『えてるにたす』。「菜園の妖術」のつづき。
ことばが行を跨いで行く。これは西脇の詩に頻繁することだけれど、「せつない世界に待つ人ともなく/なつて」というのは、「待つ人もなく」ということば自体で完結して見えるから、ちょっと困る。困る、というのは、あ、騙された、という感じである。「待つ人もなく」で「意味」を考えてしまったのに、そうじゃないのか、ずるいよ、という感じである。
私は「誤読」が大好きだが、ひとの(西脇の)、「だまし」にのせられて「誤読」するのはいやなのだ。「誤読」はあくまで自分自身で「誤読」したい。
それが私のわがままだとしたら、西脇の「だまし」はまた、西脇のわがままということになるだろう。
--と、書きながら、私は、まあ、西脇を非難しているわけではなく、楽しんでいるのだけれど。
という2行は、そうした行のわたり(またぎ越し)のほかにもおもしろい要素がある。せつ「な」い世界を待つ人も「な」く、「な」つて「な」でしこをもつオランダ人の、と「な」の音の繰り返しの、その最中に、「待(ま)つ」「もつ」と「ま行」の音がはさまる。さらに「つ」の音もそれに加えることができるかもしれないが、この「ま」つ、「も」つの音の変化が「な」に挟まれてあるのは、なんとも不思議な美しさがある。
「待つ/人も」「もつ/オランダ/人の」の、ふいに割り込んでくる「オランダ」という音もおもしろい。「オランダ」がわりこむことで「ひと」が「じん」に変わる。
これは、西脇が考えてそうしているのか、本能的にそうしているのかわからないが、そういうおもしろさが西脇にはいつもついてくる。
行のわたり(またぎ越し)では、
でも、私はだまされてしまう。「のこされてゆくこの坂の家にたれ」の最後の「たれ」を「誰」と読んでしまうのである。その前に「人」「オランダ人」「若き男」と「人間」がつづけて出てくるからだと思う。
こんなことを思ってしまうのは、西脇の「っ」の表記が常に「つ」であるからかもしれない。旧かなつかいだからかもしれない。それに引きずられて「たれ」を旧かなで書かれたもの、「だれ」と読むのだ、という意識が動いてしまうのかもしれない。
「さがる白ばなのはぎのしげみに」には濁音の美しさがある。鼻濁音の美しい繰り返しがある。
その次の1行は、この繰り返される音が引き出した1行だと思う。
「ゆまり」。尿。小便をする。しかし、「尿」や「小便」では音が美しくない。
この「ゆまり」は、それまでまったく登場しなかった音である。「ゆまりする」という音が、音自体として美しい。
この「ゆまり」以前の音は、なんといえばいいのだろう--一種、技巧の音という感じがするのだが、この「ゆまり」は技巧を離れて、どこか、とんでもないところからふいにやってきた音楽そのもの、天から降ってきた音楽のように感じられるのだ。
こんな印象は印象にすぎないのだが……。
このとき「きこえる」「音」は、尿をする、その尿の音ではなく、私には「ゆまり」ということばそのものの「音」に感じられる。
「音」そのものが、ことばとも、それを指し示す現象とも離れて、純粋な音楽になる女「神」がもたらしてくれた音楽だ。そのとき、やってきたのは(訪れたのは)、「音」そのも、神をも超越した音楽。
「おとずれ」のなかには「音」がある。「音・ずれ」としての「訪れ」。
「意味」にはなりえない、こんな「たわごと」を書くことのが、私はとても好きだ。
かんむりのひもをといて今か今かと
待つていたのにすずきの吸物も
なめてしまつたこのうすあかりの
せつない世界に待つ人もなく
なつてなでしこをもつオランダ人の
若木男の肖像だけがくらがりに
のこされてゆくこの坂の家にたれ
さがる白ばなのはぎのしげみに
ひとりのさびしい旅人がゆまりする
音がきこえるばかりだ
これもこじきの女神の
