ガラスの杯
白い菫の光り。
光りは半島をめぐり
我が指輪の世界は暗没する。
私は、この書き出しに笑いだしてしまう。このときの「笑い」は私特有のものなのか、それとも誰かと共有できるものなのか、それがわからない。また、その笑いが私の無知によるものなのかどうかも、よくわからない。私は、西脇のことばに笑いださずにいられないけれど、それは笑いだした私が自分の無知をさらけだしているだけなのか、それがよくわからない。
3行目の「暗没」。これ、何? 何と読むの? 私は「あんぼつ」と読む。暗く沈んでいく、というようなことをイメージする。でも、「あんぼつ」でいいのだろうか。私のつかっているワープロソフトでは「あんぼつ」は漢字変換されない。私のつかっている広辞苑にも漢語林にも「暗没」は載っていない。
知らないことばが、音としてそこにあり、そしてその「音」は聞いただけではわからない。つまり、もしこの詩が朗読されたとき(そして、その詩をあらかじめ読んでいなかったとき)、「わがゆびわのせかいはアンボツする」と読む声を聞いたとき、私は「意味」を理解することができない。
ところが。
この詩を読んだとき、「暗没」という文字を眼で読んだとき、その「音」は軽々とどこかへ飛んで行き、「意味」はすーっと理解できる。(理解したつもりになる、というだけのことかもしれないが。)
このときの、「音」の「軽々」とした印象が、私の「笑い」の原因である。音が軽い。音が意味を持っていない。音は単に耳を刺戟し、口蓋や、舌や、喉の感覚を、脳のなかで刺戟する。かろやかに肉体感覚をくすぐる。私の笑いは、そのくすぐりに対する生理的な反応である。体のあちこちをくすぐられると笑いださずにはいられないが、西脇のことばの音楽のくすぐりに、私はやっぱり笑いだしてしまうのだ。
しかし、これは「暗没」ということばがきちんと(?)存在する場合には、私の無知ゆえの「笑い」になる。
これに似た「笑い」が、この詩にはもう一度出てくる。
昼(ひる)が海へ出て
夜が陸へはひる時
「出る」「入る」。これは誰もが知っていることばである。しかし、「昼」や「夜」ということばが、その動詞の「主語」になることはない。少なくとも、私は、そういうことばのつかいかたを知らない。
私は私の知らないことばのつかいかたに出会ったとき、驚き、そして笑ってしまう。
脳が、やはりくすぐられた感じがするのである。
脳をひっくりかえす衝撃ではなく、くすぐるおかしさ。そういうものが、西脇のことばにはある。この「くすぐり効果」(?)も私には「音楽」として響く。
「暗没」も「出る」「入る」も、「意味」はわかる。「意味」はわかるけれど、そんなつかいかたをしない--ということが、楽しい。
この詩には、別の不思議さもある。「皿」の「麗(ウララカ)な忘却の朝」に似たおかしさである。
昼(ひる)が海へ出て
夜が陸へはひる時
「昼」に「ひる」というルビはいるの? 昼を読めない人が西脇の詩を読む? なぜ、西脇は「ひる」とルビをふったのだろう。もしかすると「昼」を「ちゅう」と発音する意識があるからではないのか。
ルビに反抗するように、「ちゅうがうみへでて」と読んでみる。「ちゅう」を「チュー」と読んでみる。「チューがうみへでて」。とってもおかしい。
最後の1行にも同じおかしさがある。
五月の閉(とざ)された朝。
なぜ、「閉」にルビ? もしかしたら「へいされたあさ」? いやいや、「ヘーされたあさ」? きっとそうなのだ。「チューが海へ出て」「五月のヘーされた朝」と西脇は意識の奥で読んでいる。だから、いかん、いかん、こんな日本語の読み方はない、と思って「ひる」「とざ(す)」というルビを打つのだ。
でも、そうすると「五月」は何と読む? 「ごがつ」? それとも「さつき」? そして「朝」は?
おかしい。西脇の詩は、どこまで読んでいけばいいのかわからない。おかしすぎる。
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