詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

坂多瑩子「母その後」ほか

2010-06-20 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
坂多瑩子「母その後」ほか(「ぶらんこのり」19、2010年06月10日発行)

 私は不謹慎な人間である。笑っていけないときでも、笑うことを我慢できない。坂多瑩子の「母その後」は笑ってはいけない詩かもしれない。どう読んでみても、亡くなった母親のことを書いているからである。
 でも、私は、笑ってしまう。
 
多発性脳梗塞で
何もできなくなってしまった
母は
夢のなかでも
何もできなくて
下ばかり向いていたが
あるとき死んでしまってからは
急に元気になって
長電話をしたり
お茶したりで
いまのとこ結構楽しげにしているけど
あんまり慣れすぎても
またまた
嫌みのひとつでもいいそうで
一度死んだんだから
老いたら子に従うとか
昔の人はいいこと言ったねえぐらい
いってほしいとこだけど
わたしが眠ると
待ってましたとばかり
うろうろしている
あっ
ころんだ また

 母を亡くす--そうして、どうしたって母を思い出す。その母は、脳梗塞を起こして何もできない母ではなく、元気なときの母である。それを

急に元気になって

 と書く。
 そこに不思議な愛情がある。
 この「急に元気になって」は、「やっと元気になって」(病気が回復して)という喜びというよりも、一種の「憎まれ口」である。「憎まれ口」というのは不思議なもので、それが言える相手は限られている。憎まれ口を言っても、それが許されるというか、憎まれ口を何かで吸収してしまえるような信頼感があるとき、そこに不思議な輝きが宿る。安心感に似た温かさが宿る。
 憎まれ口を「嫌み」と坂多は言っているが、嫌みをいいながら、自分の本音をつたえる。そういうことができるのは親子だからだねえ。
 最近(といっても、もう3か月ほど前になるかもしれない)見た映画に、韓国の「牛の鈴」という作品がある。おじいさんは老いた牛を大事にしている。おばあさんがそれを見ながら「わたしのことなんかちっとも気にかけてくれないで、おいぼれた牛ばっかりせわして」「役立たず」というようなことを言う。その「嫌み」というか、怒鳴り散らしは、けれどとても温かい。おじいさんの牛にかける愛情もよくわかっているし、おばあさんも牛を愛している。怒鳴り散らしながらも、嫌みをいいながらも、そうすることで自分自身を解放している。「気持ち」を体のなかにため込んで、そのために苦しむということがない。そういう明るさ。温かさ。
 
 そこにあるものは、あるいは「甘え」ということかもしれない。「わたしの方が一生懸命働いているのに、気にもかけてくれない。おいぼれ牛の方がわたしより大切なのか」というのは、「わたしをもっと大切にして」という「甘え」の裏返しの表現である。
 「甘え」というのは大切なものである。「甘え」というのは、ある意味で「助け」を求めるということだけれど、その「助け」を求めるということは、相手を信頼しているということである。どうなってもいいから、なんとかして。どうにかなるように、なんとかして。
 それは、自分を放り出す。相手に差し出すということを含んでいる。

 それに似た何かがある。私は坂多瑩子も知らないし、その母親も知らないけれど、あ、二人とも「気持ち」を自分のなかに閉じ込めて、そのために「とどかない」人になってしまうのではなく、いつでも「気持ち」を自分の外に出して、とどきあっていた人なのだとわかる。あるいは、「とどけあっていた」。
 どんなに離れていても、とどく、そういう関係。
 だから、ほんとうにとどかない距離、生きている人間と死んでしまった人間になっても、「とどく」を生きることができる。

わたしが眠ると
待ってましたとばかり
うろうろしている
あっ
ころんだ また

 この最後、終わり方がとてもいいなあ。
 せっかく眠ったんだから、ちゃんと眠らせてよ。心配させないでよ。と「嫌み」をいいながら、それでも、心配で見ている。生きていたときと同じように、母は死んでしまっても、うろうろして、転ぶ。それを見て、「あっ」と叫んでしまう。「また」と言ってしまう。
 その声、きっと、亡くなった坂多のおかあさんにとどいている、と感じる。「いいじゃない、ころんだって、年寄りなんだから。おまえは、ほんとうに冷たくて嫌みな娘だねえ」なんて、振り返っておかあさんは言うかもしれない。
 いいなあ、この発展性のない(?)会話。
 発展性のない--というのは、へんな言い方だけれど、日常の、愛、というのは発展しない。いつも、いつものまま、そこにある。かわりがない。変化しないのが、愛、なのだ。しみじみと思ってしまう。

 「立ち話」にもへんなところがある。言ってはいけないことを言ってしまう、そして、それが言えるという不思議な「人間」の広さがある。そこでも、何かが「とどいている」。何が「とどく」なのか--それは、きっとだれにも言えない(少なくとも、私は、まだそれを言うことができない)。

献体を申し込んできたと
八十七歳になる一人暮らしの隣人が言った
死んだらすぐに行かなくちゃならないから
とても忙しそうな顔をして
近所には内緒だそうだ
葬儀は身内だけで簡単にすませると言う
たしかに
献体は
新鮮さがいい
そうしなさい
ある朝 そうしゃべった

 「死んだらすぐに行かなくちゃならないから」って、どこへ行くんだろう。「天国」かな? この世ではなく、あの世へ、すぐに行かなければならないのか--そうか、ぐずぐずしていてはいけないのか。と、私は、なぜか感心し、不思議に納得してしまう。
 坂多も納得したのかな?
 坂多が実際に感じたことは、よくわからない。よくわからないのだけれど、その「すぐに行かなくちゃならない」に対して、引き止めるでもなく、「献体は/新鮮さがいい/そうしなさい」と言うところが、いいなあ。
 納得を通り越して、後押ししている。
 献体をすすめることは、死ぬことを後押しすることになってしまうのだが、死ぬというのはとても苦しくて大変だから、こんなふうに後押しされることを、ひとはもしかすると望んでいるかもしれない。

 ちょっと余談。ほんとうにあった話。
 あるひとがいまわの際で苦しんでいる。なかなか死ねない。死なない、というより死ねない。だれもがどうしていいか、わからない。そのとき、あるひとが「もうすぐだからね、がんばってね」と励ました。すると、その声を聞いて、そのひとは、すーっと息を引き取った。
 死ぬ人を励ます--というのはへんなことだけれど、きっと励まされなければだれも死ねないんだと思う。
 坂多は、そういうことを、自然に知ってしまっているのかもしれない。


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高柳誠『光うち震える岸へ』(11)

2010-06-19 00:00:00 | 詩集
高柳誠『光うち震える岸へ』(11)(書肆山田、2010年05月30日発行)

長い年月にわたる古都の時々の変遷も、夕暮れが生み出すいくつもの光の層とそれぞれ密かに通底しあって、移ろいのなかでたゆたっている。すべてが夕暮れの移ろいのなかにある。戯れ、漂うすべての事物の影は、様々な相貌を一瞬見せ、夕暮れの光がうち震える岸へ寄せてゆく。やがて、闇がすべてを包みこむ新たな夜が、静かに古都にしのび寄る。

 「78」に出てくる「闇」とは何だろう。それは「夕暮れの光がうち震える岸」と接している。「闇」と「夕暮れ」(その最後の光)は「共振」している。
 そこには、通奏低音(基調低音)がある。
 高柳は、そんなふうに明確には書いていないのだけれど、私は、なぜか、そんなふうに感じる。
 感じると同時に、一種のめまいを覚える。
 「光」と「闇」が矛盾したものだからである。
 けれど、「矛盾している」と書いたとたんに、その「めまい」は消えてしまうようでもある。
 高柳は、もともと「矛盾」したものの間に、「通奏低音」を聞こうとしている。「浮遊感」自体が、「身体」と「身体の傍ら」、あるいは「肉体」と「魂」という、相対するものがあってはじめて生じるものである。
 高柳は、ふつうは対立しているもの、矛盾しているものの間に、「通路」をつくりだそうとしている。いや、つくりだすというより、対立するものの奥に「隠された属性」(「03」参照)を探し出し、そうすることで「通奏低音」を聞き取ろうとしている。
 こういうことばの運動は、高柳の「嗜好」であり、その「嗜好」は「思考」をくぐって「思想」となっている。

 では。

 「光」と「闇」を結びつける(通底させる)もの、「通奏低音」とは何だろう。「光」と「闇」は正反対のものである。それを結びつける、あるいは「共振」させる--それは何だろう。
 「97」の部分が、とても興味深い。

都市の闇は不思議だ。その人工的な光は、闇に抗うように虚空に向かって自らを放射させながら、結局は、闇の深さを際立たせてしまう共犯者のようだ。抗うことで、闇の特質が引き出されるのだろうか。人はぞくぞくする闇の底知れぬ深さを体感するためにこそ、人工照明の下に繰り出すのだろうか。

 私は、突然、飛躍したくなる。「抽象的な誤読」をしたくなる。
 どういえばいちばん正しいのかわからないが、私は、高柳の「闇」「人工的な光」が、まったく違う「ことば」に見えてしまう。読んだ瞬間に、違う「ことば」になってしまう。ここに書かれている「高柳語」は「私の日本語」では、まったく違ったものになる。
 私は読みながら、無意識のうちに「翻訳」してしまうのだ。
 私の「翻訳」では、高柳のことばは、次のようになる。

「現実」あるいは「存在」は不思議だ。「文学的言語」は、「存在」に抗うように、「現実」ではなく「虚構」に向かって自らを突き動かしながら、結局は、「現実」「存在」の深さを際立たせてしまう共犯者のようだ。抗うことで、「現実」から「虚構」へ突き進むことで、「虚構」を築き上げることで、その「構造」のなかに「現実」(存在)の特質が引き出されるのだろうか。人はぞくぞくする「現実」や「存在」の底知れぬ深さ、そのままでは見ることのできない「真実」を体感するためにこそ、「文学的言語」によって築き上げられた「構造」の内部へと旅するのだろうか。

 簡便に(?)言いなおすと……。
 文学は虚構の描く。それは「現実」(存在)の見えないものを暴き出す。文学という「虚構」によってこそ、「現実」が見えてくる。そういういま、ここにあるけれど見えない「真実」を知るために、人は「文学」を読む。あるいは「文学」を書く。そのために「人工的言語」というものがある。高柳は、その「人工的言語」で世界と対峙している。
 私は、ほとんど無意識に(つまり、いままで高柳を読んできて、まだ、ことばになっていない意識のままに)、そんなふうに読んでしまうのだ。

 高柳が独特なのは、そして、その「現実」(存在)の奥にあるものと「人工的言語(文学的言語)」の関係を「共振」という形であらわそうとしているということだ。
 私が仮に「真実」と呼んだもの--それは「現実」の「奥」、「存在」の「奥」にあるのではない。また「文学的言語」そのものにあるのでもない。かけ離れたふたつのもの、「現実」と「人工的言語」(高柳語、と言った方がわかりやすいかもしれない)の、「共振」のなかにある。その「共振」の奥底には「通奏低音」が「通底」している。

 そして、その「共振」だけが、たぶん、高柳にとっての「真実」なのだ。

 詩集の最後の「99」は、こう書かれている。

移ろってゆく実在を、哀しみのように胸のうちに抱えて、日常に回帰すること。瞬時に移ろうものだとしても、移ろうことこそものごととの実体であるなら、移ろう主体となって、転移に次ぐ転移、移動に次ぐ移動の果てに、この光のうちにひそむ明るい転移へ、この風がはらむ澄明な移動へ、私自身を投影してしまえばよい。「私」の実在などどこにもないのだから……。

