詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

神尾和寿「でこぼこ」

2007-03-17 13:46:54 | 詩(雑誌・同人誌)
 神尾和寿「でこぼこ」(「ガーネット」51、2007年03月01日発行)。
 とても不思議な詩である。「頭」を意識し、それを笑うことができる詩人なのだと思う。

ぼくらはすっかり食べ終わった
おなかのなかに
移動した
それらは
消化にとてもよい 食べもの
だった

 この書き出しを読んで、何か食べたいと思う人がいるだろうか。何を食べたのか知らないけれど、食欲がなくなりそうなことばである。「おなかのなかに/移動した」と神尾は書いているが、その食べ物はたしかに「おなかのなかに/移動した」だけなのかもしれない。舌や歯、のどはもちろん、目や鼻(ときには耳)には何の刺激も残さない食べ物、あるいは食事というものを連想させる。ぞっとしてしまう。

口の周りに 残った
思い出を
ハンカチでふき取り
さっそうと郊外を歩く
すれ違うそれぞれの人に対して 賑やかな挨拶を送る

 ここでも、食べた満足感が少しも感じられない。食べることは「思い出」だろうか。人間というか、肉体を少しも感じることができない。
 そして、その肉体を欠いたまま、詩は次の行から、奇妙な具合に動いて行く。

プロレタリアートにも
資本家にも
平等に
乾いた風は吹き
彼らの帽子をいきおいよく飛ばす
土手をつたって
小川の底に ふかく沈んでから
オホーツク海あたりにひょっこりと 姿を現して
魚たちを驚かす
シルクハットに
鳥打帽に
万引きされた 正ちゃん帽
これらは
消化にとてもわるくて けっして分解されない
地球が
いつかみごとに破壊するとしても
でこぼこ
っと
していながら
あの重たい頭を 待っている

 ここに書かれていることは「実景」ではない。「小川の底に」から「けっして分解されない」までは神尾の空想である。神尾が頭で考えたことである。
 この空想(?)を肉体と結びつけるのは、「消化」である。神尾が食べたものは「消化にとてもよい」。けれど「帽子」は「消化にとてもわる」い。「帽子」は、このときもちろん「比喩」である。
 「比喩」であることを、神尾は、ここでは強調している。
 「比喩」は詩につきもののように考えられているが、ほんとうに必要なものであるかどうか、私は知らない。「比喩」には抒情、あるいは「意味」がまぎれこみやすいので(というのは、私の偏見だろうけれど……)、私は好きではない。「比喩」のない詩を読みたいとつねづね思っている。
 で、神尾の「帽子」の「比喩」にもどるが、これは「頭」の上にのっかっているもの、「頭」なしには意味を持たない存在、という「意味」にまみれたものの「比喩」であろう。
 そういうものはけっして「消化」されない。いつまでもいつまでも「頭」を待って、存在し続けている。
 そう書くことで、神尾は「頭」そのものをも笑っている。
 「おなかのなかに/移動した」というような書き方自体が「頭」の表現であり、それが奇妙なものであることを強調するために、神尾は最初から、奇妙に書きはじめているということが、最後の行にきてはじめてわかる。
 と、書いてしまうと、それ自体「頭」の世界になってしまいそうである。神尾自身が、「頭」でことばを動かしているだけの詩人のように思えるかもしれない。
 ところが、ちょっと違う。終わりから4行目の「でこぼこ」(タイトルにもなっている)が、「頭」からはみだしている。
 「でこぼこ」って何? 何の比喩?
 でこぼこは何の比喩でもない。
 この詩のなかに書かれた唯一の肉体である。
 消化にいい? それとも消化にわるい?
 どっちであるか、私にはわからない。でも、おいしい。もう一度食べてみたい、あの「でこぼこ」って何だったのか、もう一度(あるいは何度でも)食べてみたい、つまり読み返してみたい。そういう欲望を呼び覚ますことばだ。

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田中勲「ナマズの木」、若栗清子「恋文」

2007-03-16 23:35:12 | 詩集
 田中勲「ナマズの木」、若栗清子「恋文」(「ANTHOLOGY TOYAMA 2006」2006年11月05日発行)。

 田中勲「ナマズの木」は第1行が特徴的だ。

ときには悲鳴だったりする
不協和音も含めて
背後にかすかな音声が漂いゆらめく部屋の中で
今朝も 海洋の方角へと誘う
無意識のしぶき、と安易なやるせなさに足を取られて
パソコンの渚をさまよいはじめる

 「ときには」と突然はじめられると、思わず意識がひっぱられる。日常とは違う「とき」がはじまるのだと期待する。田中は、わたしの記憶では、こうしたことばの操作、読者の意識を空白に誘い込んで、そこから自在にことばを動かす、ということが得意である。
 「漂い」「ゆらめく」「海洋」「しぶき」「足を取られて」「渚」とたたみかけることばのイメージの変奏も気持ちがいい。
 ただ、リズムがかなり間のびしている。
 独立して感じられる行が書き出しの1行だけで、あとの行は、先にあげたことばのたたみかけそのままに、たがいに寄り掛かっている。
 こういう寄り掛かりあいがあると、せっかくの「意識の空白」が死んでしまう。意識がずるずるとつながっていいって、とても窮屈である。
 2連目に出てくる「淋しい男の、イラクサの刺毛が密生している古い内耳を/切なく薙ぎ倒していく」ということばには、そうした寄り掛かりが、かつての「現代詩」の残滓そのものに見えてしまう。 

 若栗清子「恋文」。
 若栗の詩も1連目が美しい。

きみの声を聞いていた左耳が濡れる
声はまだ途中なので
たどり着くことを急ごうとする
文字よりもずっとはれやかな肉体を持っている声は
ひよわな耳小骨をいともたやすく溺死させる

 「左耳が濡れる」。このことばで男と女の位置関係というか、接近の度合いが自然につたわってくる。2行目「声はまだ途中なので」の「途中」がとてもいい。1行目の肉体の親密感が、声の速度(?)というか、進み具合にまで、肉体的に反映する。まるで指が、いや舌が動いていくような感じだ。3行目も肉感的だ。若栗は「ことば」ではなく、「声」で恋を語るのだ、あるいは「ことば」ではなく「声」に愛を感じるのだ。つやっぽくて、とてもいい。

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山岡遊「抒情誤爆」

2007-03-15 23:41:44 | 詩(雑誌・同人誌)
 山岡遊「抒情誤爆」(「佃」1、2007年春発行)。
 2連目がたいへんおもしろい。

二日かけて読んだ
萩原朔太郎詩集の『月に吠える』から『氷島』までの
一一二篇の詩群
その六十九篇には
四十四匹のカナシの蛾虫が羽を広げて停止し
五十九匹のサミシの蜘蛛が霞のように巣を張って
読者を待っておりました

