詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹『冠雪富士』(11)

2014-07-02 11:34:28 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(10)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「兜蟹」には、池井の「ほんとう」に対するこだわりが書かれている。そのこだわりの部分に少しおもしろいことばがつかわれている。

前作『明星』を校閲中、馴染の編集者からある箇所を指摘された。
「辺りの水田から一斉に蛙声が湧き螢が舞い兜蟹の幼生が銀河のよ
うに渦巻いたかつての郷里」。この兜蟹とは兜蝦の誤りではありま
せんか。海生の兜蟹が水田に棲むはずがありません。だとすれば、
これはフィクションということになりますね。フィクションにされ
ては叶わない。父娘ほどにも隔たりがありながら歯に衣着せぬ敏腕
編集者の物言いに私は怖じけ、即座に「兜蝦」を受諾したのだった。

 「フィクション」。--このことば自体は、「敏腕編集者」の口から出たものをそのまま復唱したものだけれど、うーん、こういうときに「フィクション」というのかな、「フィクション」ということばに反応するのかな? 編集者が言っているように「誤り/間違い」でカタがつく、修正して、それでおしまい、という気がするのだけれど。
 「誤り/間違い」とフィクションは別なものだと思うのだけれど。
 フィクション好きな私は、フィクションでしか語れないことがある、あるいはフィクションによってわかりやすくなることがある、と思うのだけれど。

 「フィクションにされては叶わない。」--この「される」が、池井の考えを見ていくときに大事なのかな?
 「事実」を間違える/勘違いする。そして、それを書く。それは「間違い」なのだけれど、「間違い」とは思わずにフィクションに「される」。フィクションとして受け止められる。つまりフィクションによって何かほかのことを伝えようとしている--そんなふうに理解されたのではたまらない。それは池井の「本心」とは違うということだろう。
 言い換えると、池井はフィクションによって何かを伝えようとは思っていない。フィクションでしか語れないことがあるとは思っていない。「ほんとう」のことを語り、「ほんとう」を知ってほしいと願っている。

 私は、詩というものは読者がかってに読んで感動するものだと思っている。どう読もうとかまわない。筆者が書いたこととは反対のことを読み取って感動してもいい。落語の「ちはやぶる」の世界のようなことが大好きである。
 でも、池井は違うのだ。
 書きたいのは「ほんとう」。それ以外のことは書きたくない。詩にしたくない。
 「間違い」があれば、それは「ほんとう」ではなくフィクションになる。--これは、池井の「認識」のなかには「間違い」というものがないということだ。「間違い」は存在してはいけない。少なくとも、詩のなかには「間違い」は許されない。
 あ、厳しいねえ。

 その後、池井は、池井のふるさと坂出は古い埋立地だったことを思い出す。井戸水にも淡い塩味があった。生家の縁の下には海生の蟹が姿を見せることもあった、ということを思い出す。ふるさと一帯は、純粋な真水の土地ではない。海がひそかに隠れている。あれは、やっぱり蝦ではなく兜蟹だった。そう確信して、「兜蝦」を「兜蟹」にもどす。
 そういう経緯が書かれている。
 ここでも池井がこだわっているのは「ほんとう」である。池井の体験してきたことへの「ほんとう」の執念である。

 でも、なぜ、こんなに「ほんとう」にこだわるのだろう。兜蝦でも、兜蟹でも、田んぼのそばの水のなかに生き物が動いている。それが銀河のように渦巻いているという表現には遠い世界に通じる不思議な魅力があるという点では変わらないのだけれどなあ。兜蟹が兜蝦になっても、「ほんとう」を激しく傷つけるとは思わないのだけれどなあ。私は「兜蟹」に感動したのではなく、「銀河のようにうずまいた」という表現の方に感動の重点があるのだけれどなあ。
 こういう疑問には、詩の、後半部分が答えている。
 なぜ「ほんとう」にこだわるのか。なぜ「兜蟹」でないといけないのか。

