詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(2)

2009-06-17 09:51:04 | 誰も書かなかった西脇順三郎

カプリの牧人

春の朝でも
我がシシリヤのパイプは秋の音がする。
幾千年の思ひをたどり

 ここには「音」ということばがはっきりつかわれている。西脇順三郎は「音」の詩人、音楽の詩人だと私は思う。
 「春」と「秋」の出会いに、はっとするが、そしてはっとしたとこで忘れてしまいそうだが、「パイプの音」って、何?
 パイプは音を聞くためのものではない。たばこを吸うためのもの。私はたばこを吸わない(吸ったことがない)のではっきりしたことは書けないが、たばこは香りを愉しむためのものだろう。嗅覚のためのものだろう。
 それなのに、西脇は「秋の音」と書いている。耳でパイプを愉しんでいる。

 人間の感覚は、肉体の中でいりまじる。融合する。そして、そのとき何が出てくる。「秋の色」(視覚)、「秋の手触り」(触覚)、「秋の味」(味覚)ではなく、「秋の音」(聴覚)。意識的か、無意識か、わからない。けれど、ここに「音」が出てきたことが、私にはとても楽しい。



Ambarvalia (愛蔵版詩集シリーズ)
西脇 順三郎
日本図書センター

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安英晶『虚数遊園地』(2)

2009-06-17 00:48:33 | 詩集
安英晶『虚数遊園地』(2)(思潮社、2009年05月31日発行)

 1行の中に、複数の「時間」がかかえこまれ、それが噴出してくる。あらゆる存在が複数の「時間」を生きている。そして、「複数の時間」を生きるということは、そこには当然「死」も含まれることになる。

「紅梅」の1、2連目。

あれ、
いち枚 ゆめのまえにひろげ(なにを?

生きるとか 死ぬとか うすいゆめ
いち枚 和紙のようなもののふくらみに 包んで
ことばなんて やくたいないものを
ころがしている

 「生きるとか 死ぬとか うすいゆめ」。生と死は「とか」というあいまいなことばで同列に並んでいる。そして、それは「ゆめ」のように区別がないのだ。
 それは書き出しからはじまっている。
 書き出しの「あれ、」のなかに、すでに「複数の時間」がある。「あれ、」というのは驚きの声である。驚きというのは、ある存在に、別の存在を感じたとき生まれる。書き出しから、「いま」「ここ」にあるものとは違う存在を感じて安英は書きはじめる。そして、次の行。

いち枚 ゆめのまえにひろげ(なにを?

 括弧は、開かれたまま、つづいていく。この開かれたままというのは、そこに「別の時間」が噴出してきて、それが同時に存在していることを示している。
 むりやり(?)この詩に「意味」を持たせようとすれば、誰かが紙をひろげ死を書いている(文を書いている)とでもいえそうなのだが、それは単なることばを動かしていくときに利用している「構造(ストーリー)」のようなものであって、詩は、そういう構造を突き破って動いていくものの中にある。
 1行のことばは、その1行の中にある複数の時間によって破られつづける。
 3連目。

あとすこしで
川にたどりつくはずなんですが
でも/だから(川はもう光ってみえています
川がひかり森がひかり
昼だというのに 月まで光ってきそうな気配

 「でも/だから(川はもう光ってみえています」という行が象徴的である。「でも」と「だから」はどちらでもいいのだ。というよりも、両方であるのだ。「でも」と「だから」が両立するとき、他の存在も両立しはじめる。「川」と「森」は別個の存在であり、これが「両立」するのはあたりまえのように見えるかもしれないが、その「両立」を意識するかどうかは別問題である。「両立」という意識で読まないと、ここでは大切なこと--つまり、1行に複数の時間があるということを見逃してしまう。安英の思想が1行のなかに複数の時間を把握すること、を見逃してしまう。
 複数の時間の「両立」が端的に現れているのが、「昼だというのに 月まで光ってきそうな気配」である。「昼」と「月が光る夜」。それが「両立」する時間が、ここにあるのだ。

 1行に複数の時間が存在する。--そう意識して目をこらすと、次の連から、何が見えるだろうか。

あれ、
ひそと 紅い梅の花 ほころぶよ
そんな 他愛もないこと
あが咲いて
ふが笑って
ほら かき分けてくる
(なにを?

 意識の不連続と連続の不思議さ--意識に連続と不連続があるから、そこには複数の時間が入り込む「間」があるのだ。
 「ひそと 紅い梅の花 ほころぶ」という行と「あが咲いて/ふが笑って」という行のいちばんの不思議さは、前者に「助詞」がないことである。「ひそと 紅い梅の花がほころぶよ」と助詞「が」があっていいはずなのに、助詞が欠落する。そのかわり、その「助詞」は「あが咲いて/ふが笑って」という意味不明の行ではしっかり存在する。
 「あ」も「ふ」もなんだかわからないものである。そういうわけのわからないもの、あいまいな「時間」をしっかり呼び込むためには「が」という「助詞」がつかわれ、具体的な梅の花のほころびには、「が」が省略されている。
 この「が」をつかったり、つかわなかったりする意識の動きのなかに、複数の時間があるのだ。
 ここから、「死」を現実に呼び込むまでは、もう、時間を必要としない。

か、そうか
枝先にあかいもの
ぽっちり咲いて 咲いたようで
どうやら むこう側から 匂ってくる

さて あそこに居すわっているのは人情の残像で
あれ、
ゆめのまえにいち枚 ひろげ
きょうはきれいな梅見の日



幻境
安英 晶
思潮社

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誰も書かなかった西脇順三郎(1)

2009-06-16 12:07:24 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 「誰も書かなかった」というのは嘘である。はったりである。私は詩を読むのは好きだが、詩の批評を読むのは好きではない。あまり読まない。自分勝手に読んで、その感想書いているだけである。だから西脇順三郎ほどの詩人の場合、きっとどんなことを書いてもすでに誰かが書いてしまっているに違いない。何を書いても誰かの書いたことと重複するだろう。そうしたことをていねいに調べ、誰それはこの行についてこれこれのことを言っている、私もそう思う、いや私はそうは思わないと書いてみても、うるさいだけの感想になると思う。だから、誰のどんな感想・批評も引用しない。書かれた背景も無視する。ただ、私が読んだときに感じるままのことを、感じるままに書いていこうと思う。
 テキストは筑摩書房「定本 西脇順三郎全集」(1993年12月10日第1巻発行のもの)。引用にあたっては、「正字」「踊り文字」はとらなかった。表記の方法があるのかもしれないが、私はネット上でのその表記方法を知らないので。