 あ、山岡は詩集読みながら、「カナシ」「サミシ」が何回出てくるか丁寧に数えたのだ。その丁寧さに引き込まれる。朔太郎詩集を読んでみようかな、という気持ちに誘われる。
 もし現代に「抒情」というものがあるとすれば、こうした丁寧な無意味さのなかにあるんだろうなあ、とも思う。その無意味さにつきあう形で、鉛筆を片手に朔太郎詩集を読んでみようという気持ちにもさせられる。
 「カナシ」「サミシ」が何回出てこようが、その回数によって「かなしい」「さみしい」の意味合いがかわるわけではないはずだが、山岡のように丁寧に数え上げれば、何かがかわるはずである。

野に 山に 村に ひとに
アワレの飛蝗
ミジメのキリギリス
憂鬱のこうろぎだちが
適度に分布されており
はたして
彼の「生きていく心理学」とは
永遠の昆虫採集だったのでしょうか

 朔太郎の詩集に「カナシ」「サミシ」が何回出てこようが(それが何回つかわれているか数え上げることが)、詩そのものには関係ない。「カナシ」「サミシ」回数ではなく、それがどのように定義されているかを見ていくことが大切なはずである。「カナシ」「サミシ」が、そのつどどのような意味でつかわれているかを分析しないで、「数」の問題にしてしまうのはナンセンスである。
 しかし、そのナンセンスのなかに、たぶん抒情はあるのだと思う。



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大谷良太「日々」

2007-03-14 13:07:47 | 詩(雑誌・同人誌)
 大谷良太「日々」(「ガーネット」51、2007年03月01日発行)。

 終わりの3連に惹かれた。

佇っている、雨
伝う滴、
(開かれた場所で閉じ籠もる方法,)

廂の下で振り払い、
石段に腰かけ
待っている嗚咽

だがいつまでも来ない
この伏見の古い波止場で
私は徒に日を過ごす

 「いつまでも来ない」の主語は何か。「嗚咽」だ。嗚咽は、普通はおさえようとしてもおさえきれないものである。しかし、大谷は、それを待っている。しかも、それは「いつまでも来ない」。
 この不思議な感覚。
 廿楽が「肴町」での書いていた「ぜつぼう」ということばを思い出してしまった。
 肉体に深く絡んでいて、ことばを拒絶している何か。

 「嗚咽」は感情だろうか。肉体だろうか。

 こういう問いは無意味かもしれない。直感で、私は「嗚咽」は感情ではなく、肉体だと思う。肉体の変化だと思う。
 肉体をみて、そこから私たちは感情を知る。そういうときの、肉体。

 これに先立つ連。(3連目)

宇治川の派流に釣り糸を垂れている
男の姿を橋の上から眺め、
男も私も同じ傘の下にいることがおかしい

 ここに書かれている肉体感覚。感情ではなく、肉体の状態への「感情移入」(というのは、奇妙な言い方かもしれないが。)雨の中で、傘をさして、傘の中で閉じ籠もっている。閉じ籠もるときの、人に共通する「感情」を分け持つ感じ。
 釣り人が何を感じているか。そんなことはわかるはずもないが、傘に閉じ籠もっているという肉体に反応してしまう肉体があり、そういう反応を起こしてしまうこと、起きてしまった反応を、ていねいにすくい上げることばの動きが、「待っている嗚咽/ /だがいつまでも来ない」ということばにつながっていく。
 この感じが、私は好きだ。「待っている嗚咽/ /だがいつまでも来ない」の1行空きも、意識の呼吸のようで、とても美しい。

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廿楽順治「肴町」

2007-03-13 14:17:47 | 詩(雑誌・同人誌)
 廿楽順治「肴町」(「ガーネット」51、2007年03月01日発行)。
 廿楽の詩の魅力を語ることは、私には非常に難しい。おもしろいと思う。けれど、そのおもしろいと思う気持ちをことばにできない。ことばにならない。

ここでは
なにを売ってもさかなになってしまう
ぜつぼう なんて
ひさしく聞いたことはなかったが
このさかなの目
だってそのひとつかもしれない
くさくて
にんげんなんかにゃ
そのにおいはとても出せない
そういうさかなになってしまえば
ぜつぼう
も おかずのひとつである
死んじゃいけないよ
語るやつらの権利にうんざりする
さかなまち
なんだからね
むざんにかわってしまった
(もとはとてもだいじなもの)
それを
籠ごとこうかんする
くさいねえ
わたしのまちは
どうしていつまでたっても
水の音がしないのだろう
かなしいものは束で売るほかないのだ

 1行ごとの(改行ごとの)、ことばの微妙な飛躍が「頭」ではなく、「肉体」を感じさせる。頭で整理したことばの運動ではなく、頭を通過しない(?)ことばの運動。ふっと、脇腹あたりからわきあがってくるような、やわらかなタイミングががおもしろい。
 3行目の「ぜつぼう」が「絶望」と書かれていたら、この詩は、たぶんとてもつまらない。
 「絶望」。「望みが絶たれた」状態。しかし、ここに書かれているのは、はっきりした「望み」と人間の関係なんかではない。「絶望」、「望みが絶たれた」状態と頭で整理する前の、もっとぼんやりとした輪郭のないものが「ぜつぼう」である。「望み」なんかは無視して、肉体が感じる「だるさ」のようなもの、肉体の「にごり」のようなものが「ぜつぼう」である。
 「ぜつぼう」は「絶望」と違って、頭をくぐりぬけない。ひたすら肉体(五感)をさまよう。「さかなの目」「におい」(くさくて)。
 人間には、頭にしまいこんではいけないもの、頭をくぐらせてはいけないものがあるのだと、確かに感じる。廿楽がそういうものを大切にしているということが、行間(行間としかいいようがない)から滲んでくる。

 「籠ごとこうかんする」のひらがなで書かれた「こうかん」にも、「ぜつぼう」と同じものを感じる。どんなことばにも「意味」はある。「こうかん」の意味はもちろん「交換」と漢字で書いたときのものだが、そういう「意味」を廿楽は遠ざけ、肉体を(耳で聞く音を)前面に出す。
 今、ここに、肉体をもった人間がいる。肉体が人間なのだということを廿楽はいつも語っているように見える。廿楽なら「にくたい」と書くだろうけれど。

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小長谷清実「墓参の日」

2007-03-12 20:40:50 | 詩(雑誌・同人誌)
 小長谷清実「墓参の日」(「交野が原」61、2006年10月01日発行)。

ひとり暮らしをずっとつづけていた友人が
バスツアーに参加し
信州のなんとか湖のホテルで死んだ

 感想を書くために引用しようとして、3行目まで書いたとき、不思議な気持ちになった。私は最初、後半部分に出てくる「何か」ということばについて書こうと思っていた。

不定形に流動しつづける何か 境涯のような何か
なんだろうか

あ アミガサダケだ!
その一瞬のカタチをやみくもに捕らえ
咄嗟に口にした途端に直ちに
別の明辞に
訂正しなくてはならない何か
それが今日からの
私のなかの彼である

