詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山鹿なみ子『メオト詩篇』

2011-01-15 09:09:58 | 詩集
山鹿なみ子『メオト詩篇』(ふらんす堂、2010年09月11日発行)

 山鹿なみ子『メオト詩篇』は、ことばに頼っている詩である。頼っているというのは、知っていることばを組み合わせることで、いままで存在しなかった「世界」を書こうとしている、という意味である。
 「居たのだろうか」。

氷点下二十度
二羽の
蝶が

 氷点下二十度の世界には、現実には蝶はいない。その非現実の世界、山鹿が書くまでは存在しなかった世界を、山鹿はことばで出現させる。
 詩全体が「比喩」なのだ。対象を明示しない「比喩」なのだ。いや、対象を明示できない「比喩」なのだ。明示できないのは、それが実際には存在しないからだ。
 「君は薔薇だ」というときの「薔薇」は比喩。その対象が「君」であるのと比較するとわかる。
 その存在しないものを、山鹿はなんとか書き表したいと思っている。これは詩のひとつの方向性である。
 このとき問題は、どれだけ「定型」に頼らずにことばを動かすかである。「定型」に頼ると、存在しないはずの世界が、すでに存在している世界にひっぱられ、せっかくのことばが全部「うそ」になる。山鹿がほんとうに、そのいままで存在しなかった世界と触れ合っているのか、わからなくなる。「ほんとう」を書いているのではなく、「うそ」を書いている。しかも、「うそ」をついてもばれないと思って書いている、という印象が生まれてくる。

黒い

広げ
たわむれ
風に
ただよい
雪の
蜜を
吸う

 「たわむれ」「ただよい」--この2行。これは「氷点下二十度」の世界でのみありうる動きではなく、むしろ、多くの「文学」に登場済みの、明るい陽射し、おだやかな風の吹いている「定型」の世界である。
 もちろん「氷点下二十度」にそういう動きがあってはいけないというのではないが、「定型」を感じさせてはいけない。「氷点下二十度」の「たわむれ」「ただよい」をつかみとって書かないと、「定型」を利用した「うそ」になってしまう。
 そこに「うそ」があるから、せっかく書いた「雪の/蜜を/吸う」というすばらしく透明な「真実」がちぐはぐになってしまう。
 「雪」に「蜜」など、ない--ないから、それを「吸う」という動詞で固く結びつけるとき、「氷点下二十度」と「黒い」「蝶」が鮮やかに動きだす。
 --のだけれど。
 その前の「たわむれ」「ただよう」が、でも、これは書いてみただけ、と後ろを向いて「べろ」を出してしまう。

雪原を
腰まで
沈ませながら
黒衣の男
蝶を
何年も
追いかけた来た

その
痕跡
すべて消され
男は
蝶は
何処へ

 私なら、「たわむれ」「ただよい」という蝶の描写の「定型」に殺され、消えてしまった。もう二度と存在できなくなってしまった、と答えよう。
 「定型」を破らないかぎり、詩は生まれない。

 ことばの静かな詩もあるのだが、この一篇で、私の印象は変わってしまった。ほんとうは、ほかの詩を紹介すべきなのかもしれないけれど、気になったので、書いておく。





詩集・メオト詩篇
山鹿 なみ子
ふらんす堂
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粕谷栄市「笛」、財部鳥子「蒼耳(ツァンアル)」

2011-01-14 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
粕谷栄市「笛」、財部鳥子「蒼耳(ツァンアル)」(「鶺鴒」κ冬号、2011年01月10日発行)

 粕谷栄市「笛」は詩集『遠い 川』(思潮社)の1篇である、と言われたら、そうだと信じてしまう。どこに違いがあるかわからない。『遠い 川』の作品群自体、どれがどれだか私にはもうわからなくなっている。まったく同じである。

 声を上げる間もなく、笛は、ゆらゆら、湖の水のなかに沈んでゆき、やがて、
そのまま、見えなくなった。
 この世には、一度、それを失うと、ふたたび、取り戻しようもないものがあ
る。ゆらゆら、揺れながら、笛は、優しく、そのことを伝えて、暗い水に消え
ていった。
 月明かりの湖も、舳の灯も、長い黒髪の女も、もとより、私の愛憎の果ての
幻のようなできごとだったから、そんなことがあっても、しかたがなかったの
だ。

 そこに書かれているのは「幻」なのか、「現実」なのか。粕谷は区別をしない。幻と現実の区別は、意味を持たない。それが幻であろうが現実であろうが、ことばが動く。そのことばの動きは、対象が何であれ、同じなのだ。
 もう粕谷のことばはほかに動きようがない。そう感じさせる。どう動いても同じことを書いてしまう。--そして、この変わりなさがとても強烈である。まったく違うことを書いているのに(書かれている題材は毎回違うのに)、同じ動きをする。
 その「同じ」のなかに、永遠がみえる。
 永遠の定義はむずかしい。きっと、どう書いてみても間違うことになるのだろう。だから、それを私は定義しない。ただ、粕谷の「同じ」ことばの動きのなかに、永遠がみえると断定してしまう。
 最初に、そのことに気がついたのは、いつだったのか。砂丘で老人が踊っている詩を読んだときかもしれない。それは何年も前なのか、きのうなのか、あるいは明日なのか。どうも、あやふやである。読んでいないのかもしれない。そんな詩などどこにもない。あるのは、いま、ここに、こうして読んでいる詩だけであり、そのほかは、みんな私が勝手に読み違えたことばが動いているだけなのかもしれない。
 そんな、ありえないことを、私は思ってしまうのである。

 もう書くまい。粕谷の詩については、もう書くまい。粕谷の詩について書くかわりに、もっとほかのひとの詩を読んだときの感想を書こう--いつもそう思うのだが、読むと、どうしても書きたくなる。何か新しい発見(感想)が書けるとは思わないのだが、なぜかしら、読んだということだけでも書いておかないと、何か大切なものを手のひらからこぼしているような気持ちになるのだ。



 財部鳥子「蒼耳(ツァンアル)」は、病気で薬を飲んでいるときのことを書いている。中国にいたときの、幼い日の思い出である。

陳先生の煎薬をコップからもらってきてわたしに飲ませた母
それから筋向いの漢方の店で
「蒼耳」と「薄荷」を処方してもらった
まいにち白い粥を食べる
煎じた「蒼耳」と「薄荷」を飲む

「蒼耳」の小さな実には棘があって
狼の背に乗って移動するということだった
そして振り落とされたところで繁殖する

そのころのわたしは 粥と漢方
やさしい植物だけで出来ていた
猫のように「薄荷」で酔って寝ていた
空には耳があると思っていた

 この最後の1行がとても好きだ。
 この詩では、財部が、なぜ「空には耳があると思っていた」のか、具体的には書かれていない。次のページをめくると、別の詩がはじまり、私は思わず、そのページ表・裏の間に別のページがあるのではないか、と紙をこすって、剥がそうとしたくらいである。突然さにびっくりし、その突然の向こう側にあるもの(財部の側にあるもの)を絶対に見たいと思ったのだ。それくらい、好きになったのだ。

 でも、ここには何も書かれていない。
 書かれていないけれど--書かれている、とも私は感じる。私は「誤読」するのだ。私は「蒼耳」というものを知らない。財部の書いていることばから推測すると、草か藪(木)の実であるだろう。それはイヌダテのように狼の背中(体)にくっついてどこかへ行く。(行くのは狼だけれど。)そして、どこかで大地に根付き、そこで生きる。
 その「蒼耳」の運命を想像するとき、財部は「蒼耳」そのものになっている。狼の背中にとって、ここではないどこかへ行って、そこで元気に、真新しい命を生きるのだ。病気の体で、そういう夢を見ている。
 そして、どこともわからない広い野原で「蒼耳」になって成長していくとき、財部の肉体は空にまで届く。そして、空で、「耳」になる。「蒼耳」は「蒼空」の「耳」であり、財部は「空」の「耳」になって、大地の「蒼耳」を見下ろしている。(耳が見下ろすというのは、変だけれど、そういう変なことが可能なのが詩なのである。)
 あるいは、だれもいない大地で「蒼耳」になってそよぐとき、その「耳」は「蒼空」を渡っていく「声」を聞く。その「声」は「蒼耳」は狼の背中に乗って遠くへゆき、そこで新しい命になるという物語を語っている。
 どっちでもいい。
 病気で寝ている財部を超えて、「蒼耳」ということばのなかにある「耳」が、遠くへ行って、そこで何かしらの夢をみる、夢の物語を聞く……。
 その、ここに書かれていない「声」が最後の1行から、ふいに聞こえてきた。私は、そう感じたのだ。