天気

(覆された宝石)のやうな朝
何人か戸口にて誰かとささやく
それは髪の生誕の日。

 1行目の「(覆された宝石)のやうな朝」の音が私はとても好きである。私は宝石など見たことがないので、「覆された宝石」というものをイメージできない。一度も目に浮かんだことがない。「くつがえされたほうせき」の音を分析して、何が出てくのかわからないが、「が」の濁音がこの行では私には(私の耳には)とても美しく聞こえる。新鮮にきこえる。宝石--たぶん、きらきらと透明なもの。それを裏切るような濁音。そのまわりの「う・う・あ・え・あ・え・あ」という母音の動き。喉の動きも、不思議な快感がある。
 「やうな朝」の「やうな」という旧かなづかいと、それを裏切るような口語の「音」の違いも、その前の「あ」の揺らぎを感じさせて、とても惹かれる。
 その新鮮な音楽とは向き合う2行目の「ささやく」。この弱音のイメージによって、1行目の音楽が不思議に変化する。
 賑やかな音なのに、耳をすますと、とてもシンプルな、静かな音に変わっていくような、そういう変化を感じる。1行目の「音楽」が2行目の「ささやく」によって、それこそ覆されたような印象になる。

 そこが、私は、この詩では一番気に入っている。

詩集 (定本 西脇順三郎全集)
西脇 順三郎
筑摩書房

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安英晶『虚数遊園地』(思潮社、2009年05月31日発行)

2009-06-16 00:38:11 | 詩集
 安英晶『虚数遊園地』は、ことばが不思議な開かれ方をしている。「誕生」。その全行。

今さっき
そこの家で
ここのえのはなが
咲きました

八重よりひとえ多い
九重の
深紅いろのはなです

うすい貝の詰めが十枚
ひかりと
あそんでいます

とりが啄んだのか
花の柄が
そっくりそのまま
ここのえのはなびらのかたちで
おちてきました

はなの
あおあかるい陰で
だれかが
真新しいお墓を拭きはじめます

 1行で書けることを数行に分けて書いている。その行わけに特に変わったところがあるわけではないが、行分けにした瞬間から、ことばが「ゆったり」する。ことばの「間合い」がゆったりとして、その「間合い」に引き込まれていく。
 1行1行に「意味」(?)があるのではなく、「間合い」に意味がある。
 現代のように早口が勝ち(?)という風潮の中で、こんなふうにゆったりとことばが展開すると、そのリズムに誘い込まれながらも、これは何かとんでもないことを企んでいるじゃないかな、という不安がよぎる。
 そして、実際、最後の最後に「企み」が出てくる。
 「誕生」というタイトルなのに、「墓」が出てくる。「いのち」の「誕生」のなかには「死の匂い」がすると言ってしまえばそれまでだが、あくまでゆっくりと語る。語られる「死」さえも、いま、ここにあるというのではなく、遠くにあるという印象で語る。
 そして、「遠い・近い」は関係ないのだ。
 「ゆっくり」進めば遠くなる、というものでもない。「ゆっくり」進んだ方が、その「ゆっくり」を裏切って、向こうがこっちへやってつくるということもあるかもしれない。「近く」にあるから、「ゆっくり」進むだけなのかもしれない。

あおあかるい陰

 このことばが絶妙である。「あおい陰」「あかるい陰」ではなく、「あおあかるい陰」。「あおあかるい」ということばを私はつかわないし、聞いたのも初めてだが、すぐにその色がわかる。これは、それまでのことばが「ゆっくり」進んできているからである。ゆっくり進んできているから、「あおあかるい」ということばを聞いたとき、それを「あお」と「あかるい」が入り混じったものとして、自然に感じることができる。
 そして、その瞬間に知るのだ。
 安英のことばがこんなにゆっくり進むのは、それはもしかしたら、1行1行の短いことばの中に、何かがまじっているからではないのか、と。
 書き出しの、

今さっき

 それは、たとえば数秒前、あるいは数分前のこと? 
 そうではなくて、もっともっと前のことなのではないのか。 100年、 200年前のことなのではないのか。 100年前、 200年前を「今さっき」とは言わないけれど、ある瞬間に「 100年前」「 200年前」を思い出すことがある。そして、その「 100年前」「 200年前」はことばで書くと明確に離れているけれど、感覚としては、すぐ「そば」ということがある。たとえば、「今さっき」、江戸時代のことを思い出した瞬間に、(あるいは平安時代の物語を思い出した瞬間に)、そこの家で花が咲きました--ということはありうるのだ。
 そしてそうならば、「そこの家」自体も、現実の家であると同時に、遠い過去につながる家でもあるのだ。江戸時代の家、平安時代の家の「歴史」をかかえこんで、そこにある家、つまり「時間」を内包している家でもあるのだ。
 そうなると花(桜? 梅?)もまた、はるかな時間を含んでいることになる。
 「時間」を含むということは、たとえば花なら、そこには季節の繰り返しがあり、当然のことながら「生」と「死」が入り混じっている。繰り返されている。
 安英は、その入り混じった「時間」をゆっくり語ることで、押し広げ、開いているのだ。ゆっくりゆっくり開いていくと、開花(誕生)の向こうに、繰り返された「死」が見えてくる。
 花がこんなに美しいのは、その「時間」のなかに「死」をかかえこんでいるから。「死」を体験している「生」だけが美しい。それは生きている人間に「死」をかすかに覗かせてくれるからだ。

 知らないものが「見える」というのは、究極の美の体験である。



よる・あ・つめ
安英 晶
思潮社

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金井雄二「鳥籠」

2009-06-15 11:44:07 | 詩(雑誌・同人誌)
金井雄二「鳥籠」(「独合点」99、2009年06月07日発行)

 納屋。格子戸。そのなかには「おじいちゃん」がいて「小鳥」を飼っている。その格子戸を開く。「ザラザラザラと音がする。」
 金井雄二「鳥籠」は、この「ザラザラザラ」という音にこだわっている。心地よい音ではない。その心地よくないことが、逆に、金井を引きつけるようである。心地よくないことが、その向こう側にある。その心地よくないことというのは、ほんとうに心地よくないのかどうか、心地よくないとしたら何が理由で心地よくないのか、それを知りたい。

ぼくは格子戸をザラザラザラとひく。見てはいけないものを見るときのように、格子戸が引かれるのだ。見てしまったら、もう取りかえしがつかないようなものがある気がしてならない。空気が違う。声が違う。人間の声がしない。だが、騒々しい。あれは小鳥の声だ。

 「空気が違う。声が違う。人間の声がしない。」の短いたたみかけがいい。「声」がすることを「ぼく」は期待していたのか。「おじいちゃん」と「鳥」しかいない納屋。そこで、どんな声がすると「ぼく」は期待していたのだろう。「ぼく」にもよくわからないと思う。期待していたか、期待していなかったか、わからないまま「空気」に触れる。「空気」が「世界」が違うとつげる。その瞬間、聞いた音を「声」と勘違いしてしまう。
 「ザラザラザラ」という繰り返される音が、「耳」を変質させているのだ。「ザラザラザラ」を聞きすぎて、音のすべてがいつもと違っている。そのために、「ぼく」は無意識に声を求める。そして、「声」ではないものを「声」として聞き取り、同時に、その「声」は「違う」とも感じる。一瞬の錯乱。感覚の混乱。そこから、感覚は覚醒していくが、どうしたって、そのときとらえられる世界は違ったものになる。「耳」が違ってしまえば「目」も違ってしまうのだ。