 「何か」としか名づけられないものを追い、何かを口にした途端にそれではいけないと感じ、別の何かを探そうとする。そのおもしろさ(と言ってしまっては、こういうときは不謹慎になるのかもしれないが)、やわらかなおかしさ、について書こうとしていた。
 ところが3行目まで引用してしまうと、後半の「何か」は、どうでもいいような気がしてきたのである。後半の「何か」に小長谷の「思想」が凝縮しているのは確かだが、すでに何度か取り上げた気がする。「何か」について書いていけば、これまでと同じような小長谷に出会うんだろうなあ、というぼんやりした予感のようなものがある。それはそれで書いて確かめてみたい気持ちもあるのだが、そうしたことよりも3行目の美しさについて書きたい気持ちが急に沸き上がってきたのである。

信州のなんとか湖のホテルで死んだ

 この1行にも「何」が隠れている。「なんとか湖」。この隠れている「何」の方が、後半にあらわれる「何か」よりも深く深く小長谷のことばにからみついている感じがするのだ。
 友人は死んだ。バスツアーで信州へ行ったときだ。湖の近くのホテルで死んだ。重要なことは、それだけで充分だ。湖の名前はわからなくても、友人が信州旅行中に死んだという「事実」はわかる。だからこそ「なんとか湖」と言ってしまうのだ。
 人間の意識は、自分で重要ではないと思ったものを省略してしまう。
 だが、それが他の人間にとっても重要でないかどうかはわからない。そこに、人間が生きていく上での不思議な秘密があるのだと思う。そのことを小長谷は、ここで暗示している。あるいは、暗示にみせかけながら、明確に書いている。
 人はいつでも何かを省略する。ことばは、もともと、何かを省略しなければ、あるいは何かを切り捨ててしまわなければ、動いて行かない。重くなりすぎて、動けなくなる。何が言いたいの? 結論は? と急かされることになる。「重要ではないことは省略して、大切なことだけ言いなさい」と言われることになる。
 でも、ほんとうに重要なものは、もしかすると切り捨てた部分、省略した部分にあるのでは? 何かが省略されている。変だな。納得がいかないな……。そういうことが、人間には起きはしないか。説明が簡潔で、明瞭であればあるほど、そういう不思議な思いにとらわれるということが、もしかしたら起きないだろうか。

ひとり暮らしをずっとつづけていた友人が
バスツアーに参加し
信州のなんとか湖のホテルで死んだ
バスの出発に遅れまいとしてか
急いで部屋を抜け出ようとしてか
身体を半分 廊下の方へ突き出して
倒れていたそうです、
死んだ友人の弟さんが きょう
その現場のありさまを紙袋の裏に
ボールペンで稚拙に描いて
説明してくれた、
一本の線を中断するように
ヒト形の輪郭があって
それが彼である

 弟の描く絵には「省略」がある。人は絵の場合も省略してしか描けないのだ。そして、それが「省略」であっても「事実」はきちんとつたわり、つたわるがゆえに、奇妙な印象が生まれる。
 小長谷にとって友人は、弟が描いた絵ではありえない。ヒトの形の輪郭ではありえない。でも、それでは何? わからない。ヒト形の輪郭以上のものであることは知っているが、それを具体的に何かとは言えない。
 そういうことにつまずいて、小長谷のことばは動いている。

 大切なことは「なんとか湖」の「なんとか」かもしれない。湖の名前がわかったからといって友人が生き返るわけではないし、友人の記憶がかわるわけでもないと思うが、そんなふうにして省略してしまった「なんとか」のなかにこそ大切なものがあるかもしれない。
 私の書いていることは、実にくだらないことかもしれない。どうでもいいことかもしれない。
 実は、どう書いていいのかわからない。
 1連目の「なんとか湖」の「なんとか」と、後半に出てくる「不定形に流動しつづける何か 境涯のような何か」「訂正しなくてはならない何か」が深いところで結び合い、呼応しているのを感じるのだ。「なんとか湖」と描いたがゆえに、ことばはそこへ動いていったとさえ感じる。1連目の最後「それが彼である」、3連目の最終行「私のなかの彼である」という呼応よりも、もっともっと強い呼応が「なんとか湖」の「なんとか」と「何か」の間にあると感じる。
 「何か」よりも「なんとか湖」の「なんとか」にこそ、小長谷のことばの運動の本質、思想、詩があると感じる。
 それがどういうものか、今の私には書くことができないけれど、確かに、そう感じるのだ。

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蜂飼耳「突貫工事」

2007-03-11 20:46:56 | 詩(雑誌・同人誌)
 蜂飼耳「突貫工事」(「文藝春秋」2007年04月号)。

枝から落ちる雫のおもてで
新宿が分かれてしまった

 この書き出しにとても惹かれた。
 雫がぷっくらふくれる。その表面に新宿の風景が凸面鏡に映ったときのように、左右に引き伸ばされていく。小さな雫、その球面の輝き。「分かれる」は、そうした左右に引き伸ばされていく風景であり、その風景のなかへ人が歩いていく。瞬間的に、地上の風景と雫のなかの風景が入れ替わり、小さな雫に閉じ込められることで、風景全体がこころのなかにすーっと入ってくる。
 そういう情景を思い浮かべた。たぶんこれは私の「誤読」である。
 詩の全行は次のようになっている。

枝から落ちる雫のおもてで
新宿が分かれてしまった
いくつもに
地下道、前をいく人の
靴下は左右 ばらばらなのです
顔を避ける心臓のひとつひとつが夜な夜な
画面に向かう 感情すらも仮のもの
地下鉄、前の人の頬には飯粒
目は文字に探られるるる
ひらがながふえているる

 「地下道」「地下鉄」。
 あ、蜂飼の「分かれてしまった」は地上と地下に分かれるのか。「落ちる」その雫の延長線上に新宿がわかれていくのか。地上と地下だけではなく、新宿を行く幾人の人にも、「いくつもに」分かれていくのか。
 そして、分かれながらも「目」のなかへ必ず帰ってくる。

目は文字に探られるるる
ひらがながふえているる

 末尾の「るるる」「るる」の繰り返しが、雫が落ちる前の震えのようでおもしろい。
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山本まこと『鏡と眼差し』

