詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

松尾真由美『松尾真由美詩集』(2)

2012-09-15 11:17:58 | 詩集
松尾真由美『松尾真由美詩集』(2)(現代詩文庫195 )(思潮社、2012年08月31日発行)

 きのうのつづきをちょっと強引に書いてみる。『密約』の「追記 晴れやかな不在に」。その最初の部分。

いつか
来たことのある
緩やかな坂をくだり
置き去りにした小石の
真昼の耳鳴りを
ひろいあつめ
ぎこちなく
あふれる
巣の夜を聴く

そうしてぬくもりが残るこの半円の内側をなぞってみる

にわかに
猥雑な水は流れ
疑わしいものとて
あわい座右がたゆたう
ふわふわと剥がれていく
いちまいの紙の悪意は翻り
かすかに引きつる焦慮のように
したしい身振りであなたを求める
いつも不慣れな素足の意図をからめ
沈みこんだ枠の姿の充溢へとあらたに向かい
私はみだらに躯をひらきやさしい応答を待っている
砂塵にまみれた無意味な生物となり聴覚を研ぎすまし
ここではあつい抱擁の余韻を楽しむことができる
つめたく自堕落な接触の一画を拡げてもいる
くちづけをしたあとの暗がりの強度に迷い
だれもが密室ではぐくむ架空の荒廃を
なにかに埋めてしまっても
私にかたちを与える
あなたのあいまいな綻びに
まるで恋しい死者達の眼差しの
さざめく痛覚を想っていた

 テキトウな感想を書くと、「私」はきのうの夜を思い出している。「あなた」とセックスをした。そのことを思い出している。
 何がきっかけかというと坂道で小石を見つけたことである。小石をふっと拾い上げたとき、その小石のなかから「巣の夜」が聞こえた。ことばを補えば「愛の巣(部屋)の夜の声」が聞こえる気がした。なぜか。小石の「ぬくもり」が「愛の肌」のぬくもりに似ているからである。
 で、その瞬間の、

そうしてぬくもりが残るこの半円の内側をなぞってみる

 これが、きのう読んだ「猶予のない留保」とぴったり重なる。「意味」は違うのだけれど、ことばの運動の「切り換え」という部分でぴったりと重なる。
 「私」の外側を描写していて、そこに突然亀裂が入り、それから「私」の内側、つまり情動へとことばが動いていくきっかけとして、「独立」している。
 最初の短いことばの積み重ねと、これから始まるだんだん長くなっていく詩のことばを分断しながら、同時に接続するための「留保」。これを「肉体のことば」でいいなおすと、「深呼吸」。たとえば五輪体操の内村航平の床の演技を思い出してほしい。最後のタンブリングに入る前、深呼吸して意識をととのえる。その感じ。そこでは演技がいったん「留保」されている。それまでの演技が分断され、そこから再び新しいシリーズが始まる。その「呼吸」。
 こういう呼気も呼吸の形は松尾の詩に頻繁にあらわれる。それがもう肉体のリズムになってしまっていて、それをはずすとことばが思うように動かないのである。まあ、くせ、だね。
 で、この1行はとても正直で「内側をなぞってみる」という表現が出てくる。小石の「内側をなぞる」というのは「肉体」ではできないね。指はどんなふうにしたって小石の内側には入っていかない。だから、ここで「内側をなぞっている」のは、つまり、その主語は「指」のような肉体ではなく、意識になる。きのう読んだ詩のことばを借りていえば「情」になる。「情」は「感性」か「理性」か、まあ、どっちでもいい。たぶん「感性」と考える方が簡単である。「感情」の「情」は「情動」の「情」である。「理情」なんてことばはたぶんないだろうからね。
 で。
 問題の3連目。逆三角形のように、詩の行がだんだん長くなっていって、もう一度短くなる。その動きが松尾の「情動」なのである。深くなって、一番底までいったら再び浮上する。きょうは最初の部分だけしか引用していないのだが、詩は、この深くなってまた浅くなるという行の形を何回か繰り返す。
 そのとき、そこに何が書かれているか。
 「あわい」「ふわふわ」「かすかに」「みだらに」「やさしい」というひらがなの「情動(これは、肉体の感覚、といった方がいいかも)と「座標」「悪意」「意図」「充溢」「応答」「無意味」というような漢語の組み合わせである。この漢語の部分を「理性」といってもいいかもしれないけれど、まあ、「情動」と「理性」をつきあわせて、そのなかでことばの肉体をいじめている。異質なものがせめぎあいながら、その衝突の奥から何かが出てくるのを待っている。まだ姿をあらわさない何か、そのことばが、きっと「情動」の核なのである。エネルギーの源泉なのである。
 だから、というのは、かなり飛躍した言い方なのだが。
 だから、このことばのせめぎあいに「意味」を探してもむだである。「意味」を探すのではなく、松尾が何かを探しているということをただ受け止めればいい。誰かが道に落とした何かを探している。そういう姿を見たら、その探しているものが「財布」か「携帯電話」かわからなくても、探しているということそのものはわかる。そういう感じのわかり方で、わかればいいのだ。
 松尾自身が、自分の内側の情動をさぐっているのである。松尾にもわからないものが、読者がわかるわけがない。だから、わからないことをいいことに、私は「松尾はきのうの夜のセックスを思い出して、そのときに動いた感情を探している」とテキトウなことを書くのである。
 「誤読」だと指摘されたら、「誤読の何が悪い」と私は開き直るだけである。「誤読」のなかには私の読みたいことがある。私は読みたいことを読むだけである。あ、脱線した。脱線したのだが……。
 いま私が書いた「誤読」を松尾のことばの探し方に関連させると、松尾は積極的に「誤記(誤書)」をことばの肉体のなかに取り込んでいるように思える。

あわい座右がたゆたう
ふわふわと剥がれていく
いちまいの紙の悪意は翻り
かすかに引きつる焦慮のように

 これは何かを追い詰めていく「散文」の文体ではなく(つまり「正確にことばを積み重ねることで論理を構成する」という、ことばが歩行する文体ではなく)、詩の、ことばのダンスの文体である。
 ことばは先に進んでいるように見えて、実はおなじところにとどまってダンスをしている。すべての行は「言い換え」である。言い直しである。「あわい」は「ふわふわ」であり、それは「いちまい」という「かすか」なものである。そういう感覚が一方に呼応しあい、他方で「座右」と「悪意」は(主語)「剥がれて」「翻る」(述語)。
 そして、それは「焦慮」(主語)のように「引きつる」(述語)。--と単純に言えればいいのだけれど、松尾は「引きつる焦慮のように」と「引きつる」を「述語」にしていない。主語と述語の関係がねじれている。
 ここが、まあ、おもしろいところである。「散文」ではなく「詩」であるゆえん。「意味」にならずに、踏みとどまり、「意味」を内側から突き崩していくから「詩」というのかもしれない。
 詩は散文と違って先へ先へと論理を進めることばの運動ではないので、加速して先へ進みそうになると防衛本能(?)のようなものが働いて、「誤記(誤書)」を誘う。
 「誤読」にしろ「誤記(誤書)にしろ、それは「理性」がすることではなく、本能がすることである。理由なんか、わからない。ただ、こっちのほうが「正しい」、そういうふうに「読みたい(書きたい)」という力が肉体のなかから働いて、そうしてしまう。
 それを好きになるか、嫌いになるか。
 そこに詩の感想の違いが生まれてくる。



睡濫
松尾 真由美
思潮社
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松尾真由美『松尾真由美詩集』

2012-09-14 11:15:39 | 詩集
松尾真由美『松尾真由美詩集』(現代詩文庫195 )(思潮社、2012年08月31日発行)

 松尾真由美のことばは「散文的」ではない。散文形式で書かれた『燭花』を読むとそのことが鮮明にわかる。

やわらかな静寂をよそおう空隙にかこまれ 周縁にただ
ようつめたい吐息をたどり 稀薄な修辞のざわめきをは
かり 浅瀬にたたずむ渇きに気づく 猶予のない留保
孵化と蘇生をねがいあらたな狭窄にうながされ はなた
れた情動の予兆の雫となり すでにやさしい深淵に沈み
はじめる ふくらむ残滓のなかでさぐる言葉の核 水に
まぎれる水ではなく水にあらがう水でできた言葉の枕
流されるもの 瞬間の捕縛はたしかに在って 私は水の
領域でささやかな刻印を記していた

 「散文」というのは書いた「事実」を踏まえながら突き進むことばの運動である。その「事実」というのは「もの」であるよりも「もの」をそこに定着させる論理である。したがって「散文」は「論理的」に運動する。
 松尾のことばは「論理的」ではない。なぜ論理的ではないかというと、「主語」と「述語」の関係があいまいだからである。

やわらかな静寂をよそおう空隙にかこまれ 周縁にただようつめたい吐息をたどり 稀薄な修辞のざわめきをはかり 浅瀬にたたずむ渇きに気づく

 ここまでをとりあえずひとつの「文」として読んでみる。「主語」は? 「私」?
 そうであるなら、

やわらかな静寂をよそおう空隙に「私は」かこまれ 周縁にただようつめたい吐息を「私は」たどり 稀薄な修辞のざわめきを「私は」はかり 浅瀬にたたずむ渇きに「私は」気づく

 ということになるのだろうか。
 そうであるなら、そのつづきはどうなるだろう。

猶予のない留保 孵化と蘇生をねがいあらたな狭窄に「私は」うながされ はなたれた情動は予兆の雫となり すでにやさしい深淵に「私は」沈みはじめる

 「猶予のない留保」は突然挿入された異質な文体である。ここはそのまま「留保」しておく。そのあとに、問題が起きる。
 「はなたれた情動は予兆の雫となり」という「文」のなかには「なり(なる)」という動詞があるが、いままでのように「私は」という主語を挿入できない。「情動は」という主語があるからだ。しかし、そのつぎの文には「私は」という主語を挿入できる。そうすると、

すでにやさしい深淵に「私は」沈みはじめる

 と私はとりあえず書いてみたのだが、この「私は」は実は「私は」ではないかもしれないという疑問もわいてくる。

すでにやさしい深淵に「情動は」沈みはじめる

 であるかもしれない。そして、実際に、そうなのだと思う。つまり「私は」は「情動は」なのである。「私=情動」が松尾のことばの運動のすべてなのである。
 そう思って読むと、

