詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(8)

2009-06-23 07:37:53 | 誰も書かなかった西脇順三郎

ガラスの杯

白い菫の光り。
光りは半島をめぐり
我が指輪の世界は暗没する。

 私は、この書き出しに笑いだしてしまう。このときの「笑い」は私特有のものなのか、それとも誰かと共有できるものなのか、それがわからない。また、その笑いが私の無知によるものなのかどうかも、よくわからない。私は、西脇のことばに笑いださずにいられないけれど、それは笑いだした私が自分の無知をさらけだしているだけなのか、それがよくわからない。
 3行目の「暗没」。これ、何? 何と読むの? 私は「あんぼつ」と読む。暗く沈んでいく、というようなことをイメージする。でも、「あんぼつ」でいいのだろうか。私のつかっているワープロソフトでは「あんぼつ」は漢字変換されない。私のつかっている広辞苑にも漢語林にも「暗没」は載っていない。
 知らないことばが、音としてそこにあり、そしてその「音」は聞いただけではわからない。つまり、もしこの詩が朗読されたとき(そして、その詩をあらかじめ読んでいなかったとき)、「わがゆびわのせかいはアンボツする」と読む声を聞いたとき、私は「意味」を理解することができない。
 ところが。
 この詩を読んだとき、「暗没」という文字を眼で読んだとき、その「音」は軽々とどこかへ飛んで行き、「意味」はすーっと理解できる。(理解したつもりになる、というだけのことかもしれないが。)
 このときの、「音」の「軽々」とした印象が、私の「笑い」の原因である。音が軽い。音が意味を持っていない。音は単に耳を刺戟し、口蓋や、舌や、喉の感覚を、脳のなかで刺戟する。かろやかに肉体感覚をくすぐる。私の笑いは、そのくすぐりに対する生理的な反応である。体のあちこちをくすぐられると笑いださずにはいられないが、西脇のことばの音楽のくすぐりに、私はやっぱり笑いだしてしまうのだ。

 しかし、これは「暗没」ということばがきちんと(?)存在する場合には、私の無知ゆえの「笑い」になる。

 これに似た「笑い」が、この詩にはもう一度出てくる。

昼(ひる)が海へ出て
夜が陸へはひる時

 「出る」「入る」。これは誰もが知っていることばである。しかし、「昼」や「夜」ということばが、その動詞の「主語」になることはない。少なくとも、私は、そういうことばのつかいかたを知らない。
 私は私の知らないことばのつかいかたに出会ったとき、驚き、そして笑ってしまう。
 脳が、やはりくすぐられた感じがするのである。
 脳をひっくりかえす衝撃ではなく、くすぐるおかしさ。そういうものが、西脇のことばにはある。この「くすぐり効果」(?)も私には「音楽」として響く。
 「暗没」も「出る」「入る」も、「意味」はわかる。「意味」はわかるけれど、そんなつかいかたをしない--ということが、楽しい。

 この詩には、別の不思議さもある。「皿」の「麗(ウララカ)な忘却の朝」に似たおかしさである。

昼(ひる)が海へ出て
夜が陸へはひる時

 「昼」に「ひる」というルビはいるの? 昼を読めない人が西脇の詩を読む? なぜ、西脇は「ひる」とルビをふったのだろう。もしかすると「昼」を「ちゅう」と発音する意識があるからではないのか。
 ルビに反抗するように、「ちゅうがうみへでて」と読んでみる。「ちゅう」を「チュー」と読んでみる。「チューがうみへでて」。とってもおかしい。
 最後の1行にも同じおかしさがある。

五月の閉(とざ)された朝。

 なぜ、「閉」にルビ? もしかしたら「へいされたあさ」? いやいや、「ヘーされたあさ」? きっとそうなのだ。「チューが海へ出て」「五月のヘーされた朝」と西脇は意識の奥で読んでいる。だから、いかん、いかん、こんな日本語の読み方はない、と思って「ひる」「とざ(す)」というルビを打つのだ。

 でも、そうすると「五月」は何と読む? 「ごがつ」? それとも「さつき」? そして「朝」は?

 おかしい。西脇の詩は、どこまで読んでいけばいいのかわからない。おかしすぎる。



ボードレールと私 (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
文芸文庫

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金堀則夫『神出来』(2)

2009-06-23 00:08:27 | 詩集
金堀則夫『神出来』(2)(砂子屋書房、2009年07月05日発行)

 きのうの「日記」に書いた最後の部分。「地下下(じげげ)」の、

拂底(ぼって)の山から
拂底(ぼって)の谷から
山の高さと谷の深さを払う
その下ったところで
人は生き抜いてきた
古代の底
血が、肉が、骨が
眠っている

 と、

わたしのからだ
血も、肉も、骨も
地下とは繋がらない

 この矛盾は、あるいは「違い」と言った方がいいのかもしれていけれど、どこに原因(?)があるのか。
 「地下とは繋がらない」の「地下」は、前の引用の「古代の底」、つまり「古代の地層の下」と呼応すると同時に、別のものとも呼応している。
 同時「地下」は「地面の下」という意味だけではないのである。
 「地下は/地元というだけのこと」。一方、「地下下」は、「源氏一統の/屋敷跡として伝えられる/地下下に星田氏という武士がいた」。「地下」は地元、他方「地下下」は武士の屋敷のあと。「わたし」と「星田」の違いがある。

地下下に
屋敷跡はみられない
ただ車の行きかう道路に
わたしは突っ立っている
いつぶち当たるか
つぶされるか わからない
わたしのからだ
血も、肉も、骨も
地下とは繋がらない
掴む土さえ見つからず
お前は
ジゲの者か と 問われる
余所者を感じる
地下下と
関わることのできない
地下者になっている

