詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹「糧」(「現代詩手帖」2008年07月号)

2008-07-03 11:37:17 | 詩(雑誌・同人誌)
 池井昌樹の「糧」は不思議な詩である。

私も父もその父も餅職人を生業(なりわい)としたが、誰に雇われ誰に供してきたのかは誰も知らない。私たちは餅を丸める。一心にただ丸めていると、蒸(ふかし)たての糯米は生娘の肌(はだえ)のように上気してほのぼのとあかるんでくる。餅を搗くもの餅返すもの粉打つものたちの気配がそこかしこに懐かしく立ち籠めるのだが、そのものたちが誰なのか私たちは誰も知らない。(略)私たちは家族と共に夜毎遅く床に就く。私たちは家族の顔を誰も知らない。妻の顔も子の顔も私たちは誰も知らない。

 「誰も知らない。」それでも「家族」であることを知っている。そして、もうひとつ、知っている。「餅職人」であることを。
 餅職人とは何か。--それもよくわからない。だが、この詩のなかには一か所、とてもよくわかる部分がある。

一心にただ丸めていると、蒸(ふかし)たての糯米は生娘の肌(はだえ)のように上気してほのぼのとあかるんでくる。

 餅をつくる様子。特に、「一心に」という、そのことば。何かを「一心に」していると、その何かは何かではなくなる。「餅」は「餅」ではなく、たとえば「生娘の肌」になる。それも単なる「肌」ではない。「上気し」てくる。「ほのぼのとあかるんでくる」。「肌」そのものが、最初の状態のまま存在するのではなく、変化する。美しくなる。この変化。その変化を引き出す「一心に」という行為。
 池井は「一心に」を書きたいのである。「一心に」が池井の思想である。肉体である。「一心に」何かをするとき、ひとはその行為をとおして、現実の世界を超越してしまう。超えてしまう。その結果、「世界」そのものが違ってしまう。新しい「世界」へ突入してしまう。「一心に」何かをするということは、自分がかわり、「世界」が変わってしまうことである。
 そうなってしまうからこそ、「誰も知らない」という状態が生まれてくる。
 「誰も知らない」状態になって、新しく「誰か」と会うのだ。毎回、新しく「会い直す」のである。「家族」であっても、毎日毎日、新しい出会いを生きるのである。
 「誰も知らない」。でも、その「誰も知らない」誰かを、信頼することができるのはなぜか。いっしょに生きて行くことができるのはなぜか。そういう「誰か」を「一心に」というこころが貫いているからである。「一心に」生きている人間とつながる。それは、安心である。「一心に」という生き方がつくりだす「美しさ」がそこにはあり、その「美しさ」こそ、人間が信頼していい唯一のものである。

 詩は、とても美しく閉じられる。

私たちはこの生業を愛している。私たちが寝に就けば、貧しき茅葺き屋根の遥か高くに昔ながらの月があり、いつか指差し教えてくれた優しい姿が耳生やし、もう餅を搗き餅返す。私たちはその餅の味をまだ誰も知らない。

 月。月のなかでうさぎが餅をついている。--それを教えてくれたのは誰? 「誰」であるかは池井は知らない。そして、その「知らない」ということこそ、実は、「知っている」ことなのだ。それは「父」でもなければ「父の父」でも「母」でもない。それは「人間」そのものである。生きている命そのものである。生きている命、生きていくときの「一心の」の命。それが教えてくれたのだ。自分のとどかないところにある美しいもの。そういう美しいものをひとに(こどもに)伝えたい、という祈り。そういう愛。「誰」がかたりはじめたことばかしらないけれど、そこには間違いなく、こどもを、血を引き継いで生きていく人間の命のリレーの受け手であるこどもを愛するこころがある。
 「一心に」何かをする。それは、知らず知らず、何かを愛すること。何かを美しくすることなのである。

 池井は「一心に」詩を書く。だから、そのことばは美しい。

*

池井昌樹にはたくさんの詩集があるが、いま手に入るのは少ない。
とても残念なことである。
以下の3冊は手に入れやすい詩集。

池井昌樹詩集 (現代詩文庫)
池井 昌樹
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童子
池井 昌樹
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一輪
池井 昌樹
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橋口亮輔監督「ぐるりのこと」(★★★★)