ふくらむ残滓のなかでさぐる言葉の核 
水にまぎれる水ではなく水にあらがう水でできた言葉の枕

 これは、どうなるだろう。私は、あえてこの部分を「行分け」スタイルでいま書いているのだが、この行に「私は」あるいは「情動は」はどう補うことができるか。

「私は」ふくらむ残滓のなかでさぐる言葉の核「である」 
「情動は」水にまぎれる水ではなく水にあらがう水でできた言葉の枕「である」

 この「私は」と「情動は」は入れ替えが可能であるだけではなく、実は区別してはいけないものである。

「私である情動は」ふくらむ残滓のなかでさぐる言葉の核「である」 
「情動である私は」水にまぎれる水ではなく水にあらがう水でできた言葉の枕「である」

 そうしてみると、ここにあるのは「反復」なのである。先へ進む「論理」ではなく、ここにとどまる「反復」。「反復」の幅を広げ、さらに「反復」の主語を複数に書き換えることで世界を重層化している。

流されるもの「それは情動であり」 
瞬間の「情動に対する」捕縛はたしかに在って
私は「つまり情動は」水の領域でささやかな刻印を「私を、つまり情動を」記していた

 こうやって読み直すと、いったい何が書いてあったのか、よくわからない。「論理的に」そこに書いてあったことを把握できたかどうかよくわからない。まあ、それはわからなくていいのである。つまり松尾は「論理」など書いていないからである。「情動」の、しかも「動」を書いている。
 「やわらかな」「静寂」「よそおう」「ただよう」「つめたい」など、「情」にすぐにむすびつくことばを次々に繰り出しながら、その「情」を深く深く問い詰めていくのではなく、どこへ動くかわからない動きそのものに変えていく。

猶予のない留保

 と松尾は書くのだが、それは「私は(つまり情動は)」猶予のない留保ということでもある。どこへも動かないがゆえに「留保」に見えるが、実は「いま/ここ」で動きつづけている。
 そのはてしない動きそのものを松尾は書きたいのである。

 もし松尾の詩で何かわからないところに出合ったら、そこに「情動である私は」ということばを「形式主語」として補ってみるといい。それは「猶予のない留保」でありながら、同時に「猶予のある留保」であることがわかる。松尾は「情動」が先へ進むのではとなく、「いま/ここ」に立ち止まることを許している。受け入れている。立ち止まることこそ「私」である唯一の根拠であると信じているように思える。
 この不思議な「留保」は散文形式で書かれたときよりも、

ふくらむ残滓のなかでさぐる言葉の核 
水にまぎれる水ではなく水にあらがう水でできた言葉の枕

 という具合に行わけで書かれた方が「留保」であることがわかりやすい。繰り返しであることがわかりやすい。1行目より2行目が長い。そうすると、そこにそれだけ「動き」が深化したような錯覚(?)を引き起こす。その行が短くなっていくときは「情」から現実の方へ(だれでもが理解できる「客観」の方へ)浮かび上がってくる印象が生まれる。「情動」の動きが深くなったり浅くなったりしている感じが出てくる。それが『密約』移行の松尾のスタイルになる。詩のなの部分が逆三角形の形をとっているのは、そのためである。 

松尾真由美詩集 (現代詩文庫)
松尾 真由美
思潮社
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伊藤悠子「空の味」

2012-09-13 10:46:25 | 詩(雑誌・同人誌)
伊藤悠子「空の味」(「左庭」23、2012年09月07日発行)

 伊藤悠子「空の味」の魅力を語るのはむずかしい。いちばんいいとろろだけを取り出して「ここが好き」と言っても、「どうして?」という反応が返ってくるだけかもしれない。全行引用する(しかない)。

サクランボが好きなパヴェーゼは
はしりのサクランボは空の味がすると言っていたそうだ
なんど食べてもそんな気はしないが
幼い日のあの夕べ見たサクラの木に生る実なら
そういう味がするかもしれない

石段の一番上の段に腰かけて
切り通しをはさんだ向こうの丘の一本のサクラの木をみつめていた
あの暗い夕べ
近所の大人たちは子供たちがいつまでも外にいることに関心がなかった
関心は猫いらずを飲んで自ら亡くなったひとにあったから

そのサクラは花が散って葉影が濃くなる頃赤い実をつけた
その実を食べたことはなかった
近所の静かなおばさんだった
静かなおばさんのうちに行き
静かなおばさんと静かな坊やと気が強いが静かな子供だった私は
静かなひとときをよく過ごした

おばさんは死んでしまった
石段の一番上の段に腰かけて
向こうのサクラの暗がりにみつめていた
あれが私にとっての初めての死

あら、ユウコチャン、遊んでいく?
ええ
夕闇に紛れていく赤い実は空の味がする
なすすべもなく

 3連目に「静かな」が繰り返される。6回繰り返される。そこが、私は好きだ。繰り返されるたびに、少しずつ変わっていく。変わっていくのだけれど、かわらない。そういう矛盾した繰り返しである。「深まる」という言い方がある。「静かな」が繰り返しているうちに「深まっていく」。そうなのかもしれない。しかし、そうではないのだと思う。最初に思った「静かな」を、他の「静かな」はけっして超えることができない。最初に思い浮かんだ「静かな」を何度も思い出し「静かな」を繰り返している。ほかに言いようがない。ほんとうはほかに言うべきことばがあるかもしれないけれど、つねに最初に思い浮かんだ「静かな」に引き戻されてしまう。そして「静かな」を繰り返してしまう。つねに同じものを見ているのである。感じているのである。
 この繰り返しがそなふうに思えるのは、まあ、深読みといわれそうだが、それなりの理由がある。繰り返しが「自然」に思える、それしかないと思えるのには、実は理由がある。

幼い日のあの夕べ

あの暗い夕べ

そのサクラは

その実を

 「あの」「あの」が「その」「その」に変わる。「あの」は遠いところを指す。近くにあるときは「この」になる。「その」は遠くもないし、近くもない。けれど「あの」「あの」に比べると「その」は近づいた感じがする。
 「その」は「関心」があるのだ。関心があるから「あの」が「その」に変わったのだ。
 この変化はとても微妙である。「あの」のままでも「意味」というか、実体に変わりはない。同じサクラ、同じサクランボを指している。でも、関心が違う。では、どう違うのか--それは、ことばにならない。
 それと同じ違いというか、おなじものが「静かな」のなかにある。
 いや、それ以上のものがある。「あの」が「その」に変わり、さらに「この」に変わっている。伊藤の「肉体」のなかで。そして、ここに「この」が書かれていないのは、それが伊藤にとってあまりにも密着しすぎていて、つまり「肉体」になってしまっていてことばにならないからだ。
 「あの」おばさんは「あの」おばさんではなく、「その」おばさんでもない。「この」おばさんなのだ。
 で、私の現代詩講座なら、ここで受講生に次のような意地悪な質問をする。

質問 「あの」おばさんは、猫いらずを飲んで自殺した。この世ではなく、あの世にいるね。「その」おばさんのことを伊藤は思い出している。では「この」おばさんともう言うことができるなら、「この」おばさんは、では、どこにいるんだろう。

 まあ、私はすでに「答え」というか、私の考えを書いてしまっているのだが、「この」おばさんは、伊藤の「肉体」のなかにいる。そのために「この」という形でさえ指し示すことができない。伊藤と一体になっている。
 あの世に行ってしまっていないはずの「あの」おばさん、「その」おばさんは、伊藤の「肉体」のなかに帰って来て、呼びかける。「あら、ユウコチャン、遊んでいく?」。それは伊藤の「肉体」のなかから聞こえてくる声である。その声は「静かな」声である。つまり、伊藤以外には聞こえない声である。「ええ」という伊藤の返事も「静かな」声である。「この」おばさんにしか聞こえない。
 だれにも聞こえない「静かな」やりとりというものが、この世にはあるのだ。「この世の」肉体にはあるのだ。
 そうした「あの」「その」「この」の変化に似たものが、サクランボの「空の味」に通じるかもしれない。パヴェーゼの「あの」なにか、「その」なのか、が「この」なにかにかわるとき、パヴェーゼの肉体のなかで「この」なにかが「空の味」になるのかもしれない。伊藤は、伊藤の「あの」「その」「この」をふと見つけ出し、パヴェーゼとそんなふうに重なり、また「おばさん」とも、サクランボとも重なる。「空の味」とも重なる。その重なりのなかに「静かな」が静かに「ある」。






ろうそく町
伊藤 悠子
思潮社
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渡辺正也「花」、北川朱実「影のはなし」ほか

2012-09-12 11:08:39 | 詩(雑誌・同人誌)
渡辺正也「花」、北川朱実「影のはなし」ほか(「石の詩」83、2012年09月20日発行)

 同人誌に詩を書くというのは意外とむずかしいものだと私は思っている。どうしても同人の作品が影響し合う。その「影響」の受け止め方、投げ返し方がむずかしい。「石の詩」は渡辺正也のことばの動かし方が静かに同人のあいだで受け止められているように感じた。

むずかしい日々だったが
季節をはずすことなく
大輪がいくつか
おごそかに開いた

 「花」という作品の3連目である。「季節をはずすことなく」の「はずすことなく」ということば、それが一冊の同人誌を読み終わると静かに落ち着く。強引に対象を押し開くのではなく、ただ「対象」をはずさないようにことばを動かす。そうすると、そこに自然にことばの花が開く。「大輪」「おごそか」は「感覚の意見」の問題である。はずさなければ、どんな小さな花でも大きく見える。
 谷本州子の「四月」はその「はずすことなく」がしっかり書かれた作品である。

風の姿がよく見える 四月

風はベールに覆われた南の空から
下りてきて
各駅停車の電車に乗り
一駅一駅 無人駅にも立ち寄り
各地の花便りの貼り紙に
赤丸のシールを増やしていく

菜の花が小刻みに
揺れつづけているのは
羽化したばかりの風の子供達が
戯れているのだろう

代掻きを終えたばかりの広い田んぼを
滑り回っているのは
この日を待ち兼ねていた風達

燕の形の風も
庇の奥に落ち着いた
キブシの咲く庭に莚を広げ
大正生まれの風の夫婦は
まどろんでいる

ほどほどの風に導かれ
あちらでもこちらでも
夏野菜の苗達が
指定席に納まった

 「大正生まれ」の詩であって、現代詩ではない、かもしれない。しかし大正と平成の違いなど実はない。「いま」から自分の人生を振り返れば、きのうと50年前はすぐとなりあわせにやってきて、何かを思う意識のなかに「時差」はない。きのうより50年前の方が近かったりする。だから、書かれている対象、あるいはことばの動かし方が古いから(別のことばでいえばなじんでしまっているから)、これは古いと言ってもしようがないのである。
 谷本は「よく見える」ものを「はずすことなく」ことばを動かす。
 この谷本のことばと北川朱実「影のはなし」のことばへの距離は「はずすことなく」を中心に置くと、すぐとなりにくっついている。