財部鳥子詩集 (現代詩文庫)
財部 鳥子
思潮社
続・粕谷栄市詩集 (現代詩文庫)
粕谷 栄市
思潮社
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荒木時彦『sketches』

2011-01-13 23:59:59 | 詩集
荒木時彦『sketches』(書肆山田、2010年12月20日発行)

 荒木時彦『sketches』は風変わりな詩集である。詩集というより短編小説と思った方がいいかもしれない。複数の人物が出てくる。隣人らしい。隣人と言っても距離がまったくわからない。--そして、私はいま「距離がわからない」と書いたのだが、この「距離」というは、荒木の場合、「離れている」ではなく「くっついている」のである。からみあっているのである。
 詩をことこまかに分析するのはかなりめんどうなので(特に私の場合、荒木の作品に登場する人物ではないけど視力に限界があるので)、はしょって書いてしまうのだが……。たとえば登場人物を、ABCと仮定する。そのAとBは別人のはずであり、別々の家に住んでいるのだが、それぞれを特定する刻印というものをもたない。区別がつかない。そのために、ほんとうは離れているのに、くっついてみえてしまう。
 たとえば、

記憶と事実が違うことについて、現実的な問題がなければ、それはとりあえず置いておけばよいということだ。それは、問題の棚上げではなく、鷹揚さもときには必要だということだ。間違いがあれば、友人が正してくれる。

 このことばを発したのはだれだろう。目の見えなくなった機織り職人(A)だろうか。隣人(B)だろうか。あるいは娘(C)だろうか。娘のこども(孫)だろうか。--ページを順に繰っていけば、機織り職人のような気がするが、そうでなければならない理由など何もない。
 私はたまたまページを最初から繰り、ページの順に荒木のことばを読んでいるが、それは私のつくりだした「時間軸」であって、荒木、あるいは荒木のことばの発話者の「時間軸」とは無関係である。
 私たちは、「いま」「ここ」に生きている人間が同じ「時間軸」を生きていると考えがちだが、同じ「時間軸」を生きているという保証はまったくない。目の前のひとが、私のまったく想像もしなかった「過去」を目の前に繰り広げても、それを防ぐ方法などない。それぞれの人間の「時間」は「離れている」のか「くっついている」のか、その距離感はあるようでもあるし、ないようでもあるのだ。

 --そんなことが、あっていいのか。

 いいか、悪いかは、とてもむずかしい。けれど、いま、ここに、荒木のことばがあることは「事実」である。(事実ではない、と強引にいうこともできるかもしれないが。)
 そして、そのことばは、あらゆる「時間軸」を拒絶している。短編小説--物語なのに、ストーリーに従属することを拒絶して、ばらばらになったページのように存在している。そして、遠く離れたページと接続することを渇望しているようにもみえる。ページはとじられているが、そのとじられていることが逆にほんとうはばらばらなのだということを意識させるようである。
 言い換えると、詩集は、1ページ目と2ページ目を繋げて読みなさい。そこに一定の「距離」があると仮定して読みなさいと命じているのだが、ことばは、とりあえず、いま、ここにあるだけであって、ほんとうの「接続」(あるいは切断)は、また別の形でこそ存在すると、それぞれの断章が語っている。まるで、絶望のように。透明に。そのことばは、ページのとじ糸を拒絶しているのだ。
 別なことばでいえば、ことばは、ストーリーに従属することを拒絶して、そこで孤立している。そういうページがいくつもある、というだけなのである。

 孤立する文体。--荒木が試みているのは、それかもしれない。ストーリーを拒絶し、孤立する。
 孤立は「距離」ではなく、「距離」そのものをも拒絶した存在形式である。「離れている」のではなく、何とでも「くっくつ」権利をもったまま、ストーリーの時間を中断させる形式なのである。
 その形式を、荒木は、詩と定義しているのかもしれない。

疑うということは、それが是か否かについて迷うことだ。人はそれを確かめた時点で納得する。もし確かめられなければ、そのうち忘れられてしまうこともあるであろう。しかし、疑い続けるということは可能である。一生をかけて。自分の生の是否について。

 ふいに登場する「哲学的時間」。これを先に引用した部分に接続するとどうなるか。あるいは、先に引用した部分から切断するとどうなるか。
 これは、とてもむずかしい問題だ。
 たぶん、何もしないで、そこにそのまま、そのことばが存在するにまかせておけばいいのだろう。孤立させておくしかないのだろう。もし何かに接続させなければならないとしたら、それは他の断章ではなく、読者一人一人の個人的事情と接続させるべきなのだ。あるいは、読者が、そのことばを自分の内部から切り離し、そこにほうりだすべきなのだ。それを読むことによって。
 接続も切断も、先の引用部分を回避し、別の断章(スケッチ)との間でも関係を回避し、ただ、読み手の肉体のなかの断章と接続させる--そのとき物語(ストーリー)は豊かになるだろう。読者のものになるだろう。
 筆者のことばを読者の体験でからめとることを「誤読」というが、「誤読」以外に、ここに書かれていることばを接続させる方法はない。

 孤立したことば同士の「距離」は、あって、ないのだ。
 それは、孤立することで、あらゆることばに対して開かれるということでもあるのだ。拒絶と受容は矛盾した概念だが、詩においては、矛盾というものは存在しない。
 詩そのものが矛盾であるから。



 この詩集は、もしかすると、耳でことばを聞きとれるひとには、もうひとつ別の姿をみせるかもしれない。
 人それぞれには「声」がある。それぞれの断章の距離を私はつかみかねたが、それは文字を読むからかもしれない。そこに「声」を聞き取るなら、また別個の空間が新しい距離とともに浮かび上がるだろう。どの断章がどの断章と「和音」をつくっているのか、はっきりと聞き取れるだろう。そこに、くっきりした音楽が浮かび上がってくるだろう。
 このスケッチから「声」の距離をつかみ取るには、私の耳は役に立たない。私は音痴だった--とあらためて思い知らされた。
 いつか、もっと耳の力が強くなったら、この詩集をもう一度読み返してみたい。

静かな祝祭―パパゲーノとその後日談
荒木 時彦
草原詩社

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江代充「諸物」

2011-01-12 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
江代充「諸物」(「現代詩手帖」2011年01月号)

 江代充「諸物」の文体は間接的な手触りがある。そこに書かれていることが、「もの」であるよりも、ことばそのもの、という感じがある。まず、ことばそのものに出会い、その不思議な手触りを経たのちに、その先にある「もの」(世界)に出会う--そういう感じがいつでもする。

戸外の日の当たるやせた道に
人の身の丈にさえぎられ
背伸びをし
物を干している叔母の姿がみえた

 ここから浮かび上がる「世界」は叔母が洗濯物を干している姿である。女の人が洗濯物を干している姿は誰もが見かけたことがあるはずだ。背伸びをしているのは、物干し竿か紐かに洗濯物を懸けるためだろう。「人の身の丈にさえぎられて」と書いてあるが、これはきっとシーツか何かを干していて、その姿そのものは見えないけれど、洗濯物の動きから、洗濯物の向こう側の女の人の動きが、背伸びをしているようにみえるということだろう。そういうとき、たいてい日は差している。日がその場に当たっている。
 --何も不思議なことは書かれていないようにみえる。けれど、とても不思議だ。どうも、私には、そのありふれた風景がすっきりとは見えないのである。一度、ことばの順序を私なりに動かしてみないと、そこに書かれていることがわからないのである。--というと誇張になってしまうが、どうも、何かが違うのである。
 たとえば、1行目。

戸外の日の当たるやせた道に

 「やせた道」という言い方が変であるだけではなく、「戸外に日の当たる」の「戸外」と「日」をわざわざ組み合わせることが変である。家の中はふつうは日が当たらない。戸外というのは日があたる--太陽の光があふれている場所である。江代は「戸外」というだけでは満足できず、「日のあたる」とことばを繰り返しているのである。さらに「戸外」を「やせた道」と言い直し、そこに「日があたる」ということばを重ねているのである。そしてそのとき「道」を修飾するのに「細い」ではなく「やせた」と、わざと、何事かを考えないことにはわからないようなことばをつかうのである。ことばと想像力の「定型」を破るのである。
 と、ここまで書いてきて、私は気づくのだが、江代のことばは、いつも「定型」を破るのである。ことばには、なじみのある動き--このことばの次にはこんなことばという一種の「定型」がある。涙は「落ちる」、あるいは「こぼれる」「あふれる」「かれる」とは言っても、「舞い上がる」「つまずく」とはふつうは言わない。そういう、「わざと」が、江代のことばにはある。「やせた」は「土地」(畑)というような言い方ではつかわれる(定型になっている)が、「やせた道」とはふつうは言わない。
 そういうことばに出会ったとき、私たちは(私だけかもしれないが)、「意味」よりまえに「ことば」そのものに触れるという感じがする。「定型」からみはだして、そこに存在している「ことば」そのものに触れ、不思議な気持ちになるのである。
 詩のつづき。