 これもすべて「高柳語」である。
 ここに書かれている「光」は「人工的な光」ではなく「自然な光」であるが、「光」(ことば)に「人工」「自然」など、もともとない。「光」の「通奏低音」(基調低音、あらゆる光を「通底」しているもの)は、何かを照らし、そして、それを「見えるようにする」ということであり、それはあらゆることばに共通することである。
 「現実」(存在)と「ことば」の「共振」だけがある。「共振」なのかには「私」が投影されている。(私が感じた「共振」がことばとなっている。)そこには「共振」としていの「ことば」だけがある。「純粋言語」、つまり、存在そのものと「共振」することでうまれる「ことば」だけがあるのであって、「私」など、どうでもいい。「私」は存在しない。

 これが、高柳の、夢、理想なのだ。
 この詩集はスペインを旅して書かれた詩集のように読めるが、ほんとうは、スペインを旅しているのではない。高柳は、高柳自身のことばのなかを旅しているのだ。ことばを旅しながら、ことばになっていくのだ。
 『光うち震える岸へ』とは、「ことばがうち震え、共振する領域(次元)へ」ということなのだ。



触感の解析学
高柳 誠
書肆山田

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高柳誠『光うち震える岸へ』(10)

2010-06-18 00:00:00 | 詩集
高柳誠『光うち震える岸へ』(10)(書肆山田、2010年05月30日発行)

 きのう、私は詩集のタイトルの『光うち震える岸へ』ということばについて、勝手な「誤読」を書いた。
 実は、詩集のタイトルは、私が「誤読」した部分を掬い取ったものではない。「78」に、はっきりタイトルが出てくる。私は、後先を考えず、ただ感じたまま、考えたままを、「ライブ」として書いていくので、こんなことが起きる。(最後まで詩集を読んで、それから自分の考えを整理した上で、起承転結というか、論理の筋道を考え、「結論」を決めてから書くひとは、こういう「誤読」を犯さないだろう。)
 で、その「78」。

夕日が城壁を照らし出し、その反照のなかですべてが移ろってゆく。(略)長い年月にわたる古都の時々の変遷も、夕暮れが生み出すいくつもの光の層とそれぞれ密かに通底しあって、移ろいのなかでたゆたっている。すべてが夕暮れの移ろいのなかにある。戯れ、漂うすべての事物の影は、様々な相貌を一瞬見せ、夕暮れの光がうち震える岸へ寄せてゆく。やがて、闇がすべてを包みこむ新たな夜が、静かに古都にしのび寄る。

 詩集のタイトルは、「夕暮れの光がうち震える岸へ寄せてゆく。」から取られている。それはそれとして、私は、しかし、私の「誤読」はそんなに「誤読」でもないかもしれないと感じてもいる。
 「78」で私が興味をもったことばはふたつ。ひとつは「通底」。もうひとつは「闇」。「闇」については、あとで(あるいは、後日になるかなあ……)触れるが、「通底」に、私は刺激された。いろいろなことを考えてしまった。
 で、ここから、強引に私は、きのうの「誤読」へと引き返すのだけれど……。

 「通底」って、何? 「通底する」って、何? いや、意味はわからないでもない。「底の方で通い合っている」という意味だと思う。
 けれど。
 こんなことば、ないでしょ? あ、私は、あれっ、ワープロで返還されない。なぜ? と思い、広辞苑で確かめたのだけれど、載っていない。
 造語?
 わけのわからないまま、でも、「わかっている」ことを頼りに書くと--「通底」はぜったいに、「底の方で通い合っている」という意味であり、その「底」は「奥」でもある。そして、「通い合っている」とき、そこに「現象」としてあらわれてくるのは「音楽」である。「響き」である。「音」--その振動(波動)が、意識できない奥底で通い合っている。そして、それが静かに響きあい、「移ろう」。
 そんな感じであると、私は「誤読」する。
 そして、その瞬間。
 「通底」って、もしかすると「通奏低音」から生まれてきている?
 私は音痴なので音楽のことはまったくわからないで書くのだが、クラシックで、なにやらぶーんというような感じで、どこからとも聞こえてくる低い音、ずーっとつづく音のことかなあ、と思うけれど、こういう印象は、音楽だけではなく、何か、「意識」そのもの運動にも感じることがあるね。
 ときどき「基調低音」というようなことばも読むような気がするけれど、これも似ている。
 その音楽そのものは、音痴の私は、ちょっと回避して……。
 高柳がここで書こうとしているのは、きっと、何かしら、ものの奥にある振動(波動)の共鳴のことだなあ、共鳴しながらそれが変化している。変化しているけれど、共鳴そのものは守っているので、「和音」の「基本」が維持されたまま、そしてその「維持」(普遍)があるからこそ、そこにあるものが「移ろい」「ただよう」という「ゆらぎ」として感じられる、ということだと思う。--そんなふうに「誤読」する。
 もし、そうであるなら、きのう最後に書いたこと、

 世界でいちばん美しいのは「抒情」である。「抒情」は波動としてつたわる。「もの」それぞれの「波動(振動)」と「心」の「波動(振動)」が共振し、「ことば」となって響くとき、世界の隠れた「音楽」があらわれる。世界のすべてが「抒情」としてあらわれる。「抒情」は「世界」と「私」の「共振」である。

 というのは、そんなに的外れな「誤読」でもないと思えてくる。
 (あ、これは、私が単に、きのう書いたことに、きょう感じたことを強引に結びつけているだけ、ということかもしれないけれど。)
 そして、きのう「抒情」と書いた部分を「夕暮れの移ろい」と書き直せば、きょう読んでいる部分と重なるかなあ、とも思うのだ。

 世界でいちばん美しいのは「夕暮れの移ろい」である。「夕暮れの移ろい」は波動としてつたわる。「長い年月にわたる古都の変遷」、それぞれの「変遷を演奏する音楽」は、いま、ここ、この「夕暮れの音楽」の「光の幾層もの音楽」と共振し、静かに響いている。「夕暮れの音楽」の「通奏低音」となって響いている。それが静かに「移ろい」「ただよう」感じで響いている。その「波動(振動)」としての「音楽」が、「夕暮れの光が打ち震える岸」--「光」のいちばん美しい瞬間に向けて、静かにその「音楽」を広げていく。世界でいちばん美しいものは、その音楽の静かな動き、「移ろい」である。

 そして、その「岸」。「光がうち震える岸」と「闇」が、ここで、出会う。それは単なる「闇」ではなく、「新たな夜」である。新しい夜である。



 きょうは、ここまで。ちょっと短い感想、舌足らずの感想になってしまったが、「50」以降、「78」まで一気に読んできて、書く時間が短くなったというのが、私のいまの現実である。(「ライブ」なので、補足しておく。)
 「50」以降、私は少し書くことがなくなってしまった。「50」以降の部分が、それまでの高柳のことばの運動と少し違っているように感じ、実は、とまどってしまった。詩というよりは、「旅行記」そのものになっている感じがした。明確にそうとは書いていないのだが、エル・グレコ、そしてその画家にゆかりのトレドの町がそのまま目の前に浮かんでくるような描写がある。エルグレコ、トレドなどの名前は出てこないが、名前以上に「直接的」な感じがして、それまでの「浮遊感」「共振」による「音楽」というものと違うなあ、と感じたのである。
 それが「78」へきて、再び、「共振」へともどった感じがした。高柳のことばをそのままつかえば、「78」には、「50」以前を貫いていた「低音」が奏でられている。その「低音」に呼応してことばが動いている。
 そう感じて、私はきょうの「日記」を書きはじめたのだった。




廃墟の月時計/風の対位法
高柳 誠
書肆山田

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高柳誠『光うち震える岸へ』(9)

2010-06-17 00:00:00 | 詩集
高柳誠『光うち震える岸へ』(9)(書肆山田、2010年05月30日発行)

抒情は、本質的に世界の側に立つものであって、第一義的には人間を必要としない。

 この「50」の部分がとても印象的なのは、ひとつには「人間」の「本質」を、私たちは(私は、と言いなおした方がいいのかもしれないが……)、ごくごく一般的に「精神・感情」と考える習慣があるからだろう。
 「抒情」というのは気分(感情)の一種である。そういうものは人間が感じるもの。そして感じるということは人間の「本質」なのに、高柳は、ここでは「抒情」は「本質的に」「世界」のものであって、人間を必要としていない。つまり、人間と「無関係」に存在する、と書いている。

 うーん。

 私は何かを読み間違えている。きっと。
 だから、読み直してみる。高柳は何を言っているのか。
 高柳は、「抒情」を「感傷」と比較することで見つめなおしている。「50」。

 感傷は、人間の感情や情動にその対応物を求めるのに対して、抒情は、それを求めない。抒情は、誤解されているような、己のうちの感情を抒べることでは、決してない。抒情は、本質的に世界の側に立つものであって、第一義的には人間を必要としない。ものたちの、この世(人間が構成する世界)を超えた秩序の構築にともなう光そのもの、ものたちの自然のあり方そのものによる舞踏なのだ。その後に、そうした、ものの舞踏に触発されたときの心の動きそのものを、ことばによって探る行為がようやくやってくる。

 「感傷」は「感情」と「もの」を結びつける。「感傷」は「もの」によって代弁された「感情」である。それに対して「抒情」は「感情」とは結びつかない。「抒情」は「もの」独自がつくりだすもの、「世界」が勝手につくりだすものであり、それを人間が感じている。その「感じ」は人間の「内」(己のうち、と高柳は書いている)にあるのではない。それは、最初から人間の「外」にあるのだ、と言っている。
 あ、これは、例の「本質」と「不随」に関係してくることがらだね。ここから、高柳は、「抒情」は人間の「外」にあるから、それは「不随」のようにみえても、ほんとうは「本質」。それに対して人間の「うち」にあるもの、「感情」は、うちにあることによって「本質」に見えるけれども、実は「不随」と言いたくて、こういうことを書きはじめているのだな、と見当(?)がつく。
 「感傷」は人間のうちにある感情がものに向かって動いていき、そしてものと結びつくから「本質」に見えて、実は「不随」したもの。
 それに対して、「抒情」は人間のうちにある感情が動いてつくりだすものではなく、最初から「外」にある。だから、「本質」。
 そういうふうに、高柳は言いたい。
 で、最終的には、その「外」にある「抒情」(これは、「ものではない」もの、というくらいの意味だね、きっと)を人間はことばによってつかもうとするのだ……といいたいのだが、これはなかなかむずかしい「飛躍」(?)である。
 その「むずかしい」ことを言おうとして、高柳は、とても不思議なことばを書いている。
 「感傷」も「抒情」もことばによってあらわされるものだが、その「抒情」がことばになるまえの世界のありよう、人間とは「無関係」の世界のありようを、強引にことばにして、次のように言っている。「抒情」を定義しなおして、次のように言っている。