観覧車が見える川沿いの
市営住宅で暮らしたことがある

夕陽が沈むころ
きまってゴンドラが
濃い影になって川に落ち

帰りたがらない子供のように
いつまでも水遊びをした

鳥が ざぶんと飛び込んで
かき崩していった

 描く対象は「風」から「影」にかわっているが、風が何と交渉し「風景」をつくるか、つまり花を咲かせるかということが、影が何と交渉し風景の花を咲かせるかということばの運動の「照準」は同じである。そして、ふたりとも「照準」をはずすことなくことばを動かしているのがわかる。こういう正確さは読んでいてとても気持ちがいい。
 北川と谷本の違いは、その次にあらわれる。

--あなたはどんな影をつくったの?
人に聞かれて黙った

 北川のことばは他人とであって、そこで一瞬乱れる。自分ひとりで何かを見つめ、その対象を「はずすことなく」書いているときは、ことばは気がすむまで自由に動くことができる。ところが他人が出てくると、そういう具合にはいかない。他人というのは自分とは違った「照準」へむけてことばを動かしているものである。言い換えると、他人と私の「意識」は違うのである。どうしたって「射程(照準)」も違ってくる。
 ここからがほんとうはことばの勝負のしどころである。ことばはなんといっても他人と向き合うための方法なのだから。
 で、北川の最初にしたこと。

人に聞かれて黙った

 あ、この正直。これはいいなあ。突然「照準」を変えられてしまった。すぐにはことばを発することができない。態勢をととのえる。肉体をととのえる。生身の肉体もそうだがことばの肉体もととのえないと動けない。それを「黙った」と正直に書く。呼吸をととのえる「間合い」を沈黙として「はずすことなく」書く。
 それまでの前半のことばにも北川の「時間」がしみこんでいるが、「黙った」あと再び語りはじめるときは、もっと北川の「内面」へとことばが向かっていく。「風景」は「現実」の風景ではなく「心象風景」になる。だれにも見えない風景、北川にしか見えない風景になる。北川にしか見えないのだけれど、ことばにすると、それがこころに刻まれる。これを「抒情」という。

バーの角瓶のようだった
三階建の住宅は

夕暮れには
みんな川に向かって傾いたが

琥珀色の時間はこぼれなかった

 ここは「黙った」あとの動きはじめなので、どうしても「流通言語」の影響が出てしまっている。それはそれで、まあ、しようがないことだと私は思う。そういう一種の「流通言語」で舌ならし(?)をしたあと、北川はほんとうの「影」へ入っていく。

真夏の川原で
力まかせにラムネの壜を割って

微細な酸素の
爆発について考えた

まだ度の途中なのか
こわれやすい生きものだった父が

墓石の横で
腐爛したまま

空をスクリーンに
カタカタと映写機を回している

 「影」は「光」でもある。「月影」というときの「影」がそうであるように、こころに投影された「影」は「光」でもある。真夏のあるときの、ふいに肉体を襲ってくる激情は「影」であったかもしれないが、いまは「光」のように強く北川を射抜いている。父も生きているときは北川に「影」であったかもしれないけれど、いまは「光」である。すべてを「光」として受け入れている北川が、ここにいる。

人に聞かれて黙った

 「人」が北川を「人間」に返す。視線を「風景」から「人間」へと向き直らせる。その瞬間の沈黙を超えてことばが再び動きだすとき、照準は人間になる。そうすると、そこにあらわれる「影」は「影」でありながら、同時に「光」である。
 この一種の矛盾(?)を「はずすことなく」北川のことばは動く。北川の詩にはいつも人間の、いのちに対する包容力のようなものがある。

 この北川と谷本の詩のあいだに濱條智里「コンテナルーム」を置くと、「石の詩」のことばの動きを要約できるかもしれない。要約なんかしなくてもいいのだが。道路の脇にコンテナを収納スペースとして貸し出しているという看板をみたときのことを書いている。

しまっておきたい思い出があるはずだったが 取り出してみると色が変わっている わたしは しばらくでいいから 忘れたいことを預けたいのだと気がついた 隣では踏むにはちょうどよい長さだった麦が まぶしく波立っている

 濱條がほんとうに「麦踏み」をしたことがあるのかどうか「ちょうどよい長さだった」という過去形をつかった修飾節を読むと疑問に感じるのだが、まあ、いいか。私の言いたいのは、濱條のことばにも「対象」から「自己」へのベクトルの変化がある、ということ。
 ことばのベクトルを自己の外へ投げかけるだけではなく、自己の内部へとむけるとき、そしてそのきっかけに現代風の「対象」を利用するとき、詩は「大正のもの」から「平成のもの」になるけれど、こういう部分は、まあ、飾りだ。ことばの運動の「基本」はかわりはない。



電話ボックスに降る雨
北川 朱美
思潮社
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西川美和監督「夢売るふたり」(★★★★)

2012-09-11 10:13:26 | 映画
監督 西川美和 出演 松たか子、阿部サダヲ、田中麗奈

 この映画にはわからないことが何点かある。
 ひとつはラスト近く、松たか子が阿部サダヲのいどころをつきとめ、女の家を訪ねるシーン。その台所。俎板がぬれている。洗い物が放置されている。俎板の上に包丁が放り出してある。一般の家ならありふれた光景である。だが阿部サダヲが板前であることを考えると、これはとても変である。火事のときも忘れずに持ち出した包丁。それをそのまま放り出してあるのはなぜ? 阿部サダヲが板前ではなくふつうのお父さん(ふつうの男)になったことの象徴として描いたのだろうか。たしかにそのあとちょっとした事件が起き、そこで阿部サダヲがとる態度はそれまでの結婚詐欺師の男の態度ではなく、子どもの将来を思うふつうのお父さんの態度である。結婚詐欺につかれてしまい、ふつうの男に戻った、というのならそれはそれで「意味」が通るのだけれど、うーん。包丁一本の描写で「改心」を表現するのはかなり強引な感じがする。
 もうひとつ。料理がおいしそうに見えない。料理の話ではなく結婚詐欺の話なのだから料理はおいしそうに見えなくてもいいのかもしれない。見えたらまずいのかもしれない。でもねえ。「食べる」というのは人間の基本的なこと。おいしい料理をつくることに情熱をもっていた男のつくるものが、一瞬でも「あ、おいしそう」「あ、あの作り方美しいなあ」「しあわせって、ここにあるんだなあ」という感じがしないとなあ。(是枝監督の「歩いても歩いても」で樹木希林が食事を作るシーン、明るくておいしそうでしょ?)松たか子がアルバイトで働くラーメン屋のラーメンとかわりない雰囲気の映像ではまずいんじゃない? 
 いや、これは「わざと」そうしているのかな? 「外食」の料理というのはしょせん愛情とは無関係。一種の「見栄」。料理をつくる人と食べる人のあいだに「愛」は存在しない。板前と客のあいだには愛は存在しない。そういうことかな?
 結婚詐欺の仕事(?)は、ある意味で、「外食」の料理を食べる人と客の関係。客は「自分のためにつくってくれている」と勘違いし、そのお礼にお金を払う。客にとって、お金を払うことが愛の表現である。金の切れ目が縁の切れ目。あるいは金さえ払ってもらえればそれでいい。
 うーん、そうなのかなあ。そうであるなら、まあ、包丁のシーンも料理の映像も、「ストーリー」としては「完璧」なのだが、完璧すぎて味気ない。そんな手の込んだ嘘をわざわざ映画で見たいとは思わないなあ。
 ということで、その「わからないストーリー」はなかったことにして映画を思い出してみると、おもしろいところはたくさんある。
 阿部サダヲが浮気(?)をして帰ってくる。松たか子が「服、どこで洗ったの?」と問い詰めるところから始まるシーンがとてもおもしろい。女からもらった金を見つけ、どうやって手に入れたかを推測する。そして風呂場で阿部サダヲをいじめる。阿部サダヲがどうやって女をだましたか(だましたわけじゃないんだけれどね、--というところが大切)、女は何にだまされるか、というか、何にこころを動かし、自分のもっているものを男にささげる気持ちになるか、ということを考えはじめる。男の手口の発見ではなく、女の「弱み」の発見である。ここから松たか子の暴走が始まる。女の弱みをじっくり見つめ、その弱みをつけ、と阿部サダヲをけしかける。阿部サダヲは松たか子にあやつられるようにして結婚詐欺をする。
 それを繰り返しているうちに、まあ、阿部サダヲは松たか子のなかに生きている女の悲しさと冷たさを発見し、そこから逃げていくということなのだが。
 うーん、どういえばいいのだろう。
 私はもともと松たか子という女優が好きになれなくて、偏見がまじっているかもしれないが、最後まで納得ができない。共感できる部分がない。思わず引き込まれていく部分がない。どんな悪役だって、あ、こんなふうに生きてしまえば快感があるかもしれないと思うものである。たとえば「冷たい熱帯魚」のでんでんのやったばらばら殺人鬼(?)。そんなことは現実にできるはずがないのだが、見ながら「あちゃー、これやってみたい」という体が引き込まれていくのである。そういう瞬間が松たか子の演技にはない。オナニーシーンもあるのだが、したくてしている感じがしない。まあ、したくてしているのではなく、無意味にしていることなのかもしれないし、そういう無意味さをねらっているシーンなのかもしれないけれど、そうなるとやっぱり引き込まれない。「見てしまった」という罪の快感がない。(風呂場で松たか子が阿部サダヲをいじめるシーンだけは「見てしまった」という快感がある。)
 これは、映画としておかしいと思う。
 ではなぜ★4個かというと。そうだねえ、女は女に対してこんなに冷たくなれるのか、ということをしっかり描いているからかなあ。共感はできないけれど、まあ、驚く。松たか子から(私はもともと嫌いだから、そうだろうなあ、と思ってしまうのだが)、こういう「冷たい情熱」をしっかり引き出す西川美和の不気味さに実は★5個なのだが。
 もし寺島しのぶが松たか子の役をやったらどうなるだろう。どこかでかわいらしい人間性がでるのではないだろうか。風呂場のいじめシーンも、女の悲しさがもっと出るかもしれない。けれど、そうなってしまうと映画はまったく違ったものになってしまうだろう。
 うーん。
 私のなかでは、まだ、整理がつかず、ことばがごちゃごちゃうごめいている。映画の途中で、隣の男が出て行ってしまったが、そうだなあ、そういう見方がこの映画にはいちばんいいのかもしれない。ちょっと見て、こんな映画か、と思って出て行ってしまう。結末(ストーリー)なんかはどうでもいい。こんな女がいるんだ、そうわかればいいのかもしれない。私もそうすればよかったのかも。そうすれば「この映画は傑作だ。結末は見ていないんだけれど、大傑作だ」と言いふらしていたかもしれない。