2008-07-03 00:18:44 | 映画
監督 橋口亮輔 出演 木村多江、リリー・フランキー、倍賞美津子

 若い夫婦がこどもの死を挟んで、崩壊する。そして、たがいに相手にどう向き合っていいのかわからず苦しむ。その苦しみの果てで、ぶつかりあう。そこからもう一度再生する。
 クライマックスの長い長い1シーンがすばらしい。
 ひとは誰にでも自分なりの表現形式というものがあり、それは相手にはなかなか伝わらない。そのためにいったん「溝」ができると、その「溝」と向き合うばかりで、相手を直視できなくなる。いや、相手を直視できなくなる、というより、自分自身と向き合って、どうどうめぐりになる、といった方がいいだろう。
 この、自分自身としか向き合えなくなった「悲しみ」を木村多江がぴりぴりする感じで表現し、そのぴりぴりが木村多江自身を傷つけないように、そっとつつむという感じをリリー・フランキーが温かく表現している。
 木村多江はすべてを「きちんと」したい。「ちきんと」したいのに、できない。だから苦しい、と訴える。それに対してリリー・フランキーは「きちんと」しなくてもいいのだ、と、「きちんと」という枠を外そうとする。
 リリー・フランキーは終始、「きちんと」していない。どちらかというと「だらしない」感じの生き方をしているのだが、それは自分自身が「きちんと」暮らすことが苦手というだけではなく、「きちんと」していないものも許して生きるという生き方なのだと、この瞬間にわかる。
 長い長いシーンの終わりは、「きちんと」終わるのではなく、人間の「きちんと」していない部分を二人が笑いながら、泣きながら、抱きしめる、という感じで終わる。深い深い悲しみ、絶望から、泣きながら笑うその笑いまでの「距離」というか、広がり--そううものを抱え込んでいるのが人間なのだという、人間への信頼が、そのシーンにあふれている。
 長まわしの美しいシーンは、最後の方にもある。倍賞美津子の住んでいる家を売るかどうか、「家族会議」を開いている。そのシーンも、とてもいい。人間の感情が少しずつ動く。動いて、変わっていく。最後はみんな「生きる力」を取り戻す。「よし、もう一度生きてやろう」という感じになるまでの、人間の変化を、ていねいに描写している。

 「長まわし」は考えてみれば、役者のなかの変化をそのまま連続したものとして伝える方法である。感情の一瞬一瞬を切り取って、その深みを鮮やかに示すのと違って、その映像には「切れ」の鋭さはない。しかし、「切れ」、つまり「断片」の輝きでは伝えられない「連続」したものの「強さ」をしっかり伝えることができる。深い感情を持つことができるのも人間の強さだが、揺れ動く感情を持続し、それを持ちこたえるというのも人間の力なのである。持ちこたえ、そこから再生する。その連続した力を伝えるためには、「長まわし」は最適の表現である。この映画の「長まわし」には必然性がある。この「長まわし」にこたえる、木村多江、リリー・フランキー、倍賞美津子の演技はすばらしい。

 この「長まわし」は、クライマックスが美しすぎて、とても印象が強いのだが、実は映画の最初の方にもある。木村多江とリリー・フランキーが「きょうはセックスをする日」「そんなことを露骨に言われても」とけんかをするシーン。それは笑わずにはいられないシーンだが、そこには人間のもっている論理がむちゃくちゃになって「つながっている」感じがリアルに表現されている。なにもかもがむちゃくちゃになって「つながっている」。それが、やがて、深い悲しみと笑いに結びついていく。
 「つながっている」というのは、いいものだなあ。「つながっている」から生きて行ける。
 「ぐるりのこと」というタイトルに監督がどういう思いを込めたのかわからないが、たぶん、この「つながっている」ことが「ぐるり」なのである。「ぐるり」と「輪」になる。完全な「つながり」の象徴なのだろう。

 ほんとうのラストシーンにも驚かされる。その前の、木村多江とリリー・フランキーがお寺の本堂で天井の絵を見ながら、手を触れ、足をぶっつけあうシーンで終わってもいいのだろうけれど、この映画は、リリー・フランキーがあいかわらず「 法廷画家」をやっているシーンで終わる。木村多江が、いわば「ライフワーク」を完成させたのに、リリー・フランキーは、あいかわらずしょぼくれている。彼にだって、後世に残る絵を描きたいという夢はあるだろう。しかし、それを自分で追い求めるのではなく、いまは、自分に与えられた仕事をしている。ていねいに。それは、「ぐるり」とまわって、「つながって」、木村多江の絵につながっている。そのことを知っている。だから、リリー・フランキーはていねいに、ていねいに、自分を生きる。
 短いこのシーンこそ、この映画の、いちばん美しいシーンといえるかもしれない。







ハッシュ!