ものたちの、この世(人間が構成する世界)を超えた秩序の構築にともなう光そのもの、ものたちの自然のあり方そのものによる舞踏なのだ。

 ややこしいが、これは「抒情」がことばになるまえの「抒情」の世界である。人間を超越した光の舞踏。人間以外の「もの」の、ものそれ自体による「舞踏」。
 わからないよねえ。こんなこと、いわれたって。
 だから、ちょっと、「前後」のことばを借りてみる。
 ここに書かれている「舞踏」とは「波動」「振動」ではないだろうか。
 強引に「誤読」(私の大好きな、誤読、ですが……)してみる。
 「舞踏」の反対のことば、対極にあることばはなんだろうか。「移動」ではないだろうか。もし、そうであるなら、「舞踏」は「移動」の対極にある「波動・振動」と似通っている。
 たしかに、そうなのだ。
 「歩行」(歩く)は肉体の「移動」である。けれど「舞踏」は「移動」ではなく、同じ一点(まあ、多少は「場」としての「領域」はあるけれど)での「振動・波動」である。どこへも動かず、同じ場所での、「もの」そのものの震え、振動、波動--それが「舞踏」である。
 「歩行(移動)」はAからBへという「場」の変化によってことばにすることができる。ところが「舞踏」はそういう変化では言い表すことはできない。そこにある「波動」としてあらわすことしかできない。
 その「場」にあって、その「場」からは動かないけれど、その「場」では動いているもの--これを描写するのはむずかしいねえ。「AからBへ」というようには言えない。で、どうするかといえば(高柳のことばによれば)、同じ場所で動いている「もの」の動きそのものに触発された心の動きとして、ことばにするのだ。
 えっ、何が違う?
 「移動」は「AからBへ」という「肉体」の動きとして、ことばにできる。
 「舞踏」は「肉体の動き」ではなく、「心の動き」として、ことばにできる。

 しかも、その「心の動き」は「感傷」と違って、「肉体」うちにある感情が、肉体の外にある「もの」に向かっていく動きではなく、そとにある「もの」とは切り離されたまま(無関係なまま)、動くのである。
 ただし、無関係とはいっても、実は関連がある。離れていても、同じように動くということがありうる。
 どんなふうに?
 「音楽」のように。和音のように。つまり、共振。

 「抒情」とは「共振」なのだ。「世界」と「心」が共振するとき、「抒情」がある。「感傷」は、いわば、移動。乗り物に乗って、心がここではなくどこかへ行ってしまう。けれど「抒情」は「心」は「肉体」のなかにあって、世界と共振している。同じ震え。波動。その呼び掛け合い--それが「抒情」。

 「心」は「肉体のうち」に存在したまま。だから、それは「感傷」よりも「本質」なのだ。何かがでて行ったあと、それでもそこに残りつづけている「本質」。
 --と言ってしまうと、あ、これはまた「本質」と「不随」の問題をややこしくするのだけれど。
 まあ、ことばが書き表すことができるのは、そんなふうな、矛盾でしかないのだから、ここはこう書いておくしかない。

 で。
 という切り返しのしたかは、かなりずるい切り返しであると自覚はしているのだけれど、で。
 というしか、私には方法がなくて、そのままつづきを書いてしまうと。

 で、ここに「光」が出てくる。これは、とても重要なことである。
 高柳は、この「50」では、論理的にことばを辿ろうとすれば、とても面倒なことを書いている。ややこしいことを書いている。書かずにはいられないこと(思想)を書いている。そのややこしい部分は高柳には充分にわかっている。わかりきっている。わかりきっているけれど、高柳にも「流通言語」で「論理」として提出することはできない何かである。わかりきっていて、それでもことばにできないこと--これを私は「思想」と呼んでいるのだけれど、それがここに書かれていて、それをあらわすのに「光」ということばに頼っている。
 『光うち震える岸へ』というのが、今回の高柳の詩集のタイトルだけれど、その「光」がここに書かれている。「震え」は「舞踏」という形で書かれている。「岸へ」というのは、「離れた」何かをあらわしているだろう。
 「私」から離れは「場」にある「光の震え」。それと、共振するとき、「抒情」が、世界と私をひとつの「和音」にする。
 そういう「夢」(あるいは願い)のようなものが、ここに書かれているのだ。 

 あ、そういう「和音」を高柳は書きたいのだなあ、と私は、ここで強く感じるのだ。
 「55」へつながる、いや、つたわっていくものがここにある。

光は波動として伝わる。音もまた、波動として伝わる。この世界を根底から支えているのは、実は波動なのかもしれない。波動こそ、世界の隠された本質、世界のすべてなのだ。

 それは、次のようにいいかえることができるかもしれない。高柳のことばではなく、私の「誤読」したことばで書いておくと……。

 世界でいちばん美しいのは「抒情」である。「抒情」は波動とてしつたわる。「もの」それぞれの「波動(振動)」と「心」の「波動(振動)」が共振し、「ことば」となって響くとき、世界の隠れた「音楽」があらわれる。世界のすべてが「抒情」としてあらわれる。「抒情」は「世界」と「私」の「共振」である。



星間の採譜術
高柳 誠
書肆山田

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ジュゼッペ・トルナトーレ監督「ニュー・シネマ・パラダイス」(★★★★)

2010-06-16 10:20:01 | 午前十時の映画祭

監督 ジュゼッペ・トルナトーレ 出演 フィリップ・ノワレ、ジャック・ペラン、サルヴァトーレ・カシオ、マリオ・レオナルディ、アニェーゼ・ナーノ

 
 ラストシーンのキスのラッシュが私は大好きだ。このシーンを見るためなら何度でもこの映画を見たい。
 キスシーンは、映画技師が牧師の検閲によってカットされたものを繋ぎ合わせたものだが、ここに映画への愛がこめられている。キスシーン、あるいは「アイ・ラブ・ユー」とつげるシーン(記憶のなかでは、「アイ・ラブ・ユー」という台詞が残っているのだが、今回見た映画では台詞はなかった。唇の動きでそれとわかるシーンがあるけれど……)は映画のクライマックスである。それを「わいせつ」という観念でカットしてしまう検閲の暴力--それに対しての抗議。まあ、映画の主人公はそういう面倒くさいことはいわずに、ただカットされたシーン、日の目を見ないのは残念という思いから1本につなぎあわせたのだろけれど。
 このシーンを見ながら、主人公は、映画技師の愛、人間そのものへの愛を知る。それは幼い自分に向けられた愛でもある。人が人を好きになる。そのとき人間はこんなに美しい。その美しい人間を映画技師はだれよりもたくさん知っている。いいなあ。性別も、年齢も超越して、ただ愛だけが輝く、その瞬間。
 いいなあ。
 この美しいシーンに匹敵するのは、主人公が青年時代に盗み撮り(?)する初恋の相手、エレーナの映像だ。8ミリフィルムのなかで振り向くエレーナ。その、モノクロなのに、モノクロを超越して、金髪、青い目という色も超越して、ただまぶしく輝く肌、視線。それが美しいのは、エレーナが美しいからではなく、青年が真剣に、純粋にエレーナを愛していたからだね。
 キスシーンのラッシュを見ながら、トトが思い出すのは、きっと、そのときの愛なのだ。そんな瞬間がトトにもあったのだ。
 あとは、付け足し。単なるストーリー。映画でなくても語れるものだ。
 強いて、もうひとつ好きなシーンをあげれば、フィリップ・ノワレが若いトトに最後に語りかけるシーンかなあ。「おまえとは、もう話したくない。私はおまえの噂話を聞きたい。」あ、これは、すごい。噂話は、相手が「有名」にならないと聞こえてこない。ひとの伝聞のなかで生きるくらいの人間になれ、と若いトトを励ましている。フィリップ・ノワレはもちろんトトに会いたい、会いたいけれど、それ以上にトトに、「いま」を越えて生きてもらいたいと願っている。トトの幸福を願っている。
 涙が出ますねえ。ひとの幸福を祈る。それより美しい愛があるとは思えない。愛しているからこそ、さらに幸福を祈る。そして、その祈りを、フィリップ・ノワレは生きる。
 最後に形見として「愛する瞬間、人間は輝く」と「キスシーン」を残す。美しいですねえ。 
                         (午前十時の映画祭、19本目)


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高柳誠『光うち震える岸へ』(8)

2010-06-16 00:00:00 | 詩集
高柳誠『光うち震える岸へ』(7)(書肆山田、2010年05月30日発行)

 高柳誠の詩について、ことばについて、私はどこまで書いただろうか。どこまで書くべきだろうか。よくわからない。
 たとえば、私はきのう

 ことばの運動。運動することば。それが「人間の本質」であり、「詩」である。

 と書いたが、「運動」とは何か。どんな動きか。「運動」は便利なことばであって、「運動」だけでは何かを書いているようであって、何も書いていない。

肉体を、生まれた土地、生活する土地とは別の場所に置いてみること。そして、乗り物によってたえず移動させること。旅の本質は、そこにしかない。乗り物にゆられ続けるその振動によって、肉体と意識との癒着に少しずつ亀裂が入り、やがて、リンパ液のようなものが滲み出てくる。移動と振動のためにジクジク滲み出たリンパ液は、新たな関係を繋ぎとめる直前に、たえずそれを破壊してしまう。せっかく張ったかさぶたを、治りかけについ剥がしてしまうように。すると、その傷口に、旅の情景が見知らぬ己の過去のようにヒリヒリ染みこんでくるのだ。

 この「40」の部分には「移動」という「運動」が出てくる。そして、「旅」というものが土地から土地への「移動」であるこめに、目は自然に「移動」に向かうが、それでいいのか。
 もうひとつ、そこには「運動」がある。「振動」である。
 「移動」と「振動」。それは「本質」と「不随」の関係でいえば、どちらが「本質」であり、どちらが「不随」なのか。
 「41」には「川」が出てくる。そして、そこには次の表現がある。

都市の中心を貫いて流れてゆくこの川のように、私の川は流れているだろうか。

 「中心」ということばは「本質」に通じる。「中心」にあるものが「本質」、傍らにあるもの、あるいは表面にあるものは「不随」--「流通言語」の定義では、そう考えることができるかもしれない。
 しかし。
 実は、私は、この「41」でつまずいてしまった。何か、違う。

都市は必ず川を持っている。川こそが都市を生み出すための潜在的な原動力なのだ。川は流れる。人も物も流れる。そして、人やものが流れ着く場所にやがて市ができ、町ができる。都市は、己の内部にその原型として、川の流れをふくみもっているのだ。

 あ、これでは「流通言語」の定義による「都市」の生成の物語になってしまう。高柳の書いている「運動」は、そういう直線的(川は曲線的、というかもしれないが)だったろうか。AからBへと動いていくような「運動」に視点が向けられていただろうか。
 この詩集の最初に書かれていた印象的なことばは「浮遊感」であった。「旅」を描くのに、「浮遊感」から高柳は書きはじめていた。飛行機に乗って「移動」するのだけれど、そこで問題にされているのは「移動」そのものではなく、「移動」にともなうもの、「移動」に付随する「浮遊感」であった。
 そして、「本質」と「不随」は、高柳のことばのなかでは、一般に考えられているのとは逆に動くはずであった。

 「移動」は「本質」にみえて、実は「不随」。「不随」である「振動」こそが「本質」である--と、高柳のこれまでのことばなら動いていくはずである。その思いが、「41」を読んだ瞬間、どこからともなく甦ってきて、あ、「41」は何か違う。何かおかしい、とつまずいてしまったのだ。
 駆け足でページをめくった。(あ、私は、誰の詩の感想を書くときでも「ライブ」になってしまう。読む時間、書く時間が、目の都合でかぎられているので、その場その場で「結論」を設定せずに書くので、どうしてもそうならざるを得ないのだが……。)
 で、駆け足で読み進むと、「55」に「振動」に似たことばが出てきて、そこで私は立ち止まった。高柳のことばについて、考え直してみた。(読むのをやめて、書きはじめた、ということなんだけれど--おおげさだね。考え直した、というのは。)

