詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク監督「善き人のためのソナタ」

2007-03-04 14:24:52 | 映画
監督 フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク 出演 ウルリッヒ・ミューエ、マルティナ・ケデック

 たいへんすばらしいシーンがある。
 男が盗聴している。彼は会話に耳を澄ます。聞こえてくることばから何らかの意味、秘密をさぐろうとしている。しかし、思いがけないものが耳に流れてくる。ピアノソナタ。それもレコード(CD)ではなく、男が盗聴している相手(劇作家)が弾いている。こころが引きつけられる。そのとき聞こえたのは、実は、ピアノの音ではない。旋律でもない。リズムでもない。ことばにならない「声」そのものである。男は、劇作家が、そしてその愛人の女優が、まだことばにして語っていない「祈り」そのものを聞いてしまう。
 男は聞きながら、手で、着ている服の胸元をふりしぼる。体が傾く。まるで男自身が音楽のなかに潜む祈りそのものに溶け込んでいくようだ。祈りをとおして、男と劇作家、女優が一体になって行くようだ。(そして、スクリーンを見ている観客も。映画とは、映像と音楽さえあれば充分、ということをあらためて実感させられた。)
 ピアノソナタを聞いたときから男は、劇作家と愛人と一体になって行く。
 そのことを象徴するのが、床にチョークで書かれた「部屋割り」である。男は最初は椅子に座って盗聴していた。それがピアノソナタを聴いた後では、椅子に座っているだけでは納得できなくなる。チョークで書かれた部屋割りにあわせ、劇作家が書斎へ行けば書斎へ、ベッドへ行けば寝室へと移動する。男は劇作家(そして、女優)になってしまうのである。
 男はこのときから劇作家、女優を告発するために盗聴するのではなく、彼らを守るために盗聴する。東ドイツという国家権力、党という権力から守るために盗聴する。誰だって自分自身を守るものである。劇作家、女優は、男にとって彼自身なのだ。
 男は、劇作家、女優の声にならない声(ピアノソナタの演奏)まで聞いて、彼らと一体になっているが、劇作家、女優にとっては、男は「一体」とはなっていない。あいかわらず国家権力という暴力のままである。この重なり合わない部分が、すべての不幸を引き起こす。(この重なり合うこと、重なり合わないこと、というのは劇作家と女優の間にもある。劇作家と彼の友人の演出家との間にもある。拡大して言えば「国家」と「市民」の間にもある。そういう重なり合わないことが、すべての不幸の始まりであり、3人の関係はそれを象徴するものである。)

 重なり合う部分と重なり合わない部分、そのずれの間で、女優が死に、劇作家が生き残る。男はエリートの道から脱落して行く。
 その後の展開も、まさに映画そのものである。映画でしか描けない方法で人生を描いている。
 劇作家はなぜ自分だけ無事に生き残れたのか、その秘密を知る。男の存在を知る。だが、そのことを直接男には告げない。男から真相を聞き出そうとはしない。「ことば」が省略されているのである。ピアノソナタを盗聴してしまうシーンと同じように、そこでは「ことば」は省略される。そのかわりに映像が語る。男は盗聴員をやっていたときのようにさっそうとは歩かない。前かがみになり、郵便カートをひきずって歩いている。その姿だけで、劇作家はすべてを知る。男のなかで起きたこと、そして男がしてくれたことのすべてを知る。
 ひとはことばでなにごとかを考えるし、また知りもするのだが、知るということはことばだけでするものではない。目で見て知る、耳で聞いて知る。知ると同時に感じる。そして感じるということは、知るということを超越して、人間を突き動かしてしまう。映画は、その見ること(映像)、聞くこと(音楽)を重ね合わせることで、「感じ」を表現し、「知る」ことを上回る何かを伝えるものだが、この映画は、そういう体験をまさに観客に教えてくれる。劇作家は、男を「映画」として見ているわけではないが、直に見ることによって、実際にことばをかわす以上の会話をしている。男の肉体の動きそのものから、肉体のなかにひそむ声を聞いている。その声は、たぶん、会話することでは聞き出すことのできない、静かな静かな、あるいは小さな小さな声である。その小さな声さえももらすまいと男は前かがみになって歩く。そのときの肉体の切なさ……。
 劇作家は、男とは会話せず、しかし会話をしないことによってより深く感じ取った男の「祈り」あるいは「誇り」、人間の尊厳そのものに対して、長い長い独白を捧げる。ピアノソナタのように。いつか、男がそっとその独白を聞いてくれると信じて「小説」を書く。劇作家が体験したこと(この映画のなかで起きたこと)を書く。