空気が違う。声が違う。人間の声がしない。だが、騒々しい。あれは小鳥の声だ。ザラザラザラと音がして、別の世界が現れる。鳥籠。おびただしい数の鳥籠。鉄製の鳥籠ではなくて、竹ひごのような細い木枠が、縦と横に格子状に取り付けられてい、木製の鳥籠。土間に鳥籠がある。板の上に鳥籠がある。座敷にも鳥籠がある。鳥籠の上にも鳥籠がある。鳥籠の横にも鳥籠がある。鳥籠の斜め上にも鳥籠がある。納屋の中は鳥籠でいっぱいで、箱の中に箱がある寄木細工のように、納屋の中は鳥籠で埋め尽くされているのだ。

 ほんとうに鳥籠しかないのか。あるいは「別の世界」に踏み込んでしまったために、鳥籠しか見えなくなってしまったのか。区別がつかなくなる。そうすると、また変化が起きる。

おびただしい鳥籠の中には小鳥がいて、ぼくが格子戸を開けると、いっせいに動きだし、叫び、羽をバタつかせ、納屋の中をひとつの楽器にした。

 視力が耳に影響を跳ね返す。見ていたものが音に変わる。そのとき、それはもう「鳥の声」ではない。「声」は「叫び」にかわり、そこに羽の音も交じり、「楽器」の内部になる。「納屋の中」が「ひとつの楽器」なら、「ぼく」は「楽器」の内部にいて、その音楽を聴くことになる。つまり、それは、鳥の音楽ではなく、「ぼく」の音楽なのだ。
 ここから、もう一度、感覚が変化する。

鳥籠の中には、どことなく、すでに人間味を帯びた小鳥たちの白い無数の目玉があって、ぼくを見つめていた。

 「声」→「人間の声ではない」→「鳥の声」→(鳥の声ではない)→「楽器」というのは「耳」の感じる変化だが、「鳥の声」が「楽器」に変わったとき、目がとらえる世界も「鳥」とは違ったものになる。「人間味を帯びた」ものかわる。
 このあと、「ぼく」は「おじいちゃん」を探す。そして、ザラザラザラと格子戸を開けて、「おじいちゃん」を見つけ出すのだが、それは、もうほんとうの「おじいちゃん」ではありえない。--金井は、そんなオチを書いていなけれど、感覚の変化、世界の変化をへたあとでは、どうしたって、いつもの「おじいちゃん」ではありえないだろう。
 そういうことが、自然に伝わってくる文体である。



今、ぼくが死んだら
金井 雄二
思潮社

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マックG監督「ターミネーター4」(★★)

2009-06-15 06:51:12 | 映画
監督 マックG 出演 クリスチャン・ベイル、サム・ワシントン、アントン・イェルチン、ヘレナ・ボトム・カーター

 「ターミネーター」といえばジョン・コナー。2018年。ジョン・コナーが実際に生きている時代。となれば、ジョン・コナーが主役のはず。ところが、この映画はその鉄則を踏み外している。クリスチャン・ベイルが演じるジョン・コナーが活躍しないのである。わきに徹している。
 いや、もともとジョン・コナーは「狂言回し」。主役は「ターミネーター」だから、これはこれでいいのだ、とも言えるのだが……。
 かわって主役は、新種の「ターミネーター」。どんなターミネーターが登場するか。(初代のターミネーター、シュワルツネッガーまでスクリーンに登場するという噂が流れていたので、興味津々で映画館へ行った。)
 でもねえ。
 これが、はじまった途端にわかってしまう。サム・ワシントンが演じるのだけれど、なぜ、すぐに彼が新型ターミネーターだとわかるかといえば、彼を改造する(?)準備を進めるのがヘレナ・ボトム・カーターだからである。もっと無名の、見たこともない女優が狂言回しならいいけれど、有名すぎる。そして、彼女は死期がせまっている「がん」という設定なので、あとは登場しない--というのも、見え透いている。きっと、最後に、登場する。そして、実際に、重要な役で登場する。
 脚本が見え透いている。キャストも見え透いている。キャスティングが大失敗の映画である。
 せめて新型ターミネーターを見るからに善良なサム・ワシントンではなく、クリスチャン・ベイルが演じれば、少しは違ってきたかもしれない。クリスチャン・ベイルは子役時代から集中力のあるおもしろい役者だが、ちょっと常軌を逸しているような雰囲気がある。「悪役」の方があっている。そういう敵か味方かわからない雰囲気がないと、新型ターミネーターは演じられない。観客が、これはほんとう? それとも罠? とわけがわからなくならないと、この映画はおもしろくないのだ。
 だいたい、え、いま、なんていった? 人間関係がどうなっている? そんなことってありえる? という疑問をぶっとばして映像が暴走するのがターミネーターの魅力であるはずなのに、きっとサム・ワシントンが善良な(寝返った?)ターミネータをやるんだな、とわかってしまうと、見ていて楽しみがない。
 また、怖いシーンもまったくない。
 1回目の「ターミネーター」に敬意をはらっているつもりなのだろう。溶鉱炉(?)の溶けた鉄鉱石を浴びても、そのなかからターミネーターが立ち上がってくるシーンもあるのだが、怖くない。見慣れてしまっている。
 1回目には、タンクローリーの爆発でバラバラになりながら、ターミネーターが腕だけになってなおも追いかけてくるという傑作シーンがあった。私は、そこで大笑いしてしまった。「怖い」をとおりこして、え、こんなことまでやるの? とびっくりして笑いだしてしまった。楽しくなったのだ。
 最後に「核」をつかった爆破があるのだが、その核に対する認識の甘さも「エンド・オブ・ザ・デイズ」や「悪魔と天使」なみのノーテンキさで、あきれてしまう。
 映像全体も、カラーを灰青のトーンで統一して「意味」を持たせようとしているけれど、もうすっかり古びた手法である。



ターミネーター [DVD]

20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン

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『田村隆一全詩集』を読む(116 )

2009-06-15 00:35:10 | 田村隆一
 田村はウィスキーの詩をたくさん書いている。そうした作品のひとつ「一滴の光」。

琥珀色の液体が氷をゆっくりとかして行く
ただ それを●(みつ)めているだけで
沈黙がグラスのまわりに集ってくる
十年まえの
二十年まえの
三十年まえの
沈黙が形象化されてきて

沈黙は そこに在るものではない
創り出すものだ
                  (谷内注・「みつめる」は目ヘンに登)