光は波動として伝わる。音もまた、波動として伝わる。この世界を根底から支えているのは、実は波動かもしれない。波動こそ、世界の隠された本質、世界のすべてなのだ。

 光の「移動」、音の「移動」ではなく、その「移動」のエネルギーとしての(?--科学を知らないので、いいかげんなことを書いておく)「波動」。「波」というのは、同じ場所にあっての、「揺れ」だね。紐の両端をA、B、中央をCとするとき、その紐をゆらし「波」をつくる。そのとき、CはCの位置のまま、「波」を描く。「波」はAからBへ「移動」するが、Cの位置は同じ。揺れている。振動している。それが「波動」(と、私は思う)。
 「41」の「川」の描写には、「移動」は描かれていたが「振動」(波動)が描かれていなかった。それが、私に奇妙な感じをいだかせたのだ。
 でも、ここでは高柳は再び「波動(振動)」について書いている。そして、それを「本質」と呼んでいる。
 ちょっと安心する。
 あ、これが高柳のことばの世界なのだ、となつかしい世界にもどった感じがする。

たとえば、建物や橋やグラスが固有の振動数をもつことから明らかなように、一見波動と無関係に見える堅固な構造物も、己の波動性からは逃れられない。だから、ゆれうごくもの、振動するものを通して世界を見なければならない。いや、自らがゆれうごく主体、波動そのものとなってこそ、世界の本質は見えてくるにちがいない。

 「旅」--自分のくらしている「場」を離れ、別の「場」へ「移動」する。それは「移動」が目的ではない。「移動」することで、私そのものの「振動」を明確にする。自分がどのような「振動」で揺れているかを自覚するためなのだ。「波動」--「波」になるために、くらしの「場」を離れる。
 だから、もし、くらしの「場」を離れ、どれだけ「移動」しても、そこで自分自身が新しい「波動」になる、気づかなかった「波動」を自分自身の「肉体」の内部から引っ張りださないことには、それは「旅」をしたことにはならない。

 そうすると。
 というか、高柳がここに書いていることばが詩であるなら、それは高柳の新しい「波動」によってとらえなおされたものである。
 そして、そのことばがわかりにくいとしたら、それは「流通言語」とは別の「波動」によって動いているからである。
 詩はむずかしい。詩はわからない。--それは、そのことばが、「流通言語」とは違った「波動(振動)」で揺れているからである。

 脱線した。

 この「55」には、「波動」ということばのほかに、とても気になることばがある。「無関係」である。

一見波動と無関係に見える堅固な構造物も、己の波動性からは逃れられない。

 ここに出てくる「無関係」。「無関係」とは「本質」とは関係ない、という意味だろう。「本質」から離れている--遊離している、浮遊している……。私のことばは、そんなふうに勝手に動いていくが、「無関係」ということばには、何か、「波動」と同じように、高柳のことばの全体をつかむために必要なことがらが潜んでいる。
 で、大急ぎで引き返してみると。「50」に、とても興味深いことばがある。

抒情は、本質的に世界の側に立つものであって、第一義的には人間を必要としない。

 この「必要としない」が「無関係」に似ている。

抒情は、本質的に世界の側に立つものであって、第一義的には人間「とは無関係である」。

 と書き直しても、文章の「意味」はかわらない。
 読みとばしてきた部分に、踏みとどまって読まなければならないものがある。あすは、それを読み返そう。(つづけて書きたいが、きょうは、ここまで。あ、ほんとうに「ライブ」になってきたなあ。)




触感の解析学
高柳 誠
書肆山田

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高柳誠『光うち震える岸へ』(7)

2010-06-15 00:00:00 | 詩集
高柳誠『光うち震える岸へ』(7)(書肆山田、2010年05月30日発行)

 「本質」とは何か。「本質」ということばが、この詩集にはたくさん出てくる。たとえば「29」。

剥げかかった塗料の藍や丹(に)が、永遠につづく反復性に深さを与え、意識が肉体を離れ去っていくような気の遠さをもたらす。この喪神の軽さこそが、この宮殿の本質ではないだろうか。

 「宮殿の本質」。たとえばアラベスクの壁の模様、たとえばアラビア風構造、イスパニア風構造--というのなら、つまり、宮殿の建物としての構造そのものを「本質」というのならわかりやすいが、高柳はそれを「本質」とは呼んでいない。ここで「本質」と呼ばれているのは、その建物(宮殿)が人間(私)に与える「影響力」のことである。
 「影響力」が「本質」であるなら、それは「宮殿」を構成する何かであってもいいし、あるいは宮殿に付随する何かであってもいい。
 実際、高柳がここで具体的に言及しているのは、アラベスクの模様そのものではなく、

剥げかかった塗料の藍や丹

 である。それはふつう私たちが建物(宮殿)の「本質」と呼ぶものとはかなり違う。どちらかといえば「不随」するものである。剥げかかった塗料というものは、何も、高柳がいまみつめている宮殿に特有のものではなく、完成後何年もたった建物に共通するものであって、それを建物の本質というのは奇妙である。
 けれど、高柳は「本質」という。
 精神に影響を与えるから、感情(感覚)に影響を与えるから--というのだが、でも、そのときの精神、感情、感覚というのは何? どんなふうに動いている?--たぶん、そのことが「本質」と呼ばれるものと深い関係がある。
 「影響」ではなく、「どんな」影響か、その「どんな」に「本質」がある。

意識が肉体を離れ去っていくような気の遠さをもたらす。

 「意識が肉体を離れ去」る--そこに、高柳は「本質」を見ている。ふつう、意識と肉体は融合している。その融合が何かの拍子で分離する。そして意識が肉体を離れ去る。
 肉体が意識を離れ去る、と言わないのは、肉体のなかに意識がある、意識が肉体の内部から人間を支えている「本質」である、という思考がそこに働いているかもしれない。
 それは、あるいは逆に、意識が肉体に縛られている(閉じ込められている、自由を失っている)ということかもしれない。そうすると、精神が「不自由」であるということが人間の「本質」であり、その「本質」から「自由」になって、意識が自在に動き回るというのは、一種の夢・希望ということになるかもしれない。
 そして、その夢・希望こそ、人間の「本質」の姿であると言いなおすこともできるかもしれない。

 あ、なんだか、ややこしくなった。

 高柳は「本質」を、純粋に(?)何かを支える「基本」とは考えていない。たとえば宮殿の本質は、それをつくりだした人間の科学・哲学・宗教という具合に、宮殿そのものを構成するもの、あるいは「不随」するものではなく、それが働きかけ、人間が受け止める「影響」のなかから生まれてくるものと考えている。
 「本質」を運動と考えている。動かないものではなく、動くもの。その「動く」ということに「本質」を見ている。
 それも、みずから動いていくというよりも、何かに影響されて動いていくということに「本質」を見ている。たとえばこの宮殿の部分では宮殿のあり方に影響されて動いていく、そのときの「動き」に「本質」を見ている。
 つまり(つまり、といっていいかどうか、よくわからないのだが)、「動き」が「本質」になるとき、そこには「動き」の「主体」だけではなく、「他者」が存在する。「他者」と「自己」の関係のなかから、「自己」の精神が「動いていく」--その「動き」のなかに、「本質」というものがある。

 この考えは、「40」でも別の形で書かれている。

肉体を、生まれた土地、生活する土地とは別の場所に置いてみること。そして、乗り物によってたえず移動させること。旅の本質は、そこにしかない。乗り物にゆられ続けるその振動によって、肉体と意識との癒着に少しずつ亀裂が入り、やがて、リンパ液のようなものが滲み出てくる。移動と振動のためにジクジク滲み出たリンパ液は、新たな関係を繋ぎとめる直前に、たえずそれを破壊してしまう。せっかく張ったかさぶたを、治りかけについ剥がしてしまうように。すると、その傷口に、旅の情景が見知らぬ己の過去のようにヒリヒリ染みこんでくるのだ。

 ここにも「肉体」と「意識」の分離がある。その「分離」が、「分離」という運動が「本質」である。
 人間の。
 そうなのだ。高柳は、どんなものについて書くにしても、「本質」というとき、それは「対象」そのものを指してはいない。「対象」ではなく、「人間」の本質。何かに向き合う。(他者と出会う)。何かをする。そのとき、人間の内部において生じる運動--精神の運動を、高柳は「本質」と呼んでいる。そして、その運動を、高柳は、ことばで表現する。
 だから、……だからというのも、へんないい方だが。

 私は突然、欲望に襲われる。
 高柳が「旅」と書いているものを「ことば」と置き換えてみたいと。「旅」に関するさまざまな表現を「ことば」と書き換えてみたいと。突然、そう思う。そうすると、きっと高柳がやっていることがすべてわかるはずだ。
 つまり。

肉体を、生まれた土地「のことば」、生活する土地「のことば」とは別の場所「のことばのなか」に置いてみること。そして、「生まれ育った土地でつかわれていることばというという乗り物ではなく」、「あたらしく出会った何かにふれて動きだすことばという」乗り物によってたえず移動させること。旅の本質は、そこにしかない。「人間の本質は、そのときにあらわれる」。「他者のことばという」乗り物にゆられ続けるその振動によって、肉体と意識(生まれ育った土地のことば、なじんだことば)との癒着に少しずつ亀裂が入り、やがて、リンパ液のようなもの(肉体の奥に存在する、肉体を護り、同時にゔごきに影響を与えるもの)が滲み出てくる。(いままで意識しなかった「ことば」が肉体の奥から滲み出てくる。)

 そんな風に、ならないだろうか。
 そして、このあとが、また高柳独特の世界になる。

移動と振動のためにジクジク滲み出たリンパ液は、(つまり、いままで意識してこなかった肉体の奥に存在していたことばは)、新たな関係を繋ぎとめ(、そうすることであたらしい世界を描き終わ)る直前に、たえずそれを破壊してしまう。せっかく張ったかさぶたを、治りかけについ剥がしてしまうように。(なぜか。つなぎとめてしまっては、また「意識」が「肉体」のなかにしまいこまれ、「自由」ではなくなるからだ。)すると、その傷口に、旅の情景が見知らぬ己の過去のようにヒリヒリ染みこんでくるのだ。(傷口から、肉体の奥に存在していた見知らぬことばが、じわりと滲んできて、その新しい自分こそが、私の「本質」である、と感じることができる--その喜びを味わうことができる。)

 ことばによって、ことばを動かすことで、自分自身の「肉体」のなかに存在する「リンパ液」のような、意識できなかったことばを解放する。その解放されたことばこそ、人間の「本質」である。その「本質」をひきだすために、高柳は、旅をし、旅をすることで、他者のことばに出会う--それをくりかえしている。
 そんなふうに言ってみたくなる。

 ことばの運動。運動することば。それが「人間の本質」であり、「詩」である。


鉱石譜
高柳 誠
書肆山田

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高柳誠『光うち震える岸へ』(6)

2010-06-14 00:00:00 | 詩集
高柳誠『光うち震える岸へ』(6)(書肆山田、2010年05月30日発行)

 「本質」と「不随」。その関係とそのまま同じではないけれど、「内部」と「外部」という世界の分類の仕方がある。「内部」は「精神」に通じ、「本質」にも通じる。
 とは、しかし、簡単に言ってしまうことはできない。
 「27」。ナイチンゲールが鳴いている。

鳴き声は正確な波型を描いて闇のなかを進み、部屋の窓ガラスをもなんなく突き抜ける。鳴き声は、闇をまとって静かに鼓膜をゆりうごかし、知らぬ間に心のうちに侵入し、すでに潜んでいた闇と同化すると、今度は私の胸のうちの深い闇から、ナイチンゲールの鳴き声が湧きあがってくる。

 この部分の「内部」「外部」は「層」をつくっている。部屋の外-ガラス窓によってしきられた部屋の内部、部屋の内部-鼓膜によって内と外を分け隔てられた肉体の内部(心=胸)。そして、その「しきり」(枠)をやすやすとのりこえてしまう「闇」一方にあり、他方にナイチンゲールの鳴き声がある。
 ガラス窓、あるいは鼓膜によってしきられた「外部」「内部」という関係から、「内部」を「本質」、「外部」を「不随」(私=精神に付随するもの)と定義すると、高柳誠特有の「本質」「不随」の入れ代わりは、どうなるだろう。
 「内部」(意識)は「本質」にみえて、実際は「本質」ではなく、「外部」こそが「本質」という関係は、なんだか説明しにくいものになる。

