詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中尾太一「電車の中で」

2010-08-24 18:53:10 | 詩(雑誌・同人誌)
中尾太一「電車の中で」(「朝日新聞」2010年08月24日夕刊)

 中尾太一「電車の中で」は全行ひらがなで書かれている。

いちみんぞくのまっきのぎょうそうを
でんしゃのなかでみてる

 私は「いちみんぞく」に「一民族」という漢字をあててみるまでにずいぶん時間がかかった。私は「一」を中尾のようにつかったことがない。英語でいう不定冠詞の「a」はたいかに「一」をあらわすだろうけれど、私はこういうときは「ある」ということばの方がなじみやすいからである。また、この「一民族」は「日本民族」のことだと思うけれど、電車の中で見かけた「日本人」を「一民族」という感じでとらえたこともない。
 あ、なぜ、こんなことにこだわっているかというと・・・。
 たぶん、これが漢字交じりで書かれていたら、いま書いたようなことは思わずに、さっと読み進み、詩から受ける印象が変わってしまうだろうと思うからだ。
 私は詩を、全行読んでから意味・内容を考え、ことばの使い方について感想を整理するという具合では読む習慣がない。1行1行、見知らぬ世界へ入っていく感じで、手探りで読んでいく。迷うながら読む。迷った分だけ、「なま」の「他人のことば」に触れる感じがする。その、「なま」の感じが、私にとっては、詩を読む手掛かりなのだ。
「いちみんぞく」(一民族)とは私は言わない。その違和感(?)のようなものから、詩は生まれてくる。中尾のことばに出会うことで、私と中尾が、互いのことばを叩き壊しながら、いままで存在しなかったことばの出現に出会うのだ、という感じが、私にとっての詩なのだ。
もっとも、互いのことばを叩き壊すといっても、中尾のことばは書かれているので、壊れるのは私のことばだけなのだが・・・。

詩にもどる。
「まっきのぎょうそう」。私は「真っ黄の形相」と読んだ。まったくの個人的な体験だが、私は子供時代、全面真っ黄色の夢に苦しめられたことがある。真っ黄色の次が黄緑色の夢だ。真っ黄色はとても不気味な色なのである。

いちみんぞくのまっきのぎょうそうを
でんしゃのなかでみてる
おれはびにーるぶくろにくさいいきと
ことばをはいて、いりぐちをしばり
ことしのたなばたにぶらさげる

 まるで、昔のシンナー遊びのようだ。その、不健康な息。私は刺激臭に弱いので、シンナーを吸ったことはないが、吸っている友人を間近で見たことはある。息は黄色くはなかったが、私の記憶のなかでは「真っ黄色」である。「真っ黄色の形相」がまざまざと見えてくる。
 ところが。

むかしいえいつというひとがいて
らぴすらずり、というしをかいた
おれはあまりほんをよまないから
よくわからなかったけど、かれは
ほろびのゆうじんについてかいた

 イエーツの「友人」って、アジア人? 黄色人種? 違うなあ、たぶん。
 「ほろびの友人」は「滅びの友人」?
 あ、「まっきのぎょうそう」は「末期の形相」なのか。
 いやあ、びっくりした。
 しかし、「末期の形相」に、私は詩を感じない。「末期」というような抽象的なことばは、どうみてもおもしろくない。想像力を刺激しない。末期の黄疸で、真っ黄色に汚れている、苦しい人間のままにしておくことにしよう。
 (という具合に、私は「誤読」が大好きである。「誤読」をぶつけながら、私のことばも、なかおのことばも叩き壊すのだ。作者の「意図」とは関係ないところを暴走させるのだ。)

おれはびにーるぶくろにくさいいきと
ことばをはいて、いりぐちをしばる
いりぐちがしばられるということは
こえがでなくなるということだ
ここにいなくなるということだ

 ここは、すごいなあ。「声が出なくなること」「ここにいなくなること」が同列である。「声」を出すことが中尾にとって存在すること、生きていることなのだ。「声が出なくなること」は死んでいくことなのだ。きっと、末期の黄疸の患者のように。でも、ほんとうは「ことばを吐いている」、「ことばを吐いている」けれど、それが「声」となってどこかへ出て行ってしまうことを拒絶しているのだ。
 それは、いま、ここにいる人々と「声」を共有しないということだ。それは、「ビニール袋にくさい息と、ことばを吐いている」姿を見せている誰かとだけ、ことばを共有するということでもある。
 ことば、声を届ける相手を限定している。恋人、愛している人とだけ、ことば、声を中尾は共有したいと思っている。

おれはおれのいりぐちをしばる
おまえはおまえのいりぐちをしばる
するとおまえはおれではなく
おれのことばのねがいを、おれよりも
なつかしくみつめている
おれはおまえのひとみをのぞきこんで
らいねんのたなばたまでいきつづける
ほしをみつめる

 「するとおまえはおれではなく」の1行がおもしろいなあ。この行は次の行を修飾しているのだが、そう気付く前に、恋人の一体感がなくなり、「おまえはおれでなく」お前になってしまい、その遠く孤立したところから、ビニール袋のなかの孤立したことばの、その「願い」を見ているように感じられる。
 そのとき、「声が出なくなる」ということ、「ここにいなくなること」が、突然、かなしいことではなく、至福にもなる。

おれはおまえのひとみをのぞきこんで
らいねんのたなばたまでいきつづける
ほしをみつめる

 「ここにいなくなる」のは「来年」を生きているからだ。

 あ、でも。
 この詩、妙に変だね。最初、電車の中で、どうしようもない感じで生きていたのの、終わりは「来年」を生きている。不思議にロマンチックで、そのロマンチックが苦しいくらい肉体的だ。ことばをなくし、「みつめる」という時間の中で、「なつかしい」くらいにロマンチックである。
 うーん、どこでかわったのかなあ。「ほろび」ということばかなあ。
 そうであるなら。
 これは我田引水であることは承知なのだが、1行目は「末期の」ではなく「真っ黄の」の方がいいなあ。「真っ黄」が「末期」(滅び)にかわって、不気味なものからロマンチックに変わる――これがいいなあ。
 詩とは、書いたら、書き始めたときとは違ってしまうのだ。ことばを書けば、人間は変わってしまうのだ。ことばを書くとは、ここから逸脱して、ここではない場へ行ってしまうことなのだ。

 


数式に物語を代入しながら何も言わなくなったFに、掲げる詩集
中尾 太一
思潮社

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高橋睦郎『百枕』(24)

2010-08-24 12:51:04 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(24)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「枕船--六月」。

 枕船(まくらぶね)とは、湯に浮かべて頭を乗せる、長さ一尺五寸ほどの丸太ん棒様のもののことらしい。

 エッセイで高橋はそう説明している。そのことばを伊豆の出湯に浮かべ、書かれたのが「枕船」の句である。

さみだるる朝のいでゆの枕船

枕船一尺五寸さみだるる

 露天風呂。雨に濡れて温泉につかっている。何も考えず、頭は「枕船」にあずけている。「さみだるる」のなかに「みだるる」夜の思い出があるかもしれない。記憶を、雨にたたかせている。体の疲れは温泉の温かさがほぐしてくれる。そして頭の疲れは雨が覚ましてくれる。

浮むれば木枕も船うつぎ散る

 「うつぎ」は風景の描写だけれど、その白い花びらは、つづけて高橋の句を読んできた私には違った花、男の精の花のようにも感じられる。



 反句は、ぐっと明るく広がる。

枕船真昼の夢を夏の果て

 五月雨のあと、夏の雲の峰。その向こうまで、夢は明るく広がる。高く高くのぼっていく。「枕船」の強さ(硬い感じ)が、夢を支える頑丈な土台のように思える。湯船に浮いているのだけれど……。





王女メディア
エウリーピデース,高橋 睦郎
小沢書店

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ファン・ホセ・カンパネラ監督「瞳の奥の秘密」(★★★★★)

2010-08-24 01:22:18 | 映画
監督 ファン・ホセ・カンパネラ 出演 リカルド・ダリン、ソレダ・ビジャミル、ギレルモ・フランチェラ、パブロ・ラゴ、ハビエル・ゴディーノ

