監督 デビッド・フィンチャー 出演 ジェイク・ギレンホーク、ロバート・ダウニーjr
殺人犯から暗号文が送られてくる。コピー機がまだない時代(?)、あるいは普及していない時代。回し読みしている途中で主人公(新聞社のカット係、ジェイク・ギレンホーク)が、その暗号をせっせと手で写し書きする。なんでもないようなシーンだけれど、このシーンが私は一番好き。ここに主人公の「視点」が一番濃厚にでている。
同僚の新聞記者(ロバート・ダウニーjr)も警官も犯人を追いかける。しかし、彼らは外から追いかける。これに対してジェイク・ギレンホークは犯人の「内部」から犯人を追いかける。
暗号文にもどれば、ロバート・ダウニーjrも警官も、そこに何が書いてあるか、ということを追いかける。ジェイク・ギレンホークももちろん内容を追いかけるけれど、同時にどうやって書いたか、ということに焦点をあてて追跡する。図書館で暗号本をあさるように読む。その本を借りた人は誰か、を追及する。図書館からその本がなくなっているのは犯人が「貸し出し人」欄に記録が残ると困るからだ……というふうに追跡する。
この出発点が暗号文を手で写す、という彼自身の肉体をつかった試み、犯人の内面に迫るには、まずその外形をなぞる--というようなことからはじめる。
この映画では、「犯人」の断定の決め手の「証拠」として「筆跡」が執拗に強調されている。(この時代の「犯人」捜査は「筆跡鑑定」が重要だったらしい--これは、現代とは違ってパソコンがなかったからであろう。)「K」の文字が2画から3画に変化しているというようなことも語られたりする。こうしたことも「犯人」の精神的変化、内面から「犯人」を特定していくという姿勢に通じる。ジェイク・ギレンホークは、当然ながら、そういう「犯人」の変化、精神の軌跡をたどることに夢中になる。
「なんとか島」(映画、小説のタイトル)の主人公の「せりふ」と「犯人」のつながり、接点を追い求め、映画技師の家を訪問したりするのも、彼から「犯人」と映画の接点を確認するためである。物的証拠(たとえば足跡、たとえば指紋、あるいは凶器)というものにはジェイク・ギレンホークは関心を示さない。そうしたものから「犯人」に迫ろうとはしない。
そんなふうに「内面」(精神的な軌跡)を追及して「犯人」は一応浮かび上がる。しかし、その「犯人」には、ロバート・ダウニーjrらがいうように「状況証拠」しかない。「内面」の「軌跡」は「状況証拠」にしかならない。
ジェイク・ギレンホークが「犯人」は彼だ、と確信を強めれば強めるほど、彼の確信は警察の捜査、真実の報道というものから乖離していく。ジェイク・ギレンホークにその意図はなくても、「独断」という要素が強くなる。観客も、ジェイク・ギレンホークの熱意に突き動かされて、「犯人」はあの男だと思うようになるが、最終的には、その男は「犯人」とは特定はされない。断定はされない。
ジェイク・ギレンホークの「犯人」追及の過程は、この「乖離」を浮き彫りにする。
このとき、ジェイク・ギレンホークの熱意が、一瞬だけれど、「犯人」の「狂気」と重なり合ったようにも見える。ジェイク・ギレンホークが「犯人」と対面するシーン、互いに見つめ合うシーンは、その重なりあいをくっきりととらえていて、ぞくっとする。「犯人」は彼が「犯人」であることを見破られたと気がつく。「この男は、おれの内面を知っている」と一瞬にして確信して、凍った目でジェイク・ギレンホークを見つめ、ジェイク・ギレンホークはジェイク・ギレンホークで、男が「犯人」であると確信する。
いやあ、おもしろいですねえ。
真実は二人だけが知っている。
この結末は、なかなか手ごわい。濃密だ。ひさびさに映画を見た、という気持ちにさせられる。
殺人犯から暗号文が送られてくる。コピー機がまだない時代(?)、あるいは普及していない時代。回し読みしている途中で主人公(新聞社のカット係、ジェイク・ギレンホーク)が、その暗号をせっせと手で写し書きする。なんでもないようなシーンだけれど、このシーンが私は一番好き。ここに主人公の「視点」が一番濃厚にでている。
同僚の新聞記者(ロバート・ダウニーjr)も警官も犯人を追いかける。しかし、彼らは外から追いかける。これに対してジェイク・ギレンホークは犯人の「内部」から犯人を追いかける。
暗号文にもどれば、ロバート・ダウニーjrも警官も、そこに何が書いてあるか、ということを追いかける。ジェイク・ギレンホークももちろん内容を追いかけるけれど、同時にどうやって書いたか、ということに焦点をあてて追跡する。図書館で暗号本をあさるように読む。その本を借りた人は誰か、を追及する。図書館からその本がなくなっているのは犯人が「貸し出し人」欄に記録が残ると困るからだ……というふうに追跡する。
この出発点が暗号文を手で写す、という彼自身の肉体をつかった試み、犯人の内面に迫るには、まずその外形をなぞる--というようなことからはじめる。
この映画では、「犯人」の断定の決め手の「証拠」として「筆跡」が執拗に強調されている。(この時代の「犯人」捜査は「筆跡鑑定」が重要だったらしい--これは、現代とは違ってパソコンがなかったからであろう。)「K」の文字が2画から3画に変化しているというようなことも語られたりする。こうしたことも「犯人」の精神的変化、内面から「犯人」を特定していくという姿勢に通じる。ジェイク・ギレンホークは、当然ながら、そういう「犯人」の変化、精神の軌跡をたどることに夢中になる。
「なんとか島」(映画、小説のタイトル)の主人公の「せりふ」と「犯人」のつながり、接点を追い求め、映画技師の家を訪問したりするのも、彼から「犯人」と映画の接点を確認するためである。物的証拠(たとえば足跡、たとえば指紋、あるいは凶器)というものにはジェイク・ギレンホークは関心を示さない。そうしたものから「犯人」に迫ろうとはしない。
そんなふうに「内面」(精神的な軌跡)を追及して「犯人」は一応浮かび上がる。しかし、その「犯人」には、ロバート・ダウニーjrらがいうように「状況証拠」しかない。「内面」の「軌跡」は「状況証拠」にしかならない。
ジェイク・ギレンホークが「犯人」は彼だ、と確信を強めれば強めるほど、彼の確信は警察の捜査、真実の報道というものから乖離していく。ジェイク・ギレンホークにその意図はなくても、「独断」という要素が強くなる。観客も、ジェイク・ギレンホークの熱意に突き動かされて、「犯人」はあの男だと思うようになるが、最終的には、その男は「犯人」とは特定はされない。断定はされない。
ジェイク・ギレンホークの「犯人」追及の過程は、この「乖離」を浮き彫りにする。
このとき、ジェイク・ギレンホークの熱意が、一瞬だけれど、「犯人」の「狂気」と重なり合ったようにも見える。ジェイク・ギレンホークが「犯人」と対面するシーン、互いに見つめ合うシーンは、その重なりあいをくっきりととらえていて、ぞくっとする。「犯人」は彼が「犯人」であることを見破られたと気がつく。「この男は、おれの内面を知っている」と一瞬にして確信して、凍った目でジェイク・ギレンホークを見つめ、ジェイク・ギレンホークはジェイク・ギレンホークで、男が「犯人」であると確信する。
いやあ、おもしろいですねえ。
真実は二人だけが知っている。
この結末は、なかなか手ごわい。濃密だ。ひさびさに映画を見た、という気持ちにさせられる。