 ここでも、この映画は、ことばを省略している。
 劇作家が具体的にどんなことばで体験を語ったかは1行も紹介されてはない。しかし、スクリーンをみつめる観客にはそのすべてがわかる。男がどんな気持ちでその小説を読み終えたか、ということもことばではなにも説明されない。しかし、観客にはすべてがわかる。小説を読む前の、本を買ってレジでお金を払うときの男の表情からだけで、すべてがわかる。
 まさに映画である。映画は映像と音楽でできている。ことばは付録である。



 「華麗なる恋の舞台で」のアネット・ベニングは楽しい演技だったが、この「善き人ひとのためのソナタ」のウルリッヒ・ミューにはただただ感嘆する。自分の気持ちを伝えることばは死んで行く女優に対することばくらいしかない。ひたすら自分の感じていることを隠すためことばしか発しない。それなのに、彼の声が聞こえる。その声を伝える肉体、演技がただただすばらしい。ピアノソナタを聞くシーンもいいけれど、最後の隠した喜びのアップが特にいい。彼が喜びを押し殺している分だけ、その反動のようにして、観客のなかでうれしさがあふれてくる。この一瞬、劇場中が、シーンとして、それからぐぐぐっと感動がこみ上げるときの緊張感--ああ、これは映画館のなかでしか感じられない喜びだ。誰も声を発しない。それでも、隣に座った見知らぬひとがすっと背筋をただし、映像にのめりこんで行き、そこから解放されて自分自身のこころにかえり、そっと自分のこころをだきしめる--その動きにならない動きが劇場をつつむ。
 ぜひ、映画館で見てください。


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岬多可子「苺を煮る」

2007-03-03 10:58:31 | 詩(雑誌・同人誌)
 岬多可子「苺を煮る」(読売新聞、2007年02月13日夕刊)。
 ことばと意味はどんなふうに出会うのだろうか。
 岬多可子「苺を煮る」を読むと、岬は「辞書」、つまり他人がつくりあげてきた「定義」を頼りにせずに、自分の現実を手がかりにして、意味を自分のものにしていることがわかる。

赤い苺(いちご)を甘く
煮ているのであるが
そんなとき
底のほうからどんどんと
滲み出てきて 崩れていく。
 
たとえば。
奪ってきたんだ という
とうとつなおもい。
じくじくと 苺は赤い血を吐くが
忸怩(じくじ)たる とはこういうことか。
うつくつと 琺瑯(ほうろう)の鍋は音をたてるが
鬱屈した とはこういうことか。

 ことばにならない思いをかかえて岬はイチゴジャムをつくっている。「忸怩たる思い」とか「鬱屈」とか--たとえば、人は(辞書では)、そう呼ばれる思いをかかえているんいだろうなあ、とうっすらと感じながらジャムをつくっている。
 そうするとイチゴがじくじくと赤い血を吐く。うつくつと鍋が音を立てる。そんなふうに岬には聞こえる。そしてその聞こえた音を手がかりに「忸怩たる」「鬱屈」ということばを岬自身のものにする。
 「忸怩たる」はもちろん辞書の定義ではイチゴの煮崩れる音ではない。「鬱屈」ももちろんイチゴが煮詰まるときの鍋の音ではない。
 いわば岬の「定義」は間違っている。しかし、その間違っていることが「詩」なのである。「事実」をねじまげてしまうこと。「意味」をゆがめてしまうこと。そこに「詩」の命がある。「詩」とは辞書の定義する「意味」をゆがめてしまう力である。ゆがめることで「辞書」から解放する。ことばを自由にする。「辞書」からことばを奪い返すのである。岬だけのことばにしてしまうのである。
 この詩は、後半も非常におもしろい。
 
しなかったけれども
かんがえたことというのは
たくさん ある。
形のなくなるまで
って こわいじゃないか。
 
罪を犯して連れて行かれるひとのこと
あ こういう顔をしているんだ
と思って見ていて。
鍋の わたしの
赤くかがやいている内側を
他言はできない。
それから静かに瓶につめ
蓋(ふた)を閉め
日付を書いて
春のさなかへ向かう。当分は
だめにならない。 