 ミステリー仕立ての映画だが、ほんとうは恋愛映画になる。アメリカ映画の安直さからはるかにかけはなれた、ヨーロッパの濃密なにおいが漂う映画だ。あ、アルゼンチン(南米)はヨーロッパなのだ、と感じた。
 それにしても、この映画を若いときに見なくてよかったなあ、とつくづく思った。若いときは、きっと何をやっているかわからない。男と女の、目の表情(目の演技)がわからない、と思う。「人間の本質は変わらない」ということも、たぶん「台詞」としては理解できても実感できないと思う。
 すばらしいシーンはいろいろあるが、ソレダ・ビジャルが犯人と向き合った瞬間、「あ、この男が犯人だ」とわかるシーンがすばらしい。女検事のブラウスのボタンが一個なくなっていて、そこから胸元が見える。その胸元を犯人が特有の目付きで見る。その目を見て女検事は直感的に犯人だと気づく。そして挑発する。「こんな男にレイプができるはずがない」。それに反発し、男は自分が犯人だと言ってしまう。このときのソレダ・ビジャルの目の演技、それにつづく女のしぐさの演技がすばらしい。
 リカルド・ダリンは犯人の男の、胸元を見る目付きの変化に気づかず、それを見逃すのだが、その女と男の目の対比(その演技のあり方)にも非常に驚かされる。役者の目の大きさがものをいっている。
 服役後、釈放された犯人とリカルド・ダリン、ソレダ・ビジャミルがエレベーターで乗り合わせるシーンの緊張もすごい。ラストシーンの、ソレダ・ビジャミルの、ああ、やっと……という感じで、よろこびにあふれる目の演技もすばらしい。
 リカルド・ダリン、ソレダ・ビジャミルをわきから支えるアルコール中毒事務員も非常におもしろい。彼に「人間の本質は変わらない」という、この映画のテーマを語らせるのもおもしろい。
 彼がリカルド・ダリンと勘違いされて暗殺されるシーンの、その演技がまた実にいい。台詞はない。動きの一つ一つに意味があり、それが的確に観客につたわってくる。リカルド・ダリンの写真を倒していく動きなど、暗殺者のことも理解していれば、自分が何をしなければいけないかもきちんと理解している。アルコール中毒なのに、自分に何ができ、何をしなければならないかを的確に判断し、それをやってのける。あ、彼もまた「本質」を貫く人間なのだ。
 どうしてもアップの演技に目が行ってしまうが、サッカー場のシーンも、短いのだけれど、濃密である。緊迫感がある。長回しと、手振れの乱れとを生かして、臨場感がある。あ、もう一度、このシーンをやってほしいなあ、見なおしたいなあと思う。もしかすると、サッカー場のシーンがこの映画の中ではいちばんいいかもしれない。
 伏線もていねいに工夫されていて、それが映画に奥行きを与えている。タイプライターのAが印字できないというエピソードと、最後に手書きのメモにAをつけくわえることでことばがかわるというエピソードもおもしろい。ただし、この「Terro(r)」(怖い)から「TE AMO」(愛してる)への変化は、手書きスペイン語を見慣れていない人にはわかりにくいかもしれない。小文字「rr」は筆記体では大文字の「M」の右上に短い髭がついているように見える。そのことを利用して、「Terro(r)」が「TE AMO」にかわるのである。「A」が「rr」を「M」に変える。「文脈」が「文字」をちがったものに見せてしまうのである。(これは、ある意味では、この映画のテーマであるかもしれない。)「怖い」も正確には「Terror」なのだが、夜、寝ていて思い付いたメモなので最後の「r」がない。「r」がなくても、スペイン語圏のひとなら、それは「怖い」であることがわかる。



 「Terro(r)」から「TE AMO」への変化。これは、「rr」を「M」と「誤読」することによって成り立っている。「A」をつけくわえることによって「rr」が「M」と「誤読」される。そして、その「誤読」こそが、リカルド・ダリンの「本質」であり、ソレダ・ビジャミルの「本質」でもある。つまり、「読みたかったもの」である。「Terro(r)」はリカルド・ダリが書いたものであるが、その文字をリカルド・ダリンも読んでいる。そのことに、深い意味がある。
 何か(何であれ)、あらゆるできごとは「読む」だけではだめなのだ。だれもが「読んでいる」。読んだ上に、そこに自分自身の「本質」をつけくわえる。「A」をつけくわえるように。そうすると、あらゆるものが「誤読」され、その「誤読」のなかに、ことばにならなかったものがはっきりと浮かび上がる。
 この映画では、その「本質」を「パッション」と呼んでいた。
 だれもが、どうしようもない「パッション」をもっている。なぜ、それが必要なのか、だれにもわからない。ただ、どうしようもなく、それが好きなのだ。それは「本能」なのだ。
 これが恋の場合は「直感」ということになるかもしれない。
 だれもが「直感」で恋をする。あとから、あれこれ理由をつけくわえる。「直感」で恋をしながら、恋されてることを知りながら、25年間も回り道をすることもある。「誤読」によって何かを壊す--その一瞬が、それこそ怖くてできないのだ。
 その怖い何かを克服するのに25年かかった--という映画でもあるかもしれない。
 他人の(他の登場人物の)、変わることのない「パッション」に触れ、自分自身のなかにある「パッション」を自覚し、それを、いま、そこにあるものにつけくわえる。そのと、世界が動く。
 とてもおもしろいテーマだ。

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林立人「A Tea Bag 」ほか

2010-08-24 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
林立人「A Tea Bag 」ほか(「六分儀」37、2010年06月24日発行)

 林立人「A Tea Bag 」は何が書いてあるかわからない。わからないのだけれど、読んでしまう。最後に(続く)という文字がぽつんとおかれているので、詩の全部ではないのだな、とわかる--わかると書いたが、ほんとうかなあ。ほんとに続きがあるのかなあ。なんともしれない。詩なのだから(?)、どこでおわっても関係ない--というと林に失礼かもしれないけれど、私は、続きが読みたいという気持ちと、続きがなくてもいいという気持ちのどちらが強いのか、よくわからない。なんといえばいいのだろう、続くものは続くし、続かないものは続かないのだが、その「続く」ということは、自然発生的なものなのか、あるいは「続く」ではなく「続ける」ということが「続く」を引き起こしてしまうのか、それがわからないから、続きが読みたいのか、それともこのままでいいのかわからないのかもしれない。
 というようなことが、なぜか気になったのはどうしてだろう。詩を読み返してみると、次の行がある。

寝床の中で歩いていたねむりの続きみたいに歩く

 2連目の書き出しに近い部分なのだが「続く」ということばが出てくる。この文章(?)変だよねえ。変だけれど、奇妙に「わかった」ような部分、「あ、そういうことか」と思う部分がある。正確には(?)、というか、「学校教科書的」には、

寝床の中で、つまり眠っていて、その夢の中で歩いていたのだが、そのときの歩行の「つづき」みたいに歩く

 ということかもしれない。「ねむり」と「歩く」は別のものだから、「続く」という具合にはならない。「続く」ためには、その「前」と「後ろ」が同じものでないと続かない。「歩いていた」続きみたいに「歩く」でないと、変である。
 で、あるはずだ。
 ところが、そんなふうに「学校教科書」的だと、おもしろくない。
 それに「寝床の中で歩いていた」のは「わたし」ではなく、書いてあるとおりに「ねむり」かもしれない。「わたし」が主語ではなく、「ねむり」が「主語」。そして、いま「続き」みたいに歩いているのは、やはり「ねむり」なのだ。
 なんて、無理なことを考えながら、それも、やっぱりおもしろくないなあ。
 私がおもしろいと感じたのは、「学校教科書」みたいに主語、述語がきちんとしていなくて、どこかで「ねむり」と「歩いていた(歩行)」がとけあってしまって、区別がつかないまま、「歩く」という現在のなかにつながってしまうことなのだ。
 何が「ねむり」と「歩行(あるいは、歩いていた夢、というべきか)」を融合させるのか。別のもので呼ばれているものが、なぜ、30字たらずのことばのなかで、まぜこぜになってしまうのか。なぜ、別の名前で呼ばれていたものが「続き」になってしまうのか--それがわかったようで、わからない--それがおもしろいのだ。
 正確に書こうとすればするほど、書きたいことが遠くなり、不正確に書いた方が(?)逆に「間違い」のなかに、ことばでは書き表すことのできない何かを浮かび上がらせてしまう。そういうことなのかもしれない。
 「続き」(続く)というのは、先行しているもの(ことば)が「続く」のではないのだ。どんなことばでも「続ける」ことによって「続く」のだ。「続く」「続ける」ではなく、「つなげる」なのかもしれない。
 ことばは「つなげる」ことによって、続く。
 きっと、そうなのだろう。

寝床の中で歩いていたねむりの続きみたいに歩く 十数歩と
行ったところで置き捨てられた段ボールの箱を見つけて腰をおろす
橋は目の前だがこの辺りで息を整えていると
こみ上げてくるものがある しつこい嘔気が喉元にきて居座る
       (谷内注・「嘔気」の「気」を林は正字で書いている)

 とても変なことばの繋がりである。「十数歩と/行ったところで」。改行があるからそのまま繋いではいけないのだろうけれど、意味的には、「十数歩/行ったところで」だろう。その改行というか、意識の飛躍の踏み台に「と」ということばがつかわれている。「と」をこんなふうにして、つかう? 私はつかわない。だから、そこで一瞬つまずくのだが、ことばが繋げられてしまうと、そこに「続き」を読みとってしまう。そして、まあ、いいか、と思ってしまう。何か「間違い」というか、納得できないものを内部にかかえながら、どこかへずれていく--「と」から始まっているどこかへずれていくと感じ、あ、これはほんとうは「歩く」という行為が「続いている」のではなく、「と」のなかにあるもの、「わたし」の内部にある何かこそが「続いている」のかもしれないとも思うのだ。
 そして、そんなふうにして読んでいくと、

置き捨てられた段ボールの箱を見つけて腰をおろす

 という何気ないことばも、とても変である。「置き捨てられた」って、どうしてわかる? というか、段ボールを見つけて腰をおろすのはわかるが、その段ボールを、あらかじめ「置き捨てられた」ものとして了解しているというのは、変でしょ? 段ボールを見つけるが最初の事実であって、それが「置き捨てられた」ものであるかどうかは、段ボールを見つけたあとの意識だ。もしかすると「腰をおろす」という行為のあとかもしれない。行動と意識の関係が、ここでは、実は「現実どおり」ではない。「現実どおり」ではないけれど、こういうことを、私たちはしょっちゅうやっている。

段ボールを見つけて腰をおろし、段ボールは置き捨てられたものだと感じた

段ボールを見つけ、置き捨てられたものだと思い、腰をおろす

 とも書くことができるのだけれど、「置き捨てられた段ボールの箱を見つけて腰をおろす」を自然な(?)文章だと感じ、それに納得する。
 ことばというのは、何か、変な法則で動いているのだ。
 「学校教科書」の文体が「正しい」(合理的?)とは、必ずしも言えないのだ。
 そういうことを、林の不思議な文体は教えてくれる。