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岸田裕史『メカニックコンピュータ』

2012-09-10 10:13:54 | 詩集
岸田裕史『メカニックコンピュータ』(澪標、2012年06月01日発行)

 岸田裕史『メカニックコンピュータ』は詩集のタイトルがとても奇妙である。コンピュータはもともとメカニックであると私は思っている。ところが岸田はそうは思っていないのだろう。だから「メカニック」とわざわざ強調しているのだろう。
 まあ、メカニックにはいろいろな意味があるだろうけれど。
 私の考えるメカニックにはふたつの要素がある。ひとつは、それがメカニックであるかぎり、その構造を利用してつかえばあることが「定型通り」にできる。コンピュータというとおおげさすぎるが、たとえば私の使っているワープロ。これは「あ」を叩くと「あ」の文字になる。「あし」と入力し変換キーを叩くと「足」になる。「脚、葦」などにもなるが、「手」には絶対にならない。これは、しかしいいかげんなものだと思う。嘘がつけないのである。嘘がつけないものは、まあ、信用に値しない。なぜかというと、何も考えないから嘘がつけないのである。考えるものは嘘をつく。我が家の犬だって嘘をつく。フードを食べた後、デザート(?)のおやつをねだるというのが行動のパターンだが、おやつが先にほしいときは食べたふりをするのである。もちろん犬だから、完璧な嘘はつけない。「食べた?」と聞くと、ほんとうにフードを食べたときはぺろりと口の周りをなめて満足したと告げるのだが、嘘のときは「食べた?」と聞くと悩むのである。ようするに嘘がばれる。それでも嘘をつく。コンピュータにはこういうことができない。「定型」の反応しかできない。
 もうひとつは、いま書いたことの裏返しなのかもしれないが、あらゆる「言語」が「共通言語」になってしまっているということである。専門家に言わせれば、その共通言語にも差別化はあるのだろうけれど、そこには「数学」という「共通言語」が全体的に存在し、支配している。これは透明で美しい。だからときどき「不純物」が混入すると「化ける」。意思の力で「不純物」を無視して動きつづけるというわけにはいかない。正常であるために、常に排除の法則が働いている。「あし」と入力して「足」にならないなら、何らかの「不純物」が混入している。それを排除しないかぎり、正常にはうごかない。ばかばかしいことに、正常以外は存在しないという世界がメカニックの世界である。
 ここから、それではメカニックでは処理できないことがらが起きたとき、つまり新しい何かにであったとき、どうするかという問題が起きる。メカニックにできることは、その新しいものを、既知のもので処理できるところまで処理し、処理できないからこれは「新しい」という結論を出す。めんどうくさい。「これは新しい」と直感として理解した上で、それまでのメカニックを解体するという方向には向かえない。それまでのメカニックを解体する方に向かうにしても、一度は、それまでのメカニックを総動員して点検しなくてはならない。
 これはほんとうにめんどうくさい。けれど、めんどうくさいものには、おもしろいものがある。そこにはたぶん「詩」がある。わけのわからないものがあり、そのわけのわからないものに触れながら、「私自身」が「私ではなくなる」瞬間がある。そこまでいくにはほんとうに時間がかかるが、いってしまえばエクスタシーだから、すべて忘れることができる。

 さて。
 では、岸田にとって「メカニック」とはどういうことなのか。

電源を入れ
身体の中に明かりを灯す
毛細血管に電流が流れ
頸動脈が膨れあがる
さらに電圧を上げ
大脳皮質に電気エネルギーを注入する
覚醒した神経細胞がぶつかり合い
心筋大動脈が収縮する
動脈に韻律が流れ
内皮細胞の壁に激しくぶつかる

 「韻律エネルギー」の冒頭だが、これは「人間の身体(私の身体、岸田の身体)」をコンピュータに見立て、身体にコンピュータを重ねることで、身体内部に起きていることを描いている。身体を、いわばコンピュータの言語で書き直している。そこにはエネルギーの運動の「定型」が描かれている。定型であるという点では、まあ、メカニックである。でも、数学の美しさは感じられないなあ。
 後半。

このまま律動を放置すれば
体外に飛び散ってしまう
律動を制御するため
収縮速度を上げ
電磁誘導エネルギーを過電流に変える
韻律は循環器内にとどまり
磁性体となって高速スピンを繰り返す
目視できるとすれば
網膜欠陥を通過する時だけだ
眼底をよぎる韻律は帯電し
フィラメントのように輝いている
その輝きに眼底が満たされた時
凝縮された韻律は
喚声とともに体外に放射される

 「異物」とまではいわないが、電圧が高くなりすぎ、安全を守るために、それを放出する。そのことを、これまた定型通りに処理する。「メカニック」とはあくまで「定型」なのだ。
 この「数学」がもっと徹底して、たとえばベルグソンのことばの運動にまで行ってしまえば、それはほんとうに美しいと思う。何かよくわからないけれど、この正確さは異常、つまり日常を超越しているということが直感につたわってくる。この美しさをはっきり把握できないのは、私が数学をさぼってきたからだな、ということが反省としてわかる。そうして打ちのめされる。
 あ、これは私の単なる「感覚の意見」であって、いいかげんなものです。私はベルグソンの読者ではないのだけれど、ちらっちらっと読むかぎりでは、ベルグソンは徹底的な数学者だね。数学を利用してことばを動かしている。常にことばの奥に、「数式」がある。「数式」(数学的処理能力)があるから、ことばのスピードを自在に加速させ、飛翔できる。
 余分なことを書いたね。

 余分なことしか書くことができない。

 なんといえばいいのか、岸田のメカニックには、メカニック自身がもっている恍惚がない。「定型」でおわっていて、定型をのがれて暴走する「自律」がない。岸田のメカニックは「定型のメカニック」であり、それがおもしろくない。
 エネルギーの増殖と、その放出による自己保存を「身体内部」から描いているのだけれど、どうもねえ。

 原因は、たぶん、「メカニック」を単に利用しているだけという生き方にあるのだと思う。「メカニック」を何かを理解するための「下図」として利用しているといえばいいのかな?
 「重畳の声」という作品。

この声は本当に自分の声なのか
振幅スペクトルが乱高下し
自分の声が識別できない
暗箱のそこで低周波に攪拌され
他人の声と重畳している
あるいは自分の声が重畳しているのか
わからない 自分の声が

 「重畳」ということばを私はつかわないが、たぶん、文字から判断するに、重なり合うことだろう。そこに「下図」につながるものがある。どちらが「下図」かわからない。自分の声と他人の声が幾重にも重なる。このわけのわからない幾重にも重なったものを明確に分類するには「振幅スペクトル」を利用すればいいのだろうけれど、それもうまくいかない--と岸田は書いているのだろうが、その識別にコンピュータの分析メカニック(振幅スペクトル)を「下図」として利用する、というのは、
 うーん、
 それって、コンピュータのことではなく、人間のことじゃない?

 で、ここまで書いてきてやっとはっきり言いたいことがわかったのだが、岸田は「メカニックコンピュータ」と書きながら、主題は「コンピュータ」でも「メカニック」でもない。人間の(私の)ありようを、コンピュータを利用してメカニック風に書いてみましたということなのだと思う。
 で、その結果、人間もメカニックコンピュータも書き逃している。

 いちばん足りないのは「韻律」「声」ということばが岸田の詩に出てくるのだが、「音楽」がない。音楽が数学的であると発見(?)したのはたしかピタゴラスだったと思うけれど、音が数学的に調和しながら増幅するという感じがない。メカニックなのもは、みな、その数学と音楽の融合した「暴走」寸前のものをもっていると、私は直感的に思っている。それにふれると、思わず、その先に行ってしまいたいという欲望を誘うものだと思う。岸田のことばは逆向きに、「メカニックの下図」をこれだけ知っています、という方向へ「設計図」ふうに下降していく。
 「設計図」なんかなくても、そのままつかってしまえるのが現代のメカニックである。なんだか「時代後れ」という感じがしてしまう。
 いまは、だれもがOSなんかは気にしないで、コンピュータを表層的につかっている。表層を暴走していく。それがいいことであるとは私は思わないけれど、もう表層を暴走するしかないというのも「事実」である。そうであるなら「表層のメカニック」へと視点は動いていかないと現代と向き合ったことにならないだろうと思う。表層のメカニックから逆走して深層のメカニックに変更を迫るという具合でないと、おもしろくないなあ。





メカニックコンピュータ―岸田裕史詩集
岸田裕史
澪標
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ダニエル・エスピノーサ監督「デンジャラス・ラン」(★★)

