詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

吉浦豊久「縁者」ほか

2010-06-09 12:08:43 | 詩(雑誌・同人誌)
吉浦豊久「縁者」ほか(「ネット21」21、2010年05月10日発行)

 吉浦豊久「縁者」は、ことばがゆったり歩く。どちらかというと「よそみ」しながら歩く。

桜冷えの
家人の寝静まった屋根裏に
隠れハシゴを伸ばし 忍んでゆく

 これは書き出しの3行だが、「桜冷えの」がまず「よそみ」である。「桜冷え」であるかどうかは、これから先起きることと関係がない。「家人の寝静まった」も関係かないといえばない。関係がないのだけれど、そういう「背景」があると、そこから「におってくる」ものがある。それを「におわせる」ために「よそみ」がある。
 「よそみ」は「本質」ではないが、「本質」を支える何かになるのだ。そういうことを吉浦は知っている。
 で、つづき。

先日
九条油小路西入ル
東寺弘法市で購(あがな)ったボロ軸のヒモを解く
エロボクロでひさぐ辻君の腰ヒモを解く
腰巻にこぼれる局の 虫喰いが酷すぎる
襟元のホクロと思っていたのが 掻き消え
実は 古生代節足の紙魚(シミ)の仕業だった
いつの頃からか ヤマトシミに代って
セイヨウシミが巾を利かしてきて
あらゆる食物がある時代に
表具糊だけを食べて
人間の歴史よりもはるかに長く棲息しているシミに出会ったというのも
奇怪(きっかい)と言えば 奇怪

梁下の長櫃の 遊女の絹本の軸シモを解く
雲母色の紙魚が隠れていた
絹だから 衣魚と書くべきか

シミは 米や麸や糊のデンプン質を好むとか
落雁を鉱物としているオレもその縁者か

 ずーっと「よそみ」だね。あるいは「よそみ」を装った「まっすぐ」というべきか。きっと大事なのは、その「ふたまた」の感覚なんだろうなあ。におわせ、同時にはずらかす。
 それがどんな絵なのか、まあ、正確には書いてないけれど、こんなふうに書かれると、ワイセツな絵を想像してしまうね。「軸のヒモ」は「腰ヒモ」なんてね。
 そして、その絵を「喰っている」のがシミ。「人間の歴史よりはるかに長く棲息している」と吉浦は書いているけれど、正確には「人間の歴史」ではなく、それを描いたひとの生涯、だろうね。
 その絵に対する興味は、それこそ「人間の歴史」そのものだろうけれど、シミはシミでその「絵」ではなく、実は、その素材--しかも絵の紙ではなく(絹ではなく)、糊にこそ興味があって、糊を食べているつもりが紙(絹)、つまり絵を食べてしまっていて…………。
 あれっ、ここでも、ほら「本質」(本道)と「わきみ」が奇妙に重なり合っているねえ。
 そういうことが、なんだか、おもしろいねえ。
 だからね、

シミは 米や麸や糊のデンプン質を好むとか
落雁を鉱物としているオレもその縁者か

 なんていうのは、「わきみ」と「本質」が混同しているようなものであって、シミはエロ絵が好きだねえ。オレもその縁者なんだなあ、というのが、ほんとうは書かれてしかるべきことばなんだろうけれど、
 そんなふうにストレートじゃおもしろくない、
 ので、わざと「よそみ」ふうに書く、はぐらかして書く。
 それが、この吉浦の詩だ。

 ちょっと、岩佐なをに教えてやりたいような詩である。岩佐よりもしらばっくれている。そこに、不思議な乾いた印象がある。




 岡本由美子「歪む」にも、こころを動かされた。

何時か知ら背負っている
荷が重いのか
心の背骨が歪んでくる
雲が懸かって見通せないから
声を模ることも出来ない

 「心」と「肉体」(骨)の入り乱れ(融合)がおもしろい。そして、それが「声」に影響しているところがおもしろい。岡本は、「人間」を「心」「骨」「声」という具合に書き分けながら、それはどこかでつながって「ひとつ」のものとなっている。
 その感じが、不思議な手触りでつたわってくる。

苛立って歪む
手を差し伸べてくれるのだけれど
頑な私は拒む
歪んでくる
歪んでくる
拒むからまた歪む
背負うのは私だ
強がってまた歪む
歪むから端と端が重ならない
荷の本然から遠ざかる
心が泡立って
歪んでゆく
歪んでゆく

 「歪むから端と端が重ならない」がいいなあ。何の端と端? はっきり言えないから書かない。それは「心」と「背骨」の端かもしれないし、「声」と「背骨」の端かもしれない。そんなものは、もともと違う存在だから重ならない--とは、しかし、岡本に対しては言えない。
 なぜか。
 ほら、岡本は「背骨」を「肉体」のものではなく、「心の背骨」と書いていた。それはどこかでつながっている。「声」ともつながっている。融合している。それにもし、端というものがあるなら、その端と端はつながっていいはずである。重なっていいはずである。

 「流通言語」では書くことのできないものが、ここでは書かれようとしている。


或る男―吉浦豊久詩集 (1984年)
吉浦 豊久
風琳堂

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高柳誠『光うち震える岸へ』(1)

2010-06-09 00:00:00 | 詩集
高柳誠『光うち震える岸へ』(書肆山田、2010年05月30日発行)

 高柳誠の『光うち震える岸へ』は「旅」の詩集であるらしい。あるらしい、と書くのは、私はまだ複数の章(断片)で構成された詩集の00から10までしか読んでいないからである。全部読んでから感想を書けばいいのかもしれないが、何かが、「一気に読むな」と私に言っている。一気に読んではいけないことばなのである。
 「00」の部分。

旅に付随する浮遊感。日常から断ち切られたところに拡がる領域。それらは、ガラスの水槽を通したかのような、絶えずゆれうごく透明感と距離感をともなって漂っている。現実のただ中を漂っている。いわば、映画の浮遊感。見る側ではなく、自分自身が映画の中の人物として登場したかのような現実感のなさ。現実であることは疑いえないのに、現実感が身体の傍らから蒸発していって、その分、自分の存在が日常の澱(おり)を剥がされて稀薄になり、それが独特の浮遊感を生み出して、次々とスクリーンの上の領域を移動してゆく原動力となるのだろう。

 旅の浮遊感。「自分自身が映画の中の人物として登場したかのような現実感のなさ。」そのことを書こうとしている。そして、実際に書いているのだが、読みながら不思議な気持ちになる。
 高柳は「旅の浮遊感」ではなく「旅に付随する浮遊感」と書いている。その「付随する」ということばが、この断片を読み終わったあと、奇妙にひっかかるのである。
 「付随する」。つきしたがう。従属する。それは「本質」ではない。ほんとうは「旅」なのである。テーマは「旅」でなければならないのである。それなのに、その「旅」はどこかにおいておかれていて、その「本質」ではないものを読まされている。読んでいる。そういう感じが、私を不安定にさせる。

 言いなおそう。
 「旅」というのは、高柳が書いているように「日常から断ち切られた」世界へゆくことである。そこは「日常」ではない。それはそうなのだが、そんなことは、普通はいちいち言わない。もっと簡単に「旅」を語ることができる。ふつうは、「○○へゆく」という。「旅」には「目的地」がある。その「目的地」がここには書かれていない。「旅」の「目的地」は「旅」の「本質」である。
 「付随する」ということは、そのことを明瞭に語っている。「旅」の「本質」は「目的地」である。「浮遊感」は、それに「付随する」ものである、と明確に語っている。
 明確にそう書いてあるにもかかわらず、ことばは、それを裏切って動いていく。「本質」についてはなにも書かず、「不随する」ものについてのみ書いている。そして、そのことばを読んでいると、その「付随する」ものこそが「旅」の「本質」だと思えてくる。
 どこへゆくか。「目的地」はどこか。それこそが「付随的」なものであって、「旅」の「本質」は、日常(現実)からの「浮遊感」にある。その「浮遊感」--「感じ」がどんなものであるかを明確にする--「感じ」としかいえないもの、あいまいなものを、ことばで辿ること、ことばで旅してゆくこと、それが「本質」である。

 いつのまにか、「不随」と「本質」が入れ代わっている。「不随」が「本質」であり、「本質」は「不随」である。
 あ、ことばが、混乱しそうである。この奇妙な入れ代わりを、ことばが重複しないように語りなおすことはむずかしい。
 「付随する」ものは「付随する」ものでは「ない」。「本質」は「本質」では「ない」。そう言い換えるところで止めておかなければいけないのかもしれない。「付随する」ものは「付随する」ものでは「ない」。したがって、それは「本質」である、と言い換えてしまうから、「付随する」ものが「本質」で「ある」という「矛盾」にいたってしまうのだろう。