おとずれとなりうれしく思える
ことばが行を跨いで行く。これは西脇の詩に頻繁することだけれど、「せつない世界に待つ人ともなく/なつて」というのは、「待つ人もなく」ということば自体で完結して見えるから、ちょっと困る。困る、というのは、あ、騙された、という感じである。「待つ人もなく」で「意味」を考えてしまったのに、そうじゃないのか、ずるいよ、という感じである。
私は「誤読」が大好きだが、ひとの(西脇の)、「だまし」にのせられて「誤読」するのはいやなのだ。「誤読」はあくまで自分自身で「誤読」したい。
それが私のわがままだとしたら、西脇の「だまし」はまた、西脇のわがままということになるだろう。
--と、書きながら、私は、まあ、西脇を非難しているわけではなく、楽しんでいるのだけれど。
せつない世界に待つ人もなく
なつてなでしこをもつオランダ人の
という2行は、そうした行のわたり(またぎ越し)のほかにもおもしろい要素がある。せつ「な」い世界を待つ人も「な」く、「な」つて「な」でしこをもつオランダ人の、と「な」の音の繰り返しの、その最中に、「待(ま)つ」「もつ」と「ま行」の音がはさまる。さらに「つ」の音もそれに加えることができるかもしれないが、この「ま」つ、「も」つの音の変化が「な」に挟まれてあるのは、なんとも不思議な美しさがある。
「待つ/人も」「もつ/オランダ/人の」の、ふいに割り込んでくる「オランダ」という音もおもしろい。「オランダ」がわりこむことで「ひと」が「じん」に変わる。
これは、西脇が考えてそうしているのか、本能的にそうしているのかわからないが、そういうおもしろさが西脇にはいつもついてくる。
行のわたり(またぎ越し)では、
のこされてゆくこの坂の家にたれ
さがる白ばなのはぎのしげみに
でも、私はだまされてしまう。「のこされてゆくこの坂の家にたれ」の最後の「たれ」を「誰」と読んでしまうのである。その前に「人」「オランダ人」「若き男」と「人間」がつづけて出てくるからだと思う。
こんなことを思ってしまうのは、西脇の「っ」の表記が常に「つ」であるからかもしれない。旧かなつかいだからかもしれない。それに引きずられて「たれ」を旧かなで書かれたもの、「だれ」と読むのだ、という意識が動いてしまうのかもしれない。
「さがる白ばなのはぎのしげみに」には濁音の美しさがある。鼻濁音の美しい繰り返しがある。
その次の1行は、この繰り返される音が引き出した1行だと思う。
ひとりのさびしい旅人がゆまりする
「ゆまり」。尿。小便をする。しかし、「尿」や「小便」では音が美しくない。
この「ゆまり」は、それまでまったく登場しなかった音である。「ゆまりする」という音が、音自体として美しい。
この「ゆまり」以前の音は、なんといえばいいのだろう--一種、技巧の音という感じがするのだが、この「ゆまり」は技巧を離れて、どこか、とんでもないところからふいにやってきた音楽そのもの、天から降ってきた音楽のように感じられるのだ。
こんな印象は印象にすぎないのだが……。
ひとりのさびしい旅人がゆまりする
音がきこえるばかりだ
これもこじきの女神の
おとずれとなりうれしく思える
このとき「きこえる」「音」は、尿をする、その尿の音ではなく、私には「ゆまり」ということばそのものの「音」に感じられる。
「音」そのものが、ことばとも、それを指し示す現象とも離れて、純粋な音楽になる女「神」がもたらしてくれた音楽だ。そのとき、やってきたのは(訪れたのは)、「音」そのも、神をも超越した音楽。
「おとずれ」のなかには「音」がある。「音・ずれ」としての「訪れ」。
「意味」にはなりえない、こんな「たわごと」を書くことのが、私はとても好きだ。
西脇順三郎の絵画 | |
西脇 順三郎 | |
恒文社 |