2012-09-09 09:16:12 | 映画
監督 ダニエル・エスピノーサ
出演 デンゼル・ワシントン、ライアン・レイノルズ、サム・シェパード

 やたらとアップの多い作品である。顔が映るときは天地がスクリーンからはみだす感じである。アクションもカメラの位置が肉体にとても近い。ちょっと目が痛い。スクリーン全体を細部が埋めすぎる。余白というか、余裕がない。カーアクションもひたすら接近した動きである。
 理由は。
 と書いてしまうと、まあ、いやらしい勘繰りめいた感想になるのだが、ストーリーをそのまま映像化したらこうなった、ということ。主役のライアン・レイノルズは現実に何が起きているかわからない。デンゼル・ワシントンの周辺で何かが起きている。デンゼル・ワシントンがいのちを狙われているということはわかるが、全体の「構造」がわからない。わかるのは今、自分が見ている目の前の「現実」だけ。で、この非常に身近な、肉眼で見える部分だけは理解できるが背後がわからないというストーリーを、そのまま肉眼を強調したカメラでとらえると、こうなりました、という感じ。
 デンゼル・ワシントンが何を考えているのか。そしてライアン・レイノルズは何を感じたのか。それを肉眼で見える表情から読みとる。それを観客にも強いる。同じ体験をしろ、と観客に迫る。まあ、それはたとえばデンゼル・ワシントンが拷問を受ける場面や、デンゼル・ワシントンがライアン・レイノルズに対してCIAの組織、その活動はこういうものだと語って聞かせるシーンではなかなか効果的である。心理を浮き彫りにするには、目をはじめ顔のちょっとした表情が重要である。デンゼル・ワシントンは余裕たっぷりに「心理」を楽しんでいる。拷問シーンで、タオルの重さ(水を含む量がタオルの重さによって違ってくる)を指摘し「600 グラムのタオルでないとだめだ」というシーンなんかはおもしろいなあ。拷問をしてくる相手に自分はこれだけ知っていると言い聞かせていると同時に、これから起きることを自分自身にも語り聞かせている。こころの準備をしている。そうか。心理戦というのは、こころの準備のことなのか、とわかる。
 でも、こういうことが効果的なのは、そこでのみアップがつかわれるときだろう。全編をアップの映像がつづくのはつらい。だいたいカーアクションがそうなのだが、そんなところに「真理」を持ち込んでどうするのだろう。アップの激しい動きでは、動き全体が見えず、そんな全体の見えないところでほんとうに戦えるのか、という疑問の方が強くなる。危険が迫っている、という感じが逆に遠くなる。
 これはスピルバーグの「激突!」(★★★★★)と比較するとわかる。「激突!」でもタンクローリーのアップがぐいぐい押してくるが、そのときのアクションはとても単純である。ただ後ろから追いかける。まっすぐに追いかける。だからこそどんなにアップであっても、そこに動きの全部がある。でも「デンジャラス・ラン」は違うでしょ? 全体の動きが見えず、ただ限定された一部がアップで見えるだけ。そのアップはたしかに日常では見ることのできないものだけれど、それでどうしたの? 日常で見えないものを撮れば映画? カメラの仕事を間違えているね。 
 つくっている側は、いや、このアップの連続だからこそ、ライアン・レイノルズの表情の変化をとおして彼の「成長」の具合が克明にわかる、というだろうけどさ。そんな裏話というか、映像の工夫なんて、見えてしまったら何にもならない。映画館を出た後、ライアン・レイノルズは気骨のあるエージェントに成長したな、なかなかいい男かもしれない、とふと感じさせる具合でないとおもしろくないのである。デンゼル・ワシントンの好き放題の演技、こういうことができてうれしくてしようがない、というこころが透けて見えては映画にならない。サム・シェパードもなんだかなあ。こういうアップで見せる存在感では負けちゃうね。全身の姿に生きる姿勢のようなものが出てくる役者(脚本家はもう廃業?)には、こういうカメラはあわない。


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大江麻衣『にせもの』(2)

2012-09-08 10:25:14 | 詩集
大江麻衣『にせもの』(2)(紫陽社、2012年08月25日発行)

 やや終わりの方に「大入道の首」という詩がある。読んだことがある。「初出一覧」を見ると「現代詩手帖2012年4月号」とある。そうか、そこで読んだのか。投稿欄だったのかな? そうならなぜ大江が現代詩手帖賞をもらっていないのだ、おかしいぞ、とちょっと怒りたい気分である。とても新しいのに。ほんとうに新しいのに。
 感想も書いた記憶がある。「四日市々」という表記について書いたように覚えているが、それ以外は覚えていない。私は記憶力が弱い。同じ感想を繰り返すことになるかもしれないが、まあ、気にしない。私の「日記」の読者は、推測するに1週間に多くて10人くらいなものだから、おもしろいと思った作品については何度でも同じことを書いておこう。(読者が10人くらいだから、そのなかには、この感想は読んだと覚えている人がいるかもしれないけれど、書いた私が忘れているのだから、はじめて読む気持ちで読んでください--と、わがままを書いておく。)
 図書館の位置、最寄りの駅のことを1連目に書いてある。私は固有名詞が苦手なので、1連目の引用は省略。2連目。

昔は諏訪が中心で、市役所あたりに色があった
今は歩いているうちに景色が消えていく道である
JR付近には色が無い
ひとつの町が、少しずつのかたまりになって、離れて消えていった

 「市役所あたりに色があった」。この「色」のつかい方がおもしろい。少しつまずく。少し、というのは「色」からなんとなく華やかな感じを想像し、そうか、にぎわいは「色」なのか、と思ったりするからだ。大江がどういう気持ちで「色」ということばを書いたのかわからないが、私は、そんなふうに「誤読」する。「誤読」できるだけのふくらみをもった、豊かなことばだ。言い換えると、「流通言語」のように「経済的」ではない。余分が多い。なんというか、古い人間の「暮らし」のようなものが「色」ということばの奥にあって、それがどこからともなくやってきて、すっと私をつかまえてしまう。つかまえられて、私は「誤読」する。この瞬間が楽しい。
 で、その楽しさなのだが、これはきのうも書いたことだけれど「古い」。古くさい。というか、「流通言語」が振り捨ててきたもの、隠してきたものである。たしかに、そういう「色」というつかい方があったなあ。それはたとえば、「あの男には色がある」というようなつかい方に似ていて、うまくことばにならないけれど、何かある色を見たときにこころに入ってくる印象、その印象の力のようなもの、その力ゆえに、「あ、あの男」と思うような何かである。そういう印象の力をなぜ「色」と呼ぶのかわからないが、ね、聞いたことがあるでしょ? そのときの「古い記憶」につながる「古さ」。そして、これは「古い」のだけれど、なぜか「新しい」。「新しい」と感じさせる力がある。
 で、この力は、きっと大江の「文体」から生まれているのだが、この説明がかなりむずかしい。ややこしい。
 で、その前に、「色」の補足。「色があった」の「色」は次の行で「景色」ということばで補足されている。風景に色を感じるとき、魅力を感じるとき「景色」になるのかな? この風景はきれいだ、とはいわずに、この景色は見事だという--かどうか、断定はできないけれど、まあ、そんなつかいわけはできるかもしれない。「色」はことばではいいつくせない何らかの魅力だ。「色即是空」の「色」とも通じるのかな? 具体的な存在。具体的としか言えない「感じ」。--こういう「感じ」を振り捨ててことばを動かすと「経済的」になる。「流通言語」になる。そういうふに考えると、大江のことばは「流通言語」以前に踏みとどまり、その立ち位置に「過去」を噴出させるものだともいえるかもしれない。その「位置」に立ち止まるときの、そのふんばり方、肉体の構え方が、まあ、文体ということになるのかもしれない。
 で、そのふんばり方というか、立ち止まり方というか……。

ひとつの町が、少しずつのかたまりになって、離れて消えていった

 これは大江の文体のなかではかなり異質の、省略の多い一行である。それからまず見ておく。(わ、偉そうに書いてしまった。--そう気がついたけれど、私は40分で書きつづけるだけなので、書き直さない。)
 この一行は、にぎやかだった商店街が、一軒シャッターを降ろし、また一軒シャッターーを降ろし、そうのち更地になりという具合に、街に空き地ができ、それは別な見方をするといくつかの「かたまり」に分断され(切り離され)、やがて「離れて消えていく」という形になったということだろう。「街に空き地ができて」と私が書いたような説明が省略されている。
 なぜ、そういう説明が省略されているかというと、そこに書かれていることがらは、うまく大江の肉体に入って来ないことがらだからである。毎日、それを見ていたなら(大江がその街の住民だったら、そこが大江の暮らしの現場だったら)、きっとそういうことにはならない。そこには、なんといえばいいのか、「色」に似たことばがからみついてもっと違った文体になるはずである。
 大江のことばは大江の立ち位置(暮らしの現場)ととても密接なのだ。

「四日市々」
と書いている若い人はもう見ない
「四日市々」と書いた時代
四日市とおなじなのだから、市は々…
と大手を降って歩いていた

 「四日市々」には古い表記の「経済学」がある。合理化がある。いまは、それは消えてしまった。ことばの経済学も不思議な具合にかわるのである。かならずしも合理化一辺倒ではない。かわるときにはかならずそこに別の合理化(資本主義的経済学)が働いているのだが、まあ、そんなことはどうでもいい。ただ、大江は、そういうことを丁寧に見つめる。そのなかで起きていた「経済学」を「四日市とおなじなのだから、市は々…」と説明している。この丁寧な説明の仕方と、「ひとつの町が、少しずつのかたまりになって、離れて消えていった」はずいぶん違う。
 さっき私は、「街に空き地ができ云々」が省略されていると書いたが、その省略のかわりに「少しずつのかたまりになって」ということばが書かれている。言い換えると、大江は、私の指摘したこととは「反対」の側から「景色」を眺めている。この「反対側」というのが、もしかすると、大江の「文体の基本」かもしれない。
 ちょっと「飛躍」したね。「誤読」に加速がついてしまったね。その飛躍・加速を利用して言ってしまうと……。
 大江は原因をひとつひとつ積み上げて結果を描くという文体をとらない。過去から現在(いま)、未来へと時間を動かさない。逆なのだ。現在(いま)から過去を見る。しかもそのとき、過去を「原因」として見るのではなく、「過去」のこういうものを振り捨てて現在(いま)があるという具合に見つめる。それは、必然的に、振り捨てた古いものを「いま」に噴出させる形をとる。「古い」何か--しかも、それはずーっと肉体にからみつくようにしてあったのに、「少しずつ」、知らないうちに引き剥がされてしまったものなのである。「経済学」がじわじわと引き剥がしていったものなのである。これを、大江はなぜか、覚えている。
 覚えているものは、つかえる。そして、それをつかうとき、いやあ、不思議だねえ。思わず、「そうだ、そのとおり」と私の肉体は叫んでしまうのである。共感だね。何に共感し、その共感が何を育てていくのかわからないけれど、肉体が、あ、重なってしまったという感じ。

