詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

デビッド・フィンチャー監督「ゾディアック」

2007-06-22 14:35:46 | 映画
監督 デビッド・フィンチャー 出演 ジェイク・ギレンホーク、ロバート・ダウニーjr

 殺人犯から暗号文が送られてくる。コピー機がまだない時代(?)、あるいは普及していない時代。回し読みしている途中で主人公(新聞社のカット係、ジェイク・ギレンホーク)が、その暗号をせっせと手で写し書きする。なんでもないようなシーンだけれど、このシーンが私は一番好き。ここに主人公の「視点」が一番濃厚にでている。
 同僚の新聞記者(ロバート・ダウニーjr)も警官も犯人を追いかける。しかし、彼らは外から追いかける。これに対してジェイク・ギレンホークは犯人の「内部」から犯人を追いかける。
 暗号文にもどれば、ロバート・ダウニーjrも警官も、そこに何が書いてあるか、ということを追いかける。ジェイク・ギレンホークももちろん内容を追いかけるけれど、同時にどうやって書いたか、ということに焦点をあてて追跡する。図書館で暗号本をあさるように読む。その本を借りた人は誰か、を追及する。図書館からその本がなくなっているのは犯人が「貸し出し人」欄に記録が残ると困るからだ……というふうに追跡する。
 この出発点が暗号文を手で写す、という彼自身の肉体をつかった試み、犯人の内面に迫るには、まずその外形をなぞる--というようなことからはじめる。
 この映画では、「犯人」の断定の決め手の「証拠」として「筆跡」が執拗に強調されている。(この時代の「犯人」捜査は「筆跡鑑定」が重要だったらしい--これは、現代とは違ってパソコンがなかったからであろう。)「K」の文字が2画から3画に変化しているというようなことも語られたりする。こうしたことも「犯人」の精神的変化、内面から「犯人」を特定していくという姿勢に通じる。ジェイク・ギレンホークは、当然ながら、そういう「犯人」の変化、精神の軌跡をたどることに夢中になる。
 「なんとか島」(映画、小説のタイトル)の主人公の「せりふ」と「犯人」のつながり、接点を追い求め、映画技師の家を訪問したりするのも、彼から「犯人」と映画の接点を確認するためである。物的証拠(たとえば足跡、たとえば指紋、あるいは凶器)というものにはジェイク・ギレンホークは関心を示さない。そうしたものから「犯人」に迫ろうとはしない。
 そんなふうに「内面」(精神的な軌跡)を追及して「犯人」は一応浮かび上がる。しかし、その「犯人」には、ロバート・ダウニーjrらがいうように「状況証拠」しかない。「内面」の「軌跡」は「状況証拠」にしかならない。
 ジェイク・ギレンホークが「犯人」は彼だ、と確信を強めれば強めるほど、彼の確信は警察の捜査、真実の報道というものから乖離していく。ジェイク・ギレンホークにその意図はなくても、「独断」という要素が強くなる。観客も、ジェイク・ギレンホークの熱意に突き動かされて、「犯人」はあの男だと思うようになるが、最終的には、その男は「犯人」とは特定はされない。断定はされない。
 ジェイク・ギレンホークの「犯人」追及の過程は、この「乖離」を浮き彫りにする。
 このとき、ジェイク・ギレンホークの熱意が、一瞬だけれど、「犯人」の「狂気」と重なり合ったようにも見える。ジェイク・ギレンホークが「犯人」と対面するシーン、互いに見つめ合うシーンは、その重なりあいをくっきりととらえていて、ぞくっとする。「犯人」は彼が「犯人」であることを見破られたと気がつく。「この男は、おれの内面を知っている」と一瞬にして確信して、凍った目でジェイク・ギレンホークを見つめ、ジェイク・ギレンホークはジェイク・ギレンホークで、男が「犯人」であると確信する。
 いやあ、おもしろいですねえ。

 真実は二人だけが知っている。
 この結末は、なかなか手ごわい。濃密だ。ひさびさに映画を見た、という気持ちにさせられる。


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水嶋きょうこ「砂猫」

2007-06-22 10:04:03 | 詩(雑誌・同人誌)
 水嶋きょうこ「砂猫」(「ひょうたん」32、2007年05月20日発行。)

 実はね。見えるんですよ。何がって。猫が。いや、ふつうの猫じゃない。砂猫です。

 読み進んでも「砂猫」が何であるかはわからない。というか、水嶋が「砂猫」と呼んでいるものでしかない。そして、この「しかないもの」でありつづけるところが、この作品の一番いいところだ。
 天沢退二郎の感想で書いた「Xレベルの尺度」という表現をここでもつかえば、「Xレベルの尺度」がかわらない。テレビを見ている。コンビニへ行く。電車に乗る。水嶋は(というべきか、作品のなかの主人公はというべきか……)動いていくのだが、どこへ動いていっても「Xレベルの尺度」がかわらない。
 水嶋の「Xレベルの尺度」は、別のことばで言えば、「見覚えのある」ということかもしれない。電車のなかでの描写。

 やつだ。やつは、目の前に座っている。自分をすくっと睨みつけている。形かえ、女みたいに科作ってこっち見ている。それが、見覚えのある顔で。かかわった女たちをいろいろと思いだすけど、でもどの女かわかんない。砂猫は、急に立ち上がり、こっちを艶かしい目つきで見ながら、ついてこいって言うようにどんどん車両を歩いていく。

 「見覚えがある」、しかし、明確にはそれが誰かわからない。この距離感が最初から最後までつづいている。「見覚えのある」ものが動くと、その移動にあわせて水嶋も動く。砂猫の目に誘われるようについていってしまう。
 「見覚えがある」というのは、それが何かはっきりわからないがゆえに、それを知りたいという気持ちにさせられる。この不思議な気持ちを、水嶋は

なんだか切なくなってきてね。人恋しくなってきてね。

いとおしくて、いとおしくて、

 ということばで言い直している。
 「砂猫」は最初は唐突にあらわれ、水嶋をびっくりさせる。びっくりして追い払ってしまうが、またあらわれる。そういうことをくりかえしているうちに、だんだん気持ちがかわってくる。自分の気持ちがわかってくる。
 「砂猫」はどこからか唐突にやってきたのではない。水嶋自身が呼びよせたのだ、と。なんだか切なくて、人恋しくて、何かがいとおしくて、いとおしくてたまらない気持ち--その不安定な気持ちが「砂猫」を呼びよせたのだ。水嶋は、いま、切なくて、人恋しくて、何かがいとおしいのに、その何かが目の前に明確な形で存在しないという状態なのだと、水嶋自身を発見する。
 そして、その「発見した気持ち」そのものも、実は、切なくて、人恋しくて、いとおしいようなものなのだ。だからこそ、

 実はね。見えるんですよ。何がって。猫が。いや、ふつうの猫じゃない。砂猫です。

と、少しずつ、反応を確かめるようにして接近し、語りかける。「気持ち」の反応次第では、いつでも話を中断できるように、ことばを区切る。倒置法もつかう。--語法というべきか、語り口というべきか、そういう文体と内容が緊密に結びついた美しい作品だ。

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秋山基夫「赤い花」

2007-06-21 13:54:44 | 詩(雑誌・同人誌)
 秋山基夫「赤い花」(「ペーパー」創刊号、2007年06月01日発行。)
 「赤い花」は不思議な詩(?)である。エッセーなのかもしれないが……。

糸杉の大木に囲まれた広大な屋敷に到着する アール・ヌーヴォー
風の青銅の門扉は随分以前から開いたままだ かまわず通りすぎ
林の中の小径をしばらく進むと 煉瓦造りのアーチの前に出る ア
ーチは上質の煉瓦を用いて熟練の腕が積み上げたもので 古代力学
による安定を保っている そう見えるが すでに幾十年もの歳月を
経て すっかり脆くなり随所に深い亀裂が走っている 鶸か鶇の一
羽の飛び立つ羽音によっても 一挙にそれは崩壊するかもしれない