現実のただ中を漂っている。いわば、映画の浮遊感。見る側ではなく、自分自身が映画の中の人物として登場したかのような現実感のなさ。

 高柳のことばをゆっくり読み直せば、そこに「現実」と「現実感のなさ」(ない)が、ぴったり寄り添っている。
 「入れ代わらず」に「寄り添う」。
 これが高柳のことばの運動の特徴かもしれない。
 「入れ代わり」のなかには、「一」という概念がある。「主語」(主役)は「一」であるという概念がある。「一体」になり、それを凌駕していく。あるいは、止揚していく。弁証法的にいってしまうといけないのかもしれないけれど……。どういえばいいのだろう。「本質」は「一」である、という概念があると思う。
 ところが、高柳は「一」をもとめていない。「一」ではないことをもとめて動いている。「寄り添う」ことで常に「複数」であろうとしている。その複数であることが、存在の「本質」であるとまで言えるのか(言おうとしているのか)、それはまだわからないのだけれど……。

 あ、また、私のことばがかってに暴走してしまった。高柳が書いていることから離れてしまったかもしれない。
 「寄り添う」。高柳のことばの運動は「入れ代わり」ではなく「寄り添う」。それを象徴しているのが、

現実感が身体の傍らから蒸発していって、

 この部分の「傍らから」である。身体そのものではなく、「傍ら」に意識が動いていく。ことばが動いていく。「本質」ではなく、「付随する」ものにことばが動いたように。そして、そのとき、また不思議なことがおきる。
 「身体」が「主語」ではなく、「傍ら」が「主語」になってしまう。「入れ代わる」ようにして、ことばが動いていく。どちらがどちらに「寄り添っている」のか、あいまいに、わからないまま。
 あいまい、わからない、とはいうものの、こそに書かれていることばは、どれも「正確」に見える。もっといえば、「正確」を通り越して、ちょうどどの強い眼鏡で何かを網膜に焼き付けられたかのような、見えないものを強引に見せられたような、一種の酔いを誘い込むような強さがある。

現実感が身体の傍らから蒸発していって、その分、自分の存在が日常の澱(おり)を剥がされて希薄になり、それが独特の浮遊感を生み出して、次々とスクリーンの上の領域を移動してゆく原動力となるのだろう。

 「日常の澱」「原動力」。ね、そういものって、「見えない」ものでしょ? その「見えない」ものが、いま、ここに動いている。ことばによって動いている。
 と、書いて、またもとにもどってしまうのだけれど。
 「浮遊感」「付随する」。あ、これもまた、「見えない」ものだった。
 高柳は、その「見えない」ものを描くためにことばを動かしている。「見える」ものがあって、それを「描写」(写生)するのではなく、「見えない」ものがあって、それを「描写」(写生)する。
 どんなふうに?
 「距離感」を克明に描くことで。
 「身体」と「身体の傍ら」を意識する「距離感」、くっついている? はなれている?よくわからない「領域」にことばを動かすことで、その領域でことばがどんなふうに動けるかを確かめるように。




星間の採譜術
高柳 誠
書肆山田

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(アマゾン・コムの商品がリンクされるのは、いつもとても遅い。特に詩集は遅い。古い作品を紹介しておく。)
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紫圭子『閾、奥三河の花祭』

2010-06-08 00:00:00 | 詩集
紫圭子『閾、奥三河の花祭』(思潮社、2010年04月30日発行)

 紫圭子『閾、奥三河の花祭』はタイトルどおり、愛知県・奥三河のまつりを描いたものなのだろう。私は不勉強で、そのまつりについては何も知らない。何も知らないが、紫のことばから、「まつり」そのもののがかいま見える。

(お玉はかわいいのん
うしろの婆さまが背を撫でてくれる
背中のお玉は眠い眼を開けて婆さまの手を舐めている

(にゃんこもお玉はそれはそれはかわいいぞん
(たぬこもわんこもかわいいぞん
(鳥んぽもばんどりも 白山のてんとうさまの真ん前で舞っとるがね
(向こうとこっちを行き来できるながあい橋がおりてくるんだわ
(それはそれはかわいいぞん

橋もかわいい
いきものだから

 「橋」はふつうは「いきもの」とは言わないだろう。けれど、ここでは「いきもの」と呼ばれている。これが、この「まつり」の本質だろう。いま、ここに存在するすべてのものがいのちである。いのちでないものはない。
 ただし、その「橋」はふつうの「橋」ではない。
 「橋」は「向こう」(人間の世界ではない世界・異界)と「こっち」(人間の世界)を結ぶもの。それが、どこからか「おりてくる」。そのおりてきた「橋」が「いきもの」であり、「かわいい」。
 「かわいい」はなんだろう。ひとをひきつけるもの--そのエネルギーかもしれない。

(衣装箱もかわいいぞん
衣装箱が笑った
衣装箱が口を開けるとお玉の舞いの白い小袖がひらりひらりほほえんだ
(地下足袋もそれはそれはかわいいぞん
地下足袋はあわてて走り出した
黒い地下足袋赤い地下足袋 山の斜面を駆け抜けて
白山のてっぺんでぴたっと止まった

妹の力 姉の力に山が燃えて
ひとすじの橋が社にかかった

わたしくしの背にお玉がもぐりこんだ
お玉の舞いに
笛や太鼓は波打った
生まれ清まりの白い小袖は天と地につながった
ここは死者と生者の行き来する渦の結び目
白い橋はばんどりの飛び移る樹幹にはりめぐらした蜘蛛の糸橋のよう

 「まつり」は「お玉」と呼ばれるものに憑依され、躍り狂う。そのとき人間の肉体が踊るのではなく、音楽が踊る。「笛や太鼓は波打った」。主客がいれかわる。融合する。それが「まつり」。「天と地がつなが」り、融合する。そとこ、「死者と生者が行き来する」ための「橋」。「橋」という「場」としての「舞い」。
 それは「舞い」が「場」であるということでもある。人間の「行動」が「場」である、ということでもある。

 人間の「舞い」、「行動」が「場」であり、そこにいのちが行き来するなら、人間の「ことば」もまた「場」であり、そこにいのちが行き来する。--そのときの輝きが、詩である。
 紫は、そういう「場」、いのちが行き来する「場」としてのことばを、「まつり」を通して獲得しようとしている。

 ときどき、その「場」がとてもおもしろい。

水のみえる土地を
わたしはあるいた
黙って
水が
わたしをしめころしにくるときを喉の奥で待っていた
                   (「鬼ひめ」)

 「喉の奥」という「肉体」がいい。絞め殺しに来るのを待っているとき、「喉の奥」はすでに絞め殺されている。その予感に喜びがあふれている。殺されるのに幸福。--この矛盾は、絞め殺される瞬間こそ、そこで生と死が出会うからである。
 ひとは生きて死ぬのではない。
 ひとは生きて、死という他者と出会うことで、私から逸脱して他人になってしまう。うまれかわる。
 まつりは、そういう体験を共有する「場」である。「わたし」ひとりがそうなるのではなく、そこに集まってきたひとすべてが、「わたし」から逸脱し「他者」(他人)になる。そうなるために、集まってくるのである。

おまえは
うっとりと口を開けて
はじまりもおわりもない
海原をとおりぬける
                    (「鎮魂歌」)

 まつりには、「はじまりもおわりもない」。それは「時間」ではなく「場」であり、「場」に境界はない。なぜなら「場」は空間ではなく「時間」だからである。--と書くと、矛盾になるだろうか。寸前に「時間ではなく場である」と書き、いまは「空間ではなく時間である」と書く。--その矛盾。矛盾の結合。だが、その硬い結びつきがすべてなのだ。矛盾した形でしかいえないものがすべてなのだ。
 だから、次の行が気になる。

(あなたよーい 夫よーい 六十兆の体細胞よーい
                    (「閾」)

(尾の細胞の数って胴の細胞の数と比例するんだよね
(わたしという細胞は六十兆あるんだ
(わたしのなかの六十兆の人々、おはよう!
                 (「はらかずき、と、かげ、のすきまに緑萌え)

 「六十兆」って、誰が数えたんだろう。どうやって計算したんだろう。まあ、「言い伝え」かもしれない。(最新科学の言い伝え、かもしれない。)
 この「六十兆」という「思想」のなかには、私が矛盾でしたいえないものと書いたものが結晶しているのかもしれない。きっと、そうなのだと思う。思うけれど、同時に私は、つまずく。つまずいてもしまうのだ。
 あ、「橋もかわいい/いきものだから」と唐突に言ってしまったときの美しさがない。「頭」できれいに整理されすぎて、「かわいい」が消えてしまっている。
 「かわいい」はほんとうは「かわいい」ではない。(辞書に書かれている「かわいい」とは違う。)「かわいい」ではないのだけれど、「かわいい」ということばをつかうことで「かわいい」の「流通言語」の「意味」を破壊して、違ったものとしてつかってしまう。つかうことで「流通言語」から離れてしまう。そういう運動が「かわいい」にはあった。
 「六十兆」にも、数の概念を破壊し、自由に動いていこうとする「頭」の意図があるといえばあるのかもしれないけれど、私には違うように感じられて仕方がない。