 「わたし」は「古代」とつながることのできない人間に「なっている」。ここを出発点として、金堀は「古代」と繋がろうとする詩人になろうとする。それは単に「時間」として「古い時代」という意味ではない。「地下下」に「星田氏」がいたように、「古代の底」には、そこに暮らす複数の人間がいる。金堀は、そういう「人々」と繋がろうとする。
 「思想」とは基本的に「個人」(わたし)のものだが、金堀はそういう「思想」を目指していない。「わたし」の思想を目指していない。いうなれば「わたしたち」の思想を目指している。
 「地下下」で指摘した矛盾(対立)、「古代の底/血が、肉が、骨が/眠っている」と「わたしのからだ/血も、肉も、骨も/地下とは繋がらない」は、ある意味では当然のことなのだ。前者は「わたしたち」であり、後者は「わたし」である。「わたしたち」と「わたし」は同一ではない。「わたしたち」から離れてしまえば「わたし」は孤立した存在であり、孤立した存在としての人間は、抽象でしかない。何とも繋がりようがない。「わたし」は人との繋がりの中で「わたしたち」になる。そして、そのとき生きていく「場」が具体的な「土地」そのものとなる。
 これは、逆に見ていけば、「土地」を手がかりに、「わたしたち」でありえた何者かに出会えるということである。金堀が取り組んでいるのは、そういうことなのだ。「土地」に残されている「名前」、「名前」にこめられている「祈り」を探り当て、それをことばにする--そうすることで金堀は「わたし」から「わたしたち」に「なる」。そのとき、「土地」は、そして「土地の名前」は、「わたし」と「わたしたち」をつなぐ「契り」である。その「契り」を、ことばとして確立するとき、「契り」のなかにこめられた「祈り」が金堀のなかで生き生きと動き、「天」と「地」をつなぐ「詩人」が誕生するのだ。
 金堀は「天」と「地」のあいだで、「契り」として、「祈り」として--そういうものをつかみ取る詩人として、いま生まれ変わろうとことばを探し求めている。

 それは「わたし」として生きるということではなく、「土地」とともに生きている「わたしたち」として生まれ変わることでもある。



石の宴―金堀則夫詩集 (1979年)
金堀 則夫
交野詩話会

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誰も書かなかった西脇順三郎(7) 

2009-06-22 09:07:11 | 誰も書かなかった西脇順三郎



黄色い菫が咲く頃の昔、
海豚は天にも海にも頭をもたげ、
尖つた船に花が飾られ
ディオニソスは夢みつつ航海する
模様のある皿の中で顔を洗つて
宝石商人と一緒に地中海を渡つた
その少年の名は忘れられた。
麗(ウララカ)な忘却の朝。

 「黄色い菫が咲く頃の昔、」という1行目の「昔」の位置に意識がひっかかれる。こういう「ひっかき」は「喉・耳」の「音」ではなく、「頭脳」の「音」である。西脇には、こういう音楽もある。2行目の「天にも海にも頭をもたげ、」もすこしこれに似ている。海から頭を出すとき、それはたしかに「天に」頭をもたげることになる。けれど、「海に」はどういうこと? 潜水することを「頭をもたげる」とは言わない。言わないのだけれど、その前に「天に」とあるので、そのことばにひきずられて意識が「日本語」から逸脱する。
 西脇には、「日本語」から逸脱する音楽がある。--ということと、うまくむすびついてくれるのかどうかわからないが、タイトルの「皿」が出てくる5行目から。そこから「意味」ではなく「音」のおもしろさがはじまる。
 「もよう」「ほうせきしょうにん」「ちちゅうかい」「しょうねん」。「う」。これを西脇はどう発音するのだろうか。ひとは、どう発音するのだろうか。「う」とは発音せず、前の音をのばす。別の表記で書けば「ー」(音引き)である。そして、これは「ひらがな」よりも「カタカナ」がにつかわしい。「モヨー」「ホーセキショーニン」「チチューカイ」「ショーネン」。
 なんだか、外国語みたいだ。外国語みたいに、耳に新鮮だ。
 その外国語みたい--という印象が「麗な」に振られた「カタカナ」のルビのなかに結びつき、輝く。ひらがなで「うららか」ではなく、「カタカナ」で「ウララカ」と発音する。(もちろん、これは、意識において、という意味である。発音そのものはかわらない。)
 そうすると「忘却」も「ボーキャク」になる。

 西脇の頭の中には、日本語から「逸脱」した「カタカナ」の音が響いていたのだと思う。そして、それが、私にはとても美しく聞こえる。「日本語」の意識を振り払った、ただの「音」、「意味」を背負い込む前の「音」、音楽の手段としての「音」に聞こえる。
 (音楽家からは、「音」は「音楽」の「手段」ではない、という反論が聞こえてきそうだけれど。でも、とりえあず「手段」ということばをつかっておこう。)


ボードレールと私 (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
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金堀則夫『神出来』

2009-06-22 02:28:17 | 詩集
金堀則夫『神出来』(砂子屋書房、2009年07月05日発行)

 金堀則夫『神出来』は「星鉄」という魅力的な詩ではじまる。

浮いている
鉄の重みもなく
妙見岩は
浮いたまま 空にも昇れず
地にも沈めず 浮いている
空から 冷却して降った
石は 地を鎮め
天と地の契りで
村ができている

 「岩」が「浮いている」ということは物理的にはありえない。けれども「意識」においてはありえる。「天」にも「地」にも属していない--と考えるとき、それは「浮いている」。そして、そこに「浮く」ことが「天と地の契り」であるというとき、「天」にも「地」にも属さないと「意識」する人間の想像力と「契り」が重なり合う。「妙見岩」は「天」と「地」の「契り」の象徴である。象徴であるということは、その「契り」が人間の想像力によって構築されたものであることを意味する。

村ができている

 それは、そういう「神話」(想像力の産物)を生きる人が「ひとり」ではなく、複数であり、そこに「人間の生活」があるということだ。人間は同じ想像力をもった人間があつまり、「村」をつくるのだ。複数の人間の精神の象徴としての「物語」の構造が「神話」なのだから。

浮いている
浮いている石を
お前は どこから見ている
その位置を探ってみろ

 これは「契り」という「神話」を「神話」のままにしておくのではなく、「いま」「ここ」に引き寄せて、そこから自分を見つめなおしてみろ、ということだろう。神話を作り上げる視点--それに自分自身がどんなふうに関係しているのか、どんなふうにして関係していくことができるのか。

 「契り」ということばは「鐘鋳谷(かねいだん)」という詩にも出てくる。

北斗七星
柄杓(ひしゃく)の形は 人の恨みをおおぐまに
北極星は こぐまを象り
思い込みは解けないで
そのまま永遠に貼り付けられている
空の向こうに
どんな契りがあるかわからない