 廃園の描写である。
 つづいて、蔦葛の描写が出てくる。

                蔦葛は吸盤のついた無数の触毛
のようなものを巧妙に絡みあわせて網目を作り……それは眼球の中
の毛細血管の網目そっくりなのだが どうしようもなく散乱へ向か
うアーチの各構成要素を ぎとも 外観だけは古典的均衡をたもっ
ている

 そこへ、どういうわけだかわからないが、赤い花が流れてくる。谷間の向こうから流れてくる霧にのって……。

  赤い花が次から次へと漂ってくる すべての赤い花は反転を繰
り返しつつ しだいに揉みほぐされ 幾億の花びらに分解し 霧の
底に沈んでいく 霧の海の断面を見ることが出来るなら 沈下する
幾億の花びらは 壊れた巨大な万華鏡のように見えるかもしれない

 ああ、美しいと思う。「霧の海の断面を見ることが出来るなら」というのは仮定だが、仮定を借りてくっきりとその姿を見ている--その秋山の視力に感動する。
 どのような存在も、ただ肉眼の力だけで見えるわけではない。かならずそこには想像力、(あるいは構想力と三木清なら言うだろうか、)が介在している。世界を統一するひとつの視点(あるときは意図的に、あるいは無意識に)にもとづいて言語は世界を描写する。そのときの視点の確かさ(19日-21日にかけて書いた天沢退二郎のことばを利用していえば「Xレベルの尺度」の揺るぎなさ)が、そして詩の、あるいは文学全体の魅力を測るときの、それこそ「尺度」である。
 秋山の作品は、この幻(?)の廃園の描写までは、その「尺度」が一定していて、とても美しい。肉眼から始まり、肉眼ではないもの、想像力でみる世界への以降がスムーズで感動的だ。
 ただし。
 それ以降があまりおもしろくはない。第二次大戦後、敗戦後の描写、あるいは秋山が「廃」ということばとともに何を考えたか、という秋山にとってはとても重要な部分がおもしろくない。他人のことばが出てくるたびに秋山の「想像力」(構想力)が揺れるからである。「尺度」が他人に影響されて秋山自身の「尺度」を維持できないためである。
 その作品が維持できているのは「尺度」によるものではなく、秋山にからみついている様々な「尺度」が、ちょうどアーチにからみついた蔦葛のように、彼ら自身の「尺度」を維持しているからである。蔦葛が生きているからである。秋山がアーチになり、様々なひとのことばが蔦葛の働きをしているからである。これではつまらないと思う。
 前半の、「霧の海の断面」を現前させた視力、想像力の視力で見つめなおした「後半」を読んでみたいとしきりに思った。


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天沢退二郎『人間の運命 黄変綺草集』(3)

2007-06-21 10:30:35 | 詩集
 天沢退二郎『人間の運命 黄変綺草集』(3)(思潮社、2007年05月31日発行)。
 「Xレベルの尺度」。あまりにあいまいすぎるだろうか。しかし、これは「X」のままにしておくしかない。「Xレベル」には理由などないのである。
 「黄色くずし」に、その「理由がない」ということばがでてくる。

うるさいなあ
いいかい
とにかく
とつぜん黄八丈がいなないた
「フィーヒ フィーヒ フィーヒ」
すると すかさず黄水仙老爺が
「ふん、黄じるしめが」
とつぶやいた
それをききとがめた黄蜂が
「おれは黄色くなんかない」
と抗議した
どこにも いなないた理由(わけ)なんて
入り込むすきがないだろうが!

 「理由がない」というよりも、「理由」が「はいりこむすきがない」。あるのはただ緊密なつながりだけである。「黄八丈」(八丈絹か何か、黄色い八丈絹のことだろうか)、「黄水仙」「黄じるし」「黄蜂」とつづく「黄」の文字のつながり。その緊密さ。そこに「いなないた」「わけ」を持ち込むと「黄」の関係が乱れてしまう。そういう乱れを拒絶して、ひたすらことばの統一を狙って加速する--というのが天沢のことばである。
 あれ? でも「キ印」の「キ」って「黄」じゃないよね。
 だが、「キ印」の「キ」を「黄」と書くことで、統一と、そしてその統一が隠しているゆがみがくっきり見えてくる。隠しながら、何かをみせる。何が見える? と聞きながら、天沢はことばを動かし続け、ついて来れるかい、と読者を誘っている。

 「黄じるし」って、何だろう。
 ここでは、たぶん天沢は「キ印」ということばをつかいたかったのだ。ところが、今の時代は「キ印」ということばを好まない。差別的だからである。侮蔑的だからである。そこで「黄じるし」。しかも前後に「黄八丈」「黄水仙」「黄蜂」。「きじるし」は「黄」にまみれて、ニュートラルなことばになる。どこにも属さない「自由」なことばになる。その「自由」を支える語り口、「きじるし」さえもこんなふうにつかってしまえるという語り口--語り口の奥にあるものこそ「Xレベルの尺度」というものである。ことばをあくまで自由に解放しようという願いの強さの「レベル」が、そこにあらわれている。

 「Xレベル」の「X」は語り口にあらわれてくる。ことばをあくまで自由にしたいという強い欲望と、その強い欲望が引き起こす毒々しい笑い。その艶。

 「笑い」に「理由」なんかいらない。「理由」のある「笑い」、「理由」が入り込んでくるすきのあることばは「笑い」ではない。
 「理由」を拒絶して、疾走することば、そのスピードの「レベル」、つまり「速度」がつくりだす一種の快感(麻薬)のようなものが、天沢のことばの魅力なのである。

 そして、この駆け抜けることばには「キ印」(黄じるし)のように、ふいに、現実も顔をのぞかせる。私たちのこころの奥底に存在する意識、抑圧されている意識をふいにすくい上げる。
 どんなことばも現実に根差している。それは天沢のことばも例外ではない、というところに、またこの詩のおもしろさがある。
 同じ「黄色くずし」の「2」の部分。

六神丸は多神教で
一心多助は一神教
ところが一味唐辛子と
七味唐辛子の戦争になって
共食いで下痢に終ったのはオソマツで
やっぱり原理主義はこわいなと
十間(けん)道路を非武装化したがやな
それで世田谷街道は
いまはただいちめん十字花(ナタネ)ばたけ
豚骨峠までつづいておるわい
  (谷内注・「下痢」と「原理」には原文は傍点がついている。)

 「一心多助」を「多」をつかって書く遊びが「多神教」と「一神教」を引き寄せ、さらに「一心」と「一神」がからみつくおもしろさ。「一味」「七味」のことばの、音の近さ。「したがや(な)」と「世田谷」の舌を噛みそうなことばあそび。さらには「いちめんのなのはな」ならぬ「いちめんの十字花(ナタネ)ばたけ」という、わざとずらしたパロディー、「とんこつ」「とうげ」という遊びへの逆戻り……。そうしたことば遊びの滑らかさのあいだに、ふいに顔を出す「原理主義はこわい」という本音。(原理主義では下痢をおこしてしまうという「傍点」による暗示。)その顔の出させ方が「黄じるし」と同じなのである。「同じXレベルの尺度」でことばが選ばれ、ことばが駆け抜ける。
 「キ印」ということばをつかってはいけないという「原理主義」はこわいぞ。
 そんなことばにならないことばが、天沢の詩のことばといっしょに(あるいは、それよりもっと速く)、駆け抜けていく。このスピード感。スピード感の陶酔。その陶酔の「レベル」を一定にする「尺度」--そういものとしての「語り口」(話法)が天沢には確立されている。

 描かれている対象、ことば、天沢--その三つの関係が、三つの存在の「距離感」(尺度)が一定である。「Xレベル」がいつも守られている。この安定感が天沢の詩である。天沢は次々に新しい詩を書きながら「こんなXレベル」がありますよ、こんな尺度がありますよ、と様々な「レベルの尺度」の展覧会をやっているのである。



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天沢退二郎『人間の運命 黄変綺草集』(2)