 「他言はできない」。岬は、「辞書」からことばを奪い返しながら、その奪い返したもののすべてを語ってはいないのである。
 前半を手がかりに、岬は生活(台所?)からことばをつくりなおしている、実際の生活、たとえばイチゴジャムをつくるという暮らしのなかから、こころとことばを新たに組み合わせて独自の「意味」をつくりだしている、ということはできる。
 しかし、それだけではないのだ。
 それ以上の、ことばにならないことばが「詩」の奥には潜んでいる。隠されている。それは岬だけが知っている。「他言」せずに、ジャムを瓶のなかにしまうように、ことばのなかに隠しているのである。
 「忸怩たる」がイチゴの煮崩れる「音」でおわるはずがない。「鬱屈」が鍋の音であるはずがない。それは岬のほんとうの思い、ことばにならない思いを隠すための「方便」である。岬の、ことばにならない思いを隠し、しまっておくために、岬は「辞書」からことばを奪い返すのである。

 岬の詩はいっけん静かである。しかしほんとうはとんでもなく強暴なものを秘めている。
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橋場仁奈「駅まで二十五分」ほか

2007-03-02 20:45:05 | 詩(雑誌・同人誌)
 橋場仁奈「駅まで二十五分」ほか(「まどえふ」8号、2007年03月01日発行)。
 橋場仁奈「駅まで二十五分」の途中におもしろい部分があった。

ほそく裂けた姉さんの舌、
ほそい神経の舌先、

くんと血の球になってつ、つぶれているよまた血の球になってつ、つ
ぶれてぶれているよぶれてつぶれてぶれてくたびれはてて
くび、くび、くび、れて、いる記憶そうして裂け、つづ
ける姉の舌先、姉の私の、
私の姉の裂ける舌先、逃げる舌、逃げ回る
舌、
したした噛み、噛み、切って、はりついているの

 ことばが吃音のように抵抗しながら先へ進んでいく。そのこともおもしろいといえばおもしろいのだが、それよりももっとおもしろいことがある。「姉さん」が「姉」にかわっている。(引用の前の部分では、やはり「姉さん」なのである。また、詩の後半では再び「姉さん」になるのだが。)
 意図的なのか。無意識なのか。たぶん無意識なのだろう。
 そして、無意識である点に私は興味をそそられる。
 何を書くか--ということを忘れてしまって、いま書いていることばに夢中になっている。吃音のようにことばを分断し、その分断の瞬間に次のことばが見えてくる。それを追いかけることに夢中になっている。ことばを追いかける喜びにあふれている。



 大澤蓉子「永遠と書き、とわと囁き囁く」も、途中がおもしろかった。書道の授業について書いているのだが、その2連目。 

すでにタテの廊下から横に入る
時間の流れの奥行きには微に入り細に入るほど
墨の匂いが立ちこもっている

 学校特有の不思議な感じが濃密に漂っている。荒川洋治のことばのように、ことばのふくらみが、ことばを超えるものをつつんでいる。

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秋吉敏子/谷川俊太郎/Monday満ちる『希望』

2007-03-01 21:11:23 | その他(音楽、小説etc)
秋吉敏子谷川俊太郎/Monday満ちる『希望』

 秋吉敏子の曲・演奏に谷川俊太郎が詩をつけ、Monday満ちるが歌っている。発売からすでに何か月もたっている。感想を書こう書こうとして、書けなかった。

希望 それはこころ
あふれやまぬ ひとのいのち
よみがえる草木 朝日とともに
明日へとこころは かがやいて

忘れられぬ 日々も
子どもたちの 未来のため
こころよ飛べ 夢みる世界へ
希望 あふれて

 「希望」というより「祈り」に聞こえるのである。何度聞いても、いつ聞いても輝かしい夢があふれているという感じではなく、祈りとしか聞こえない。祈りの奥には不安のようなものもある。希望が人間を力強くしてくれるというような感じではなく、何もない、いやたとえ今が苦しく悲しくても、いのちを遠くへ遠くへと運んで行ってほしい、運び続けてほしいという祈りのように聞こえる。
 聞いていて元気になる、という感じではない。しかし、聞いていて、とてもこころが清らかになる。
 谷川の詩に「あふれる」(あふれやまぬ、あふれて)ということばが2回出てくる。あふれでていくものがある、ということが「希望」なのだ。あふれでていくものが、そのあふれでる力のまま動いていく、ということが自由であり、そこに「希望」がある、ということかもしれない。
 あふれでていくものを見つめ、それがそのままの輝きで動いていってほしいという祈り。祈ることで「希望」をみつめている曲なのだ。詩なのだ。
 秋吉敏子にも谷川俊太郎にも「希望」はあるだろう。しかし、彼らは今、自分の「希望」ではなく、子どもたちの「希望」、その「あふれる」いのちが、あふれるまま自由に動き、育っていくことを祈っているのだろう。そんなことを感じさせる曲である。