2007-03-10 23:17:21 | 詩集
 山本まこと『鏡と眼差し』(私家版、2007年02月20日発行)。

未決囚ほどにも本が読めない
それで成算もなく
うつくしい麦!
と言ってみる

 「夏のはじまり」の冒頭。この「言ってみる」が山本の「詩」である。「言ってみる」。そして、ことばがどれだけ動くか、意識がどれだけ動くか、それを追いかける。

散乱するひかりは
さらに塩のようなものをひからせ
空のうつろはしたたって
おやあ、なんだか
匂いたつ、欠如?
いや
それは何とも言えないのだけれど

 停滞し、疑問を抱え、推測し、そうした動きをすべてことばにし、否定する。その否定に「それは何とも言えないのだけれど」と、もう一度「言う」が登場する。
 ことばで考える--これは当然のことなのかもしれないが、山本ことばで考える。
 そして、山本はことばで考えることに、ちょっと馴れすぎている。書き出しからそうなのだが、ことばで考えることに馴れすぎていて、そこに「流通している言語」(すでに流通の期間が過ぎてしまっている、賞味期限の切れている)ことばが混じりこむ。「流通している言語」だから、とてもわかりやすい。わかりやすいかわりに、詩が「現代詩」になってしまう。
 1行目の「未決囚」のことである。「未決囚」って、一番最近新聞を賑わしたのは誰? 彼(彼女)は山本と、どういう関係がある? 山本は、たぶん、私のこういう質問を想定せずにことばを書いているだろう。
 「未決囚」から「うつくしい麦!」への飛躍にしても同じだろう。「未決囚」と「麦」の関係は? 「初夏」を「夏のはじまり」と言えば言えるだろうけれど、麦の実る初夏を「夏のはじまり」と、ほんとうに麦の生産者(農家のひとたち)は思うかな?
 「流通している言語」の「流通」にしたがって、ことばはどこにもぶつからずに動いていく。「停滞」さえも予定調和のなかにある。

蛍光灯にうかびあがる非人称のガレージで
睦み合い殺し合った半眼の誠実は裂けたまま
遅滞したことばの疼き
私よ、私を甘受せよ

 過ぎ去った「流通言語」、その文法が今も山本のなかで生きていることがよくわかる。

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エミリオ・エステベス監督「ボビー」

2007-03-10 00:00:11 | 映画
監督 エミリオ・エステベス 出演 アンソニー・ホプキンス、シャロン・ストーン、デミー・ムーア

 いろいろなエピソードがからみあう群像劇。からみあいながら1968年を描き出す。出色は、なんといってもケネディーの演説である。この映画はケネディーの演説をもう一度思い出すためにつくられている。
 自分たちをみつめよう。自分にできること、将来へ向けてしなければいけないことをきちんと判断しよう。そのシンプルで力強い演説が、登場する人々のありようと密接にシンクロする。
 登場する人物のそれぞれが「現在」の問題を抱えている。そして、自分一人ではもちきれないでいる。なんとか自分にできることはないかと探しまわっている。今、ここにある現実の「壁」と、自分のいのちをどうつきあわせればいいのか、苦悩している。その苦悩にひとつの方向性を与え、希望を与えようとするケネディーの演説。ことばが、まだそうした夢を担っていた時代が浮かび上がる。
 この映画は映画である。しかし、その映画が伝えようとしているのは、映像でも音楽でもない。ことばである。人間はことばで行動する。人間に希望を与えるのはことばなのである。
 たとえばホテルの厨房のチーフ(アフリカン・アメリカン)がスタッフ(ラティノ・アメリカン)に贈る円卓の騎士をたたえることば。ことばを頼りに、人は自分の行動を制御し、自分の行動に責任を持つ。
 ことばを放棄したとき、ことばが孤立したとき、そこでは「暴力」が暴れ回る。
 「暴力」に対して、ことばはどのように復権できるだろうか。ケネディーが暗殺された厨房、その混乱、苦悩と悲しみ。それを背景に、ケネディーの演説が覆いかぶされるとき、その瞬間、この映画は1986年を描きながら、1986年を超えて、現代に響いてくる。
 ことばをどうやって取り戻すか。

 この映画がとても不思議なのは、ケネディーの演説が流れた瞬間、ことばは自分の現実のなかで取り戻すしかないということが、フラッシュバックのように襲ってくることである。群像劇。その登場人物たちはいがみあい、いがみあうことで傷つき、悲しみ、どうしていいかわからなくなっている。そのうちの何人かが凶弾の巻き添えで傷つく。そのとき、人はどうするか。傷つけあってきたことを忘れ、ひ弱な人間に戻って、彼(彼女)にできることをする。自分自身を守ることを忘れ、今そこで傷ついている人を守ろうとする。たとえば出血する腹部に自分の手を重ねる「がんばって」と励ます。たとえば倒れ人を抱きながら「ヘルプ」と叫ぶ。いがみあっていたことを忘れ、そこにある不幸に対して、自分のできる行動をする。声をかける。そこから、ことばは生まれる。群像劇のひとりひとりが、過去の苦悩、怒り、悲しみを超えて、今、ここで引き起こされた暴力に対して立ち上がっている。そこからことばが生まれようとしている。彼らの「がんばれ」あるいは「だれか助けて」「医者を呼んで」という声の積み重ね、それがケネディーのことばの源であることが、最後の最後の瞬間にわかる。群像劇。ばらばらな人間の苦悩が群像劇として描かれなければならなかった理由はそこにある。どんなどらばらなものであっても、暴力の惨劇の前では、互いに寄り添い、ことばを見つけ出す瞬間がある。そのことを伝えるために、群像劇は描かれなければならなかったのである。

 美しい--ということばは最適ではないだろうと思うけれど、この、ことばを浮かび上がらせる瞬間の力強さは美しい。思わず引き込まれ、入り乱れる声に、肉体が揺さぶられる。ばらばらの群像劇であっただけに、それを「がんばれ「助けて」という最初の声にする力が「愛」なのだ浮かび上がらせる瞬間--その瞬間が歴史の悲劇であるにもかかわらず、美しいと感じる。
 エミリオ・エステベスはとてもすばらしい仕事をした。とてもすばらしい作品を作り上げた。映画館へ駆けつけ、脱帽すべき作品である。


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鎗田清太郎「足」

2007-03-09 12:25:08 | 詩集
 鎗田清太郎「足」(「現代詩手帖」2007年03月号)。
 ひとのことばは、どれだけ強くなれるのだろうか。作品を比較してのことではないのだが、鎗田の作品読みながら、そんな思いが急に沸き上がってきた。
 2連目。

ああ
一年前から私は
家の短い廊下を
杖をついてすこし
蟹のように歩くだけで
窓からはいつも同じ
タブローの絵を
見るだけになった
……愛しているからではない
そこにあるからだ

 「そこにあるからだ」。この断定が強い。
 何か書きたい、という思いがあるのだが、ここまで書いてみたものの、つづきがかけるかどうかわからない。
 鎗田の強い断定に向き合えるほど、私は私自身の肉体と向き合っていない。

 1連目に戻って詩を読み返す。

歩けない人には
風景がない
人は歩きながら
風景をつくるからだ
歩いているのは
ゴムではなく
心の通う足で
愛するものの方へ
寄って行き
嫌いなものから離れて行く
とすれば足の歩みは
愛を示すかたちであり
歩かなければ
心が風景にならない