2007-06-20 22:17:00 | 詩集
 天沢退二郎『人間の運命 黄変綺草集』(2)(思潮社、2007年05月31日発行)。
 どんな作品にもそのことばがないと成立しないことばがある。そうしたことばを私は「キイワード」と呼んでいる。そのことばが見つかると、作品全体がくっきり見えてくる。「人間の運命 あるいは忍冬と優曇華」のなかに登場する。
 3連目。

そんな噂を伝えるコチニール赤(レッド)印刷のビラが
工事現場を囲む金属板(バリッサード)の面また面に貼りまくられた
その全長は蟻レベルの尺度で10㎞に及ぶ

 その3行目の「蟻レベルの尺度」。この詩では「蟻」が取り上げられているが、この「蟻」を「X」と読み替えてみる。「Xレベルの尺度」。天沢は、どのような作品を書くときでも、特別のレベルの尺度を用意している。この詩では「蟻レベルの尺度」ということばが出てくるが、だからといって、この作品が「蟻レベルの尺度」で構成されているというわけではない。「蟻レベルの尺度」というものを持ち出しうる「Xレベルの尺度」がつかわれている。「蟻」ではなく、別のレベルの尺度があるからこそ、それを「蟻レベルの尺度」でとらえなおすと……ということができる。
 ちょっと、視点をかえて……。

その全長は蟻レベルの尺度で10㎞に及ぶ

 これは実際には何メートル?
 「蟻レベルの尺度」は蟻の尺度だけでなりたっているわけではない。もし人間が蟻のサイズになったと仮定したら、その全長は、人間が10㎞と感じる長さである、ということは、そこには「人間の尺度」も含まれるということだ。「人間の尺度」を持ち込まないと、「蟻レベルの尺度」も正確には把握できない。
 「人間の普通のレベルの尺度」が一方にあり、それとは別の独特のレベルの尺度がある。「Xレベルの尺度」がある。そしてその「Xレベルの尺度」でとらえられた世界、表現された世界は、「人間の尺度」を持ち込まないと、正確には把握できない。

 少しややこしい。込み入った書き方しかできないが……。もう一度視点をかえてみる。
 「普通の人間の尺度」。これは「日本語」のことである。日常私たちが話していることばのことである。天沢は「日本語」をつかって書いている。どこにもわからないことばはない。けれども、そのことばは「普通の日本人のレベルの尺度」とは違った「尺度」で動いている。
 「人間の運命」の第1行。

スイカズラとウドンゲが結婚した

 スイカズラ、ウドンゲ、結婚する。どのことばも単語自体は簡単である。私たちが日常でつかうことばである。ところが、それを天沢がつかっているような組み合わせではつかわない。天沢は「普通の人間のレベルの尺度」にもとづかないで、別の「Xレベルの尺度」でことばをつかい、世界を描写しているのである。

 「Xレベル」の「X」とは何か。それがわからないといけないだろうか。

 そんなことはない。「Xレベル」の「X」は「X」のままでよい。
 数学の方程式で何かをXに置き換える。そして、それをXのままにして数式を動かしていく。そういうことができるように、天沢は、詩において「Xレベル」の「X」を「X」のままにして、ことばの数学をやっているのである。
 では、そこで展開されることがらは、内容は、どう評価すればいいのか。
 人生の意味は? 人間の苦悩、悲哀は? 喜びは?
 そんなことは何の判断の基準にもならない。
 「Xレベルの尺度」がそのまま、どこまで整然と動いてゆくか、その尺度でどこまで均一な美を維持したままことばが動いていけるか。そのことが問題なのである。

 比喩をつかった方がいいかもしれない。
 たとえば絵。それが傑作であるかどうかは、描かれている「内容」(モデル)とは関係がない。色のバランス、構図のリズム。絵画空間を支配している精神が均一であるかどうか。作家の精神が、感覚が空間全体を統一しているかどうかによって、絵は評価される。画家が何を考えているかも関係ない。
 天沢の詩も同じように読めばいいのである。「内容」も「意味」も関係ない。ことばが「Xレベルの尺度」で統一されて動いているかどうかだけを判断基準にすればよい。「スイカズラがウドンゲと結婚した」。その不思議なことばの動き。そのとき「不思議」と感じた印象が、同じ「不思議」さでつづいてゆくとき、それは同じ「Xレベルの尺度」で世界が描写されているということだ。
 「現代詩」は難しい--としばしばいわれるが、それは「Xレベルの尺度」の「X」を求めようとするからだ。そんなものは求めなくていい。というより、「X」を維持したまま、どこまでもつづく言語の方程式、言語の製図を楽しめばいいのである。
 天沢は、その方程式、言語空間の設計図を、とても読みやすいレベルでつくりあげている。ことばのひとつひとつの艶、輝き、匂い、響きというものに乱れがなく、美しい。声に出して読めないことばがない。こんなふうにことばを鍛える(「Xレベルの尺度」を統一する)、その力のなかに「詩」がある。



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入沢康夫と「誤読」(メモ42)

2007-06-19 23:40:06 | 詩集

 入沢康夫『歌--耐へる夜の』(1988年)。
 「J・Nの頭文字を持つてゐた人に」。西脇順三郎に捧げた詩である。追悼詩である。

もしもここで 私が
あなたの詩句を一行でも引用しようものなら
あなたの語調を片鱗だにも真似ようものなら
私が あなたを悼む気持は
無辺際に拡散してしまふことであらう
あなたの詩は 今日 私に
あなたの死は 今日 私に
それを固く禁じてゐる
かつて私は あなたの詩を
「したたかな」詩と形容した
それを撤回する気は毛頭ないが
その「したたかさ」にぴつたりと釣合つてゐた
あなたの「寄る辺なさ」についても
どこがで触れるべきではなかつたかと
今日 私は しみじみ思ふ

おそらくそれは
今日の私の 私たちの「寄る辺なさ」と
つながつてゐる思ひなのであらうけれど……

 最後の「つながつてゐる」。ここに「誤読」への願い、祈りを私は感じる。その前の行の「私の 私たちの」という言い直しに、強い強い祈りを感じる。「私」だけではなく、「私たち」と言い直すとき、そこには「私」だけではなく、人間全体で引き受けるという行為が想定されている。西脇のことばを読み、そこからなにかを感じ、引き受けていく。入沢はそれを個人的な行為であると知っているけれど、同時にその個人的な行為が個人におさまらず「私たち」に共有されるものであることも知っている。「共有」されることを願っている。
 この「共有」を言い直したのが「つながつてゐる」なのである。
 「つながつてゐる思ひ」。それは共有された思いのことである。

 「共有」というとき、一方に西脇がいる。他方に「私」(入沢)がいる。また「私たち」もいる。「思ひ」の周囲に別個な人間が存在する。そのことは「思ひ」がそれぞれ別個な個人的事情によって汚染(?)されているということでもある。それぞれ違ったものを「思ひ」のなかに人間はこめ、その違ったものをこそ「思ひ」と感じているかもしれない。「誤読」というのは、そういうことだ。
 真実は「共有」されたもののなかにはない。真実は共有されない。それが「寄る辺なさ」というものかもしれない。「誤読」だけが「共有」されるのだ。

 「淋しい/ゆえにわれあり」という西脇のことばを思い出してしまう。「共有」されないもの、つねに孤独なものがいつも存在する。そういうものを片方の目で見ながら、もう一方で共有されたものを見る。共有のなかで「つながり」が多くなればなるほど、真実は孤立する。寄る辺ないものになる。
 そう理解しながら、それでも「つながつてゐる」ものの方に重心をずらし、そこで生きてゆくのが入沢のことばである。




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天沢退二郎『人間の運命 黄変綺草集』(1)