 「かわいい」はわからない。わからないけれど「肉体」のなかにある、ことばにならないことばが「かわいい」でいいと言っている。
 「六十兆」もわからない。私は六十兆まで数えたことがない。1兆が60個(?)ある考えようにも、その「1兆」も数えたことがない。1000億が 600個でもだめ。 100億が6000個でもだめ。10億が6万個でも、だめ。もっと小さくいくつかにわければいいのかもしれない。1億が10個あつまったものが6万個、1億が 100個あつまったものが6000個……ああ、でも、だめだねえ。そんなもの、数えたことがない。
 「肉体」がどんどん遠くなる感じがする。
 「六十兆」といったとき、「頭」が、「頭のことば」が暴走していく感じがする。それは「かわいい」ではなく、私には、「怖い」という感じになってしまう。
 「かわいい」まんまがいいのだけれど、好きなのだけれど、かわいだけでことばを動かしていくのはむりなのかなあ。どこかで「頭」でことばを動かさないと、とんでもないことになるのかなあ。
 うーん。
 でも、とんでもないからこそ「まつり」にしてしまうのじゃないのかな、とも思う。「まつり」の「場」に吐き出してしまうのじゃないかなあ。「まつり」という「場」に何かを閉じ込め、もう一度、人間は「現実」にもどるんじゃないのかなあ。「現実」にひきかえすために、「現実」をリセットする(?)ために「まつり」があるんじゃないのかなあ。
 「頭」(六十兆まで簡単に言いきってしまうことば)でリセットしてもなあ……。






閾、奥三河の花祭
紫 圭子
思潮社

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バリー・レヴィンソン監督「レインマン」(★★★)

2010-06-07 19:33:28 | 午前十時の映画祭

監督 バリー・レヴィンソン 出演 ダスティン・ホフマン、トム・クルーズ、ヴァレリア・ゴリノ

 「午前十時の映画祭」18本目。
 私はこの映画をうまく消化しきれない。長い間別れていた兄弟が、父の死をきっかけに出会い、一週間の旅をする。その過程で、ある程度打ち解け、家族の絆をたしかめる--というストーリーである。
 とてもよくわかる。
 でも、そんなに簡単? そんな簡単に人間関係というものはかわるものだろうか。それが、よくわからない。ストーリーはわかるが、ストーリーのなかで展開されていることが、どうにもよくわからないのである。
 「自閉症」というものを私がよく知らないということも原因のひとつかもしれない。
 この映画ではデスティン・ホフマンが自閉症の兄を演じている。彼は、決まりきった日常を繰り返さないとパニックになる。新しい騒音も苦手である。一方、数字にはとても強い。記憶力もずば抜けている。この「弱点」と「天才」の対比の描き方が、私には、どうにも疑問が残るのである。
 同じ日常を繰り返さないと不安になる。日常と違ったことは全部だめ。それは、私からみれば(トム・クルーズからみても、だと思う)「どうして?」というようなことである。初対面のひとはこわい。体に触られるとパニックになる。デスティン・ホフマンの読んでいる本を手に取ってはだめ。ベッドは窓の側でないとだめ。ホットケーキにはメイプルシロップと爪楊枝がいる。下着はKマートのものでないとだめ。--こういう部分は、ダティン・ホフマンの「弱点」のように描かれている。「弱点」というより「問題点」といった方がいいのかもしれない。
 一方、電話帳の名前と番号を一回読んだだけで記憶してしまったり、床にこぼれた爪楊枝の数を即座に数えたり、三桁の掛け算を楽々とこなしたりする。そういうことは、ふつうのひとにはできない。だから、そういう部分は「天才」として描かれている。映画のなかで「天才(的)」と表現されている。(少なくとも字幕では、そういう印象が残る。)
 でも、そうなんだろうか。日常と少しでも違うとパニックを起こすことが「問題点」(弱点)であり、数字に強いのが「天才(的)」なのか。もしかすると、逆かもしれない。決まりきった日常を決まりきった状態で繰り返す、そんなふうに自己制御するというのは「天才(的)」なことであり、三桁の掛け算が暗算でできることや、一度読んだ本は覚えてしまうということの方が「問題点」かもしれない。
 三桁の掛け算の暗算や、一度読んだ本は覚えてしまうということの方が、もしかすると人間関係を「邪魔」しているかもしれない。そんな能力があるために、それをどう他人との関係のなかでいかしていいかわからなくなる。そういうことはないだろうか。
 ひとには誰でもわからないことがある。同じように、苦手なことがある。わからなかったり、苦手だったりするから、それをなんとかしようとして、他人同士が接近し、助け合うのだと思うけれど、そういうとき、数字に関する「天才(的)」能力は、「問題点」ではない?
 何かが、ちょっと違っている--と、私は感じてしまうのだ。

 「弱点」(問題点)の方は、ていねいに描かれている。
 たとえばダスティン・ホフマンはお風呂の熱湯(お湯)を先にバスタブに入れてしまうことに対してパニックを起こす。それは、彼が幼いとき、家でたぶん手伝いをしようとしてお湯を入れたことがあったのだ。そして、それを見た両親が、「あ、チャーリー(弟)がやけどをしてしまう。この子(ダスティン・ホフマン)は弟を傷つけてしまうかもしれない」と判断したということがある。そういう過去がある。それを覚えていて、ダスティン・ホフマンはパニックを起こす。--それは、パニックではあるけれど、その背景に他人(弟)に対する愛情、弟を傷つけてはいけないという判断が働いている。
 その判断は過剰かもしれない。だから「問題点」なのだろうけれど、そんなふうに判断し、自分の行動を制御するというのは、けっして「問題点」ではない。
 このことは、トム・クルーズ自身が気づく。そして、そこから兄に対して愛情というものが育ってくる。
 こんなふうにして、「問題点」と言われているものが、実は「問題点」ではない、ときちんと描くのだったら、「天才(的)」な部分の「問題点」も描かないといけないのではないのか。そうしないと、何か誤解を産んでしまいそうな気がする。

 たぶん、そういうことが描かれていないことが影響していると思う。二人の旅が飛行機も高速道路もだめという旅になってしまうのも、なんというのだろう、「必然」というよりも、まるで映画を完成させる手段のように見えてしまう。飛行機や高速道路で移動してしまっては、兄弟がふれあう時間が短すぎる。そんな短い時間では、兄弟愛が生まれ、家族の絆について考えるなんていうことを表現できない。だから、最低1週間の旅にする必要があり、その1週間の「口実」に、ダスティ・ホフマンの演じている自閉症の「飛行機がだめ」「高速道路もだめ」「日常と違ったことはだめ」が利用されているような、いやあな感じが残るのである。

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谷川俊太郎「午後おそく/若き日の詩集・自注」ほか

2010-06-07 12:12:02 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「午後おそく/若き日の詩集・自注」ほか(「葡萄」57、2010年05月発行)

 谷川俊太郎「午後おそく」は短い詩である。

かたむきかけた日の光は
かしの葉のふちをいろどり
そのまま芝生にとけこむようだ

応接間の回転窓は
雲の小さなすがたみとなり
気よわく夕日に対している

今日もいちにち快晴
かたむきかけた日の光が
だんだん影をのばしてゆく

 注釈は、次のようになっている。

 当時生活していた両親の家の庭と、応接室の情景を描いたほとんど写生と言っていい作である。「今日もいちにち快晴だ」などという一行はまるで中学生の日記のようで、こんな無防備な素直さは、もういまの私からは失われている。

 私は、ちょっとうなってしまった。
 谷川は「今日もいちにち快晴だ」を「中学生の日記のようで」「無防備な素直さ」がそこにある、と書いているのだが、
 うーん、どこか素直? どこが無防備?
 というよりも、「素直」「無防備」というなら、他の行だって、素直でしょ? いまの現代詩から見ると「無防備」というかなんというか、ことばが実にまっすぐに動いている。
 その動きを「写生」と谷川は呼んでいる。たしかに写生だろうなあ、と思う。「写生」って、「対象」をことばでていねいに描写することだよね。意識とか思いとかで染め上げるのではなく、「意識」をはがして、対象そのものの状態を客観的に書く--それが「写生」だね。
 そう思って、「今日もいちにち快晴だ」を読み直す。
 そうすると、この1行だけが「写生」ではないことに気がつく。ここには「対象」がない。
 たとえば、1行目「かたむきかけた日の光は」は「光」を写生している。光が「傾きかけている」ということが、そのことばからわかる。他の行も、書かれている対象が何であり、それがどんな状態かわかる。「写生」されていることがわかる。
 「今日もいちにち快晴だ」の「対象」は何? 「今日」という「一日」。それが「快晴」と写生されている? あ、これは、「写生」とは言わないよね。
 では、なんだろう。
 「説明」だね。
 「写生」と「説明」とはどう違うか。
 あ、むずかしいねえ。でも、そうでもないかな……。「写生」は自分の目で見たことをことばにする。「説明」はそうではなくて、たぶん、他人が語っていることばを流用しておこなうことなのだ。「説明」には「自分のことば」を入れてはいけない。自分ことばを排除して、みんながつかっていることばをそのままつかう。そうすると「説明」になる。「今日もいちにち快晴」は谷川が独自に何かを描写(写生)したことばではなく、だれもが語っていることば、最初から他者によって共有されていることばなのだ。
 こんなことば、大勢のひとによって最初から共有されていることばで書かれたもの--それを「中学生の日記」と呼び、「無防備な素直さ」と呼んでいるのだ。
 それは、逆に言えば、「写生」とは「共有されていない・自分だけのことば」でおこなうものになる。
 この詩に登場することばはどれもとても簡単で、それこそ中学生の書いたことばのようにも見えるけれど、「今日もいちにち快晴だ」以外の行には、たしかに谷川の「目」が動いている。谷川の「肉体」が動いている。