 「心が風景にならない」。この「なる」と2連目の「ある」。その差。「なる」を支えるのは肉体である。鎗田は「頭」ではなにもつくらない。かならず「肉体」で何かをつくるということをしてきた詩人なのだろう。そして「なる」のは、肉体の外にある何かではなく、あくまで「心」である。心が、肉体の動きにしたがって、何かに「なる」。
 
 心とは、肉体が何かに触れ、肉体をとおして把握したものに「なる」。そのとき、肉体と外部が一体になる。

 鎗田は「誤読」をしない人間なのだ。肉体で触れ、つかみとったものだけを「心情」にするのである。頭で考えたことは頭まで考えたことであって「心情」と切り離す。そして、そこに「ある」と断定するだけである。
 「孤独」を生きる強さを感じる。潔癖さを感じる。


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入沢康夫「かはづ鳴く池の方へ」再読

2007-03-08 22:22:23 | 詩(雑誌・同人誌)
 入沢康夫「かはづ鳴く池の方へ」再読(「現代詩手帖」2007年03月号)。
 この作品のおもしろさは「誤読」と「正解」(?)入り乱れるとである。そして、そこに作者と読者の関係が交錯することである。「誤読」と「正解」について、さまざまなことを考えさせてくれる。
 「蛙なくかり田の池の夕たたみ聞かましものは松風の音」を「蛙の声がうるさいので黙れと言ったら蛙は鳴かなくなった。そばにある松の木も静まれと言ったら葉ずれの音をたてなくなった」と解釈することは「誤読」である。だが、それが「誤読」であると定義するとき、「誤読」を支えていた人々(読者)の心情が失われてしまう。
 これは作品にとっていいことなのだろうか。

 作者と読者の違いはどこにあるか。
 作者は、まだことばにならないことがらをことばにする人間のことである。まだことばになっていないこころの動きをことばにすることでくっきり見えるようにする人間のことである。
 一方、読者というのは、そこに書かれていることばを読むことで、あ、自分が感じたかったのはこういうことなのだ、と発見するものだ。作者が書いたことばに触れ、これこそが自分のいいたかったこと、自分が感じていたことだと思い込む人間のことである。
 そしてというべきか、したがってというべきか……。読者というのは(私も含めて--と強引に、ここで書いておこう)、「誤読」したがる存在である。目の前にあることばを手がかりに自分の思いを確かめたい人間である。
 このとき読者は、実は、作者がほんとうはどういいたかったかなどということは気にしない。そんなこととは関係なしに、そこにあることばが自分を代弁してくれればそれでいいと考える。自分の都合にあわせて、作者がことばに託した思いを改変する。つまり、誤読する。
 文学作品にかぎらず、あらゆることばに対して、人間は「誤読」する権利を持っている。「誤読」によって、自分の考えを強引に説明する。たとえば「情けはひとのためならず」。本来の意味は情けというものはひとのためにするものではない。それはまわりめぐって自分に帰って来る。情けをかけることは結局自分が助けられることである。しかし、これが、情けをかけることは相手のためにはならない、と「誤読」され、それが大手を振るって流通するようになる。こうした「誤読」の背景には、一種の人間関係の苦々しさがある。そのことばが生まれたときは存在しなかった人間関係の変化があるのだろう。昔は、情けが巡り巡ってくるのを悠長に待っていた。しかし現代はそういうのんびりした人間関係を待ちきれない。すぐに成果を求めてしまう。そういう事情があって、情けをかけてもその人のためにならない、単に甘やかすだけだ、それは結局その人をだめにする--というような心情を生んでしまうのだろう。そこには自分こそが良い目を味わいたいというせっかちな欲望もあるかもしれない。読者はいつでも自分の思いを代弁してくれることばを探している。それが「誤読」とよばれようが関係ない。「誤読」をとおして、自分のことばが補強されたように感じるのだ。「だって、ことわざにあるじゃない? 自分だけのかんがかではなく、これは誰もが感じることなのだ」。読者とは自分の感じていることを、だれかのことばをとおして確認し、同時に、これは自分一人の考えではなく、だれそれも考えていることなのだと安心したいのである。
 そこには深い深い「心情」が隠されている。「正解」のようにすっきりしたものではない何か、ねじくれて、ことばにできないような思いが隠されている。「誤読」こそが人々の感じている「正解」なのであり、作者の意図など作者の意図にすぎない。それは読者の「心情」を「誤読」したまま書かれているのである。

 私の書いていることは、たぶん奇妙なことなのだ。奇妙を承知で書くのだが、文学の歴史とは「誤読」の歴史なのである。「ドン・キホーテ」は騎士物語を「誤読」し、その「誤読」の視点のまま現実と向き合った男の話だが、その「誤読」のなかには「心情」がある。そして「心情」というのは、誰がなんといおうと、一度も間違いを犯さないもの、絶対的な真実なのである。
 「心情」はなにも間違えない。絶対的に正しい。しかし、その「心情」を絶対的な正確さであらわすことばを人間は持っていない。正確に言おうとしても、正確に書こうとしても、どうしても間違ってしまう。ことばは「心情」と違って全体を一気に把握できない。ひとつひとつのことばを現実の存在と向き合わせなければならない。とらえきれないものがどうしても出てきてしまう。そこに「誤読」の入り込む余地があり、「誤読」が世界を複雑にする。それは笑いも引き起こせば悲しみも引き起こす。つまり世界を豊かにする。「誤読」が文学を豊かにしているのである。

 後鳥羽院の歌は、野津がどんなに「正解」を書こうが、そして入沢がどんなに野津の説が正しいと支持しようが、野津が「誤読」と指摘している「心情」の方が読者を強烈にとらえてはなさない。繰り返し繰り返し人間が「誤読」の歴史を書き留めたのは、そう「誤読」することの方が、人間にとっては好きだったからである。
 ひとはいつでも好き嫌いで行動する。好きな方を選んでしまう。

 「誤読」ということばに励まされるようにして、入沢は「パート三」を書いているように私には思える。(そう「誤読」したいのだ、私は。)

思ひあまつて次のやうに「妄想」をつむぎだす
ひよつとしたら後鳥羽院の「夕たたみ」は
かなり初期段階から
「ゆふすすみ(夕涼み)」を
かう誤つて伝承して来たのではない
 (谷内注「夕たたみ」「ゆふすすみ」の二文字目の「た」「す」は原文は送り文字)