 「契り」は天と地の約束。そして、それを読みとるのは人間。
 「天」のなかには「地」があり、「地」のなかには「天」がある。「地」にあるものはすべて「天」から降ってきたものであり、「地」のおくに潜んでいる貴重な金属は、夜空の「星」そのものなのである。それは人を導く光である。その光なしには、何もできない。金属は、その金属のなかに不思議な「可能性」という「天空」を持っている。その「可能性」は「神話」のように、人間を鍛える。つまり、金属をあつかう人間を鍛える。金属を掘りあてることで、人間の可能性はひろがる。金属の使い道を考えることで人間の可能性はひろがる。そのひろがりは、宇宙=天につながる。
 金堀の想像力は「天」と「地」を「契り」を中心にして、同じ構造のなかに取り込んでしまう。現代なら、宇宙科学と素粒子の関係を、金堀は「天」と「地」、そして、地のなかの鉱物、金属との関係で見ていることになる。

 だが、これは、抽象的な感想(いま、私が書いているような感想)でなら、そして、その感想の延長線上でなら、わりと簡単に、ことばの運動として再現できるかもしれない。けれど、ものごと(?)はそんな簡単にはいかない。
 「契り」が予兆のように見えたとしても、実際は、それは「手触り」がない。

鐘鋳谷を
探れないまま
登る階段は
空とは繋がっていなかった

 現実は「天」と「地」のあいだに「契り」がない。「階段」がない。しかし、だからこそ、ひとは、金堀は「階段」を探すしかないのである。
 ないもの、ありえないものを探す--というのは矛盾だが、だからこそ、そのないものを探すということが金堀の思想になる。想像力によって、「天」と「地」の「契り」を復活させること、それを「ことば」で描き出すことが金堀の思想になる。
 土地に残る「地名」「姓」を手がかりに、かつて、ここに住んだ人々の「思想」を復元し、なまなましいいのちとしてもう一度呼び戻すことが、金堀の思想になる。
 たとえば、「登龍之瀧」。

死んじゃ いないぞ
ここじゃ あそこじゃ
じゃは 脱皮しながら
生きている
水源を涸らした
大きな胴体が
瀧からのぼる
空への道が
ここにある

 そこには蛇から龍への脱皮(飛躍)と天への道という夢がある。

 また、「地下下(じげげ)」では、夢と(神話と)現実が激しく拮抗し、「思想」に再考をせまる。矛盾の中でのたうちまわる金堀を正確に描いている。

拂底(ぼって)の山から
拂底(ぼって)の谷から
山の高さと谷の深さを払う
その下ったところで
人は生き抜いてきた
古代の底
血が、肉が、骨が
眠っている

 と、書く一方で、

わたしのからだ
血も、肉も、骨も
地下とは繋がらない

 という現実にぶつかる。そして、その矛盾の中で、ことばが格闘する。
 ここには「思想」として完成する前の「思想」、「思想の可能性」というものが「原石」のまま存在している。その「地層」はどこまでも深く、どこまでも広い。その深さと広さで、「宇宙」になるとき、それは「思想」として完成する。




ひ・ひの鉢かづき姫―女子少年院哀歌
金堀 則夫
彼方社

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誰も書かなかった西脇順三郎(6)

2009-06-21 09:22:26 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 



白い波が頭へとびかかつてくる七月に
南方の奇麗な町をすぎる。
静かな庭が旅人のために眠つてゐる。
薔薇に砂に水
薔薇に霞む心
石に刻まれた髪
石に刻まれた音
石に刻まれた眼は永遠に開く。

 最終行はとても有名だ。田村隆一は何度か詩に引用している。石像の描写なのだが、そして、そこに「眼」が出てくるのだけれど、私には、やはりこの作品も「音」の作品である。「音」の詩である。「耳」の詩である。

石に刻まれた音

 の「音」は前後の「髪」「眼」から類推すると「耳」の言い換えである。「耳」と書けば簡単なところを「音」と書かずにはいられないのも、西脇が「音」の詩人、「音楽」の詩人である証拠のように思える。
 「静かな」ということばで「庭」から「音」をいったん消し去ったあと、西脇は、ことばそのものの「音」を聞きはじめる。「薔薇」のくりかえし、「石」のくりかえし、「薔薇に」「石に刻まれた」のくりかえし。「に」のくりかえし。リズムにのって、ことばがだんだん加速していく。水(具体)→心(抽象)→髪(具体)→音(象徴なので、抽象)→眼(具体)とことばが動く。「音」が具体的なものではなく、「耳」の象徴という抽象を経たために、「眼」も「永遠に開く」という抽象をひっぱりだしてしまう。これは、繰り返しの音楽の呼び寄せた永遠である。

石に刻まれた音

 の「音」を「耳」ではなく、石像そのもの、その全体を作り上げるときの「のみの音」ととらえても、同じことがいえる。「音」という、そこにないものを経ることで、「眼は永遠に開く」という世界が誕生するのだ。

西脇順三郎コレクション〈第6巻〉随筆集
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会

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高橋順子『あさって歯医者さんに行こう』(2)

2009-06-21 00:09:33 | 詩集
高橋順子『あさって歯医者さんに行こう』(2)(デコ、2009年06月23日発行)

 高橋順子はとても耳のいい人である。きのう取り上げた「水平線」でも、「疲れて たるみたくなることがある」という海の声を聞きとっている。それはもちろん高橋の声なのだが、海がほんとうひとことも漏らさないのだとしたら、その声は存在しない。どこかに、「疲れて たるみたくなることがある」と呟く水平線がある。そのかすかな声を高橋は聞きとる。
 聞きとって、その瞬間から、高橋と海(水平線)が入れ代わる。そういう不思議で、なめらかな交代劇。そのやりとりのなかに、「世間」がひろがる。
 「東京のカラス」では、高橋は他人の声を聞き取り、カラスになったり、叔母さんになったりする。

マンションの五階から叔母さんは
カラスがハンガーを口にくわえて飛ぶところを見た
ところがカラスはそれを落としてしまった
知り合いに会ったとき
つい「アー」とあいさつしてしまった
二羽は電線の上に並んで
しまったね、という顔をした
草むらに落ちたハンガーを
でもカラスは広いに行かなかったそうだ
「草むらに隠れて見えなくなってしまったのね」
と叔母さんは言う
それも一理あるが
カラスは落としたものは拾わない主義か
あきらめが早いのか
消えたものは頭からも消えてしまうのか
どうもよく分からない
叔母さんの次の観察を待つ

 実際に高橋が聞いたのは、どの声とどの声? カッコのなかにくくられているのは1行だけれど、それだけ? その前後のことばも叔母さんから聞いた声である。「そうだ」ということばが伝聞をあらわしているけれど、それは、厳密にはおばさんに属していない声である。高橋が聞きとって、高橋のなかできちんとととのえられた声である。耳がいいとは、「音」をことばとしてととのえられるということだ。
 傑作は、カラスのことばである。

