道」ができる。
これが「道(思想/肉体)」のすべてである。
「さんまんねんかんいきてきた」なんて嘘である。そんな人間なんかいない。池井は1953年の生まれである。完全な嘘。でたらめ。--だから「ほんとう」。「ほんとう」の「勢い」がある。
そこには「枠」がない。「枠」がない(枠におさまり切れない)ものは、みんな「悪人」である。それは「流通経済」を否定する。「合理主義」、あるいは「意味」を否定する。「意味」というのは、「合理主義」に合致するもの、世界を支配する論理につごうのいいものの見方に過ぎない。
世界を支配する「合理主義」は「わくわくうきうきどきどき」を嫌う。「わくわくうきうきどきどき」していたら、そこで「流通」が停滞するからである。「歩み」が止まるからである。あるいは乱れてとんでもない方向へ行ってしまう空手ある。池井の「勢い」はどこへ行くかわからない。制御できない。
池井は、いったんは「わくわくうきうきどきどき」と「世界」の融合というような詩の「論理」を説明するが、それを吐き捨てて、
と「非論理」を叫ぶ。池井は「三万年間」生きてはいない。嘘である。この嘘、でたらめが「ほんとう」、つまり「肉体」を突き破る「勢い」である。(と、私は繰り返し書いてしまう。言いたいことは何度でも言う。)それが「道(思想)」であり、また「詩」でもある。
「勢い」を生きるとき、ひるがえって考えるに「うち(家)」は破綻する。
この詩には直接的には書かれていないが、たとえば池井はふるさとにいる母を施設にあずけている。「母-息子」という「家(家庭)」のつながりは、そのとき破綻している。しかし、その破綻を生きなければ、池井は詩を書きつづけることができない。
ふいに挿入された一行「いつものようにうちをでて」と、それからあとの「おおみえ」の間に、書かれなかった「こと」を感じ、私は「ほーっ」と息を吐いたのだった。
「道(思想/肉体)」をバスの中での居眠り、若者との接触にという現実にかえして、それまであったことを「おっさんの夢」にしてしまって、詩は閉じられるのだが。
この不完全さといえばいいのだろうか、「流通思想(いわゆるかっこいい批評)」になりきれないことば、--そこに、私は不思議な「あたたかさ」を感じる。池井が瞬間瞬間につかみとっている「かっこいい思想(流通批評)」になりそうなものを、あえて完成させず、崩壊させるそのあり方、そこに詩を感じる。
詩は、「流通思想(流行哲学)」のように閉じてはだめなのだ。完璧に構築されていてはだめなのだ。矛盾し、破綻していないとだめなのだ。
今度の池井の詩集には、池井にはそのつもりはないだろうけれど、そういう矛盾・破綻のようなものが「全体」として存在する。だから、私はこの詩集を傑作だと思う。傑作だと言う。感覚の意見としてだけれど。
「白洲」は「法廷」。そこでは詩人・池井が裁かれている。池井が何をしたか。
あまあとのあのにじだって
あのいちめんのほしぼしだって
きぎのはずれやむしのねだって
みんなわたしのなかにあるもの
もとよりともにあるものゆえに
よろこばずにはおれません
いつものようにうちをでて
いつものようにわくわくと
うきうきとただどきどきと
池井は(詩人は)、世界にあるものに感応し、「わくわく」「うきうき」「どくきどき」している。そしてことばを発する。それが詩。しかし、それが「問題だ」と「はんがんさま」は言う。
そういう論理の中で、ほーっと思って読んでしまう行が二か所。
まず「みんなわたしのなかにあるもの」。世界の悦ばしいものは、みんな池井の「肉体」のなかにある。(池井は「肉体」とは書いていないのだが……。「こころ」のなか、「魂」のなか、「精神」のなか、かもしれないが、私は区別せずに「肉体」のなかとつかまえておく。)そして、それは次の行で「もとよりともにあるもの」というとき、「肉体」と「世界」の区別なくなる。「肉体」と「世界」が融合していることがわかる。 「放心」したとき、「肉体」と「世界」が融合し、ひとつになる。--ここまでは、いままでの池井の詩そのものである。
私がこの詩でびっくりしたのは、
いつものようにうちをでて
この行。そこで、二度目の「ほーっ」と息を吐き。
そうか「うち」か。
「うち」は「家」。「家庭」だな。妻がいて、息子が二人いる。その「家庭」には家庭のよろこびがあるのだけれど、その「家」を出たときの方がこころがいきいき動くのか。そうなのか、と思わず思ったのだ。
そうすると、池井を裁いているのは「家族」というのことになるのか。「家」ということになるのか。「家」が詩を、罪だと言っているのか。
その「うち(家)」という「はんがん」に対して、弁明していた池井は、「かくごいたせい」と言われたときに、一転して、次のように言う。
べらんめえ
せなできらめくまんてんのほし
よっくみやがれ
わくわくうきうきどきどきと
さんまんねんかんいきてきた
このひとのよにかくれもねえ
あやしいものとはおれのこと
この変化がおもしろい。開き直り。