わたしが手ぶらでその腰の辺りをうろつくと
母もその方へ立って出てゆき
幅のある二つの布を折り返した向こう側から
交互に話しかける
ふたりの女ことばがみとめられた

 たとえば、子どもが(たぶん、江代は子ども時代の記憶を書いている)、外へ出ていくこと、叔母に近づいていくことを「手ぶらで」などとは言わない。ここに「定型破り」がある。さらに、子どもの視線からみえるのが腰の高さだとしても「腰の辺りをうろつく」とは言わない。これも「定型破り」である。さらに、子どもである「わたし」が叔母の方に近づき、それを追いかけるようにして母が家の中から出てくることを「その方へ」「出てゆき」とは言わない。シーツを「幅のある二つの布を折り返した」というふうには描写しないし、話し合うことを「交互に話しかける」とは言わない。叔母と母というふたりとも知っているはずのひとのことを「ふたりの女」とは言わないし、声が聞こえることを「おんなことばがみとめられた」とも言わない。
 江代は、ことばの「定型」を破ることで、そこにつかわれていることばそのものを「不安定」にする。同じ情景を描くにしても、「定型破り」のことばをつかうと、そこには「ことば」が「ことば」だけで存在する瞬間がある。「意味」でも「情景」でもなく、純粋な「ことば」そのものが瞬間的に存在する一瞬がある。
 そのとき、きっと、見慣れた「情景」(風景)の向こうに、錯覚のようにして何かがあらわれる。それは見たことがあるのか、それともこれから見ることになるのか、よくわからない、一種の宙ぶらりんの何かである。
 それを「可能性としての情景」と呼ぶことができるかもしれない。想像力のなかではじめて具体化する情景かもしれない。江代は「定型」のことばを破ることで、その「可能性」を引き寄せようとしている。

花かげもある
ほかげの暗い戸口への帰りぎわに
わたしにも呼び掛ける音声のなかには
叔母が死んだと遺言する
母のことばもあった

 「叔母さんが洗濯物を干しているよ」と言って「わたし」が戸外へ飛び出したとき、追いかけてきた母が、「何かを見間違えたんだよ。叔母さんは死んだんだよ」と「子どものわたし」に言ったのか。母の臨終に立ち会っているとき、そのことを思い出したのか。あるいは、母が洗濯物を干している姿をみて、ふと、遠い昔に叔母の姿を見たと思い、外へ飛び出したことを思い出し、もし、母が死んだら、そのことを思い出すだろうと思ったのか--いく通りにも読むことができる。いく通りにも「誤読」することができる。
 江代のことばはさらにつづく。

わたしはそのことを耳で聞き分け
道の端に草を見
またそれはそこいらを歩こうとさえしながら
部屋に残した母親の骸と
その分け前をみつめ直した

 さて、どう「誤読」しよう。
 どこを歩いても、何をみつめても、母といっしょに見た何かを思い出す。そこにかならず母がいる。「分け前」とは、母がみつめたものの「半分」ということになるかもしれない。それはほんとうは「半分」ではないけれど、「わたし」は「半分」(分け前)と受け止めたいのだ。母がかならずそれをみつめ、そこここにある「諸物」に母の視線が存在すると受け止めたいのだ。
 母は死とともに、母のみつめた「もの」を遠くへ持ち去った。「わたし」はその「残り」(分け前)をみつめている。それを「分け前」であると意識するとき、その意識の中へ母がよみがえってくる。
 その悲しみと、よろこび。

 たとえば、私はそんなふうに「誤読」するのだが、そのとき「分け前」ということばは、ふつうの「分け前」とはまったく違っている。違っていることばを、自然に文体に組み込むために、江代は、それまでの文体で「定型破り」を繰り返したのである。

隅角 ものかくひと
江代 充
思潮社

現代詩手帖 2011年 01月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
思潮社

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フランソワ・オゾン監督「しあわせの雨傘」(★)

2011-01-12 23:37:56 | 映画
監督 フランソワ・オゾン 出演 カトリーヌ・ドヌーヴ、ジェラール・ドパルデュー

 なぜ、こんな映画を見る気になったのかなあ。時間があうのがこの作品しかなかった、というのがいちばん正しい「理由」なのだけれど……。半分、カトリーヌ・ドヌーヴのジャージー姿が見たかった、ということもあるなあ。
 で、フランス映画特有の安っぽいファッション(フランス映画の登場人物は意外なほど服装を変えないね、変なところでリアリティーにこだわっていて、同じ服を着ていることが多いよ)の、とっても安上がりなジャージーのドヌーヴ。だめだよ。ちゃんと走らないと。まあ、年齢的に走れというのはむりなのかもしれないけれど、走るふりをしているだけ。息も上がらなければ汗もかかない。あ、リアリティーを追求した映画じゃないから、関係ない? そう言ってしまうと、まあ、反論のしようがないけれど。

 これ、きっと、映画ではなく、芝居(舞台)なら、大笑いできる作品なんだよなあ。表現媒体を間違えているよなあ。
 荒っぽいストーリーの展開も、舞台なら、直接役者の肉体が見えるから、いきいきとする。でも、映画は、どんなにアップになってもそれは役者の肉体ではなく、どうしたってイメージ。弱いよなあ。細部を飛躍を肉体のパワーで埋めるには。
 70年代のディスコ(?)で、ドヌーヴとドパルデューが踊るもの、まあ、舞台ならもっと、おおーっとどよめきが起きるだろうなあ。最後のドヌーヴの歌も、舞台向きだねえ。舞台なら、最後にドヌーヴが歌って、幕--というのはとてもいいだろうなあ。
 しかし、あくまで、映画だからなあ。
 まあ、映画だから、ドパルデューの不細工な太った肉体、ドヌーヴの緩慢な動きも、それなりに見えるのかもしれないが。



シェルブールの雨傘 デジタルリマスター版(2枚組) [DVD]
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ナボコフ『賜物』(36)

2011-01-12 15:01:37 | ナボコフ・賜物
 フョードル・コンスタンチノヴィチが徒歩で家へ帰る場面。

やりきれない失望と(自分の本の成功をいったんあまりに鮮明に思い描いてしまったせいだ)、左の靴に浸みこんでくる冷たい水と、新しい場所でこれから過ごさなければならない夜の恐怖が組み合わせり、その組み合わせ全体のせいで苦々しさが強まって不安をかき立てられた。
                                 (84ページ)

 「左の靴に浸みこんでくる冷たい水」というのは水の描写だが、水を超えて、肉体が見える。「冷たい」と感じる肉体が見える。この肉体の感覚が、不安、恐怖、苦々しさというこころを、肉体そのものにする。
 感情、心理というのは、人間の「精神」(こころ)の領域の問題だが、精神は精神自体としては存在しない。いつも肉体とともにある。分離できない。
 ナボコフが人間を「一元論」的に考えていたかどうか、はっきりとはわからないが、ナボコフにはこういう一元論的な人間把握の仕方がある。



マーシェンカ (新潮・現代世界の文学)
V・ナボコフ
新潮社
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浜江順子「足舐輪廻」、野村喜和夫「眩暈原論(その4)」ほか

2011-01-11 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
浜江順子「足舐輪廻」、野村喜和夫「眩暈原論(その4)」ほか(「hotel 第2章」26、2011年01月10日発行)

 「hotel 第2章」26では「エロス」を特集している。あ、なつかしい。これが同人誌だなあ、と思う。ことばを競ってみる。こんなふうにことばを動かせるんだぞ、と思ってもいないことを書いてみる。思ってもいないことを書いていても、どこかに「ほんとう」があらわれてくる。--か、どうかは、まあ、そのときの運次第だね。
 その特集のなかでは、浜江順子「足舐輪廻」がおもしろかった。

女は男のない足を夢想しながら、男の足を舐める。男は足があるかのように悦楽すると、死の断片が雪が降り積もるように、積み重なり、いつしか苦行の行為になっていく。

 笑ってしまったのである。おもしろくて。おかしくて。
 できることなら、「女は男のない足を夢想しながら、男の足を舐める。」ではなくて「女は男のない足を舐める。」と「夢想しながら」をやめてもらいたかったなあ。「夢想しながら」だと、想像力が肉体を動かしていく。想像力が「エロス」を駆り立てながら肉体を動かしていく。
 でも、これが浜江のいつものセックスなんだろうなあと思った。ちょっと「のぞき見」をしてしまったような錯覚に陥るのである。
 男の方も、「足があるかのように悦楽する」のか。
 女が「夢想」し、男が「装う」。
 そして、男にはその「装い」(うそをつくこと--肉体をかりたてること)が「苦行」である。それを女は、「あ、苦行をやっている」と感じてしまう。
 ケッサクだなあ。