橋は目の前だがこの辺りで息を整えていると

 の「この辺り」の「この」のつかい方も、あ、そうかとは思うけれど、変である。「この」というくらいだから、その「この」は先立つことばのなかにないと、「この」の意味をなさない。「学校教科書」的には。しかし、その「学校教科書」を逸脱している部分に、あ、ここを「この辺り」と言いたい気持ちがあるのだ、何かが「この」につながっているのだと感じる。「歩いていたねむりの続きみたいに」何か、違ったものが「繋がっている」と感じるのだ。
 こういう不思議さが、延々と「続いて」いく。それは、どこで「終わり」になるか、よそうがつかない。どこまでも「続く」でかまわない。作品の文末の(続く)は、ようするに「終わり」がないというだけのことであって、そこで中断しても、やはり「続く」なのだと気がつく。

 考えてみれば、意識なんて「続く」ではなく、「続ける」だけなのである。
 そして、そんなふうに考えると、樋口伸子「うまおいかけて」も、小柳玲子「ヘイ叔父」も、繋げなくてもいいものを繋ぐことによって、意識を「続いている」ようにみせていることがわかる。
 樋口の作品の方が説明が簡単なので樋口を例にとれば、

うまがおいかけてくるんです
 え うまが?
はい 馬がですね まいあさまいばん
 ほう 毎朝毎晩 どこから?
そりゃ うしろからですよ へんですか?
 いや へんじゃないけど
 あーんして 大きな声を出して
馬の声をだすんですか
 いや あなたの声ですよ
まあ いやらしいせんせ

 ここでは、「そんなもの、続けるなよ」ということが「繋げられる」。医者(せんせ)に「声を出して」と言われ、「馬の声をだすんですか」なんて、何言ってるんですか、「いや あなたの声ですよ」に決まってるでしょ? でも、それに「まあ いやらしいせんせ」と、またまた変なものが「繋げられる」。
 そのとき。
 ほら、そこで起きていること(医師の診断)ではなく、別なものが急にみえてくるでしょ? すけべな私の実感でいうと、女(たぶん)のセックスのときの声、あ、セックスのとききっと声をだすんだなあ、そのことを女は思い出して「いらやしい」と想像が暴走してるんだなあ、というようなことが、ふいに見えてくる。
 これは、医師の診断の「本筋」ではなく、いわば、横道、逸脱、暴走--なのだけれど、そこに「本筋」ではとらえることのできない「本質」のようなものが、ふいに見えてくる。
 こういことって、おもしろい。
 
 詩は、ことばを暴走させることで、暴走しないことばには見えないことを見せてしまう--そんなふうにしてことばを「繋げ」、別なものを「いま」の「続き」にしてしまうことかもしれない、と思った。

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高橋睦郎『百枕』(23)

2010-08-23 12:31:35 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(23)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「枕売--五月」。

夏始なりたきものに枕売

 「枕売」という商売があるとは知らなかった。枕だけ売り歩いて、それで商売になるんだろうか--と思っていたら、高橋はエッセイでいろいろ書いている。枕と色事はつきもので、色も売り歩いた、と。
 で、枕売りなりたいのは、単なるすけべごごろから?
 どうも違う気がする。

枕売さぞ青葉さす若衆かな

 「青葉さす」が美しい。そして、それが美しいのは「若衆」が美しいからだ。高橋の、発句の人物は、枕を売りながら色も売るということがしたいというより、「青葉さす」と形容されるような若衆にこそなりたいのだろう。
 そういう、自己を超える夢があるからこそ、ここでの句は「荘子」の、荘周と蝶の夢にもつながっていく。「枕という人類が産んだ最も奇怪(きっかい)な道具をあいだに置いて、荘周が蝶になることと蝶が荘周になるとこととは、一つことではあるまいか。」
 枕売が「青葉さす若衆」と想像することは、自分自身がその「青葉さす若衆」となって枕を売り歩くことそのものなのだ。

枕買うてまづ試みん一昼寝

風涼し枕と二人寝んとこそ

 そして、そういう夢を見るのは、また「枕を買う」人物にもなることでもある。枕を売るひと、枕を買うひと--それは「ひとつ」である。そこでは枕の売り買いだけではなく、それにつづくすべてのことが夢見られている。
 「昼寝」というより、昼日中、明るい光の中で見る「目覚めている意識の夢」、つまり明確な願望である。
 このさっぱりした感じはいいなあ。



 反句、

荘周の枕も薄蚊吐く頃ぞ

 「薄蚊」とはなんだろう。私には見当がつかない。「うすか」と読むのだろうか。
 わからないままこんなことを書いていいのかどうか。
 蚊は不思議で、どこからともなくあらわれる。衣服や、寝具や、何やかやの「ひだ」のようなところにひそんでいるのだろうか。隠れているものが、ふいにあらわれてくる。そして、そのうるさい音に、現実を知らされる。
 荘周の蝶の夢は美しいが、それとは対照的な、うるさい現実の蚊--そのとりあわせに、俳諧の不思議なおもしろさを感じる。荘周の、文学的な夢を笑い飛ばす(破壊する)現実の「俗」。
 高橋は、「青葉さす」若衆になりたいと思った人物を、からりと笑っているのかもしれない。




柵のむこう
高橋 睦郎
不識書院

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林嗣夫「朝、病院で」ほか

2010-08-23 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
林嗣夫「朝、病院で」ほか(「兆」146 、2010年05月08日発行)

 私はときどき(頻繁に?)誤読をする。誤読には2種類ある。「文字」は正確に読みとるのだが「解釈」をまちがうという誤読と、「文字」そのものをまちがうとうもの。
 林嗣夫「朝、病院で」で、私は、後者の誤読をした。それは結局、解釈をまちがえたということにつながるのだが……。
 詩の前半部分。

ピリッ、と指先にしびれが走った
とても新鮮なしびれだった
あっ生きてる、という驚きにも似ていた

採血するとき
看護師の注射針の入れ方が
まずかったのか

一本の血液を収め
わたしの腕に小さな綿をとめながら言った
「血が止まるまでしっかり押さえていてくださいね」

血が止まるまで--
そうね、血が止まるまで、ね
わたしは口の中でくり返した

廊下の待合室のソファには
うつむいたり ひそひそ話をしたり
血が止まるまで、の人たちが並んでいた

 この引用の最後の「血が止まるまで、の人たちが並んでいた」を、私は「息が止まるまで、」と読んでいた。そして、あっ、すごい、こんなこと書けない--と思い、そのことについて書こうと思っていた。(実は、書き出しの部分は、書き直したのである。誤読に気がついて、書き直したものである。)
 なぜ、「息が止まるまで、」と誤読したんだろう。
 病院のなかには生と対峙した死があるからだろうか。「うつむいたり ひそひそ話をしたり」が死をまつ人々、自分のではなく他人の死をまっている人々の姿に見えたのか。そういう人々もやがては死ぬ。そして、いま、血液採取で新鮮なしびれを感じ、生きていると感じた林もやがては死ぬ。血が止まる(出血が止まる)のは傷が塞がるときと、死んでしまうときと二つあるが、その「死」の方がふいに私の意識に浮かんできたのである。
 「あっ生きてる」ということばが、反対に「死」を呼び寄せたのかもしれない。
 なぜ、誤読したのかわからないが、「息が止まるまで、」の方に、強く詩を感じたのだ。いのちの「矛盾」のようなものを感じたのだ。矛盾を読みたい、矛盾のなかにあるものを、よりわけるようにして何かに触れたい--そういう私に気持ちがあるからだろうか。
 もし、林が「息が止まるまで、」と書いたとしたら、後半はどんなふうに変わるのだろうか。
 最後の3行。

血が止まるまで、

とても新鮮な朝だった

 この3行も、私は実は「息が止まるまで、」と読み違えていた。林は、純粋に、採血し、そのときの血が止まるまでのことを書いているのだが、その待っている時間と、一生がどこかで重なって、「息が止まるまで、」と読んで、私は一度も疑問を抱かなかった。
 読み違えて、あ、いい詩だなあ、と感じていたのである。
 ひとが生きていると感じる瞬間は、ひとそれぞれだろう。そして、生きていると感じる瞬間、死の瞬間までと考えることはないかもしれない。けれど、病院でなら、もしかするとそういうことがあるかもしれないと思ったのだ。
 林の描いている「場」が病院ではなく、「学校」だったら違ったかもしれない。学校での集団検診。そこでなら、死は登場しないだろう。病院だから、死が隣り合わせにあって、死を考えてしまう。
 うまく言えないが、病院という「場」の不思議な力が、林に「息が止まるまで、」という行を書かせた--病院から不思議な力を甘受し、林は「息が止まるまで、」と書いてしまった。書かされてしまった。私は、そんなふうに勘違いし、林の感受性に驚いたのである。

 これは、まあ、ありえない(許されない?)一種の共同作業(?)のような体験なのだが、私は、こういう「誤読」も、なぜか自分自身の経験として、とても好きなのである。書いておきたいことなのである。そういう変な体験のなかに、詩がある、と感じているのである。

 「出勤途上で」の前半も私はとても好きだ。この詩については文字の誤読はしていない(と思う)。私は目が非常に悪いので、断言はできないのだが……。

ときどき変なものにでくわす

たとえば出勤の途上
わたしの車の前をトラックが走っていた
土をいっぱい積んで
土をいっぱい積んでいた!

土を運んでどうするつもりだろう
地球の表面は
水と土ばかりではないか
土の上を 土を運ぶ
そんなばかな

それとも土を
あちらに移し こちらに移し
遊んでいるのだろうか

 「土を/あちらに移し こちらに移し/遊んでいる」は林の「誤読」である。そんなことをしているわけではないのは林はわかっている。けれど、「誤読」したいのだ。ばかなことをしている、と「誤読」したいのだ。
 トラックが土を運んでいる。そのとき林は、見たものを「誤読」していない。肉眼はきちんと映像を把握している。ことばもきちんとそのことを描写している。きちんと描写しながら、それでもなおかつ、「誤読」したい。
 ありふれたものなのに、「変」であると「誤読」したい。
 この欲望はなんだろうか。 
 そして、その「誤読」願望、「誤読」欲望に触れながら、私がその「誤読」を肯定したいという気持ちになるのはなぜだろうか。「土を運んでどうするつもりだろう」ということばを林のことばとしてではなく、自分のことば(自分の実感)にしていまいたいと感じるのはなぜだろう。
 きっと私も、いまの現実に対して違和感を感じているからだろう。そしてその違和感をどう表現していいかわからずにいる。だから、その違和感を、ぱっとつかみ取り、表現したことばに触れると、その「誤読」を肯定したくなるのだろう。

土をいっぱい積んで
土をいっぱい積んでいた!

 この繰り返しに似た2行に「誤読」の出発点がある。「土をいっぱい積んで」トラックが走っていた--が倒置法で「トラックが走っていた/土をいっぱい積んで」でおさまりきれず、「土をいっぱい積んで」が暴走して「いた!」を呼び寄せる。
 その「いた!」のなかにある意識--その「誤読」が、この詩の輝きだと思う。
 「いた!」というのは、間違いではない。それは「存在」の過剰なリアリティーである。「存在」が「存在」を超えて、あふれている。「いっぱい積んでいた」といっても、現実にはトラックの荷台以上にはつめないはずだが、「土をいっぱい積んでいた!」と書いたときには、「荷台」を超えている。「荷台」をあふれている。
 ありえない「誤読」が詩を引き寄せている。
 そこに、私は、ひかれる。



 あ、私は何を書いているかなあ。またまたわからなくなってしまった。
 同人誌「兆」のなかでは、林の詩は、私が感想を書いた順序とは逆に、「出勤途上で」「朝、病院で」という具合に並んでいる。「出勤途上で」で、林が現実を「誤読」するのを読んだために、それに影響されて「血が止まるまで、」を「息が止まるまで、」と過剰に読んでしまったのかもしれない。

血が止まるまで、

とても新鮮な朝だった

 を「息が止まるまで、」と読んでしまうと、林は死んでしまうから、そんな「誤読」は許されるはずもないはずなのだが、これから先の生きている間中でも、「とても新鮮」と言える体験だった(体験に違いない)というふうに読もうと思えば読める。
 私は、林が、この朝の体験で、単なるある日の「朝」を体験したのではなく、人間の「生涯」(一生)のなかにある不思議さを体験したと読んだ瞬間に思い、そのために「血が止まるまで、」を「息が止まるまで、」と勘違いしたのだと思う。
 林が書いている「朝」は一日の「朝」ではなく、「永遠の朝」なのだと思う。「永遠」という過剰な朝なのだと思う。それは「いっぱい積んでいた!」の「「いた!」と同じである。林が見ているのは一台のトラックの荷台ではなく、そこからあふれる「土」の存在、「いっぱい」そのものである。
 

 

風―林嗣夫自選詩集
林 嗣夫
ミッドナイトプレス

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高橋睦郎『百枕』(22)

2010-08-22 12:39:58 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(22)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「枕大刀--四月」。

刎頸の花の友こそ枕大刀

 いきなり過激な句で始まる。疑問は、首を刎ねるのになぜわざわざ「枕大刀」? 「大刀」とはいうものの、枕元に置くのだから小振りなのでは、などと歴史にうとい私は勝手に想像してしまうのだが……。
 エッセイで、このあたりの疑問を高橋はていねいに解説している。一連の句は、実は本能寺の変を題材にしている。信長は秀光の急襲にあい、自害する。

もちろん、割腹に用いたのも枕大刀だったろう。この時、蘭丸に介錯させたとすれば、比喩的に蘭丸こそが信長の枕大刀だったともいえる。

 そして、その解説は、次のようにも言う。

信長・蘭丸の衆道関係においても、蘭丸が大刀で信長が鞘であった可能性もなしとはしない。

 へえ、そうなのか。ちょっとびっくりした。そして、あ、もしかして、このことが書きたくて句を書き、エッセイを書いたのかもしれない、とふと思った。
 「刎頸の友」から書きはじめなければならないのは、そのためだね。



 反句、

枕大刀要らぬ世めでた遅桜

 これは「乱世」ではない「この世」をめでる句--と単純に受け止めていいのだと思う。ここにもっと別の意味があると、せっかくエッセイで書いた信長・蘭丸の関係がかき消されてしまう。



柵のむこう
高橋 睦郎
不識書院

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キャロル・リード監督「フォロー・ミー」(★★★+★)

2010-08-22 00:56:52 | 午前十時の映画祭


監督 キャロル・リード 出演 ミア・ファロー、トポル

 この映画のなかほど、ミア・ファローとトポルがロンドンの街を歩き回るシーンがおもしろい。台詞はないのだが、台詞が聞こえてくる。こころの声が聞こえてくる。その声を聞きながら、突然思ったのだが、この映画、キャロル・リードではなく、ノーラ・エフロンが撮ったら、どうなるだろう。もっとすばらしくなるのではないだろうか。
 この映画が公開された当時、まだ女性の監督はいなかったかもしれない。いたかもしれないが、私は思い付かない。公開当時も、二人が歩き回るシーンだけがとても新鮮で、とても好きだったが、そのときはなぜそれが好きなのかわからなかった。いまなら、わかる。そこで描かれている「恋愛」は女の感覚なのである。
 男の感覚は、ミア・ファローの夫の視線で描かれている。
 その男の感覚が窮屈で、ミア・ファローは、そこから逃れるようにして街をさまよう。そしてトポルに出会う。トポルはミア・ファローの「感覚」にあわせる。追跡--ついていくというのは、自分がどうなっても気にしないで、ただ相手にまかせてついていくということなのだが、このとき女の方は追跡されながら「自由」になる。自分の歩きたいところへ歩いていけば、男はついてくる。何も言わない。そのときの「自由」。すべてをまかせられていると感じる「自由」。それを存分に味わったあとで、「ついておいで」という男の誘いにもついて行ってみる。ことばで何かを言うわけではないから、そのときも女は「自由」である。自分の感じたことを感じたままに、修正しないですむ。その修正しない形の感情・感覚・よろこびを男が見ている--その視線を感じるとき、いま感じたことがいっそう強くなる。
 これは、当時の若い(?)私にはわからなかった。いま、それがほんとうにわかるかといえば、まあ、怪しいけれど、昔よりはわかる。
 とはいいながら、その「わかった」感覚で言うと、キャロル・リードの映像は、まだまだ硬い。堅苦しい。ロンドンの街の「ハム通り」だの「塩通り」だのを歩くシーン。トポルが鳥の真似をしながらミア・フォローをリードしていくシーンや、トポルがミア・ファローを見失った(追跡しそこねた)と思い、そのトポルを雑踏に探すシーンなどおもしろいのだけれど、映像が、どうしても男の視線である。--というか、え、なんで、こういう映像になるの? と驚くことがない。
 わかってしまうのである。
 トポルはいつも何かを食べている。(これは、とても女っぽい。)そして、ミア・フォローが最初にトポルに気づくとき(気づいたと、夫に話した内容によれば……)、トポルはマカロンを食べている。そのマカロンの描き方が、男っぽい。女の描き方ではない。
 ノーラ・エフロンなら、単に「トポルがマカロンを食べていた」とは言わない。(そんなふうには、描かない。)そこに「匂い」をつけくわえる。映像を乱す何かをつけくわえる。「マイケル」では「甘いバターの匂い」というものをつけくわえていた。女が、甘いバターの匂いがするという。それに対して同行した男は「匂いなんかどうでもいい」というように、女の感覚(嗅覚)を無視するシーンに、女の監督ならではの「味」があった。その描き方に、私はびっくりしてしまった。
 キャロル・リードの描き方には、何か、あっと驚くものがない。
 最初にトポルが登場する会計事務所。そこでマカロンを食べている。オレンジを食べる。書類を散らかす--そういう「日常」の侵入に、女の侵入(女の視線)があるのだけれど、それはまだ「理屈」(理論)のまま。何かが欠けている。男には思い付かない、やわらかい何かが欠けている。
 それが、映画が進めば進むほど、あ、違う。何かが足りない、と感じるのだ。
 ノーラ・エフロンの、女としかいいようのない感覚--その感覚で、この映画をリメイクすれば、ロンドンの街はもっと違ってくる。映画のなかに登場する博物館(美術館?)の絵も、ホラー映画も、「ロミオとジュリエット」も、トポルが露店で買うホットドッグのようなものも、きっと違ってくる。「ハム通り」も「塩通り」も、看板の文字をはみだして、違うものになると思う。
 男の(キャロル・リードの)視線では、看板の「ハム通り」「塩通り」というような文字が象徴的だけれど、何かしら「ことば」(頭脳)で処理してしまう。
 でも、女の恋愛は、ことばではないのだ。ただ、同じところにいて、同じものを見る。同じものを感じる。感じ方が違っていても、ことばにしなければ、感じは「同じものを体験した」という時間のなかで溶け合ってしまう。そのときの、ことばを超えた何か--それがキャロル・リードではとらえきれない。
 ノーラ・エフロンでなければ、だめ、と私は思うのである。
 でも、これはいまだから感じる感想だねえ。1970年代のはじめに、こういう映画が生まれた、キャロル・リードが、ふしぎにかわいらしい映画を撮ったということは、たいへんなことかもしれない。で、★を1個プラスしました。
                     (「午前十時の映画祭」29本目)


【日本語解説付】フォロー・ミー (Follow Me!)
サントラ
Harkit/Rambling Records

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版画・宇田川新聞、詩・廿楽順治『うだがわ草紙Ⅱ』

2010-08-22 00:00:00 | 詩集
版画・宇田川新聞、詩・廿楽順治『うだがわ草紙Ⅱ』(2010年06月08日発行)

 『うだがわ草紙Ⅱ』は宇田川新聞の版画と廿楽順治の詩がセットになった冊子である。右側に版画があって、左側に詩がある。タイトル(?)は、左上。
 廿楽の詩と宇田川の版画には何か似たところがある。表現されているものが、まったくわからないわけではない。と、いう言い方はたぶん正しくない。版画と詩では、表現媒体が違うから、「似たところがある」というひとことで片づけるわけにはいかない面倒くさい部分がある。その面倒くさい部分を、ちょっと書いて見る。
 版画は、他の「絵画」とは違って表現が間接的である。直接、紙に絵を描くわけではない。木版画なら木を彫る。そしてそれを印刷する。彫ったものは反転される。彫ったものとは違ったものが印刷される。そして、たいてい版画家はその「反転」された絵を完成されたものと想定して木を彫る。
 廿楽の詩も、いくらか「間接的」である。廿楽は、まあ、直接紙にことばを書く(あるいは、キーボードをつかってことばを打ち込み、それをモニターで確認する)のだと思う。そのとき、廿楽は、ことばを直接みてはいない。このことばは他人(読者)にはどんなふうに見えるかな、と思いながら書いている。自分の思考(感性)を正確に書くというよりも、そのことばによって他人(読者)の思考、感性がこう反応のするんじゃないかな、ということを想定しながら書いているように感じられる。他人(読者)が読んでいるのは、いわば「版画」としてのことば。そのことばの向こう側には、そのことばを意識的に動かしている廿楽がいる--そういう感じ。
 (「版画」については、あれこれことばで説明するのは面倒くさい。特に、版画をコピーにしろ何にしろ紹介しないで、つまりネットにアップしないで、それについて語るのは難しいし、誤解を招くだけだろうから省略する。以下は、廿楽の詩に中心しての感想である。)

 「球体依然」という詩がある。「旧態依然」じゃないの? という疑問がすぐに浮かんでくるが、「球体依然」。宇田川の版画は、この冊子のなかの版画のなかでも特に抽象的で、黒い丸が中心にある。二段重ねのアイスクリームを簡略化したように、下の方には逆三角形のなにやら(スコーン?)があり、上にはもう一つの丸い塊。
 それにあわせて、廿楽の詩は、こう展開する。

その球に見おぼえはありませんが
たましいとうりふたつの恨みつらみ
はみたことがあります
正月のもちをとられたとか
どうしてみそしるの具をこがすんだとか
かろうじて網膜につながっている
くらしのなかのまるい恨みつらみ

 えっ? いま、何て言った? そう聞き返したくなることばである。全体がわからない。全体がわからないが、たとえば「正月のもち」ということばは、あ、二つ重なった黒い丸は鏡餅? 廿楽は、そう思ったわけ? と瞬間的に思う。
 「正月のもちをとられた」といっても、家に飾ってあるのをとられたというのではなく、買おうとしたら、それをだれかが先に買ってしまって、そのことを恨んで「あ、それ私が飼うはずのおもち」と言ったとか……。ね、年末のデパート地下街で、そういうのを見た記憶(見おぼえ)って、ない?
 というようなことを、廿楽は書いている--のかな?
 そういう風景が、「網膜」に浮かんでくる。「くらし」のなかの、あれやこれやが。恨みやつらみが……。
 でも、それは「はっきり」とではない。「かろうじて」である。直接的に書かないので、「かろうじて」そういうものが浮かんでくる。これは一種の「誤読」である。廿楽はそういうことを書いていないかもしれない。書いていないかもしれないけれど、そういうことを感じてしまう。そう「かろうじて」感じてしまうのようなことばを、廿楽は書くのである。
 そこから先は、読者が勝手に完結させる世界。廿楽は、あくまで「版画」の版木を彫る作業をしているだけ。--と、いいながらも、不思議なことに、その「版木を彫る」という作業、それに似たものを廿楽のことばの奥に感じ、それを、読者(あ、私のことだけれど)は、私自身の「くらし」と重ね合わせる形で見てしまう。
 廿楽がこんなことを書くのは、きっと年末のデパートの地下街で買い物の争奪戦を見たんだな、なんと思うのである。そのとき、その想像のなかで、廿楽と私が重なり、その瞬間、ことばが「誤読」であっても、具体的に動く。
 そういう具体的に動く瞬間のための、ことばを書いている。動いてしまった軌跡としてのことばではなく、動く前の「予兆」のようなことばを廿楽は書いている。それは、たとえていえば、版画になる前の、版木のことばである。
 --というように見える(感じられる)のは、しかし、廿楽の作品が宇田川の版画といっしょにあるからだ。宇田川の版画がなければ、私はきっと違うことを感じる。
 だからこそ、そこに廿楽の「すごさ」があると思う。廿楽は自分のことばがどんなふうに「見られる」かを意識的に操作できるのである。

 象徴的な、とてもおもしろい作品がある。「うつす」。

からだのなかみがちっともうつらない
とぼとぼ山道をたどっていると
コレハ、キット
どこかのおおきな絵のなかなのさ
胸をこわされたひとたちが
ひとりひとり樹木や空にきちんとうつされていく

 この詩は、ベッドの上で寝ているこどもの版画と向き合っている。その版画について、私は「ベッドの上で寝ている」と書いた。「ZZZ」という鼾が書きこまれているからそう書いたのだが、絵をよく見ると、そのベッドのふとん(?)のめくれ方が妙である。版画を刷って、紙を剥がすときのように端っこがめくれている。
 で、思うのだ。
 「うつす」って何? 漢字で書くなら「写す」「映す」「移す」「遷す」のどれ?
 わからないねえ。わからないけれど、「からだのなか」つまり「胸」のなかのこと、「思い(感情)」を鏡に映して見るようにはっきりとらえることができない。もしはっきりとらえることができれば、それをひとつの「比喩」にして、「樹木」や「空」に「移す」(あるいは反映させる--映す)ことができるかもしれない。それは、「比喩」ではあるのだけれど、「おれ」を「樹木」や「空」に「遷す」ということかもしれない。
 この気持ち--自分自身を何か自分以外のものにしてしまう、「比喩」として見つめなおすという気持ち、ことばのなかで自分以外の何者かにしてしまう気持ち--これって、「刷り込む」ということでもあるよなあ。
 あ、この「刷り込む」が「写す」(映す、移す、遷す)なんて、版画といっしょじゃなかったら、きっとそこまで考えなかったよなあ……。
 気持ちを「刷り込む」、それが「比喩」。気持ちを「刷り込む」、それが「ことば」。うーむ。私は、ちょっと、ここで廿楽の「哲学」について考え込むのである。なるほどなあ、と納得するのである。
 気持ちを「刷り込ん」で、「比喩」を「版画」のように完成させていく。その「比喩」を、そして見つめなおす。そうすると、そこから、ことばはまたまた展開していく。誰も動かしたことのない領域へ動いていく。

でもおれはこんなにふとってない
かかれてしまうと
きもちはいつだって少しおおげさになる
好きでもないひとを
どうぶつになって追いかけてしまう
そうなるともう死骸
からだにはつよい線が
どこにもない
空にうつされていくこころぼそさも



すみだがわ
廿楽 順治
思潮社

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高橋睦郎『百枕』(21)

2010-08-21 12:36:48 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(21)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「枕経--三月」。「源氏物語」を夢中になって読んだ「更級日記」の少女を題材にして詠んだ句。その連作。

彼岸波(ひがんなみ)ひねもすのたり枕経(まくらぎやう)

彼岸此岸(しがん)霞わたれり波枕

生き死にの境朧や波枕

 「枕経」は死者の枕元で死者をおくるためのものだが、「人間畢竟ずるに死生一如(ししょういちにょ)、生者に枕経してはいけないということはあるまい」(高橋のエッセイ)で、「源氏物語」に夢中になっている少女に「枕経」をしている--そこから句は始まる。
 その「枕経」が、「波枕」へとすっと動いてゆく。「ひねもすのたり」「霞」「朧」をとりこみながら、「生死の境」が消えていく。「更級日記」の少女には、「彼岸」(あの世、源氏の世界)と「此岸」(現実の世界、法華経を勉強しなければならない)の区別はなくなる。いや、なくなるわけではないのだが、自分で「現実」を否定して、「彼岸」へと行ってしまうのだ。
 「源氏物語」を読んでいるとき、「読む」という行為において少女は生きている。けれど「物語」に夢中になるとき、少女は「現実」にはいない。「現実」は「死」んだ状態であり、「彼岸(虚構)」を生きている。生きることが(読むことが)死ぬこと(現実から乖離してしまうこと)であり、その死を生きることこそ、少女にとってはすべてなのである。
 少女にとっての「死生一如」は、そんなところだろう。

 この句の連作でおもしろいのは(エッセイで書いていることだが)、その「経」から「経」を読むひとへと視点が動いていくことである。いつのまにか「源氏」を読む少女はどうでもよくなり、経を読んでいるのはだれ? というより、どんなひと? へと関心が動いていく。
 この逸脱。そして、この逸脱の仕方に高橋の独自性が出る。高橋は、それは高橋の独自性ではない--と装うために、「枕草子」を引用し、田中裕明の句を引用し、ロシア正教の僧までもちだしている。僧は美僧でなければならない、声がよくなければならない。
 そして、反句。

枕経美僧に誦させ朝寝坊

 さて、朝寝坊の理由は? まさか「源氏」を読んでいたからではないよね。ここで朝寝坊しているのは「少女」ではなく、高橋なのだから。
 そして、昨夜、高橋はほんとうに「死んだ」んだよね。つまり、彼岸へ旅したんだよね、だからその経は、その「死んだ」高橋を彼岸へおくり、眠っている高橋を「生」の現実へ呼び戻す経でもある。目覚めながら、うーん、美僧がそばにいる、と思いながら、倦怠感を楽しんでいるのだろう。 





たまや―詩歌、俳句、写真、批評…etc. (04)
加藤 郁乎,岡井 隆,中江 俊夫,相澤 啓三,高橋 睦郎,佐々木 幹郎,建畠 晢,水原 紫苑,小澤 實,時里 二郎
インスクリプト

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北爪満喜『飛手の空、透ける街』

2010-08-21 00:00:00 | 詩集
北爪満喜『飛手の空、透ける街』(思潮社、2010年07月20日発行)

 北爪満喜『飛手の空、透ける街』のなかでは、「飛手」がいちばん好きだ。同人誌(?)に書かれたものを読んだ記憶がある。感想を書いたかもしれない。はっきりしない。以前書いたにしろ、また書いてみたいと思う作品である。

掌を右と左
うちがわの親指の第一関節をつけて
コピー機の上にそっと並べる

覆いを降ろしてコピーすると
ゆるく指の曲がった二つの掌の形は二枚の羽になる
コピー機からはき出された紙には 蝶がいる
わたしから剥がれることができて
手の形は
自由に 飛んでゆく
羽ばたいてゆく

 ここに書いてあることは現実ではない。蝶が飛んでゆく--が現実ではない、のではなく、両手をコピーするというのが現実ではない。両手をスキャナーの上において、どうやってコピーのスタートボタンを押す? 私はとてもそんなことはできない。だから、このまるで現実をきちんと書いているかのような部分が信じられない。あ、でたらめを書いている。嘘を書いている、と私は思う。
 けれども、この作品が好きだ。

わたしから剥がれることができて

 この1行の、特に「剥がれる」という動詞のつかい方に引きつけられる。「わたしから剥がれる」ものだけが、自由に飛ぶのだ。自由とは、わたしから剥がれた場所、離れた場所にあるのだ。いや、離れるという運動そのもののなかから始まるのだ。そして、その離れるを北爪は「剥がれる」という。
 離れると剥がれる。
 この、非常に音のよく似たことば(特に鼻濁音で「剥がれる」を発音する人--私は鼻濁音派である--には、その近さがよくわかると思う)は、とてもおもしろい。
 離れるには、その前に接触がなければならない。剥がれるはどうだろう。接触よりもよっと強い感じ--密着。点(線)ではなく面として密着しているもの、それを剥がす。

 しかし、この「剥がす」は、実はとても不思議である。ここで北爪が「剥が」しているのは彼女自身の「肉体」ではない。たとえば「皮膚」ではない。コピーである。それは最初から「離れている」。「剥がす」必要はない。それでも、そのコピーが「わたし」から「離れる」ことを「剥がれる」と北爪は言うのだ。
 どういうことだろう。視点を変えて見つめなおす必要があるかもしれない。

 コピーとは何だろう。
 それは、たぶん北爪にとっては「肉体」よりも「肉体」なのである。「肉眼」ではなく、機械によって「客観的」にとらえられた存在。コピーは「わたし」の外側を正確に(客観的に)再現したものである。「機械」によって、間違いなく「正確」に再現したものである。その「客観」が「剥が」れる。
 「客観」とは「主観」の逆。自分が見つめたものではなく、いわば他人が見つめたもの。コピー機という「他人(他者)」が見つめた(把握した)ものが、「わたし」から「剥がれ」てゆく。そのとき、「わたし」は「剥き出し」になる。
 「剥がれる」と「剥き出し」は同じ「剥」という漢字で、ぴったりと重なる。

 ここから、北爪の思考はかなり独特になる。

手は秘密にしていても
ほんとうは飛ぶことができる潜在能力があって
夢のなかでは
いつも自由に飛んでいる

 「わたし」から「剥がれ」、飛んで行ったコピーは、「客観」でありながら、実は「潜在能力」「夢」--そういう、いわば「肉体」の奥にあるもの(主観)を映し出すのだ。コピーと肉体の奥--そのけっして密着しないはずのものが、呼応し合う。
 「主観」と「客観」が、「わたし」と「剥がれてゆくもの」のあいだを飛び交う。「わたし」と「剥がれてゆくもの」のあいだに、「透明な空間」ができ、その「透明な空間」が、北爪の、意識としての「肉体」なのである。「ことばの肉体」の場なのである。
 北爪は、そういう「場」をつくりだしたい。そういう「場」でことばを動かし、ほんとうの自由を手に入れたい。
 そのために「わたし」をコピーし、「わたし」を剥がすのだ。
 これは、「わざと」やる行為である。だから、詩の冒頭の、自分の手のコピーをとるという不可能も、「わざと」なのである。そういうことは実際の肉体にはできないけれど、実際の肉体を意識の肉体で操作して、意識がコピーをとる、ということは可能なのである。
 意識的に「肉体」を「客観化」し、それを「肉体」から剥がす。そして、「肉体」の内部を、「透明」なものとして剥き出しにする。そして、解放する。そのとき、自由がうまれる。

 北爪は、写真に添えて詩を書くことがあるが、その写真とはコピーでもある。世界を映せば、その写真は世界のコピーである。しかも「客観的」なものである。機械で再現した「正しい」何かである。
 その「正しい」ものにことばをつけくわえる(詩を書き添える)とは、どういうことだろうか。コピーにことばを「密着」させているのか、あるいはコピーがかかえこむ何かをことばで「剥がし」ているのか。映像としてのコピーを、ことばでコピーする。それは世界の映像を、世界から「剥がす」ということかもしれない。
 ふつう、詩人は、世界と「わたし」のあいだに「映像」を仲介させない。映像というコピーを仲介させない。直接ことばで世界を引き剥がす。北爪はそういう多くの詩人たちとは違って、いったん「映像」として世界を把握して、その「映像」そのものを世界から引き剥がすという方法をとるのだ。
 世界に密着した映像、その映像にことばを密着させ、映像ではなくしてしまう。ことばにしてしまう。そうすると、映像と世界のあいだに、ことばが割り込み、映像がひきはがされてしまう。
 北爪の「密着」と「剥がす」は、そういう関係にある。そして、世界と、その引き剥がされた映像のあいだ、透明な空間に、ことばが自由に飛び回るのだ。

一人になって 何か手を動かしたくなったとき
にぎったボールペンの先から 変わった葉っぱや
ぐるぐるした蔓や
繋がりのよくわからない単語などが
インクの線で現れるとき
飛んだ記憶が そこまで来ている

 ここに描かれているのは、剥がされたコピーと「肉体」とのあいだの「透明な空間」のできごとであり、また同時に、「客観的な皮膚」を引き剥がされて「透明になった肉体」の内部でもある。「記憶」ということばが出てくるが、それは「透明な肉体」、「肉体」が透明になることによって見えてくる、はるかな「内部」なのである。
 「はるかな内部」を見るために、北爪は、自分をコピーし、それを剥がすという意識操作をおこなうのである。

 この詩は嘘を書いている--と私は、この感想の最初に書いた。
 しかし、その嘘は、ほんとうにいいたい何かを言うための嘘である。「虚構」である。ことばだけが、意識だけが、そういうことができる。
 北爪は、ことばだけができることをやるために、「わざと」嘘を書いたのだ。



 「密着」に関する補足。
 「密着」を、北爪は、独特のことばで表現している。

オリオン座と私で
ぴたっ と一瞬
どこにも不安がないような
瞬間を 固く 鳴らさなくては                 (「かならず」)

ぴたっと本を閉じるように思い付いたことを閉じようとしても
ぴたりと閉じられない どこかずれてしまって          (「保護区」)

 「ぴたっ」「ぴたり」。それが「密着」。
 一方に、そういう「密着」を夢見る北爪がいて、他方にその「密着」を「剥が」そうとする北爪がいる。
 「ぴたり」は、ことばでは簡単だが、ほんとうは不可能である。「ずれ」がかならず、そこに存在する。コピーでも、写真でも同じである。それは「客観的」ではあるけれど、ほんものではない。「ずれ」がある。何か、間違いのようなものがある。とらえきれない何かがある。
 それを「補修」するのが、ことばである。
 「ずれ」を補修するのもことば、「ずれ」を利用して、その「ずれ」を「剥がす」のもことば。
「ずれ」がなくなり、「ぴたり」重なれば、それはある意味での「透明」である。「客観」と「主観」の完全な一致。また「コピーのずれ」を引き剥がせば、そこには剥き出しの「主観」が「客観」のようにさらけ出される。「主観」が透明になる。
 ことばによって、主観を透明にする--それが北爪の欲望かもしれない。透明な主観、他者によってゆがめられない主観--それを北爪は「自由」と呼んでいるのだと思う。

 北爪にとって「主語」はいつでも「ことば」である。「ことば」を生きている。


飛手の空、透ける街
北爪 満喜
思潮社

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高橋睦郎『百枕』(20)

2010-08-20 08:54:37 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(20)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「枕神--二月」。
 「枕神」とは、高橋のエッセイによれば、

枕神とは夢枕に立つ神のこと。とすれば、それにふさわしい動詞は「立つ」。

 そしてそこから、二月、立春、佐保姫という連想がつづき、そこから

佐保姫の春立ちながらしとをして
  霞のころも裾はぬれけり

という句の付合が紹介され、さらにさらに連想はかけめぐる。その連想は高橋の書いている句の「補足」のようなものだが、その展開を読んでいると、やはりこの句集は「ひとり連歌」だなあ、という気がしてくる。
 ふつう俳句はある現実世界と向き合い、そこで動いたことばだが、連歌の場合、必ずしも現実世界とは向き合わない。向き合うのは、前句のことば--ことばがつくりだす世界である。前のことばがつくりだす世界を、つぎのことばでどう展開していくか。どこまで想を自由に、闊達に動かしていくことができるか。
 しかも、そこでは「場」が重視される。ことばをどこへでも動かしていけばいいというのではない。調和を保ちながら、なおかつ動いていく。停滞しない。

 --というようなことは、わきにおいておいて……。いや、そのちょっと「場」をずらした「わき」こそが「ほんとうの場」であるかもしれないが……。

春立つや衾マをかづく枕上ミ

 「枕神」「枕上」「枕紙」。そこに「衾」が出てきて、「春」が出てきて、わざわざエッセイでは「立つ」と括弧付きの動詞が書かれていたが……。
 あ、私はとても俗な人間だから、ついつい「佐保姫」がどんな神様かは別にして、違う方へ違う方へ思いが動いてしまう。高橋は意地悪(?)だから、やっぱりそういう方向へことばを動かしている。エッセイでも「枕紙」について、説明して、徐々に徐々に、話を身近なことがら、「神様」ではなく「人間」の方へもっていく。まあ、昔は「神様」はとてもくだけていたから、「神様」であっても「人間」なのかもしれないが。

折り数え枕おぼろや春おぼろ

春かさね枕かさねし古頭ラ

 「おぼろ」は春だけではない。「かさね」るのは春だけではないなあ。



 反句、

枕紙白きがままに春闌けぬ

 さて、この「白きがままに」はなぜでしょう。そして、その「紙」の「目的」はなんだったのだろう。
 高橋は

詩と交われない詩人にとって、枕紙は永遠に無染(むぜん)の白紙(タブラ・ラサ)のままだろう。

 と、またしても意地悪(?)を書いている。高橋は「詩と交われない詩人」ではないし、詩と交わっているからこそいくつもの句が書かれている。ここでは「事実」が書かれているのではなく、「交わる」ということばこそが書かれているのだ。
 「交わる」という文字、ちゃんと見た?

 句の「内容・意味」にも大切なもの、高橋の「思想」は当然含まれているが、「内容・意味」から逸脱していくことば、ことばそのものを隠されている。どうぞ、「誤読」して、どうぞ「逸脱」して、かってにいやらしいことを考えてね。でも、それは私(高橋)の「連想(思想)」ではなく、句を読んだ読者(たとえば谷内)のかってな「連想」だよ、といいたくて、

「交わる」という文字、ちゃんと見た? マクラガミって「枕紙」だよ、わかる?

 と、「わざと」ささやく。
 私は、こっちの方の「わざと」に、詩の本質があるかもしれない、とときどき考えてしまう。
 作品の「内容」ではなく、それをあらわすためにつかうことばの、「わざと」誤解を誘うようなつかい方、ことばの選び方にこそ、詩の本質があると思うことがある。




たまや―詩歌、俳句、写真、批評…etc. (04)
加藤 郁乎,岡井 隆,中江 俊夫,相澤 啓三,高橋 睦郎,佐々木 幹郎,建畠 晢,水原 紫苑,小澤 實,時里 二郎
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石倉宙矢『父を着て』

2010-08-20 00:00:00 | 詩集
石倉宙矢『父を着て』(土曜美術社出版販売「エリア・ポエジア叢書」、2010年07月30日発行)

 石倉宙矢『父を着て』の巻頭の詩、「父を着て」は「父」ではなく、「母」がまず出てくる。顔を洗っている。

私は洗面所にこもって顔を洗う
日に焼けた油じみた額(ひたい)
指がまさぐって濯いでゆく老いた肉
両掌(てのひら)が突きしたり、確かめる髑髏
それは母のもの
母が老いた自分の顔を丁寧に洗っている
子が覗くのにも気づかず
その母のたわんだ皮膚を私が洗っている
「老いたね」と言いながら
母が私のよごれた皺を洗う
母が私を着て、私が母を着て
互いの顔を洗いあっている

 「母」と「私」が交錯する。「母が私を着て、私が母を着て」と並列に書かれている。それは、どちらと限定できないのだ。交じり合っているのだ。
 私は私の顔を洗う。そのとき、私の手は、その手の先に「母」を感じる。「私」のなかにい「母」である。遺伝子も(骨格--「髑髏」と石倉は書く)も思い出も区別なく交じり合って、「顔」のなかにある。皮膚にも、骨格にも、そして、「老い」という現象のなかにも「母」と「私」が交じり合う。「母」の年になり、その溶け合ったものは、いっそう区別がつかなくなる。
 区別がつかない--けれども、石倉は、それを区別する。「母を着る」「私を着る」という表現で。「着る」という動詞で。ことばで。
 ことばにすれば、そこに「区別」が出てくる。そして、その区別によって、逆に融合が強調される。共通性が強調される。共通するものを、区別できないものを、より強く自覚するために、「着る」という不自然なことばがつかわれている。わざと、そういうことばがつかわれている。
 この「わざと」のなかに詩がある。石倉がことばを動かすことで、はっきりと見つめたいものがある。
 「水辺の散歩」に次の行が出てくる。

さ ここで川が海に入る

どこまでが川の水?
どこからが海の水?

 区別はできない。区別はできないが、区別できないと知ったときに、ことばのなかで区別がはっきりと動く。融合を意識しながら。
 この区別と融合はいったい何なのだろう?
 「海辺の散歩」のつづき。

藻につかまってアメフラシも覗いている
花びらや葉っぱが沖へ出てゆく
無数の川や涙をとかして世界に繋ぐ海

 「繋ぐ」ということば。融合とは「区別」できるものを「繋ぐ」とき、繋いだときの状態なのだ。「繋がり」が、石倉にとっての「キイワード」だ。
 顔を洗う。そのとき、顔を洗うという動作を通して「私」と「母」がつながる。どんなふうにして顔を洗う? 手の動きは? どこを丁寧に洗う? そうした動きを通して、「私」は「母」の記憶とつながる。記憶のなかの「母」とつながり、また、手に触れてくる骨格から「母」を感じる。「母」の皮膚、「母」の老いを感じる。
 「髑髏」(骨格)に触れるというのは、「私」が「母」の骨格をていねいに洗った記憶があるからだろう。たぶん、「母」は亡くなっている。「母」の最後の洗顔--それを「私」は「私」の手でしたのだ。そんなふうに、最後に「母」の顔を洗うという行為、そのことによって「私」と「母」はより強くつながる。
 「私」と「母」を繋いでいるのは、遺伝子だけではなく、「母」から学んだ「行為」が二人を繋いでいるのだ。

母が私を着て、私が母を着て

 の「着る」は、「行為を繋ぐ」(継承する)ということである。「繋ぐ」--このとき、繋ぐ対象は違っても、繋ぐという行為そのものは変わらない。「母」と繋ぐ、その繋ぐという行為は「父」と繋ぐときも変わらない。
 「父を着る」という詩の最初に「父」は出てこない。「母」がまず出てきて「私」と繋がる。けれども、その「繋がり」は「母」をとおして「父」までつづいている。どこまでもどこまでもつながり、とぎれることはない。
 そういうつながりによって、「私」はできている。
 「かぞくてんせい」を読むと、石倉の「つながり」に対する意識がよりわかりやすくなる。

よしこや
おかあさんもうわらいますからね
おまえも
いつまでもおこってないで
はやくわらいなさいよ
おとうさんならもうさきにわらっています
だからわたしもわらいます
おまえも
いつまでもがをはらず
はやくにっこりとわらいなさいね

よしこや
おかあさんもうわすれますからね
おまえも
いつまでもおぼえていないで
はやくわすれなさいよ
おとうさんならもうさきにわすれています
だからわたしもわすれます
おまえも
いつまでもこだわってないで
はやくさっぱりわすれないさいね

よしこや それじゃあ
おかあさんもうしにますからね
おまえも
いつまでもいきていないで
はやくしになさいよ
おとうさんならもうさきにしんでいます
だからわたしもしにます
おまえも
いつまでもがんばりすぎずに
はやくさっぱりとしになさいね

よしこや
おかあさんまたうまれますからね
おまえも
いつまでもしんでいないで
はやくうまれなさいよ
おとうさんならもうさきにうまれています
だからわたしもうまれます
おまえも
いつまでゆらゆらちらばっていないで
はやくげんきにうまれなさいね

 「つながる」とはあくまで「他人(他者」とつながることである。自分自身につながっていてはいけない。そういうことを「我を張る」という。そして、我を張ったままの状態を、「ちらばる」ととらえる。詩の最後から2行目の「ちらばって」が「つながる」と向き合っている反対のことばである。
 自分自身につながることをやめて、他人とつながる--それは、また、再生(生まれ変わる)ということでもある。死んで、生まれ変わる。その繰り返しが「いのち」である。死んで生まれ変わるには「つながる」ことが重要である。「ゆらゆらちらばって」いてはだめなのだ。
 


父を着て―石倉宙矢詩集 (エリア・ポエジア叢書)
石倉 宙矢
土曜美術社出版販売

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高橋睦郎『百枕』(19)

2010-08-19 11:46:47 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(19)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「枕炭--一月」。「枕炭」ということばを私は知らない。しかし、文字を見た瞬間、見当がついた。炭をつかった種火、灰の下につつんで残しておく火のついた炭のことだろう、と思った。

跳ネ炭も更けて枕の欲しき頃

枕炭埋(い)け寝(い)ぬることのみ残る

 これは、雪国の、田舎育ちの私にはなつかしい光景である。炭はときどきはじける。最初は活気がある。けれど、だんだん静かになってくる。火鉢を囲んで活発に話していた話もだんだんけだるくなってきた。もう、寝ようか。種火の炭を大事に灰の奥に埋めた。もう寝るだけだ……。
 「枕炭埋け」ということばもあるし、たぶん、そのことだろう。

先づたのむ枕炭あり吹雪く夜も

 この「頼む」は「頼もしい」に通じる。同じだ。動詞と形容詞がかよいあい、ことばがふくらむ。豊かになる。こういう瞬間、何か、ほっとする気持ちになる。
 俳句のように短いことばの文芸には、こういうことばがとてもあっている。形容詞を動詞で言い換える。動詞を形容詞で言い換える。名詞を動詞で言い換え、動詞を名詞で言い換える。そのとき、意識が耕される。



 反句が、とても華麗である。

雪女郎目のさながらに枕炭

 あ、その目がなつかしい、たのもしい、なんて騙されて--あ、騙されてみたいねえ。しかし。
 いろっぽい。

 エッセイのなかに紹介されていた蕪村の句もとても好きだ。

埋火や終(つい)には煮ゆる鍋のもの

 灰の下に隠された炭の火。それは意外に力がある。無駄にしてはもったいないから鍋をかけておく。そうすると、その鍋がついに煮える。
 雪女の目の奥で燃えている「愛」も「憎しみ」も、そんな力を持っているかもしれない。



日本のこころ〈地の巻〉―「私の好きな人」
田辺 聖子,山折 哲雄,堺屋 太一,高橋 睦郎,平山 郁夫
講談社

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谷川俊太郎「電光掲示板のための詩・2」

2010-08-19 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「電光掲示板のための詩・2」(「現代詩手帖」2010年08月号)

 谷川俊太郎「電光掲示板のための詩・2」は「A」(縦書き)「B」(横書き)の2種類がある。「A」の方が読みやすく、おもしろいと思った。しかし、それは内容を吟味してそう思ったのか、それとも最初に読んだものの方が印象が強かったのか、その区別が私にはつかない。--と書いてしまうと、とてもいいかげんなことを書いているような気持ちにもなるのだが、この詩は「電光掲示板のための詩」なのだから、そもそも「吟味」などしてはいけないのかもしれない。谷川俊太郎は、前にも「電光掲示板のための詩」を書いているが、そのときは、感じなかったのだが、今回は突然、この詩は吟味とか熟読とかしてはいけないものなのだ、と思った。文字そのものが電光掲示板のドットのように印刷されているので、それが電光掲示板を強く印象づけ、電光掲示板の特質に急に気がついたのだ。あるいは電光掲示板の特質というより、電光掲示板を見つめるときの、私の姿勢に気がついた、ということかもしれない。
 「電光掲示板」を他のひとはどんなふうに見つめるのか知らないが、私は、それを繰り返し読んだりはしない。読むのは一回きり。同じことばが繰り返されたと、あ、さっきと同じことだ、もう終わったのだ、と思う。そして、何かの機会があってまた同じ内容の電光掲示板を見ると、何も変わっていない。はやく新しいのに切り換えろよ、と思ってしまう。
 ことばは、そこではつかい捨てられるのだ。
 書かれた文字(ことば)は繰り返し読まれるためのものである。私はそう思っていたが、電光掲示板はそうではない。繰り返し読まれたりはしない。読み捨てられる。
 これをことばの方から逆に見つめると、電光掲示板の文字(書きことば)は、文字ではあるけれど文字ではない。繰り返し読まれ、そのことによって深まっていくことばではない。文字(書きことば)ではあるけれど、それは「声」なのだ。次々とあらわれ、消えていく声、一回かぎりの声。
 そして、その声は、谷川俊太郎の書いたものであるけれど、谷川俊太郎の声ではない。こんなことを書くと谷川俊太郎に叱られるかもしれないが、その声は電光掲示板の声そのものなのである。

 変な譬えになるかもしれないが、今回の作品を読んだとたん、私はキューブリックの「2001年宇宙の旅」のコンピューター「ハル」を思い出した。メモリーを外されながら、最初に覚えた「デイジー」の歌を歌うシーンを思い出した。私はあらゆる映画のなかで、このシーンがいちばん好きで、見るたびに涙が出てしまう。ハルに同情してしまう。ハルは機械なのに、その機械に「こころ」を感じ、どきどきしてしまう。
 今回の谷川俊太郎の詩を読んだとき、谷川俊太郎を忘れ、目の前に電光掲示板そのものがあらわれ、電光掲示板が、自分自身で(ハルように)、文字を流している、と感じた。文字(書きことば)なのに、書くのではなく(印刷するのではなく)、そこに「定着」させるのではなく、流している。声のように、新しい「ことば」が古い「ことば」をかき消しながら、次々に消えていく。消えていくことを自覚して、ことばを発している。
 定着ではなく、消えていくことを受け入れている文字--それが電光掲示板の「ことば」なのだ。
 その「ことば」になりかわって、谷川俊太郎が語っているだが、あまりに完璧なのなりかわりなので、それが電光掲示板の「声」に聞こえてしまう。

僕は長い長い一行です。僕は僕の生まれるずっと前から始まっているのですが、生まれる前僕は言葉をもっていませんでしたから、そのころのことを記述できないのがもどかしいのです。僕は長い長い一行です。ほんとうは句読点もない一行ですが、夜眠っているときの意識はもしかすると僕を離れてどこか知らないトポスへと彷徨い出ているかもしれないので、テンやマルで自分を繋ぎ止めておく必要があるのではないかと僕は感じています。

 ここには「声」、消えていくという性質を強く自覚したことばの運動がある。「僕」の繰り返し。「僕」だけではなく、最初の「長い長い」ということばのなかにある重複そのものが、すでに消え去ることを自覚している。消え去るものを強調するには、繰り返すしかないのである。消え去ることばを消え去るにまかせるのではなく、常に呼び返す。繰り返しに見えることばは、実は繰り返しではなく、呼び換えしなのである。呼び返すこと、消えていくものを、「いま」「ここ」に呼び戻し、生き返らせる、いや新しく生まれなおさせるという運動を、谷川俊太郎は掲示板のことばにさせている。
 谷川俊太郎のことばが運動しているのではなく、谷川俊太郎が電光掲示板にそういう運動をさせている。私は実際の展示を見ていないのだが(「現代詩手帖」で印刷された文字を読んでいるだけなのだが)、強く、そういうことを感じる。
 電光掲示板が、消えていく文字、声のように次々に「いま」「ここ」から消えていくことばを呼び返しながら、動いていく。
 「僕は長い長い一行です。」という、一回読めばわかることばは繰り替えされ、繰り返すことで、同じことしか言っていないということを強調した上で、長いことばを一気に読ませる。それは、もう一度読まないと正確には把握できないようなことなのだが、大丈夫、繰り返し読まないでも、もう一度ことばがことばを呼び返すように動くからと言い含めるようにして、違うことを(違う文字を)押し流す。それは、「僕」はひとつのことを何度でも何度でも何度でも、別なことばで繰り返しながら、ひとつのことをいいつづけるというのに等しい。
 で、その「ひとつのこと」とは。
 「僕は長い長い一行です。」これだけだ。いくつものことばが、「僕は長い長い一行です。」を否定するように、動いていく。動いていくけれど、結局「僕は長い長い一行です。」という以外のことは言わない。その「長い長い」のなかには、すべての逸脱が吸収され、同時に捨てられる。何かおもしろそうなこと、特別なことを言ったようだが、それははっきりとは思い出せない。その思い出せないことのなかに、詩と呼びたい何かがあるのだけれど、それは電光掲示板に文字が流れている瞬間だけ、あ、これだ、と思って見つめるしかない。
 私が、いま、ここでこうして書いている感想のなかに閉じ込めるようなことではない。紙の上、あるいはネット上でもいいのだが、それは定着させてはいけないのだ。定着させると、それはきっと詩ではなくなる。
 私がここで書き記していい感想、定着させていい感想は、たぶん、次のようになる。

 長い長い、そしていくつもの逸脱が、結局「僕は長い長い一行です。」という短いことばにおさまってしまうという矛盾。そこに、谷川俊太郎の「電光掲示板のための詩」の「詩」がある。
 それ以外はナンセンスな感想になる。

 --そんな具合に、私のことばは谷川俊太郎のことばによって叩き壊される。こういう瞬間が好きで、私は詩を読む。
 谷川俊太郎の詩を定着させることばを私は何一つもたない--そう感じるときのよろこび。そこにあるのはただ谷川俊太郎のことばだけである、と実感するよろこび。それが詩を読むよろこびだ。

現代詩手帖 2010年 08月号 [雑誌]

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