池田順子「ときどきみず」ほか(「ガーネット」73、2014年07月01日発行)
池田順子「ときどきみず」は、夜中に起きてお茶をのむときのことを、「水」の立場(?)から書いている。のまれる「水」になって書いている。--と、要約してしまうと、ちょっと違うんだけれど。
最初は水が飲みたいと思って、蛇口をひねって水を飲む。少し落ち着くと、今度は水ではなくお茶が飲みたくなった、ということだろう。その微妙な肉体の変化が自然でいいなあ。だれもが経験したことがあるような時間なのだけれど「初めて通る道のように」感じられるのは、ことばが急いでいないからだ。ゆっくりとまわりを見渡している。まわりを味わっている。
2連目の「ゆったり待つ時間」の「待つ」の主語は「急須のなかの水(湯)」なのだが、池田にも思える。1連目でのんだ水が肉体の中に入って池田になっている--と書くと3連目の先取りになってしまうが、水とも池田ともつかない一体感がおかしい(楽しい)。聞こえてくる「話し聲」「犬の鳴き声」をわざわざ「急須を通して」と書いているところも楽しい。「急須を通して」と書くことで、水の感じている暗さが、家族が寝しずまった夜中の暗さと重なる。水は急須の壁に囲まれて暗い。けれど、暗くても耳は働く。同じように、夜中に起きだした池田は闇に包まれている。外は見えない。けれど「話し聲」や「犬の鳴き声」は聞こえる。ますます水と池田の区別がつかなくなるのだが、それが「ゆったり」という感じになるからおもしろい。
水と池田が「一体感」のあるものになったあと、3連目。そこに書かれていることばは現実なのか、水の欲望なのか、池田の願望なのか、よくわからない。たとえば「やわらかい手のひら」は池田の手のひらがやわらかいという事実を語っているのか、そうあってほしいという池田の願望なのか、あるいはこの手のひらの柔らかさを水(茶)に知ってもらいたいとおもっているのか。こういうことは、まあ、いちいち区別をせずに、「全体」を感じ取ればいいのだけれど。書くと面倒なことは、書かずにほっておけばいいと思うので、私は、こういうときは厳密には考えない。あ、池田と茶が、どっちかどっちであるかわからない感じがいいな、と思う。
「含んでもらう」も「覗きこまれ見つめられ」も同じだ。そっと茶を口に含みたい。静かに茶を覗き、見つめたい。何かをじっくり味わいたい。自分自身の感じを味わいたいという印象があって、間接的に語られている。
最後は「オチ」のようなものかもしれないが、これもなんとなく、いいなあ。
そうか、こわい夢を見て、目がさめて水が飲みたくなったのか。しかし、少し落ち着くと、さらに落ち着きたくなって茶を入れて飲む。それから、自分の見たこわい夢が、これから茶が鎮めていくんだな、という感じ。
3連目だけ「ときどき」がないのだけれど、ないことによって、あ、茶を飲むことですっかり落ち着いたんだなあ、とわかる。この感じもいいなあ。
*
嵯峨恵子「一篇の詩から」は那珂太郎の「作品***」を取り上げている。その一連目の
これを漢字まじりで書き直して、次のようにしている。
えっ、そうなの。
私はびっくりした。
と、「え」ではじまる植物をつづけているのではないのかな? 「え」の頭韻を遊んでいるのではないのかな?