 私の感じでは「女は男のない足を舐める。」と書いてしまうと、「想像しながら」ということばは「肉体」のなかにのみこまれ、消える。そして、肉体が想像力を封じ込めることによって、想像力が暴走すると思うのだ。想像力が肉体のなかで、ことばにならずに爆発するのだと思う。エクスタシーだね。
 女ではないので、女のことはわからないが、射精すまいと思っても射精してしまうのが男のエクスタシーだね。ここで射精すると思いながら射精するなんて、そんなことをしたって、なんにもならない。うまい具合に射精の瞬間をコントロールできた--なんていうのはばかばかしい自己満足。相手なんか気にせずに暴走すればいい。そうすれば、相手だって、負けまいと思って暴走する。互いに自分ではなくなってしまう。知らない他人になってしまう。それがエロスだろうなあ。
 射精すまい、堪えようと思って、それでも射精してしまう。このとき、裏切っているのは肉体? それとも感情? わからない。このわからなさのなかにこそ、「ほんとう」があるのだと思うけれど、--こんなところで、私自身のエロス論を書いてもしようがないかもしれない。
 浜江の詩のつづき。

エクスタシーは、指先を抑圧させ、過去への装置をコトリと内在させる。そこは潜む蚊を凍らすほどに、情熱の中に氷の刃がある。氷の情熱は鉱物となり、緻密な理性を欲望に埋め込む。

 「情熱の中に氷の刃」、「氷の情熱」--この矛盾に、エロスがある、と浜江は書く。たしかに矛盾の中にエロスはあると思うけれど、そこに書かれていることは、あまりにも「ことば」すぎる。「頭」でつかみとってきた「エロス」だね、これは。「抑圧」「装置」「緻密な理性」「欲望」。--こういう「ことば」って、セックスのとき思い浮かぶ? 思い浮かばないなあ。そういうことばは「肉体」のなから生まれてきた「声」には乗らない。あえぎで、つまり、母音だけで、抑圧、装置、緻密な理性、欲望と言ってみるとわかる。「頭」がよそから借りてきたことばなので、「声」にならないのだ。
 ここには、浜江のセックスの夢、かなえられないエロスが書かれている。それを書くために、浜江は、ことばをどこかから借りてきている。そういう印象が残る作品である。

 野村喜和夫は「オルガスムス屋、かく語りき」という作品を書いている。

オルガン、織る、織る蛾、
ガガガッ、おる、ん、
おるん、おろろん、おるよ、
おれが、ここにおるよ、
おれが、織るよ、折るよ、
織る蛾、折る牙、
おれが、おるが、がが、ガッス、
織るガス、織るガス、すか、すが、
すが、カス、スカスカ、滓、
すがすがしい、巣、織る蛾、
織るよおれが、
澄む巣、住む巣、
すがすがしい巣、ガッス、
ス、素、巣、すむ、
すむ、澄む、住む、
蛾すむ、ガガ住む、すむーす、
巣、無、無っす、蒸す

 ここに書かれていることばは「でたらめ」である。浜江のように「論理」をもっていない。文脈を、ことば自身はもっていない。けれど、そのかわりに、野村の肉体が文脈をもっている。肉体の中にことばにならない文脈があり、それがとぎれとぎれの「オルガスムス」の「音」を、あえがせている。「意味」をことば自身の文脈から剥奪し(強奪し、強姦し?)、ことばを破壊している。
 で、そのとき、そこにあるのは、ことば? 肉体?
 なんだからよくわからない。そのよくわからないことろが、エロスなんだなあ。
 「かす、スカスカ、滓」なんて、あらら、野村さん、お年寄りになったんだねえ、射精は滓を残すようじゃだめだよ。最後の一滴まで飛ばさないと、なんてからかいたくなるようなことばがある。
 どんなにがんばっても、ことばには「ほんとう」があらわれてしまう--と書くと、あ、怒られるかなあ。
 でも書いてしまったから、私は消さないのだ。
 この詩について、欲を書かせてもらうなら、音が音そのものになっていない、という感じが私にはどうしても残ってしまう。谷川俊太郎なら、同じことを、同じ方法で、もっと「音」そのものとして音楽にするだろうなあと思うのだ。
 野村のことばには「音楽」の「楽」が書けているような感じがする。



 野村喜和夫「眩暈原論(その4)」は、最後の部分がおもしろい。

重さの核と軽さの花びらとは、ひとつに渦巻く星雲である。底知れぬ墜落の痕跡が、硬く柔らかく、眩暈主体のうちにある。さんさんと失われてあれ、散るこめかみよ、かすむ仙骨よ。すると苦悩は、たちまちデミウルゴス的な陶酔を装われて。言い換えるなら、眩暈のただなかに眼が固定されると、今度はその眼が、中性子星のビームを放ち、まわりを動かす。眼なんかまわるのもか、まわっているのはまわりだ、眼のまわりで宇宙がものすごくまわるんです。

 借りてきたことば--肉体の外からやってきたことばも、ここまで動き回ると、もう「頭」を離れて、「肉体」そのものになる。ことばをつないでいるのは「意味」の文脈ではない。音を声にだすとことばになる、というよろこび--肉体の歓喜である。
 ここに、野村のエロスとエクスタシーがある。いいかえると、そこにあるのは、ことばなのか、あるいは肉体なのか分別できない状態がある。
 私は、こういう未分別なものか大好きだ。



飛行する沈黙
浜江 順子
思潮社

街の衣のいちまい下の蛇は虹だ
野村 喜和夫
河出書房新社

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高塚謙太郎「スコヴィルの陽のもとで」、望月遊馬「プチトマトがえくぼに見える日」

2011-01-10 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
高塚謙太郎「スコヴィルの陽のもとで」、望月遊馬「プチトマトがえくぼに見える日」(「Aa」2、2011年01月発行)

 高塚謙太郎「スコヴィルの陽のもとで」は、何やらわけのわからない注釈(?)と数字が書いてあるが、私はわけのわからないことはわからなくてもいいことだと考える気楽な性分なので、その部分は無視する。
 で、本文。

染まらない名のらない、ビロードの音波から受け取った一葉の非戦、そして繊維。まだまだ平面への憧れは語られずにいる、もうそうやって完爾完爾になって、ほう、それが鎖骨の精神と、酒そそぎ、そそり立つ、とがった耳、薄葉の陰からきょろきょろするのが、少年よ兎のハバネロ、の、ことも考えてみてほしい。

 これが「わかる」かといえば、わからない。ぜんぜん、わからない。けれど、「染まらない名のらない」の音がおもしろい。「非戦」と「繊維」の響きもおもしろい。何よりも「それが鎖骨の精神と、酒そそぎ、そそり立つ、とがった耳、」という音がおもしろい。「そ」れが「さ」こつの「せ」い「し」んと、「さ」け「そ」「そ」ぎ、「そ」「そ」りたつ、の「さ行」の動きが楽しい。
 そして、

とがった耳、

 私はこれにびっくりしてしまった。ここには「さ行」の音がない。けれど、これがぴったり耳に響くのである。「さ行」に埋もれている「た行」が、突然「さ行」の底から噴出してくる。さこ「つ」、せいしん「と」、そそり「た」「つ」。それが「と」が「っ」「た」と響きあう。「が行」も、それ「が」、そそ「ぎ」、と「が」ったと呼びあう。
 もうこうなると、そこに書かれていることの「意味」は、適当に、後からやってくる。「兎」のような臆病な「もの」(少年?)が、何事かを隠れた状態で見ているのだ。隠れて見ているのだから、そこに起きていることははっきりとは見えない。見えない部分がある。どうしたって、そういうものを想像力で補ってしまうので、世界は歪んでいく--なんてことは書いてはいないのだが、私は、高塚に代わって、世界を歪めて見てしまうのだ。

