詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池田順子「ときどきみず」ほか

2014-07-05 11:24:27 | 詩(雑誌・同人誌)
池田順子「ときどきみず」ほか(「ガーネット」73、2014年07月01日発行)

 池田順子「ときどきみず」は、夜中に起きてお茶をのむときのことを、「水」の立場(?)から書いている。のまれる「水」になって書いている。--と、要約してしまうと、ちょっと違うんだけれど。

家族が寝しずまると
ときどき
みずになる
水道管のなかを
初めて通る道のように
くぐり
みずがほしい と
蛇口をひねる ひとの
口に運ばれる

ときどき
急須のなか
茶の葉がゆっくりふくらんでいく
ゆったり待つ時間
急須を通して
かすかに話し聲が聞こえる
犬の鳴き声もして

湯呑みのなかで
じっとしていると
やわらかい手のひらに
そっと包まれて
含んでもらう
覗きこまれて見つめられて
茶になった 水は
そのひとの眠りのなかに
落ちていく
こわい夢も
いっしょに見る

 最初は水が飲みたいと思って、蛇口をひねって水を飲む。少し落ち着くと、今度は水ではなくお茶が飲みたくなった、ということだろう。その微妙な肉体の変化が自然でいいなあ。だれもが経験したことがあるような時間なのだけれど「初めて通る道のように」感じられるのは、ことばが急いでいないからだ。ゆっくりとまわりを見渡している。まわりを味わっている。
 2連目の「ゆったり待つ時間」の「待つ」の主語は「急須のなかの水(湯)」なのだが、池田にも思える。1連目でのんだ水が肉体の中に入って池田になっている--と書くと3連目の先取りになってしまうが、水とも池田ともつかない一体感がおかしい(楽しい)。聞こえてくる「話し聲」「犬の鳴き声」をわざわざ「急須を通して」と書いているところも楽しい。「急須を通して」と書くことで、水の感じている暗さが、家族が寝しずまった夜中の暗さと重なる。水は急須の壁に囲まれて暗い。けれど、暗くても耳は働く。同じように、夜中に起きだした池田は闇に包まれている。外は見えない。けれど「話し聲」や「犬の鳴き声」は聞こえる。ますます水と池田の区別がつかなくなるのだが、それが「ゆったり」という感じになるからおもしろい。
 水と池田が「一体感」のあるものになったあと、3連目。そこに書かれていることばは現実なのか、水の欲望なのか、池田の願望なのか、よくわからない。たとえば「やわらかい手のひら」は池田の手のひらがやわらかいという事実を語っているのか、そうあってほしいという池田の願望なのか、あるいはこの手のひらの柔らかさを水(茶)に知ってもらいたいとおもっているのか。こういうことは、まあ、いちいち区別をせずに、「全体」を感じ取ればいいのだけれど。書くと面倒なことは、書かずにほっておけばいいと思うので、私は、こういうときは厳密には考えない。あ、池田と茶が、どっちかどっちであるかわからない感じがいいな、と思う。
 「含んでもらう」も「覗きこまれ見つめられ」も同じだ。そっと茶を口に含みたい。静かに茶を覗き、見つめたい。何かをじっくり味わいたい。自分自身の感じを味わいたいという印象があって、間接的に語られている。
 最後は「オチ」のようなものかもしれないが、これもなんとなく、いいなあ。
 そうか、こわい夢を見て、目がさめて水が飲みたくなったのか。しかし、少し落ち着くと、さらに落ち着きたくなって茶を入れて飲む。それから、自分の見たこわい夢が、これから茶が鎮めていくんだな、という感じ。
 3連目だけ「ときどき」がないのだけれど、ないことによって、あ、茶を飲むことですっかり落ち着いたんだなあ、とわかる。この感じもいいなあ。



 嵯峨恵子「一篇の詩から」は那珂太郎の「作品***」を取り上げている。その一連目の

えんじゆえにしだえびかづらのほねはほどけ

 これを漢字まじりで書き直して、次のようにしている。

えんじ故に羊歯エビ蔓の骨は解け

 えっ、そうなの。
 私はびっくりした。

えんじゅ(槐)えにしだ(金雀児)えびかずら(葡萄葛)