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森本敏子『無銘の楽器』

2007-03-01 20:42:13 | 詩集
 森本敏子『無銘の楽器』(編集工房ノア、2007年03月01日発行)。
 「遠い水の音」の書き出し。

短い晴れ間の後
どこかで遠い水の音がして
どうしても思い出せない川の名を
思い出そうとしているわたし
その川は子供が水遊びをするに丁度な
浅くて広い川

 「丁度な」。このことばがとても印象に残る。たぶん森本のことばは描いている対象と「丁度な」感じでつりあっているからだろう。むりにことばを動かそうとはしない。思い出そうとして、思い出せない何か。「思い出」(思い)を超えてしまってはならない、また「思い出」(思い)にとどかないものも困る。思いに丁度あうことばを森本は探しているということだろう。
 ここには「現代詩」の冒険はない。ことばを、ことばが生まれる前のあいまいな状況にほうり出し、そこから始まる新しい世界を切り開く、ことばの可能性を探るという冒険はない。そういう冒険はないけれど、この「丁度な」ことば探すということを森本は丁寧に積み重ねている。「丁度な」ことば以外をつかわないという方法によって。そこに誠実なあたたかみがある。
 「遊びぐせ」という詩がある。

たった一週間家を留守にしただけなのに
あたりはすっかり変わってしまった
遊びぐせがついたわたしが
置き去りにされたような気がする
何か日常が遊離したままなのだ

調子がずれてなかなかもとには戻れない
もととは何か
それは分かっているようで
分からないのでもとに戻れない
戻れなかったら何処へ行く

 森本の丁寧なあたたかさは、「もとに戻る」ということに基本があるのかもしれない。「もと」とは森本が書いているように何かはわからない。ことばにならない。それは森本の生活のなかで積み重ねてきた生き方の基本である。基本であるからこそ、ことばにならない。基本的なことはいつだってことばにならない。この詩のなかには物を片付けるシーンが出てくるが、物を片付けるというようなことは、一つ一つ、たとえば新聞はどこそこ、本はどこそことことばにはしない。ことばにしないで、肉体が動く距離(間合い)のようなものでつかみとっている。そうした肉体の一部になってしまった間合いが「もと」ということかもしれない。そういうものをなおざりにしない丁寧さが森本のことばを支えている。
 「いろ」という詩に美しいことばがある。5、6連目。

写生にきた小学生が
緑の重ね方に苦労している

色を混ぜて
絵の具にもない色も
出してしまう不思議さ

 木々の緑はどんなに絵の具を混ぜてもそれでは間に合わない色を持っている。それをつくり出しているは「もと」というものかもしれない。木の命である。人間も、木のように、どんなことばでもあらわすことのできない「もと」を知らず知らずに身につけているのだろう。それを森本は強引にことばにはしない。「丁度な」ことばを、丁寧に丁寧に探し続けるのである。