抱ける心、砕ける心、砕ける巣穴。下から見える鼻の穴、の伸び縮み、側面からのぞき見るテラスの午後、運命はリンパ腺に脱兎のごとくに染んでしま、え、砥。

 「抱ける心」は「砕ける心」なのか。「抱きしめた心」が「砕ける」。それは誰の心? 他人ではなく、自分の心からもしれない。というような、センチメンタルとは無縁な、突然の「砥」。その一文字に、私はテラスに残された「砥石」を思ってしまった。それが見えてしまった。なぜ、砥石? あ、兎をね、つかまえて、包丁で捌いたのだ。兎を捌くために、包丁を研いだのだ--あら、こわい。そんなことは書いてないのに、私は、ここに書かれているのは、兎が見た恐怖の世界に見えてしまうのだ。
 逃げて、逃げて、隠れて、隠れているときの心臓の鼓動が聞こえないようにしっかり抱きしめて押さえていたのに、見つかってしまって、食べられてしまう兎。
 そんな兎を見た。あるいは、そんな兎の人生(?)を想像した昔……。

惑星は永遠にのびる涎のきらきら、のその、らき、の部分がインアウトと駆使され、モンスーンの覇権をつづる、指からにおいたつ、春のβ。

 「きらきら」の「きら」ではなく「らき」。まるで、どの強い眼鏡で、世界を強引に網膜に焼き付けられたような、春の幻。高塚は、絶対、食べられる兎のことを書いているのだと思うなあ。その兎にかわって、ことばを動かしているのだと思うなあ。
 あ、でたらめな「誤読」?
 知っています。私は、高塚のことばを「誤読」しています。というか、正確に読もうという気持ちは私にはない。まるっきり、わからないのだから。「わかる」ための手がかりすら、私にはみつけられない。私は、ただ、音にひかれ、その音を中心にして、その音をもつことばを勝手につなぎ直している。
 次の部分も好きだなあ。

恋。すかさず横にずれ、時速の誤差にこの国の安寧を、祈りを、切株を、

 すかさ「ず」、よこに「ず」れ。「じ」そく。
 「す」か「さ」ず、じ「そ」くの、ご「さ」。

 これは、私には「恋」の定義に思えるのだ。「恋」というのは、何かしらの「誤差」の蓄積。それは瞬時の「ずれ」。何かの錯覚--そこから、恋ははじまる。

枝垂れ桜のよもどす吐息のその毛深いうなじに流し込み、やはりそこを血の源流とさだめて、足をくむ。クッキーのよう。

 わからないねえ。わからないけれど、吐息と毛深いうなじが、いやらしくていいなあ。「恋」だね、と思う。「恋」っていやらしいから、大好き、などと勝手に思うのだ。
 究極の「恋」というのは、好きなものを「食べること」なんじゃないかな?
 兎を食べたとき、きっと兎に恋している。
 書いていないなあ。こんなことは高塚は書いていないなあ。だから、私は、そう読みたいのだ。高塚の書きたかったことを読みたいのではない。わけのわからないことばに出会いながら、私は、私の読みたいものは何か--それを探しているのだ。
 こりかたまったことばをほぐして、とんでもないことを感じさせてくれる「音」としてのことば--それが高塚のことばのなかにある。



 望月遊馬「プチトマトがえくぼに見える日」もわからなさでは同じである。わからないのだけれど、

トマトの皮をむいていくような丁寧な日々ではあったけれども

 あ、「丁寧」とはそういうことなのか、と直感的にわかる。実感する。この「丁寧」のつかいかたはいいなあ、と思う。ぐい、と「暮らし」をつかみどりにする力がある。

トマトの皮をむいていくような丁寧な日々ではあったけれども彼らが生きているということを知らないままだった。マフラーをまた編んでいたのは、母子とはちがう血のつながらない犬のためで、毛糸を人差し指でいつくしむように結んだりほどいたりする。

 「丁寧」は、ここでは「毛糸を人差し指でいつくしむように結んだりほどいたりする。」ということばで言いなおされている。「人差し指」というこだわり、「いつくしむ」というこころの動き、「結んだりほどいたり」という繰り返し。
 望月の書こうとしている「内容(意味)」はどうでもいい--と書いてしまうと望月に申し訳ない気がしないでもないのだが、私は詩の「内容(意味)」ではなく、「丁寧」というそのことばのつかい方そのものに、詩を感じるのだ。
 
 望月のもう一篇の詩「地球儀のように行きだおれたい」の次の部分。

青空のもと、図工と美術がつながっていた。

 ここもいいなあ。「図工」はきっと小学校の「図工」のこと。これが中学へ行くと「美術」にかわる。なぜなんだろう。まあ、そんなことはいいのだけれど、図工と美術はたしかにつながっていないといけないね。つながっている「時代」(空間? 哲学?)がたしかにあるのだ。
 そういうものを「丁寧」の力で望月はつかみとる。
 作品の全体は私にはわからないが、そういう細部が私にはわかる。そんなふうに私は「誤読」する。


さよならニッポン
高塚 謙太郎
思潮社
キョンシー電影大全集 -キョンシー映画作品集-
田中 克典,望月 遊馬,長田 良輔
パレード


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トニー・スコット監督「アンストッパブル」(★★★★)

2011-01-10 13:41:02 | 映画
監督 トニー・スコット 出演 デンゼル・ワシントン、クリス・パイン、ロザリオ・ドーソン

 ★4個は大甘の採点かなあ……。正月映画は「武士の家計簿」「最後の忠臣蔵」はおもしろかったが、洋画には印象的なものがない。で、思わず★4個になってしまった。
 この映画でおもしろいというが、うまいもんだねえと思ったのが、デンゼル・ワシントンの機関車がバックで走ること。そうすると運転士はいつもバックミラーを見ていないといけない。で、カメラは走る機関車を横から(並走する形で)撮るのだけれど、そのとき必然的にデンゼル・ワシントンの顔がカメラの正面を向く。あ、やられたあ、と私は映画づくりとはなんの関係もないのだけれど、思っちゃいましたねえ。普通は、運転士は前を向いて運転する。その顔を正面から撮ると、背景はいつも運転席の後ろ。ぜんぜん風景が変わらないからね。走っている感じがしないからね。走る機関車を横から撮るとき、必然的に風景が入る。その風景の背景にして主役の顔が正面を向いている。これは高等テクニックだなあ。(これで、私は★1個余分につけてもいいかな、という気持ちになったんです。)
 映画は予定調和的な展開。走る貨車をみせるだけなんですが……。そして、あとくされなく、一気に90分で終わるのだけれど。
 ここで苦情というか、欲張りなことを言うと。
 貨物列車をもっとセクシーにしてほしかったなあ。たとえば、スピルバーグの「激突!」。トラックがまるで人間みたいな表情をしていたなあ。この映画では、スピード感はあるのだけれど、意外とはらはらしない。どうしてだろうと、いえば、暴走する貨物列車に「人格」のようなものを感じることができないから。--無人で、ブレーキが故障して、ただ走っているだけなのだから「人格」がないといえばそれまでなのだけれど、うーん、でもやっぱり「人格」がほしい。にくらしさがほしい。怖さがほしい。人間なんかに負けてたまるか、巨大な器械なんだぞ、という乱暴な自己主張があるといいなあ。脱線装置を壊して走るシーンなんかにそういうものを紛れ込ませることはできたと思うのだけれど。
 それから。
 ブレーキがかかって止まるとき、そのとき残念な表情がほしいなあ。デンゼル・ワシントンたちに負ける(?)のはわかりきっている。わかりきっているのだけれど、あ、負けてしまった、悔しい、という感じ、息切れがする感じ、あえぐときの苦しい息づかいがあると、この映画はすごくなる。傑作になる。
 映画はたとえ「もの」をとっても「もの」が人格をもたないかぎり、B級。「もの」が人格をもつと、はらはら、どきどきが強まり、突然A級映画になる。あの「2001年宇宙の旅」も、「ハル」が人格をもって人間に反乱するから傑作になっている。人格、というのは、「顔」でもあるね。「エイリアン」も、変な化け顔をもっているし、「ジョーズ」も顔をもっている。でも、この映画の貨物列車は顔をどこかに置き忘れている。暴走列車なのだけれど、どこかで暴走のスローモーションがあればよかったのかもしれない。スローの方がスピードを感じるということもあるのだから。
 で、もし、そういう貨物列車を撮ることができたとしたらの仮定ことだけれど、デンゼル・ワシントンは顔が優等生過ぎて、やっぱりだめだろうなあ。もっと悪の強い顔がほしいなあ。この映画には。成功するのはわかっているのだけれど、失敗するのもおもしろいかな、と感じさせる顔がほしいなあ。

 どうも、私は欲張りな観客みたいだ。





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司茜『塩っ辛街道』

2011-01-09 23:59:59 | 詩集
司茜『塩っ辛街道』(思潮社、2010年12月16日発行)