1行目の「ふるへるふゆのひざしのふみ石はくずれる」も私は「震へる冬の日差しの踏み石は崩れる」ではなく、「震へる冬の日差しの文/石は崩れる」と読みたい気持ちがある。「日差しの文(ふみ)」では「文」が比喩になってしまうのでよくないかもしれないが、2行目に「みえぬ時」という抽象が出てくるし、かづらの「骨」も比喩だから、「文」という比喩が1行目にでてきてもいいのでは、と思う。
嵯峨の漢字まじりが私に異様にみえるのは、
の「故に」のせいでもある。那珂は、非常に論理的な音楽を構築するが、その論理は論理学の論理「故に」というようなことばを必要とはしていない。もっと「肉体」的なものだ。
とても疑問に感じた。
池田順子「ときどきみず」は、夜中に起きてお茶をのむときのことを、「水」の立場(?)から書いている。のまれる「水」になって書いている。--と、要約してしまうと、ちょっと違うんだけれど。
家族が寝しずまると
ときどき
みずになる
水道管のなかを
初めて通る道のように
くぐり
みずがほしい と
蛇口をひねる ひとの
口に運ばれる
ときどき
急須のなか
茶の葉がゆっくりふくらんでいく
ゆったり待つ時間
急須を通して
かすかに話し聲が聞こえる
犬の鳴き声もして
湯呑みのなかで
じっとしていると
やわらかい手のひらに
そっと包まれて
含んでもらう
覗きこまれて見つめられて
茶になった 水は
そのひとの眠りのなかに
落ちていく
こわい夢も
いっしょに見る
最初は水が飲みたいと思って、蛇口をひねって水を飲む。少し落ち着くと、今度は水ではなくお茶が飲みたくなった、ということだろう。その微妙な肉体の変化が自然でいいなあ。だれもが経験したことがあるような時間なのだけれど「初めて通る道のように」感じられるのは、ことばが急いでいないからだ。ゆっくりとまわりを見渡している。まわりを味わっている。
2連目の「ゆったり待つ時間」の「待つ」の主語は「急須のなかの水(湯)」なのだが、池田にも思える。1連目でのんだ水が肉体の中に入って池田になっている--と書くと3連目の先取りになってしまうが、水とも池田ともつかない一体感がおかしい(楽しい)。聞こえてくる「話し聲」「犬の鳴き声」をわざわざ「急須を通して」と書いているところも楽しい。「急須を通して」と書くことで、水の感じている暗さが、家族が寝しずまった夜中の暗さと重なる。水は急須の壁に囲まれて暗い。けれど、暗くても耳は働く。同じように、夜中に起きだした池田は闇に包まれている。外は見えない。けれど「話し聲」や「犬の鳴き声」は聞こえる。ますます水と池田の区別がつかなくなるのだが、それが「ゆったり」という感じになるからおもしろい。
水と池田が「一体感」のあるものになったあと、3連目。そこに書かれていることばは現実なのか、水の欲望なのか、池田の願望なのか、よくわからない。たとえば「やわらかい手のひら」は池田の手のひらがやわらかいという事実を語っているのか、そうあってほしいという池田の願望なのか、あるいはこの手のひらの柔らかさを水(茶)に知ってもらいたいとおもっているのか。こういうことは、まあ、いちいち区別をせずに、「全体」を感じ取ればいいのだけれど。書くと面倒なことは、書かずにほっておけばいいと思うので、私は、こういうときは厳密には考えない。あ、池田と茶が、どっちかどっちであるかわからない感じがいいな、と思う。
「含んでもらう」も「覗きこまれ見つめられ」も同じだ。そっと茶を口に含みたい。静かに茶を覗き、見つめたい。何かをじっくり味わいたい。自分自身の感じを味わいたいという印象があって、間接的に語られている。
最後は「オチ」のようなものかもしれないが、これもなんとなく、いいなあ。
そうか、こわい夢を見て、目がさめて水が飲みたくなったのか。しかし、少し落ち着くと、さらに落ち着きたくなって茶を入れて飲む。それから、自分の見たこわい夢が、これから茶が鎮めていくんだな、という感じ。
3連目だけ「ときどき」がないのだけれど、ないことによって、あ、茶を飲むことですっかり落ち着いたんだなあ、とわかる。この感じもいいなあ。
*
嵯峨恵子「一篇の詩から」は那珂太郎の「作品***」を取り上げている。その一連目の
えんじゆえにしだえびかづらのほねはほどけ
これを漢字まじりで書き直して、次のようにしている。
えんじ故に羊歯エビ蔓の骨は解け
えっ、そうなの。
私はびっくりした。
えんじゅ(槐)えにしだ(金雀児)えびかずら(葡萄葛)
と、「え」ではじまる植物をつづけているのではないのかな? 「え」の頭韻を遊んでいるのではないのかな?
1行目の「ふるへるふゆのひざしのふみ石はくずれる」も私は「震へる冬の日差しの踏み石は崩れる」ではなく、「震へる冬の日差しの文/石は崩れる」と読みたい気持ちがある。「日差しの文(ふみ)」では「文」が比喩になってしまうのでよくないかもしれないが、2行目に「みえぬ時」という抽象が出てくるし、かづらの「骨」も比喩だから、「文」という比喩が1行目にでてきてもいいのでは、と思う。
嵯峨の漢字まじりが私に異様にみえるのは、
えんじ故に
の「故に」のせいでもある。那珂は、非常に論理的な音楽を構築するが、その論理は論理学の論理「故に」というようなことばを必要とはしていない。もっと「肉体」的なものだ。
とても疑問に感じた。
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