 ところが。

 この「内部」「外部」の関係を「窓の外-窓の内」「窓の内(肉体の外)-鼓膜の内部(肉体の内=こころ、胸)」そのものではなく、そこに同時にある、「闇」「ナイチンゲールの鳴き声」との関係でみつめなおすと違ったものがみえて来る。
 「肉体の内にあるもの、心、胸」を「本質」と考えるとき、その「外」にある「闇」「ナイチンゲール」は「不随(するもの)」である。
 その「付随(するもの)」が「内部(心、胸の内)」に入り込み、そこに居座り、「内部の内部」において自己主張する。そのとき、その「新しい内部」によって、「それまで内部だったもの(胸、心)」が「外部」になってしまう。
 ここでは、そういうことばの運動がおこなわれている。

 このとき、ここでは少しおもしろいことばの操作がおこなわれている。
 「闇」。このとこばは「外部」そのものにあるときは「光のない状態」(何も見えない状態)を差す。ところが、「心の内の闇」の場合、それは「比喩」である。つまり、実体がない。誰もそれをみたものはいない。
 現実の闇と、比喩としての闇が、よくよく読まないとわからないように、静かにまぎれこんでいる。

知らぬ間に心のうちに侵入し、すでに潜んでいた闇

 この闇は、「外の世界」の闇である。「心」のなかに「現実の闇」がもぐりこんでいる。それは「現実」である。けれども、心のなかのことなので「比喩」でしかない、抽象でしかない、ということもできる。
 よくよく読まないとわからない--ではなく、よくよく読んでもわからないように、「同化」した形で「闇」が書かれている。
 この「同化」を利用して(?)、つまり「外の闇」も「内の闇」も同じであるという「比喩」を利用して、その「比喩」のなかにナイチンゲールが侵入して来る。そして「比喩」のなかに居座り、そこから鳴き声を
発する。「比喩」の内部のことなので、このナイチンゲールの鳴き声も「比喩」になる。
 そして、その瞬間。

 「比喩としてのナイチンゲールの鳴き声」そのものが「本質」になる。--これは、「比喩」が「本質」である、という宣言に等しい。
 「外部」の存在が「比喩」となって「内部」に侵入し、つづいて「比喩」そのものとして「外部」に飛び出していく。言語化される。その瞬間の、「内部」「外部」の入れ代わり。「本質」「不随」のいれかわり。
 そこに、高柳の「詩」がある。

 比喩・同化の問題は、別の角度から、言いなおすことができる。「外部の闇(実在の闇)」が「心の内部の闇(=胸の内の闇)」という「比喩」になるとき、そこにはどんなことがおこなわれている。「闇」は「何も見えないもの」という定義が利用されている。何も見えないなら、その状態が「外」にあろうが、「内」にあろうが、同じである。つまり、そこには「同化」がおこなわれている。ある状態を「抽象化」し、その「抽象化」によって「ひとつの定義」が決定され、「ひとつの決定」をもとに別個の存在を「同一」とみなす(同化する)という作業がおこなわれている。
 「外部」において、「何も見えない」のは光がないから、である。「内部」においては? 重い悩みがある、他人に対するどうしようもない恨みがある--というようなことも「心の闇」になる。そういう「思い」が満ちあふれて、「何も見えない」、あるいはきぼうという「光」(比喩)が「見えない」状態が生まれる。「外部」と「内部」の闇は違ったものであるけれど「何も見えない」という表現で「抽象化」されると、そこでは「同化」も同時におこなわれ、「同化」があるから「比喩」になるのだ。
 比喩(同化)--この作業の前提には、ある存在から、さまざまなのもの剥ぎ取る、「具体的なことがら」を排除して、「抽象化する」という作業がおこなわれている。

 あ、でも、こんなふうに書いて来ると、では、そのとき「本質」と「不随」の関係は? どうなったのかな? うまく説明できるかな? よくわからない。私の考えは中断してしまう。「保留」という状態で、先へ進まなくなる。
 たぶん(というのは、私の我田引水なのだけれど、たぶん)、そういうことは高柳にもおきているのだと思う。そういうことがおきているからこそ、書くことをやめられない。少し進んで、そこで中断。その中断の積み重ねとしての動き。ことばの動き。そういうものでしか、何かを語るということはできないのかもしれない。
 だから、私も高柳を真似て(というのも、激しい「我田引水」なのだけれど……)、中断と積み重ねながら、高柳を読んでいく。



 きょうの「付録」。
 「闇」と「内部」の関係は「34」でも出て来る。おそらくフラメンコ歌手の声を聞いているときのことを描いているのだと思うが……。

声から漆黒の闇が溢れ出し、それがみごとな布のごとき造形となって空間に屹立する。まさに、豊饒な「生」の中心にのみ存在し、「生」を密かに支配する深い闇そのものだった。生命の本質としての闇。増殖し続ける闇。闇の声そのものに直撃されて、私のうちの闇もうごめきだす。いや、私の内部に存在しえない豊饒の闇をさえ、その声は次々と産み出させてしまう。

 フラメンコ歌手の声は、先に読んだナイチンゲールの鳴き声と似通った動きをする。私の「心(胸)のうち」に入り込み、そこから声を発する。
 フラメンコ歌手とナイチンゲールの違いは、その声が産み出すものの違いである。ナイチンゲールにとって「闇」は付随するものであったが、フラメンコ歌手にとっては「闇」は「本質」であった。

 あ、では、そのとき「本質」と「不随」の関係は?
 省略。いや、保留。中断。
 というか、こういうことは、一直線に何かを語れるようなものではなく、何度も中断し、反復しないと語れないことなのだ。
 私は、だいたい「結論」を想定して文を書きはじめないのだが、なぜかということを強引に言ってしまえば、「結論」というようなものは「弁証法」の「止揚」の果てにあるのではなく、「止揚」がうまくいかなくてつまずいた瞬間の、その足元に取り残されているという気がするからだ。


高柳誠詩の標本箱
高柳 誠
玉川大学出版部

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佐々木安美「新しい浮子」ほか

2010-06-13 14:54:38 | 詩(雑誌・同人誌)
佐々木安美「新しい浮子」ほか(「一個」3、2010年春発行)

 佐々木安美「新しい浮子」はおもしろい詩である。おもしろい詩であるけれど(おもしろい詩だから?)、どこがおもしろいか書くのは難しい。いや、めんどうくさい。
 書き出し。

からだを斜めに細らせなければ 入れないところに収まって
わたしは思っている 新しい浮子が欲しいと
そうすればだれよりもたくさん釣れる
そうすればこんな窮屈なところに挟まったまま
身動きできない状態から 抜けられるはずだ

 釣り堀(?)、あるいは池で、釣りをしてるんだろうな。うまく釣れない。きっと、へたくそな釣り人が来ているなあ、というような視線を感じながら、人の間へそっとはいらせてもらって(もらって、という感覚がきっと大切)、いっしょに釣らせてもらっている。
 そして、いい浮子があれば私だって一流の釣り師になれる、釣れないのは浮子のせい、なんて思っている。自分をこの窮屈な場所から(陥没した人生から――あ、こういうことばが、実際に、詩の後半に書かれている)、浮子が救い出してくれる、なんて思っている。
 まあ、そういうことは「ほんとう」ではないのだけれど、その「ほんとう」ではないことを夢想する「正直」。それが、ことばを動かしている。その「正直」さと、書かれていることばの「大きさ」がとても釣り合っている。無理がない。自然に動いている。
 そして。
 この「正直」は、この詩で完結しない。次の詩に続いて行く。
 ページをめくると、「古い浮子」という詩がある。

以上のことを思いながら わたしの意識はふたたび夢の中に戻されてきた

 変でしょ?
 変だよね。「新しい浮子」というタイトルの詩はちゃんと完結しているのに、ページをめくると「古い浮子」という詩があらわれて、実はこの詩は前の「新しい浮子」のつづきです、というのは。
 反則、とは言わないけれど、こんな書き方していいの? こんな書き方していたら、詩がおわらない。どこまで続いていくかわからず、ずるずることばが動いていくなんて、変だよ。
 そう言いたくなるよね。

 でもねえ。
 現実って、そういうもんだよね。
 区切りがない。一応区切りをつけてみるけれど、区切りをつけたはずのものが、何か新しいこと、さっきとは別なことをしていても、ふいによみがえってくる。そして、ああでもない、こうでもない、と考えてしまう。ことばを動かしてしまう。
 これって、なんでも区切りをつけて、スパッと物事を切り替えるより、ずっと「正直」じゃない? 
 だらしがない、踏ん切りがつかない、なんていう批判もあるかもしれないけれど、「正直」だよね。わかるよね、その「正直」さ。
 その、変な(?)「正直」が佐々木のことばを貫いている。

わたしがもっともへらぶな釣りに没頭していた頃の
あけがたの いつもの釣り場に しかしなにか
巨大な生き物が深く息をしている気配があり
大気の微動が皮膚に触れる感じがあり
空の明度も不安定で 辺りがほのかに明滅している
深い息というのは 眠っているわたし自身の内部だと
そして沼と思えた底には青々と草が生えていて
なんだ くさはらの水たまりか しかし水面には
何本も浮子のトップが突き出している
ああ この夢は前にも見たことがある

 「この夢は前にも見たことがある」が象徴的だけれど、佐々木のことばは、何度も繰り返された体験のなかで、余分なものをそぎ落とされた「正直」なのだ。
 たった一回限りの純粋な思い――とは正反対。何度も何度の繰り返され、すっかりくたびれた「正直」。
 何度も繰り返すのは、それが必要だから。
 いいかえると、佐々木の「正直」は、繰り返しに耐えることのできる、しぶとい「正直」、使い込まれた家具や調度が必然的にもってしまうような艶に似た「正直」なんだなあ。

 と、ここまで書いて、私は映画「長江哀歌」を思い出した。ダムに沈む村の風景。食堂のテーブルや壁。テーブルの高さで、壁に雑巾のあとがある。テーブルを拭くとき、壁に雑巾が触れる。それが繰り返され壁に一種の「汚れ」がつく。その「汚れ」が美しい。清潔をこころがけてきた暮らしが作りだす「汚れ」なんだ。
 そこには静かな生活がある。

 いいなあ、これ。
 なんでもないことなんだけれど、ただずーっと見ていたい、そのことばのそばにいたい、そういう安心感をさそう「正直」が満ち溢れている。

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高柳誠『光うち震える岸へ』(5)

2010-06-13 00:00:00 | 詩集
高柳誠『光うち震える岸へ』(5)(書肆山田、2010年05月30日発行)

 高柳誠のことばは、個性的である。「本質」ということばひとつ取り上げてみても、それは私たちがふつうに考える「本質」(存在を構成する恒常的なもの)とは違うものを含んでいる。
 たとえば「26」。

橋の上で風に吹かれる。風はいつも、橋のまわりを吹きめぐっている。しかも、吹き下ろす風ではなく、吹き上げる風であるところにその本質がある。

 ここで書かれている「本質」とは何? どういうこと? 「風」の「本質」は私にとっては「空気の移動」である。それ以外に定義を思いつかない。空気の移動量(あるいは速度)が小さければ、それはたとえば「微風」「そよ風」、大きければ「強風」「台風」。そして、その空気の温度が高ければ「温風」「熱風」「南風」、冷たければ「寒風」「北風」、吹いてくる方向によって「東風」「西風」にもなるし、それが下から上へ動くなら「上昇気流」、逆向きなら「下降気流」と呼ばれたりする。高柳が書いている風の「吹き下ろす」「吹き上げる」は、私にとっては、風に付随した「性質」である。「特徴」である。ところが、高柳は、それを「特徴」とは呼ばずに、「本質」と呼ぶ。これば、高柳独特の語法である。高柳語である。「日本語」で書かれているようにみえるが、それは「日本語」ではなく、「高柳語」なのである。
 「日本語」ではなく、「高柳語」であると意識しながら、つづきを読む。