 特に田村の特徴というものがでているわけではないけれど、この「沈黙は そこに在るものではない/創り出すものだ」という表現はとても気持ちがいい。
 沈黙にかぎらず、あらゆるものは「創り出すもの」なのどと思う。
 ウィスキーが樽の中で熟成する。十年、二十年、三十年……。そこから生まれる香と味が「沈黙」をグラスのまわりに集まってくるというとき、ウィスキーが沈黙を集めてくるわけではない。沈黙も自然にやってくるわけではない。田村のことばが沈黙というものをグラスのまわりに創り出すのである。
 そして、そのとき田村は、沈黙に「なる」のである。

 「夜明けの旅人」の「人」という部分の2連目の3行。

ぼくの指はピアノをひけないのにピアニストになる
ぼくの目は絵も描けないくせに画家になる
ぼくの腕は巨木の小枝さえも折れないのに彫刻家になる

 繰り返される「なる」。
 「なる」ために、ことばが動いていく。それが詩である。

 --ということを「結論」として書くために、田村隆一を読んできたわけではないのだが、全集を読んで最後に思ったのが、そういうことである。たまたま最後に読んだ部分にそういう詩があったから、そういう感想になったのだと思う。単行詩集未収録詩篇であるから、なんらかの理由で田村が除外した作品である。そういう作品を最後に取り上げて、何かいうのも変な感じである。
 もしかすると、この全集は後ろから前へもどる感じで読んだ方がいいのかもしれない。

 私はいつでも「結論」を目指して書いているわけではない。逆に、結論を書いてしまって、それから、その結論をどれだけつづけて言うことができるか、ということのために書いている。
 田村の詩から感じていることは、「矛盾」の美しさである。私は田村の「矛盾」が好きで、田村の詩を読みつづけた。そのことを最後に書いておく。


(このシリーズ、おわり)


田村隆一全詩集
田村 隆一
思潮社

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井坂洋子「四人部屋」

2009-06-14 14:53:45 | 詩(雑誌・同人誌)
井坂洋子「四人部屋」(「独合点」99、2009年06月07日発行)

 井坂洋子「四人部屋」は、どこかの施設を思わせる場が舞台である。「わたし」はその施設でボランティアをしているかしもしれない。「わたし」が相手をするのは「四人部屋」にいる老女4人。そのうちの「ひとりの老女」は「わたし」を拒んでいる。「わたし」にはそう感じられる。
 そのあとの描写。

昼になるとテーブルを囲んでランチをとる 無心でいるため常にふいを襲
われるトマト ピーマンはこちらにへたを向けて身を固くしている 次の
皿はとうなす 表面は冷淡だが内は甘い 絶対の優越の感情にゆるんでい
る ゆで卵は四つ 皺の寄ったたるんだ腕がひとつずつとる

 「トマト」「ピーマン」「とうなす」はほんうとに野菜? それとも4人のうちの3人の姿? どちらともとれる。「無心でいるため常にふいを襲われるトマト」という文章が「トマト」は「トマトではない」といっているように感じられる。
 だが、それが「野菜ではない」と仮定して、そこに描かれた3人は、ほんとうに四人部屋の人々? それとも、その人々から見た「わたし」、見られている「わたし」?
 わからない。
 なんだか、「わたし」と「四人」が入り混じってしまっている。拒絶している「ひとりの老女」さえも、そういう比喩(?)というのだろうか、人間を「野菜」に見せてしまう視線の中にまぎれこんでいる。
 ほんとうは老女は3人で、「わたし」を含めて4人?
 ほら、「ゆで卵は四つ」。もし老女が4人いるのなら「わたし」の分のゆで卵はないことになる。それなのに、

さいごはあなたの分よ。

と詩はつづいていくのである。

さいごはあなたの分よ。
とささやいてくれる声 親しみと憎しみの間を渡って日月がとろけだす
なぜ彼女だけはわたしをはねつけるのか いったん思い込まれたらわたし
は盗人にもなる 嘘ツキにも酒乱にもなる 誤解だが白状して身を投げだ
してしまいたい

 「日月がとろけだす」(月日がとろけだす?)。何かひととひととの「境界」が消えてしまうような感じ。「親しみと憎しみ」の間で、「境界」が消えるのだ。そして、その結果ひととひとだけではなく、ひとと野菜の境界も消えてしまう。
 そこでは「盗人」も「嘘ツキ」も「酒乱」も「誤解」も関係ない。
 すべては「同じ」である。それは「固有の形」ではなく、ことばの運動としての「盗人」「嘘ツキ」「酒乱」「トマト」「ピーマン」「とうなす」「ゆで卵」である。それは、意識が動いて、ことばを誘って、たまたま、その瞬間、そういう形をとっているにすぎない。
 老いると、その融合と分離はますます複雑になるかもしれない。「老いるとはそう簡単なものではないと誰かがいつも耳にささやく」ということばにつづいて、最後の1行。

耳はよき音を求め 両目はうつくしき いろを求めてやまない

 「盗人」「嘘ツキ」「酒乱」「トマト」「ピーマン」「とうなす」「ゆで卵」が「よき音」「うつくしき いろ」であるかどうかはわからない。けれど、そういうものを求める欲望が呼び起こした存在にはちがいないと思う。そして、それが「よき音」「うつくしき いろ」でないとすれば、そのとき、なおのこと、「よき音」「うつくしき いろ」を求めるこころがめざめる。そして、ことばは動く。つまり、はてしなく、運動はつづく。そしてますます、「境界」がなくなる。「存在」の「境界」というよりも、それは「ことば」の「境界」そのものを犯してくるようだ。

 これは不気味で、同時に、とてもおもしろい。



続・井坂洋子詩集 (現代詩文庫)
井坂 洋子
思潮社

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『田村隆一全詩集』を読む(115 )

2009-06-14 00:50:15 | 田村隆一

 「単行詩集未収録詩篇Ⅲ 後期1983~1998」。そのなかの「裸婦」。男と女の違いを描いている。--というだけでは、おもしろくない。書き出しが、実は、私はとても好きだ。

肉体に
密生している
あらゆる種類の毛が
彼女の国境だ

 この「あらゆる種類の毛が」という行は、しかし、「あらゆる種類」ではなく「限定された」毛を想像させる。「あらゆる種類」ということばは、想像がどこまでおよんでも大丈夫と誘う一種の「逆説」である。何を想像しても大丈夫、と励まされて、読者は、たったひとつの「毛」、「恥毛」を想像する。こういう逆説が私は大好きだ。
 読者を(私を、と言わないといけないだろうか?)、そんなふうに誘っておいて、田村は書きつなぐ。2連目は、形としては行変え詩だが、ことばは「散文的」(論理的)である。句読点もついている。
 詩、というよりも、あとで書き直すための「メモ」という感じでもある。そして、「メモ」であるがゆえに、「思想」が剥き出しになっている。