2007-06-19 14:14:47 | 詩集
 天沢退二郎『人間の運命 黄変綺草集』(思潮社、2007年05月31日発行)。
 帯におもしろいことばが書いてある。「天沢の詩のことばたちは粘粘と彼に絡みつき、詩人でなければ解くことのできないこんがらがりようだ。」あ、そうか、ことばというのは「解く」ということが求められているのか。でも、「解く」ことをやめてしまえば、もっと楽しいんじゃないだろうか。でも、「解く」をやめて、何をする? まずはいっしょにからまれたまま、からんでくるものの力を楽しんでみる。あるいは、逆にからみつく、からませる、というのもいいんじゃないだろうか。
 「嘘売岳ブルース」。その冒頭。

嘘売岳へ登るには
まず白無沙(しらなさ)峠をこえるんだ

 「嘘売岳」。あ、いやですねえ。いきなり「嘘」なんてことばを持ち出して、これから始まることが「嘘」、それも岳のように嘘が積み重なってそびえ立っているなんて言ってしまうなんて、昔話にもないような、ずるいずるい始まりだねえ。昔話が確立されたあとの「お話」、そうだねえ、「童話」みたいな始まりですね。
 たぶん、天沢にとって、ことばを書くということは「童話」を書くのと同じことなんだろうなあ。それも子どもが書く童話。どこまでもどこまでも思いつきを積み重ねる。相手の反応を見ながら、これわかる? これわかる? 何言っているかわかる? ついてこれる? そんな感じ。
 「白無沙(しらなさ)峠」。そのことばのなかの「知らない」。「嘘売岳」知らない? あ、そう。だめだねえ。「嘘売岳」ってさ、「白無沙峠」の向こうにあるんだ。まさか「白無沙峠」を知らないってことは、いくらなんいでもないよねえ。
 子どもは、こういうことばに弱い。もちろん、そんなものは知らないけれど、「知ってる」、「あ、そうか、白無沙峠の向こうにあるんだ。忘れてた」という具合に、自分で「嘘」のなかへ入って行ってしまう。
 こういう子どものリズム、童話のリズムが天沢のことばを動かしている。
 もちろん「白無沙峠」くらいでは、「あ、今のことば、知らないってことばがある。天沢さん、それ知らないんでしょ。嘘でしょ。嘘って、必ず本当のことが含まれてるから、ばれるんだよ」なんて、こましゃくれた子どもも出てくる。
 そういうときは。

するとだな

とドスをきかせて転調する。

嘘売岳へ登るには
まず白無沙峠をこえるんだ
するとだな
顔にも頭にも真珠をいっぱいつけて
女があるいてくる
と思ったらそれはみんな水玉
つまり涙というやつではないか?
これは気持ちわるい!

 「するとだな」がほんとうにすごい。もう、有無を言わせない。「と思ったら」という転換がさらにすごい。「そう思うだろう、だれでもそう思うよな。でも、本当は違うんだぜ。これはおれだけが知っていることなんだぜ、よく聞けよ」というわけである。子どもは、この「おれだけが知っていることなんだぜ」に弱い。いちころである。自分の想像力の弱さをあばかれることは悔しいけれど、一方で、「いいか、おれだけが知っていることをおまえに教えてやるからな」と言われたような、つまり信頼されたような気持ちになる。信頼されれば、もう、信頼しかえすしかない。信頼し、ついてゆくしかない。

つまり涙というやつではないか?
これは気持ちわるい!

 「え、涙って気持ち悪いの? かわいそうって思ったりしたらだめなの?」なんてこころを隠しながら、「そうだそうだ、涙って気持ち悪い」「気持ち悪い」「気持ち悪い」と大合唱である。ぜんぜん思っても見なかったことを口に出すって気持ちがいい。なんだかのびのびする。うれしくなる。ほら、大人がいやな顔してみている。きっと、これは本当のことなんだ。

いまは無き泣き女の幽霊だよ
真珠か水玉なら膨らんでいるだろ?
それがみんな逆に凹(へこ)んでるんだから

 「そうだ、そうだ、涙が凹んでるんだ、気持ち悪い」(あ、そうか、涙が気持ち悪いんじゃなくて、凹んでいるから気持ちわるいのか--よかった、とちょっと安心しながら)「凹んでる、凹んでる、気持ち悪い」とまたまた大合唱。

そのわけを言うよりさきに
山麓に嘘売り神社てのがあるよ
そこの名物が「あなた好きよ」とか
「あなたって、お上手ね」とか
みんな嘘ばかり書いた短冊を
おみくじと称して売ってるんだ

 「そのわけを言うよりさきに」。え、何? なんだか話がずれていっていない? あ、大人の秘密の話に変わったんだね。「あなたが好きよ」「あなたって、お上手ね」。聞いたことあるぞ。やっぱり、嘘だったのか。おとなって嘘をついて生きてるのか。やっとわかったぞ。とこころのなかで叫びながら、わくわく。わくわく。
 このわくわくを隠すのは子どもには難しい。
 そこへ、さらにさらに天沢は、子どもの思い付かないことを言う。

それをイタコが吹き込んで
CDも売っていてこれはバカ高い

 突然、現実が顔を出す。現実って、お金のことだよ。子どもにとっても。「あれ買って」「高いからだめ」。
 ますますリアルになっていくなあ。
 「バカ高い。パパがよく言っているなあ」。「バカ」って頭がわるいっていう意味じゃないんだ。「とっても」っていう意味なんだね。「バカ」「バカ」「バカ」。わるいことばをつかうって気持ちかいいのかな……。

 このまま書いていったら、感想がおわりそうもない。で、以下省略。
 そして追加。

 天沢の詩の魅力は、この詩の場合、3行目の「するとだな」に集約されている。ドスの聞いた転調。その間合い。リズム。書いてあることがら(内容)が同じでも、ことばの間合いひとつで、そのことばがぴったりきたり、遠いものになったりする。同じ歌謡曲でも美空ひばりが歌うとこころに響いてくるのに、別の歌手だとそんなに感じないというのに似ている。ことばにはことばを発するときの間合いがある。それが絶妙である。絶妙であるというのは一種の批評を放棄したことばなのだけれど、もう絶妙としかいいようがない。
 そして、その間合い、呼吸と通じることなのだけれど、天沢の詩はとても読みやすい。思わず口が、喉が、舌が、耳が動いてしまう。落語かなにかのように、1行1行ことばが表情をもって動いていく。
 天沢の詩は、ことばの表情を読ませる詩なのである。
 さらにつけくわえるなら、その表情こそ、「童話」の力だ。「童話」は基本的に読むというより聞くものだ。語ってくれる人がいる。一方に語ってくれるひとの表情がある。他方に聞くひとの表情がある。表情を見ながら、語る人はことばをかえたりもする。(ストーリーをかえたりもする。)そういうやりとりが、天沢のことばにはある。
 もちろん天沢はだれかを相手に読み聞かせしながら書くわけではないだろうから、天沢自身の中に、子どもの純粋さをもって、ことばを表情をじっとみつめる天沢がいるということだろう。そのもうひとりとの天沢とのいきいきとした口語のやりとりがあって、それが詩になっている。天沢が語り、天沢がきく。その「場」の空気が濃密にことばを支え、輝かせている。
 それに誘われ、思わず、「聞かせて、聞かせて」とおねだりしたくなることばがつまった詩集である。
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谷川俊太郎「六十二のソネット」