 さらには入沢は、この「誤読」の伝承を「草仮名連綿体」(崩し字)の「誤読」にまで押し広げているが、この部分が、さらにおもしろい。

元の「ゆふすすみ」が 奔放な もしくは逆に稚拙な
草草仮名連綿体で書かれてゐた場合
それを筆写した人
(「隠州視聴合記」の著者
あるいはもつともつと古い書写者)が
「す」(数、敷あるいは須を母字とする崩し字)を
「た」と読み違へ
それが数百年に亙つて伝世されたといふ可能性は
考へられないのもだらうか?
 (谷内注、「亙つて」は原文は「亘って」。誤植だろうと判断し「亙つて」とした。「ゆふすすみ」の2文字目の「す」は送り文字)

 ここでの「誤読」には意識とともに肉眼も関与している。意味の「誤読」にとどまらず文字の誤読も関与している。しかも、それは入沢の想像である。「パート二」であれだけ綿密にテキストを引用していた入沢が、ここでは「書写」を見ていない。想像で文字の「誤読」を取り上げている。
 ここがこの作品の白眉だと私は思う。
 入沢の想像は「誤読」ではなく、「正しい推測」かもしれない。しかし、それが「正しい推測」であったとしても、私は「誤読」だと判断する。実際に「書写」をみて判断するならともかく、入沢はそれを見ないで判断している。(ほんとうは見たかもしれないが、見なかったことにして推測している)。これは、入沢がそう読みたかったからそう読んだという証拠である。
 そう読みたいというのが入沢の「心情」なのである。
 作者の思いは関係がない。読者の「心情」にしたがってテキストが読まれるとき、それは「誤読」の危険性を孕んでおり、危険を孕んだ段階で、すでに「誤読」なのである。

 誰がなんといおうと「誤読」へ突き進む。突っ走る。
 この瞬間の輝かしさ。精神の輝き。
 ああ、入沢は若々しい。美しい。

 この「誤読」を正しいと補強するために、入沢は「夕すずみ」の例を探し出している。「事実」を積み上げることで「誤読」ではなく「正しい推測」だと主張している。それは確かに「事実」だろうけれど、「心情」が選びとった「事実」である。
 ここにあるのは「心情」だけである。「夕すずみ」と読み替えることで後鳥羽院の歌をわかりやすい形で納得したいという入沢の「心情」だけである。

 くっきりと浮かび上がる「心情」--それは、やっぱり「詩」そのものなのだ。

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入沢康夫「かはづ鳴く池の方へ」

2007-03-07 23:37:17 | 詩(雑誌・同人誌)

 入沢康夫「かはづ鳴く池の方へ」(「現代詩手帖」2007年03月号)。
 後鳥羽院の「蛙なくかり田の池の夕たたみ聞かましものは松風の音」をめぐる長編詩である。「パート二 伝承--引用の織物」がとてもおもしろい。
 後鳥羽院の歌は、蛙の声がうるさいので黙れと言ったら蛙は鳴かなくなった。そばにある松の木も静まれと言ったら葉ずれの音をたてなくなった--という意味らしい。そういう伝承をいくつものテキストから引用している。ほとんど同じ内容であり、なぜ複数のテキストを引用する必要があるのか、と思ってしまいそうだが、同じ内容のテキストを丁寧にいくつもいくつも引用する。
 そして、引用の最後に、一人だけ違った解釈をするひと(野津龍)の意見がそのまま書かれている。その一部。

 これらは伝説の発展か、もしくは誤解に基づく潤色であった。歌からするならば、後鳥羽院は、蛙の声にかき消されそうになる松籟(しょうらい)を愛(め)で、あるいはそこに世の無常を感じていたといってもよいのである。いつごろからこうした誤解が生まれたのであろうか。

 「誤解」そしてその「伝承」。そのことについて、野津はさらに書いている。

 けれども私は、これもって誤った伝説として耳をふさぐつもりはない。(略)より大切なことは、そういう具合にでも伝説を発展させずにはいられなかった隠岐の人々の心情であり、つきつめていえば、貴人に対する信仰であった。

 「誤解」のなかには人間の心情がある。心情が「誤解」を支えている。ひとは「正確」であるかどうかよりも、どう思いたいかを優先する。事実をねじまげてしまう。それは延々とつづくのである。
 入沢は、この野津の説を「正しい」と判断するのだが、それだけではなく、同時に「誤読」そのものを大切にしている感じがする。
 入沢は野津の説そのものよりも、そこに書かれている「誤解」ということばそのものにひかれているような感じがする。
 想像力を定義して、事実をねじまげて見る力、事実から逸脱して行く力と定義したのはバシュラールだった。その事実をねじまげる力、自分の見たいように現実を見てしまう力に、入沢は共感している。
 「誤解」のなかに、あるいは「誤解」する力のなかに「思想」がある。人間のこころがある。入沢は、そう信じているように感じられるのである。
 「誤読」であるはずの「伝承」をいくつもいくつも丁寧に引用しているのはそのためである。「誤読」を指摘するだけなら、ほとんどそっくりそのままの「伝承」を全部引用する必要などない。本のタイトルと筆者、その本の発表年代をあげることでも充分である。しかし、入沢はそういう方法をとらなかった。あくまで引用にこだわった。それはその引用のなかの「差異」そのものが「誤読」であり、誤読とはそんなにまでいくつもいくつもの形をとるということを量そのものとして明らかにしたかったからであろう。
 この「誤読」の指摘の瞬間、それまでの長い長い「引用」の集積が突然輝く。そういう不思議な作品である。

 そして、このときから、入沢のことばの運動は急に変化する。

 「誤解」の指摘というか、「誤読」ということばを起点にして、野津の説が、それまでの「伝承」とは違った部分へと動いて行く--そのこと刺激されて、入沢自身のことばも新しい方向に動きだして行く。それはまるで、入沢は野津の説が正しいと信じるから野津の説に与するというよりも、そこに「誤読」の指摘があり、その指摘とともにことばが動いていくからこそ、それを肯定するという感じすらする。
 入沢は、ことばが動いて行く瞬間が好きなのである。その瞬間にこそ与するのである。
 いくつも伝承こそが正しく、野津の説こそが「誤解」であるかもしれない。そういう説があるかもしれない。しかし、そういうことは入沢にとっては副次的なことである。「誤解」ということばに触れたために、それまでのことばの動きが自由になり、ことばの動きが加速する--その加速のなかへ入っていくことが、入沢にとっての「詩」である。