 司茜『塩っ辛街道』の「父の手」は忘れられない作品である。

出棺時の
父の手の冷たさを
忘れることはできない

氷 雹 氷柱 雪
凍てつく日の学校の拭き掃除
自転車ごと池に落ちた
少女の日の冷たさ
市場の冷凍庫に閉じ込められた間抜けた主婦の冷たさ
私の冷たさの記憶はそれほどのものだった

父の手の冷たさは
そうではなかった
厳かな冷たさだった

 「厳かな冷たさ」に私は思わず傍線を引いた。あ、「厳か」は、こういう具合につかうのかと思った。そして、その「厳か」とはどういうものだろうか、と考えた。
 「厳か--威儀正しく、近寄りにくいさま。いかめしいさま。」私は「広辞苑」を引いて確かめたが、どうも、司のつかっている「厳か」とは違うような気がするのだ。「近寄りにくい」ということは絶対にない。司は、父の手に触れて感じたのだから、それは「近寄りにくい」ということは絶対に、ない。近寄り、手で触れて、そのとき感じる何かなのだ。
 何だろう。
 読み返して、私はひとつのことに気がつく。「厳か」の前にある1行に気がつく。「そうではなかった」。これである。「厳か」とはこれである。「氷 雹 氷柱 雪」あるいは司がいままでに体験した冷たさ、司の肉体が知っている冷たさ--そういうものをすべて否定する冷たさである。肉体を超越する冷たさである。肉体ではたどりつけない冷たさである。

 肉体ではたどりつけないものがある。

 これは、考えてみると不思議である。私たちには知ることのできないものがあるということである。そして、その絶対に知ることのできないもの--それを体験して、それをかたることができないもの、それが「死」である。
 「厳か」とは、それなのだ。
 すべてのことを「そうではなかった」と言ってしまえるもの、肉体から離れたところにある絶対的なものなのだ。
 それに司は触れてしまった。そして「冷たい」と感じてしまった。なぜ、冷たいと感じてしまったのか--それはわからない。わからないから、司は急いで「厳かな」ということばをつけくわえているのだろう。

 「厳か」をほかのことばでいえないだろうか。ほかに「厳か」につうじることばを司は書いていないだろうか。見つけ出していないだろうか。

入院前夜
父はもうこの家に帰ることはないと悟ったのか
荒い粋の中で
机に向かい
家五代にわたる系図を書いた
筆で見事に書いた
七十三年生きた
父の手の最後の仕事であった

 「悟った」(悟る)が「厳か」にいちばん近いかもしれない。「悟り」というのは、自分の肉体と、自分の肉体の外にあるものを一瞬のうちにつなぎ、そこにつくりだす世界であると思う。そこには自己はあって自己はない。また、世界も、そこにあって、そこにない。自己からも世界からも隔絶している。それでいて、自己であり、世界でもある。矛盾した何かである。
 「厳か」はそれなのだと思う。父の手は「冷たい」。だが、それは冷たいと同時に、冷たくはないのだ。冷たさを、「そうではなかった」と否定する超越した力である。

 私は思わず「厳かな冷たさだった」という1行に傍線を引いたのだが、その直前の「そうではなかった」という1行こそ、司がつかみ取った「真理」(永遠)であり、「思想」であると思うのだ。

 この「厳か」に触れる肉体をもった司は、それとは違うものにも触れる。

半殺しにしたいひとを思って
ひたすら つくっています
そして食べます
おいしいです
                        (「半殺し」)

 タイトルの「半殺し」というのは「おはぎ」(かいもち)のことである。すりこぎで糯米をつぶしながらつくる。「半殺しにしたいひとを思う」力で糯米をつぶす。そしてそれを食べると「おいしい」。この「矛盾」といっていいような、不思議な肉体の官能。

襁褓を一枚 二枚 三枚 と数えています
三十年前も二十枚
二十年前も二十枚
五年前も二十枚
今年もあった二十枚
行李の底から取り出してなでています
絵柄のくるくる目玉の子犬
一匹 一匹 なでています
                        (「襁褓」)

 ここにも、「もの」と「肉体」の交流の不思議な官能がある。
 この官能と「厳か」は、一見、相いれないもののようにも感じられるが、そうではないのかもしれない。存在を超えて感じる官能、よろこびを知った肉体だけが、「厳か」を正確に「悟る」ことができるのかもしれない。
 --そんなことを直感的に感じた。


 補足。
 これから私が書くことはかなり奇妙なことかもしれない。
 「半殺し」や「襁褓」で書いている官能は、たとえていえば「父の手」の「氷 雹 氷柱 雪」につながる何かなのである。それは「肉体」で知っている何かである。
 「父の手」で、司は、いろいろ書いてきて、結局「そうではなかった」と書いていたが、それはなにかしら「そうではなかった」ということばを仲立ちにして、司の肉体となじんでいるものなのだ。
 半殺しにしたい--でも、そうではなかった。そういう矛盾を超えて肉体が、いま、ここにあると感じながら「おいしい」とも感じるのだ。半殺しにしたい--でも、そうではなかった、を経ないことには、おはぎはおいしくはなれない。

 この印象と「厳か」は直接は結びつけることはできないのだが、どこかで通じている--私のことばで言えば、響きあっているように思えるのだ。






塩っ辛街道
司 茜
思潮社


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フランクリン・J・シャフナー監督「パヒヨン」(★★)

2011-01-09 22:18:28 | 午前十時の映画祭
監督 フランクリン・J・シャフナー 出演 スティーヴ・マックイーン、ダスティン・ホフマン

 この映画を最初に見たのは学生のときである。当時、ダスティン・ホフマンはアカデミー賞の主演男優賞候補の常連だった。ダスティン・ホフマンにやれない役はない--そう思われていた感じある。少なくとも、私は、そんな具合に感じていた。ダスティン・ホフマン自身、どう思っていたかはわからないけれど、もしかしたら彼自身そう思っていたのかもしれない。それで、この映画にも出てみる気になったのでは……。
 こんなことから書きはじめるのは。
 どうも、スティーヴ・マックイーンとダスティン・ホフマンがかみ合わない。ストーリーはわかるのだが、二人が親近感を感じる二人には見えないのである。信頼関係というのは、変な言い方になるが、どこかに「色気」を含んでいる。それがない。スティーヴ・マックイーンとダスティン・ホフマンが互いにひかれあう何かを感じているとは思えない。互いに相手の魅力をまったく感じていない--そういう感じがするのだ。仕事だからいっしょにやっているだけ、という感じがとても強く漂っている。
 これは、たとえばスティーヴ・マックイーンが逃走の途中であう男たちとの関係と比較するとわかりやすいかもしれない。脱走兵を殺すハンターを殺した入れ墨の男、パピヨンの入れ墨を彫ってくれと頼む酋長(?)、密輸で生きているハンセン病の男--彼らとスティーヴ・マックィーンが対話するとき、そこに何か、親密な空気がある。自分を叩き壊しても、相手に接近する何かがある。「色気」がある。
 ところがスティーヴ・マックイーンとダスティン・ホフマンの間には、そういう感じがまったくない。別れの抱擁のシーンでさえ、別れを惜しんでいる感じがしない。ダスティン・ホフマンが顔で別れの感情をあらわす。けれど、それをスティーヴ・マックイーンの背中が受け止めない。まるで、いま、カメラはダスティン・ホフマンの顔の演技をアップでとらえている。おれは背中をかしてやっているだけ、という感じだ。(背中は代役?)ダスティン・ホフマンの演技を受け止めていないのだ。
 しらけるのである。
 演技というのは不思議なものだなあ、と思う。一人がどんなにうまく演じても、それだけではカメラに定着しないのだ。演技を受け止める相手がいて、はじめて演技になるのだ。演技とは、ある意味でセックスなのだ。恋愛なのだ。自分がどうなってもいいというつもりで相手に自分を切り開いていかなければ、かみ合わないのだ。
 これは、ほんとうにほんとうに不思議な映画である。



 この映画以降、ダスティン・ホフマンは「クレイマー、クレイマー」で復活するまで、長い長い低迷に入った--と私は思っている。ダスティン・ホフマンの最初の失敗作になるのだと思う。
                         (午前10時の映画祭、49本目)



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誰も書かなかった西脇順三郎(168 )

2011-01-09 11:11:17 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『えてるにたす』。「菜園の妖術」の、たとえば、次の部分。

空間と時間しか残らない
生きるために死ぬのだ
死ぬために生きるのだ
存在するものは永遠しかない
そういう考えも人間とともに
また失くなつて行く
そういう会話が汽車の中で
桃をたべながら話す人間の中から
きこえてくることがあつた