二羽は電線の上に並んで
しまったね、という顔をした

 カラスは「しまったね」と会話するだろうか。その前には

つい「アー」とあいさつしてしまった

 という行があるが、カラスは「アー」とか「カー」とか声を発するが「しまったね」とは言わない。「しまったね、という顔をした」というのは声ではなく、表情の問題である、かもしれないけれど、その表情から「しまったね」という声を聞きとるのは、やはり耳がいいのだ。「アー」という声を聞きとるのではなく、「しまったね」を聞きとってしまう耳というものがある。
 そういう「ことば」にならない声を「ことば」として聞きとる耳だからこそ、おばさんの「草むらに隠れて見えなくなってしまったのね」の1行につづく声も聞きとってしまう。
 だれの声?
 高橋の声? それだけではないだろう。高橋の同居人(たぶん、このカラスと叔母さんの話を詩に書くように、高橋は、誰かにこの話をしているだろう。その高橋の話を聞く機会のある人)の声? いりまじっている。区別できずに、あの声、この声が入り混じって、ことばとてし動いている。
 最後の、

叔母さんの次の観察を待つ

 も、高橋のことを書いているようであって、それ以上のことを書いている。高橋の話を聞いたひとは、みんな、叔母さんの次の報告(声)を待っている。それは、まだ発せられていない。でも、その声を、ことばにならないまま、高橋は聞きとっている。きっと話すはずだ。話してくれるはずだ、と。
 聞こえない声、ことばまできちんと、聞こえるよ、と書き留めてしまう。それくらい高橋の耳はいいのだ。

 「滝桜」も高橋の耳が書き留めたことばである。全行。

雪の重みで てっぺんの枝が一本折れてしまっても
変わらずに花をつけた桜を見た
けなげに咲いた桜を
わたしたちは遠くから見に来たが
今年の春を素通りした土地の人たちもいた
「あなたに見られたくない」
と言っている桜の声が 夢に聞こえたのだそうだ

 ほんとうに土地の人から聞いた話だろうか。直接、「どうしてみないんですか?」と質問して、その答えを得たのだろうか。たぶん、そうではない。高橋が想像したのである。想像したとき、聞こえた声なのだ。存在しない声が、そのとき「土地の人」のことばとして聞こえる。そこには桜の「声」もある。
 その声を聞きとるとき、高橋は高橋ではない。「土地の人」であり、「桜」である。入れ代わってしまっている。「土地の人」「桜」になっている。
 高橋のことばの特徴は、そうやって、だれにでも「なる」ことである。だれにでもなって、高橋自身を外から眺めることができることろにある。複数の他者と高橋がそのとき、ことばのなかで対話する。「世間」をつくる。高橋のことばのなかには「世間」がある。そこから、あたたかさ、やさしさが生まれている。

 高橋のような人間がそばにいると、誰でも、きっと落ち着くだろうなあ、落ち着いた気持ちになれるだろうなあ、と思う。



けったいな連れ合い
高橋 順子
PHP研究所

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アレクサンドル・ソクーロフ監督・脚本「チェチェンへ アレクサンドラの旅」(★★★★)

2009-06-20 22:19:56 | 映画
監督・脚本 アレクサンドル・ソクーロフ 出演 ガリーナ・ビシネフスカヤ、ワリシー・シェフツォフ

 不思議な映画である。老いた女性がロシア軍基地にいる孫を訪ねる。そういうことが可能なのかどうかわからないが、その女性が基地のなかを見て回る。軍のトラック(?)にも乗れば、宿舎の中も歩きまわる。孫は将校のはずだが、薄汚れた軍服である。まわりの軍人も、なんだかだらしがない。緊張感がないというと申し訳ないが、緊張感よりも疲労感が、とても濃い。
 色調もセピア色に染まり、映像そのものもくたびれている。
 一方、おばあさんの方は、とても堂々としている。
 基地へ向かう列車に乗り込むところから映画が始まるが、そのとき軍人に案内されて歩くのだが、そのときから案内されて当然という感じで歩いている。異常な世界へ踏み込むのだという感覚がない。
 基地へ着いてからが、さらに堂々としてくる。
戦場の近くを訪問しているのだが、日常と違った場所を訪問しているという緊張感がない。おびえがない。そこにあることを平然と眺める。軍のトラックに軍人と一緒に乗り込めもするし、銃の手入れも見る。
孫の将校に対し、軍人ではなく、孫、いや、若い男として向き合う。人生を経験してきた女性として向き合う。まるで年齢差を超えた恋愛のようでもある。ラスト近く、女性は恋愛について語り、誰の詩だろうか、朗読(暗唱)しながら眠り、夢の世界へ入っていく。
 その夢を、戦場へ出発する孫が破る。「出発する」と言いに来るのだが、そのときの苦悩と官能が、戦場ではなく「日常」なのである。「異常」であることが「日常」なのである。
 「異常」を追いつめてゆくと「日常」になり、「日常」を追いつめてゆくと「異常」になる。それは基地のゲートをくぐる「肉体」が、ゲートをくぐろうがくぐるまいが、おなじ一つの「肉体」であるのとつながっている。どこまでもどこまでも「肉体」の同一性が人間を追い掛けてくる。
 ふと、私は「太陽」を思い出した。天皇が階段をのぼりおりする。魚の研究と、爆撃の飛行機がつながり、それが天皇の「肉体」でつながっていた。
 ソクーロフの映画を私は「太陽」とこの映画しか見ていないが、人間の「肉体」、「肉体」の存在感を利用して、世界で起きていることの「さびしさ」を描いているのかもしれない。
 「さびしさ」と思わず書いてしまったが、この映画から感じるのは、疲労感と、疲労感がもっている「さびしさ」なのである。セピア色のさびしさ。透明なさびしさではなく、薄汚れたさびしさ・・・。
 そして、それを抱きしめる女性。支える女性。
 「太陽」の最後で、桃井かおりがイッセー尾形を、赤ん坊をあやすように抱きしめた。おなじ年代の男と女が赤ん坊と母に変わった。この映画では、年の離れた男と女が「恋人」に変わった。この変化を支えるのも、生きていることの「さびしさ」なのだと、突然気がついた。