四日市とおなじなのだから、市は々…
と大手を降って歩いていた

 そうだねえ。なぜ「市々」と書くの? 「おなじ文字を繰り返すときは々、知らないの?」そういう「経済学」が「大手を振って歩いていた」。その説明を聞いて、ふーんと感じている大江がいる。すこし利口になったように錯覚している大江がいる。その感じを、私は肉体で感じてしまう。それは、まあ、私もそういう「博識」になるほどと思った体験があるからだね。「意味」ではなく「体験」が重なり、それがふっとあらわれてくる--その「古い新しさ」。「あらわれる」ものは何だって「新しい」のである。「あらわれる」という動きの瞬間のなかに「新しさ」がある。

やがて、市の価値を感じましょうと
「四日市市」(負けた…)
ありがたみを感じる時期になっている
図書館までの道を舐めるように歩きなさいと市が強要する
それまで、四日市、のあとに繋がる単語は
市ではなく
ぜんそく だった

 「市の価値を感じましょう」という「理由」が「四日市市」という表記の裏付けになるかどうかは知らない。でも、そういうふうなことを大江は聞いた記憶があるんだろうなあ。ことばは、自分ひとりでつかうものではないから、どうしても「経済学」に支配される。そういうことを、感じながら、大江は同時に、「それまで、四日市、のあとに繋がる単語は/市ではなく/ぜんそく だった」とも書く。この部分が、また非常におもしろい。「四日市ぜんそく」ということばを、いまどの世代の人まで「実感」できるかわからないが、たしかに「四日市」は「四日市市」ではなく「四日市ぜんそく」というひとつながりのことばだった。「ぜんそく」があったから「四日市」があった、と書いてしまうと、ぜんそくで苦しんでいるひとに申し訳ないが、たしかにそうだったのだ。
 で、大江の文体に強引に関係づけて書くと、ここにふいにでてきた「繋がる」ということば、これが大江の「キーワード」である。「四日市、のあとにつづくことば(単語)」ではなく、あくまで「繋がる」単語なのだ。
 「つづく」も「繋がる」もおなじと感じるひともいるかもしれないが、私は違いを感じる。「繋がる」の方が対象との関係が強固である。結び合わさっている感じがする。大江は、(と、ここで私はまた飛躍する)、大江の肉体と結び合っていることばをほどきながら、そのほどきめに「過去(古い体験、古い肉体)」を開いて見せる。噴出させる。
 先に書いたことの別のことばでの繰り返しになるが、大江は、何かと何かをつないで別の何かをつくる(過去から未来へ、原因から結果へ)というのではなく、いまここにある「結び目(結果)」をほどいて行く。そうすると、そのほどいたところから、体験と肉体が噴出してくる。どうやっていまをほどくか--ということろに、大江の肉体と体験が知らず知らずに噴出してくる。
 それがおもしろいのである。
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大江麻衣『にせもの』

2012-09-07 10:44:17 | 詩集
大江麻衣『にせもの』(紫陽社、2012年08月25日発行)

 大江麻衣『にせもの』はたいへんおもしろい。今年いちばんの詩集である。間違いない。まったく新しいことばが動いている。で、どこが新しいかというと、古いところが新しい。というのは矛盾した言い方になるが、ことばがぜんぜん新しくない。古いといっても、古くさいわけではない。それなのになぜ古いというかというと、古いとしか言いようがないからである。どんなふうに古いか、ということを書けばいいのかもしれない。で、どんなふうに古いかというと、簡単に言うと。
 そのことば、つかわない、という具合に古いのである。なぜつかわないかというと、そんなことを書いてもぜんぜん新しくないという気持ちが働いて、つかう気になれないのである。つまり、これは詩のことばに向いていないなあ、つかうことはないなあ、と思って捨ててきてしまったことば--そういう印象を、ぼんやりと与えるところが「古い」としか言いようがないのである。
 「あたらしい恋」の書き出し。

考えることの長さには限界があるのでひらがなではなく漢字で
書く。この最初の字がとても好きだ。昔の辞書でも探す、彼の
うまれた時はその意味であったのだから、その意味を託されて
つけられたのだから、その意味を込められて半生を引きずって
きたのだから。

 いきなり「考えることの長さには限界があるのでひらがなではなく漢字で書く。」と言われても何のことかわからないが、これは気にしない。誰だってはじめてあった人のことはわからない。「おはようございます、こんにちは、こんばんは」はそういう知らない人に対して、私は怪しいものではありませんと呼びかけることばである。私はこういうあいさつ仕方を知っています。それはあなたか知っているものと同じでしょ、という接近の仕方なのだが、それは知らないこと、わからないことを言っても安心してね、というあらかじめの言い訳なのだ。
 で、人は、知らないこと、わからないことを言うものである。いっしょに暮らしているわけでもないのだから、わかるわけがない。いっしょに暮らしていてもわからないものである。だから、わからないことは気にしない。わからないことがあるというのは、その人が私ではないということなのだ。それがわかればいい。
 つづきを読んでいくと、どうやら「わたし(話者=大江)」には好きな人がいるらしい。その人の名前を漢字で書いてみる。それから辞書で、この漢字の意味は何だろうと調べてみる。いまの辞書だけではなく、「昔の辞書」も引いてみる。「昔の辞書」は彼が(で、いいのかな?)の生まれた時の「意味」も書いているから。--というのは、どこまで事実なのかわからない。ことばは急速に変わるけれど、変わらないものもある。まあ、いいのだ、そういうことは。大切なのは「昔の辞書」というこだわり。その辞書のなかに意味を探しに行くということ。そのなかには、私たちが捨ててしまった「古い」何かが残っている。それを探してみようとするところ。
 この、捨ててしまったけれど、まだどこかに残っているものをすくい上げて、それを抱きしめて、もう一度、そのことばを生きてみる--そうすると、「わたし」は「彼」との時間のなかで重なる。それは時間ではなく、まあ「肉体」なのだけれど、というのは、詩のつづきを読むとはっきりする。

       字は後からついてきた。何度も書く漢字は性的
な意味を持ってくる。これが彼の体であり存在なのだ。何度も。
最初の一画があなたの爪になる。すべて書き終えるとそこに肉
体だけが横たわっているのだ。

 「捨ててしまった時間」が「肉体」であるということは、詩を読むと「はっきりする」と書いたのだが、この「はっきりする」というのは、別なことばで言えば、「わからなくなる」、「わからないけれど、そんなかんじじゃないかな」という思いが強くなるの、「強くなる」という感じのなかにある。どんな感情にも、ことばにはならないけれど、ことばにならないからこそ、「あ、これだ」という思いが強くなるという瞬間があり、こういうとき「わかった」「わかる」という思うでしょ? 「わかっているけど、それが言えないだけ」と言えばいいのかな?
 「字は後からついてきた。」これ、何? どういうこと? あ、好きな人の名前を漢字で書いてみればわかる。漢字を書くとき、ほんとうに漢字を書いているのかな? そうではなくて、名前を呼んでいる。そこに彼はいないので、返事はない。そのかわり、そうか、これが彼の名前の漢字だったのか、と思ったりする。まあ、漢字を知らないと名前を書くことはできないのだが、「思い」というのはそういうことを無視して、書いてしまったあと、「そうか、これが彼の漢字なのか」ということを発見する。ここには「時系列」の混乱があるのだけれど、そういう混乱が「好き」ということだろう。
 さらに書いている内に、彼のことを思う。抽象的手はなく、具体的に、つまり肉体として目に見えるもの、手で触れるもの、あるいは舐めることができるもの、においをかぐことができるものとして浮かび上がってくる。それは、「わたし」にとって知っているもの、わかっているものなのだが、そうやって思い出してみると、いまはじめて知った、いまはじめてわかったという感じがする。「いま」しかないという気持ちになる。これもまあ、「論理的」に考えれば変なことなのだけれど。そして、その「変」のなかには、やっぱり、捨ててきてしまったものが、その「過去」から一気に噴出してくるようなもの、「過去」が「いま」になってしまうような感じの矛盾がある。古くさいことが(つまり知っているはずのことが)、新しく、なまめかしく、うれしい。古くさいことが(知っているはずのことが)、知らない何かへ導いていく。

言葉をかわせば、その話がどこに到達するにせよ終わるまえに
わたしはもう、くびすじに短歌を繰り返している。恋は昔から
歌なのだからと、くびすじ、の部分をあてはまるように替えて
いくのだ。こんな恋は到底出来ない。よろこびにおどる歌詞で
は出来ない。どんなうれしさからも遠い。肉体で好きだと思っ
ている。互いの話に興味がないのだ。でも喋りたい。声は肉体
に跳ね返る。
その感じが生まれるための花のこと、その起源から流れるあな
たの仕事のこと。そのことを教えたい、と肉体が思っている。

 「くびすじの短歌を繰り返している。」これは変なことばだねえ。論理の脈絡がわからない。わかないのに、「くびすじ」も「短歌」も「繰り返している」もわかる。こういうところが、ようするにまったく新しく、ほんとうに古くさい。捨ててきてしまったものだ、という感じをさらに強くする。
 別なことばで言えば。
 「くびすじ」「短歌」「繰り返している」という「わかる」ことばが、そのまま私の肉体に直接くっついてくるのである。「短歌」というのは「頭」を潜り抜けるけれど、その頭を潜り抜けた後は、やっぱり肉体にはりついてくる。「くびすじ」と「繰り返す」ということばが、何かを動かす。ことばにならないものを動かす。そして、「くびすじ」は大江が書いているように、「くびすじ」ではなく他の「(肉体の)部分」を探しはじめる。「耳の後ろ」「背中のねじれ」「足裏」「指の先」。どこか、私にぴったりの「くびすじ」にかわる場所があるはずだ、と探しはじめる。--そして、このとき、その「探しているもの」をこそ、私たちは知っている。わかっている。「そこ」と。
 それは、すでにことばになってしまっている。けれど、「わたし(大江)」のなかではまだことばになっていない。「肉体」のままの状態だ。だからこそ、ことばを書く。「肉体」のどこかなのか、を書く。探しながら書く。そして、それが見つかるまでのあいだは、不幸といえばいいのか、幸福といえばいいのかわからないけれど、それは「肉体」である。
 不幸か幸福かわからないというのは、「部分」がわからないとき、そのわかっていることは「肉体全部」であるからだ。これは絶望でありながら至福だ。ここには、激しい往復がある。肉体を駆け抜ける気持ちの「強さ」がある。
 こういうことは、たぶん、だれもが知っている。わかっている。つまり経験している。そして語り尽くされているとも思っている。だけれども、それはいつでもほんとうは「新しい」。古いからこそ、新しい。それは別のことばで言えば、「つづいている」のである。つづいていることのなかに「意味」がある。「肉体」の「部分」は「てのひら」とか「くびすじ」とか名前はいろいろあるが、それは切って取り外すことはできない。「肉体」が「つづいている」ように、私たちのことばも何かと「つづいている」。その「つづいている何か」を大江は「肉体」のように目の前に存在させる。