                          ちちはは
のちちはは、そのまたちちははの遐い遐い昔から、ながくながく私
たちとともに在り続けてくれたものたち、あのものたちは何処へ往
ってしまったのか。

 「兜蟹」は、あの日、ただそこに「いた」のではない。兜蟹の幼生のつくる銀河はあの日、そこに「あった」だけなのではない。そこに「いた/あった」のは、実は父母、祖父母……とつづく「いのち」のつながりであった。いつからかわからないくらい昔から(それこそ銀河が誕生したときから)、そこに「いつづけた」。
 「在り続けた」というこばが出てくるが、「続く」が池井にとっての「ほんとう」なのだ。キーワードなのだ。
 「つづく」はまた「つながる」でもある。「つながる」は「一緒に」でもある。「一緒に生きる」とき、人も動物も兜蟹もつながる。別々の生き方をしているが、どこかでつながっている。いのちは「つづいている」。
 「ほんとう」はつながっている。続いている。

 フィクションは、このしつこいつながりを切断する。切断することで、その断面に、断面としてしかとらえることのできない「ほんとう」を浮かび上がらせることもあるが、池井はそれには与しない。
 あくまでも、「つづいているほんとう」にだけ目を向け、それとつながろうとする。
 「あれらはほんとうにあったこのなのだろうか」と池井は疑問もことばにしているが、それは疑問ではなく、「ほんとうにありつづけてほしい」という願いが強いために、思わず反語の疑問になったのだろう。





冠雪富士
池井 昌樹
思潮社


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中井久夫訳カヴァフィスを読む(102)

2014-07-02 11:31:27 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(102)        

 「名哲学者の学校出」はカヴァフィスの「自画像」だろうか。

奴はアンモニオス・サッカスのところで二年学んだ。
しかし哲学にもサッカスにも飽きた。

そこで政治にはいった。
しかし政治はやめた。知事どのは白痴。
取り巻きは勿体ぶっておせっかい焼きのあほう。
やつらのギリシャ語ときたら--馬鹿めが--蛮人ふうだ。

 サッカスは古代のひとだからカヴァフィス自身が彼のところで学んだということはありえないが、「奴」にカヴァフィスが託されている。哲学を学んで、政治に入って、しかし、そこでもうんざりしている。政治家の「知性」がカヴァフィスには耐えられない。政治の「世間」を渡り歩く「智恵」が気に食わない。特にその「ギリシャ語」が許せない。
 カヴァフィスは何よりも「ギリシャ語」を生きている。詩人なのだ。
 でも、ギリシャ語(国語、ことば)とは何だろう。何のために、どうつかうのか。
 はっきりしないまま、詩は、突然転調する。

ぼんやりしてちゃあてんで、
アレクサンドリアの曖昧宿の常連になった。
淫猥な秘密の巣を歴訪した。

ここじゃ奴はツイていた。
いい顔かたちに恵まれて、
この神の賜物をたっぷり利用した。

 あれあれ、なにやら、ことばではなく肉体と肉欲の世界に溺れてしまっている。哲学も、政治も、ギリシャ語も関係がない--ようにみえるが、カヴァフィスにはそうではないのだろう。ことばは、結局「肉体」そのものなのだ。ある肉体にひかれるように、人はある「ことば」にひかれる。「ことば」にも「肉体」があって、それが「ことば」を欲望させ、そこからことばが自律的に生きはじめる。
 哲学のことば、政治のことば(おべんちゃらのことば)ではなく、詩のことば、芸術のことばである。
 「感覚と欲望を「芸術」に加えたのはこの私だ。」は「私は芸術にもたらした……」の一行だが、カヴァフィスは「ことば(ギリシャ語)」に彼自身の感覚(の好み)と欲望を注ぎ込み、「ことば」を詩(芸術)にまで高めた。そして、その昇華には、彼自身の「淫猥な」肉欲の体験が不可欠だったというのである。
 さらにこの詩の後半には別のことが語られているが、それは中井久夫の注が親切だ。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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