 裸婦の後姿とその影は、
冑(よろい)をつけた男にそっくりだ。
では、男はなぜ冑で鎧(よろ)うのか。
 異民族に対抗するためには、まず論理。
論理が通用しないときには、
暴力で対抗するしかないからだ。
論理か、暴力。これしかないのである。だから男は冑で裸のカラダを覆うのだ。
 闘うとき、女性は、一枚ずつ脱いでいく。
 思わせぶりに脱いでいって、ついに裸になる。裸はもっとも強い武器だからで、暗がりが、夜の空が女性を守るのだ。

 男は戦うとき冑を身につける。冑は裸を守るためのものである。裸は「本当の自分」の比喩かもしれない。女は戦うとき(戦う必要に迫られたとき)、裸になる。身を守るものをすべて捨て去る。裸を「本当の自分」の比喩だとすると、本当の自分をさらけだすことになる。
 この、無防備な、さらけだされた「裸」を田村は「武器」と呼んでいる。「無防備」と「武器」というのは、矛盾する概念である。
 矛盾しているから、そこにはほんとうの思想がある。矛盾でしか言えない思想がある。矛盾がぶつかりあって、解体するとき、何かがおのずと生まれてくる。
 裸--その無防備を、田村は、次のように言い直している。

 暗黒の内臓、無限の宇宙がつまっている女性の皮袋。短刀もピストルも大砲も爆弾も核も、裸婦にはかなわない。

 「無防備」。その無防備とは、身につけているものを捨て去って、みずから選んだ無防備である。「武器」としての「無防備」である。
 「裸」というより、「武器」と「無防備」のあいだで、その矛盾が解体したところに、「無限の宇宙」があるのだ。そして、そこでは、あらゆるものが誕生しうるのだ。あらゆるものを産み出しうるから「無限」の「宇宙」なのである。短刀よりも強い無防備、ピストルよりも強い無防備、爆弾よりも強い無防備、核よりも強い無防備--それは、どのようにして可能か。
 そこからあらゆるものが誕生すると私は書いたが、実は、そのあらゆるものの誕生は、あらゆるものを「飲み込む」ということでもある。「無防備」と「武器」が矛盾した概念の中で互いをたたきこわし、いままでなかったものになるのだから、そこでの「誕生」もまた一般的な「誕生」とは逆の概念でなくてはならない。「誕生」とは「飲み込む」こと、吸収すること、つつみこんでしまうこと。
 矛盾でしか言えないものがある。そして、その矛盾こそが、真実なのだ。

 裸婦ほど恐しい、それでいて、やさしいものはない。

 「恐しい」と「やさしい」。その矛盾したものが「ひとつ」の形の中にある。「裸婦」という形の中にある。矛盾しているから、それは「真実」なのだ。



ノラの再婚 (1979年) (現代作家ファンタジー〈2〉)
田村 隆一,若尾 真一郎
ティビーエス・ブリタニカ

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秋山基夫「倉田比羽子のほうへ」、郡宏暢「雨」

2009-06-13 09:29:51 | 詩(雑誌・同人誌)
秋山基夫「倉田比羽子のほうへ」、郡宏暢「雨」(「ペーパー」5、2009年06月01日発行)

 秋山基夫「倉田比羽子のほうへ」は、次のようにはじまる。

 前号のこの欄に、カフカのある言葉に関連してごく短い文章を書いたが、少しだけ補足したい。そのカフカの言葉は、倉田比羽子の詩集『世界の優しい無関心』(思潮社二〇〇五年刊)の<世界の無関心>の中に、「君と世界との戦いでは、世界に支援せよ」の訳で引用されていた。これは『カフカ全集Ⅳ』(新潮社昭和三十四年刊)所収の「田舎の婚礼準備」に付されたアフォリズムの五二(二十三ページ)には、「君と世の中との戦いには、世の中の方に味方せよ」の訳で出ている。加藤典洋の評論に倉田の使った訳と同じものをそのまま題名にしたものがあり、さらにそれは評論集(筑摩書房一九八八年刊)の題名にもなっている。倉田と加藤が誰の訳を用いたのかは知らない。二人の関心の道筋は違っている。

 このあと、秋山の文章は、「加藤の評論は」(第2段落)、「加藤の文章が書かれて」(第3段落)、「マスカルチャーということばは」(第4段落)とつづいていく。倉田が登場してこない。
 そして、なかほどをすぎてから、ようやく倉田の名前が再登場する。しかし、

 ようやく倉田のカフカの引用につてい、いくらかのことを書くことができるまできた。といっても、その前に、カミュの「異邦人」について書かねばならない。

 いくらたっても「倉田」のことが書かれない。びっくりしてしまう。秋山はあくまで「倉田のほうへ」向かおうとしてことばを動かしているのであって、倉田について書いているわけではない。倉田の作品を意識するとき、秋山の頭の中にひろがった世界を書いているのである。「倉田について」ではなく「倉田のほうへ」というのは、ある意味で、とても「正確」なタイトルなのだ。
 なぜ、こんなことを書くかというと、秋山にとっては「正確」ということがとても大切なのだ。「正確」が秋山の「思想」なのである。「正確」であろうとして、道筋をていねいにてねいねいにたどる。読んだ本の出版社、刊行年、引用のページ数もきちんと報告している。ショートカットなどしない。そのために、どんどん対象から遠ざかってゆく。ある意味ではカフカ的だし、ベケット的だとも言える。「正確」にこだわり、「目的」にたどりつかない(たどりつけない、ではない)というのが、カフカ、ベケットだと仮定しての話だが……。
 ただし、秋山は、カフカでもないし、ベケットでもないので、最後に、唐突に倉田にたどりついてしまう。突然、ショートカットがおこなわれる。

 倉田の詩集については、その文体について、注意すべきだと書いたことがある。詩の文体は形式を媒介する、ということは「詩論ノート(1)」で書いたが、倉田の文体は、仮に名づければ「論理的散文」という形式を選択している。注意深く粘り強く論理的思考をつづけ、つまり論理的に考えることをつづけ、それがひとつの区切りに至るまでをひとつのセンテンスとし、それを一行とする。(略)一般に現在書かれている詩の一行は倉田の一行の何分の一かだから、こういう行分けの詩は、常識に従えば異様だ。独創とは、こういうのを言う。