 これはすごい。
 すごいなあ。
 --そう思うと同時に、私は、ちょっと、大江に嫉妬している荒川洋治の姿を思い浮かべた。ここには荒川洋治の書きたいことが全部書かれている。大江は突然あらわれた荒川洋治を超えた詩人なのだ。
 荒川がすごいのは、そういう詩人をきちんと受け止め、その詩を詩集にして出版していることだ。



 アマゾンのアフリエイトバーがないので、詩集の出版元・紫陽社の連絡先を書いておく。170部の出版なので、売り切れにならないうちに買ってください。この詩集を読まないと、2012年の大事件とはぐれてしまいます。
〒189-0011 東村山市恩多町4-41-41 紫陽社
FAX 042-392-8854



忘れられる過去
荒川 洋治
みすず書房
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エリック・ヴァレット監督「プレイ(獲物)」(★★)

2012-09-06 11:40:32 | 映画
監督 エリック・ヴァレット 出演 アルベール・デュポンテル、アリス・タグリオーニ、ステファン・デバク

 手の込んだ脚本、というよりも。ご都合主義ですねえ。そこがフランスっぽい。映画だからリアリティーなんてなくてもまったくかまわないのだけれど、もうちょっと丁寧に描かないと。
 たとえばアルベール・デュポンテルが銃で撃たれながら逃走する。主人公が不死身なのはかまわないけれど、そして自分で傷の手当てをするのはかまわないけれど、ほら、傷の手当てをするならちゃんと銃弾くらいは体から取り出して。そのままにしておいて、傷口をガーゼとテープでふさいだだけなんて許せないなあ。そのくせ逃げる途中で傷口の出血と痛みを気にするんだからいやになってしまう。
 おもしろいのは冒頭のセックスシーン。描写そのものは特に変わっているわけではないのだが、そうか、フランスの刑務所は「個室」もあって、そこで面会できるのか。セックスできるようになっているのか。さすがだねえ。刑務所には入ったことがないので日本ではどうなっているかわからない。アメリカ映画にもそういうシーンはみかけないから、アメリカにもないだろうなあ。
 で、やっぱりフランス、と思うのは。やっぱりみんなわがまま放題と思うのは。
 連続暴行殺人犯を追いかけていくとき、主人公以外に、そして警察以外に、個人がかってに追いかけていくということ。ひとりは「犯人はこいつだ」と思って追いかけていく。もうひとりは「犯人は誰だ」と思いながら追いかけていく。そういう「個人」の行動をきちんと(?)描いていること。「個人」の思い(恨み)が大事なんですねえ。
 これはこの映画のストーリーの核になっている男アルベール・デュポンテルの描き方も同じ。娘がいて、愛人がいて、というのは、まあ、いいんだけれど。この男の行動を支配しているのは娘への愛、娘かわいさ。 400万ユーローを盗んで隠している、ということはぜんぜん追及されない。それを追及するのは、刑務所に入っている仲間だけ。「どこに隠しているんだ」と、こちらはこちらで「個人主義」丸出しで、自分の利害にしか目が行っていない。
 「個人」の思いが大事--というのは、まあ、個人的な恨みを晴らすために連続殺人犯を追いかけている二人のほかにも(まあ、これはスパイスのようなもの)、たとえば次のシーンにあらわれる。
アルベール・デュポンテルを女刑事が追いかける。その女刑事と男が逃走の途中でぶつかり、女刑事は男を取り逃がしてしまう。で、そのとき取り逃がしてしまった理由を説明するのに、「私を撃てたのに撃たなかった。だからあの男は殺人犯ではない」云々というようなことをいうね。上司は「女のカンか」と冷たい目でにらむのだが。逃がした理由に、「犯人には思えない」という個人的な感想を持ちだす。ここが激しく「個人主義」だねえ。わがままだねえ。
 いや、ほかのご都合主義の映画でも、刑事が「あいつは犯人ではないと思う」と言ってあれこれ調べ、真相をつきとめるというストーリーはあるんだけれど、ここへ美人の色っぽい刑事をもってきて、そういわせるところが「個人主義」。そんなことを言わせなくたって、観客はアルベール・デュポンテルが犯人ではないと知っている。それをわざわざ「犯人ではないと思う」と言わせないと気がすまないところがフランスっぽいなあ。「個人」であることを強調している。「女のカンか」は、その念押しみたいなもの。「男の論理」と「女のカン」は完全に分離している。つまり、手をつなぐ要素がない。この断絶を断絶としてぱっと存在させてしまう。そこからフランスの「個人主義」は始まる。あんたはあんた、私は私、関係ありません。そのくせ、そこで「女のカン」のように自己主張しないと、フランスでは人間として認めてもらえない。つまりわだままを言わない人間は人間ではない。意思をもっていない。だから、無視していい--という論理があると思うなあ、フランスには。
 で、そういうとき(といっても、無視されたときではなく、わがままはわがままとして認めるけれど相手にされないときのことだけれど)、どうするか。反省しません。わがままを押し通します。女刑事は、自分の思い描いたストーリーに合うよう、「事件」の「過去」を探して行く。「原因があって結論がある」ではなくて、「結論があって原因がある」という感じだね。フランスの個人主義は、みんな、これ。ある事実を踏まえていくと結論がこうなるという形をとらない。私はこういう結論を思い描いている。だから、それにあわせて原因を探してみました、という感じ。
 連続殺人犯を追っている憲兵出身の男も「犯人はこいつ」とにらんで、それから「証拠」を探している。証拠を積み重ねて犯人はこいつ、と言っているわけではないね。
 で、こういう逆な発想が大好き、これぞ個人主義の醍醐味(?)というのは、おもしろいシーンにつながることもある。アルベール・デュポンテルが警察の追ってから逃げる最初のシーン。そのなかに走ってくる車と対向する形で逃げるシーンがある。逆走だね。これは危ない。同じ方向に走るならぶつかる心配はない。でも逆走はぶつかる危険だらけ。それでも逆走する。これが、まあ、おもしろい。アメリカ映画のようにCGを駆使してつくるのではなく、一生懸命「生の肉体」で走って逃げて、そこへ車がつっこんできて、という、けっこうのろのろした感じがとってもうれしい。フランス映画もやるじゃないか、と思わず笑ってしまうねえ。
 ということで、まあ、これはフランス個人主義とは何かを考える「サブ読本」みたいな映画でした。テキトウに見ようね。
                      (2012年09月05日、KBCシネマ1)




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坂多瑩子「なつのゆうぐれどき」

2012-09-05 09:20:29 | 詩(雑誌・同人誌)
坂多瑩子「なつのゆうぐれどき」(「4B」4、2012年09月20日発行)

 ことばは「気分」で動く。きのうの井上瑞貴は「気がする」とていねいに語っていたが、だれでも「気がする」のだから、そんなことは気にしないで書いてしまえばいいのだと思う。「気がする」という「理由(donc)」は取り払って、なぜ、そんな気がするかって聞かれたって困るよ、聞かないのが約束だろう? そう言ってしまえばいいのだと思う。で、それはどういうことかというと……。(あ、私は、わりと律儀に「論理」を追いかけているね。)
 坂多瑩子「なつのゆうぐれどき」の前半。

アオダイショウだ
黒くてまるい目をしていて
寝不足など知らない目をしていて
からだはブルーグレイ
舗装道路には似合わない
まっすぐ道路を渡りはじめた
自動車がきたらどうする
前と後ろでタイヤが微妙にずれて
茶色い染みができて
そのうちひからびて雨ふって その前に蟻がきて
あたしはよけて通るけど
あんたは自分の管理ができなくなるんだよ

 道路を渡りはじめたアオダイショウ。その「運命」はどうでもいいことなのだけれど、そういうどうでもいいことにも「気持ち」は動いてしまう。そんなところでアオダイショウを見る「予定」はなかったから、「気持ち」は動いてしまう。「予定」とはあらかじめ「管理」している自分の行動だね。その「管理」の鍵がふいにゆるむのだ。でも、人間だから、鍵がゆるんだとしても、そこに人間がでてきてしまう。
 「寝不足など知らない目をして」。あ、そうなんだ、坂多は「気持ち」のどこかに「寝不足」をかかえている。ロンドン五輪をテレビでみていたせいかな? まあ、どうでもいいけれど、「気持ち」はいつでもついてまわる。
 「舗装道路には似合わない」。このことばの「気持ち」はどうつながっているかな? わからない。わからないけれど、私は太宰の「富士には月見草が似合う」という変なことばを思い出してしまう。こういうことばは先に言った方が勝ち、みたいなところがある。「似合う」ということばは、そんな具合にはつかわない。富士山のような人間ではないものに対してはつかわない。でも、そういう新しいつかいかたをすると、「似合う」ということばのつかい方が決まってしまう。坂多瑩子に月見草が似合う、坂多瑩子にアオダイショウは似合わない--では、「似合う」ということばのつかい方が正しすぎて、逆に間違っているという印象さえ呼び起こしてしまう。想像もしなかった(だれも言わなかった)ことばを結びつけて「似合う/似合わない」をつかわないと、正しいつかい方とはいえないのだ、という感じだね。
 で、坂多は「(アオダイショウは)舗装道路には似合わない」。これは太宰のことばをしってしまったあとでは驚きでもなんでもないけれど、まあ、それでいい。何がそれでいいのかというと。
 そこから徐々にずれていくのに、というか、まあ、「気持ち」の世界へはいっていくのに、それくらいの違和感がちょうどいい。ずれていく、というのは、ここから、その「似合わない」と書いた気持ちから、気持ちがアオダイショウにうつっていく。
 (似合う、似合わないということをわざわざ書くのは、相手に対して「気持ち」がうつったからだ。気にしていない人が何を着ていても、それが似合う、似合わないは気になるけれど、好きな人が新しい服を着ていたら似合う、似合わないが気になるでしょ?)
 で、車に轢かれたら、どうする? なんて心配をしたあと

あたしはよけて通るけど
あんたは自分の管理ができなくなるんだよ

 この間合い(気持ちの広がりの幅)がおもしろいなあ。
 アオダイショウの死骸なんかに触れたくない。それが「よけて」通る。肉体は「よけて」いる。「気持ち」も半分「よけて」いる。でも、「よけて」ということが可能なのは、目が「よけて」いないからだね。そうすると、そのとき坂多の肉体のなかでは、「よける」と「よけない」が入り混じっていることになる。それでも坂多は、そのいりまじったもののなからか、いちばん適切な(?)ものを選んで自分自身を動かしていく。それが、まあ「管理」だね。
 そう思いながら、「ほら、そこの君、アオダイショウ君、君はそういう自己管理ができなくなって、死んでしまうとこになるんだよ」と呼びかけてしまう。
 で、私も坂多に言いたくなる。「本気で気にしてるの?」
 さて、どう答える?
 私の現代詩講座なら、ここで読者に質問する。

あなたが坂多瑩子だとしたら、あなたは本気でアオダイショウのことを気にしている? それとも、そう言ってみただけ?