 野津の「誤解」を指摘する説を引用した後、入沢の詩は激変する。起承転結ということばがあるが、「パート三」はまさに「転」である。
 語鳥羽院の歌のなかにあった「夕たたみ」ということばに限定して、入沢は思いめぐらす。そこでも「引用」がこころみられているが、「パート二」の引用と「パート三」の引用では、引用の仕方がまったく違う。
 「パート二」では単にこれこれの説がある、ということを紹介する引用だったが、「パート三」では入沢は入沢の「仮説」(「夕たたみ」は「夕すずみ」であるという仮説)を証明するためにさまざまなテキストを引用する。「パート二」では同じことが引用され続けたのに対し、「パート三」では違ったものが引用され続けるのである。
 それは「正解」にたどりつくための補強としての引用であるけれど、不思議なことに、それを読むと、入沢は「誤読」を補強するために引用しているというふうに感じられるのである。「正解」を探すふりをして、積極的に「誤読」の世界へ入って行くというふうにも感じられるのである。
 なぜ「誤読」の世界へ入っていくのか。
 「誤読」のなかにこそ、人間の「心情」というものがあるからだ。「信仰」というものがあるからだ。つまり「思想」があるからだ。そして、この「誤読」のなかに人間の心情があるという考えは、野津の考えでもあった。その考えにこそ、入沢は与し、その考えからエネルギーをもらって、「パート三」へと突き進む。

 「正解」はもちろん重要である。しかし「誤解」はもっと大切である。ほんとうの気持ち「心情」がそこには含まれている。「信仰」が「思想」が、その力ゆえに事実をねじまげてとらえてしまう。そして、それを「伝説」にしてしまう。

 入沢は、ことばを、「伝説」あるいは「神話」と言った方がいいかもしれないが、人間が「思想」を託した最初の状態にまで引き戻したいのである。引き戻そうとしているのである。



(この文章は、7日23時に書いたものを、8日13時に幾分修正しています。)
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小笠原鳥類「水族館で、椅子に、座っている」ほか

2007-03-06 13:36:59 | 詩(雑誌・同人誌)
 小笠原鳥類「水族館で、椅子に、座っている」ほか(「分裂機械」18、2007年02月20日)。
 小笠原鳥類「水族館で、椅子に、座っている」。常にことばが分裂する。たとえば、

私が椅子に座っていると動物園の椅子で、まるい水槽が建物の中心にあるのが大きな大きくない水族館。

 動物園のなかに水族館がある、ということだろうか、などと考えても始まらない。小笠原のことばは、客観的な現実を伝えようとはしていない。「まるい水槽が建物の中心にある」という文章に端的にあらわれている。これは一見、水族館と水槽の関係を描いているように見える。だが、それは現実の視線でとらえられた風景、肉眼でとらえられた風景ではない。「私が椅子に座っていると動物園の椅子で」。小笠原は水族館の外、動物園の椅子に座って水族館の建物を肉眼でとらえている。水槽は水族館の建物の内部にある。肉眼では水槽はとらえられない。水族館のなかに水槽があるとしても、それは肉眼でとらえられた客観的な現実であるのではなく、小笠原の意識がとらえている世界ということになる。小笠原の描く世界は、あくまで「意識内」の世界なのである。
 「意識内」では何が起きるか。「大きな大きくない水族館」ということばが象徴的だが、水族館が「大きい」のか「大きくない」のか、という決定はできない。決定ということそのものが不可能である。意識は常に意識そのものに侵略され、揺れ動くからである。そうした揺れ動きそのものが小笠原の意識であり、彼の現実なのだろう。
 意識は常に意識によって侵略される。そのことをもとに引用した文章を読み直してみる。私はとりあえず、動物園の椅子に座って、動物園のなかにある水族館を思い描いている小笠原という人間を想定したが、ほんとうは違うかもしれない。タイトルは「水族館で、椅子に、座っている」であった。これが実際に私たちが肉眼で見ることのできる小笠原かもしれないのだ。小笠原はすでに水族館の椅子に座っている。そして、その姿を意識のなかでもう一度見つめなおしている。その水族館は動物園のなかにあり、動物園の椅子に座って水族館をさっきまでみつめていた、と思い出している。思い出したこと、思い出すという意識によって、いま、水族館の椅子に座っているという現実が侵食されているのである。
 ほんとうは小笠原はどこに座っているのか。小笠原の肉体はどこにあるのか。

水槽……この近くにいるひとたちは指揮者のように準備をしていて、これらかいろんな音を鳴らすのである腕を動かして運動をするんだ、これからひろがるオーケストラを指揮するということを考えて楽譜を読んだり、ピアノを弾いて、だいたいこういう音楽であるのだねということをピアノの上の生き物。

 水槽の描写が動いて行くのを読むと、小笠原は実は音楽ホールにいてオーケストラを聞こうとしている(聞いている)。音が自在に動き回る様子から水族館の水槽を自在に動き回る魚の姿を思い浮かべている、というふうに想像することもできる。
 たぶん、どんなふうに想像したってかまわないのだ。
 小笠原の肉体がどこにあろうと、意識はその肉体があるところに存在するものに侵食されながら、なにも決定しないことによって自在に動き回る。あるいは、あらゆる存在によって侵食された痕跡を残しながら、自在に動き回っていると勘違いしている--それが意識にとっての「現実」であり、そうした現実は「肉眼」とは相いれないものである。ことばの運動によってのみ描けるものである。それが「詩」である、と小笠原は考えるのだろう。

 ことばは自由か。ことばはほんとうに自由に動けるのか。それともことばは現実から侵食されながら、その傷跡をことばの内部に抱え込み続けるしかないのか。
 こういう問題は、たぶん簡単には答えが出せないし、答えを出してもいけないのもなのだろう。
 ことばが現実に侵食される--。この例は、たとえば井原秀治「トリマルキオン食品卸売センター在庫一覧(Ⅰ)」に顕著である。ことばを侵食してくる現実、現実に侵食されたことばを井原は並べ立てている。

★瑠璃色のスカベラ卵のキャビア(神秘回復促進食品)一〇〇ケース
★北氷洋産象あざらしの精嚢(精能力強化食品)一〇〇ケース
★マルドロール虱の佃煮(老衰詩人向け憐憫食品)〇・五トン
★インドラ神の巨大睾丸(未来の詩人たちのための至高滋養食材)一箱

 2行つづけて「詩人」が登場するところが、なんともおかしい。愛着か敵意か。愛憎のいりまじった現実の噴出の仕方がおもしろい。現実に対する憎悪に徹することができないところに井原のやさしさがうかがえる。



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田中宏輔「THE GATES OF DELIRIUM。」

2007-03-05 23:18:21 | 詩(雑誌・同人誌)
 田中宏輔「THE GATES OF DELIRIUM。」(「分裂機械」18、2007年02月20日)。
 田中宏輔は「二つ」にとりつかれた詩人だろうか。「THE GATES OF DELIRIUM。」。 隠しても隠しても「二」が浮かび上がってくる。「二」が何かを隠そうとして、強暴に動く。そして、そのことが、奇妙な言い方だが「一」を思い起こさせる。
 田中宏輔は「二つ」にとりつかれた詩人だろうか--と書いたが、ほんとうは、田中宏輔は「一つ」にとりつかれた詩人だろうか、と書くべきだったかもしれないという思いが、どこからともなく浮かび上がってくる。
 とりあえず「二」から読み進めてみる。最初に出てくる「二」は……。