 ★4個で感想を書き始めたが、★5個の映画かもしれない。もっと違った書き方をすべきだったのかもしれない。(私はいつも「結論」を考えずに書き始める。書きなおしはしない。考え続けるだけだ。だから、書き出しと、最後はしばしば矛盾する。)


太陽 [DVD]

クロックワークス

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誰も書かなかった西脇順三郎(5)

2009-06-20 09:16:58 | 誰も書かなかった西脇順三郎

太陽

カルモヂインの田舎は大理石の産地で
其処で私は夏をすごしたことがあつた。
ヒバリもいないし、蛇も出ない。
ただ青いスモモの藪から太陽が出て
またスモモの藪へ沈む。
少年は小川でデルフィンを捉へて笑つた。

 「カルモヂイン」という場所を私は知らない。けれど、この音が好きである。「ヂ」という濁音が印象的だ。そして、それが「田舎」というゆったりしたことばと触れ合うとき、記憶のなかで、耳が濁音をもとめる。あるいは、喉が濁音をもとめる。それにこかえるようにして、「大理石の産地で」という音。「ヂ」「だ」「で」。みんな「だ行」の音だ。
 私は詩を音読することはないし、朗読を聞く機会もめったにない。しかし、私は、この行を読むと音を感じるのだ。そして、うれしくなるのだ。「大理石の産地だ」という音に触れているとき、私は大理石など思い出しもしない。ただ音を感じている。
 「カルモヂイン」もわからない。「大理石」もわからない。私にとって、そこにあるのは「音」だけなのだが、(だからなのかもしれないけれど)、2行目で「其処で私は夏をすごしたことがあつた。」と言われると、すべてが間接的になって、あ、具体的なことは知らなくていいんだという気持ちになる。「其処」という指示、その「指示」だけが純粋に存在する。「其処」という指示で、1行目が抽象化され、抽象化してしまうと、そこにあるものが「音」だけで何の不都合があるだろうという気持ちになる。
 そういう音だけになってしまった頭の中で「スモモ」という音が響く。
 「スモモ」もきれいな音だが「青いスモモ」はもっときれいだ。--この感覚を、堂説明していいかわからないけれど、実は、私は、この詩では「青いスモモ」という音がとてつもなく好きなのだ。ほんとうは「青いスモモ」の音の美しさについてだけ書きたいのだけれど、なんと書いていいかわからない。
 たぶん、「カルモヂイン」という音の対極にあるのだ。そのことを書きたくて、私は、「カルモヂイン」という音から書きはじめたのだ。--でも、どう書いていいのか、実際のところわからない。

 最終行の「ドルフィン」も好きだ。音が好きだ。「カルモヂイン」が「スモモ」をへることによって「ドルフィン」という音に変わった--というようなことは、誰も言わないだろう。
 でも、私が、この詩に感じるのは、それなのだ。
 「カルモヂイン」「ドルフィン」。「だ行」があり、「ら行(る)」があり、脚韻の「イン」がある。「カルモヂイン」の「モ」は「スモモ」という音をくぐり抜けることで不要になってしまった(?)かのようだ。「スモモ」の「モ」のなかで使い尽くされ(?)、「ドルフィン」へ持ち運ばれなかったのだ。



西脇順三郎コレクション (1) 詩集1
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会

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高橋順子『あさって歯医者さんに行こう』

2009-06-20 07:13:47 | 詩集
高橋順子『あさって歯医者さんに行こう』(デコ、2009年06月23日発行)

 高橋順子『あさって歯医者さんに行こう』。短い詩が多い。「わたしの水平線」という作品に惹かれた。ふいに、海を見に行きたくなった。全行。

水平線は時々
疲れて たるみたくなることがある
そういうときには もやのカーテンをひいて
心ゆくまでたるめばいい
わたしの水平線も
ぴんと張っていたり 木と木の間の
ハンモックの紐みたいだったりする
たるんでいるときには
風船葛の青い実がいっぱい風に
揺れる夢をみている
きっぱり引かれているときには
わたしは夢をさがしている

 水平線が「疲れて たるみたくなることがある」というのはとても魅力的なことばだ。水平線がそんなことを思うはずがない。そんなふうに思うのは、水平線をみているひとだけである。もっといえば、水平線が好きなひと、海が好きなひとだけである。
 そのひとは、疲れて、ときどき海へやってくる。そして、ぼーっと海をみている。なぜ、水平線はいつもまっすぐなのだろう。だらんと、たるみたいとは思わないのだろうか。水平線がたるんでしまいたいと思ったら愉快だろうなあ。どうなるのかな?
 ありえない空想のなかでこころを遊ばせる。そして、ひとり二役(?)になって、対話をする。それはほんとうは、「わたし」ひとりの思いなのだが、「二役」という「あそび」を経るので、なんとなく「わたし」そのものも「あそび」の愉快さが気分を洗う。ことばは、「あそぶ」ことができるのだ。

そういうときには もやのカーテンをひいて
心ゆくまでたるめばいい

 これは、「あそび」だから言えること。いいなあ、「もや」に隠れて、たるむことができるなんて。
 そうなだよなあ。「たるむ」ときは、やっぱり隠れて(人知れず)、たるまないと、たるんだ価値がない。たるんでいる、と指摘されるとたまらないからね。

 「あそび」というのは、こころをのびやかにする。「たるんだこころ」は何をしているだろう。何ができるだろう。

風船葛の青い実がいっぱい風に
揺れている夢をみている

 「夢をみる」と書かれているけれど、「わたし」自身がフウセンカズラになって揺れているような気持ちになってしまう。きっと、最初の「水平線」と同じだ。ことばを経て、対象と「わたし」が入れ代わってしまうのだ。

 ことばは、息を吐きながら発する。そのとき、こころは「ことば」の中に入って、どこかへ飛んで行く。「肉体」のなかは空っぽ。「無心」。あ、ふいに、「無心」と「あそび」が結びつく。「あそび」は「無心」でするもの。「無心」の「あそび」が、こころを軽くする。ことばで遊べば、ことばのなかへ心は出て行ってしまい、体が軽くなる。そして、その体の軽さに似合ったものが体に入ってきて、フウセンカズラそのものになる。そして、揺れる。
 いいなあ。
 海を見に行きたいと私は最初思ったけれど、いまは、フウセンカズラになってゆらゆら揺れたいなあ、と思っている。(なんて、いい加減な感想だろう。)

