池井昌樹『冠雪富士』(25)(思潮社、2014年06月30日発行)
「夢中」という作品が雑誌に発表されたとき、私は感想を書いた。そのとき、この詩に出てくる「あいつ」を池井と同世代の誰かという具合にとらえていたのだが、これに対して、池井が「あれは、自分の息子のことだ」と抗議してきた。私が読み違えていたのである。
詩は、それが書かれた瞬間から書いたひとのものではなくなる。そのことばをどう読もうがそれは読者の勝手であり、筆者が抗議をいうようなことではない、というのが私の考え方である。もし「息子」のことを書きたいのなら、息子とわかるように書くのが書いたひとの責任であって、読み違えたからといって、読者の読み方が悪いというのは筆者の傲慢である。
そういいたいけれど。
今回は、私の完全な間違い。--というよりも、詩集のなかで読んでみると、池井の書こうとしていたことがわかる。一篇だけ読んだときは気がつかなかったが、詩を書いているとき、池井のなかにはつづいている時間というものがあり、その時間のなかでことばが指し示すものが違ってくる。
この詩集のなかで、池井は、一貫して自分の記憶(幼いときの思い出)と「いま」を結びつけている。「幼いときの家族」「いまの家族」を結びつけて、世界を(自分を)見つめなおしている。そこには他人への批判や羨望は含まれていない。
その「夢中」の全文。
あいついまごろゆめんなか
そうおもってははたらいた
つめたいあめのあけがたに
あせみずたらすまよなかに
あいついまごろゆめんなか
そうおもったらはたらけた
そんなつめたいあけがたも
あせみずたらすまよなかも
いまではとおいゆめのよう
とおいとおいいほしのよう
あいつどうしているのやら
こもごもおもいはせながら
といきついたりわらったり
めをとじたきりひとしきり
けれどいまでもゆめんなか
あいついまでもゆめんなか
こんなやみよのどこかしら
あいつだれかもわすれたが
「いまごろ」「いまでは」「いまでも」と「いま」が繰り返される。その「いま」は同じではない。あるときは2013年の夏であり、あるときは2014年の冬である。この詩のなかでは「あめのあけがた」「あせみずたらすまよなか」と出てくるが、同じではない「時」が、同じ「いま」と呼ばれている。
「いつでも」「いま」なのである。「いま」は「いつでも」に書き換えられるのである。「あいついつでもゆめんなか」と書いても「意味」はかわらない。いや「いつでも」と書いた方が、「意味」が通りやすいかもしれない。あいつ(息子)は池井の苦労を知らずに「いつでも」夢のなかにいる。そういうことを嘆いている、批判しているととらえると、この詩の「意味」はとてもわかりやすくなる。
おれ(池井)はこんなに苦労しているのに、息子は知らん顔さ。知らん顔で自分の夢のなかにいるだけだ。もう、苦労しすぎて「あいつ」がだれだか忘れてしまったよ、そうこぼしている詩と読むと、「意味」はとても簡単に伝わっている。
でも、そうではないのだ。
世間から見れば「いつも」であっても、流通言語の意味から言えば「いつも」であっても、池井にとっては「いま」なのだ。それも、「いま」が積み重なって「いつも」になる「いま」ではなく、どの「とき」ともつながらない「いま」があるだけなのだ。
「いま」がつながるとしたら、2013年-2014年という具合に「とき」を線上につなげるかたちでつながるのではなく、そういう線上の時間から切り離された「永遠」とつながる。それが「いま」である。
いまではとおいゆめのよう
とおいとおいいほしのよう
ここに「とおい」「とおいとおいい」ということばが出てくるが、池井の「いま」はその「とおい」「とおいい」ものとつながっている。その「永遠」とつながっているからこそ、池井は流通言語でいう「いま」が「あせみずたらす」苦しいものであっても、「はたらける」のだ。
池井は、はたらくことで「とおいいま」へと息子の「いま」をひっぱってゆく。
それは、池井が両親からしてもらったことなのだ。
池井はこの詩集で家族(両親)や恩人のことを書いているが、それは池井の「過去」を「いま=永遠」へと引き上げてくれた人たちである。そのことを思い、池井は、この詩集で、両親(恩人)がしてくれたことを書き残そうとしている。
また、行為そのものとして引き継ごうともしている。
こんなことを書くと説教くさくなって、詩がおもしろくなくなるが、池井の詩には何か暮らしの実践があり、暮らしをととのえる力がある。暮らしをととのえて生きる人間の必然がある。
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