2007-06-18 23:14:35 | 詩集
 谷川俊太郎の詩の前で私はいつでもつまずく。たとえば「六十二のソネット」の「37」。

私は私の中へ帰つてゆく
誰もいない
何処から来たのか?
私の生まれは限りない

私は光のように偏在したい
だがそれは不遜なねがいなのだ
私の愛はいつも歌のように捨てられる
小さな風になることさえかなわずに

生き続けていると
やがて愛に気づく
郷愁のように送り所のない愛に……

人はそれを費つてしまわねばならない
歌にして 汗にして
あるいはもつと違つた形の愛にして

 「私の生まれは限りない」。
 あ、すごい、と驚く。
 私はたとえば一本の木から生まれたと思うことがある。故郷の家の近くにあるケヤキの木。神社の境内の、一番大きな木。その太い幹に背中を預け、樹液が流れる音を感じながら、こんな木のように枝を広げられたら、大きくなれたら、と思う。こんな木になりたいというのが私の幼いころからの夢だった。幹に背中を預け、空を見あげると、枝から枝へ、枝が分かれてゆく。その形をたとえばことばにすれば小説ができるだろうか、詩ができるだろうか、などと考える。そうすると私自身が木になって生まれ変わっていく感じがする。そういう「生まれ変わり」を感じさせてくれるものが私にはいくつかある。しかしそのいくつかは「限定」されている。「限りない」とはいえない。
 ところが谷川は「限りない」という。そうか、谷川俊太郎は「限りない」のか。どこからでも生まれてくるのか。生まれることができる、何を見ても、それをことばにすればそこから谷川は生まれうる。生まれ続ける存在として谷川という人間がいるのか。
 このことに対して、谷川は不満のようだ。そうしたふうにどこからか「生まれる」ということでは満足できないようである。生まれ続けることが不満のようである。どこからでも、なにからでも生まれうるということは、それはそれで魅力的なことではあるけれど、それは一方で生まれない限りは存在しないことになる。「生まれる」のではなく、生まれなくても、生まれるという過程を経なくても存在していたいのだ。太陽のように。
 この願いにはびっくりさせられる。それは確かに「不遜なねがい」かもしれない。しかし、谷川のすごいところは、それが「不遜」であると意識していることである。
 そして、「生まれる」とはどういうことか考える。「生まれる」とは何かを愛し、何かに「なる」ことだ。「小さな風になることさえかなわずに」の行の「なる」ということばを見落とすと谷川がこの詩で書いていることがわからなくななる。
 「生まれる」とは、たとえば風を愛し、風に「なる」ことだ。(谷川はことばを媒介にして、様々なもの「限りない」ものに「なる」ことができる。限りなく生まれることができる。)
 谷川にとって「生まれる」ということは、たとえば風を感じ、風そのものに「なる」。そして、風のことばを語ることだ。でも、そんなふうに風になってみても、風という詩は読み捨てられる。
 詩を書き続ける。何かを愛し、何かになりつづけ、ことばを書き続ける。そのことばは誰に届くだろうか。郷愁のように、誰かにではなく、谷川に、生まれる前の谷川に届くだけかもしれない。それでも谷川は、彼のことばを使いきってしまわなければならない。モーツァルトがあらゆる音楽を聞いて休むことができなかったように、谷川は、あらゆることばになることを「神」に要求され、休むことができない。様々なものに「なる」。様々なものになり、なったもののことばを代弁する。そのとき谷川は「愛」そのものになる。
 「愛」のことば。そのことばをくぐりぬけて、読者は「生まれる」。私の「生まれは谷川俊太郎のことばである」と読者がいうまで、谷川は谷川のことばを使いきろうとしている。

 谷川の詩を読む。そして感想を書く。そのとき確かに私は、私は「谷川のことばから生まれる」という感じがする。私がきょうここに書いた感想--それは谷川の詩、谷川のことばがなければ生まれて来なかったことばである。感想を書いたからといってわたしが谷川になれるわけではない。しかし、感想を書いているその瞬間瞬間、私は私ではなくなっている。この私が私でなくなる感じが好きで、私は、詩の感想を書く。
 今の私、これまでの私をひっくりかえしてくれることば、詩、そういうものが私は好きだ。谷川の詩は、私を否定する。私が私のままでいられなくする。だから、私は谷川の詩が好きだ。
 谷川がことばをとおして生まれ変わる、生まれ続ける、その限りない運動に、ずーっとつきあっていきたい。私はそう思っている。

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山川久三「ベランダ」、豊原清明「人生の青い中也よ」

2007-06-17 14:54:21 | 詩(雑誌・同人誌)
 山川久三「ベランダ」、豊原清明「人生の青い中也よ」(「SPACE」3、2007年07月01日発行)。
 山川久三「ベランダ」。
 ギリシャ悲劇と現実が交錯する。そこから乾いた笑いがひろがる。

オイディプスが ベランダに
うずくまって タバコを喫すと
オリュンポスの方から寄せる風が
何倍もの咳の発作で報復する
犯してきた罪を責めるように
放浪の脚を支えた力は
たるんだ皮膚の どこにも
見あたらない

乾いたアンティゴネの靴音を
研ぎすまされた聴覚がとらえる
歩道を重くたく刻んでくる踵(かかと)

ショルダーバッグを投げ出すと
アンティゴネは 父であり兄である
老人を 風呂場へいざなう
ほつれ髪をかきあげる娘の二の腕を
つかむことが このごろ
老人の一日を支えている
母と娘の二の腕が
豊かな肉づきで似てくる不思議

 山川はもちろん「オイディプス」ではない。しかし、自身を「オイディプス」に重ねるとき、重なる部分もあるのだ。老いは「オイディプス」の「オイ」である、というのは冗談だが、自分ひとりでではどうすることもできない肉体がオイディプスを引き寄せる。それにつられてアンティゴネも呼び出される。その交錯が楽しい。
 「放浪の脚を支えた力」から「老人の一日を支えている」までの、「支える」ということばでカッティングされた日常が、すばやいスケッチで無駄がない。余分な抒情がない。その乾いた感じが悲劇を喜劇にしている。悲劇と喜劇は、とても似ている。ともに対象を対象としてみつめる客観力無しには成り立たない点が。山川は、ここでは彼自身を客観化している。そこにもちろん抒情が入り込むことはできるのだが、山川はそれを拒絶している。そのさっぱりした精神の運動--ああ、これが山川を「支えてきた」脚力、ことばの脚力なのだと思った。



 豊原清明「人生の青い中也よ」。
 豊原は俳句を書いているが、俳句の視力が詩のなかにも登場してきて、それがことばをひきしめる。

ゆっくり蛇行して、
体全体ツキの色と成す。
青洟垂らして、生命を悟る。
青い詩人は風の只中に生きて、
くさった網戸を開き、
(中也の人生は、難しい。)
青い首を凝って、緊張している。

 「ゆっくり蛇行して、/体全体ツキの色と成す。」のスピード感が俳句そのもの。また「くさった網戸」から始まる諧謔がとてもうれしい。くさった網戸を開くのは難しいよなあ、と不思議な肉体の記憶がよみがえり、その記憶が中也と重なってしまう。私は中也の愛読者ではないので、中也のことはほとんど知らないが、あ、たしかに中也にはくさった網戸を前にして苦戦しているようなどうしようもないところがあるなあ、と思ってしまう。豊原の詩を読むと、だれの解説を読んだときよりも中也が身近に感じられる。何か遠いものを一気に引き寄せ、世界の中心にし、その中心から世界へもう一度ひろがってゆく--そういう一元論としての俳句の力がどこかに潜んでいる。豊原のことばには。


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入沢康夫と「誤読」(メモ41)

2007-06-17 13:44:15 | 詩集
 入沢康夫『歌--耐へる夜の』(1988年)。
 「Ⅰ『賤しい血』およびその三つの変奏 1986-1987」には3ではなく、4篇の詩が収められている。なぜ「三つ」なのか。そして、これらの詩はどれもだれかに捧げられたものである。その最初の詩「賤しい血」は「--親愛なる二人のランバルディアン、粟津則雄、渋沢孝輔に」と二人の名前を掲げている。なぜ「三つ」なのか。これは、わからない。わからないことはわからないままにして、4篇の冒頭。

賤しい血
  --親愛なる二人のランバルディアン、粟津則雄、渋沢孝輔に

  1

なべての有情の吐息を押流す大河のほとりで
ばらばらにされた四肢を 人目を忍んで
生木の枝のやうに藤蔓でたばねる
そして来いの焼棒杭を高々吊るす



悪胤
  --安藤元雄に

夜のゴム引きの麻布の蔭で、砂や小砂利の粒が、間遠に打返す睡気
に逆ひながら、今こもごもに光を放つ。凸レンズを透してみると、
ありとある有情の吐息をひたすらに押流す大河のほとり、人足たち
は、一旦ばらばらに解き離された五体をひそやかに拾ひ集めて、枯
枝のやうに藤蔓でからげる作業に余念がない。その男どもの腕には、
赤や青の魚の刺青。
   (谷内注・「麻布」には原文「リネン」のルビあり)