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藤維夫「それはそれはそれは」

2008-07-02 23:32:56 | 詩(雑誌・同人誌)
 藤維夫「それはそれはそれは」(「SEED」15、2008年05月15日)
 藤の詩にはいつも静かな思考がある。思考の詩だけれど、「頭」で書いた詩ではない。それが魅力だ。
 「それはそれはそれは」の中ほど。

陽にかざして見ている空虚な部屋で
考え事が先だった
孤独の固まりに齧りついて
もう死んだように眠るしかない
夢のなかは水平線が再生されて
また汽船が走って行く
それはそれはそれは
美事な映画のようだ

 「考え事が先だった」。この不思議な断定に、私は震える。ある対象があり、あるいはある存在があり、それについて後から「考え」がやってくるのではない。まず「考え」がある。
 「考え事が先だった」。そして、これほど悲しいことばはない。まず考えがあって、それから「世界」が見えてくるというのは、とてもつらい。「世界」は考えに汚れてしまっていて、もう取りかえしがつかない。
 1連目、書き出しに戻る。

なにを見ても悲しい
そんな不能な生き方がある
そのひとは朝が来れば起き
食事をとるにはとる
いびつな姿勢だから
不運に見えて さらにつらく悲しそうだ

 「悲しみ」ということばが直接出てくる。この「悲しみ」は「感情」であるけれど、もう「感情」を突き破ってしまっている。そして「悲しみ」という「考え」になっている。「感情」は動かないのだ。「感情」は「考え」になってしまって、簡単には揺り動かされない。「悲しみ」が動く(たとえば、解消する、喜びや笑いにかわる)とすれば、それは「考え」を通過して、つまり「論理的」に動いていくしかない。
 それを藤は「不能」と呼んでいる。

 こんなとき、ひとは、どんなふうに解放されるのだろうか。

 「眠り」と「夢」。それは「考え」を裏切って動く精神である。眠って、夢を見て、意識的には動かすことのできない何かを身をまかせるしかない。「悲しみ」が「考え」にまでなってしまったら、たしかにそんなふうに「考え」を中断するしかないかもしれない。 その「夢」に汽船が走っていく。

それはそれはそれは
美事な映画のようだ

 「それはそれはそれは」と3回繰り返す。繰り返して、確かめている。「中断」、「考え」の停止。その瞬間の「美」。

プロデュースするかたわらで
清浄な生死を急ぐことはない
きっとゆっくりゆっくり

 末尾の3行。たしかにそうなのだろう。「中断」に身をまかせる。急ぐことはない。「中断」が運んできてくれる「無意識」。そこに、再生の力がある。--藤は、いま、そういうところにいるのだろう。

 「SEED」15の作品は、どれも悲しい。悲痛な声がする。どう感想を書いていいのか、私には実のところよくわからない。私に悲しんでいるひとに声をかけることが苦手である。
 読みました。読んで、時間が経って、ようやく少しだけ、何か言いたくなった。でも、何も言えない--あらためて、そう思った。そのことだけを伝えたい。とてもとてもとても悲しい詩だ。


コメント (1)
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ポール・ハギス監督「告発のとき」(★★★★★)

