詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

緊急のお知らせ・「谷川俊太郎の『こころ』を読む」

2014-07-16 13:31:56 | 詩集
AMAZONで一時「予約受け付け中」になっていましたが、再び「中古品」の取り扱いだけになっています。
「中古品」は6710円の値段がついています。
各地の書店や、AMAZON以外のネット書店では「1800円+消費税」で新品が買えます。
書店いないときは、お手数ですが注文してください。

http://www.amazon.co.jp/%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E4%BF%8A%E5%A4%AA%E9%83%8E%E3%81%AE%E3%80%8E%E3%81%93%E3%81%93%E3%82%8D%E3%80%8F%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%80-%E8%B0%B7%E5%86%85-%E4%BF%AE%E4%B8%89/dp/4783716943/ref=sr_1_3?ie=UTF8&qid=1405485050&sr=8-3&keywords=%E8%B0%B7%E5%86%85%E4%BF%AE%E4%B8%89
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

池井昌樹『冠雪富士』(25)

2014-07-16 08:23:29 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(25)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「夢中」という作品が雑誌に発表されたとき、私は感想を書いた。そのとき、この詩に出てくる「あいつ」を池井と同世代の誰かという具合にとらえていたのだが、これに対して、池井が「あれは、自分の息子のことだ」と抗議してきた。私が読み違えていたのである。
 詩は、それが書かれた瞬間から書いたひとのものではなくなる。そのことばをどう読もうがそれは読者の勝手であり、筆者が抗議をいうようなことではない、というのが私の考え方である。もし「息子」のことを書きたいのなら、息子とわかるように書くのが書いたひとの責任であって、読み違えたからといって、読者の読み方が悪いというのは筆者の傲慢である。
 そういいたいけれど。
 今回は、私の完全な間違い。--というよりも、詩集のなかで読んでみると、池井の書こうとしていたことがわかる。一篇だけ読んだときは気がつかなかったが、詩を書いているとき、池井のなかにはつづいている時間というものがあり、その時間のなかでことばが指し示すものが違ってくる。
 この詩集のなかで、池井は、一貫して自分の記憶(幼いときの思い出)と「いま」を結びつけている。「幼いときの家族」「いまの家族」を結びつけて、世界を(自分を)見つめなおしている。そこには他人への批判や羨望は含まれていない。

 その「夢中」の全文。

あいついまごろゆめんなか
そうおもってははたらいた
 つめたいあめのあけがたに
 あせみずたらすまよなかに
あいついまごろゆめんなか
そうおもったらはたらけた
 そんなつめたいあけがたも
 あせみずたらすまよなかも
いまではとおいゆめのよう
とおいとおいいほしのよう
 あいつどうしているのやら
 こもごもおもいはせながら
といきついたりわらったり
めをとじたきりひとしきり
 けれどいまでもゆめんなか
 あいついまでもゆめんなか
こんなやみよのどこかしら
あいつだれかもわすれたが

 「いまごろ」「いまでは」「いまでも」と「いま」が繰り返される。その「いま」は同じではない。あるときは2013年の夏であり、あるときは2014年の冬である。この詩のなかでは「あめのあけがた」「あせみずたらすまよなか」と出てくるが、同じではない「時」が、同じ「いま」と呼ばれている。
 「いつでも」「いま」なのである。「いま」は「いつでも」に書き換えられるのである。「あいついつでもゆめんなか」と書いても「意味」はかわらない。いや「いつでも」と書いた方が、「意味」が通りやすいかもしれない。あいつ(息子)は池井の苦労を知らずに「いつでも」夢のなかにいる。そういうことを嘆いている、批判しているととらえると、この詩の「意味」はとてもわかりやすくなる。
 おれ(池井)はこんなに苦労しているのに、息子は知らん顔さ。知らん顔で自分の夢のなかにいるだけだ。もう、苦労しすぎて「あいつ」がだれだか忘れてしまったよ、そうこぼしている詩と読むと、「意味」はとても簡単に伝わっている。
 でも、そうではないのだ。
 世間から見れば「いつも」であっても、流通言語の意味から言えば「いつも」であっても、池井にとっては「いま」なのだ。それも、「いま」が積み重なって「いつも」になる「いま」ではなく、どの「とき」ともつながらない「いま」があるだけなのだ。
 「いま」がつながるとしたら、2013年-2014年という具合に「とき」を線上につなげるかたちでつながるのではなく、そういう線上の時間から切り離された「永遠」とつながる。それが「いま」である。