蛇の血脈
  --葉紀甫に

流れて止まぬ二叉川の岸辺
点々と落ち散らばつた昨日の淫夢の断片を 人目忍びつつ
拾ひ集め 晒し木綿の袋に収め
砂地に立てた竹竿の先に高々と吊す
   (谷内注・「蛇」「二叉」には原文「ナギ」「ふたまた」のルビあり)



DNAの汀で
  --岩成達也に

循れ、循れ、七つの河よ、
晒し木綿の袋につめて、
人目忍んで河原に埋めた
畸形の恋を押し流せ。
   (谷内注・原文の漢字にはルビがあるが省略した)

 すべて荒々しい男たちの恋のあとの様子から始まっている。1篇ではおぼろげだったものが「変奏」されることで濃密になっていく。それはそれぞれのことばのなかでのことというより、4篇を読む読者の感覚のなかで、読者の肉体のなかで、濃密になっていく。
 これまで「誤読」「誤書(偽書)」として見たきたものは、「変奏」という形でひとつになっているのだともいえる。「誤」が「誤」と出会い、「誤」を洗い流してゆくような感じである。
 基本的に同じテーマを「ずらす」ことによって、「ずれ」が見えると同時に、逆に共通のものが見えてくる。「ずれ」(差異)が、「ずれ」(差異)のために存在するというよりも、共通のものを認識するために存在する。

 ことば--それぞれの書き手。その個性。それは個性的であることによって存在するのはもちろんだが、同時にその個性は他の個性とぶつかるとき、個性そのものと同時にある共通のものを浮かび上がらせる。
 この共通のものは、しかし、単独では取り出せないものである。そのことに入沢は気がついている。あるいは入沢は、そのことを誰よりも強く「発見」している。その単独では取り出せないもの、ことばの動きに潜んでいる力、ことばを動かすことで何かを見ようとする力--それが人間の力だと入沢は実感している。

 ことばはことばと出会うとき、ある音が別の音と出会って「和音」をつくるように「和・意味」をつくる。その響きのなかに、「和」のなかに、人間の願いが存在する。祈りが存在する。夢が存在する。単独のことばのなかにもそういうものは存在するが「和」を響かせるときにもそういうものがあらわれる。単独では存在しなかったものが、たのことばの力を借りながら、単独では表現できなかったものを表現する。

 入沢の音楽は「和・意味」としての音楽である。
 それを明確にするために、入沢は次々に「変奏」を繰り返す。「誤読」として、「偽書」として。よりよいひとつの完成形を目指すというよりも、「和・意味」のうごめく言語空間、そこに書かれているのではなく、読者のなかで沸き上がる言語空間をめざしているのだといえる。

 入沢の「詩」は入沢のことばのなかにはない。入沢のことばを読んだ読者のなかにある。ひとりの読者になるために、入沢は「変奏」という行為を繰り返す。「変奏」のなかでなら、入沢は筆者であり、同時に読者でいられるからだ。「変奏」は他者の「音」(ことば)を正確に聞きとることを出発点としている。正確に聞き取り、同時にそれとは違った音を(ことば)を提出することで、単独では存在しなかった豊かな「和・ことば」空間をつくりだすのである。


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鈴村和成「ハエ、ヒトともに」、八木忠栄「夢七夜」

2007-06-16 22:45:10 | 詩(雑誌・同人誌)
 鈴村和成「ハエ、ヒトともに」、八木忠栄「夢七夜」(「るしおる」64、2007年05月25日発行)。

 鈴村和成「ハエ、ヒトともに」の書き出し。

くもり日はひかり いんさんなものだよ とげと 神経はひかり
無機質な 磁鉄かい むき出しの土間に あいまいな人影が走り
ホテルの玄関まで地続きだった

 これは何だろう。何が書いてあるかわからない。わからないのに繰り返し読んでしまった。書いてあることがわかりたかったわけではない。音の変化がおもしろかった。
 「くもり日はひかり」は「くもりびはひかり」と読むのか「くもりひはひかり」と読むのか。「くもり」と「ひかり」の対比と「ひ」の繰り返しが印象に残る。「ひ」はそのあとも「神経はひかり」という具合に出てくる。
 「無機質な」「むき出しの」という頭韻(?)のようなものもある。

               ところどころ穴ぼこが目立つ顔
もくろい穴になって 土足であるくと なんか吸いとられてゆく
みたいで やけにつやけしだし しけってるしな 混線してるん
じゃないか

 「やけにつやけしだし しけってるしな」という音もおもしろい。音の入り乱れ方がおもしろい。このあとには、「くるおしく くろ焦げに とかげたちと」というものもある。音がしり取りをしながら入り乱れ、突き進む。
 ただし、この「音」は私の耳には音楽には聞こえない。なんだか不思議な音だ。快感とは別の場所で響く、何か神経をひっかくような。
 いい意味でいえば、「音以前の音」(音楽以前の音)というものかもしれない。もしかすると、武満徹が音楽でやろうとしたことを、詩でやろうとしている?
 しかし。
 途中に差し挟まれた「音だけでいいんだ どうせ抽象だからね」という「意味」が、ちょっと興ざめだ。
 「音だけでいいんだ どうせ抽象だからね」という自覚があるなら、この部分も、もっと「音」に分解してほしかった。そうすれば、わからない、だからおもしろい、という印象になる。「意味」が居すわっているのが残念だ。



 八木忠栄「夢七夜」の「第一夜(猫が…)」にとても美しい音楽がある。

車はナムアミダブツをくりかえし
落葉はなみだの粒々をかぞえる

 「ナムアミダブツ」と「涙の粒々」。ああ、いいなあ。文字を見た瞬間、(つまり読むよりも先に、という意味だが)、喉が動いてしまう。舌が動いてしまう。唇が動いてしまう。口蓋と舌の接触、唇のくっついたりはなれたりする感触が体全体を目覚めさせる。そのあとで、ようやく耳に音がやってくる。こういう音楽が私は大好きだ。
 詩を読み返すと、この2行よりも前にも美しい音楽があることに気がつく。

青山三丁目の交差点脇
ロシアの老婆がむっつりした表情で
大鍋で猫を三匹煮ている
  一匹は、泣きわめき
  一匹は、笑いころげ
  一匹は、ただぼーぜん

 「ロシアの老婆」のことではない。「一匹は、……」の3行のことだ。「ただぼーぜん」の「ただ」の力。「ぼーぜん」のひらがなの力。意味を拒絶し、ナンセンスに屹立することば、音の美しさ。
 「ナムアミダブツ」と「涙の粒々」に隠れているのも「意味」ではなく、意味を拒絶するナンセンスだ。
 ああ、それにしても、それにしても、と繰り返さずにはいられない。「一匹は、ただぼーぜん」のこの美しい音。濁音の豊かな響き。濁音を発音するとき、喉が大きくひろげられる。その解放感が、そのまま音楽だ。感じで「茫然」と書かれていたら、たぶん読み落としてしまう音楽がある。詩においては、ことばをどのように書くかということも音楽の要素なのだ。

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カルロス・ソリン監督「ボンボン」

2007-06-15 15:12:25 | 映画
監督 カルロス・ソリン 出演 フアン・ビジェガス 犬(ボンボン)