下降する風と上昇する風とは、全く別の存在なのだ。吹き下ろしてくる風は、私たちの魂をこわばらせ凍えさせるのに対して、わずかな水分を含みもって吹き上げてくる風は、やさしく頬をなぶり、魂のすき間をも満たしてしまう。

 「下降する風」と「上昇する風」が「全く別の存在」であるのは、風の「本質」を「空気の移動」と定義するかぎり、成り立たない。どちらの風も移動している。それは風の「共通項」である。その存在をわけているのは「方向」である。運動である。このことから、高柳が「本質」と考えているのは「運動」そのものであるということがわかる。空気の動き、空気の運動。「動く」だけでは「抽象」である。その動きに、「下降」「上昇」という方向が加わり(付加され)、「抽象」が「具象」にかわる、その瞬間--そこに「本質」がある。
 高柳は「抽象」を「具象」にかえる何かを「本質」と呼んでいるのである。

 ふつうは(というのは、私の経験値をもとにしてのことばだから、ほんとうは「ふつう」ではないかもしれないが)、「具象」から、その「具象」である要素を取り払ったもの、「抽象」を「本質」と言うか、高柳は逆なのである。
 具体的にいうと(高柳なら、私がこれから書くことを「具体的」とはいわないだろうけれど)、「上昇気流(上昇する風)」から「上昇する」という「具体的な運動の方向」を剥奪する。そしてどこかへ動く空気の動きという「方向性をもたない、ただ運動する空気」という「抽象」にたどりついたとき、私はそれを「本質」という。「熱風」なら、「熱をもった」という「具体的」なありかたを取り払って「動く空気」と定義する。その「具体的な要素」をとりはらった「動く空気」という「抽象」が「本質」である、私は言うが、高柳はそうは言わないのである。
 逆なのである。

 そして、その「抽象」を「具象」にかえるものが「本質」である、という定義から、高柳はさらに「論理」をすすめる。
 「魂」。それは「抽象」である。「魂」だけでは、それがどんな「魂」かわからない。それはその「魂」に何かが付加されて(付随して)、ひとつの「特徴」をもつとき、はじめて「魂」としてみえてくる。「大和魂」--ということばは、魂に「大和」らしい要素がくわわったとき大和魂になる。「武士魂」も同じ。「詩人魂」「作家魂」ということばがあるかどうかわからないが、あると仮定して、それがそうであるとき、そこには「詩人」らしい特徴、「作家」らしい特徴が加わったとき、それはそんなふうに呼ばれる。「具体的」な要素が感じられるとき、それに「名前」がつく。
 「名前」をつける、「特徴」を明確にする--そのとき働く「運動」が「本質」である。
 「上昇する風」、その「上昇する」という動きが「本質」なのは、魂をどのように変化させるか--それを見ればわかる、と高柳はいうのだ。
 上昇する風に吹かれると、魂はどうなるか。
 「わずかな水分を含みもって吹き上げてくる風は、やさしく頬をなぶり、魂のすき間をも満たしてしまう。」を魂の側からとらえなおすと、魂は、吹く上げてくる風に、その頬をなぶられ、魂のすき間を満たされる--つまり、魂にすき間がなくなり、充実する。
 充実した魂--それが、魂の「理想形」である。高柳にとっては。
 まだ定義されていない魂を風が、上昇する風が、すき間のない充実したものに変化させる。魂は、形の定まらず、すき間だらけの状態から、風によって、すき間を埋められ、充実したものになる。「本質」になる。魂も「抽象」から「本質」にかわる。

 「抽象」に「具象」が加わり、本質になる。その運動のなかで、風と魂が重なる。同じ動きをする。だからこそ、ことばは次のように動いてゆく。

魂は、その人が今までにあびてきた風でできているに違いない。多くの言語で「魂」と「風」とが同じことばで名指されることは、決して偶然ではない。

 「多くの言語」を私は知らないけれど、たとえば「日本語」でいえば、高柳の指摘していることは「気風」「風貌」「風格」「風情」「風習」「風紀」ということばの「風」に通い合うといえるだろうか。「魂」といっていいかどうかわからないが、そこには確かに「こころ」「精神」のようなものが漂っている。含まれている。
 それは、いわば「魂」に「付随する」何かだが、それが高柳にとっては「本質」。いつでも「付随するもの」が「本質」。
 なぜなら、その「付随する」ものによって「運動」が規定されるからである。

 魂がどんな風に吹かれてきたか、魂は風から、その風の含んでいる「本質」をどのように吸収したか(すき間を埋めたか)によって、魂の「本質」がかわる。魂の「運動」の方向性が決まる--そういうことを、高柳は、見ているのだと思う。



 ちょっと脱線するが……。
 脱線か脱線でないのか、よくわからない部分もあるのだが、

下降する風と上昇する風とは、全く別の存在なのだ。

 このことばは、私のなかで、少し変容する。「高柳語」を考えるとき、別のことばに置き換えてみたい欲望にそそのかされる。そして、その欲望にしたがって、私は、次のように考えた。

 具象と抽象。具象を剥ぎ取られた存在は、いまそこにある存在とは全く別の存在になる。
 たとえば、高柳がここで書いている「風」は「橋の上」で吹かれるというかすかな「具象」をもっているが、実際にはどの土地の、どの橋とは明記されていない。「具象」(土地と名前)を剥ぎ取られている。吹き上げてくる風が「水分」含んでいるという表現から、橋の下に川があるかもしれないとは想像できるが、それも具体的ではない。具象ではない。
 その結果、風は、実際に高柳が(正確には、高柳が書いていることばの発話者が)吹かれている風ではなく、「どこか」の橋の上で、「だれか」が吹かれる風という、まったく別の存在になる。
 そして、そのまったく別の存在である風は、いま、ここにある具象(具体的な何か)に縛られずに、自在に、軽々と動くことができる。
 この軽快さ。
 高柳語が「具象」(具体)を捨て去り、ひたすら「抽象」をめざすのは、「抽象」が「具象」よりも軽々と運動できるからである。
 かろやかな運動のために、高柳は具象を捨てる。
 具象、具体的なものは、さまざまなものを抱え込んでいる。「風」ひとつにしても、「北風」「熱風」「東風」……。そういうものを高柳は剥ぎ取る。けれども、ひとつ、上から吹いてくるか、下から吹いてくるかという運動の形を残し、選びとる。そして、その運動を加速させる。
 すると、それが高柳ワールド、高柳語で構成された詩になる。




星間の採譜術
高柳 誠
書肆山田

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中島哲也監督「告白」(★)

2010-06-12 23:53:45 | 映画
監督 中島哲也 出演 松たか子、岡田将生、木村佳乃

 台詞が多くてうんざりしてしまう。しかも、その台詞が全部説明である。もし、この映画、台詞がなかったとしたら(音がなかったとしたら)、それでもやっていることがわかるだろうか。
 唯一おもしろかったのは、冒頭の、松たか子の話を無視しつづける中学生の描写。そこで松たか子はひとり淡々(?)と語るのだが、その台詞が聞いていられない。とてもつまらない。どうせなら、中学生の描写だけにして、松たか子の台詞を消してしまえばよかったのだ。ストーリーがわからなくなるとしたら、それは映像のとり方が悪い。小道具の携帯メールがあるのだから、そのアップで「犯人がわかった」「○○だ」というようなやりとりを映し出せばいいのだ。松たか子ではなく、こどもの反応で「告白」の内容を知らせれば、いくらかおもしろくなったかもしれない。松たか子の台詞は「牛乳にエイズに感染した血液を入れました」だけで充分だ。
 たのシーンも同じ。本人に「告白」させても、ことばが浮いてしまって映像にならない。映画にならない。本人のことばは消して、他人の反応のなかに「告白」をまぎれこませてこそ映画である。
 そうでないと、これは小説である。それも、自己中心的なモノローグに終始する、うんざりするような小説である。みんな自分のことしか考えていない。それが見え透いた感じで繰り返される小説である。
 どこまでもどこまでも、透明な「真理」。「純粋」と紙一重の透明さ。その嘘くささ。あ、いやだなあ。
 センチメンタル、透明なものを、いま、小説の読者はもとめているのかもしれないが、私はなんだかがっかりする。原作を読んでいないので、私の一方的な思い込みかもしれないが、文学(小説)はこんなふうに透明であってはいけない。
 映画は、たとえ小説が、透明なセンチメンタルを描いているのだとしても、そこから離れて「不透明さ」で勝負してほしい。なんといっても、そこには「役者」という「不透明な肉体」があるのだから。「役者」の「肉体」が魅力的に見えなければ、映画ではない。あ、あんなふうに自分の肉体を動かしてみたい、自分の肉体で他人に影響を与えてみたい--という欲望を引き起こさない映像は、映画ではない。
 もっと簡単にいうと、あ、あのシーン、あの役者の肉体--その行動を真似してみたい、そういう欲望を起こさない映像なんて、映画ではない。
 あえて変な例でいうと、たとえば「ローマの休日」。オードリー・ヘップバーンが話しにうんざりして、ドレスの下で靴(ハイヒール)を脱ぐ。それが倒れて、足で靴を探す--そのときのシーン。そういうものを、私は真似してみたい。真似するとき、肉体の奥から、退屈と、それと相反するちょっと困ったという気分がまじって沸き上がってくる。そのときの「こころ」が楽しい。そのとき、ヘップバーンの台詞はないのだけれど、そのないはずの台詞が聞こえる。そういうシーンが楽しい。
 「告白」には、そういうシーンがまったくない。台詞がないけれど台詞が聞こえるというシーンがない。逆に、聞きたくもない台詞が映像を押しつぶし、「ちゃんと聞かないと、こころの叫びが聞こえないぞ」と説教している監督の声が聞こえてくる。
 やだね、この映画。
 

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高柳誠『光うち震える岸へ』(4)

2010-06-12 00:00:00 | 詩集
高柳誠『光うち震える岸へ』(4)(書肆山田、2010年05月30日発行)

 高柳誠のことばは「論理」を装う。「論理」のなかへもぐりこむように動く。そして、そのとき、「具体」は「抽象」化される。あるいは「固有」をはぎとられる。「論理」は「固有」のなかでは動かない。少なくとも、高柳のことばの運動では。
 作品に則していうと……。
 この詩集では、高柳(話者)は「旅」をしている。そこには、たとえばスペインが、あるいはバルセロナが、そしてガウディが感じられるけれども、具体的ではない。サグラダファミリアもグエル公園も「固有名詞」として出てこない。