 あ、びっくり。
 「倉田の詩の一行は長い。独創である。」要約すれば、それだけになることを書くために、長い長い「過程」があったとは。秋山に言わせれば、それは「要約」できない。「要約」からはみだしていくものが「思想」なのだから、ということになるのだと思うが(私も、その考え方には賛成するけれども)、そうであるなら、最後まで「結論」を「要約」すべきではないだろう。「結論」は「倉田」ではなく、別のものとして出してこなければ、せっかく、カフカ、加藤、カミュ、ほかにも吉本隆明、大塚英志を歩き回ってきたことが、台無しになってしまう。
 どこかで、何かが、ふっと途切れてしまう。それがなんだか残念である。
 びっくりして、がっかりしてしまう。
 倉田の詩集についての「要約が最後に書かれていなかったら、私は、なんだ、この文章は、と怒りだしたかもしれない。けれど、そんなふうに私を(あるいは誰かを)怒らせてしまうことがあるとするなら、それはほんとうに文章になっている(文学になっている)のだと思う。「がっかり」の中には、文学はない。
 文学に「感動」は必要ではない。ことばに触れて、いままで動かなかったことばが動きはじめる。その運動さえあればいい。
 秋山さん、もっと真剣に怒らせてください。



 郡宏暢「雨」は文体が簡潔である。秋山とは違って、すべての行が「ショートカット」で成り立っている。その火花が、意識化されていなかった「世界」のどこかを照らしだす。

私たちはいつも
郊外を走るバスのようにどこかにつながってしまう会話
を恐れていた
雨が降っていた
会話ではなく--あなたの呼気を飲み込み あるいは
互いの境界線を一体形成したキューピー人形が陳列された街に
私たちは出かけてゆく

 「あなたの呼気を飲み込み」の「飲み込み」がとてもいい。「肉体」感覚がいい。



オカルト
秋山 基夫
思潮社

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『田村隆一全詩集』を読む(114 )

2009-06-13 02:14:45 | 田村隆一
 

 「合唱」。タイトルは「合唱」なのだが、書いてあることは「眼」についてである。

眼は泥の中にある
眼は壁の中にある
眼は石の中にある
眼は死んだ経験の中にある しかし
われわれの中にはない!

 この「眼」とは何か。「肉眼」か「眼」。その区別もつかない。2連目を読むと、さらにわからなくなる。

その眼は沙漠なのかでしか生きてこなかつた
その眼は時間よりも空間だけした瞶めてこなかつた
その眼は近代生活の倦怠と現代の内乱のうちに閉ざされて
深夜都会の窓とドアとベッドのかげで
月光と死と破滅の意味でみたされる眼

 「眼」は何をみつめるべきなのか。何を目撃しなければならないのか。「その眼は時間よりも空間だけした瞶めてこなかつた」を中心に考えれば、「眼」は「空間」よりも「時間」をみつめてこなければならない。けれど、それはみつめてこなかった。
 そして、それは「近代生活の倦怠と現代の内乱のうちに閉ざされて」いる。1連目と関連づけると、「泥」「壁」「石」が「近代生活の倦怠と現代の内乱」になる。「中にある」と「閉ざされている」は同じ意味になるだろう。同じ意味を言い換えたものだろう。
 それは求められている「眼」なのか。
 求められている「眼」のようには考えられない。
 しかし、その「眼」について、田村は「われわれの中にはない!」と書いている。その「眼」が求められているものではない「眼」、否定的な「眼」であるなら、「われわれの中にない」と言う必要はない。「われわれの中にある眼」とはいったいどんな「眼」なのか。何をみつめているのか。
 3連目。

それは その瞳は思いきり開かれて驚愕と戦慄と反問にみちみちている
それは俺の父の眼である
それは血と硝煙と叫喚のなかで存在の形式と
  有機的壊滅を目撃した男の眼である
それは或る不幸な青春が彼の属している国家の
  崩壊を見なければならなかつた眼である
それは彼の全経験の詩を確認した眼である
それは「私」の眼であつてしかも「我々」の眼である

 括弧でくくられた「私」と「我々」。ここに田村が言いたい何かがある。それは「俺の父」につながっている。「俺の父」と「私」と「我々」。それは「われわれ」とは無関係なものである。「我々」と「われわれ」は別なのだ。
 そうなのだ。田村は、「俺の父」につながる眼を拒絶しているのだ。「われわれの中にはない!」それは「われわれ」へとつながったこようとする。「われわれ」の誰かも、そういうものを求めるかもしれない。けれども、田村は、それを拒絶する。そういう人間を「我々」と括弧でくくることで明確にし、その眼を排除しようとする。

眼は火と医師と骨の中にある
眼は死んだ経験の中にある しかし
われわれの中にはない!

 これは、「戦後」からの「独立宣言」というべきものかもしれない。「俺の父」に代表される男たちの「眼」がみつめてきた何か。それはそれで貴重なものかもしれない。けれど、田村は、それを引き継ぐのではなく、田村自身の「肉眼」で世界と向き合おう、向き合いたいと宣言している。「俺の父の眼」ではなく、それとは断絶した「肉眼」で世界をみつめたい、そういう「われわれ」を目指しているのだ。
 「戦後からの独立宣言」はまた「肉眼宣言」でもある。

 タイトルが「合唱」となっているのは、その思想を田村個人のもではなく、「われわれ」の声にしたい、という思いがあるからかもしれない。



詩人からの伝言
田村隆一/長薗安浩
メディアファクトリー

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池井昌樹+石井敬「ひらがなの調べ奏でる/心の最深部をつなぎたい」

2009-06-12 07:40:31 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹+石井敬「ひらがなの調べ奏でる/心の最深部をつなぎたい」(「東京新聞」2009年06月06日夕刊)

 東京新聞の石井敬が池井昌樹にインタビューした記事。そこに一か所、不思議なことばを読んだ。

 池井さんは「この年になって『死への自覚』が私の中で芽生えたことが、これまでの詩集と違う」と語る。

 『眠れる旅人』について語ったことばである。不思議なことば--というのは「死への自覚」ということばである。
 私は、10年ほど前(『晴夜』のころ)から、池井はもう死んでしまうのではないかと、ずーっと恐れている。ことばがどんどん透明になり、現実とつながるのではなく、この世ではない血とつながる。この世ではない血とつながることで永遠になるという感じがしたからである。
 私にとって、池井は特別な存在である。私が詩を書きはじめたときから、池井は詩人として存在していた。池井がいなかったら、私は詩を書いていないと思う。
 私がはじめて池井の詩を読んだのは中学生のときである。「雨の日の黄色い畳」だったか、なんだったか、よくは覚えていないが、雨の日の古い畳の部屋を描いていた。それは、とても古くさい感じがした。その古くささは、畳の古くささではなく、古い畳の向こう側の世界と通じていた。遠い遠い「過去」とつながっていた。当時は「昭和」であるけれど、「昭和」ではなく、「明治」とつながっている。そういう印象があった。
 この「いま」ではない時代とつながっているというのは、とても気持ちが悪い。そして、怖い。私は「怖い」というかわりに、いつもいつも、「池井の詩は気持ち悪い」と言い続けていた。
 それが『晴夜』で、印象がかわった。
 「古い時代」とつながっているのではなく、この世ではない「遠い血」とつながっている感じがしたのである。「遠いいのち」とつながっている気がしたのである。(そういうことを、私は『晴夜』の感想で書いたように思う。)そして、それは、私には、池井がこの世を去っていくときの「あいさつ」のように感じられた。
 私には、そのことがとても怖かった。
 だから、池井と話す機会があると必ず「まだ死んでいないのか」「まだ死なないのか」と、わざと口にした。「死」を現実よりも先にことばにすれば、「死」の方が「現実」に「死」があると勘違いして、私と池井の間に入ってこないような気がしたのである。