 失業中のおじさん。手作りナイフを売っているが、売れない。このおじさんの、現実を受け入れ、しようがないなあ、どうしようかな、というちょっとさびしい顔、ほんの少し遠くを見るような目が、なんとういうか、おもしろい。引きつけられてしまう。
 このおじさんが、ふとしたことで犬(ボンボン、猟犬らしい)を手に入れる。血統書付きの立派な犬だが飼い主が死に、ぼんやりと生きている。この犬をめぐって物語は進むのだが、その物語の出発点、古ぼけた車の助手席にきちんとお座りしてのっているボンボンが傑作である。おじさんよりほんの少し大きい。それがまっすぐに前を向いている。思わず笑ってしまう。顔が似ている。目が似ている。まっすぐ前を向いてはいるが明確な目的があるわけではない。生きていくんだという強い決意があるわけでもない。どうなるんだろう。どうにかなるだろう、なるようになるさ、と思わずにはいられないさびしさのようなものが漂っている。おじさんは、そうした雰囲気を感じ取り、ちょっと横目でボンボンを見る。そうするとふたり(?)はますます似てくるのである。劇場で、私はほんとうに大声をあげて笑ってしまった。(ほかのお客さんは笑わなかったが。)
 ボンボンは血統書付きの立派な犬である。おじさんはその立派さに気がつかないが、犬好きの人がそれに気づく。銀行の支配人(?)がまず気がつく。手厚くもてなし、いろいろな人を紹介する。そのひとづてで、ボンボンはドッグショーに出場する。部門別で優勝し、全体でも3位に入ってしまう。犬といっしょに、おじさんの人生はどんどん登り調子。浮かれ、同時に、こんなことでいいのかな? というためらいもみせる。
 この入賞を境に、おじさんの人生はちょっと分裂する。そこがなかなかおもしろい。ボンボンの方も人生がちょっと狂ってくる。そこがなかなかおもしろい。
 名犬は種付けをして金を稼ぐ……はずであった。ところがボンボンにはその気がない。ヒート中の相手に会っても興味がわかない。で、お金を稼げない。仕方なしにおじさんはいったんはボンボンと別れて暮らすことになる。ところが別れてみると、ボンボンといたときの楽しさを思い出し、さびしくなる。
 「恋人と同じように、別れたあとで大切さがわかる」
 などと、ちょっと気を寄せる歌手に言われて、いてもたってもいられなくなる。あずけた先へ行ってみるとボンボンは逃げたという。
 おいおい、大事な大事な犬なんだよ。どうしてくれる。とは言わず、おじさんはひとりでボンボンを探しまわる。
 そして。
 煉瓦工場の積まれた煉瓦の背後。犬の声がする。行ってみると、ボンボンが交尾している。後尾されながら雌イヌが甘い声を出している。おじさんはそっと背を向け、後尾がおわるのを待っている。
 そして。
 再びボンボンがおじさんのとなり、助手席に座っている。前を向いている。じっとしている。その顔が、なんというんだろう、やったぞ、というように誇らしげである。おじさんも、よかった、よかった、とよろこびにあふれた顔をしている。これがまたまた傑作なのである。
 人生の大成功の転機、というほどではない。しかし、ここから人生が変っていく。そんな、ほんわかした感じのよろこびが車を走らせる前にひろがっている。道はまっすぐ。いいなあ、この解放感。充実というのではなく、解放感としかいいようがない明るさ。

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古賀忠昭「ちのはは」

2007-06-15 14:40:15 | 詩(雑誌・同人誌)
 古賀忠昭「ちのはは」(「るしおる」64、2007年05月25日発行)。
 古賀の「ちのはは」は『血ん穴』につながる詩である。死を前にして母が広告の裏に鉛筆をなめながら、いわば「遺言」を書いている。生きていくために胎児を食べた、これから地獄へゆくのだ、と書き綴る。

しんでゆくときめられとるこは しんでゆくと きめられとるのやから はらから でて
おぎゃあ とこえをあげるまえに くちをおさえて だまらさんと
まちごうて
いきてよか と おもうてしもうて これは
おそろしことで
まちごうても おぎゃあ と とえをあげるまえに くちをふさいで ほしかと です
(略)
おぎゃあ と ゆうこえは それほど おそろしこえで みみをふさいでも みみをつぶしても
きこえて きて じごくにゆくことも わすれてしまうごつ おそろし こえで いきとるもんば
けっして きいてはいかんこえやから おぎゃあ と こえをだすまえに くちをふさいで
おぎゃあ と ゆうこえを つけもんいしで ひゃっぺんもにひゃっぺんも たたいて
たたいて だまって もらわんと いけんのです

 どの部分も壮絶だが、私にはこの部分が一番印象に残る。生きていること、生きようとする力を感じること。「おぎゃあ」という最初の呼吸。そのことに対する恐怖。それは「はは」自身が生まれてきたことへの恐怖、生きていることへの恐怖を語っている。生まれたからには生きなければならない。「おぎゃあ」は「はは」の、それまでの生のあり方を全部、一瞬にして照らしだす。「生きたい」という欲望を全部明るみに出す。それは隠してきたものを全部暴き出す強烈な光なのだ。
 「だまって もらわんと いけんのです」。この「もらわんと」ということばのなかに潜む願い、祈り。
 胎児を食べるという非人間的な行為のなかに、ふいにやってくる人間のあたたかみ。そのふいのあたたかさ、血のぬるいあたたかさが、「非人道的な行為」というような法的なことばを洗い流し、一気に人間そのものの、いのちのつながりを浮かび上がらせる。

 「はは」の遺言は矛盾だらけである。そして、その矛盾こそが、人間が生きているということの証明でもある。

いきとるとき なき わめく ごたるこつの あったときも じっと こらえて ちの なみだば
ながしたこつも じごくに いったときのためとおもわれて じごくにゆくと きめられとるもんにとって
ありがたいこつだと みぎのてと ひだりのてを あわせて
おがんで おります

 「ありがたいこつ」。「もらわんと」に通じるものがある。
 「ありがたい」のなかに、生きていることへの感謝が満ち溢れている。心臓のように、そこから血が押し出され、ことばのすみずみにまで温かさがゆきわたる。生きることは苦しい。しかし生きることは感謝しても感謝しても感謝しきれない何かなのである。感謝しなければならない何ごとかなのである。
 「じごくにゆく」ことは生きてきたからなので、生きて来なかったら「じごく」へはいけない。そこには生きていたことへの深い深い感謝と祈りがある。苦悩のなかでのみつかみとった他者への感謝と祈りがある。

わたしは じごくにゆくと きまっとるけど どうか しんぱいせんで わたしが じごくで
みんなと うまくやっていると おもうて あんしんして ください わたしは いきとるときも
じごくのことを ずっと おもうてきたから ごくらくのことは なんも しらんけど
じごくのことは からだの ぜんぶで しっとるから なんの しんぱいも なかと です

 心配しないでください。安心してください。--この遺言には、感謝と祈りがあふれている。
 「おもう」ということばが繰り返し繰り返し出てくるが、それまでことばにせずに、ただひたすらこころのなかで繰り返してきた祈り、感謝が、胎児を食べるという衝撃的な事実をつつみこむ、不思議な思想になっている。
 胎児を食べるという行為を超えてしまう思想などない、といってしまえばないのかもしれないけれど、どうしても私は思想を感じる。思想とは生きていたいという祈り、そして感謝であり、そこには必ず矛盾がある。
 非道なことをした。だから地獄へゆく。その解決のなかに、思想がある。非道なことをしなければいいじゃないか、と批判するのはたぶん簡単である。だが、非道なことをしなければ生きていけないとしたら、その生をどうやって解放するか。地獄へゆく、という思想を信じることで、自己を許すという解決しかないかもしれない。このとき許すとは受け入れるということである。
 地獄へゆくということで自己を許す「はは」。その「はは」を許すことで、古賀はまた「はは」を受け入れ、「はは」から生まれてきた古賀自身をも受け入れる。
 この作品に書かれている思想の美しさは、その「受け入れる」という姿勢にある。
 「じごくへゆく」ことを受け入れる。

 もちろん死ぬこと、そして地獄へゆくことを「受け入れる」というのは簡単なことではない。だからこそ、「はは」は鉛筆をなめなめ「遺言」を書くのである。

じごくは やみのなかで みゆると おもうの です
じごくをおもう ほんとの こころは ひだりめの やみのなかに あると おもうのです
やみは なんもみえんから なにもないこととおなじで やみは まじりけがなかけん じごくを
おもうきもちは
おもうて おもうて
おもう きもちに なるとやから じごくをおもうきもちは ほんとの きもちに
なると おもうの です