 哲学的なことばにふいに割り込んでくる「桃をたべながら」という肉体的なことば。哲学から遠いことば。その出会い。この瞬間、私は「空間と時間しか残らない」や「存在するものは永遠しかない」ということばが無意味に思えてくる。「桃をたべながら」の方が哲学的だと感じる。
 なぜだろうか。
 「桃をたべながら」の方がわかりやすいからである。納得できるからである。頭ではなく、肉体で実感できるからである。
 おもしろいのは、そういう実感できること、その人間の「中から」ことばが聞こえてくるという表現である。ことばが「人間の中から」聞こえてくるというだけなら、それは「哲学」なのだが、その人間が「桃をたべながら話す」ということばと結びつけられるとき、「哲学」が不思議と肉体的になる。--私のことばで言いなおすと、真実になる。
 もし、「桃をたべながら」ではなく、(そして、汽車の中で、ではなく)、たばこをふかしながらだったり、酒(紅茶)を飲みながらだったりだったら、たぶん、それらのことばは「頭」のなかだけに
存在したと思う。
 「桃をたべながら」だからこそ、そこに肉体があらわれる。
 私は、こういう部分がとても好きだ。

 そのことばのつづき。

存在は存在自身存在するだけだ
人間の脳髄と関係がないのよ
もうやがてたま川へまた
まんだらげを取りにいらつしやいな

 「存在は存在自身存在するだけだ」というのは「存在するものは永遠しかない」ということばを否定しているのか、あるいは肯定しているのか。どっちでもいい。--私は、どっちでもいいと考える。それは「人間の脳髄とは関係がないのよ」ということばとは裏腹に、「人間の脳髄」で考えられたことばにすぎない。
 ほんとうは「桃をたべながら」話す人間とは関係がないということである。
 こんな私の読み方では、ことばの「意味」(論理)というものが解体されてしまうかもしれないが、そうではないかもしれない。
 「存在は存在自身存在するだけだ」は、実は「桃をたべる」肉体とは関係がない。その肉体と関係がないことを承知の上で、それを「脳髄とは関係がない」というとき、「脳髄」もまた「肉体」になる。「脳髄」もまた「頭」ではなく「肉体」だから、「存在は存在自身存在するだけだ」は「脳髄とは関係がない」ということになるのだ。

 あ、きっと、こんな書き方ではわからない。

 言いなおそう。
 ここでは、二元論と一元論が瞬時にかわっているのである。
 「哲学」を考える「頭」が一方にあり、他方に「哲学」を考えずにただ桃をたべる「肉体」がある。人間は「頭」と「肉体」でできているという二元論が一方にある。
 他方に、「哲学」を「頭(脳髄)」と関係があると考えるのはまちがい、「頭」とは関係がない、ただ「肉体」とのみ関係があると考える立場がある。--というか、「頭」も「肉体」なのだから、「頭」だけを取り出して、それを「脳髄」と呼び、「哲学」と「脳髄」を結びつけるのは「まちがい」だと考える立場がある。一元論である。「脳髄」と関係があるのではなく(つまり「脳髄と関係がなく」)、ただ「肉体」と関係しているのだ。「桃をたべる」肉体と関係しているのだ。
 そして、この一元論の立場をとるのは、「まんだらげを取りにいらつしやいな」と、即物的なことばを語る「女」の立場なのだ。
 哲学は「脳髄(男)」のなかにはない。あるとしたら、それはあくまでも括弧付きのもの。「哲学」。哲学は、「肉体」のなかから聞こえてくるものである。肉体と関係があるというよりも、肉体そのもの。

 ここには、なにかしら、矛盾したものが矛盾したまま書かれている。矛盾を排除し、整理し直すと、それは詩ではなくなってしまうのだ。ことばの直感とは無関係なものになってしまうのだ。
 ことばの直感は、「空間と時間しか残らない」というようなうさんくさいことばを否定し、「桃をたべながら」ということばのなかで息を吹き返すのだ。あるいは、「存在は存在自身が存在するだけだ」というような「頭」のことばを、そんなものは「脳髄と関係がない」と切り捨てることで、直感的に別のことばへと生まれ変わるのだ。
 論理から、直感へ。
 男から、女へ。

もうやがてたま川へまた

 この1行のなかの「たま」川と「また」の、その音の動きそのもののなかに、論理から直感へ、男から女へという運動が凝縮している。「論理」(意味)を音のなかで解体し、音そのもののなかで遊んでしまうのだ。
 音のなかで、西脇はみずから(進んで)迷子になり、ことばを解体する。
 --ということを、できるなら「結論」として、私はなんとか書きたいのだが、うまく書けないなあ。私自身にもよくわからないのだ。直感的にそう感じるだけであって、その直感をどう説明すればいいのか、ほんとうにわからない。
 きょう引用した部分には何か矛盾したものがあって、その矛盾に私は強く動かされて、「誤読」をしたくなるのである。

詩人西脇順三郎 (1983年)
鍵谷 幸信
筑摩書房
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新井高子「熟(な)れた手」、北爪満喜「納屋の音」

2011-01-08 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
新井高子「熟(な)れた手」(「ミて」113 、2010年12月20日発行)、北爪満喜「納屋の音」(「モーアシビ」23、2010年11月20日発行)

 新井高子「熟(な)れた手」は製糸工場で働いていた「おハンさん」の記憶を描いている。仕事が体にしみついて、寝たきりになって、恍惚状態になっても、その手の動きがとまらない。

たぐってる
見えないすじを、
「あれよぉ、ハンさん
 まだ糸繰りさんやってんかぁ」
掛けぶとんをときどき撫ぜるのは
巻き上がった玉の
艶を、
愛でていたんだろう

 肉体は不思議なものだ。他人の肉体の動きを見ると、その人が何をしているかがわかる。ハンさんは、いわば痴呆状態。その肉体がやっていることは「意味」を持たない。その「意味」を持たない動きを、新井は「意味」として見てしまう。そして、その肉体の「意味」だけではなく、肉体とともにあるこころの動きまで見てしまう。
 新井が読みとったものが「正解」であるという根拠はどこにもない。「誤読」かもしれない。けれど、それが「誤読」である方が、より新井のこころをあらわしている。「誤読」は新井の願いなのだ。製糸工場で糸繰り仕事をしつづけたハン。彼女は、いま、そのときのさまざまなことを思い出して生きている。働くことはつらいことだが、そのつらさのなかにも何かしらのよろこびがある。うまく仕事ができたときの達成感のようなものがある。そのよろこびを新井は祝福している。
 この「誤読」が、さらに次の「誤読」を生み出していく。

糸の果て、
ではなかったか
おハンさんの白い髪こそ、
這っているんじゃないか
あの工場に、
いまも伸び、
待っているんじゃないか
繰り上げようとする
指先を、

 存在しないものを見る。存在しないものがことばとなって、そこにある。そういうことばの運動のために「誤読」が必要なのだ。
 新井の「誤読」は、まぼろしではなく、現実に見える。現実として見える。--それは、その「誤読」が、ハンの糸を繰る手つき、糸を丸めた玉をなでる手つきという肉体を通っているからだ。ことばは肉体を通ると、それが「誤読」であっても、しっかりと前へ進むことができるのだ。



 北爪満喜「納屋の音」は、一部、とても魅力的なところがある。

ふれられないわたしの納屋に 暗闇が溜まっている
錆びて歪んで開かない納屋の
壁のひび割れから染み出すと
幾重にもたたまれた襞を伝い
耳の螺旋を 伝い
ひたひたと内耳の窪みに溜まって
ふいに一滴 喉の奥に落下する

 暗闇が「一滴」、水のように落下する。耳のなかを伝い、喉の奥に。この肉体の内部感覚がとてもおもしろい。
 新井はハンさんの肉体を運動としてみていた。外部としてみていた。そして、その肉体の動きに「こころ」をみつけだし、そこからハンさんのこころではなく新井自身のこころを育てる形で「誤読」をことばにした。
 北爪は「こころ」というものを新井ほどは信じていないのかもしれない。そのかわりに、肉体の内部に、さらに肉体があるということを発見している。「喉」は北爪にとって、「こころ」ということになるかもしれない。
 でも、そうすると、耳の螺旋の内側の「内耳の置くの窪み」は? あ、それだって、こころだね。--と、考えてみるとわかるのだが、肉体には幾重もの内部があるのだ。そして、もし肉体というものが幾重にも構成されたものだとするならば、「外部」(たとえば、納屋)もまた肉体かもしれない。あるいは「外部」(もの)は肉体からはみ出した「こころ」かもしれない。「納屋」は「遠いこころ」かもしれない。「ふれられないわたしの納屋」とは「遠いこころ--ふれることのできない遠いこころ」かもしれない。