と、「え」ではじまる植物をつづけているのではないのかな? 「え」の頭韻を遊んでいるのではないのかな?
 1行目の「ふるへるふゆのひざしのふみ石はくずれる」も私は「震へる冬の日差しの踏み石は崩れる」ではなく、「震へる冬の日差しの文/石は崩れる」と読みたい気持ちがある。「日差しの文(ふみ)」では「文」が比喩になってしまうのでよくないかもしれないが、2行目に「みえぬ時」という抽象が出てくるし、かづらの「骨」も比喩だから、「文」という比喩が1行目にでてきてもいいのでは、と思う。
 嵯峨の漢字まじりが私に異様にみえるのは、

えんじ故に

 の「故に」のせいでもある。那珂は、非常に論理的な音楽を構築するが、その論理は論理学の論理「故に」というようなことばを必要とはしていない。もっと「肉体」的なものだ。
 とても疑問に感じた。

悠々といそげ
嵯峨 恵子
思潮社















谷川俊太郎の『こころ』を読む
谷内修三
思潮社
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池井昌樹『冠雪富士』(14)

2014-07-05 09:59:46 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(14)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「忙」は、忙しくてころが荒んだときに、ふっとその「すさみ」を消すようにあらわれる思い出を書いている。

いまもむかしもあたらしい
のに
いまはもうないものばかり
いまごろこころにうかぶのだ
それはたとえばふうりんのおと
たなばたかざりのゆれるおと
つばめのひなのあかいのど
えんそくのひのまくらもと
こころときめかせたものばかり
むかしながらのさざなみのよう
いまもよせてはかえすのだ
いまもむかしもあたらしい
のに
いまはみえないこころへと

 途中の「それはたとえばふうりんのおと」からつづくことばは、思い出の「もの/こと/おと」を書いていて、あ、池井はこういうことを思い出しているのだなあとわかる。「おと」「おと」「のど」「もと」と、「お」のつらなる「脚韻」が池井には珍しいかもしれない。暗く静かな響きが、「いま/ここ」から遠い感じを誘っていて、それがよけいに「あ、これがなつかしいのか」「池井はこういうものにこころをときめかせたのか」と妙にしんみりした気持ちで読んでしまう。
 しかし、それがくっきりと見えるだけに、

いまもむかしもあたらしい

 これは、ちょっとやっかいだなあ。
 「いま」があたらしいのは、わかる。でも、「むかし」があたらしいとは? 「いま」と「むかし」は反対とはいわないけれど、同じものではない。それが同じ「あたらしい」と呼ばれるのは、なぜ?
 どんな思い出も、思い出す瞬間には「あたらしい」まま思い出してしまう。それを体験したときのまま、その体験が「いま」であるかのように思い出してしまう。小学1年生のときに描いた絵を小学6年生のときに見て「色があせて古くなったなあ」と感じる、その「古い」という思い出さえ、思い出すときは「いま」体験しているようにして感じてしまう。「いま」と「過去」の「時」と「時」の「あいだ」がなくなって、どんな「過去」も「いま」にぴったりと密着している。それが「思い出す」ということ。「いま」の「肉体」で「過去」を思い出す。だから、その瞬間瞬間に「過去」は更新され「あたらしい」ということかな?
 でも、それがどんなに「あたらしく」ても、それは、「いま」は「もうない」。
 いや、これは正確ではないだろう。
 池井が聞いた「ふうりんのおと」は「いま」もどこかで鳴っている。「いま/ここ」にないだけであって、「いま」もどこかにある。「たなばたかざりのゆれるおと」だって、どこかにある。「ない」とは断言できない。「つばめのあかいのど」も、あすは遠足だと思って胸をときめかせながら眠る子どもの枕元のリュック--それだって「いま」どこかにあるはずだ。
 でも、池井の「いま/ここ」にはない。
 「いま/ここ」にはないけれど、それをくっきりと思い出すことができる。