 「固有名詞」をはぎとって、動いていく運動。--それは「固有」なものが「本質」だからだろうか。それとも「属性」だからだろうか。

 疑問は疑問のままにして、ただ高柳のことばを追ってみる。「13」の部分。

バスは、街角から日常という空間を取り込んだまま出発し、その目的地に到着する。心が着替えをする暇もなく、次の場所に移動してしまう。

 ここには「具体」は何も書かれていない。どの街角か、街の名前は記されない。バスの名前も記されない。そして「日常」が「日常」という抽象のままのことばで動いていく。「目的地」も「目的地」という「抽象」にすぎない。読者は、それぞれにかってに「固有」をあてはめて、自己流に高柳のことばを読むことができる。
 そして、その「自己流」が「抽象」を「具象」にかえる。
 私の書いていることは少し前後するが、たとえば、高柳が「曲線」と書く。「曲線」の運動、建築物について書くとき、それは「曲線」としか書かれていないにもかかわらず、私は「ガウディ」という「固有名詞」をそれに結びつけ、さらには私自身のガウディ体験(バルセロナ体験)を結びつけ、「抽象」を「具象」にかえてしまう。
 高柳が書いていることが「抽象」であるにもかかわらず、それを「具象」の運動を、整理したものとして感じてしまう。
 そういうことは、「13」の部分では、たとえば「心の着替え」の「着替え」ということばによっても起きる。「心の着替え」自体は非常に抽象的なことばなのに、日々の「着替え」の感覚が、それをとても生々しい「具体」的な匂いのあるもの、肌触りのあるもの、感覚にからみついたものとして感じさせる。
 「抽象」しか書かれていないのに、なぜか「具象」として感じ、また同時に「具象」が「抽象」をまとっているので、そこには「論理」が書かれている、と感じてしまう。

 高柳のことばは、いわば「抽象」と「具象」を行き来している。そこには「抽象」と「具象」が適度に混じり合っているということになる。どちらかに偏ってしまうのではなく、その両方をバランスよく行き来し、「抽象」でも「具象」でもない領域を動いていく。
 そういうことに重なり合うことを「15」で書いている。

その下には、伸び展げられた海岸線がどこまでも続き、それを消し去ろうと波が押し寄せる。海と陸との境界線は、自身を規定するのが耐えられないのか、いつも曖昧なまま、伸びたり縮んだりする。

 海と陸、その海岸線は「抽象」と「具象」の境界線である。そして、ここに書かれている海、陸は、具象であり、同時に抽象である。「固有名詞」ではないから。
 この海と陸に、高柳は、さらに驟雨をつけくわえ、世界を立体化する。

再び驟雨が襲い、すぐにやむ。雨は直ちに海水と交じり合うのだろうか。交じり合うことに、何のためらいもないのだろうか。

 「交じり合うことに、何のためらいもないのだろうか。」ということばは、「心が着替えをする」というときの「着替え」に似たものをもたらす。高柳が書いていることは抽象にもかかわらず、いや抽象だからこそといえばいいのか、読者の(私の、固有の)具象を誘い込む。
 抽象の負の圧力に具象が誘い込まれていくということかもしれない。
 私自身のためらった経験、あれやこれやが誘い込まれ、思い出される。
 そして、それはそのとき具体的であると同時に、何か、高柳のことばによって整理され、ととのえられているような感じになる。

 あ、こんなふうに、一見「論理的」にみえるような感じでことばを動かす必要はないのかもしれない。私は、私の感想を「論理的」に書く必要はないのかもしれない。高柳のことばが「論理的」なのだから、私は、ただ思いつくまま書けば、知らないうちに「論理」を獲得できるかもしれない。

 思いつくままに(いままでも、思いつくままではあるのだが、さらに思いつくままに)書いてみよう。
 「16」。

烈しい日差しと透明な空気に、にわかに陽炎(かげろう)が立ち、世界の像をゆらめかせる。世界がゆらめくと存在の基盤が共振して、影となって浮遊していく。実は、世界は影からできている。

 この「浮遊」は最初にでてきた「浮遊感」の「浮遊」である。「影」は「不随」するもの。そして、その「不随」であるはずのものが、「実は」「不随ではない」。
 「実は」--これが、もしかすると、高柳のキーワードかもしれない。「実は」という「論理」を隠して、高柳のことばを動いている。「実は」はどこにでも補える。あるいは、「実は」を補うと、高柳のことばはもっと読みやすくなる(わかりやすくなる)。
 つづく部分に「実は」を補いながら読んでみる。「実は」はテキストにはない。私が書き加えたものである。
 世界は……。

存在そのものよりも、「実は」その影によってできている。存在は、「実は」光によって発現する仮象でしかない。烈しい日差しにゆらめきだす現象でしかない。影の陰影のうちにこそ、「実は」世界の本質は隠されているのだ。 

 なんと多くの「実は」が隠れていることか。そしてそれは、「不随」と「本質」を繋ぎ合わせている。交じり合わせている。交じり合わせ、同時に「実は」で交じり合っているものを分離している。
 「実は」はふたつのものが出会い、結びつく「場」なのである。



廃墟の月時計/風の対位法
高柳 誠
書肆山田

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高柳誠『光うち震える岸へ』(3)

2010-06-11 00:00:00 | 詩集
高柳誠『光うち震える岸へ』(3)(書肆山田、2010年05月30日発行)

 高柳誠『光うち震える岸へ』の世界にはまりこんでしまったみたいだ。先へ進めない。私の感想はたぶん感想というより、誰かのことばを読むことによっての、きりのない思いめぐらしのようなものだと思う。書けば書くほど、対象から離れていく。高柳誠『光うち震える岸へ』について書けば書くほど、その世界とは関係がなくなってしまうような気もするが、誘い込まれるようにして書いてしまう。
 「01」は旅の浮遊感の分析(?)のつづきである。

あるいは、長時間の空の旅こそが、この浮遊感の原因だろうか。空のはるか高みを長時間運ばれるという自然に反する状態が、肉体と魂とに大きなひずみを生じさせ、両者が、ふだんの対応関係からずれて、互いにせり上がったりひっくり返ったりしたあげく、かりそめの位置関係がようやくにしてできあがったころ、決まって地上に到着する。

 非常に「論理的」に書かれている、分析的に書かれている--と、一読したときは感じる。そして、そこに誘い込まれていく。ああ、そうなのか、と納得する。
 けれど、ここに書かれていることはほんとうに「論理的」か。「論理」によって導き出された「真実」であると信じていいのか。
 たとえば空を飛行機で飛ぶ、移動する。それは「自然に反する状態」か。そもそも「自然」とは何か。飛行機に乗らずに空を飛ぶなら人間の自然に反しているかもしれない。けれど、飛行機が空を飛び、その飛行機に乗って人間が移動するのは「科学技術」の「自然」には反していない。合致している。ここには、「論理」など書かれていないのだ。
 「論理」は書かれていないのに、「論理」が装われている。「自然に反する」というような、否定のことばで、高柳がなんらかの「真実」を知っているかのように装われている。それは「疑似論理」である。
 そして、その「疑似論理」のなかに、「肉体」と「魂」という二つのものが出てくる。二つということは、まあ、こんなふうに考えてはいけないのかもしれないけれど、「00」とのつながりでいえば、どちらかが「本質」であり、どちらかが「不随」である。どっちがどっちであってもいいのだが、「位置関係」とは「本質」か「不随」かの「位置関係」である。
 高柳の「疑似論理」(詩の論理?)は、「本質」と「不随」の「位置関係」を、いままでとは違った形で書くことで、そこにいままで存在しなかった世界を浮かび上がらせる運動といっていいかもしれない。
 詩のつづき。

そうして、魂がまだ慣れない部位に貼りついた状態のまま、肉体がひと足先に地上を歩き出してしまうために、地上の現実とのあいだに大きな齟齬を感じてしまうのだろう。

 魂はまだ上空にある。けれど肉体は地上にある。魂の乖離、分離して上空にある状態が「浮遊感」。--言われれば、なんとなく「論理的」に感じる。
 それはそれでいいとして、では、そのとき「本質」とどっち? 魂? 肉体? 本質が浮遊しているのか。魂が人間の本質であり、それが中に浮いている(まだ空にある状態)が浮遊感なのか。
 ほんとうか。
 もし魂が「本質」なら、すべては魂を基準にして語られるべきであろう。魂が浮遊しているのではなく、肉体が「沈んでいる」(重みに負けている)というふうに表現されなければならないのではないだろうか。
 魂が「浮遊している」ということばが成立するとき、基準は「浮遊していない」肉体の方にある。そうすると、肉体が本質であり、魂は不随である。きちんと付随すべきものが付随できずに、乖離し、(齟齬をかかえて)、浮遊している、ということになる。
 そして、そう考えると、また、奇妙なことが起きる。
 肉体は、そんなふうに「論理」を考えることができるか。考えるという仕事、ことばを動かすという仕事は、肉体に属するものか。魂に属するものか。どちらかといえば、たぶん、魂に属すると考えるひとが多いと思う。そうすると「不随」の方が「思考」をつかさどっていることになる。
 変じゃない?
 「不随」である存在が、人間という存在のあり方を考える「基本」というのは、何か変じゃない? 考えるということは、「本質」が中心になって進めないことには、論理が「本質的」にならないのでは? どんなに考えても、それが「不随」を出発点としている限り、「付随的」にならない?
 変だよねえ。
 それに、高柳がここで書いている「疑似論理」は、奇妙なことに「重力の自然」という「科学的論理」を流用している。つまり、重いものは地上に落ち、(肉体は地上にしばられ)、軽いものは浮く。魂という、いわば重さを測ることのできないもの(重量のないもの)は浮いている。ね、科学的でしょ?
 でれ、人間が肉体と魂からできている、それには「位置関係」がある、というのは科学的? 違うねえ。

 高柳は、あたかも高柳のことばが「論理的」であるかのような印象を与えるようにして書かれているけれど、それは「論理」とは無縁なのだ。「論理」があるにしても、それは「流通言語」でいう「科学的」なものではない。「自然に反する」というような、あたかも科学を踏まえたようなことばをつかっているが、そこには「科学」というものはない。
 では、何があるのか。
 ある存在を「ふたつ」に分離して見る視線、「ふたつ」に分離して、その「距離」を測るという「文体」があるのだ。
 
 「02」は空港の描写である。空港を高柳は、次のように定義する。

互いに見も知らぬ人々を同じ時空にとどめ、そのことの意味を探る間を与えることもなく、別の時空へと放り出す。それぞれに、回遊魚としての深い孤独を表出させながら。

 「空港」というひとつの「時空」。それとは「別の時空」。「別の」がキーワードである。「別の」ということばによって、空港と、空港以外の街は、「本質」と「不随」に分割される。どちらが「本質」であり、どちらが「不随」であるかは、いわない。
 というより、「不随こそが本質である」というのが、どうやら高柳の「思想・思考」(嗜好、肉体に染み付いた考え)のようでもある。
 「03」は、土地と匂いについてのことばの運動である。

空港ごとに固有の匂いを発している。いや、発しているというより、それは隠された属性なのだ。土地は、実は匂いからできている。

 「隠された属性」は「不随」である。そして、その「隠された属性(不随)」が、実は、土地の「本質」である。
 高柳は、そんなふうに、いま、ここにあるものの「本質」と「不随」をていねいに逆転させながらことばを動かしていく。
 この運動は、すぐに不思議な壁にぶつかる。論理的に考えれば、のことだけれど。
 つまり。
 不随が本質なら、最初に本質と定義されたものは不随であるから、不随が本質であるという定義が成立した瞬間に、その位置関係はどうなる? なんだか、幾重にも輻輳する循環迷路に入り込むことになってしまう。
 これは、高柳も承知している。知っていて、その方向にことばを動かしているのだ。
 「04」。

いきなり、何層もの光、何層もの風に包み込まれた。ここでは、空気が層を成して存在し、その層ごとに、違う光が輝き出て、違う風が吹き渡る。いや、空気の層ごとではなく、光の層はそれ自体で存在し、風の層もそれ自体で存在する。