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イシュトバン・サボー監督「華麗なる恋の舞台で」

2007-03-01 09:44:43 | 映画
監督 イシュトバン・サボー 出演 アネット・ベニング、ジェレミー・アイアンズ

 映画を見ていて「おいおい、ほんとうに脚本を読んでいるのかい?」と言いたくなる演技にであうことがある。へたくそ、というのではない。うまいのである。たとえば「SAYURI」の役所広司。さゆりにいいように利用されて捨てられる。そういう恋の結末なのに、そんな結末など知らない感じで、さゆりはもしかしたら自分のことを好きなのかもしれないと心をときめかせている。脚本を読んでいれば捨てられることがわかるのに、そんな純情な男をやっちゃって……、と笑いながら、同時にほれぼれする。手抜きがないのである。こういう役者が私は大好きだ。
 アネット・ベニングは中年の女優。今は演技にも人気にも少しマンネリ感が漂う。その女優が、その名声が、若い野心家の青年にいいように利用される。最後は青年とその恋人を踏み台にして花を咲かせるのだが、青年にいいように利用されて、それでもうきうきするという演技がなかなかおもしろい。まるで青年との恋が永遠につづくと信じてしまっている初な輝きにあふれている。まわりの人から好奇の目で見られるのだが、人から好奇の目で見られるなんて最高--というような、一種、我を忘れた状態をいきいきと演じている。
 やがては青年に捨てられる、ということは、すでにこうした演技のありようから推測できるのだが、そういう推測をさせながらも、「おいおい、ほんとうに脚本読んだの? 最後は捨てられると知っていて、それでも恋に夢中になる演技を、こんなふうに、初に、まるで永遠につづくと信じている心そのものとして演じるのかい?」とチャチャを入れたくなるくらいなのである。
 ストーリーは波瀾万丈というか、逆に言えば、お決まりどおりの展開なのだが、その展開にあわせてのアネット・ベニングの七変化が、とてもおもしろい。映画で役を演じているのだから、結末がどうなるか完全に知っている。知っているのに、まるで結末を知らないかのように、その一瞬一瞬を浮かび上がらせる。こういう演技を見ていると、そうか、役者というのは「結末を知らない」と観客に信じ込ませる力をもった人間なのだとわかる。人間観察力だとか存在感とか、いろいろ役者を評価することばはあるけれど、「結末を知らない」と感じさせる力が一番大切なのだと思う。結末はどうなるかわからない。いま、そのときの一瞬だけが真実であり、それがどうなるかは誰も知らない。それがリアリティーというものなのだ。
 最後の舞台劇(劇中劇)が、とてもおもしろい。アネット・ベニングは映画のなかで「芝居」を演じている。恋のコメディーである。そこにはもちろん「結末」がある。「結末」へ向けて、「芝居」の共演者は演技をしている。最後の最後で、アネット・ベニングはアドリブで「結末」を変えてしまう。共演者は真っ青。何がなんだかわからない。脚本家も演出家もはらはらどきどきする。脚本のなかの「結末」を知らない観客だけが、いま起きていることがストーリーなのだと信じて、その「芝居」にのめりこむ。
 このどんでん返しは、とても、とても、とてもおもしろい。芝居、演技の本質を巧みに指摘している。芝居、劇、映画、ようするに「見せ物」というのは、ストーリーなど関係ないのである。どんなことだってストーリーになってしまう。ストーリーは自然にできあがってしまう。大切なのは、ストーリーがストーリーであることを否定してしまう(忘れさせてしまう)演技なのである。時間の流れを分断し、「一瞬」という時間へ観客を引き込む力なのである。「一瞬」のなかで、観客はストーリー、予定調和の物語を忘れる。純粋に、命そのものの輝きに触れる。
 どんでん返しの「芝居」のなかで、アネット・ベニングは若い女優に対して「あんたなんか、まだまだ私にかないっこないのよ」ということを見せつける。いわば「地」を出しながら、その「地」をストーリーにまぎれさせて観客をひきずりまわす。若い女優を裸にし、「地」を出させ、「地」と「地」で勝負する。それがそのまま「恋の勝負」そのものに急変する。観客は「恋の勝負」というストーリーのなかで、実際の「恋の勝負」あるいは女優生命をかけた勝負が展開されていることを知らず、ただ、その「真剣勝負」に引き込まれる。「真剣」こそが観客の視線を集中させる力なのだ。そういう意味では、観客の視線を集中させるできごとそのものが、ほんとうのストーリーだということができる。そして、観客の視線を集中させる「顔」そのものがほんとうのストーリーだと言い換えることもできる。映画スターが美男・美女でなければならない理由はここにある。普通の人を超越する「顔」の特権で、傍若無人に振る舞い、人生をかき乱してゆく--それがスターの特権であり、そういう特権こそが観客を引きつけるのである。
 アネット・ベニングは私にとっては「美人」ではなかった。矯正でつくりあげたような歯並びが不自然で、好きではなかった。けれど今回の映画で、あ、美人だと思った。特に、最後のどんでん返しの「ざまをみろ」と勝ち誇ったような演技が絶妙で、うわーっ、美人だと引き込まれた。役者の演技力というのはすごい。

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