2008-07-02 02:12:28 | 映画
監督・脚本・製作 ポール・ハギス 出演 トミー・リー・ジョーンズ、シャーリーズ・セロン、スーザン・サランドン

 これはたいへんな映画である。アメリカの良心が悲鳴を上げている。良心の危機に直面し、ひとりでは立ち直れない、と助けを求めている映画である。

 トミー・リー・ジョーンズの役どころは、元軍人。国家を守っている、という強い自負心がある。2人の息子も軍人である。そのことも彼には誇りである。厳しく自分を律して(たとえばベッドメーキングは完璧に、靴や衣服の整理は完璧に)生活している。いわば、「正しく」生きているという「誇り」をもっている。息子の暮らしぶりにも、その「正しさ」を感じ取っている。
 その息子が軍隊から失踪する。切断され、焼かれた状態で発見される。
 何があったのか。トミー・リー・ジョーンズはそれを追ってゆく。映画は、そういう「ストーリー」のなかで展開される。トミー・リー・ジョーンズは終始、表情を殺している。表情を殺す、ということは、実は、感情を殺すことでもある。
 息子を失った悲しみを殺す。悲しむことよりも、真実を、つまり息子を殺した相手を突き止めることが大事だからである。真実の追求、それはトミー・リー・ジョーンズにとっては真実を守ること、国家を、正義を、守ることと同じである。
 真実はなかなか見えて来ない。軍隊が真実を隠すからである。トミー・リー・ジョーンズの感情は、悲しみから怒りへ変わる。なぜ、隠すのか。なんのために、隠すのか。悲しみをこらえて、怒りをこらえて、ひたすら真実を追い求める。息子の仲間たちの軍人が隠しているものを、少しずつ、引き剥がすようにして、その内部へ入ってゆく。
 そして、つかみ取ったものは、絶望である。悲しみを超えて、怒りを超えて、打ちのめされる。

 軍隊の体験、戦争の体験は人間を変質させる。そういうことをトミー・リー・ジョーンズが知らないわけではない。しかし、トミー・リー・ジョーンズは、自分の体験からはそういうことを実感していない。ベッドメーキングもきちんとすれば、靴もきちんとみがく。ズボンの折り目をアイロンをかけずにきちんとととのえるということも、旅先のホテルでも実行する。だれにも頼らず、きちんと自分を律して、生活をととのえる。女性にたいしても礼儀を守る。トップレスのバーの女性にも「マダム」と呼びかけるし、ワイシャツが洗濯中であっても、女性には肌着姿をみせさせないよう、乾いていないシャツさえ着る。何もかわならい。いや、むしろ軍隊の生活が自分をそんなふうに自己を律して生きていくふうに鍛えてくれたと感じている。息子のベッドメーキング、ベッドの下にそろえられた靴、磨き上げられた靴を見て、息子もそんなふうだろうと感じている。
 ところが違ったのである。
 軍は、そして戦争の体験は人間を変質させる。息子を殺した仲間たち--彼らも人間として、完全に戦争前とは違っている。変質している。そして、被害者の息子も実は変質していた。イラク戦争に参加し、人間の質が変わっていた。その変化のなかで息子は悲鳴をあげていた。ところが、父は、その悲鳴をきちんと受け止めることができなかった。「帰って来い」とは言えずに「がんばれ」と言ってしまう。息子は苦しみをかかえながら、どんどん変質していく。人間がしてはならないことを、軍の規律が禁じていることも、どんどんしてしまう。こころは悲鳴を上げながら、一方で、その悲鳴をかき消すために肉体は暴走する。
 兵士たちのなかで起きている人間の変質。それは、もう止めることができない。それは兵士一人一人の変質であるよりも、軍そのものの変質でもある。(だからこそ、軍は、それを隠そうとする。)そして、軍の変質は国家の変質でもある。
 真実を追い求めて、たどりついたのは、そういう絶望的な状況である。

 この過程を、トミー・リー・ジョーンズは、ひたすら表情を殺して演じている。ほんのわずかな目の動き、目の色の違いで、悲しみ、怒り、絶望を表現している。感情を殺しつづけることで、逆に、内部にうごめく感情を強さを、そして、その果てしない絶望をくっきりと浮かび上がらせている。
 最後は、けれど、やっぱり元軍人。感情を出せない。顔に出せない。絶望し、助けを求めているのに、それを「声」にできない。
 その「声」を、最後に「国旗」が代弁する。上下逆さまに掲揚された国旗が。国旗をそんなふうに掲揚するのには、意味がある。そして、その意味は軍人なら知っているが、普通のひとは知らないかもしれない。トミー・リー・ジョーンズは、トミ・リー・ジョーンズの演じる父親は、軍人にこそ、その「声」を伝えたいのである。そして、ポール・ハギスは軍人にこそ、この映画を見てもらいたいと思いつくっているに違いない。