 最後の2行もいいなあ。
 「あそぶ」だけ遊んだあとは、ちょっとまじめになって見る。遊んだあとの新鮮な気持ちで自分を見つめなおしてみる。
 そうすると。

きっぱり引かれているときには
わたしは夢をさがしている

 あ、なかなかカッコいいじゃないか。「私って、けっこうカッコいい人間なんだ」と思えてくる。こんなカッコいいことばが見つけられるんだから。

 え? そのことばを見つけたのは高橋順子であって、私(谷内)ではない。まあ、そうなんだけれど、いいんじゃない? 「あそび」なんだから。「ひとり二役」ごっこなんだから、その「あそび」のなかで、ことばをとりかえっこしてしまえばいい。
 ねえ、ねえ、高橋さん、高橋さんの役は「海」、私は「海」を慰める方。だめ? 
 というのは冗談、軽口だけれど、そういうことをいいたくなる。それくらい、気分が軽くなる。

 読書は無心の遊びなんだなあ、とふと、けれど、真剣に思う。

 この詩集のあとがきで、高橋は「無防備」な作品と読んでいる。無防備なので「恥ずかしい」とも書いている。でも、無防備だからこそ、読者はどこまでも接近して行ける。そして、ねえ、役をとっかえても、なんて我が儘もいえる。
 我が儘を言ってみたくなる詩--というのは傑作の条件だと思う。詩は書いた人のものではなく、読んだ人のもの--そういう「我が儘」をいいたくなる詩が傑作というものである。


あさって歯医者さんに行こう
高橋 順子
デコ

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誰も書かなかった西脇順三郎(4) 

2009-06-19 07:13:06 | 誰も書かなかった西脇順三郎




コク・テール作りはみすぼらしい銅銭振りで
あるがギリシヤの調合は黄金の音がする。
「灰色の菫」というバーへ行つてみたまへ。
バコスの血とニムフの新しい涙が混合されて
暗黒の不滅の生命が泡をふき
車輪のやうに大きなヒラメと共に薫る。

 西脇の耳は私にはモーツァルトの耳のように楽しい。濁音というのは濁るという文字をあてるくらいだから「清らか」なものではないのだろうけれど、西脇の濁音はどれも楽しい。とても豊かな感じがする。それも、「耳」と書いたけれど、実際は「のど」が感じる豊かさである。思わず声が出てしまう。
 濁音をはっするとき、他人はどうかわからないが、私は「のど」がひらく。ひらく印象がある。そして、声帯がゆっくり震える感じがする。そのときの快感が西脇のことばにはある。
 1行目、2行目の、「意味」の渡り、そのリズムと、音階(?)の変化も好きである。
 「銅銭振りであるが」とつづけて読んだとき(改行、行の渡りがないとき)、「で」は私の場合、弱音である。そして「で」と「あ」は連続して「1音」に近くなる。フランス語の「リエゾン」とは逆の、つまり間に子音がはいらなず、音が崩れていく感じ、一種の二重母音のような感じになる。「で」と「あ」は同じ音階か「あ」の方が半音下がる。
 ところが、「銅銭振りで/あるが」の場合は、「で」は文末でかなり強い音になる。「あ」はさらに強くなる。そして、「で」の音を音楽でいう「ド」だとすると、「あ」は「レ」のように音階が高くなる。(私は関西圏の高低アクセントなので、標準語、東京圏、その他の地方のアクセントとは「音階」が違うかもしれない。)
 この変化があるので「あるが」の「が」と「ギシリヤ」の「ギ」の濁音の連続、が行の鼻濁音と濁音の動き、連続と断絶も楽しくてしようがない。「調合」「黄金」の鼻濁音の連続の前の「ギリシヤ」の「ギ」の破裂する音の感じが美しいアクセントになる。
 そして、濁音をたっぷり楽しんだそのあと、「灰色の菫」というなめらかな音をはさみ、もう一度「バー」という濁音が出てくるタイミングも楽しくてしようがない。
 濁音にはさまれることで「灰色の菫」という音が、完璧に異質のものとして輝く。「清音」もいいものだなあ、とうっとりしてしまう。


アムバルワリア―旅人かへらず (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
講談社

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すみくらまりこ『夢紡ぐ女(ひと)』

2009-06-19 00:08:38 | 詩集
すみくらまりこ『夢紡ぐ女(ひと)』(2009年05月20日発行)

 すみくらまりこ『夢紡ぐ女(ひと)』はすべて5行で構成されている。一種の定型詩である。ことばで何かを切り開いてゆくというより、ことばをとりまとめて、いまある世界を描写するということになる。「つむぐ」ということばが象徴的だが、すみくらせ、ことばをつむいでいるのだ。その、とありつめることばが、私には、「美しすぎる」。美しすぎて、1篇読むと、全部読んだ気持ちになってしまう。どこまで読んでも美しいままなんだろうなあ、という不満が、読む前から予兆のようにひろがってしまう。
 1篇だけ感想を書く。「夜風」。ここでは、「定型」が「定型」のまま崩れている。そこが、私にはおもしろかった。

海の上は空、
静かに星騒ぎ
密かに魚遊ぶ。
そして、
雲生(な)さんと夜風。

 「そして」。5行という定型のために挿入された1行である。省略しても「意味」は同じである。この1行がない方が、ことばの緊密度は高まったかもしれない。海と空の対比。「上」ということばがあるので、暗黙の内に「下」を含む。意識の奥で、「下」ということばがかってに動く。そして、そこから「上下」という「矛盾」が動きはじめる。
 「静か」と「騒ぐ」。2行目の対比が美しいのは、1行目に、隠された対比があるからだ。
 そういう動きを受けて、「密か」が効果的にひびく。「密かに」は2行目の「静かに」と同じ意味というか、「静かに」を別のことばを重ねることで意味をふくらませたものだが、そのふくらみが「騒ぐ」と「遊ぶ」をも重ね合わせる。「星」と「魚」という語に引っぱられると、「騒ぐ」「遊ぶ」は違ったことばのように見えるけれど、たとえば、「子どもが騒ぐ」「子どもが遊ぶ」では、「騒ぐ」「遊ぶ」に似通ったものである。「草が(木の葉が)風に騒ぐ」「草が風に遊ぶ」と、ことばを動かしてみれば、その重なりあいがわかるだろう。
 「定型」が呼び込んだ、ことばの美しい動きである。
 そして、4行目に「そして、」である。--これは「呼吸」である。1行目から3行目まで、ことばの連絡の仕方が、他の作品に比べると緊密すぎる。緊密になりすぎた。そのために、一息つくことが必要になったのだ。一種の「ほころび」(詩集のタイトルに「つむぐ」ということばがあるから書いているわけではないのだけれど……)である。「ほころび」であるけれど、この部分が、この1行が、私は一番好きだ。
 無意味だ。無意味だけれど、それが無意味であるだけに、そこに「肉体」が現れてくる。というか、その無意味を通過することで、次の行が初めて生まれる。