こんな無防備な素直さは、もういまの私からは失われている。

 と谷川は書いているが、それは、私は昔は無防備で素直だったがいまは違うという「意味」ではないのだ。
 私はもう、そんなふうに他人がつかっていることば、他人によって共有されている「流通言語」などでは詩は書いていない。そんなことはしない、と逆説的に言っているのである。
 いまは、全部、谷川自身のことばで書いている。そう宣言しているのである。
 いまの谷川は、とても素直である。正直である。(私は、この正直は「父の死」からはじまっている、と強く感じている。)その正直さは「中学生」のような正直さではなく、大人だけが身につけることのできる正直さである。素直さである。無防備さである。
 いま、谷川は、「説明」ぬきで、ことばを動かしている。



 「説明」ぬきで動かすことば--それを「写生」というなら、鷲谷峰雄「夜のキリン」も新しい「写生」といえるかもしれない。

キリンが走るとき
首から上は貧血だ
だから
ながい首は木の固さになって走る

走り終わっても
それらの貧血が立ったまま
ほぐれないので
キリンはときどき
木の表情をする

 あ、いいなあ。おもしろいなあ、と思う。ここには鷲谷の「肉体」がきちんと反映されている。その結果として「個性」がでてきている。
 そうだよなあ、あんなに長い足を一生懸命動かすには、血が全部足へ行ってしまうから、首なんかに血を廻しているひまはないなあ。貧血になるよなあ。走り終わったって、あんなに長い首の上まで血がもういちど上り詰めるには時間がかかる。それまで貧血状態だよなあ--私はキリンではないので、ほんとうのことはわからないが、鷲谷のことばをほんとうだと感じてしまう。納得してしまう。
 もちろん、そんなことは「うそ」とわかっているのだけれど、わかっているからこそ、そのことばに騙され、ほんとうと感じる瞬間を楽しむことができる。
 こういことばはいいなあ。




川師―詩集
鷲谷 峰雄
思潮社

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谷本州子『ソシオグラム』

2010-06-07 00:00:00 | 詩集
谷本州子『ソシオグラム』(土曜美術出版販売、2010年05月21日発行)

 谷本州子『ソシオグラム』の巻頭の「剪定」という作品に、はっと立ち止まった。

今年も仕事始めは
柿の木の剪定とする
脚立なしに実が取れる高さに
思いきって太い枝を切る

白い切り口に
寒風が立ち止まった
思い切り打ち当たってきたのに
枝がない
風は根元から切り口まで撫で上げ
振り返り 振り返り
立ち去った

 この2連目。風に「こころ」はないのだが、谷本は「こころ」を描いている。風に「こころ」があると信じている。
 そして、その「こころ」の動きが、またおもしろい。
 ある、そう思っていたものが、ない--そのときの、一瞬の空白。
 谷本と寒風のことを書いているのだが、それは谷本のこころの動きかもしれない。何かがあったはず。それがなくなっている。そういうものに直面したとき、立ち止まる。立ち止まって何かを考える。
 「こころ」とは何かを思うということのなかにあるのではなく、「立ち止まる」ということのなかにこそあるのかもしれない。
 「立ち止まる」その瞬間、それまで「こころ」を、あるいは私を動かしてきた「こころ」のなかのエネルギー、私のなかのエネルギーが一瞬行き場を失い、こころ、私の「肉体」のなかに、ダムの水がたまるようにたまってくる。
 その「たまってくる」感じを抱きしめる。
 
 いわゆる「現代詩」の、ことばの冒険はない。けれども、谷本のことばには、そういう「たまってくる」もの、何かを「ためる」だけの静かな力、「くらし」のなかでしっかり身につけてきた力というものがある。
 「農具」の3連目。

毎日食べ頃になる
オクラ ピーマン トマト ナス
わたしの手は鋏になる
サトイモ サツマイモには
シャベルになる
ときには鎌にも鍬にもなる
笊にもなる

 手は手である。けれど、状況によって鋏に、シャベルに、鎌に、鍬に、笊になる。そういうものに「なる」力を、谷本は「くらし」のなかでためてきたのだ。力をためてきたから、瞬間瞬間、そういうものに「なる」ことができる。
 そして、それに「なる」ということを、いまは、自然にこなしているけれど、そこにいたるまでには何回もの「立ち止まる」体験があったに違いないのだ。
 オクラを目の前にして、ピーマンを目の前にして、手はどんなふうに動くべきなのか。さっきまでシャベルをもっていた。鍬をもっていた。鎌をもっていた。でも、その動きではなく、もっとほかのものを「肉体」のなかからひきださないと、オクラやピーマンは取れない。--なんでもないことのようだけれど、それがなんでもないものになるためには、「くらし」が必要である。「くらし」を生きることが必要である。谷本は「くらし」をしっかり生き抜いている。
 
 「家守」という作品も、とても好きである。全行。

風呂上がりに
扇子を半分折り畳んだまま扇ぎながら
流しの前の磨りガラスを見るのが
癖になっている
外から
小さな白い足の指先が張り付いている

いつまでも引き摺っていた
西の空の茜色が
残らず消された頃を見計らって
音もなくやってくる
すべりやすい時間をふんばっている
  きょうもええ日やったなあ
扇子でガラス越しに足裏をノックする

家守はわたしの無事を知ると
闇に抱き取られていく

 谷本は、一日の終わりを、そんなふうにして「立ち止まり」、見つめなおす。見つめなおしたものを、自分ではなく、自分のまわりにいっしょに生きているものに返して、返すことで、いま、ここにある「自然」そのものと一体になる。

 ここには、「永遠」がある。私が私から解放されて、自然になる、その瞬間の永遠がある。



 ところで、知っていますか? ガラス窓にはりついたヤモリ--その形。ガラス越しに見ると、ひらがなの「も」の字に見えます。その「も」の字は、私もヤモリも、トマトもナスも、寒風も春風も、そして鋏も鍬も鎌も、みんな「同じ」というときに、いくつものことばを結びつけた「も」そのものなのです。
 山の中、田舎で育った私は、谷本のことばを読みながら、そんなことを思った。風呂のなかで、窓にはりついているヤモリを見ながらぼんやりと感じていたことを、いま、こうやって、思い出している。谷本の詩を読んだことによって、そのぼんやりしたものが、ことばになって動いていくのを感じた。




詩集 ソシオグラム
谷本 州子
土曜美術社出版販売

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誰も書かなかった西脇順三郎(130 )

2010-06-06 22:25:33 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『失われた時』。「Ⅰ」の書き出し。

夏の路は終つた
あの暗い岩と黒苺の間を
ただひとり歩くことも終つた
魚の腹は光つている
現実の眼の世界へ再び
楡の実の方へ歩き出す

 抽象と具象の交錯する感じがおもしろい。夏の間、西脇はひとりで歩き回った。路傍には暗い岩があり黒苺もあったのだろう。そういう過去の描写(?)に、ふいに、時制を破ってことばが闖入する。

魚の腹は光つている

 この現在形。強烈な印象は「過去形」にならずに、「現在形」のまま、未来へと時間を破っていく。
 そのあと……。

秋の日の夜明けに
杏色の火炎があがる
ポプラの樹の白いささやきも
欲情のつきた野いばらの実も
宿命の人間をかざる
復讐の女神にたたられた
秋の日の小路を歩きだして
どうしてももとへかえれない

 「宿命」「女神」というような、「過去」が誘われてでてくる。「時間」がまったく無秩序になる。そういう印象が私にはする。そして、この無秩序、時間の「枠」が外れてしまうのが、西脇の詩であると思う。
 詩に「時間」は存在しない。「時間」を突き破るとき、その時間を突き破るという運動が詩なのだ。



西脇順三郎と小千谷―折口信夫への序章
太田 昌孝
風媒社

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ジム・シェリダン監督「マイ・ブラザー」(★★★)

