池井昌樹『冠雪富士』(16)
「桃」はわかりにくい詩である。「三十三回忌を迎えた。」ということばからはじまる。会田綱雄を忍ぶ催しを池井昌樹は開いている。(主催している。)その催しに、ひとりの「先生」がやってくる。案内状に「ぼくはゆくよ」といつも返事をくれる先生である。先生は「故人の遺影を不思議そうにしげしげと、あんまり呑みも食べもせず、しかし、御満悦の様子だった。」その先生は、池井が酔いしれているあいだに「有難う」といって消えてしまう。
この部分が、私は好きだ。「まぼろしの」が四回繰り返される。「まぼろし」というのは実体のないものだが、繰り返し「まぼろし」を聞いていると、その「まぼろし」こそが存在するものだという気がしてくる。
「まぼろし」は池井にとっては「まぼろし」ではない。それは「永遠のほんとう」なのである。「永遠のほんとう」というものは「現実」には存在しない。だから、池井はそれを便宜上「まぼろし」と呼んでいる。
ほかのことばで言いなおしたところで(言いなおしてしまえば)、それこそ他人からは「それはまぼろしだ」と批判される(否定される)ことを知っているから、池井は「まぼろし」ということばを自分で語ることで、他者からの批判(否定)を遠ざけている。
そういうことをせずにはいられないくらい大切な「永遠のほんとう」なのである。
「まぼろし」とことわった上で、池井は「まぼろし」をさらに押し進める。「先生のことは殆ど知らない」とことわった上で、池井は「永遠のほんとう」の、どこが「永遠のほんとう」なのか、それを書く。
「気がしてくるのだった」と書くくらいだから、それは「ほんとう」ではない。でも、池井はそれを「ほんとう」と思いたい。
池井は「夜空に開く大輪の花火に見惚れた」ことがある。それは「まぼろし」ではなく、事実である。そこに「幼い先生」が一緒にいて、一緒に花火に「見惚れた」ということが「まぼろし」なのである。でも、そのとき「だれか」がいて、やはり花火に「見惚れた」。その「見惚れた」は「ほんとう」なのだ。
ひとが美しいものに「見惚れる」。そのことが「ほんとう」である。池井は、その「ほんとう」を肉体で覚えている。
そして、その「見惚れる」という「ほんとう」をだれかが一緒に体験しているということも感じている。だれかが一緒に「見惚れて」いなければ、花火はあんなにうつくしく開くはずがない。池井独りでは受け止められないくらいの美しさ。それは「だれか」が一緒に「見ほれて」いるから美しい。
そして、その「見惚れる」という「放心」のとき、池井はもちろん幼いのだが、「先生」もまた「幼いいのち」に帰っている。「年齢」は「まぼろし」のように消えて、「幼い」という「共通のもの/こと」が「現実」として、そこに生きている。
年齢を超越して、時間を越えて--つまり「永遠」として、「見惚れる」。「見惚れる」ということをだれかと一緒体験する(共有する)とき、そこに「永遠」があらわれる。
「永遠」は時間を超える。だから、詩の初めには座いすに腰かけている老人だったのに、花火を見るときは池井と同じ「幼いいのち」になり、それから
と詩はつづく。「三十三回忌」はいつの間にか「百回忌」になる。「御案内」には宛て先の名前と住所が必要なのだが、その先生の「御尊名」を知らない。それなのに「ぼくはゆくよ」という返事はかえってくるという奇妙なことも起きる。
この非現実(まぼろし)が「まぼろし」でなくなるのは、池井が、その「先生」を生きていると信じるときにだけ、そうなる。「まぼろし」ではなく、たしかに池井にとっては「生きている」。
その「先生」の口癖は「ぼくはゆくよ」。これは、池井のいるところへ「ぼくはゆくよ」である。池井が思うとき、その「先生」はあらわれて、一緒に時間をすごす。何かに「放心する」という時間をすごし、その「放心」のなかで、池井と一体になる。
「放心」のなかでの「一体」。
それは、私のような「他人」からは、とてもわかりにくい。池井が「放心」してしまっていて、それを説明しようともしない(説明できない)のだから。
でも、それは存在する。
そういうことは、起きる。
この「先生」を「会田綱雄」と言いかえると、この詩はとても「わかりやすく」なる。桃にちなんだ忌日のつどい。そこへ会田綱雄は帰って来て、「あ、おれは死んだか。でも、こんなふうにみんなが集まって、酔いしれて、ほうけている(放心している)。これはいいもんだなあ。ここに『永遠のほんとう』がある。おれの求めていたものがある」--そうつぶやいている。その声を池井が聞いている。--でも、そんなふうに読んでしまうと、「理が勝ちすぎる(論理的になりすぎる)」。そして、詩ではなくなってしまう。「先生」をだれかに固定するのではなく「まぼろし」のままにしておく方がいいのだ。「御尊名を、今も存じ上げない」ままが、会田綱雄と一緒に、「ほんとうの永遠(詩人)」に会うことができるのだから。
池井は会田綱雄に会うとき、会田綱雄ではなく、「永遠にほんうとの詩人」に会っているのだから。
「桃」はわかりにくい詩である。「三十三回忌を迎えた。」ということばからはじまる。会田綱雄を忍ぶ催しを池井昌樹は開いている。(主催している。)その催しに、ひとりの「先生」がやってくる。案内状に「ぼくはゆくよ」といつも返事をくれる先生である。先生は「故人の遺影を不思議そうにしげしげと、あんまり呑みも食べもせず、しかし、御満悦の様子だった。」その先生は、池井が酔いしれているあいだに「有難う」といって消えてしまう。