 存在するのは「層」である。光でも風でもない。「層」、複数の存在によってはじめて存在することができる「層」というもの。
 複数の存在があるとき、どれが「本質」、どれが「不随」? わからないね。「本質」というものがあるとすれば、あるいは「真理」「真実」と言い換えた方がいいのか--「真理」があるとすれば、つまり、いちばん間違いの少ない「論理」があるとすれば、それは存在には「本質」と「不随(属性)」があり、それは交代するものである、ということになるかもしれない。

 こういうことを、高柳は、また別のことばでも言い換えている。いや、そんなふうに、簡単にことばが決着しないように、別なことばでゆさぶりながら、ことばを動かしていく。
 高柳の描いている「旅」、その降り立った土地はバルセロナを連想させる。ガウディの建築物を想像させる。その「街」の描写。「07」。

曲線を。何よりも曲線を。直線の硬直性を排し、曲線だけに存在する原理をただひたすら追い求めた空間。その行為の成果としてのこの場所に、乗り物酔いに似たかすかな違和感を味わうのは、私だけだろうか。

 「直線」と「曲線」。どちらが「本質」か。仮に「直線」を「本質」と呼んでおく。そういう場合でも、不随の「曲線」にも「原理」というものがある。そこにも「本質」的ななにかがある。そして、その不随であるべきものが、その不随の中に存在する「本質(原理)」にしたがって運動を展開すると、そこに「違和感」をもたらす何かが浮かび上がってくる。(違和感を感じるのは、逆説的ないい方になるが、「直線」が「本質」であると考えている「証拠」である。曲線が最初から「本質」であるなら、その「本質」が「本質」の原理にしたがって運動を展開しても、本質の範囲内であり、それが「違和感」をもたらすというのは、一種の矛盾である。)
 問題は、そういう「違和感」--それを高柳が拒絶しない、むしろ好むという思想にある。(何が問題といわれると困るが……。)

とにかく過剰なのだ。過剰な曲線性のなかに、かすかに見え隠れする狂気の気配。そのほのかな気配に酔ってしまうのだ。

 「かすかに見え隠れする」もの。「隠された属性」。それが「過剰」のなかで、いくつもの「層」になる。それに酔う--魅了され、引きこまれていく高柳。
 はっきり見えるものではなく、隠されている「属性」--それにひかれ、それこそが「本質」である、ということを、「論理的」に説明しようとすることばの「過剰」な運動。それが、高柳の詩である。




樹的世界
高柳 誠
思潮社

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ジョニー・トー監督「冷たい雨に撃て、約束の銃弾を」(★)

2010-06-10 11:44:10 | 映画


監督 ジョニー・トー 出演 ジョニー・アリディ、アンソニー・ウォン、ラム・カートン、ラム・シュー

 「エグザイル/絆」がヒットしたから、同じようなものでもう一稼ぎ--ということなのだろう。ちょっと見え透いていますねえ。男の信義、というのもなんだねえ、そんなおおげさなものじゃなくて、金をもらったからその仕事をする、というだけのことだね。
 なぜ、わざわざ父親がフランス人なのか。フランス資本がからんでいるから。理由は、それだけ、というのも寂しい。フランス人が殺人を依頼してはいけないというのじゃないけれど、それなりに「伏線」がないと、なぜ?という疑問しか残らない。
 依頼主がだんだん記憶を失っていくという設定はおもしろいが、そのことによってストーリーがねじれていくというわけでもない。単なる飾り。日本語のタイトルそのまま、こけおどし。
 クライマックスの雨のシーンも、中途半端。記憶を写真でたしかめるのだけれど、写真に書いてある名前だけで、どうしてそれが敵か味方かわかる? 名前は覚えているが、顔は忘れてしまう。そんな便利な記憶障害ってあっていいのかなあ。
 文字ではなく、映像、肉体の動き、肉体にしみついた何かが記憶を揺さぶり、人間を動かすという具合じゃないと、映画じゃないよ。雨のなかで最初に出会った、そのときのコートの濡れ具合、歩く歩幅、アスファルトに移る銃の影……とかさ。
 写真と顔と文字を見比べるなんて、なんとも間抜けなシーンである。
 唯一おもしろいのは、銃の試し撃ちをするとき、4人で自転車をねらうところかな。自転車に弾があたる。反動で自転車が動く。その動きが無人のまま自転車が走るシーンにつながる。かっこいいじゃないか。夕暮れの空気まで、きざで、美しい。歩く4人のシルエットも。それから、なぜかその前(スクリーンの前景という意味だけれど)を横切る自転車の動きも。かっこよけりゃ、それでいい、という美学が潔くていいなあ。
 でも、あとは、ほんとうにダメ。殺し屋3人を見つけたあと、その殺し屋からの食事の差し入れ、それを食べるかどうか。フランス人の父親が「娘を殺した奴のつくったものなんか食べられるか」ということばで、わざわざ説明するところなんて、最悪だね。ハードボイルドだろ? そんなセンチメンタルなことばを聞かないと、父親の心情がわからないやつらに信義がわかるもんかねえ。


エグザイル/絆 スタンダード・エディション [DVD]

キングレコード

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高柳誠『光うち震える岸へ』(2)

2010-06-10 00:00:00 | 詩集
高柳誠『光うち震える岸へ』(2)(書肆山田、2010年05月30日発行)

 高柳誠の文体は非常に堅牢である。あるいは緊密ということばの方が正確だろうか。乱れがない。そのために安心して読むことができる。知らないうちに、いま、ここから、ことばの世界へと引きこまれてしまう。
 あるいは、そういう面倒なことばは避けて、文体が完成している、と言ってしまえばいいのかもしれない。

 文体の完成、完成した文体--その定義はいろいろあるかもしれないが、私が思い描くのは、「私」と「対象」の距離である。「私」と「対象」の「距離」が一定であるとき、そこに「完成」を感じる。自分自身の確固とした基準をもって、その「ものさし」で対象を定義しなおす。そのとき、文体というものが浮かび上がってくる。

 いま、わたしは、「距離」と書いたが、この「距離」はまた高柳のこの詩集の重要なテーマでもある。
 それは、「絶えずゆれうごく透明感と距離感」ということばのなかにも出てくる。「距離」--隔たりを、「私」との隔たりを、高柳は何度もくりかえし描いている。
 そのなかで、いちばん不思議なのは、次の部分である。

見る側ではなく、自分自身が映画の中の人物として登場したかのような現実感のなさ。

 「見る側ではなく」と明確に書かれているが、この「浮遊感」は「見る側」を省略しては成り立たない感覚だと思う。高柳は、「見ている」のである。「映画の中の人物として登場」している自分を見ている。高柳自身は、いま、ここにいる。そして映画を見ているのに、その映画を未定いるはずの高柳がスクリーンにいる。
 単に映画のなかに登場するだけでは、高柳の「浮遊感」(距離感)は生まれてこない。「浮遊」(距離)は、いま、ここにいる「私」と、いま、ここにいない「私」の「距離」なのである。いま、ここに私がいるのに、いま、ここにいない私を想定することは矛盾だが、その緊密にからみあった矛盾が、--その矛盾を浮かび上がらせる「文体」が詩なのである。

 「対象」が詩ではない。「文体」が詩である。

 あたりまえのことだが、このことは、やはり明確に書いておかなければならない。「文体」だけが詩である。何をではなく、「どうやって」書くか、その方法だけが詩である。
 高柳は、見えないもの、「浮遊感」を見るために(見えるようにするために)、「距離」にこだわる。「私の身体」と「身体の傍ら」にあるものの「距離」にこだわる。
 「身体の傍ら」というのは不思議なことばである。特に、

現実感が身体の傍らから蒸発していって、その分、自分の存在が日常の澱を剥がされて希薄になり、それが独特の浮遊感を生み出して、次々とスクリーンの上の領域を移動してゆく原動力となるのだろう。

 この「身体の傍ら」は、とても不思議である。
 ここには「映画」の「見る」と「登場する」との関係が繰り替えされている。
 「私の身体」というものが一方にあり、高柳は、あくまでそこから「距離」を見ている。その動かすことのできない「私」が一方に明確に存在し、そこから「傍ら」という「私」から離れたものを見ている。
 そこには一種の「分離」がある。
 「私の身体の傍ら」というものを「私」とは完全に独立したものと考えれば、それは「分離」ではないが、高柳は、「身体の傍ら」を「私」とは独立したものとは考えていない。「一体」のものとも考えていない。奇妙な形で、ぴったりと寄り添っているものと考えている。「接点」があるものと考えている。
 それは、

現実感が身体の傍らから蒸発していって、その分、自分の存在が日常の澱(おり)を剥がされて希薄になり、

 の「その分」ということばのなかに記されている。「その」のということばのなかに書かれている。蒸発していったもの--それを、「その」ということばで私自身と関係あるものとして引き寄せる。「その」といえるのは、それを「私の身体」がはっきりと自覚しているからである。
 それは「身体の傍らから」蒸発していったと書かれているが、それは「身体から」とほとんど同じ意味である。「自分自身の身体から」「現実感」が蒸発していった。それは、

自分の存在が日常の澱を剥がされて稀薄になり、

 と同じことなのだ。自分の存在の日常の澱--それが身体の傍らにある「現実感」である。現実感とは「日常の澱」であり、その「日常の澱」は「自分の存在」とともにあるものである。
 高柳がそれを「身体」にあるというよりも、「身体の傍ら」にあるものと感じているのは、高柳にとって「身体」とはあくまで「身体の内部」であるということかもしれない。別なことばでいえば、「肉体」というより、「精神」--それを高柳は「自分自身」と考えている。感じている。「私」の「本質」は「精神」である……。

 ところが、そんなふうに簡単に割り切ることはできない。

 きのう書いたことだが、この詩集(あるいは、この冒頭の詩だけかもしれないが、それはこれから先を読んでいかないとわからないが……)では、「本質」と「不随」が入れ代わる。「不随」が「本質」であり、「本質」は「不随」である。
 高柳の「本質」は「精神」である、と私はいったん定義したが、この詩集のなかでは、その本質である精神が「不随」にかわり、「不随」である何かが高柳そのもの、「本質」になる--そういう逆転が起きる。

 ことばというもの、あるいはことばを書くということと言い換えればいいのだろうか。ことばを書くということは、そのことばが、そのことばではなくなってしまうということである。そのことばが、いまあることばから違ってしまう、ということである。
 書きながらことばが変質していく。書いてしまうと、ことばが違ったものとして、その向こう側へ行ってしまう。そうして、私が私ではなくなってしまう、ということが起きる。
 そういうことが常に起きる。そして、そういう現象を、ていねいに再現したものが「文学」と呼ばれるもの、詩と呼ばれるものである。
「私」はいつも、いま、ここに存在する。しかし、ことばを動かしていくと、「私」は「私」ではなくなり、いま、ここも、いま、ここではなくなる。それはしかし、いつ、どこなのかと問われれば、いま、こことしかいいようがないのだが……。
 つまりそれは、いま、ここを測る(定義づける)はずの「物差し」が変わってしまったということである。
 と、書いてしまうと、またまた、同義反復の矛盾になるが……。

 自分自身の正確な「物差し」にしたがい、「現実」と呼ばれているものをはかりなおす--そうすると、「現実」がいままでとは違ったものになって見えてくる。そして、そんなふうな「別な現実」を見ることができる人間に、ひとは生まれ変わる。そういうことをことばの運動として体験することが「文学」である。

 というような、面倒なことを、高柳は、「論理(批評)」としてではなく、「旅行記」、しかも「浮遊感」の「旅行記」として書こうとしている。

 あ、やっと、「出発点」にたどりついたかなあ……。と、ここまで書いてきて、思った。まだ「00」の部分にしか触れていないのに……。



廃墟の月時計/風の対位法
高柳 誠
書肆山田

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