 「じごくをおもうきもちは ほんとの きもちに/なる」。この「なる」の切なさ。
 地獄へは本当は行きたくない。本当は死になくない。しかし、人間は死ぬ。そして死んだら地獄か極楽へゆく。「はは」は地獄へゆかなければならない、と自分自身で決めた。その「きもち」をゆるぎないものにするために、ことばにする。
 ことばは、誰にとはとっても、まだあいまいな思い、気持ちを明確にするための唯一の方法である。繰り返し繰り返しおなじことばを書く。書く度に少しずつ変わるけれど、けっきょくおなじことばである。そのおなじことばを書くということで、気持ちは気持ちに「なる」。
 古賀はまた「はは」のことばを繰り返す。「はは」はこういう「遺言」を書いたと、「はは」とおなじことばを繰り返す。そうすることで「はは」の「きもち」に「なる」。「はは」の「きもち」に「なる」とき、古賀は、生まれる前のように「はは」の胎内にいる。一体になっている。「はは」から生まれ、「はは」へ帰ってゆく。「はは」に「なる」。そして、「はは」に「なって」、この詩という作品を生み出した。
 循環し、繰り返し、引き継がれてゆく「血」というものを思った。その温かさと、強さを思った。


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入沢康夫と「誤読」(メモ40)

2007-06-14 23:36:16 | 詩集
 入沢康夫『水辺逆旅歌』(1988年)。
 ラフカディオ・ハーンやジョイスにかわって(?)つくられた旅の詩。代筆詩集というべきものか。いわば偽りのことばなのだが、その偽りのなかには入沢の願いがこめられている。「誤読」ならぬ、「誤書」というべきものか。この「誤書」という視点からとらえなおせば『かつて座亜謙什と名乗つた人への九連の散文詩』は宮沢賢治を語った「誤書」ともいえるかもしれない。「誤読」と「誤書」はひとつの行為である。「誤読」とは、読者が作者にかわって、そこに書かれていないことばを書き加えることだから。

 「水辺逆旅歌」の最終連の最後の5行。

それでゐて 何がなし嘲るやうな口調で言ふ
「ジジサン サムカロ?」
あはれ おろかや
永遠に気だけは若い(耳は遠い)迂生には かうも聞こえる
「イジンサン サムカロ?」「シジンサン サムカロ?」
            (谷内注・「迂生」の「迂」は原文は正字体)

 「ジジサン」が「イジンサン」に、あるいは「シジンサン」に聞こえるというのは本当だろうか。そうではなく、「異人さん」「詩人さん」と呼んでもらいたい気持ちがあるからそう聞き取ってしまうのだ。「誤聴」には、そう聞き取りたい聞き手の欲望が反映されている。「誤読」と同じである。



 「死者の祭」にはサブタイトルがついている。「--Lafcadio Hearnの十二、三の章句にあるいは和し、あるいは和さずにうたふお道化唄」と。「和す」とは、そっくりそのままではないいくらかの変奏をくわえるということだ。「誤書」あるいは「偽書」とは書かずに「和す」「和さず」という不思議な距離感がここにある。「本歌取り」ということばもあるが、どのような場合にしろ、そこには必ず先行することばがある。入沢はいつも先行することばと向き合いながら、そのことばと現実の入沢との「ずれ」のなかへ突き進み、ことばの可能性を探している。
 「章句」10番目の、最後の3行。

(偽の記憶の中では、
月はいつも、爪で一掻きしたやうな形で
西空にあつた)
            (谷内注「一掻き」の「掻」は原文は正字体)

 「偽の記憶」。間違った記憶ではなく「偽」の。「誤読」のなかには、もしかすると「誤った」ではなく「偽った」も含まれるかもしれない。意図的に間違える。
 「和す」「和さず」という行為にも、自然なのものもあれば意図的なものもあるだろう。
 ことばを引き継ぎ、受け渡す--そのとき「誤読」ではなく、「偽読」という行為がないとはかぎらない。「誤読」がどのような意図にもとづいているか(意図などなかったのかを含め)、検討しなければならないのかもしれない。

 私たちは「誤読」する。あるいは積極的に「偽読」する。「偽読」の方が、人間の欲望を端的にあらわしているかもしれない。「偽書」も同じだろう。
 『かつて座亜謙什と名乗つた人への九連の散文詩』は、「テキスト」の校異を調べる、「テキスト」をより完全にするという手法をとりながらつくられた「偽書」として読むべき作品かもしれない。入沢の作品全体が「偽書」という体裁をとっているものかもしれない。
 「偽る」という行為のなかにある心情・真情。「誤読」のなかにある心情・真情。それは重なり合うものだ。

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柏木麻里「斥力、遠さにふれる」

2007-06-14 22:22:54 | その他(音楽、小説etc)
 柏木麻里「斥力、遠さにふれる」(「AC2」8、2007年03月31日発行)。
 柏木麻里と小島郁子のインスタレーション「斥力、遠さにふれる」(2006年03月04日-21日、国際芸術センター青森)に関するエッセーを、柏木が書いている。展覧会そのものを私は見ていない。私がこれから書くのは、あくまで柏木のエッセーに関する感想である。
 とてもおもしろい部分があった。

 私からみて、安藤郁子の作品は、肌のような敏感な表面の周りに、今ここにはない時間や思いが呼びよせられて漂っているような、立体からはみだしてゆくものがある。それは受けとる人によって、物語であったり、感情であったり、記憶であったり様々であろうが、何かそうした「空気」がある。その、安藤作品から発したものと、私の詩からも漂いだしてゆくものが、触りあう。

 ここに書かれている「空気」ということばに、私は見ていないインスタレーションを見たような気がした。「空気」ということばで、インスタレーションの現場に立ち会っているような気持ちになった。
 「空気」ということばのまえに、柏木は「物語」「感情」「記憶」ということばをつかっている。そうしたことばをつかいながら、なおそれでは言い表わせないものを感じて、「空気」と言い直している。
 「空気」。
 このことばを柏木は、さらに言い直している。

 安藤作品も私の詩も、共通しているのは、それが「姿」であることだ。姿は「外」を求めてしまう。ものが在る限り、そこには否応なく「外」が生まれる。内と外に揺り動かされ、その間にある皮膜には、感情が漂う。

 「空気」は、柏木のことばにしたがえば、柏木の詩、安藤の作品の、それぞれの「姿」の「内」と「外」のあいだにあることになる。そして、その「あいだ」から漂いだしてくるものでもある。
 漂いだしてきたものは、しかし、その「漂い出し」のなかに、それが生まれてきた「場」、「内」と「外」の拮抗する「場」、分離不能の「場」をもっている。
 そうした「場」があるがゆえに、二人の作品は近づきながらも絶対にひとつにはならない。ひとつになる(融合する)ことを拒否して、新しい「内」と「外」をつくり出す。会場全体、展示場という空間を「姿」に変える。展示場という「空間」が、そのときインスタレーションという「空気」、創作の「場」になる。
 ひとつにならない、融合してしまわない--そのことを指して、柏木は「斥力、遠さ」と呼んでいるのだろう。
 そして、そうした「場」に私たちが行き、その「空気」を呼吸するとき、「斥力、遠さ」が私たちの肉体のなかで混じり合う。私たち自身が「場」になり、「空気」になる。その瞬間に、いままで存在しなかった詩(作品)、つまり柏木のことば単独ではありえなかった詩、柏木の立体だけでは存在しなかった何かが誕生する。詩が詩になり、立体が立体になる。
 インスタレーションは二人の作家が出会うことで成立するのではなく、その二人がつくりあげた「場」へ観客が行き、その「空気」を呼吸することで、はじめて成立する芸術なのだろう。
 会場へ出掛け、その「空気」を体験したかった、と思った。体験できなかったことを残念に思った。

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