 では、「いま/ここ」にあるのは何なのか。
 思い出すという「こころ」である。

 そのこころについて、池井は最後におもしろいことを書いている。

いまもむかしもあたらしい
のに
いまはみえないこころへと

 最後の行は、一種の倒置法で、4行前の「いまもよせてはかえすのだ」と「意味」としてはつながるのだが……。
 「いまはみえないこころ」って、何?
 これは、「いまみえるこころ」って、何? と問いを変えた方がわかりやすいかもしれない。「いまみえるこころ」とは何なのかということから考えた方が、手がかりがつかめるかもしれない。
 「いまみえるこころ」。それは昔のことを思い出しているこころ。そして、そのむかしのことは「いま」ここでおきていることと同じようにあたらしく感じることができる。それな「のに」(あるいは、それゆえに)、とてもさびしい。
 なぜ?
 それは、そういうもの、「ふうりんのおと」や何かは、ほんとうは「いま」のこころへ帰ってくるからではないのだ。それは「いまのこころ」に帰ってくるような素振りを見せながら、実は、その「ふうりんのおと」が池井のこころを放心させたあの一瞬のこころ、あの「時」へと帰っていくのだ。あのときの放心、陶酔--その純粋な豊かさを味わうことができるこころ、「いま/ここにないこころ」へと帰っていく。

 なつかしい思い出がある。大好きだった何もかもを思い出すことができる。でも、それをどんなに思い出しても、あのときと同じ陶酔にはひたれない。
 これは逆言えば、大好きだったものたちに、「いま/ここ」へ帰ってくるな、あの幸せな陶酔のこころこそがおまえたちの棲家(よりどころ)なのだ、ということかもしれない。
 「いま」の池井は「忙しすぎる」。「心」を「亡」くしている。
 「いまもむかしもあたらしい」のは「頭」ではわかるが、いまのこころは「あたらしい」を放心して受け止めることができない。酔うことができない。池井は、いつでも放心していたい。
 放心できない哀しみが、怒りに汚されることなく、純粋に書かれている。


冠雪富士
池井 昌樹
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(105)

2014-07-05 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(105)        2014年07月05日(土曜日)

 「アンティオコス・エピファネスにささぐ」も古代の戦争とカヴァフィスの生きた時代のギリシャ・トルコ戦争が重ね合わせる形で書かれている。「当時のギリシャ本国では敗戦将校の自決があいつぎ、報復を叫ぶ声があった。詩人はこれに対して分別を説くごとくである。」と中井久夫は注釈で書いている。
 歴史は、繰り返す--その繰り返しのなかで見るものは、どういうわけだろう、いつも「悲しみ」である。「喜び」が繰り返すとはいわないのは、喜びはそのときそのときてたまったく新しいものだからだろうか。そして、その繰り返さないはずの「喜び」が、なぜ、自分にだけは実現するとひとは思うのだろうか。

若きアンティオキアびと、拝謁して申すよう、
「陛下、またとない希望に胸の高鳴りを抑えられませぬ。
マケドニア軍が、アンティオコス・エピファネス王陛下、
あのマケドニア軍が、この大合戦に打って出てまいりました。
あの諸君に勝ってもらわねば。勝てば望みのものをとらせましょう。
ライオンなりと馬なりとサンゴ作りのパーン像なりと、
ええい、優雅な邸宅もテュロの庭園も、
陛下に賜ったものならなんでも差し出す所存でございます」

 これは、あなただけに与えられる「喜び」--そう言われると、ひとがそう思ってしまうのはなぜだろう。「喜び」が「敗北」(悲しみ)と違って繰り返さないために、ひとはその「本質」を知ることができないためだろうか。

 この詩では、報償に目が眩むのではなく、父と兄の運命(敗北)を思い出して、王は動かなかったという形でことばは閉じられているが、そういうストーリーよりも、この詩では王に誘いかける「声」がおもしろい。
 ひとを煽ることばには、不思議な音楽がある。

マケドニア軍が、アンティオコス・エピファネス王陛下、
あのマケドニア軍が、

 この「マケドニア軍が」という繰り返し、しかも、繰り返すとき「あの」という指示詞のつくリズム。「あの」が記憶をひっぱりだし、「マケドニア軍」をいきいきとさせる。「あの」が何か書かれていないが、それはみんなが熟知のことだからだ。「みんな」の感覚を動員して、そのことばの「意味」を強める。そこに、不思議な音楽がある。
 「ええい」という乱暴な口語もいいなあ。自分を投げ捨てて協力する--そういう「嘘」がことばにはずみをつける。ただ王を戦争にひっぱりだしたいだけなのだが、「ええい」には自己犠牲の響きがあるので、王をその気にさせる。
 詩は、詩のストーリーよりも、こういう細部の音(声の調子)にある。


リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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