 池井は、いま、死への自覚が芽生えたと書いている。もしそうだとすると、詩人というのは、自覚よりもはるか昔から、知らないことを書いてしまう人間のことなのだろうと思う。


 

眠れる旅人
池井 昌樹
思潮社

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『田村隆一全詩集』を読む(113 )

2009-06-12 00:50:54 | 田村隆一
 詩は論理ではない。だから、厳密に「意味」を追いかけても仕方のないところがある。詩人自身、ことばが引き寄せるものを「意味」を特定せずに「肉体」で引き受けている。そこには「意味」のようなものはあっても、厳密な「意味」はない。「意味」を超えるイメージの特権がある。
 「黒」。その後半。

速めろ! テンポを
屋上で風に吹かれながら男が叫んでゐる 全世界にむかつて
男の指令が階上を駈けまはる 部屋から部屋へ ドアからドアへ そして
あわただしく街から街へと……
おまへの指が僕の背中のドアをひらく!
どうか本当のことを言つてくれ 僕の階段は何処へ果てようとしてゐるのだ
重なつてくる おまへの唇が僕の唇に ああ この不眠都市!

 「重なる」。「唇」が「重なる」。それは、「ことば」が重なるということだ。「ことば」が重なれば、そのときから「僕」と「おまへ」(男)は区別がなくなるが、「重なった」から区別がなくなったというよりも、最初から区別などない。屋上で叫んでいる男は最初から「僕」だったのだ。「僕」からでていった「男」が、「唇」が「重なる」ことで「僕」に帰ってきたのだ。
 「僕」を出入りする「男」(おまへ)というイメージが鮮烈にある。そして、それは「意味」ではない。「意味」にならない何かであり、そこでは、ことばがただ動き回っているだけなのである。何か、「意味」を超えるもの、つまり「意味以前」、これから新しい「意味」になろうとするものをつかみ取ろうとしている。その運動である。そのエネルギーこそが、ここに「ある」と言えるものなのだ。
 詩のつづき。

……だが眼はひらかれて だが耳をそばだてて 男の息は絶えてしまつてゐた
手も足もこの男の言ふことをきくときは もうあるまい
ひらかれた男の眼底に いまとなつてどのやうな面影がたづねてくるか
そばだてた男の耳に誰が囁くか 高価な言葉を
ふたたび夜がきた
僕らは一層不機嫌になつてしまふ
無言でドアから出て行かうよ 僕たちは……
しかし どうにも言葉が僕らからはみだして困るのだ
もとのところへ還らうとしない出発してしまつた言葉!

 「男」が死んでしまっても「僕」は「僕ら」(僕たち)のままである。
 そして、前の連で重なった唇--ことばは、最後に「主語」になっていく。ことばは自律運動をする。
 「どうにも言葉が僕らからはみだして困るのだ/もとのところへ還らうとしない出発してしまつた言葉!」は田村自身なのだ。もう、田村は田村へもどれない。「男」は死んだ。その死んだ男がかつての田村である。いま、田村は、その死を見届けて、田村からはみだしてゆく。自分自身を「殺し」ながら、はみだしていく。出発点の「僕」は死んでしまっているのだから、もちろん「もと」へは「還る」ことはできない。
 そんな運動をするのが「詩人」だ。




若い荒地 (1968年)
田村 隆一
思潮社

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時里二郎「夏庭」

2009-06-11 09:32:57 | 詩(雑誌・同人誌)
時里二郎「夏庭」(「ロッジア」5、2009年05月31日発行)

 時里二郎「夏庭」の最後の文章がとてもおもしろい。時里の「思想」が凝縮している。

 わたしの話したように、庭師は写しとっていないかもしれない。しかし、仮に、庭師がわたしの語った内容とはまるきり違ったことを口述筆記として記したとしても、わたしは庭師の書き得たことばの方に、より近いわたしがいると思っている。

 「わたしの口述」の正確な転写ではなく、それが「まるきり違った」内容だとしても、「庭師」の「ことば(筆記)」をとおして再現されたものの方が、「わたし」に近い。他人のことばをくぐり抜けたものの方が、「わたし」の本質をつかんでいる。
 このことは、ことばは他者をくぐることで正しいもの(正確なもの)になる、ということを物語っている。時里はそう信じているからこそ、ことばをさまざまなものをくぐらせて展開する。たとえば、この「夏庭」という作品は「植物図鑑」をくぐりぬける。「庭師」をくぐりぬける。「夏庭」というプログラムをくぐり抜ける。「ヒト標本」という意識をくぐりぬける。そうすることで、複雑に構造化されながら、純粋化をめざしている。「純粋」というのは「本質」のことでもある。いくつもの「構造」をくぐり抜け、いっそう「構造化」される。そのとき「構造」は複雑になるのだが、その反動(?)のようにして、「複雑な構造」をくぐりぬける「純粋」さをもった「ことば」残る。いくつもの「構造」をくぐりながら、新しい「構造」を作り上げるのは、実は、「ことば」をより「純粋」にするための運動なのである。「純粋」すぎて、透明になり、何も見えなくなる。「ことば」がその領域に達するまで、時里は「ことば」を動かしつづける。
 「純粋さ」が「わたし」なのである。
 だから、「ことば」が何を語っているかは問題ではない。「内容」が「まるきり違った」としてもまったく問題はない。

 というような、「内容」は、実は、どうでもいい。「思想」とは「内容」ではなからだ。

 時里の「思想」は、繰り返される「わたし」と「庭師」の、その「繰り返し」のなかにある。
 「夏庭」の最後のたったと3行のなかに、「わたし」と「庭師」は何回でてくるだろうか。なぜ、時里は何回も「わたし」と「庭師」を繰り返すのか。繰り返されるとき、最初の「わたし」と次の「わたし」は同一だろうか。最初の「庭師」と次の「庭師」は同一だろうか。少しずつ違っている。
 「わたし」だけについて書いてみる。
 「わたし」を語る「わたし」。語られた「わたし」。その「語られたわたし」を筆記したことばのなかの「わたし」。語る「わたし」から、筆記されたことばのなのか「わたし」までの間に、「わたし」は少しずつ変化する。「ことば」は「わたし」の全体ではなく一分だから、どうしても「ずれ」が含まれる。あるいは何かが省略されて欠落する。「わたし」は「わたし」ではなくなる。
 けれど「わたしではなくなる」ということを含めて、つまり「なくなったわたし」を含めて、そこには「わたし」の痕跡が「ある」。
 この「ある」を時里は「いる」と言う。「より近いわたしがいると思っている。」という文章のなかの「わたしがいる」の「いる」。
 「ある」から「いる」への変化。それが時里の「思想」なのだ。