 静かな、静かな、軍に対する告発。国家に対する告発。--この映画は、そういう高い志をもった映画である。



 この映画のすばらしさは、トミー・リー・ジョーンズの演技(顔の演技)につきるが、それを脇で支えるシャーリーズ・セロン、スーザン・サランドンの演技も見応えがあった。告発の方法も知らず、ただ絶望するスーザン・サランドンの、空港の後ろ姿は、とてもすばらしい。
 ボール・ハギスは「クラッシュ」を監督している。脚本には「ミリオンダラー・ベイビー」「硫黄島からの手紙」がある。どの作品も非常に抑制がきいている。感情を抑制することで、その深さ、絶望を掘り下げる作家なのだとあらためて思った。



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松浦寿輝「木」

2008-07-01 11:53:04 | 詩集
 松浦寿輝「木」(「現代詩手帖」2008年07月号)
 私は「木」というタイトルに軽いめまいを覚えた。「本」と読んでしまっていた。

その木は昏い、その木は激しい、憤ろしい、しかも静かだ、

 この書き出しを私は

その本は昏い、その本は激しい、憤ろしい、しかも静かだ、

 と、読み違えていた。なぜ読み違えたのか。よくわからないが、たぶん、私のなかには松浦は「ことば」について書く詩人だという先入観がある。対象を描いているようで、実際は「ことば」について書いている。ことばと意識の関係について書いている、という先入観がある。そのために、「本」と、つまり「ことば」でできたものについて書こうとしていると思い込んでしまったのである。
 ところが、「木」であった。あ、「本」ではなく、「木」なのか、と気がついたのは、先の引用につづく次の文を読んだときである。

その木は果てしなく大きな樹冠を夜空に広げ、わたしの頭上をすっぽり覆い尽くし、葉むら越しにかすかに洩れた月光だけがわたしの足元にまでとどいて、あちこちアスファルトの崩落した道路とそこにつもる枯れ葉の山を仄かに照らしている、

 「本」の描写とはあきらかに違う。「あ、木だったのか」。
 しかし、「木」だと気づいた後も、どうも「木」だという気がしない。たしかに「本」の描写とは言えないのだけれど、なんとなく「木」を超えた存在にしか見えない。どの描写もたしかに「木」をとらえているのだけれど、そのとらえ方が「ことば」にしか見えない。「木」というより、「木」を描写することばだけがある。なぜ、こういう思いがするかというと、たぶん、松浦の文体のせいである。
 松浦はこの作品では句点「。」ではなく、読点「、」だけでことばをつないでいる。どこまでも果てしなくことばがつづき、終わらない。この「終わりのなさ」が「木」という自然の存在から、とても「遠い」。「木」は松浦の「意識」の外にあって、松浦のことばを動かしているのではない。松浦の「意識」が「木」にそって動いていく。その動きが広がり、立ち上がり、松浦自身をすっぽりつつんで、「木」になる。
 ことばを書くということは、たしかにそういうことなのだから、これはこれで「木」なのだろうけれど、しかし、私にはやっぱり「木」は見えない。「木」に似た印象はあるが、「木」そのものの手触りがなく、「木」に触っている、たとえば「木」の幹に、広がる枝に、幾枚もの葉に触っているというよりも、「ことば」に触っている、という印象しかない。「ことば」が動いていく、その不思議な粘り強い動きに触り、触ることで、私自身がからめとられていく、という印象がある。それも、ほんとうなら(何が「ほんとう」かは難しいけれど)動いていくところではない「場」へとひきずられていく感じがする。「異常」と書くと言いすぎになると思うけれど、「自然の世界」とは違う「場」へひきずられていく感じがする。(だからこそ、「文学」と言えばそれまでなのだけれど。)

 この不思議な粘着力のあることばの動き--それをつくっているのは「その」ということばだ。指示代名詞。先行することば(対象)を指し示す代名詞。

その木は果てしなく大きな樹冠を夜空に広げ、

 の「その」。なんでもないことばのようだが、松浦の文章、松浦のことばは、詩も小説も、この「その」がないと、実は成り立たない。
 「その」によって、先行する対象を明確に意識し、その意識からさらに先へ進む。それは先行する対象と「接続」しているが、同時に「切断」もしている。
 松浦はまず「その木は昏い、その木は激しい、その木は憤ろしい、しかも静かだ、」と「抽象」的に描写した後、それに接続しながら、「その木は……」以後、「具体」的にことばを動かしていく。「抽象」と「具体」。その「接続」と「切断」のあいだに「その」が存在する。