私はときどき思うのだが(ときどきではなく、最近ではしきりに思うのだが)、「思想(道)」というものは「築く(つくりだす)」ものではない。--というのは、ずいぶん飛躍した言い方、「直観の意見」になってしまうが……。
「道」というのは、あれこれ「頭」で知っていることを全部捨て去ったとき、ぱっと「肉体」が開かれるところにできる。自分の「前」でも、高村光太郎が言ったように「後ろ(歩いたあと)」にできるのでもない。「肉体」がトンネルのようにぱーっと開かれる。その「開かれた部分(枠のなさ)」が「道」なのだ。
強引に池井の書いていることに結びつけて言うと。
先に引用した世界にある美しいもの(虹、星々、木々の葉擦れ、虫の音)はすべて「わたしのなかにある」、それは世界に存在するものと、池井自身の内部にあるものとの「共鳴」であり、その共鳴の瞬間が「わくわく」「うきうき」「どきどき」なのだ--というような論理。そういう「論理」を語っているとき、それは「道」のように見えるけれど、ほんとうはそうではない。単なる「かっこうつけ」である。そんな「論理」のなかを、人は歩いてはいけない。かっこうはいいが、うさんくさい。人を感動させ、たぶらかすものである。
そんな「論理」を吐き捨ててしまって、「おれは論理なんか生きない」と開き直ったとき、「肉体」を突き破ってあふれてくる「勢い」、それが「道」である。「勢い」だから、それがどこへ向かっているかはわからない。ただ「勢い」だけがある。「勢い」が枠を叩きこわす。その瞬間に、「肉体」の内部に「道」ができる。
わくわくうきうきどきどきと
さんまんねんかんいきてきた
これが「道(思想/肉体)」のすべてである。
「さんまんねんかんいきてきた」なんて嘘である。そんな人間なんかいない。池井は1953年の生まれである。完全な嘘。でたらめ。--だから「ほんとう」。「ほんとう」の「勢い」がある。
そこには「枠」がない。「枠」がない(枠におさまり切れない)ものは、みんな「悪人」である。それは「流通経済」を否定する。「合理主義」、あるいは「意味」を否定する。「意味」というのは、「合理主義」に合致するもの、世界を支配する論理につごうのいいものの見方に過ぎない。
世界を支配する「合理主義」は「わくわくうきうきどきどき」を嫌う。「わくわくうきうきどきどき」していたら、そこで「流通」が停滞するからである。「歩み」が止まるからである。あるいは乱れてとんでもない方向へ行ってしまう空手ある。池井の「勢い」はどこへ行くかわからない。制御できない。
池井は、いったんは「わくわくうきうきどきどき」と「世界」の融合というような詩の「論理」を説明するが、それを吐き捨てて、
わくわくうきうきどきどきと
さんまんねんかんいきてきた
と「非論理」を叫ぶ。池井は「三万年間」生きてはいない。嘘である。この嘘、でたらめが「ほんとう」、つまり「肉体」を突き破る「勢い」である。(と、私は繰り返し書いてしまう。言いたいことは何度でも言う。)それが「道(思想)」であり、また「詩」でもある。
「勢い」を生きるとき、ひるがえって考えるに「うち(家)」は破綻する。
この詩には直接的には書かれていないが、たとえば池井はふるさとにいる母を施設にあずけている。「母-息子」という「家(家庭)」のつながりは、そのとき破綻している。しかし、その破綻を生きなければ、池井は詩を書きつづけることができない。
ふいに挿入された一行「いつものようにうちをでて」と、それからあとの「おおみえ」の間に、書かれなかった「こと」を感じ、私は「ほーっ」と息を吐いたのだった。
わくわくうきうきどきどきと
さんまんねんかんいきてきた
このひとのよにかくれもねえ
あやしいものとはおれのこと
おおみえきったそのせつな
おっさんこのあしふんどんぞ
いつものゆめをやぶられて
ケータイかたてのわかものに
おおあせかきかきあやまって
またあせをふくバスのなか
はまのまさごはつきるとも
あやしいもののたねはつきまじ
ででんでん……
「道(思想/肉体)」をバスの中での居眠り、若者との接触にという現実にかえして、それまであったことを「おっさんの夢」にしてしまって、詩は閉じられるのだが。
この不完全さといえばいいのだろうか、「流通思想(いわゆるかっこいい批評)」になりきれないことば、--そこに、私は不思議な「あたたかさ」を感じる。池井が瞬間瞬間につかみとっている「かっこいい思想(流通批評)」になりそうなものを、あえて完成させず、崩壊させるそのあり方、そこに詩を感じる。
詩は、「流通思想(流行哲学)」のように閉じてはだめなのだ。完璧に構築されていてはだめなのだ。矛盾し、破綻していないとだめなのだ。
今度の池井の詩集には、池井にはそのつもりはないだろうけれど、そういう矛盾・破綻のようなものが「全体」として存在する。だから、私はこの詩集を傑作だと思う。傑作だと言う。感覚の意見としてだけれど。
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