2010-06-06 20:00:00 | 映画


監督 ジム・シェリダン 出演 トビー・マグワイア、ジェイク・ギレンホール、ナタリー・ポートマン、サム・シェパード

 ナタリー・ポートマンは、私の大好きな女優のひとりだが、この映画の役をやるには美人すぎる。いや、透明すぎる。もっと、不透明でないと現実感が消えてしまう。ストーリーというか、脚本といえばいいのか、そこに描かれている「悲劇」はとても明瞭である。戦争から帰ってきた夫が尋常ではなくなっている。それをどうやって受け止めるか。こんな深刻な役を、透明なまま、悲痛に演じてしまうと、見ていて切なくなる。
 こういう描き方が「アメリカ映画」なのだと思うが、ちょっとつらい。
 ナタリー・ポートマンのように透明に、感情の奥の奥までみせてしまうのではなく、それを隠す「肉体」をみせてほしい。それがどんなに悲痛であっても、その感情がどんなに苦しいものであっても、そこに「肉体」がある。「肉体」があるから生きていられる--そういう安心感がないと、とてもつらい。
 「顔」で演技しすぎるのかもしれない。「肉体」で演技している部分が少ないのかもしれない。
 ちょっといい相手役がみつからないけれど、兄弟の役も別のひとがやるとして、キム・ベイシンガー(すでに年をとりすぎているが)のような「肉体」を感じさせる女優だと、この映画はもっとおもしろくなると思う。
 一方に苦悩する「肉体」があり、その奥に苦悩する「感情」がある。「こころ」がある。それは「表」で出たがっていると同時に、「奥」に隠れてもいたがっているものなのだ。その矛盾を、そのまま体現するような「肉体」がスクリーンにあれば、と思うのである。
 トビー・マグワイアもある意味で透明すぎる。その激変する表情はそれだけで劇的だが、ほんとうに怖いのは、そんなふうに簡単に表情にならずに、「肉体」の微妙な動きそのものになってあらわれてくる方が怖いと思う。違うのだけれど、その違いが、どこが違うとわからない感じで違う--そういう恐怖の深みが、この映画にはない。
 苦悩も悲しみも喜びも、全部、前にですぎている。わかりやすい。とても、わかりやすい。だから、ちょっと困る。



 と、ここまで書いたら、あるところから、この映画は「ある愛の風景」のリメイクだという声が聞こえてきた。
 あ、だからなんだなあ。
 私がナタリー・ポートマンに、トビー・マグワイアに感じた不満というのは、「ある愛の風景」の役者たちの「肉体」の不透明さとかけ離れていたということなんだろうなあ。




ある愛の風景 スペシャル・エディション [DVD]

角川エンタテインメント

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小林Y節子『B・Bに乗って』(2)

2010-06-06 00:00:00 | 詩集
小林Y節子『B・Bに乗って』(2)(思潮社、2010年05月25日発行)

 小林Y節子のことばを特徴づけるのは「脳」である。「零の部屋」の書き出し。

  塞がれた出口 外された足場
  宙吊りのマリオネットは さしずめ
  しゃべり過ぎた口をつぐみ
  心を 脳を 動かすしかない

 ここには、あることばが省略されている。「ことば」ということばが。補って書き直すと、

 「ことばを」しゃべり過ぎた口をつぐみ
 心(のなかで「ことば」)を 脳(のなかで「ことば」)を動かすしかない。

 「ことば」は「心」と同義である。「脳」とも同義である。そして、「心」と「脳」は、また、小林にとっては同義である。
 小林は、ことばを「脳」で動かす。

 私は「頭」で動かした「ことば」というのもは、どうも苦手である。「正直」から遠い感じがするからである。
 小林の「脳」で動かすことばは「頭」で動かすことばと少し違う。
 多くの「頭」で動かすことば(「頭」で動かされたことば)は、「頭」で動かしたと意識されていない。けれど、小林は、「脳」で動かしていることを自覚している。小林は、ことばを「肉体」で動かす--とは、少しも考えていない。「心」で動かす--心を動かすとことばが動くとは考える瞬間はあっても、すぐにそれを「脳を 動かす」と言いなおしている。それくらい明確に、小林は「脳」を意識している。
 この意識の動きは、私には、とても窮屈で苦しい。だから、きのうは途中で詩を読み進むことができなくなったのだが、だからといって、小林の詩が嫌いというわけでもない。ここには、独特の「正直」がある。「脳の正直」がある。
 私は「脳の正直」というものになれていないが、たしかにそれはあると確信できる。そして、小林はそれを貫いていると感じる。
 先の4行につづいて、次の2行が来る。

  この位置は何を意味するのか
  <時に 言葉は 秘められる>

 「脳」を動かす。そのとき「脳」を動かしているのは「ことば」であり、また「ことば」を動かすと「脳」も動く。それは切り離すことのできない「一体」のものである。そして、「肉体」のなかには「ことばにならないことば」というものがあるが、「脳」には「ことばにならないことば」というものはない。ことばにならないとき、ことばが動かないとき、それは「脳」も動いていないのだ。
 「脳」が動く。そのとき必ずことばも動く。それが「脳」とことばの「一体」の原則である。この原則を離れて、「脳」もことばもない。
 そうであっても、それではすべてのことばが語られる(しゃべられる)わけではない。ひとはそれを隠す(秘める)ことがある。そのときも、「脳」は、そのことばを「書く楠」(秘める)という方向へ動いている。「口をつぐ」む、という行為を「脳」が命じている。
 小林は、ここまで、ことばと「脳」の関係を見きわめている。
 そして、<時に 言葉は 秘められる>とさえ、「正直」に告白している。この「正直」は特筆すべきことがらである。

 ところで、その「秘められた」ことばとは何だろうか。矛盾したいい方になるが、その「秘められた」ことばを語らずにいられないのが詩人である。いったんは口をつぐみ、ことばを秘める。けれど、それは「書く」ことを通して「脳」の外へとでてくる。

  いつも景色を逆さまに見ながら
  誰も見ない真実を見る
  ブラックバードに乗って
         (「B・Bに乗って」) 

 小林の「脳」は「誰も見ない真実を見る」。それは言い換えると、小林のことばはいつも「誰も見ない」真実をめざして動いている。「誰も見ない真実」をことばにするために動いている、ということになる。小林は「誰も見ない真実」をことばにしたいのだ。詩にしたいのだ。 
 これは、とても「正直」な欲望である。小林の「脳」はとても「正直」である。
 「正直」すぎて、びっくりさせられることもある。
 「春(プリマベーラ)」の部分。

巧みに奏でられるどんな楽器よりも
直接的(ストレート)に語り問いかけてくる
人間(ひと)の声ほど心奪われるものは無い
震わせ 涙させるものはない

 ここに書かれている「心」は「脳」とは違うものだが、その「心」さえも、小林は、こんなふうに「脳」を動かして、ことばにしてしまうのだ。
 「脳」の力というものを感じてしまった。強靱な「脳」、鍛え上げられた「脳」というものに、ちょっと突き放された感じもする。近づきがたさ、というものを感じる。

刻まれている細胞のひとつが目覚めれば
全てが覚醒するまでに時間はかからない
ただ 解きたい言葉の謎があって
知る為に どの道を行けばいいのか
目の前の迷路に踏み込むことが出来ない
すでに戻れない事を予測してしまう臆病さ
横切る影が持つ鳥籠の中に何時も鳥は居ない

 引用最終行の「鳥」は「B・B(ブラックバード)」のことだろう。「解きたい言葉の謎」とは「解きたい脳の運動の謎」ということになるが、この苦悩は、苦悩として存在するのは「理解」できるが、それを納得できるほど、私の「脳」は強くはない。
 あ、すごい苦悩--と他人事として反応してしまう。
 この詩集は「脳」を生きるひとに向けて書かれた、「脳」を生き抜く覚悟をもった読者のための詩集なのだ。そう思った。



天秤座の夜
小林 Y節子
思潮社

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ガブリエル・アクセル監督「バベットの晩餐会」(2)(★★★★★)

2010-06-05 18:24:32 | 午前十時の映画祭
監督 ガブリエル・アクセル 出演 ステファーヌ・オードラン、ジャン・フィリップ・ラフォン、グドマール・ヴィーヴェソン、ヤール・キューレ、ハンネ・ステンスゴー


 5月25日の感想の補足。「午前十時の映画祭」の「みんなの声」に疑問を書いたのだが、どうも反応が違う方向に動いてしまう。

 5月25日に書いた疑問は、以下の通り。

 記憶していたシーンが2か所、欠落している。その2か所はもしかすると、私がでっち上げたものかもしれない。
 一つはバベットが野原でハーブ(と思う)を探し、摘み取るシーン。それを入れると近所の老人に配っているお粥(?)が格段においしくなるのだ。もう一つは、バベットが留守の間、姉妹がお粥を作る。これがまずい。口に含んだ老人がまずいと顔をしかめる。それを見て姉妹が「どうして?」と顔を見合わせる。その顔を見合わせるシーンがない。