 「外部」と「内部」、肉体の外部としてのこころ、肉体の内部としてのこころ--このふたつの往復を、もっと緊密に書けば、この詩はとてもおもしろくなると思う。外部も内部も、緊密につながらず、なんだか飛躍しながら描かれるので、私には、この詩はよくわからない。--思うように「誤読」できない。「誤読」したい部分があるのに、その「誤読」が邪魔されてしまうもどかしさがある。

 次の部分は、私はおもしろく読んだ。

ブラウス 下着 ジーンズ くつした
わたしの形を落としていって
浴室の冷たいタイルを踏み
足先から浴槽の湯に入る

 「外部」「内部」の境目に「わたしの形」がある。この発見はおもしろいなあ。「こころ」というようなあいまいなものではなく「形」。(鈴木志郎康なら、あいまいと書かずに「あやふや」と書くかもしれない。)
 形を落とした後、肉体はどうなるだろう。「冷たい」ということばがあるが、「感覚」になるのだ。この「感覚」と、肉体の内部である「こころ」はどういう関係にあるのか。わからないことは、わからないまま、ほうっておこう。いつかわかるときがくるかもしれない。ある日、北爪の詩を読み返して、あっ、と気づくかもしれない。それまでは、わからないままにしておく。
 そのわからないものをわからないままにしておいても、もうひとつ、この部分にはおもしろいことがある。
 ブラウス→下着(たぶんブラジャー)→ジーンズ→くつした。北爪は、きちんと上から順に「形」を脱ぎ捨てている。そして、冷たいタイルを(足の裏で)踏み→足先から湯に入り→(ここからは私の想像だが)足→腰→胸という具合に下から上へ順序よく温かさで体をつつむ。
 うーん、律儀だ。
 そして思うのだが、この北爪の律儀さが、どうも肉体の外部・内部(その中間としての形)を窮屈にしていないか。(耳の螺旋→内耳の窪み→喉、というのも丁寧だけれど、なんだか窮屈だよね、こうしてみると。)この窮屈さに邪魔されて、「誤読」がうまくいかない、と私は理不尽な要求を北爪にしてしまう。理不尽な要求をしたくなる。
 どこかで、そのつなぎ目を破ってしまえばおもしろいのになあ。どこかで、外部・内部を混同してしまえば、肉体そのものが、ずいぶんかわるだろうなあ。どこかに、とんでもない破れ目をつくってよ。




タマシイ・ダンス
新井 高子
未知谷

飛手の空、透ける街
北爪 満喜
思潮社
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池井昌樹「滝宮祭禮図屏風」

2011-01-07 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「滝宮祭禮図屏風」(「現代詩手帖」2011年01月号)

 池井昌樹はいつも同じことを詩に書いている。池井にかぎらず誰もが同じことしか詩に書けないのかもしれない。詩は、いつでも「ひとつ」なのだ、きっと。
 「滝宮祭禮図屏風」は池井が子どものころ遠出をした「滝宮」と、「滝宮祭禮図」に出合ったときのことを書いている。その後半。

「滝宮祭禮図」。作者不詳制作年不祥六曲一双のそのふる屏風に私は見惚れた。右隻には祭禮で賑わう参道が描かれ、左隻には、御殿橋というのだろうか、屋根のある小さな木橋の下で幾人かの少年が沐浴している。どの少年も皆笑っていて、中でもとりわけ笑顔の盛んな一人の瞳(め)が私の瞳を凝(じっ)と視ている。半世紀近い以前、否(いや)、それよりももっと以前、それよりももっずっと以前から、紛れもない私自身の瞳がこの私を凝と視ている。幾重にも重なり合い渦を巻く私の奥処、あの産土の奥処から、たまゆらの灯がとこしえに私を凝視める。誰に教わった訳でもない。私の脳裏の暗黒に、金砂子をちりばめたあの六曲一双の巨大な夜空が、いま燦然と押し開かれたのだ。

 いつも同じことを書いているというのは、「それよりももっと以前、それよりももっずっと以前から、紛れもない私自身の瞳がこの私を凝と視ている。」という感覚である。私の瞳が私をみつめる--それは時間を超えて存在する私のことである。それは、いまここでは「過去(以前)」として書かれているが、見つめ合う視線は往復するわけだから、その往復のなかで「過去」は「未来」にもなる。「過去」と「未来」は融合し「永遠」になる。この池井の感覚は、私にはすでになじみのものである。何度も書いてきたので、そのことについては、今回は書かない。
 この詩で、私は一か所、飛び上がるほど驚いたことばがある。

誰に教わった訳でもない。

 うーん、これは何だろうか。
 私はぼんやりと池井の詩を読んでいたので断定はできないが、これに類似したことばを池井はいままで書いてはいないと思う。池井は「誰」とは限定しないが、「誰か」から常に教わってきている。「時間」を超える存在があるということを教わってきている。
 たとえば、同時に発表されている「鎌田公園の河馬」の次の部分。

祖父の手に手を繋がれていると、祖父の手でない手の温もりが次から次から重ねられ繋げられて行く気がした。あれは誰の手だったのだろう。

 ここには「繋ぐ」という動詞が出てくる。「時間」はここでも超えられているが、そこには必ず「繋ぐ」ものがあった。「繋ぐ」があったから「時間」は超えられたのである。一人では超えられない「時間」も「繋ぐ」ことで超えられる。その「繋がり」のなかに池井はいる。
 ところが、「滝宮祭禮図屏風」では池井は、その「繋がり」から離れている。「誰に教わった訳でもない。」では、それは、どうやって池井の所へやってきたのか。

作者不詳

 この「不詳」が、いま、池井が向き合っているものかもしれない。「不詳」ものがあるのだ。「不詳」という存在が「誰か」を超えて存在する。池井からは隔絶した「絶対的他者」というものかもしれない。「私自身の瞳がこの私を凝と視ている。」というときの「私自身」を「絶対的自己」だとすると、その対極に「絶対的他者」は存在するかもしれない。そして、それはたぶん「同一」の存在、「ひとつ」の存在なのである。「絶対的自己」と「絶対的他者」が「ひとつ」になったとき、

私の脳裏の暗黒に、金砂子をちりばめたあの六曲一双の巨大な夜空が、いま燦然と押し開かれたのだ。

という世界がはじまるのだ。いま、池井はその世界を「滝宮祭禮図屏風」と重ねて書いているが、これからは、池井の「現実」そのものとして切り開いていくのだと思う。




母家
池井 昌樹
思潮社


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ナボコフ『賜物』(35)

2011-01-07 10:18:31 | ナボコフ・賜物
 3人の恋人が森で順番に自殺を試みる。そのシーン。

ルドルフはオーリャのもとに引き返すべく踵を返したが、彼女のことろに辿りつかないうちに、二人とも乾いた銃声をはっきりと聞いたのだった。ところがヤーシャの部屋で日常の風景はその後何時間もまるで何事もなかったかのように続き、皿に残ったバナナの抜け殻も、ベッドの脇の椅子に載った『糸杉の小箱』も『思い竪琴』も、寝椅子の上に置かれたピンポンのラケットもそのままだったのだ。即死だった。
                               (77-78ページ)

 これは書かなくてもわかりきったことである。誰かが自分の部屋から離れた場所で自殺する。そのとき、彼の部屋は彼がそこを離れたときのままであるというのはわかりきったことである。「もの」とは非情なものである。人間の感情など配慮しない。
 ところが、こんなふうに書かれてしまったものを読むと、あ、ヤーシャが最後の瞬間に思い浮かべたもの、見たものは、自分のその部屋だったという気がしてくるのだ。そこに書かれているのは「非情」とはまた別なことがらである、とふいに感じ、悲しみがおそってくる。
 雪の森で自殺する。そのとき、最後の瞬間に見るのは、森ではなく、記憶の部屋である。--ということが事実であるかどうかは、誰にも確かめられない。確かめられないからこそ、それが部屋であってもいいのだ。ヤーシャはきっとそれを見た、と感じてしまうのだ。
 だが、これは、いったい誰が書いたものなのか。誰のことばなのか。ヤーシャのことばではない。
 この不思議さに、私は衝撃を受ける。ナボコフの天才を強く感じるのはこういう瞬間である。
 部屋の描写をし、「即死だった。」と短く事実を書いて、世界はヤーシャの部屋から森へと引き返す。

即死だった。しかし、何とか生き返らせようとして、ルドルフとオーリャは茂みをかき分けて葦辺まで彼の体を引きずって行き、そこで必死に水を掛けたり、さすったりしたものだから、後で警察が死体を発見したとき、それは土と血と水底の泥にまみれていた。
                                 (78ページ)

 この視線の交錯はとても劇的だ。



ロシア美人
ウラジーミル ナボコフ
新潮社

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