 別な角度から言い直してみよう。
 最後の3行は、実は、微妙な文法の逸脱を含んでいる。「ことばの方に、より近いわたしがいる」という表現は、論理的には奇妙である。「わたし」は「いま・ここ」に「いる」。ふつう、「いる」はそういうふうにしてつかう。「ことば」のなかに「わたし」が「いる」というのはレトリックである。「わたし」は「ことば」のなかになど「いない」。そういうことろに人間は存在し得ない。「ことば」のなかに存在するのは「肉体」ではなく、「わたし」の「意識」の「動き」である。時里の最後の文章をあえて論理的に書き直せば、

庭師がわたしのの語った内容とはまるきり違ったことを口述筆記したとしても、そのことばのなかのわたしの方が、わたしにより近い存在で「ある」と、わたしは思っている。「いま・ここ」に「いる」わたしよりも、ことばのなかの「わたし」の方が、より正確で「ある」と思っている。

 時里にとって、正確で「ある」ことが、「いる」ことなのである。

 最後の3行の、ふたつの文をつなぐ、「しかし、仮に」。
 この接続しと仮説を導くことばこそ、時里の「思想」の核かもしれない。先行することばをそのまま肯定するのではなく、「しかし」とつなぐ。常に「逆」の方向へ動く。「逆」ではないにしろ、いままでとは違った方向へ動く。そして、その動きを「仮に」とありありえないことばで励ましながら動かす。そうすると、そこに、いままでとは違ったものが出現する。違ったものがあらわれる。「ある」が生じる。その「ある」をことばをつみかさねることで「正確」にする。そして、その運動には限界がない。どんなことにでも、「しかし、仮に」ということばをつづけることができるからである。「しかし、仮に」は、増殖していくだけの運動なのである。
 そして、その運動の中で、--ことばを吐き出しつづけることで、ことばがどんどん「純粋」になる。どんな複雑な動きであっても、なんのとどこおりもなく動いていける「純粋」なもの、「透明」なものになる。そんなふうに、ことばは鍛えられていく。そして、ことばが完璧に「純粋」「透明」なものになったとき、そこに「ある」ものは同時に「純粋」「透明」になり、消えてしまう。あらゆるものが、ことばの「純粋」さ、「透明」さのなかに消えてしまう。そして、「わたしがいる」ということだけが残される。
 「わたし」の「考え」はこれこれで「ある」、ということが意味をなくしてしまう。ことばで語られた「考え」は「考え」としてどれも「同質」である。優劣もなく、同じ「純粋」を競っているだけである。
 「わたし」は「いる」という現象しか残らなくなる。
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『田村隆一全詩集』を読む(112 )

2009-06-11 00:27:11 | 田村隆一
 「目撃者」は複雑な詩である。

かたかたと鳴つていたつけ 石が
固い表情を崩さずに待つていたつけ 僕が
石の中で不意に動くおまえの眼
かつて僕のものであつた正確な眼が いまでは逆に僕を狙う

 ここに登場する「おまえ」と「僕」の関係が複雑なのである。「おまえの眼」は「かつて僕のものであつた正確な眼」である。「おまえ」と「僕」はどこかでつながっている。重なっている。そのことが、この詩を複雑にしている。
 「僕」と「おまえ」がつながっていること、重なっていることは、次の行でもはっきりする。

僕が倒れる そこでおまえが僕の背中を抜けていくという仕組なのだ

 「おまえ」は「僕」のなかにあって、「僕」が倒れたとき「僕」から「抜けていく」、つまり出て行く。「おまえ」は「僕」にとっての「真実」なのである。だからこそ、

どうかおまえが考えるように僕にすべてが感じられるように

 という行も生まれる。
 この詩を複雑にするのは、さらに、別の「男」が登場してくるからである。それは「僕は何かを書いているのかも知れない 不眠の白紙をひろげて」というときに、あらわれる。書いているとき、あらわれる。もうひとりの「僕」ということになるかもしれない。
 そして、その「もうひとり」の「僕」である「男」は、さらに別の人間を引き寄せる。

どれもこれも見飽きた眺めだね その男は窓を閉めながらぼそぼそ呟きはじめる
あいつにしたつてそうだ 男は同じ調子でつづける
あいつとは一体誰のことだ 僕は思わず反問する
狙われているのです あいつは しかし或いは…… 男は僕に背中をむけたまま口ごもる
何のことだ 君は何を言おうとしているんだ 訳もなく僕は苛立ちはじめる
私には言えない 何も語れない 瞶めることです あなたの眼で!

 「あいつ」「君」「私」(引用のあと「わたし」も登場する)の関係は? そして、それと「僕」と「おまえ」の関係は?
 複雑にしたまま、もう一度、それが複雑になる。

窓の外で僕は立ち止まる
窓の内側のあの二人の男たちは何を話しあっているのだ
ここでは彼らの言葉が聞こえない

 「僕」は部屋の中で「何かを書いていた」のではないのか。いつの間にか、「僕」が入れ代わっている。そんなふうに、簡単に入れ代わるのなら、それまでの「ぼく」「おまえ」「あいつ」「男」「君」「私」「わたし」も入れかわっているかもしれない。
 でも、入れ代わるとは、どういうことだろう。

おまえの手は震えている だがおまえの眼だけは正確だ
僕は信じる 狙いは決して誤またず一分の狂いも生じまい そういう確信がかえつておまえの手を震わせる
何事が起こらねばならぬ いまは引金をひく時だ
見たまえ!
男は窓際まで歩いてくる 男がもう一人の男に重なる瞬間を待つがいい
最上の瞬間! 美しい幻影が僕の背中を過ぎ去らぬうちに捕えること
僕は信じるだけだ かつて僕のものであり いまではおまえのものである正確な眼を

 「男がもう一人の男に重なる」の「重なる」。「入れ代わる」のではなく、「重なる」のだ。そして、その重なったものを一気に破壊する。
 向き合うもの、たとえば「僕」と「おまえ」。その向き合いかたを「矛盾」と読み替えると、田村の考えていることがわかる。向き合っている「僕」と「おまえ」は、向き合うことで、いっそう「向き合う」かたちを増やしていく。「僕」も「おまえ」も増殖する。その分裂(?)を増殖させるのではなく、「重ねる」。そして、それを一気に狙撃する。破壊する。そのとき、何かがはじめて生まれるのだ。
 そして、その「狙撃」につかわれるのが、「石」、つまり「肉眼」である。すべての「僕」、「僕」から増殖するすべての人間を「重ね」、否定する。そのあと「肉眼」だけが残る。
 田村は、その「肉眼」を熱望している。





5分前 (1982年)
田村 隆一
中央公論社

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