 私が「お粥」といい加減に書いた部分に反応が返ってきて、肝心のハーブを摘むシーン、姉妹が顔を見合わせるシーンについての反応がない。やっぱり、私の勘違い?
 私がこのシーンにこだわるのは、理由がある。
 この映画は、一種のグルメ映画で、豪華なフランス料理に視線が集中してしまいがちなのだが、バベットがこの村に紹介したのは(持ち込んだのは)豪華料理だけではない。
 いつもみんなが食べている「お粥(ビールパン?)」も工夫次第でおいしくなる。野原に生えているハーブを加えるだけで味が変わる。そういうことを描いている重要なシーンである。ビールパンにどのハーブなら合うのか。ハーブを摘みながら、匂いを嗅ぎ、それを加えた時の味を想像する――そういうことをバベットはしていると思う。
 そしてその工夫が思いがけない効果を生む。ビールパンがおいしくなるだけではない。おいしくなることで何かを省略できる。それは例えばビールの量かもしれない。その結果、つかうお金が節約できる。野原のハーブはただ。ビールはいくらかお金が必要。
 そういうことが積み重なって、姉妹が金銭を勘定するシーンにつながる。
 貧乏な姉妹。バベットに給料は払えない。給料を払わなくても、食べる人数が増えれば食費がかさむはずである。ところが、逆に、
 「バベットが来てから、経済的に余裕が出てきた」
 姉妹が驚くシーンがあるが、その背景には、そういう「事実」があるのだと思う。そして、その「事実」の裏付けとなるのがハーブを摘むシーン、野原でハーブを探すシーンだと思う。

 料理には材料に金をかけるものがある。晩餐会の豪華なフランス料理のように。一方で、工夫で味をよくするものもある。(この工夫はもちろん豪華料理にも生かされている。)「バベットの晩餐会」は、このことを描いていると私は思う。
 そこが単なるグルメ映画ではない。
 そう感じて、私はこの映画を「傑作」と評価するのだけれど・・・。

 グルメだけを描くなら、映画の前半に、若い姉妹のせつない恋愛がえんえんと描かれるのも奇妙ということになるが、この映画をグルメ映画ではなく、人間の生き方の映画としてみると違ってくる。
 質素であっても、工夫して、信念をもって生きる。その生き方が、やがて人生そのものの味を完全に味わうための下地になる。ただ豪快に遊び、放蕩すれば人生が楽しいわけではない。質素、堅実に、自分の信念に従って生きたものが、最良の料理・神の祝福を受ける、神の祝福を存分に味わうことができる。
 そういうことを語る映画だと思う。

 そう思うからこそ、私が見たはずのシーンは幻なのかなあ、それとも今回の上映にあたってカットされたのかなあ、と気になるのである。



バベットの晩餐会 [DVD]

ポニーキャニオン

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小林Y節子『B・Bに乗って』

2010-06-05 00:00:00 | 詩集
小林Y節子『B・Bに乗って』(思潮社、2010年05月25日発行)

 小林Y節子『B・Bに乗って』を30ページほど読み、苦しくなって、先へ進めなくなった。この詩集のことばを読むには、かなり訓練がいる。助走がいる。私は誰の詩を読むときでも、助走なしに読む。訓練なしに読む。いきなり「ライブ」に飛びこむ感じである。そうすると、やっぱりついていけないことばがというものがある。
 私は以前、ゴンサロ・ルバルカバのピアノを聴きにいったことがある。CDで彼の音が超スピードなのは知っていた。耳をならしていかないときっとついていけない、と思って、繰り返しCDを聴いて、「予習」していったのだが、やっぱりついていけなかった。それが楽しくて、笑いだしてしまったけれど……。
 そういうことが、小林Y節子『B・Bに乗って』にも起きる。
 そういうことが、と書いたけれど、ゴンサロ・ルバルカバのピアノの場合とは違って、私は小林の詩を読んだ記憶がないので、ほんとうは事情がかなり違う。「予習」というものが、私には、ない。できない。(できなかった。)そのために、そこで展開されることばのスピード、ことばの次元についていけず、あ、苦しい。きょうは、ここまで、と思ってしまったのだ。

 冒頭の詩「足ばやに陽が落ちて」。書き出し。

     ラジカルな指が廻した
   ルーレットはゆるやかに止まり
    クロスする生の文字盤の上

 私は、日常的にこういうことばをつかわない。こういうことばを聞かない。知らないことばは何一つないが、こういうふうに組み合わされてことばがつかわれる瞬間に立ち会ったことがない。
 小林の詩には、ふつうの暮らしのなかではであわないことばの組み合わせ方がある。特別な組み合わせ方をすることで、何か、特別な世界を見ようとしている。
 それは、なんだろう。

  電源はオフにして 耳をすませて
  集中させて 雲の流れより早く
  風を感じた頃の感覚を皮ふで見ている

 ここには、聴覚(耳をすませて)、触覚(皮ふ)、視覚(見ている)が交錯している。そして、わけがわからなくなっている。そして、わけがわからなくなるほどに交錯したものを、もう一度、ていねいにひとつひとつ、聴覚、触覚、視覚に分解し、「径路」をつくり、組み立て直し、わかりやすくするという「操作」がおこなわれている。
 たぶん、小林がことばでやろうとしているのは、世界の渾沌を、渾沌であると理解した上で、それぞれの存在を特定し、それからその存在と存在のあいだに「径路」をつくり、その「径路」によって世界を「構造化」するということなのだろう。
 そして、渾沌とした世界のそれぞれの「存在」を、小林自身のことばで再定義する--再定義することで、渾沌から、あるいは「流通言語」から切り離すとき、小林は、ふつうとはちょっと違ったことばをつかう。
 「ラジカルな」指、「クロスする」「生の文字盤」。それは「ルーレット」という、これまた「非日常」(私にとっては、だけれど)という場で出会い、出会うことで、そこに「径路」らしきものが見える。
 この「径路」--と仮に呼ぶのだけれど、それは、やっぱり「日常」とは違う。ふつうの「目」では見えない「径路」である。
 いちばん特徴的なのが「ラジカルな/指」というときの「径路」である。「指」が「ラジカル」であるとは、どういうこと?「ラジカル」ではない指は、たとえばルーレットを廻すとき、どんなふうに動く? 「ラジカルな」指は、どう動く? これが、私にはわからない。私の「目(肉眼)」には、その違いが見えない。
 見えないけれども--たぶん、ここが重要。(いちいち念おししないと、私のことばは動いてくれない。--私は、どうしても「ライブ」でしか感想が書けない。)
 私の目は(想像力のことだが)、「ラジカルな」指と「ラジカルではない」指の違いを見ることはできないが、それを「ことば」としては、はっきり違うものととらえてしまう。小林は、目には違いが見えないが、「ことば」そのものとしてならはっきり違うことがわかるものをつかって、何かを書こうとしている。
 それは、どうしたって、目にみえないものになる。

 で、目に見えないものって、何?

 「ラジカルな」ということばである。「指」に「ラジカルな」というこことばをくっつける何かである。その何かを、ふつうは「意識」と呼ぶと思う。
 小林は、意識の「径路」をことばによって定着させ、そうすることで世界をとらえなおそうとしているのである。小林が書いてるのは、ふつう私たちが「現実」と読んでいる世界ではなく、「意識」の世界なのだ。
 小林という意識から見た(意識で再構築した)世界なのだ。

 意識で再構築されない世界というのは存在しない--というのは(小林なら、絶対、そういうだろうけれど)、まあ、それはそのとおりなのだが……。ここに書かれていることが、そういうものである、と明確に意識しないと、ちょっと息ができない。
 小林は、意識の径路、そして意識径路がつくりだす構造を明らかにする、世界を意識構造として再構築しようとしている--そう私は私に言い聞かせながら、詩集読む。

何気ないそぶりで側に居る
距離は確実に近づいて見えて
常に深い闇の色を広げ 待ち伏せる
                 (「不確実な距離」)

 「距離」(隔たりと置き換えると、わかりやすいかも……)は接近すると、それと反比例するように、「距離(隔たり)」を構成しているものの「深さ」が、同時に深さをさらにおし広げるものがくっきりと見えてくる。(広げ、広さが深さのなかで「クロスする」--交差する、ということが「「闇の色を広げ」の「広げ」にこめられている。)
 この、あくまでも「意識」の奥へ分け入り、「意識」を純粋化して、そうすることで世界を透明化する。(見えるようにする--透明が見えるというのは矛盾だけれど。これは「渾沌」「不透明」に対しての「透明」だね、と私はここでも、私自身に対して念おししてしまう)。
 この「透明化」への「意識」が強烈なので、小林のことばは、ついつい、世界の不透明さと出会い、そこで、一種の闘いをはじめる。
 そのとき、そのことばが詩になる。
 そういことなんだろうなあ……。

うなだれていた時の針が
憑かれたように刻みはじめる
                (「うなだれていた時の針が」)

 何かきっぱりとした「意識」、だらしないものを許さないような強靱な意識があって、それが「時」という抽象的なもの、人間の感覚を超越したものさえも、「うなだれていた」ととらえてしまう。
 あ、つらい。
 私は、ここでほんとうにつらくなってしまったのだ。

 私はとってもだらしがない。ダリの描いた時計のように、だらりとだらけて休んでいたら楽だろうなあ、と思ってしまう人間である。
 小林のことばは、それこそ何かに「憑かれたように」、明晰に明晰に明晰に……という具合に動いていくのだけれど、私は、ちょっと休憩。あ、永遠に、休憩ということになるかもしれないなあ、と思いながら、永遠に休憩になってしまわないうちに、考えたことだけは書いておこうとは思い、やっとここまで書いた。