いまではとおいゆめのよう
とおいとおいいほしのよう

 ここに「とおい」「とおいとおいい」ということばが出てくるが、池井の「いま」はその「とおい」「とおいい」ものとつながっている。その「永遠」とつながっているからこそ、池井は流通言語でいう「いま」が「あせみずたらす」苦しいものであっても、「はたらける」のだ。
 池井は、はたらくことで「とおいいま」へと息子の「いま」をひっぱってゆく。
 それは、池井が両親からしてもらったことなのだ。
 池井はこの詩集で家族(両親)や恩人のことを書いているが、それは池井の「過去」を「いま=永遠」へと引き上げてくれた人たちである。そのことを思い、池井は、この詩集で、両親(恩人)がしてくれたことを書き残そうとしている。
 また、行為そのものとして引き継ごうともしている。

 こんなことを書くと説教くさくなって、詩がおもしろくなくなるが、池井の詩には何か暮らしの実践があり、暮らしをととのえる力がある。暮らしをととのえて生きる人間の必然がある。



「谷川俊太郎の『こころ』を読む」が、ようやくAMAZONで予約(!)できるようになりました。
各地の書店で販売中です。書店にないときは、書店を通じてお取り寄せください。

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中井久夫訳カヴァフィスを読む(116)

2014-07-16 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(116)        2014年07月16日(水曜日)

 「アンチオキアびとテメトス、紀元四〇〇年」は、中井久夫の注釈によれば「キリスト教文化と古代ギリシャ・ローマ文化の共存時代を終え、テオドシウス二世統治下のキリスト教時代にはいろうとする境界線上にある。」男色が困難になりつつある時代と言えるのだろうか。

テメトス若く 愛に酔い痴れ 詩を作る。
題は「エモニデス」。アンティオコス・エピファネスの寵童だね。
サモサタ出身の子。いかにも見目よかったと今に伝える。

 いつもの簡潔な響きがない。一行が長く、なんとなく間延びしている。いつものカヴァフィスなら「見目よかった」とだけで完結することばが、ここでは「いかにも見目よかったと今に伝える。」と余分なことばがまとわりついている。「いかにも」は強調の副詞。これがあると逆に「見目よかった」とは言えなくなる。「いかにも」に力点が移る。「いかにも」がないと成立しない、貧弱な「見目」である。「今に伝える」はことばが重複している。「今に」はなくても、「伝える」という動詞が動くのは「今」しかない。ここでも、「見目」よりも「今」「伝える」という余分なことばの方に、詩の力点が移っている。「今」、この変化していく時代を意識している、その変化に何かを感じているカヴァフィスがいる。
 時代の「たそがれ」を愛するカヴァフィス--そんなふうに中井久夫はとらえているが、たしかにそうなのだと思う。

だが、ただごとならぬこの詩の熱気。あふれんばかりの感情のかよい。

 この行でも、「ただごとならぬ」とか「あふれんばかり」とか、詩にしては無防備な「強調」がある。こういうことばは、ことばの「意味」に反して、詩を「平凡」に、「貧弱(枯渇せんばかり)」にしてしまう。そういう不思議なことばの変化を知っているから、いつものカヴァフィスは、そういうことばをつかわない。

うるわしい愛のかたち、テメトスならではの愛。
ぼくらはその道の者。あいつとは割ない仲の友だよ。
われわれその道の者はこの詩の詩人をご存じ。

 「うるわし」ということばがうるさい。「愛のかたち」の「かたち」もうるさい。どちらかひとつでいいだろう。「ならでは」も間延びがする。「その道」が繰り返されるのも、緩慢な感じだ。カヴァフィスは、ここではそういう「緩慢」な響きを楽しんでいるのかもしれない。
 「割ない」は「ことわり(理)なのだと思うが、中井は「割」という文字をあてている。意味よりも「音」が動いている。口語を動かそうとしているのかもしれない。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする