詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(171 )

2011-01-24 00:43:58 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『えてるにたす』。「菜園の妖術」のつづき。

かんむりのひもをといて今か今かと
待つていたのにすずきの吸物も
なめてしまつたこのうすあかりの
せつない世界に待つ人もなく
なつてなでしこをもつオランダ人の
若木男の肖像だけがくらがりに
のこされてゆくこの坂の家にたれ
さがる白ばなのはぎのしげみに
ひとりのさびしい旅人がゆまりする
音がきこえるばかりだ
これもこじきの女神の
おとずれとなりうれしく思える

 ことばが行を跨いで行く。これは西脇の詩に頻繁することだけれど、「せつない世界に待つ人ともなく/なつて」というのは、「待つ人もなく」ということば自体で完結して見えるから、ちょっと困る。困る、というのは、あ、騙された、という感じである。「待つ人もなく」で「意味」を考えてしまったのに、そうじゃないのか、ずるいよ、という感じである。
 私は「誤読」が大好きだが、ひとの(西脇の)、「だまし」にのせられて「誤読」するのはいやなのだ。「誤読」はあくまで自分自身で「誤読」したい。
 それが私のわがままだとしたら、西脇の「だまし」はまた、西脇のわがままということになるだろう。
 --と、書きながら、私は、まあ、西脇を非難しているわけではなく、楽しんでいるのだけれど。

せつない世界に待つ人もなく
なつてなでしこをもつオランダ人の

 という2行は、そうした行のわたり(またぎ越し)のほかにもおもしろい要素がある。せつ「な」い世界を待つ人も「な」く、「な」つて「な」でしこをもつオランダ人の、と「な」の音の繰り返しの、その最中に、「待(ま)つ」「もつ」と「ま行」の音がはさまる。さらに「つ」の音もそれに加えることができるかもしれないが、この「ま」つ、「も」つの音の変化が「な」に挟まれてあるのは、なんとも不思議な美しさがある。
 「待つ/人も」「もつ/オランダ/人の」の、ふいに割り込んでくる「オランダ」という音もおもしろい。「オランダ」がわりこむことで「ひと」が「じん」に変わる。
 これは、西脇が考えてそうしているのか、本能的にそうしているのかわからないが、そういうおもしろさが西脇にはいつもついてくる。

 行のわたり(またぎ越し)では、

のこされてゆくこの坂の家にたれ
さがる白ばなのはぎのしげみに

 でも、私はだまされてしまう。「のこされてゆくこの坂の家にたれ」の最後の「たれ」を「誰」と読んでしまうのである。その前に「人」「オランダ人」「若き男」と「人間」がつづけて出てくるからだと思う。
 こんなことを思ってしまうのは、西脇の「っ」の表記が常に「つ」であるからかもしれない。旧かなつかいだからかもしれない。それに引きずられて「たれ」を旧かなで書かれたもの、「だれ」と読むのだ、という意識が動いてしまうのかもしれない。
 「さがる白ばなのはぎのしげみに」には濁音の美しさがある。鼻濁音の美しい繰り返しがある。

 その次の1行は、この繰り返される音が引き出した1行だと思う。

ひとりのさびしい旅人がゆまりする

 「ゆまり」。尿。小便をする。しかし、「尿」や「小便」では音が美しくない。
 この「ゆまり」は、それまでまったく登場しなかった音である。「ゆまりする」という音が、音自体として美しい。
 この「ゆまり」以前の音は、なんといえばいいのだろう--一種、技巧の音という感じがするのだが、この「ゆまり」は技巧を離れて、どこか、とんでもないところからふいにやってきた音楽そのもの、天から降ってきた音楽のように感じられるのだ。
 こんな印象は印象にすぎないのだが……。

ひとりのさびしい旅人がゆまりする
音がきこえるばかりだ
これもこじきの女神の
おとずれとなりうれしく思える

 このとき「きこえる」「音」は、尿をする、その尿の音ではなく、私には「ゆまり」ということばそのものの「音」に感じられる。
 「音」そのものが、ことばとも、それを指し示す現象とも離れて、純粋な音楽になる女「神」がもたらしてくれた音楽だ。そのとき、やってきたのは(訪れたのは)、「音」そのも、神をも超越した音楽。
 「おとずれ」のなかには「音」がある。「音・ずれ」としての「訪れ」。

 「意味」にはなりえない、こんな「たわごと」を書くことのが、私はとても好きだ。



西脇順三郎の絵画
西脇 順三郎
恒文社


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石井萌葉「返り血アリス」、藤川みちる「this world」

2011-01-23 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
石井萌葉「返り血アリス」、藤川みちる「this world」(「ココア共和国」5、2011年01月01日発行)

 石井萌葉「返り血アリス」はことばが軽い。そして速い。もっともその速さは短距離競走のような速さではなく、肉体の中からあふれだしてくる若さによる速さである。歩きはじめると、楽しくて自然に足が速くなる。目的地も、歩く意味もわからない。けれど、自然に動いてしまう。そんな具合に、ことばを書くと、自然にことばが速くなる。

チェシャ猫まぁなんて貴方は
救いようの無い馬鹿なの
何時間、何千年こんな所に
居座ったってね
アタシの求める世界には
絶対にならないわ

真実を確かめる旅に出るの

嘘、誘惑。そんな話術は必要ないわ
毒、罠。そんな小細工はめんどうでしょう

 「チェシャ猫」から「アタシ」への移動がとても速い。猫を放り出して「アタシ」が動きはじめる。「アタシ」は猫じゃない。だから「こんな所」に居座ったりはしない。「旅」に出る。
 でも、どこへ?
 これは野暮な質問である。
 「旅」と決めたら、部屋を一歩出るだけで旅なのだ。それは幼い子供が「家出する」と思って少し遠い公園まで行って、それから帰ってくるのとおなじである。距離も場所も関係ない。「決意」だけが問題である。
 「決意」というのは、肉体の奥からあふれてくる自然な感情である。勢いのある感情のことである。
 「チェシャ猫まぁなんて貴方は/救いようの無い馬鹿なの」という2行は、猫に対する批判ではなく、「アタシ」は馬鹿にはならないわ、という「決意」、あふれる感情なのである。
 ここにはあふれる感情があるだけで、「意味」もない。
 --ということを書きはじめると、あ、なんだか、この詩を壊してしまうなあ。余分なことは書くまい。

血血返り血アリス
ドレスを染めて何処へ行くの
血血返り血アリス
足跡辿って着いてくうさぎ
血血返り血アリス
笑顔が可愛い気分屋少女
血血返り血アリス
アリスはきっと辿りつく

回る ラララ 彼女は
スキップしながら探してる
回る回る回る
ホントの自分を探してる

血血返り血アリス
垂れ目が可愛い我が儘少女
血血返り血アリス
誰よりも幸せの意味を知る
血血返り血アリス
探し物が見つからないの
血血返り血アリス
アリスはきっと辿り着く

 石井を動かしているのは、あふれてくる感情だけである。あふれてくることばだけである。あふれてくるから、それを前へ前へと放り投げる。「血血返り血アリス」ということばを放り投げる。
 「血血返り血アリス」ということばがどんな「意味」をもっているか、石井にはわからない。ただ、そのイメージが見える。実感できる。そしてことばになっている。だから、そのことばにぴったりする次のことばを探している。きっと、それは「真実」のことばとぶつかったとき、きれいな音を立てて、「これが真実だよ」と教えてくれるはずである。そういう「音」に出会うまで、石井と「血血返り血アリス」を前へ前へと放り投げて進む。
 「旅」とは、ぴったりくることばを探して動くことなのだ。「真実」とはぴったりくることばなのだ。いまのところ石井には「血血返り血アリス」ということばだけが「真実」なのである。
 だから何度でも、その唯一信じられる「真実」を前の方に放り出して、そのことばについていく。そうすると、次のことばが「アタシ」の進んだ道のわきから追いかけてくる。そして、その追いかけてくることばのなかにある何かが、また、「血血返り血アリス」ということばを前へ前へと放り投げるときの力になる。

回る回る ラララ 彼女は
深い森の中で探してる
回る回る ラララ 彼女は
やっと見つけた

地面に小さな人影
その首にナイフを突き刺すと
アリスは驚いた
何千人何万人もの人を殺めて
やっと見つけた探し物
それは

--血まみれドレスを着た

アリス--

でもいいの。アリスはずっと求めてた。
本当の姿がどうであっても
アリスにとっては 最高の終わり方。

 最後の方は、ことばが失速する(「血血返り血アリス」がまるで、父帰り、その父をナイフで刺してみたら、自分自身を刺してしまった、そこには血まみれの自分の「人形」があった--という「オチ」を想像させる)が、「でもいいの。」と石井は書く。確かにどうでもいいのだ。「求めていた」ということだけが、ことばにとって必要なことだからである。



 ことばを前へ放り投げて、それを追いかけて進む--ということばの運動は、藤川みちる「this world」にも共通する。

生かすも殺すも
自由自在な神様は
その時居眠りでも
してしまったんだろう

筆先から
滲んだink が
紙の上に
小さな染みを作った

それはきっと
accident
けれどきっと
destiny

ちいさなbug は
増幅し繁殖しながら
新しい秩序を
生み出していく

僕らのstory
可能性はinfinyty
ならばこの手で
変えてしまおう

this world!

 何度か出てくる英語がとてもおもしろい。
 そこに書かれている英語は、藤川にとっては石井の「血血返り血アリス」である。「知っているけれど知らないことば」である。「音」があって、それから「意味」をこめる。たとえばaccidentに「事故」、destiny に「運命」。「意味」をこめながら、しかし、同時に「意味」を剥奪する。藤川がそれまで知っていた「事故」や「運命」とは違った何かを、その「音」のなかに探す。その「音」が別の「音」とぶつかって、新しい音を引き出し、そこから探している「意味」があらわれるといいのになあ--と、ここにないものを探しながらことばが動く。

 ことばを自分の前に放り投げる。そして、それを追いかける。あとから「意味」が生まれるかもしれない。生まれないかもしれない。「でもいいの。」動いていくことが詩の唯一の目的であり、存在理由なのだから。


季刊ココア共和国vol.5
秋 亜綺羅,藤川 みちる,石井 萌葉
あきは書館
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誰も書かなかった西脇順三郎(170 )

2011-01-23 15:08:35 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『えてるにたす』。「菜園の妖術」のつづき。

多摩川から梨をもつてきてくれた
女のくつしたのなま白い
秋のすみれの香りにもまさる
このくだものの露のつめたい
出世が出来ない男が宮人のまねして
沼のほとりをひとりで歩いている

 行と行とのつながり具合がよくわからない。詩だから、「意味」がきちんと成り立たなくてもいいのだろうけれど……。梨(くだもの)、女、男、沼が断片的に思い浮かぶ。男が「沼のほとりをひとりで歩いている」という1行の「ほとり」「ひとり」の音は、「ほとり」というものは「ひとり」で歩かないといけないのだ、という気持ちを呼び起こす。そして、その前に「女」と「宮人」が登場するからかもしれないが、私は「ほとり」のなかに「ほと(陰)」を読んでしまう。女の陰部。「沼」が、そのまま「ほと」でもあるような感じがするのである。
 この「ほと(陰)」呼び覚ますものに、2行目がある。「女のくつしたのなま白い」。これは、ほんとうに女の靴下を描写しているのかどうかわからない。梨の果肉の色が「くつしたのなま白い」色に似ているというイメージに受け取れないことはないけれど、「なま白い」の「なま」の音がいろいろとスケべこころを刺激するのである。
 この行自体は、つく「し」た、なま「し」ろいという音のつながりによって成立しているのだが、そこに「なま」が入ってくることで、「女」が「なま」めかしくなる。そして、それが「ほと(陰)」につながる。
 「このくだものの露のつめたい」というのは、ふつうなら「露」ではなく「汁」(果汁)だと思うが、「つ」ゆによって、「つ」めたいが自然に動く。そして、その「つめたい」はなんとなく、「なま」めかしい「女」の、「なま」めかしいくせに「つめたい」感じを浮かびあがらせる。それとも、「女」は「つめたい」ことによって、男には「なま」の欲情をそそるのか、めざめさせるのか……。
 女がいて、男がいて、そして、そこにはセックスは存在しない。そのとき「ひとり」が浮き彫りになり、その「ひとり」がいろいろと妄想を誘ってくれる。
 --こんなふうに読みながら、遊んでしまうのは、私だけかもしれないが……。

 そして、このあと。

葦のなかでかいつぶりがねずみを追つている
「身分のひくい」女がひしをとつている

 これは「沼」の描写かもしれないが、「身分のひくい」ということばが強烈である。「宮人」(男)と「身分のひくい」女の対比が、私が先に書いた妄想をばっさり切り捨てる。
 「宮人(男)」と「身分のひくい」女がセックスをしてはいけないというのではないが、「宮人」ということばと「身分のひくい」ということばが、それまでのことばのなかに、「接続」ではなく「断絶」を持ち込む。
 この「断絶」の挿入(乱入?)を、私はとても美しいと感じる。
 この美しさは--一種の爆発である。爆発の瞬間、「空間」がかわる。「空気」がかわる。爆発とは、空気(空間)そのものの変化なのだ。
 この「断絶」と、それにともなう激しい「空気」の変化。このなかに、西脇が頻繁に書いている「淋しい」があると、私は感じている。
 異質なものが出会う瞬間、それまでの「空気」ががらりとかわる。そういう劇的な変化をもたらしてくれる「存在」。その存在(もの)に淋しさがあり、淋しさだけが、世界を変えうるのだ。





野原をゆく (1972年) (現代日本のエッセイ)
西脇 順三郎
毎日新聞社

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岡島弘子「傷のなおしかた」

2011-01-22 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
岡島弘子「傷のなおしかた」(「現代詩図鑑」第8巻第3号、2010年12月25日発行)

 岡島弘子「傷のなおしかた」は書き出しがとても魅力的である。

どしゃぶりだった雨も夜明けとともにやんだ
のこされたおおきな水たまりを
風がゆらし 陽があたためる
朝がおわるころ ふちから乾き
夕暮れ前には半分ほどになって
道があらわれた
このままいけば
あさってには あとかたもなく消えるだろう

 道にできた水たまりを描いているだけなのだが、3行目「風がゆらし 陽があたためる」に私はほーっとため息が洩れた。「風がゆらし」というような大きな水たまりを見たことはないので、うそだろう、と言いたくなるのだが、次の「陽があたためる」がなんとも美しい。そうか、陽にあたためられ、あたたかくなる、そのあたたかさをわかるためには「風がゆらし」というくらいの大きさが必要かもしれない。
 私は「水」ではないのだが、その岡島の描いている「水たまり」になって、自分自身の肉体があたたまっていくのを感じながら、あ、この光景は美しいなあ、と思ったのである。
 「朝がおわるころ ふちから乾き」の、おわる「ころ」が静かでいい。「ふちから」という視線の動きもいい。水たまりが書かれているのに、なぜか水になっている自分を感じるのだ。
 そして、もし、水と一体になり、「このままいけば/あさってには あとかたもなく消えるだろう」というのは、水にとっては不幸なこと(存在がなくなるのだから、不幸なことだろう)のはずなのだが、なぜか、とても落ち着いた気持ちになるのだ。岡島のことばを読むと。
 存在がなくなること--それを知って、静かで落ち着いた気持ちになるというのは、なんとなく「矛盾」している。生きているということに、「矛盾」している。しかし、その「矛盾」をよくわからないが静かに越えていく力が、岡島のことばにある。
 なんだろうなあ。
 そう思っていると、詩は、思わぬ方向へ転換する。

肉がえぐれるほど深く切ったゆびさきも
次の日には血が止まった
消毒をして傷薬たっぷり
毎日バンソウコウをとりかえるたびに
血色もうすれ
等高線をえがいて
えぐれたところはもりあがり
まわりのひふもむけてたいらになり
ゆびのかたちをとりもどしつつある

 「水」も「水たまり」も消えてしまって、指の傷のことが描かれる。それは「水たまり」とは違ったものだが、描きかたが似ているので、不思議な気持ちになる。「えぐれたところはもりあがり/まわりのひふもむけてたいらになり」というような丁寧な視線の動きは「陽があたため/朝がおわるころ ふちから乾き」ということばの動きと似ている。
 傷に寄り添って、じっとそれを見ている--そういう印象がある。
 「水たまり」も、岡島は寄り添うってじっとそれを見つめていたのだろう。
 そして、この「寄り添ってじっと見つめる」ということが、「傷」にはわかるのだ。「傷」はだれかが(それは傷ついた自分であるのだけれど)寄り添ってくれていて、見つめてくれているということを頼りに回復するのだ。寄り添ってくれているひとがいるとわかって、回復するのだ。
 「水たまり」の「水」があたたまる、そして消えていくのも、寄り添って、あたためてくれる陽があるからなのだ。水が消えていくとき、水は水ではなくなるのだが、ただ消えるだけではなく「陽」になるのだ。そういう変化があるから、静かに、落ち着いた気持ちになれる。
 傷も、傷が回復し、消えながら、(変な文章だなあ)、その傷に寄り添ってくれていた「自分」に「なる」のだ。

 ここから、この詩はもういっぺん変わる。

魂が裂けるほどに負った
こころのきずも
風がゆらし 陽があたため
朝がおわるころ ふちから乾き
夕暮れ前には半分ほどになって
そうしてあとかたもなく消えてくれるといいのだけれど

毎日バンソウコウをとりかえ
消毒をして傷薬をたっぷりすりこめるといいのだけれど
血色もうすれ
えぐれたところはもりあがり等高線をえがいて平らになり
いつか
魂のかたちをとりもどせるといいのだけれど

 「意味」が強くなり、ちょっとセンチメンタルかもしれない。
 その「意味」をちょっとわきにおいておいて(と書くと、それは違う、と岡島に叱られるかもしれないけれど……)、ここにある「寄り添う」感じ、「魂」に寄り添う感じはなかなかいいなあ。
 「こころ」とか「魂」と、それを「ゆび」とは違ったものとして見ることに、私は、ちょっと違った思いを抱くのだけれど。(まあ、これは書きはじめると長くなるし、訳がわからなくなるので、きょうは省略。)

 岡島にとって、「ことば」はかさぶたのようなものかもしれない。書くことで、傷はかたまり、剥がれ落ちて、その剥がれ落ちたことばの奥から、つまり書かれなかったことばになって、岡島のこころの傷、魂のかたちは、回復するんだろうなあ。
 それまで、ただ、ことばは、寄り添っているだけなんだろうなあ--と、わかったような、わからないようなことを感じた。わからないけれど、ただ寄り添っているときの、その寄り添ってくれているもののあたたかさに染まるのは気持ちが落ちつくもんだよなあ、と感じた。



野川
岡島 弘子
思潮社
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季村敏夫『ノミトビヨシマルの独言』(4)

2011-01-21 23:59:59 | 詩集
季村敏夫『ノミトビヨシマルの独言』(4)(書肆山田、2011年01月17日発行)

 「薄明」という作品。

置き忘れていったリュックサックを、引っ張りだした。梅雨の晴れ間を狙って、遺品整理をしていたときだった。うっすらと黴が生えたリュックサックは、変形し固まっていた。経帷子を羽織る、あの日の父のように。そのとき、かたわらの母は、ありし日の夫をおもっていたかどうか、ひとことも語らなかった。

死後硬直したリュックサックを逆さに振ると、小石が数個落ちてきた。つづいて砂粒がこぼれ、変色した紙が二枚舞った。足元から拾いあげると、ひとつは末尾に、癖のあるサインが走る書類であり、もう一枚は、リラについて書かれた植物図鑑の切れ端だった。

 2連目の「死後硬直した」という「比喩」は、1連目の「遺品」「経帷子」と呼応して比喩を超越していく。季村がやっている実際の行動はリュックサックを逆さにして振るという単純なことだが、それがまるで父のからだを揺さぶり、その奥から父の過去を引き出しているという感じがする。そして実際に、そこから父の過去があらわれてくる。小石、砂粒はいつまぎれこんだものか。父の歩いた道を想像させる。癖のあるサインは父そのものだが、その書類から季村が読みとることができるものはそれ以外にないかもしれない。リラの植物図鑑も同じである。断片しかわからない。そして断片しかわからないということが、季村を遠くへ連れていく。
 想像力。
 わからないことを想像しながら、そこで、季村は自分が知っていることを確かめる。想像力というのは不思議なもので、なんでも自由に想像できるわけではない。人間は知っていることしか想像できない--想像力といいながら、知っていることを確かめるだけなのだ。そして、その知っているということのなかには、「欲望」というと変だけれど、ひそかな「願い」のようなものが紛れ込む。

商社に勤めていた父の赴任先は満州国だった。リュックサックのなかの小石は、螢石の原石で、父は国境沿いにある鉱山との折衝係を担当していた。その頃、白い風をまとい、リラの梢をゆすって木戸をくぐる女がいた。中庭は、一瞬匂ったはずだが、すぐに静まりかえり、その後どのようにわすれられたのか。変色した図鑑の切れ端のなかで、リラの記述は干乾らびている。

 小石、砂粒がなんであるか、季村はほぼ正確に、知っている過去と結びつける。しかし、リラの花の記述はどうか。「木戸をくぐる女」。季村は、それを目撃したのか。してはいないだろう。その女は母ではない。父にそんな女がいた--と想像する。そこに、男の、というのではなく、人間の不思議な「欲望・願い・祈り」のようなものがある。ひとは、ひとをはみだしてしまう瞬間がある。それがあるから、生きる。
 季村の想像が正しいかどうかは、ほとんど問題ではない。詩にとっては。詩にとって、重要なのは、こういう「逸脱」こそが、想像力の「秘密」であるということだ。想像力の「本質」であるということだ。
 私たちは何かを想像する--「誤読」する。そのとき、その想像・誤読のなかには、人間の本質的な「欲望・願い・祈り」が入ってくる。想像・誤読することで、「本能」を発見する、自分のもっている「過去」を発見するといってもいい。
 季村の父に女(愛人)がいた、というのではない。いたかどうか、わかりはしないし、他人の父に愛人がいたかどうかを問題にしているのではない。また、季村の欲望のなかに「愛人」をもちたいという気持ちが含まれるというのでもない。そういう気持ちを、季村の父が、あるいは季村がもっているかではなく、人間というものは、好きなひとがいても別のひとを好きになるということがあり、それは何かしら、とても自然なことなのだ。そこには「自然」があるのだ。「過去の自然」--どんな規制にもしばられない「自由な自然」がある。そういうものを、想像力は発見してしまうのだ。
 この自然な欲望、自由な自然を発見することばの運動--そこにこそ、詩がある、と私は思う。詩のしなければならない仕事があると思う。

歪んだリュックサックのかたち。過ぎ去ったというが、なぜ物質が残り、痕跡として薄明に現れ出たのか。過ぎ去るという忘却のよろこび。だが、喪に服すること、遺品整理は酷薄である、これでは裁かれてしまうとおもったが、母は無造作に、小石と書類二枚を包みこんでしまった。

 「物質」を「ことば」、「痕跡」を「自然」(自由な自然--本能)と置き換えてみると、ことばと想像力、ことばと「過去」というものの関係が明確になるかもしれない。
 「物質(もの)」のなかに、「過去」がある。その「過去」を引っ張りだすのは「ことば」である。そして、ことばは「過去」を引っ張りだすふりをして(あるいは過去を引っ張りだしながら、同時に)、人間が生きるときの自然な欲望・願い・祈りを、そのことばのなかに注入する。
 ことばは残酷である。
 しかし、ことばは美しい。
 無言のなかで、ことばを遠ざけたところで、その「場」で、静かな安寧がある。「忘却のよろこび」がある。
 そして、その「忘却のよろこび」さえ、ことばは、ことばにしてしまうことで、そこにまた人間のいのちの「ひとつのかたち」を浮かび上がらせてしまう。
 苦しむこと、悲しむことさえ、美しい--悲劇は美しい、悲劇が感動を与えるのは、そのためだ。
 ことばをとおして、ことばになることによって、人間は美しくなるのだ。ことばは人間を美しくするのだ。

母は無造作に、小石と書類二枚を包みこんでしまった。

 この「無造作」の深さ。
 季村のこころのなかに、どんな思いが去来しているのか、わからない。私はただ、あ、美しいことばだ、美しい詩だ、とだけ書く。



わが標べなき北方に―詩集 (1981年)
季村 敏夫
蜘蛛出版社
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ロウ・イエ監督「スプリング・フィーバー」(★★)

2011-01-21 22:22:51 | 映画
監督 ロウ・イエ 出演 チン・ハオ、チェン・スーチェン、タン・ジュオ、ウー・ウェイ

 冒頭の蓮の花のシーン、そしてラストの主人公が首の傷を隠すために彫った入れ墨のシーン(肌と入れ墨の模様)は、なかなか美しい。特に、入れ墨は、人の行為は何かをあらわすためであるというより、何かを隠すためであるという「芸術観(人間観察)」はこの映画全体を象徴している。いちばん特徴的なのは、自殺する夫が恋人(男)を妻に紹介するシーンである。恋人であることを隠すために、友人として妻に紹介するのである。もう、男が恋人であるということはばれてしまっているのだが……。
 しかし、この人間観察は、映画のなかでは深まってゆかない。上滑りである。明かりの少ないざらざらした映像のなかで、やたら男と男のセックスシーンが多い。もっとほかにも描きようがあるのではないかと思うくらいセックスシーンに頼っている。「ブロークバックマウンテン」とは、そこが大きく違う。「ブロークバックマウンテン」はセックスからはじまり、純愛で終わるという、ふつうの恋愛とはまったく逆な過程を描いていて大変おもしろかったが、「スプリング・フィーバー」はセックスからはじまり、セックス後の空しさと、それについてまわる憎しみで終わる。まあ、これが「いま」の恋愛なのかもしれないが、なんとも救いがない。入れ墨の「花」は傷を隠すのではなく、結局、こころの苦い傷、入れ墨のようにけっして消えない傷をあらわす--というのでは、あまりにも「図式的」で退屈である。
 この映画で見るべきなのは、モンスーン気候の緑と雨(水)の織りなす美しい揺らぎかもしれない。春のやわらかな緑が、雨にぬれてますますやわらかくなる。細かい雨に、木々の緑のやわらかさが溶けだし、空気のなかで、いままでなかった何かに変わってしまうような不思議な美しさがある。
 しかし、冒頭の蓮の花は、なぜ、あんなプランターのようなところに蓮の花が咲いているのかという不自然さ、わざとらしさが残る。春の嵐のさなか、車から降りて、じゃれながら連れションするのもわざとらしい。美しいけれども、「わざと」がつきまとう。
 もちろん、詩というのは、一種の「わざと」によって生まれる。「わざと」表現されたものではない偶然は「詩」ではないのだから、「わざと」は「わざと」でいいのかもしれいなが……。
 そのときの美しさが、「長江哀歌」がすでにやりとげたことのコピーで終わっているから、「わざと」が目立つのである。ハンディカメラによる撮影がそっくりだし、暮らしの細部にカメラを近づけていくのも同じである。暮らしのなかの、存在そのものの生きてきた痕跡--その美しさ、生物の美しさは「長江哀歌」が撮りつくしている。これを超えるのは、中国における男色というような特異な題材では「わざと」が浮き立つだけである。

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上坂京子『風と曼珠沙華』

2011-01-20 23:59:59 | 詩集
上坂京子『風と曼珠沙華』(深夜叢書社、2010年12月15日発行)

 上坂京子『風と曼珠沙華』の詩の特徴のひとつに「改行」がある。「風と曼珠沙華」。

暮れなずむこの夕暮れは
私の地球 あるいは頭蓋のめざめ それは
誰のものでもない私の知っているこの大地の夢
私のおも火(ひ)に焼かれ 未だに煙りも立たず燻る道
を持ち上げる野分けの風 ざわざわと

別離のない国から
朽ち葉のように運ばれてくる
小さな寝室 石に刻まれた名前 私もまた
裸の足を風に浸し勇気ある子供に立ちかえり
幼いおまえの手を取り翔ける雲になる

あの日
おまえが駆け抜けた野や庭一面に燃えわたる彼岸の花
それぞれに小さな空を掴みながら 浄土の雲を紅に染めうつし
おまえを捧げ永久に追放するしたくをした 保護者としての
烈しい苦悶のときを ヒューヒューと

過ぎゆく風を投げ合った 今宵のすべての天空が
白い布地となり包もうとしているもの 散乱した
こんなにも淋しいけれど甘美な生きてきた吐息 輝く勇気ある額(ひたい) やがて
おまえの寝息をききながら大地の夢をみる私 無涯の

脈打つ地球に鍬を打つ私は 石を貫く苔となり
おまえのかたちにおまえを覆い 忍び入る風雪を引き受けよう
ふたたび咲くことはないと聞かされたあの日の花は
たおやかに私の奥で赤く燃え
交配を怠ることはないのだよ

 3、4、5連の改行が特に変わっている。「ヒューヒューと//過ぎ行く風」「無涯の//脈打つ地球」。上坂の意図はどんなものかわからないが、私は、1行の空白を挟んでことばが呼び掛け合う「改行」、1行の空白をまたぎ越して接続することばとして読んだ。
 ふつうなら連続してあるべきことばの間に「1行」の大きな空白がある。そういう構造をもった作品として読んだ。
 これはいったい何だろう。この1行空きは何だろう。
 激しい断絶なのか。
 そうではなくて、これはことばの飛翔の痕跡なのだ。
 動いてきたことばが加速する。加速して、飛翔してしまう。その飛翔の痕跡として「1行の空白」を上坂は必要としているのだ。
 この詩は5連の構造をとっているが、ほんとうは5行なのである。1連が1行である。その1行のなかで、ことばはことばの脈絡を切る。

暮れなずむこの夕暮れは
私の地球 あるいは頭蓋のめざめ それは

 1行目は2行目につながらない。「夕暮れ」は「めざめ」というのは一種の矛盾である。「めざめ」とは一般的に「朝」に属するものである。「夕暮れ」が「朝」であるはずがない。--というのは、ことばのひとつの脈絡である。そういうものを上坂は叩ききる。叩ききられたことばの脈絡は、まるで首を切られたニワトリのように無鉄砲に駆け出し、ことばを探す。あたらしい頭を探すかのように。

暮れなずむこの夕暮れは
私の地球 あるいは頭蓋のめざめ それは
誰のものでもない私の知っているこの大地の夢

 「夕暮れが「めざめ」であるというのは、「夢」なのだ。「夢」のなかでなら、どんな矛盾でもありうる。
 脈絡を切られたことばは暴走し、そのスピードのなかから、まるでほとばしる血のように次のことばが飛び出してくる。そのとき、ことばは飛翔しながら、どこかで「過去」を引きずる。

私のおも火(ひ)に焼かれ 未だに煙りも立たず燻る道

 「思い」(思ひ、思ふ)、思うことはこころの火、こころの火なんて古くさいから、上坂は「頭蓋」の火というかもしれない。「思い(思ひ)」「思う(思ふ)」と漢字で書いてしまえばそこに「心」がこびりついてくるが「おもひ」なら「心」はこびりつかない。その「ひ(火)」を「頭蓋」の「火」と呼べば、それは「頭蓋の夜明け」、「頭蓋のめざめ」へとつながるであろう。
 ことばを叩き切り、飛翔すれば、それに呼応するように「過去」が逆方向に動いていく。より、過去へと動いていき、新しいことばと古いことば(それまでたどってきたことば)の亀裂を大きくする。
 それが、ふいに登場する「1行空き」なのだ。

私のおも火に焼かれ 未だに煙りも立たず燻る道
を持ち上げる野分けの風 ざわざわと

別離のない国から

 この不自然な(散文の「意味」において、「学校教科書」の作文の文脈において、不自然ということだが……)改行。意味の不連続。不連続でありながら、何かしら、「過去」を引っかき回すようなしつこい粘着力。

私のおも火に焼かれ 未だに煙りも立たず燻る道
を持ち上げる野分けの風 ざわざわと

別離のない国から
朽ち葉のように運ばれてくる

 「ざわざわ」は「野分けの風」を描写しているのか。それとも「朽ち葉」のたてる音なのか。きっと両方なのだ。1行空きの大きな空白を抱え込みながら、その空白をないものにしてしまうことばの粘着力。
 この粘着力にあらがうためには、だからこそ1行空きの空白が必要とも言える。

 こういう作品に「意味」を求めても何もない。何もない--というのは逆説で、あらゆるものがある。つまり、どう読もうとかまわない。だから、私は、この詩の「意味」(内容・ストーリー)については書かない。
 一瞬一瞬のことばの輝き--それが好きか嫌いか、それだけである。
 「こんなにも淋しいけれど甘美な生きてきた吐息」ということばは、私は大嫌いだが、それでも私は詩として許容してしまう。「たおやかに私の奥で赤く燃え」というのは、この詩のなかではいちばん嫌いな行だが、それでも私は詩として許容してしまう。
 変な比喩で申し訳ないのだが(さっき書いたことなのだが)、この詩のリズムは、どこか首を切られたニワトリの疾走に似ている。強烈な絶望と、強烈ないのちの粘着力がある。それが好きなのだ。
 あ、変なものを見てしまった、という印象が好きなのだ。


風と曼珠沙華
上坂 京子
深夜叢書社
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平田俊子「いざ蚊枕」

2011-01-19 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
平田俊子「いざ蚊枕」(「現代詩手帖」2011年01月号)

 ことばがもっている何か--それがことばから溢れ出て、他のことばとまじりあう。そんな動きには季村敏夫のようなまっとうな(?)もののほかに、かなりふざけた(?)ものもある。
 平田俊子「いざ蚊枕」。

蚊についてもう少し言わせてください


鎌倉に住んでいる知り合いが
自分の住所を「蚊枕」と書くところを目撃しました
蚊がびっしり詰まった枕を想像しました
ソバガラや羽毛やパイプではなく
大量の蚊でふくらんだ枕
枕の中で蚊は生きているのだろう、蚊
生きていればうるさいし
死んでいれば気味が悪い
蚊の生死をその人に問うと
「蚊枕って、蚊が寝るときに使う枕ですよ」
「蚊って、寝るとき枕を使うんですか」
「使います。小さな頭に小さな枕をあてがって寝ます」
「うわあ。知りませんでした」

 これは「蚊枕」ではなく、「蚊枕」という詩の「枕」のようなものである。寝るときに使うのではなく、本題に入る前の導入部としての「枕」--と書いていくと蚊からはなれてしまうので、あ、まずい、と私は思うのだが、書いてしまったから、しようがない。
 しかし、この書き出しを読むと、平田が何を書きたいのか、よくわからない。平田に書きたいことがわかっているのか、それもわからない。
 「蚊についてもう少し言わせてください」と突然始まるのだが、「もう少し言わせてください」というかぎりは、平田は蚊について何か言ったことがあるのだろう。けれど、私には、それがわからない。わからないけれど、そんなことは別にして、ここに書いてあることばがわからないかと言えばわかる。ことばはわかるが、何がいいたいか、わからない。
 わかる、わからない、にはふたつの「意味」がある。「わからない」には、ことばの「意味」そのものがわからない、というのと、ことばが「どこへ進むのか」見当がつかない、わからない、というのがある。
 平田の詩の場合、「わからない」というのは「どこへ進むのか」わからない、である。そして、わからないのに、そのことばが進んでしまうのはなぜかといえば、ことばのなかに、そのことばからはみ出してしまって、他のことばと重なってしまうものがあるからだ。その重なりを利用して、いまここにあることばは、別のことばへと進んでいくことができる。
 簡単に言うと「だじゃれ」なんだけれど。
 その音を利用した変な力を借りて、平田はともかくことばを動かしはじめる。どこへ行くのか。まあ、平田にも「わからない」というのがほんとうのところではないかと思う。そして、私が平田の詩を読むのは、平田は書きたいことが「わかっていない」と思うからなのである。わかっていなくても、ことばは動いて行ける。その動きの可能性につきあいたい--そういう気持ちがあるから、平田のことばについて行ってしまう。
 わからずに書く--というのは、少しずつわかりながら書く、発見しながら書く、どこへ行ってしまってもかまわない、と覚悟を決めて書くということでもある。
 季村のことばには「気迫」があった。平田のことばには「覚悟」がある、ということになるかもしれない。わからないけれど、何かを「悟っている」。その、不思議な力がある。

いざ蚊枕
生きるべき、蚊
死ぬべき、蚊
蚊枕に対抗しようと思えば
詩枕千代子になるしかない
「東京だよおっ蚊さん」や
「蚊らたち日記」を歌うしかない

 ことば--あることばに出会い、そのことばと向き合うために(真っ正面から「対抗」するために)、平田は「自分」を頼りにしない。伊藤比呂美は「私は私である」にこだわったが、平田は平気で「自分」を捨てる。「詩枕千代子」はもちろん「島倉千代子」だが、そんなふうに平田は簡単に他人に「なる」。(詩枕千代子に「なる」しかない--と平田は書く。)
 これは、同時に、そんなふうに他人に「なった」としても、一方で、自分は自分で「ある」ということを平田が知っているからである。「詩枕(島倉)千代子」になっても、平田が平田である証拠は「東京だよおっかさん」ではなく「東京だよおっ蚊さん」の「蚊」に対するこだわりとしてつづいている。
 ことばを動かすのは、いつでも平田なのだ。
 そこにあるもの、知っているもの、あらゆることを利用しながら、一方でことばを破壊し、他方でことばの運動を支配する。動かす。どんなことをしてもことばを動かしてみせる、そしてそれがどんなものになろうと、そこに最終的に平田があらわれてくる、と平田は悟っている。
 だから、平気なのだ。平田俊子ではなく「平気」俊子という感じの雰囲気が、いつでも平田のことばにはある。

 で、いろいろ書いてしまうと、面倒なので。最後。

人間のまわりをうろうろする蚊
人間の血をちゅうちゅう吸う蚊
あげくにたたかれ、落命する蚊
実に愚かだ、考えがたりない、
実におろ蚊だ、蚊んがえがたりない
(略)
生きるべき、蚊
死ぬべき、蚊
火柱
蚊柱
人柱
命を賭けて人の血を吸う
ば蚊で
おろ蚊で
あさは蚊な蚊

 「ば蚊で/おろ蚊で/あさは蚊な蚊」となって、「命を賭けて人の血を吸う」なんて、いいだろうなあ、と私は、ふと思うのだ。「ばか」「おろか」「あさはか」ということばのなかにさえ「蚊」という自分を刻印できるなんて、これはかっこいいことじゃないだろうか。詩の途中に出てくる高浜虚子の句の「金亀子(こがねむし)」は「ばか」「おろか」「あさはか」のなかに「こがねむし」を刻印できないからねえ。

 ちょっと、飛躍して。(論理を省略して--という意味に理解してください。)
 平田は「蚊」ということばのなかに、平田という詩人を刻印している。蚊を完全に平田のものにしてしまっている。「蚊」は「平田語」になっている。
 詩は、その「平田語」の「平田」のなかにある。
 なんになってもいい、どうなってもいいと覚悟しながら動かしたことばによって、平田は「蚊」を乗っ取って、蚊を「平田」にしてしまったのだ。
 これって、愛、かなあ。
 きっと究極の愛の形だなあ。
 自分はどうなってもいい--そう覚悟して相手についていく。そして知らない内に、相手をのっとって、自分が相手になってしまょうのではなく、相手を自分にしてしまう。こわい、こわい、こわい愛の物語。
 こんなふうに愛されたら--私は困るけれど、「蚊」、「蚊ということば」にとっては、至福だろうなあ。

私の赤くて柔らかな部分
平田 俊子
角川書店(角川グループパブリッシング)
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誰も書かなかった西脇順三郎(169 )

2011-01-19 12:01:51 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『えてるにたす』。「菜園の妖術」のつづき。

なにしろあの山百合は
歯医者のかえりにいさらごのあたりを
うろつくちばの魚うりの女が
駅まで出る坂道で折つてきた
美しいへそくりの胡麻すりの
八月の日の愛情のあわれみだ
銅銭のやわらかみはもう
入口のくらやみには残つていない

 ここには何が書かれているのか。
 「あの山百合は」「ちばの魚うりの女が」「折つてきた」もの。その花には「あわれみ」「やわらかみ」「くらやみ」というような淋しさは「残つていない」--と、私の「頭」は強引に読みとってしまう。つまり、山百合の花と魚売りの女が出会い、その出会いのなかで、こころの奥にある感情がゆさぶられ、ゆさぶられるままに、ああでもない、こうでもないとことばが動いている。
 でも、そんなことはどうでもいいなあ。
 こころが、ことばが動くとき、その動きを私は自分でコントロールできない。西脇のことばのリズムに突き動かされて、いま書いたばかりの魚売りの女と山百合の出会いから逃れられなくなる。
 かえ「り」に、あた「り」を、「う」ろつく、魚「う」り、駅ま「で」、坂道「で」、へそく「り」、胡麻す「り」、あわれ「み」、やわらか「み」、くらや「み」。
 そこに書かれていることばは、「意味」もあるだろうけれど、それ以上に「音」をもっていて、その「音」がどうしても気になる。その「音」から逃れられなくなる。

美しいへそくりの胡麻すりの

 という1行は、これはほんとうに「意味」なんか、ぜんぜん、つかめない。澤正宏(福島大、人間発達文化学教授)にでも聴けば、出典と、それらしい「意味」は教えてくれるかもしれないが、私は「へそくりの胡麻すりの」という音だけで満足だし、「美しいへそくり」ということばのなかには「美しいへそ」があり、そこから女の裸なんかが浮かび上がるところが大好きだ。「へそ」の「胡麻」ということばを連想させるのもいいなあ。「「へそ」の「胡麻」と感じているときは、ことばではなく、女の裸を感じているのだけれど。
 そして、そこに女の裸を感じるからこそ「あわれみ」「やわらかみ」「くらやみ」ということばがぴったり感じられる。
 魚売りのたくましい(?)というか、頑丈な女と山百合。その取り合わせが、「意味」はわからないけれど「美しいへそくりの胡麻すりの」なんだなあ。

なまなすに塩をかけて
この美しい紫の悪魔を食うのだ
ピースにすい口をつけて吸い
呪文をとなえて充分
女神の分裂をさけるのだ
永遠は永遠自身の存在であつて
人間の存在にはふれていない
永遠をいくらつぶしてうすくしても
限定の世界にはならない
にわつとりがなく
また人類の夜明けだ
神々のたそがれはもう
ふたたびたまごの中にはいつた

 先に指摘したのとおなじ「音」の動きがここでも見られる。しかし、ここでいちばんおもしろいのは、

にわつとりがなく

 の1行である。
 ことばの転換の仕方としては、「旅人かへらず」の「ああかけすが鳴いてやかましい」とおなじものだが、音がケッサクである。
 「にわとりがなく」(鶏が鳴く)では、「音」がまったくおもしろくない。「にわつとり」(にわっとり)と促音が入ることでことばが弾む。「にわつとり」は次の行の「夜明け」を呼び出すのだが、その夜明けは「にわつとり」の「音」(なく--ということばに従えば、にわとりの「トキ」をつくる声だね)に破られて、夜明けどころか、真昼も飛び越してしまいそうである。実際、次の行では「たそがれ」になるのだけれど。
 その前に書いてあるのは、なにやら哲学じみたことがら、「意味」のありそうなことばなのだが、そんなものは、もういいなあ。「にわつとり」「にわつとり」「にわつとり」と叫びながら走り回りたい気持ちになる。
 この「無意味」、ナンセンスな肉体のよろこびが私は大好きだ。




詩学 (1968年)
西脇 順三郎
筑摩書房
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季村敏夫『ノミトビヨシマルの独言』(3)

2011-01-18 23:59:59 | 詩集
季村敏夫『ノミトビヨシマルの独言』(3)(書肆山田、2011年01月17日発行)

 季村のことばには「気迫」がある。「気」というのは、たぶん、そのひとの「内部」にとどまらない。ことばの場合だと、ことばを内部からはみ出していく、あふれていくものだと思う。--あふれてくるもの、ことば以上のものを感じるから「気迫」を感じると、私はわかったふりをして書いてしまうのだが、そのあふれた「気」はどうなるのだろう。「内部」からあふれてしまったものは、どうやって形を保つのだろう。「気」は、どうやって結晶するのだろう。
 「夢の漣」。

枕もとに一艘、舟が近づき、霧笛を鳴らす。家にさざ波。海峡を見おろす庭に鳥が舞い、梢をゆらし降りていった。

電話があった。「ひたすら逃れました。町は死骸であふれていましたが、なぜか空は透き通っていました」。父の葬儀が済み、ほっとしていたひとときだった。「海峡にさしかかった瞬間、外地の記憶は貨物船から棄てました」。戦友だったという声。舟を漕ぐひとは、もうこの世にいない。

夢のなか、海を背にする。のぼりつめも向こう、坂道が光り、うねるようにつづく。風にまかせ、ここから先は、舞うように泳げばいい、そうおもうのだが、立ち止まったままのそこで、息があえぐ。見えない先の坂を転がり落ちていくものに逆らえない。だからなのか、たどりつけなかったひとびとのために置かれた石の叫びが、立ち止まった足にからみつく。

 最初から3連目までを引用したが、この3連目は、いったいだれのことばなのだろう。だれの記憶なのだろう。父の記憶--父から聞かされた記憶なのか。それとも父の戦友の記憶なのか。あるいは、「私」(季村)の記憶なのか。
 判然としない。
 1連目の「舟」そのものも、いったいだれが見た舟なのかはっきりしない。それは季村の夢に出てきたのだから、季村の見た舟といってしまってもいいのかもしれないが、そこに父の記憶、戦友の記憶、それから父とともに生きた時代の多くのひとの記憶がまじりあっているように感じる。
 季村のことばに、ことばを発することのないひとびとの叫びがからみついているように思える。
 気迫のあることば--ことばからあふれた気は、いま、ここに、いないひとの、ことばにならなかった「気」とぶつかり、結晶して、だれのものでもないことば、だれのものでもありうることばになる。

 「光庭--資料館で」。その書き出し。

ほのかに香る庭園。あたり一面、目に見えないしぶき。遠く、近く、蜜蜂の羽の音。どこからともなく、甘い蜜のしずく。ハミングするのはだれ、だれの記憶なのか。

 ここに「だれ」が出てくる。それは「だれ」と書かれているが、「だれ」であるか、季村は知っている。「だれ」であると特定できないけれど、知っている。たとえば、父と戦友と、あるいは帰れなかったひとび……その「顔」は見えないけれど、動きが見えるひとたちである。
 別の連。

資料館の外の庭園。みずをそそぐひとの姿は見えないが、窓ガラスに小さく、飛沫が浮かぶ。こびりつく脳漿。手に取る資料にも飛び散るものがある。収集された一枚いちまいをめくるとき、舞いあがるものがある。「ここには、難民生活を強いられた民間人の資料の一部が残されています。逃げまどう声、躯が潰れる音、その臭い、このような光景がなぜ起こったか、資料の解読は廃棄物の収集分別作業と同じです。腐っていく汚物を掻きまわすとき、なにを浴びることになのでしょうか。」

 季村のことば、ことばからあふれた「気」は、他人のことばにならななかった「気」と出会う。資料館で。父の足跡ののこる場で。そして、多くのひとの「気」をあびながら、季村のことばの「気迫」はさらに充実していく。
 そして、ことばは、だれのものでもなくなる。ここに書かれていることばはだれのものか。そんなことを問う必要はない。それは季村のことばであり、季村にそう語らさせた多くのひとのことばである。季村は、もう季村であることをやめてしまっている。
 きのう読んだ伊藤比呂美が「私は私である」と書いていたが、季村は季村ではない。季村ではないことによって、季村は季村になる。「ある」という状態から「なる」という世界へ動いていく。
 ことばの気迫。その、ことばの内部にある「気」はあふれだし、他者の「気」をあびて、そこに季村という「人間」をつくりあげる。季村はそういうことばをとおして、季村に「なる」。あたらしい人間に「なる」。
 そして、この詩集には、その「なる」という運動がそのまま刻印されている。その「なる」という運動に、私は圧倒される。




木端微塵
季村 敏夫
書肆山田


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デヴィッド・フィンチャー監督「ソーシャル・ネットワーク」(★★★)

2011-01-18 11:33:51 | 映画
監督 デヴィッド・フィンチャー 出演 ジェシー・アイゼンバーグ、アンドリュー・ガーフィールド、ジャスティン・ティンバーレイク

 ラストシーンがとてもおもしろい。フェイスブックの創業者が、昔の恋人がフェイスブックに登録していることを知る。そこでメッセージを送り、コンタクトを取ろうとする。そのとき、メールを送り(?)しばらく待つ(半日とか1日とか)のではなく、ひっきりなしに「更新」コマンドを押して相手の反応を確認している。まるで電話の呼び出し音を聞きながら、相手がいつ出るかいつ出るかと待っている感じなのである。
 ネット社会は、ここまで来てしまったのか。
 手紙・はがきの時代は何かメッセージを送っても反応が帰ってくるまでに早くて2-3日はかかった。1週間くらい反応がないときもある。それが電話になって、瞬時に連絡がとれるようになった。しかし、この電話も固定電話の時代は電話のそばに人がいないかぎり連絡はとれない。携帯電話になって、いつでも、どこでも、相手の都合など関係なく連絡が可能になった。それでも、まあ、電話に出ないということもある。
 ネットはパソコンの前に座って、パソコンが起動した状態でないとメッセージのやりとりはできない。電話で言えば、いわば固定電話のようなものである。それなのに、主人公の男は、相手がパソコンの前にいる、そしてメッセージを読んでいると想定している。
 フエイスブックでは、相手がオンラインであることがわかるのかな? たとえ、相手がオンラインにいるとわかっても、この主人公の態度は、かなり「わがまま」である。
 女は男の態度が気に入らないと去って行ったのである。男がコンタクトをとろうとしたときも、迷惑だ、とはっきり言っている。その、女の「拒絶」が男にはわかっていない。--と、ここまで書いてきて、この映画が少しわかりかけてきた。(書きたいことが、変わってしまった。)
 あ、そうなのか、この映画は、人と人の接触を描くと同時に、拒絶も描いているのか。むしろ人と人との関係の遮断こそが隠れたテーマかもしれない。
 どこまでもどこまでも増殖していくネットのつながり。そこではつながりができたとたんに、そこで起きていることがどこからはじまったかわからなくなる。フェイスブックのアイデアを考えたのはだれなのか。その出発点をつきつめることは難しいし、第三者にはアイデアを思いついた人間よりも、そのアイデアを実現した人の方がはっきりわかる。アイデアはそれを実現した人のものとして見えてしまう。アイデアと、それを実行するプログラムを切断し、ふたつに分けることは不可能なのだ。ネットワークのシステムにおいては、実行プログラムのなかにアイデアは吸収されてしまう。その吸収されることを拒絶することはできない。そして、その拒絶できず、吸収されてしまったことに対する解決として「和解金」が支払われる。
 他方、映画では、それとは別の「拒絶」を描いている。システムは、人間ではないので、どんどん吸収されてしまうが、人間はそうではない。アイデアを出した人間はシステムから拒絶され、最初に資金を提供した友人も、会社の組織からは拒絶され、はみ出してしまう。会社の中では、人間関係ではなく、金(マネー)のシステムが支配している。
 情報処理システム、マネー流通システムのなかで、人間は、どんな関係を作り上げることができるのか。なんだか、よくわからない。フェイスブックの創業者は、最後まで、人間関係を作り上げることができずにいる。彼ののぞむ人間関係をつくれずにいる。彼がつくれたのはフエイスブックという情報処理のシステムとマネーを稼ぐシステムだけである。主人公は、現実の人間関係のなかでは「拒絶」と向き合っているだけである。
 (フェイスブックのアイデアを出したひと、最初に資金を提供した友人との人間関係も、主人公は築くことはできなかった。)

 --しかし、もし、この映画が、そういう「拒絶」を描いているのだとしたら、つまらないねえ。いやだねえ。
 フェイスブックはグーグルを超えて暴走している。その暴走がどこまで行くか、その可能性の方を私は知りたい。若い知能が考え出したアイデアがどこまで暴走し、社会そのものをつくりかえてしまうのか、それをこそ描いてほしいと思うけれど、そこまで、想像力が働かないのかもしれない。この先を想像できるのは、主人公だけということかもしれない。
 そうだとしても、そこからはじまる幸福と不幸を、もっとスピード感をもって描いてほしかった。主人公が、ひとりさびしくパソコンのキーボードを叩いて女からの返事を待っているのというのは、なんとも、げんなりする結末ではないだろうか。

 ちょっと映画とは関係のない感想になってしまたかなあ。
 映画そのものとしては、主人公を演じたジェシー・アイゼンバーグの早口にまいった。膨大な台詞をものすごいスピードでしゃべる。途中で悩むということがない。加速するコンピューターの世界そのものである。ジェシー・アイゼンバーグが増殖するネットをそのまま具現しているということかもしれない。
 一方に、情報処理が加速化し、他方で人間関係が途絶する。ネット社会で「人間関係」が成り立たないと、それが現実に反映されない。ネットのなかで関係を作り上げるシステムはどんどん巨大化するが、それを現実の人間社会に反映できない--ネット社会が現実より大きくなり、現実がそれを受け止められなくなっている。現実とバーチャルが逆転しはじめているのだ。

 そういう世界が、いいとか、悪いとかいう時代は、もう過ぎ去ったのかもしれない。私のこの感想もそうだが、この映画も、なんだか「人間」に寄り添いすぎているかもしれない。「倫理的(?)」であるすぎるかもしれない。
 ネットの暴走のなかで人間は孤独を深めている--というのは、映画としてはおもしろくなさすぎる。センチメンタル過ぎる。
 バーチャルが現実をととのえる--ということを、もっと前面に押し出して、別の展開になればおもしろいのになあ、というのは、まあ「ないものねだり」なんだろうなあ。
 デヴィッド・フィンチャーは、いつでもセンチメンタルだからねえ。人間の「情」を生きているからなあ。どんなに「非情」を描いても。

 私の感想も中途半端だが、映画も中途半端だね。--これが、私の「結論」。


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伊藤比呂美「日系人の現在(母が死んだ)」

2011-01-17 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
伊藤比呂美「日系人の現在(母が死んだ)」(「現代詩手帖」2011年01月号)

 季村敏夫『ノミトビヨシマルの独言』のことばの気迫と向き合いつづけるのと、少し休憩したくなる。休憩に利用されては困る--と叱られるかもしれないが、伊藤比呂美「日系人の現在(母が死んだ)」を読みながら、詩のことばについて考えた。

ある日私は一時間半のあいだ運転して日本領事館へ行った
証明するためである
私が私であると
母が死んだ
解約せねばならない、母の口座を
口座には入っておる
はした金が定期になって
手続きをせねば解約できない、その口座を

 行分けにはなっているが、文体そのものは「散文」である。ひとつのことを言って、それを次のことばできちんと説明する。前に書かれたことを踏まえて、次のことばが展開していく。
 ここでは、倒置法が多用されている。母が死んで、その残した口座を解約するには、私が母の娘であるということを証明する必要があった。そのために、私は領事館へ行った--とふつうの「作文」(学校の作文)なら書くかもしれない。その「内容(意味)」を伊藤は倒置法で書いている--というのが、この詩の(作品の)ひとつの分析である。
 と、書いてみても、あ、ここからは、この作品が詩であるという「証明」はできないなあ。なぜ、これが、「作文」や「エッセイ」ではなく詩なのか、ということを語ったことにはならない。
 なぜ、詩なの? この作品を詩にしているのは、何?

私が私であると

 この1行に、その「理由」があると思う。伊藤の「肉体」(思想)が結晶している。伊藤にしか書けないことばがここにある、--この1行は「伊藤語」で書かれている。詩人の名前を冠してしかとらえることのできない「語」があるとき、それは詩である。
 私は、引用部分を散文化するとき、「私は私である」という部分を「私は母の娘である」と書き直した。実際に、銀行で求められているのは母-娘(私)の「肉親」であることを証明する「文書」である。「私が私である」という同義反復、自己完結の証明ではなく、「私」と「母」の関係を証明することを求められている。
 でも、この「関係」を証明することを求められていることを、伊藤は「私は私である」と証明すること、と置き換えるのである。この置き換えが「伊藤語」のはじまりである。「私」から出発し、「私」に戻ってくる--その自己完結が「伊藤語」である。
 どんなに他人との関係を書いても、どんなに他人を潜り抜けても、伊藤は「私」に戻ってくる。「私」から出て行って、「他人」になってしまうということがない。そういう「回路」を確立したことばが動き回るから、ここに書かれていることばは詩になるのである。

 ことばは--一般的なことばは「自己完結」ではない。それは自己完結ではなく、常に変数を抱え込んだ「関係」である。ことばだけでなく、人間存在そのものが「関係」である。伊藤は、「私は私である」と自己主張するが、他者はそうではなく「伊藤-母(あるいは、父でもいいが)」の「関係」を伊藤であると定義する。
 「私は私である」というときの「定義」の仕方が、伊藤と他人(世間・銀行の形式)では違う。その違いが「私は私である」と伊藤がことばを書くとき、くっきりと浮かび上がる。

書類という書類を取り集めてくるように
対面した年上の男の銀行員に指示された
証明するためであった
母が母であると
父が父であったと
私が私であると

 この部分の後半の3行は、正確には(?)、「母が私の母であると/父が私の父であったと/私が母と父の子どもであると」ということである。
 「私の」母、「私の」父の、「私の」がここでは省略されている。「私の」は伊藤にとっては自明過ぎて(肉体にしみつきすぎて)、それを書くことができないのだ。こんなふうに、完全に肉体にしみついて、肉体になってしまっていて、ことばにならないものを、私はキーワードと呼んだり、思想と呼んだりするのだが、思想というのはいつでも他人とぶつかったとき、そこにがんじがらめの「事態」を引き起こす。(これが社会的な広がりをもつとき、「事件」になる。)このがんじがらめの、面倒くさい「事態」は、思想にとっては大問題である。
 --でも、赤の他人の私にとっては、伊藤の思想の格闘は、とっしもおかしい。伊藤には申し訳ないが、「笑い話」である。楽しい。

わずらわしさに放り出したくなったが
はした金でも貴重な金であって、粛々と手続きをつづけた
そこで判明したのが、通帳もない、一つの口座
母がつくった、父も知らなかった、それを
さまざまな
事情や、情動や
緊張や、絶望が洩れてきて思わず耳を塞いだ
銀行員はつづけた、残金は518 円です、その口座、そして
通帳がないと「紛失扱い」になってさらに夥しい書類が必要になる、と

 母はいつか口座があると伊藤に言ったのだ。そして、その口座の通帳が見つからないので、銀行に行って、その旨伝え、解約しようとしたら、なんと残金は 518円。口座の残金がそうなるまでには「さまざまな/事情や、情動や/緊張や/絶望が」母を襲ったであろうということが、伊藤にはわかった。いっしょに生きてきたのだから。伊藤の見逃してきた「関係」が見えてきたということかもしれない。
 伊藤は「私は私である」という世界を生きているが、そこには同時に、それをとりまく「関係」、意識してこなかった「関係」がある。
 「私は私である」と主張しようとすればするほど、その単純明確なことがら(肉体を起点にする伊藤にとって「私は私である」は、自分の肉体に触って確かめるだけで成立する証明である)が、ややこしいものに巻き込まれていく。

忘れましょうよ
と私はそっと提案したが彼は受け入れなかったのである
私はさらに夥しく
書類という書類に記入し、書類という書類を取り集めた
母は母であった
と証明する書類
母は生まれてこのかた
名前と住所をてんてんと変えながらもつねに母であった
と証明する書類
母は母であった
と証明できない書類
(東京大空襲で某区が全勝してしまったのである)

 「忘れましょうよ」はケッサクだなあ。「もう、いいです」(もう、口座はどうでもいいです。権利を主張しません、放棄します)という意味なのだろうけれど、いったん動きだした「関係」は「関係」が完結するまで「関係」の証明を求めつづける。
 --ということが、延々とつづいていく。
 その途中に「母は生まれてこのかた/名前と住所をてんてんと変えながらもつねに母であった」という女の「暮らし」がきちんと書き込まれもする。生まれ、名づけられ、結婚し、姓がかわり、そういう変化の中でも、母は、その母の肉体は母のままであった。肉体としての母は紛れもない存在だった、ということもきちんと書かれる。
 「私は私である」と同様「母は母である」。その時も、肉体が存在証明(関係証明)の基本である。
 そして、この延々とつづくことばの運動に、一つ、特徴がある。
 繰り返しである。
 散文なら、繰り返しを省略して、文章を完結にする。けれど、伊藤の詩では、そういうことは起きない。何度でも繰り返す。重要なことは繰り返す。繰り返し、確かめながら、ことばをもう一度、最初から動かすのである。

私は私である

 繰り返し繰り返し、そのことばを口にして(伊藤の詩は、「文語」ではなく「口語」である)、肉体をくぐらせる。喉をくぐらせる。舌にのせる。唾もとばす。そうして、確かめるのである。
 ことばを、肉体が、生まれて、成長し、変化し、動いていくように、常に、「生まれる」という場から動かし直すのである。この運動が、伊藤の詩である。
 詩--それは、常に、いままであったことばではなく、「いま」「ここ」から生まれてくることばなのだ。伊藤は、そのことばを、まるで出産するかのように、伊藤自身の肉体をくぐらせて生み出し、育てる。繰り返し、繰り返しは、生み出したことばに対して、がんばれ、もっと大きくなれ、大きくなって敵を叩き殺せ、と励ますようでもある。

 伊藤の詩を読むと、ことばに対して、もっと元気になれ、と自然にいいたくなる。なんでもいいから、書いてしまえ、と励まされたような気持ちになる。勇気をもらえる感じがする。
 タイトルは「日系人の現在(母が死んだ)」なのだが、日本語の現在、(詩は死んだ)と読み替えて、詩を、日本語をはげましている伊藤の姿を私は見るのである。





読み解き「般若心経」
伊藤 比呂美
朝日新聞出版
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ピーター・イェーツ監督「ブリット」(★★★★)

2011-01-17 23:16:57 | 午前十時の映画祭
監督 ピーター・イェーツ 出演 スティーヴ・マックイーン、ロバート・ヴォーン、ジャクリーン・ビセット

 かつて見たとき、印象に残ったのはサンフランシスコのカーチェイスと夜の空港、滑走路での追跡である。今回、「午前十時の映画祭」で見直して、やはりカーチェイスのシーンがすばらしいと感じたが、全体も非常に充実していることに気がついた。
 冒頭、監督らのクレジットの文字のなかから場面があらわれるのも新鮮だが、それ以上にひとつひとつのシーンが「もの」の材質に迫っている。単に「もの」をスクリーンに映し出すのではなく、「もの」の存在感をスクリーンに定着させている。オフィスの襲撃(強盗?)のシーンの、室内の感じ、壁の感じ、ガラスの感じ、光と闇の感じ--そして、そこから、登場人物の「素質」のようなものも感じられる。あ、これは役者の「存在感」をそのままスクリーンに定着させて動いていく映画なのだ、とわかる。
 主役はスティーヴ・マックイーン。その演技が、ストイックでとてもおもしろい。「事件」を頭で完全に理解し、その理解にそって肉体を動かしている。アクションの基本は「頭脳」なのだという印象を強く浮かび上がらせる。--こんな映画とは、知らなかった。そのことに、とても驚かせた。昔見た映画とは別物、という感じすらした。
 役者の「素質」というか「素材」のおもしろさ--それが端的に出ているのがロバート・デュバルのつかい方である。タクシーの運転手を演じている。後部座席のシートの後ろに犬のぬいぐるみを置いている。スティーヴ・マックイーンが被害者の動き再確認するために、そのタクシーに乗る。ロバート・デュバルはいろいろ「証言」するのだが、その最後の決めて、
 「被害者は2度電話した。2度目は遠距離だ」
 「どうして遠距離とわかる」
 「コインの数だ」
 この冷静な分析。さすが、「ゴッド・ファーザー」の弁護士だなあ。ロバート・デュバルに演じられないなあ、と感心してしまった。(昔は、ロバート・デュバルなんて、知らなかった。)
 ジャクリーン・ビセットもおもしろい。使える車がなくなったとき、スティーブ・マックイーンの「足」になって車を運転する。途中で、異変に気づき、殺人の「現場」へ駆けつける。マックイーンに何か起きたのでは、と心配してのことなのだが。そのときの、カンのあらわし方、その後の悲しみのあらわし方--特に、悲しみの深さが彼女をより美しくみせるというつかい方が、とてもすばらしい。ジャクリーン・ビセットには悲しみの中で知的に輝き、そのとき彼女の人間としてのやさしさがあふれる。
 カーチェイスは、いまの映画に比べると「地味」なのだが、その地味さのなかに、美しさがある。サンフランシスコの坂をとてもよくつかっている。坂はずーっと斜面なのではなく、道とクロスするとき平らな部分が出てくる。その平らな部分を通り、もう一度さかに入る瞬間、車が必然的にジャンプする形になる。そこに無理がない。ここでもサンフランシスコという町(坂)の材質・素質(?)というものが浮き彫りになる。車の運動の特質も浮き彫りになる。存在感がくっきりしてきて、スクリーンを見ていることを忘れる。「町」そのもののなかで、カーチェイスを見ている感じになる。
 途中、タイヤのホイールが外れるのは「演出」か「偶然」かわからないが、そのホイールの転がる音が、映像を「必然」に変えてしまう。カーチェイスそのものの材質というのは変だけれど、手触りのようなものが一気にスクリーンから噴出してくる。いまの映画のCGでは出でこない味である。

 ストーリーではなく、「味」をみせる映画なのだ。この映画が「ダーティー・ハリー」のようにシリーズ化されなかったのは、ストーリーではなく、役者や都市の「味」を見せる映画であるという特質も関係しているかもしれない。
                      (「午前十時の映画祭」50本目)



ブリット [VHS]
クリエーター情報なし
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季村敏夫『ノミトビヨシマルの独言』(2)

2011-01-16 23:59:59 | 詩集
季村敏夫『ノミトビヨシマルの独言』(2)(書肆山田、2011年01月17日発行)

 きのう「ことばの気迫」という表現をつかった。季村の詩集からことばの気迫を感じる、と。しかし、この「気迫」について、どう説明していいかわからない。感じる、としかいいようがない。
 「生かされる場所」。

ふしぎ、である
わたしが、父であり、
おまえが、息子であることが
父であるわたしが
息子でもあることが

 1連目の最後の2行は、「学校教科書」の文法では間違いである。しかし、「父であるわたしが/息子でもあることが」「ふしぎ」(不思議)であると、「ふしぎ」ということばでつないでしまうと「間違い」は「間違いではない」にかわる。「ふしぎ」という思いのなかに「父であるわたしが/息子でもあることが」溶け合ってしまう。矛盾したこと、わけのわからないことを、それが「存在する」と断定してしまうのが「ふしぎ」ということばなのである。
 「ふしぎ」というのは「理由」がわからない。「説明」がつかない、ということでもある。いま、ここにある何か、その現象がどうして起きているかわかるとき、私たちはそれを「不思議」とは言わない。原因・理由がわからないときに「不思議」と言う。「不思議」は、したがって、いまここにある現象(ことがら、もの)を、ここに「ある」と断定しているのである。
 その「ある」ものを「ある」と「断定」すること--そこから1連目を読み直すと、4、5行目よりも、1行目から3行目の方が問題が大きいかもしれない。

ふしぎ、である
わたしが、父であり、
おまえが、息子であることが

 倒置法で書かれたこのことば。「わたしが、父であり(る)」、そして「おまえが、息子である」ことが「ふしぎ」とは、どういうことか。私に男の子どもがいれば、私は必然的に「父」になる、子どもは「息子」になる。そこに「ふしぎ」が入り込む余地はない。説明も、理由も、全部はっきりしている。そのはっきりしていることを「ふしぎ」と感じること--それの方が「不思議」である。
 しかし、ここでは、季村は、「父」「息子」という関係ではなく、「ある」ということそのものを「ふしぎ」と感じているのだ。2、3行目の、父-息子の「関係」そのものに「ふしぎ」はない。いま、ここに「わたし」が「ある」ということを「ふしぎ」と感じているのだ。
 なぜ、生きているのか。なぜ、この世に存在しているのか。--その「理由」「原因」を季村は自問しているのである。
 そして、「生きている」ではなく、タイトルにあるように「生かされる」と感じるのだ。生きているのは、生まれてきたからである。だが、生まれてくるというのは、「わたし」自身の「意思」とはいえないかもしれない。私は「生きている」のではなく、「生かされている」。
 それは、なぜ?
 季村は、その問いと向き合う。
 そのとき、

父であるわたしが
息子でもあることが

 はっきりとわかる。「わたし」がここに「ある」のは、「わたし」に「父」がいて、「わたし」はその「父」からみれば、「息子」だからである。「わたし」がいま、ここに「ある」のは、父-息子(わたし)という関係が「ある」(あった)からである。
 「関係」を起点にした「名称」は、状況によってかわる。「父」は「父」であることもあれば、「息子」であることもある。そうであるなら、「父であるわたしが/息子でもあることが」「ふしぎ」(不思議)であるというのは、「父=息子」という「関係」がふしぎなのではなく、「ある」ということが不思議である、という1-3行目に書かれていたことにもどる。季村は、4-5行目でも、「ある」ことが「ふしぎ」であると書いているのだ。

 季村は「ある」というとこ、「生きている」ということそのものを「ふしぎ」ととらえ、なぜ、いま、ここに、「わたし」は「ある」のかと考えはじめている。
 そのことを思うとき、父と同じように、「母」も見えてくる。2連目である。

待つ、待たされる
子であり、母であるひとが
家のなかでうなだれる

 「わたし」が父であり、息子であるなら、「母」もまた「母」であり、「子」(娘)でもある。ここで季村が「娘」ではなく「子」ということばをつかっているは、「父-息子」「母-娘」は「親-子」という「関係」に抽象化できるからだろう。
 2連目では、ひとが「生きる」とき、そこに「親-子」という関係があるということを明確にしている。
 「わたし」は「わたし」の「息子」の「父」であると同時に、「父」と「母」の「子」なのである。--季村は、ここでは、そういう「肉親」の「いのち」の関係を見ている。その関係のなかへ突然、3連目が飛びこんでくる。

波の火につつまれる

 これはきのう読んだ「アピ」の「波の火がおそう」と重なり合う。「波の火がおそ」い、「波の火につつまれる」。
 この「波の火」は、南海の島の「戦場」のようにも読むことができるし、また空襲で焼き尽くされる「街」とも読むことができる。

うごめきのなかの
おまえを包む精霊
王である父とその息の子が
救出に向かって
波の火をくぐったこと

 「救出」は「だれを」救出に? 母を想定するならば、「波の火」が暴れているのは「空襲の街」になる。「父」を想定するならば、南海へ出生した父のいる「戦場」になる。その二つは地理的には離れているが、「息」(肉体をとおってあふれだすもの)にとっては、そんな距離など問題ではない。どれだけ空間的に(地理的に)離れていても、「息」はよびかけあう。

 あ、こんなことを考えると、ますますわからなくなる。
 季村は何を問題にしているのか。「いま」「ここ」は「どこ」なのか。
 いまは戦争中で、母が空襲の火のなかを逃げ回っているのか。あるいは、父が南海で炎につつまれているのか。「わたし」は生まれているのか。母の胎内にいるのか。
 それは、どんな理解の仕方でもかまわない。どんな「関係」でもかまわない。季村は、いくつもの「関係」が「ある」と、ただそれだけを行っている。
 「関係」はもんだいではなく、「ある」ことが大切なのだ。

大地にたたきつけられ
父たることを知り
子であることを知らされ
ともに立ち上がったことが
ふしぎで、ある

遠ざかっているのに
森の精霊にいざなわれ、
ざわめきのなかに声を感じ取れるのが
ふしぎ、である

おまえとわたしが死んでも
森や波は動きをとめないだろうことが
ふしぎ、である
 
 「ある」というのは、「もの」があると同時に「こと」があることだ。
 「こと」は何度も季村の詩に出てくる。「もの」(人間)と違って「こと」は見えない。父は見えても、父である「こと」は見えない。息子は見えても、息子である「こと」は見えない。
 その見える「ある」と見えない「こと」をつなぐのが「なる」かもしれない。
 「わたし」は「父」に「なる」、そのとき「息子」は「息子」に「なる」。そして、「わたし」は「父」として、ここに「ある」。その関係を意識すると「こと」が、意識のなかに立ちあがってくる。意識のなかで見えてくる。

三つの巴になった三叉路から
野犬が飛び出し
ことばが目覚めたこと

ふしぎ、である

 「こと」は「ことば」になる。(三つの巴、三叉路と繰り返される「三」についても書かなければならないのだろうけれど、長くなりすぎるので省略する。父、母、子、でもいいし、「ある」「なる」「こと」でもいいのだが、いま、ここをつくる基本を季村は「三」を中心にして考えている。--これは、詩集を読んで確かめてください。)
 「こと」は「ことば」にしなければならない。それは簡単には「なる」のではない。「ことば」に「する」という意思があって、はじめて「なる」のだ。

 あ、私は、ふいに『日々の、みすか』を思い出した。阪神大震災後に書かれた季村の詩集だ。そこでは、阪神大震災という「こと」が「ことば」に「なる」までの過程が書かれていた。その詩集もまた、「こと」を「ことば」に「する」詩集だったのだ。「ことば」にすることで「こと」をはっきりと自分の肉体に取り戻すのだ。「こと」を自分の肉体に取り戻したとき、ひとはほんとうに「生きる」のである。
 「生かされる」を超えて「生きる」。

 ここまで書いてきて、やっと「ことばの気迫」がわかった。「生かされる」から「生きる」への強い意思の転換。その激しい熱意。それが季村のことばに満ちている。そして、そのことばの気迫が強いために、「こと」と「こと」をつなぐ関係をときどきショートさせてしまうのだ。「こと」と「こと」はほんとうは離れている。離れているけれど、それを季村は、一点に凝縮する。離れた「こと・は(端)」と「こと・は(端)」が凝縮し「こと・ば(場)」になる感じだ。凝縮しすぎ、絡み合い、それがときどき「矛盾」や「間違い」に見える。たとえば、1連目の「わたしが、父であり、/おまえが、息子であるこ」のように。しかし、それは「矛盾」でもなければ「間違い」でもない。固く結晶しすぎた「真実」なのである。その真実のなかをとおって、生きていることの「光」が鮮やかに飛び出してくる。そのときの輝きが、この詩集の全体からあふれている。

 まだ2篇の感想を書いただけなのに、私は、20冊の詩集を読んで、あれこれ思ってしまったような、激しい興奮状態のなかにいる。
 この詩集はおもしろい。
 アマゾン・コムの「アフリエイト」のリストにはまだ入っていないので、書店か、発行元に問い合わせ、ぜひ、買って読んでください。これを読まないと2011年は始まらない。
 発行元の書肆山田は、
 東京都豊島区南池袋2-8-5-301
 電話03-3988-7467


窓の微風―モダニズム詩断層
季村 敏夫
みずのわ出版
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季村敏夫『ノミトビヨシマルの独言』

2011-01-15 23:59:59 | 詩集
季村敏夫『ノミトビヨシマルの独言』(書肆山田、2011年01月17日発行)

 読みはじめた瞬間に、不思議な緊張の予感につつまれる詩集というものがある。ことばがぱっと目に飛びこんでくる。ひとつひとつのことばが区別がつかないくらいに鮮やかにいっせいに目に飛び込んでくる。何もわからないのだけれど、すべてがわかったような感じになる。すべてがわかっているはずなのに、なにもわからないという気持ちになる。ここにはたいへんなものが「ある」。それをしっかり見なければいけない、読まなければいけない。そういう気持ちになる。
 ことばに気迫がある。ことばの気迫が、瞬間的に立ち上がってくるのだ。
 季村敏夫『ノミトビヒヨシマルの独言』が、そういう詩集である。巻頭の詩で、私は、瞬間的に背筋がのびるのを感じた。ページを開いた瞬間に、強烈な緊張を感じたのだ。気迫を感じ、はっとしたのである。
 何が、どのことばが、この気迫の発火点(?)なのだろうか。私はおそるおそるという感じと、早く見極めたいという矛盾した気持ちで「アピ」読みはじめた。

風は南へ
これは夏の声明(しょうみょう)
風のこどもへの断片

南へといそぐ息の舟を
あらわれては消える
波の火がおそう

空中の息は
ほかのだれかの息にひかれ
風の源に帰ろうと踊る

手をとりあう波の手
手が手にかさなる微風が
南へとはなたれる

* アピ=マレー語で火。アピはかつて戦場だった。

 何が書いてあるか、私にはわからない。「夏」はわかる。季節だ。「南」もわかる。方角だ。次の「これは夏への声明」がわからない。「これ」がわからないのである。声明というのは、私には葬式のときのお坊さんの合唱(?)のようなものである。「これ」というのは「風」で、風が夏への声明というのだろうか。でも、そうすると3行目の「風のこどもへの断片」というのは? 「これ」が「風」だとすると、「風」は「風のこどもへの断片」となる。「風」と「風のこども」のちがいは? 風に「こども」なんている? いや、2行目と3行目は、そんな具合にはつながっていないのだ。「声明」を言いなおしたのが3行目である。「声明」は「風のこどもへの断片」である。では、何の断片?
 私は2行目を読み返す。「これ(風)は夏への声明」。そのとき、「夏」とは何? 単なる季節の名前ではないのだろう。そこには「死者」がいるのだ。死者とつながる何か。そして、3行目とつないで考えるなら、「風」の「断片」が「声明」ということになる。でも風のどんな断片? 声明だから「音」? それとも音にならない光? 
 わからないまま、その3行がひとかたまりとなって「これ」に結晶のようにして凝固するのを感じる。すべてが「これ」なのだ。季村の感じた「何か」の総称、ひとかたまりのものが「これ」なのだと思う。
 風、南、夏、声明、こども、断片。
 これは切り離せない。切り離せないというのは、こんがらがった糸のようなものである。切り離してしまえば、糸は糸の長さを失い、糸でなくなってしまう。こんがらがったまま、「これ」として、そのままもちつづけ、時間をかけてほぐすしかないのである。こんがらがった糸をほぐすように、あっちをひっぱり、こっちをひっぱり、私自身を別の形にするしかないのである。いや、そうではなくて、そんなことをしたら「糸のかたまり」は「かたまり」ではなく、弱々しい1本の糸になってしまう。季村が書いているのは、あくまで「糸のかたまな」のようなものなのだから、私自身が別の形になって、その糸の端から別の端までたどってみるしかないのである。それをたどりおえたとき、糸のかたまりが外から見ると小さいけれど、内部に巨大な宇宙をかかえていることがわかるのだ。
 なにもわからないまま、風、南、夏、声明、こども、断片の濃密な緊張感に、私は「ブラックホール」のようなものを感じたのだ。そこにすべてがある。そこにすべてがのみこまれ、そこから目にみえない爆発の光が発している。そんなようなものを見たように、緊張したのだ。
 わたからないまま、そのときそのときにあらわれてきた印象を書いておく。
 2連目。
 「息」。これは「声明」に通じる。声明は、おぼうさんの声だ。息が肉体をとおって、私の知らないことばになって、ただ「音」としてかけまわる。私はお経?の意味を、そのことばをまったく知らない。外国語の「音」と何もかわらない。ただ、「音」なのだけれど、その「音」には息を感じる。そして、そこに生きている「いのち」を感じる。「息の舟」は生きている人間を想像させる。
 「波の火」。びっくりしてしまう。波は水である。波に火はありえない。比喩としても「火の波」はあっても「波の火」はないだろう。矛盾している、を超えて、間違っている。間違ったことばである。
 のだけれど。
 あ、これなのだ。このことばが詩のなかから特別な光を発して私の眼のなかに飛びこんできたのだ。このことばが私を緊張させたのだ、と読み返してはっきりわかる。
 「火の波」ということばは間違っている。「学校教科書」の文法(あるいは文章教室?)からみると、あってはならない表現である。けれど、そのあってはならないものが、ここに「ある」。間違いなく、ここに「ある」。そして、そこに「ある」ことによって、そのことばとが「ない」ときには言い表せないことを言おうとして、ふんばっている。
 そこにことばの「気迫」そのものがある。
 だれも言っていない。そのことを、「波の火」は言おうとしているのだ。
 南へ向かう舟--そして、そこに乗っている息、つまり人間のいのちにとって、その波こそは、彼らを襲い、焼き尽くす何かである。それは息を、いのちを拒絶するもの、しかもいのちを超越したものである。その「超越」を特権的に語るのが「波の火」という「間違い」である。「間違い」のなかには特権的なもの、いままでそこに存在しなかった力があるのだ。

 3連目。
 「空中の息」。これは、死んでしまったいのちの絶叫である。声明のようにおだやかな(?)ものではない。声明になれない声。声明を必要とする声である。「ほかのだれかの息」は声明のように思える。声明に導かれ(ひかれ)、「空中の息」は「風の源」へ帰ろうとする。舟が南へ向かっているなら、北へ帰ろうとする。息が生まれた場所へ帰ろうとする。だが、北へ帰ろうにも、すでに舟は「波の火」のなか。どこへも帰れないだろう。そこには、ただ「空中の息」をなぐさめるための「声明」と、それにすがる「息」の不可能のおどりがあるだけである。

 4連目。
 「手をとりあう波の手」。「波の火」に襲われて、「息」どうなったのだろう。「波」になってしまったのか。ただし、このとき「波」は「火」ではないだろう。「火」が過ぎ去って、波も小さくなっている。ないでいる。そこにあるのは「水」だ。どこまでも広がる水だ。--というようなことを季村はことばにしていないのだが、私には、そういう「情景」が見える。「手が手にかさなる」は無数の息、波の火に襲われて、苦しみ、そして声明になぐさめられておだやかになった息--「微風」に思える。おだやかな海(波の火が消えた海)に吹いている「微風」。それはゆっくりゆっくりと「南」へ向かう。このとき、その「風」は「南へといそぐ舟」の「息」ではない。きっと「風のこども」である。「風のこども」が手に手をかさねて、おだやかな波の下にある「手」を感じながら、南へ向かう。

 私の印象は、3連目を中心にして、何かねじれてしまう。1連目に書かれている「風」と「風のこども」ということばの影響を受けて、どこまでが「風」(息)であり、それがなぜ「風の子ども(息のこども)」にすりかわるのか、きちんと説明できない。
 ほぐれた糸のこっちをひっぱったつもりが、あっちをひっぱっていた、という感じである。ほぐすつもりが逆に固くしてしまう、という感じである。
 こんなめんどうな比喩をつかわずにいえば、ようするに、わけがわからないということになるのだが、わけがわからないのだが、ここに季村の書こうとしていること、その「かたまり」のすべてが凝縮しているということはわかる。直感的にわかる。ことばの「気迫」が、それをしっかり見ろ、と私に命令している。

 わっ、どうしようと、私は悩んでしまう。
 読まなければよかったかなあ。読まなければ、季村のことばの世界を知らずに過ごせたのになあ。でも、読みたい。読んで、読んで、読んで、私のぼんやりしたことばを捨て去ってしまいたい。季村のことばの緊張感、ことばの気迫に押されるままに、ここではないどこかへ行ってしまいたい。矛盾した気持ちが私のなかで渦巻く。
 1篇読んだだけだが、たいへんな詩集であると感じてしまった。


木端微塵
季村 敏夫
書肆山田
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