ぼくの部屋から、その公園に行くには二通りの行き方があった。

 この「二」が、まるで暴力的な力で浮かび上がってくるのは、それに先立って「二」を隠した文章があるからだ。

葵公園は、賀茂川と高野川が合流して鴨川になるところに、その河原の河川敷から細い道路を一つ挟んであった。

 「賀茂川」と「高野川」。それは「二」である。その「二」は隠されている。「合流して鴨川」という「一」になる。この「一」も隠されている。隠されたその「一」を引き継いで「細い道路を一つ挟んで」という文が立ちあがってくるとき「二」は完全に封印されていると言える。
 ところが、「二」を隠し通すことはできない。「二」が自己主張するというよりも、「二」についてこそ田中は語りたいのだろう。なぜ「二」ということばをつかいたいのか、ということをこそ田中は語りたいのだろう。
 そのことは、いま引用した二つの文章を含む1連目を読むだけでも明らかである。葵公園へ行く--そのことが目的ならば、そこへ行く行き方が「一つ」か「二つ」かは問題ではない。田中にとって問題なのは「行き方」なのである。
 そして、これは矛盾したいい方になるかもしれないが(矛盾しているからこそ、そこに詩がある、と私は考えるのだが)、ここで田中が「二通りの行き方」とわざわざことばにしているのは、実は、「行く」という行為が一つであるということを隠すためなのである。
 「二」ということばをつかうのは、ほんとうは「一つ」であるとういことを察知してほしいと願っているからこそなのだ。「一」を知ってほしいから「二」を暴れさせるのである。
 あるいは、こういうべきなのか。
 「二」について語る。だが、知ってほしいのは「二」ではなく、「一」である。「一」を読者に発見してほしいと田中は願っている、と。

 川下から川上へか、川上から川下へか。その「二つ」は表面上の「行き方」にすぎない。行くという行為は「一つ」である。行く。行くために歩く。人を探しながら歩く。人を求めていることを隠し、隠すことを見せながら歩く。(ここにも、一種の「矛盾」がある。--「矛盾」によって、田中自身の在り方が幅広いものになっている。)人を探すこころを、川の景色に溶け込ませながら歩く。これは「行き方」というより、「歩き方」と言い換えた方がいいかもしれない。「歩き方」が一つであるからこそ、田中はわざと「行き方」は「二通り」であると「二」を強調する。「歩き方」ということば、その行為をも隠すのである。
 「二」を語っているが、ほんとうは「一」。それを発見してほしい。「一」を発見して近付いてきてほしい、と田中は強く願っているのだろう。「行き方」ではなく「歩き方」を知ってもらいたいのだ。
 たがらこそ、2段落目以降は、「行き方」ではなく「歩き方」を丁寧に描いている。

 「二」の強調は、たとえば次の部分。同時に「二」を強調することで「一」を発見してほしいと願っているのは、次の部分。

川辺の風景が、流れる水の上に映っている。流れる川の水の上の風景の方が実在で、川辺の風景の方が幻かもしれなかった。

 「川辺の風景」と「水の上の風景」。「水の上の風景」と「川辺の風景」。実在と幻。田中は、「二つ」を前面に出す。
 だが、この「二つ」は奇妙である。
 川辺の風景も、水の上に映った風景も、ともに現実である。ともに現実であるけれど、それを田中は「実在」と「幻」の「二つ」に分離したいのである。
 なぜ分離したいのかといえば、どちらが実在であり、どちらが幻かと考える存在(田中自身のことである)が「一つ」であるということを明確にするためである。同時に、どちらが実在であり、どちらが幻であろうと、それは田中にとって一方が不確かで他方が確実な存在であるということではなく、どちらも田中にとっては確かな存在である、ということを強調したいからである。
 葵公園への行き方が「二通り」あったように、「現実」の見方は「二通り」ある。川辺の風景を実在と見、水面の風景を幻と見る見方。それとは逆に川辺の風景を幻、水面の風景を実在と見る見方。それに優劣はない。どちらも田中の「魂」にとっては同じである。(田中は「魂」ということばをつかっている。)同じように、田中にとっては確かな「出来事」なのだ。--公園へ行く行き方が「二通り」あったとしても、公園へ行くという「出来事」が「一つ」であるように。

 「二」を書きながら「一」を強調する。「一」を強調するために「二」という「幻」で「一」を隠して見せる。
 田中がこの作品でやろうとしていことはたいへん興味深いことがらである。
 残念なのは、「一=孤独」というセンチメンタルを書くことで、「二」を表に出し続けることができなくなったことである。詩の最後は「一」が続々出てくる。「一つの太陽」「一人の人間、一つの事物、一つの言葉」「一つの深淵」「一つの偶然」。
 この「一」の羅列は、しかし、センチメンタルで片付けては行けないのかもしれない。田中は田中以外の「一つ」(つまり、そのとき田中と他者という「二」が現実として存在するのだが)と刺し違え、彼自身の「一」も他者の「一」も、ともに消滅させてしまいたいと願っているのかもしれない。田中自身の「一」をそんなふうに消滅させたとき、田中は「自己」という枠から解き放たれ、ほんとうの「一」、つまり「宇宙」になることができる(「宇宙」を生み出す詩人になれる)と切実に願っているのかもしれない。


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豊原清明「惑星に十一月」ほか

2007-03-04 22:58:49 | 詩(雑誌・同人誌)
 豊原清明「惑星に十一月」(「火曜日」89、2007年02月28日発行)
 1連目がとてもおもしろい。特に次の部分。

空は雲の反乱
ぶっつかる人と人
白いノートに書く言葉がみつからず
絶滅した恐竜たちに
そっとありがとうさんと呟いて
父が入れてくれたコーヒーを
啜りながら

 ことばの動きが自在である。動くたびに世界が「枠」を取り払われ自由になる。突然ひろがる。「言葉がみつからず」と豊原は書いているが、ことばがみつからないというよりは、ことばが「未生」の世界が、そこでうごめいている感じがする。
 「いのち」を感じる。



 小池田薫「しあわせですか」(「笛」239 号、2007年03月発行)。
 
窓を開けると冬が入ってきた
息がしろい
首筋から体温をうばわれて
指先が冷たい

おんなはふしあわせを食べて生きてきた

しあわせですかと尋ねる人がいて
ふしあわせとこたえる方があたりさわりがないけれど
ふしあわせはしたたかで
嘘を本当にしてしまう

 「したたか」ということばはこんなふうにつかうのだ、と教えられた気持ちになる。「あたりさわり」も同じである。ここには新しいものはないかもしれない。そのかわりに生活をくぐりぬけてきた時間のつやのようなものがある。
 それに先立つ冬の描写、その肉体とのかかわりがとても自然で、「しあわせですか」からの行と静かに呼応している。
 詩のあたらしい可能性があるというわけではないけれど、こういうことばの落ち着きは読んでいてほっとする。

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