天秤座の夜
小林 Y節子
思潮社

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(アマゾン・コムの詩集の紹介は、とても遅い。私が感想を書くころは、たいていリンクがない。後日、検索して、小林Y節子『B・Bに乗って』を探してみてください。)
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有働薫『幻影の足』

2010-06-04 00:00:00 | 詩集
有働薫『幻影の足』(思潮社、2010年05月25日発行)

 詩とは、特別なことばである。このことばが「好き」という思いがこもったことばの子とてある。有働薫『幻影の足』を読みながら、そう思った。「セレナード」。

雲は薄くまだあかるい
七夕の夜
何年ぶりか
小さな笹飾りを立てた

夜の九時
西の空の雲の切れ間に
溶け出しそうな四日月
闇の中にしばらくたたずんでいると
頭の真上に
ただひとつ

エストレリータ
みずいろの小さな星

 「エストレリータ」。イタリア語かな? よくわからないが、ラテン系のことばでは「リータ(イータ)」は「小さい(かわいい)」をあらわす接尾辞だ。「エストレリータ」自体は「小さな星」。
 でも、そう訳するだけでは、満足できない。
 それで「みずいろの」ということばを有働はつけくわえる。そこには過剰な「思い」がある。ことばを逸脱していく「思い」がある。
 「水色」自体には、「かわいい」(小さい)という「意味」はないのだが、「小さな星」と結びつくとき、「みずいろ」と書かれるとき、そこに「かわいい」が入ってくる。まだ「水色」というかたまった(?)色、明確な(?)色になる前の、「幼い(小さい)」「かわいい」が入ってくる。
 --というより、やはり、「水色」に有働は「かわいい」を過剰に注ぎ込んでいるというべきなのか。
 ここに詩がある。
 有働は「エストレリータ」ということばが「好き」。そのことばの中にある「イータ」が好き。同じように、「みずいろ」もとても好きなことばなのだ。
 このことばを書くとき、有働に、星がそのとき「みずいろ」に見えたのではなく、有働は、その星を「みずいろ」に見たかったのだ。

 そして、その「みずいろ」が有働の思いのこもったことばなのだと気がつくと、ほかのことばも一斉に「思い」をもちはじめる。
 「雲は薄くまだあかるい」も単なる夕方の空の描写ではない。有働が、ことばで、いま、ここにある雲を「薄く」「まだあかるい」にしているのだ。
 「闇の中にしばらくたたずんでいると」は、ほんとうは、有働自身が選んだ「ことば」のなかに佇んでいると、ということである。世界を有働の好きなことばで切り取って来ると、その最後のことばとして、頭の真上に、宇宙のてっぺんに星がやってくる。詩がやってくる。

エストレリータ
みずいろの小さな星

 あ、美しいなあ、と思う。



 「月の魚」という詩がある。この詩は、とてもとてもとても美しい。「月の沙漠」(加藤まさを)の1行が添えられているが、私が思い出すのは佐々木すぐるの曲の方である。透明で、どこまでもどこまでも響いていく。
 全行。

月の沙漠の砂の流れを
月の裏側の真闇にすむ魚が
泳いできて
わたしの垂らす釣り糸の
とがった針を
可愛い口で
飲み込んで

魚は痛さに
痙攣し
わたしの糸が痙攣する
わたしの魂が痙攣し

地球から来た
水の一滴
未曽有の愛に
失神する

月のくらやみの奥に眠っていた
目のない魚が
目を覚まし

針の刺さった可愛い喉で
つめたく重い
水を
飲んで死ぬ

残されて
青い地球の出を見上げている

 「ことば」を書くということは、ことばを書いた「もの」(ことばになった「対象」)になるということである。
 月の魚を書くとき、有働は月の魚になる。「可愛い口」と書くとき、有働の口もまた「かわい」くて小さなものになる。ことばは「釣り糸」のように対象と有働の魂を結びつける。一方が痙攣するなら、他方も痙攣する。つないでいる「糸」さえも痙攣する。
 痙攣する--つながれて、共振する、その震え。
 それが詩である。

 この詩の美しさは、魚が死んでしまうところにもある。死ぬことによって、いつまでも魂のなかで生きるのだ。死ななければ、魂のなかで生き続けることはできない。
 きっと詩は(ことばは)、ものを「殺し」、そしてそれを「魂」のなかで生かしつづけるためにある。「魂」のなかに取り込まなければならないもの、魂のなかでよみがえり、いつまでも魂のなかでいきつづけるものだからこそ、有働は、自分の好きなことばを選ぶ。自分の好きになれることばだけを、大切に選び、一篇の詩を書くのだ。






幻影の足
有働 薫
思潮社

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岡井隆「食卓で洟をひりながら書いた詩」(2)

2010-06-03 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
岡井隆「食卓で洟をひりながら書いた詩」(2)(「現代詩手帖」2010年06月号)

 1日の「日記」はどたばたと「ライブ」そのもので書いたのだが、1日の間を置いてほかのことを書こうと思ったのだが。意外と、ほかのことが思いつかない。第一印象の域を越えて、何かを考えるということは、あまりないのかもしれない。
 
 岡井のことばは、3種類ある。ひとつは、現実そのものを描写することば。2種類目は「文学」のなかのことば。3種類は、「現実」と「文学」を行き交うことば。こんなふうに簡単に分けしてまってはいけないのだろうけれど。
 で、それが絶妙にまじった部分。

「遠いものを連結するといふ考へ方は 必ずしも私の独創ではない」(N)
  <間断なく祝福せよ楓の樹にのぼらむとする水牛!>
  <我はどならんとすれども我の声はあまりにもアンジェリコの訪れにすぎない。
   跪きたれども永遠は余りにかまびすし。>
さて楓の樹は春美しく葉を出して秋みごとに紅葉するのを知つてるがつひぞ水牛(動物園で昔見たきり)がよじのぼるのを(NHK「ダーウィンが来た」でも)見たことはないし
「メタフォアは遠いものを連結して作ることだ」とアリストテレスは言ひ 先生はしかし「あまり自然や習慣から離れては人が笑ふからいけない」と警めてもをられる
マラルメは「詩にはナゾがなければならない。詩を読むよろこびはナゾを解くことだ」と言つたとN師は説いた
「アンヂェリコ」はあのルネサンス初期の画家フラ・アンジェリコ 「の訪れ」とはどこか遠い寺院にあるつて言ふ受胎告知のおとづれ もしかして怒鳴り声のメタフォア とはいえ「永遠は」たとへ信心ふかくひざまづいてゐても「あまりにかまびすし」いとは了解のうすぎぬがほのかに明るむ やうに思つたがこれがナゾ解きなんだらうか

 いろいろこれが「現実」、これが「文学」なとど言うのは面倒なので省略。西脇のことばにケチ(?)をつけているところなんか、私は大好きだけれど、でも省略。「ダーウィンが来た」も、見たことはないし……。
 はっと、驚くのは、

了解のうすぎぬがほのかに明るむ やうに思つた

 ここですね。「やうに」とは比喩をあらわす。「メタフォア」。直喩。で、その具体的な「メタフォア」の部分の、「了解のうすぎぬがほのかに明るむ」。これが、なんとも、説明しがたい。それこそ、ナゾ。
 すごい。
 西脇の言っていることの「註解」のふりをしながら、そこに岡井自身のナゾをしのびこませる。
 しかも、このあと、中丸明の名古屋弁の「聖書」の翻訳がつづくのだ。
 「うすぎぬのほのかに明るむ」--というのは何のことか、わかったようでわからないけれど、それがセックスと関係していると暗示する「受胎告知」の部分と重なり、
 あ、
 セックスというのは不思議だねえ。どんなに高尚(?)なことであっても、たとえばマリアの受胎告知、処女懐妊ということであっても、もろに「現実」。
 「文学」が「卑近な現実」にひきもどされる。
 「文学」が「高尚」を装えば装うほど、「あれだなあ」が「肉体」のなかにたまりつづける。そして「あれだなあ」をぐっと隠して、ひとはときどきことばを動かしたりもするんだなあ。だからこそ、それを「標準語」ではなく、「口語」そのものの「名古屋弁」なんかにひきもどすと、「あれだなあ」を突き破って何かが動いていく。
 その瞬間、わかることがある。

 ことばの健康--健康なことばは、いつでも「あれだなあ」を突き破って動いていくものなのだ。いや、「あれだなあ」を「肉体」のそこへひきもどし、解放してしまう。爆発させてしまう。一瞬の内に、吹き飛ばしてしまう。
 そして、それが詩なのだ。

 名古屋弁の「聖書」はそれ自体では詩ではないかもしれない。けれど、標準語のすましたことばの「清書」にぶつけられるとき、名古屋弁が一気に詩になる。同じことを語っているにもかかわらず、それが詩になる。
 たぶん、ここに、詩の秘密がある。
 詩は、ことばとことばのぶつかり合い--これを、別なことばで言い換えると、かけはなれたものの「出会い」。