雲を生さんと夜風。

 主語は「夜風」。それは「騒ぐ」なのか。それとも「遊ぶ」なのか。どちらの世界と重なろうとするのだろうか。--その予想を裏切るように「生む」(なす)へと動詞を破っていく。
 これは、おもしろい。とてもおもしろい。
 騒ぐ子ども。遊ぶ草。「騒ぐ」「遊ぶ」は何を生み出そうとしているのか。強引に言えば「こころ」(精神)だろう。まだ形になっていな「こころ・精神」--それが、ある形になるまでの猶予期間。そのときの動きが「騒ぐ」「遊ぶ」なのだ。そして、その「猶予」と「そして、」という「息継ぎ」(呼吸)が重なることで、そこらかエネルギーをえて、「生む」ということばが噴出してくる。「騒ぐ」「遊ぶ」が「生む」に飛躍する。

 そして、その動きを受けて、空、海という「上下」の「あいだ」に「雲」が誕生する。「あいだ」(間)が、雲によって動きはじめる。存在しなかったものが生み出され、動きはじめる。--ここにうごめいている「哲学」がおもしろい。

 この作品には漢詩の「対句」の嗜好(?)も反映しているようだけれど、それもとてもいい。漢文体というは日本語の大切な財産だが、最近はとても少なくなっている。漢文体に触れると、気持ちがひきしまる、精神を洗い流されるという印象を受けるのは、私だけだろうか。



夢紡ぐ女―すみくらまりこ詩集
すみくら まりこ
竹林館

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深川栄洋監督「60歳のラブレター」(★★)

2009-06-18 20:03:13 | 映画
監督 深川栄洋 出演 中村雅俊、原田美枝子、井上順、戸田恵子、イッセー尾形、綾戸智恵

 3組の男女の60歳の思い。3種類の愛のストーリーを追うのに忙しくて、映像にまでは気が回らなかったのだろうか。映画の醍醐味がない。「東芝日曜劇場」という感じの映画だ。
 最大の難点は、それぞれの愛の結末の描き方。言いたい内容はわかるし、劇場は涙、涙、涙という感じになるのだけれど、とても変。
 中村雅俊と原田美枝子の場合。中村が描く絵は油絵だろう。前夜にカーテン(?)に描くのだが、数時間で乾くのか? 富良野の大地にそのカーテンの絵を広げるけれど、乾いていない絵をどうやって運ぶ? クライマックスの絵に嘘があったのでは白ける。
 井上順と戸田恵子。井上の娘の書いた英文(父親の思い)を井上が読み上げ、戸田が訳す。1行読めば最後まで内容が分かる。これを最後まで読み続ける、訳し続ける戸田って、どんな感覚の持ち主? 想像力というものがないのかな? まあ、だから恋愛が成就しなかったんだろうな、というような突っ込みをいれるにはいいけれど。
 イッセー尾形と綾戸智恵。朝までギターを弾きながら「ミッシェル」を歌い続けられる病院ってどこにある? イッセーにとって綾戸がかけがえのない人であることは分かるが、他の病室にいるひとも、みんなそれぞれにかけがえのない人であることにかわりがあるはずがない。
 最後で映画が涙を誘うだけのストーリーになる。映画ではなくなる。
 原田美枝子の演技は私は好きなのだが、今回は紋切り型を紋切り型のまま、水彩画のようにさらっと演じていた。演技のしようがなかったんだろうなあ。





青春の殺人者 デラックス版 [DVD]

ジェネオン エンタテインメント

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誰も書かなかった西脇順三郎(3)

2009-06-18 07:20:23 | 誰も書かなかった西脇順三郎



南風は柔い女神をもたらした。
青銅をぬらした、噴水をぬらした、
ツバメの羽と黄金の毛をぬらした、
潮をぬらし、砂をぬらし、魚をぬらした。
静かに寺院と風呂場と劇場をぬらした、
この静かな女神の行列が
私の舌をぬらした。

 1行目の「もたらした」が2行目から「ぬらした」に変わる。この音の変化が不思議だ。頭の中で「女神をぬらした」に音が変わっていく。しかも、すぐに変わるのではなく、抵抗しながら変わっていく。その抵抗感の代償(?)として、青銅、噴水、ツバメ……とイメージが動いていく。濡れるはずのないもの、つまり最初からぬれている噴水や潮、魚、そして風呂場もぬれる--しかも、それは「ぬれる」ではなく「ぬらした」という過去形。過ぎ去っていく雨の動き。その過ぎ去るという動きの中で「もたらした」がどんどん遠くなり、「ぬらした」に変わっていく。
 それを強く印象づける「この」という「特定」する音、その響きが好きだ。「ぬらした」という音のなかにはない「お」「お」という母音の繰り返しが好きだ。
 また「なんぷう」というやわらかい音から出発して、「青銅」「ツバメ」「黄金」と濁音が散らばりひろがっていく過程が好きだ。そのあと、「潮をぬらし、砂をぬらし、魚をぬらした。」と濁音なしの行があり、一転して「静か」「寺院」「劇場」「行列」と濁音が増える。その変化が、私には、廃墟を駆け抜ける驟雨のように感じられる。光があふれ、光のなかを駆けていく驟雨。
 風景が、ことばをとおして「肉体」になり、「舌」をぬらす--舌は、音を味わいながら、たっぷり唾でぬれる。そして、そのとき声は輝く。



西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
岩波書店

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安英晶『虚数遊園地』(3)

2009-06-18 01:12:58 | 詩集
安英晶『虚数遊園地』(3)(思潮社、2009年05月31日発行)
              
 安英晶『虚数遊園地』は2部構成になっている。17日、18日にとりあげたのは「Ⅰ あそび場から」。ことばの響きがやわらかくて、その分「死のにおい」もやわらかくて、遠く誘われる感じがする。
 「Ⅱ 遊園地」は、1行のなかの複数の時間が、「Ⅰ」よりも意識的かもしれない。「Ⅰ」では無意識なやわらかさがあるけれど「Ⅱ」には意識化された正確さがある--というか、正確を狙って書いている部分があるように感じられる。1行のなかにおさわりきれない「時間」は行を分けて書かれる。
 その結果、1行のなかの複数の時間と、複数の行なかのひとつの時間(複数の行であることによって、複数の時間になるもの)の2種類が混在する。
 そして、詩が複雑化する。「複雑化」が公式化(?)され、つまり、手慣れてきて、「現代詩」化する--と、言い換えることができるかもしれない。
 「観覧車」という作品。