雪の降る夜道を独り、桃の小枝を片手に、まぼろしの杖を突き、
まぼろしの駅まで歩き、まぼろしの電車に乗り、まぼろしの電車を
乗り替え、何処へとなく、雲を霞と消え去られたのか。
この部分が、私は好きだ。「まぼろしの」が四回繰り返される。「まぼろし」というのは実体のないものだが、繰り返し「まぼろし」を聞いていると、その「まぼろし」こそが存在するものだという気がしてくる。
「まぼろし」は池井にとっては「まぼろし」ではない。それは「永遠のほんとう」なのである。「永遠のほんとう」というものは「現実」には存在しない。だから、池井はそれを便宜上「まぼろし」と呼んでいる。
ほかのことばで言いなおしたところで(言いなおしてしまえば)、それこそ他人からは「それはまぼろしだ」と批判される(否定される)ことを知っているから、池井は「まぼろし」ということばを自分で語ることで、他者からの批判(否定)を遠ざけている。
そういうことをせずにはいられないくらい大切な「永遠のほんとう」なのである。
「まぼろし」とことわった上で、池井は「まぼろし」をさらに押し進める。「先生のことは殆ど知らない」とことわった上で、池井は「永遠のほんとう」の、どこが「永遠のほんとう」なのか、それを書く。
そういえば、きみとは
同郷だからな、という御言葉を何時か聞いた。郷里が何処かも忘れ
てしまった私だが、そういわれれば、幼い頃、やはり幼い先生と肩
を並べて夜空に開く大輪の花火に見惚れたような気がしてくるのだ
った。
「気がしてくるのだった」と書くくらいだから、それは「ほんとう」ではない。でも、池井はそれを「ほんとう」と思いたい。
池井は「夜空に開く大輪の花火に見惚れた」ことがある。それは「まぼろし」ではなく、事実である。そこに「幼い先生」が一緒にいて、一緒に花火に「見惚れた」ということが「まぼろし」なのである。でも、そのとき「だれか」がいて、やはり花火に「見惚れた」。その「見惚れた」は「ほんとう」なのだ。
ひとが美しいものに「見惚れる」。そのことが「ほんとう」である。池井は、その「ほんとう」を肉体で覚えている。
そして、その「見惚れる」という「ほんとう」をだれかが一緒に体験しているということも感じている。だれかが一緒に「見惚れて」いなければ、花火はあんなにうつくしく開くはずがない。池井独りでは受け止められないくらいの美しさ。それは「だれか」が一緒に「見ほれて」いるから美しい。
そして、その「見惚れる」という「放心」のとき、池井はもちろん幼いのだが、「先生」もまた「幼いいのち」に帰っている。「年齢」は「まぼろし」のように消えて、「幼い」という「共通のもの/こと」が「現実」として、そこに生きている。
年齢を超越して、時間を越えて--つまり「永遠」として、「見惚れる」。「見惚れる」ということをだれかと一緒体験する(共有する)とき、そこに「永遠」があらわれる。
「永遠」は時間を超える。だから、詩の初めには座いすに腰かけている老人だったのに、花火を見るときは池井と同じ「幼いいのち」になり、それから
あれからもはや長い長い歳月が流れ、百回忌を迎える今年、
いくらなんでも、と躊躇しつつお送りした御案内にただ一言、「ぼく
はゆくよ」と。先生の御尊名を、今も存じ上げない。
と詩はつづく。「三十三回忌」はいつの間にか「百回忌」になる。「御案内」には宛て先の名前と住所が必要なのだが、その先生の「御尊名」を知らない。それなのに「ぼくはゆくよ」という返事はかえってくるという奇妙なことも起きる。
この非現実(まぼろし)が「まぼろし」でなくなるのは、池井が、その「先生」を生きていると信じるときにだけ、そうなる。「まぼろし」ではなく、たしかに池井にとっては「生きている」。
その「先生」の口癖は「ぼくはゆくよ」。これは、池井のいるところへ「ぼくはゆくよ」である。池井が思うとき、その「先生」はあらわれて、一緒に時間をすごす。何かに「放心する」という時間をすごし、その「放心」のなかで、池井と一体になる。
「放心」のなかでの「一体」。
それは、私のような「他人」からは、とてもわかりにくい。池井が「放心」してしまっていて、それを説明しようともしない(説明できない)のだから。
でも、それは存在する。
そういうことは、起きる。
この「先生」を「会田綱雄」と言いかえると、この詩はとても「わかりやすく」なる。桃にちなんだ忌日のつどい。そこへ会田綱雄は帰って来て、「あ、おれは死んだか。でも、こんなふうにみんなが集まって、酔いしれて、ほうけている(放心している)。これはいいもんだなあ。ここに『永遠のほんとう』がある。おれの求めていたものがある」--そうつぶやいている。その声を池井が聞いている。--でも、そんなふうに読んでしまうと、「理が勝ちすぎる(論理的になりすぎる)」。そして、詩ではなくなってしまう。「先生」をだれかに固定するのではなく「まぼろし」のままにしておく方がいいのだ。「御尊名を、今も存じ上げない」ままが、会田綱雄と一緒に、「ほんとうの永遠(詩人)」に会うことができるのだから。
池井は会田綱雄に会うとき、会田綱雄ではなく、「永遠にほんうとの詩人」に会っているのだから。
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