 書き出しの「その木は……」の繰り返しに戻って、ことばを追ってみるとそのことがさらに明確になる。
 先行する存在がないのに「その」という指示代名詞をつかう。これは、「教科書文法」からいうと「反則」である。「その」って何? 何を指す? 先行する存在がないのに「その」とはどういうこと?
 「その」は実は、松浦の意識のなかにだけある。
 「その」は現実には存在しない。
 松浦は意識のなかにだけ存在する「木」と接続するために「その」ということばをつかう。「読者」をことばの運動の外にほうりだしておいて、松浦だけがかってに、松浦の知っている「木」、意識のなかに存在する「木」と接続する。意識のなかに「木」を出現させる。それは、「接続」から始まる「その」である。
 そして、この「接続」は、「木」が存在しない現実からの「切断」でもある。松浦は目の前に存在する「木」ではなく、意識のなかにある「木」に「接続」しているのだから、それは現実の側から見れば「切断」である。

 対象と「接続」するための強引な「その」。むりやり「木」を出現させるための「その」。「その」ということばをつかって、松浦はことばを、つまりは意識を動かすのである。そしていったん動きはじめると、今度は、その「意識」を存在する対象として、あらためて「その」によって、「接続」と「切断」を繰り返す。それが「その木は果てしなく……」の「その」である。
 この「その」は何度も繰り返される。先の引用につづく文は「その木は太い幹から無数の枝を縦横に伸ばし複雑に絡み合わせている、」である。さらに「その幹はちょっとしたビルほどの太さがあるけれど、」という具合にも繰り返しつかわれる。
 そして、「その」を繰り返すことで、「接続」と「切断」は加速し、どんどん、ことばそのもの、「意識」そのものの運動へと突き進んで行く。「木」はどこかへ消えてしまい、「数」という抽象的なものが暴れ回る。意識は「木」ではなく、「数」をめぐって動く。
 そのハイライトの部分。

手負いの虎が瀕死の床で瞬時のやすらぎとともに見るおびただしい夢の断片の一つ一つに刻印された数、突風が吹きつけてきて枯れ葉が一挙に舞い散りそれとともに四方八方にひるがえって交雑する無数の数、その圧倒的な現前のさまを思え、重量、密度、温度、種々様々な単位が混雑し交雑し、時間と空間が睦み合い愛し合い一つに溶け合ってゆく、

 「その圧倒的な現前の……」の「その」。そこから始まるハイになった意識の運動。「木」はどこへいった?
 私は、がまんできずに、笑いだしてしまった。おかしい。こんな文章って、あっていいの? 何を書いているの? これは、楽しい、という意味である。
 私の引用している文章だけを読んでいるひとには、きっと、「木」と「重量、密度……」の関係はわからないだろう。どうして、そんな「世界」が出てくる? コッポラの「地獄の黙示録」でジャングルから突然虎が飛び出してくる美しさに似た楽しさと輝きがある。わけがわからない(必然性が納得できない)、けれど、びっくりして、思わず笑ってしまう「いのち」の噴出--そういうものを感じる。
 これは、すべて「その」が引き起こす運動なのである。

 そして、その果てに。
 私はもう一度びっくりする。めまい、そのもののなかに落ち込んでしまう。

その本を見つけねばならぬ、そのなかにこそほんとうの数が潜んでいるのだから、そのページの上にこそ数えられない数がくっきり印字されているのだから、その本は昏い、その本は激しい、憤ろしい、しかも静かだ、果てしなく大きな樹冠を夜空に広げているその本のなかに歩み入っていかねばならぬ、

 え? 「木」じゃなくて、「本」?
 私は思わず、書き出しに戻って読み返してしまった。最初はたしかに「木」なのである。それが、いくつもの「その」による「接続」と「切断」を繰り返して、「本」になってしまった。
 「木」から「本」への変化、運動が「その」のなかにつまっているのだ。そして、その「その」によって引き起こされることばの運動が松浦にとっての「詩」であり、「文学」なのだ。




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