夜の観覧車の暗い箱では誰もがひっそりうつむいている
(そう/ひっそり/鏡面の奥を覗いてしまったかのように/ひっそり と
深夜の観覧車はきまって片側だけが満員で 満員であっても
どのゴンドラもまるで規則でもあるように乗り合わせているものはいなく
(その人たちは どこかもうひとつの場所で眠っているらしいのだが
(切れ味がよくない ねむりの
(ああ 今朝の 火を通しすぎたハムエッグ あれのせいだ

   また/きている の/ね

その朝 初潮をみた痩身の少女が
あおじろい顔で ぼーっと うつむいて
ときどき反対側の座席に座ったりして 落ち着かない

 「(そう/ひっそり/鏡面の奥を覗いてしまったかのように/ひっそり と」という行は、「/」によってむりやり、つまり意識的に「時間」を引き出そうとするが、うまくいかず、「現代詩用語(?)」の「鏡面の奥」ということばをへて、「ひっそり」が繰り返される。そこでは、「時間」を引き出そうとする「意識」だけがある。
 この「意識」が過剰になると、1行ではおさまりがきかず、複数の行になる。
 「(その人たちは」からの3行が象徴的である。丸カッコは開かれたまま、閉じられない。並列に置かれ、並列におくことで「時間」を、行に対して(行にとって)垂直ではなく、水平にひろげる。「時間」が「時間」のまま、「場」にかわるような印象がある。1行のなかで時間が噴出するのではなく、水平にずれながら、そのずれた位置で「時間」が立ち上がる。
 そういう操作をすることで、ことばが、不思議なことに孤独になる。水平にひろがることで、連帯が生まれるのではなく、逆に、行と行とのあいだに「間」ができる。広がりができる。その広がりが「1行」を孤独にする。
 すると、不思議なことがおきる。孤独な行、孤立した行のなかで、「時間」が噴出するのである。

   また/きている の/ね

 ほーっと、息をのむほど美しい。
 ああ、これだったんだな。「Ⅰ あそび場」の美しさは、孤独な行のなかから、その孤独をうめるようにして(あるいは突き破り、破壊するようにしてといえばいいのだろうか)、噴出する「時間」だったのだ。
 1行1行が孤独だったのだ。そこから美しさがはじまっていたのだ。

 「初潮をみた痩身の少女」というような70年代(60年代?)の「現代詩」のようなことばは私は好きではないが、「また/きている の/ね」の呼吸の美しさゆえに、そうか、やっぱり少女でないとだめなのか、とも思ってしまうのだ。「初潮をみた痩身の少女」でも、いいか、と思ってしまうのである。
 「初潮をみた痩身の少女」のようなことばが、どこかへ消えてしまうと、きっと「Ⅱ」も楽しく読むことができると思う。
 「コーヒーカップ」の、

ぽこっ ぽこっ ぽこぽこ ぽこっ

おやっ
あそこで死んだねえさんがひかっています
(ついとあっちのほうから
(透明な手足をのばして

という行がもっと美しく感じられのでは、と思ってしまう。

 「Ⅰ」の部分は★5個、「Ⅱ」の部分は★3個、という印象。★5個を最高と評価してのことだけれど。(映画の評価のときの基準でいえば、ということだけれど。)



虚数遊園地
安英 晶
思潮社

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ダーレン・アロノフスキー監督「レスラー」(★★★★)

2009-06-17 12:32:35 | 映画
監督 ダーレン・アロノフスキー 出演 ミッキー・ローク、マリサ・トメイ

 ミッキー・ロークがミッキー・ロークを演じている――という感じの映画。過去に人気を博したが、いまでは誰も見向きもしない。
 彼を支えているのは「過去」の栄光だけ。ステロイドを注射し、髪を金色に染め、肌を日焼けマシーンで焼き、外見だけ強そうなレスラー。もう体は動かない。動かない体を血で飾り上げる。血を流しながら、不屈の魂で相手に立ち向かう。そのために隠したカミソリを使い、自分で額を切る。相手を傷つける「武器」ではなく、自己演出のための「道具」。いうなれば、血が観客をひきつける「武器」。
 それは、いまのミッキー・ロークにとって、「醜く崩れた肉体」が観客をひきつける「武器」というのに似ている。他の人は知らないが、私はミッキー・ロークがどんなに醜く崩れた肉体をしているかにまず関心があり、この映画を見に行った。それは確かに「武器」であった。尻をさらけだして、自分でステロイドを注射するシーンまで見せている。醜いウソ。そして、ウソしか人に伝えるのもがないのである。ウソによって、いっそう醜くなる肉体が強烈である。
 対照的なのがマリサ・メイトの肉体である。ミッキー・ロークの片思い(?)のストリッパー。年をとっていて、若い女性の美しさにはかなわない。醜い。醜いのだけれど、そこにはウソがない。ダンスもうまいというよりはヘタなのだが、そこにはウソがない。娘を抱え、懸命に生きている。その姿はミッキー・ロークとおなじようにみじめである。でも、ウソがない。(彼女の演技はなかなかすばらしく、彼女の演技があってはじめてミッキー・ロークの肉体が真実になる。)
 ミッキー・ロークはマリサ・トメイから、ウソをやめて、ほんとうを生きるよう助言されるが、うまくいかない。わかれて生きている娘から家族であることを拒絶される。彼にとって「ほんとう」は結局、プロレスファンの歓声だけである。だから心臓のバイパス手術を受け、医師からプロレスをやめるよう言われているのに、死を覚悟して最後の試合に出場する。相手がミッキー・ロークを心配して、率先して「負け」を演出しようとするが、それを拒んで、「決め技」を披露しようとする。
 ウソ(プロレスって、ウソだからね)しか生きられない――その姿が、おちぶれたミッキー・ロークに重なる。たしかプロボクサーに転身した時代もあったようだけれど、結局、ミッキー・ロークは役者しかすることがない。肉体をさらけだして、ウソという芝居を生きるしかない。
 泣かせます。最後の最後に泣ける映画です。


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