 岡井のことばは、ずれながら(?)、またもとへ戻る。岡井は、この詩では、ことば、比喩、「メタフォア」を、さまざまに「注解」しているのだ。

 ことばは、どのことばも同じ。そして、語られていないことは、もうどこにもないかもしれない。実際、たとえば岡井が「洟をひりながら」という、いささか古めかしいことばで詩を書きはじめているが、この「洟をひる」ということばもすでに存在している。存在していないと、書いても誰にもわからない。そういうすでに存在していることばが、ある日、あるとき、新しくなるのは、何かと結びついてのことなのだ。
 どんなことばも書かれてしまっているが、まだ出会ったいないことばがあるはずなのだ。その出会いの場が「詩」である。
 そして、その「出会い」というか、結びつきは、「あれだなあ」という「距離」がいちばんいい(?)のだ。

 で、(というのは、論理をちょっとほうりだした感じのことばだけれど)、
 私は、またもとに戻ってしまうのだが、ことばというのは、たいてい、最初に「結論」がある。ひとは「結論」を語り、それを言いなおしつづけるものなのだ。岡井は、詩は「あれだなあ」のなかにあると書き(もちろん、直接、「あれだなあ」が詩である、とはかかないが)、それを繰り返し繰り返し言いなおす。
 そのなかで「あれだなあ」がゆっくりほどかれていく。ゆっくりとほどくために、岡井は岡井のことばを「注解」しつづけているのかもしれない。
 この運動には、きりがない、果てがない。それがいい。「果て」とか「結論」なんて、いらないものなのだ。






現代詩手帖 2010年 06月号 [雑誌]

思潮社

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誰も書かなかった西脇順三郎(129 )

2010-06-02 23:02:34 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 西脇のことばは「もの」と向き合っているのか。「もの」と対応しているのか。つまり、「流通言語」のように、「りんご」ということばは「りんご」と向き合っているのか。これは、むずかしい。
 セザンヌの「りんご」が「りんご」と向き合っているか--というと、私は向き合っていながら向き合っていないと思う。「りんご」ではなく、りんごの「形」「色」と向き合って、そこからその形と色を超越しようとしているという形では向き合っているが、「りんご」になろうとはしていない。
 同じように、西脇のことばは、「もの」と向き合いながらも、「もの」とは向き合っていない。「もの」になろうとはしていない。
 そして、これからが、ちょっと面倒くさい。
 セザンヌの「りんご」が「りんご」になろうとしないことによって、絵画としてのりんごになるように、西脇のことばも「もの」になろうとしないことによって、詩のなかで「もの」になっていく。

 あ、こんな書き方ではわからないね。整理して説明したことにはならないね。--でも、それ以上は、私には書けない。漠然と、私は、そういうようなことを考えている。西脇のことばを読みながら。

 「神話」。

九月の末に
驚くべきひとに会いに
野原を歩いていたことがあつた
何も悲しむべきことがなかつた
粘土の岩から茄子科の植物が
なすのような小さな花をたらして
いるが悲しむほどのものではない

 ここに書かれている「茄子科の植物」。これはもう「植物」ではない。「驚き」や「悲しみ」のように、人間の感情であり、そうであることによって、「ことば」になっている。
 それは「混同」である。
 数行先に、次の行がある。

つゆ草が
コバルト色の夏を地獄へつき落とそうと
している以外に
人間と神話との混同をみることが
出来ないのだ

 「混同」することで、どちらでもなくなる。「もの」を「ことば」を超越する。それは「ことば」ではないから、それをことばで説明することはできない。できないけれど、そんなけとを言ってしまうと、批評(感想)というものは成り立たないので、不可能と知っていながら、こんなことを書いている。



西脇順三郎コレクション〈第2巻〉詩集2
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会

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豊原清明「<14>ディスク」

2010-06-02 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
豊原清明「<14>ディスク」(「白黒目」23、2010年05月発行)

 豊原清明「<14>ディスク」は短編映画シナリオ。豊原のことばは、いつでもおもしろい。「いま」なのに、「いま」以外の時間がある。
 こどもが外から帰ってくる。家では家庭教師がまっている。そういうシーンがある。

○ 希の家(夜)
希の母・良子「お帰り。」
希「ウン」
希の弟・伸一「来てるで。裕也さん。」
希「…。そう。お風呂入って来る。」

○ 居間
良子「すみませんねえ。」
   家庭教師の山霧裕也(21)がにこにこしている。
   良子、お菓子とお茶をテーブルに置く。
裕也「おい。遊ぶか?」
   伸一に、キューブを投げる。
   喜ぶ、伸一。
裕也「(ぼうとしている)」

 ここには何も書かれていない。何も事件がない。そして、事件がないということ書くと、そこに「過去」が噴出してくる。そして、それは「未来」まで、行ってしまう。何も書かれないないということは、そこには「過去」の運動を止めるものは何もないということだからだ。こういうときの「未来」は「無限」である。さえぎるものが何もないからである。何もかかないことで、すべてを書くのだ--といいかえてもいい。
 この放心の、不思議な充実。

 あ、ちょっと急ぎすぎた。
 「過去」について、補足しよう。
 豊原の書いている「過去」にはひとつの特徴がある。書いている、と私は書いたが、実は豊原は「過去」を書いていない。そこには「過去」が欠落している。その「欠落」が、「過去」を呼び覚ます。--私の「過去」を。
 そこには何も書かれていないかゆえに、私は私の「過去」を見てしまう。豊原のことばなのに、豊原を離れて「私」を見てしまう。「私」が見てきたものを見てしまう。
 (それは、実際に映画のシナリオである場合は、演じる役者の「過去」を要求するという形で動くと思う。役者は、そこに書かれていない「過去」を自分の「過去」から引っ張りだしてきて、役者自身の「肉体」として演じなければならない。)
 どんな、「過去」が私には見えたか--。
 外で遊んでから帰ってきた。ほんとうは家庭教師について勉強しなければならないのだが、したくない。風呂に入りたい、と言って自分の欲望を優先させる。そういう「気持ち」の「過去」が私には感じられる。
 このとき、希は、ほんとうに風呂に入りたかったのか。そうではなくて、ただ家庭教師について勉強するのがいやで、それまでの「時間」を引き伸ばしているのだ。

 この「時間」を引き延ばすということのなかに、豊原の特徴が(思想が)あらわれていると思う。
 豊原はいつでも「時間」が「未来」へ規則正しく進んでいくことを望んではいない。「時間」を止めてしまって、いま、この瞬間を、増やしたい。「いま」を増やすと、そこへ「過去」がどんどん押し寄せてくる。「気持ち」がどんどん強まってくる。そして、それが爆発する。
 希が家庭教師といっしょに勉強したくないのは、なぜか。その理由が、そこには書かれていないけれども、私の内部で、何か、答えのようなものが積み重なってくる。そんなこと、書かれていなくたって、誰にでもわかる。「勉強」というめんどうくさいこと、きちと時間の順序にしたがって、ものごとに対する理解を深めていくこと。そういうことが嫌いなのだ。

 こんなふうに書いてくると、もっとよくわかる。
 豊原は(ここでは、希という人間になっているのかもしれない)、「時間の順序」など気にしない。そこに「充実」さえあれば、それでいい。豊原がもとめているもの、探しているものは、時間の充実なのだ。それも、自分の「外」にある時間ではなく、自分の「内部」にある時間を充実させたいのだ。
 自分の「外」の時間は、社会の決まり(どうすれば金がもうけられるか、も含めて)に、支配されている。統一されている。それを自分のものとして充実させる方法(たとえば、権力者になって社会を動かすという方法)もあるけれど、豊原のもとめているのはそういうものではない。「外」を支配する時間は、豊原には、苦痛である。「決まり」が苦痛である。
 その「決まり」から自分自身を解放し、「内部」の時間を豊かにするために、「内部」を耕すために、豊原はことばをうごかしている。誰も書いていないことば--そこに、豊原のもとめている「時間」がある。

 誰も書いていないから、それは豊原にも書けない。書けないから、書く。そこに、たとえば別な「肉体」を想定し、その「過去」を思いっきり噴出させることができる形で、つまり、書かれたことのない「肉体」を誘い出す形でことばを動かす。
 その「肉体」には、もちろん豊原も含まれているのだが、豊原が、シナリオという形でことばを動かすのは、シナリオのことばの方が、自分とは別の人間を動かすのに都合がいいからだろう。動かしやすいからだろう。
 豊原の「肉体」のなかにいる、まだ書かれたことのない「豊原」が、そういうことばをもとめている。まだ書かれたことのない「豊原」が、ここではたとえば「希」という人間となって、動こうとしている。その動きにあわせて、まわりの人間も動いていく。
 そこに「未来」がある。書かれていない「豊原」の未来が噴出してくる。その瞬間へ向けて、豊原はことばを動かしている。




夜の人工の木
豊原 清明
青土社

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