 私の質問は意地悪でしょ?
 で、私の答え(?)はというと。
 「本気じゃないけれど、つまり自分の仕事のこととか暮らしのこととかを考えるような気持ちとは同じものではないけれど、そのとき気持ちはほんとうにそんな具合に動いた。どんな気持ちでも、その気持ちが動いているときは、そのなかに本気がある。本気というのは気持ちの大小ではなく、どんなささいなことでもそれを思ったときには、それしか思えないということ。」
 つまり、そう思っている瞬間、坂多はいつもの坂多ではなく、変な人間(?)になっている。そしてそれは、傍から見てもわかるくらい変なのだ。この詩を読んで、坂多って蛇にまで真剣に気持ちを動かすの? をわーっ、変なおばさん、って思うでしょ? これは「正しい反応」ですよ。だって、ほら、詩はこんなふうにつづく。

あたしはよけて通るけど
あんたは自分の管理ができなくなるんだよ
そういってやったら
向かいの家のガラス戸があいた
なにか御用ですか
あっ ほらアオダイショウ とはいえなくて
なんでもありません
大きな声でいったのに
きょろきょろしている

 道路のアオダイショウに感情移入してしまったおばさんって、変です。そういう変な人には「なにか御用ですか」くらいの絶対的な質問がいい。
 いやあ、いい呼吸だなあ、と思う。
 「なにか御用ですか」と言ったのは、絶対におばさんだな。おじさん(男)や子どもはこんな声のかけ方をしらない。「気持ち」のぶっ飛んでいる人に対する声のかけ方をしらない。おばさんパワー(?)は、すごいなあ、と私はただただ感心してしまう。
 で、ふいに、「気持ち」がもどってくる。我にかえる。そして「なんでもありません」か。いやあ、これだってすごいよね。
 「気持ち」がびゅんびゅん飛び回る。このスピード。「donc(ゆえに)」なんてことばがないと飛躍できないおじさん(秋亜綺羅)には書けないね。

 で、傑作は。
 我にかえりながら、いったんアオダイショウに「気持ち」がうつってしまったので、「なんでもありません」と答えたくせに、戻ってくるときに方向を間違えることかなあ。それくらい「真剣」に気持ちが移っていた。「本気じゃないけれど、本気じゃないことでも思っているときは、それしか思わない」ので、どうしたって「間違えて」しまう。
 で、最後は坂多瑩子はアオダイショウになってしまって、安全な野原へ帰って行きます。

まだきょろきょろしているけど
あたりが急に暗くなってきたし
風がぴったしやんだから
あたしはあきらめて
鳳仙花の根もとをすりぬけながら進む
草が腹にこすれる
見上げると
はじけた種がとんできた

 私を見つめていたおばさん、車にはねられずにちゃんと家に帰られたかな、と心配しているアオダイショウがいる。
 いいなあ、この非論理の論理、ナンセンスのセンス--じゃなくて、意味の無意味かな?



お母さんご飯が―詩集
坂多瑩子
花神社
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井上瑞貴「雨は悲しみの車輪を回す」(あるいは秋亜綺羅詩集の補足)

2012-09-04 09:28:43 | 詩(雑誌・同人誌)
井上瑞貴「雨は悲しみの車輪を回す」(あるいは秋亜綺羅詩集の補足)(「侃侃」18、2012年08月18日発行)

 秋亜綺羅の詩のあとに井上瑞貴を読むと、ことばが重い。「雨は悲しみの車輪を回す」はジリオラ・チンクェッティの「雨」の一節を思い出させるタイトルだが、はじける感じの雨ではなく、変に重たい。

どれだけ書き込んでも一ページにしかならないノートをかかえて
目盛りにした歩幅で駅から遠くまで歩けばもっと遠くがあるような気がする。

 秋亜綺羅が、あるいは寺山修司がといってもいいのだが、書きそうな「意味・内容」である。でも、まったく違うね。何が違うかというとリズムが違う。ことばの粘着力が、粘着力というより「しつこい」。--これは私の「感覚の意見」なので、まあ、わからないかもしれない。この「しつこさ」が「重い」になる。
 そしてこのしつこさは、井上は詩として書いているのだが、散文向きである。しかもその散文というのは、きのう秋亜綺羅の詩の感想のつづきで言うと「donc」と言ってしまえばいいのに、その「donc」を持たないところからくるしつこさである。飛躍のためのことばを持たない。飛躍のことばを持たないことばの運動は、どうしても散文になる。
 特徴的なのは、二行目の「気がする」である。
 詩は感情を書いているようだが、実はあらゆることを「気にしない」。気にしていたら詩にならない。気にせずにぱっと飛び上がる。飛躍する。そのままどこかへ行ってしまう。無責任じゃない? そうです、無責任なナンセンスが詩なんです。

そのとき
水平線は赤いデニムをひき裂き
一匹の金魚を犯した
                             (秋亜綺羅「津波」)

 無責任だよねえ。金魚がレイプされたと書いて、そのことに対して何の「気持ち」も書かない。赤い金魚が犯されるとき、「赤いデニム」が引き裂かれる。この比喩のスピードはナンセンスだよねえ。比喩のスピードのなかで、「気(気持ち)」が振り落とされる。でも、それは、振り落とされたとしてもどこかに残っている。「気(気持ち)」のなかではなく、秋亜綺羅の場合、そういう比喩を成立させる「donc」、論理的理由のなかに抱え込んでいる。

そのとき
赤い金魚をいっしょに買った
恋人は
金魚とも
わたしとも
いっしょにいなかった

そのとき
水平線は赤いデニムをひき裂き
一匹の金魚を犯した

部屋の私論壁には
海の影が動いていた

そのとき、一匹の赤い
わたしの金魚は
海水魚になることを拒んだ
                             (秋亜綺羅「津波」)

 一読して、何に気づく?
 「そのとき」が繰り返されている。ことばは「donc」を抱え込んで飛躍しながら、飛躍しても飛躍しても「そのとき」に戻ってくる。戻ってくるところがあるから飛躍できる。そして、そのもどってくるところは、「気(気持ち)」ではない。むしろ、気持ちを拒絶した「事実」というか「客観」である。
 「客観」なんてものはない、と「気(気持ち)」の詩人・井上瑞貴は言うだろうけれど、そして私も「客観」なんかはないという立場に与するのだけれど、しかしねえ、「客観」のかわりにあるものが「気(気持ち)」とは言えないなあ。そんな簡単にいってしまえば、「一元論」の「ふり」になってしまう。--あ、これも私の「感覚の意見」、いや、「論理の意見(?)」かな。まあ、いいかげんな、まだことばになりきらない何かが、そう言いなさいと私に言うので、とりあえず書いてしまうことばである。
 この「ふり」に比べると、秋亜綺羅のデカルト的「二元論」は、どこかで「とりあえず二元論のふりをしているだけ」「利用しているだけ」という感じ、二元論を馬鹿にしている感じがあって、それがことばのスピードにつながっている。秋亜綺羅をほんとうに動かしいるのはデカルトの「方法叙説的二元論」ではないのだ。

 あ、井上の詩について書いているのか、秋亜綺羅の詩の感想のつづきを書いているかわからなくなってしまうなあ。

どれだけ書き込んでも一ページにしかならないノートをかかえて
目盛りにした歩幅で駅から遠くまで歩けばもっと遠くがあるような気がする。
夕暮れはないが遠くがあるような気がする。

 この3行目は魅力的なものを含んでいるが、「気(気持ち)」のせいで、とても重い。3行目までに、「だれが」という主語が出てこない。それはたぶん「私(井上)」ということなのだろう。主語は出てこないが、そのかわりに「気」が出てくる。「気」が主語であり、「気=私(井上)」という構造が隠れている。この隠された「私(井上)」の、「隠す」ということが「重い」のである。しかも「気」に隠す。ようするに「気」は「気」以外のものを含んでいる--というのは、井上から言わせれば「誤読」になるだろうけれど。「気=私」なのだから「気」は私以外のもの、つまり私の気持ち以外のものを含んでいない、というのが井上の「気の論理」になるのだろう。
 でも、「気=私」を「私=気」という形に書き直してみると、どうなる? 「気=私」ではあっても「私=気」ではないというという拒絶、「私=気」に対する拒絶が、はたして井上の肉体のなかにないだろうか。ないなら、まあ、それでいいんだけれど。ほんとうに、それがないなら、どうぞそのままことばを動かしてくださいとしかいいようがないのだけれど。
 こういうことを書いていると、だんだんめんどうくさくなる。省略して書くと、次のようなことになる。
 井上の詩の4行目以下は、つぎのようにつづく。

豪雨はどうだったのでしょうかと聞かれた。
わたしたちが出会えない理由のある街の交差点を横切りながら
永遠のほんの数瞬を刻むしかない歩幅で豪雨が通って行く。

 「豪雨はどうだったのでしょうかと聞かれた。」という4行目は、それまでの3行の世界から「飛躍」している、と見えないことはない。井上はたぶん飛躍したつもりだね。
 でもねえ。

豪雨はどうだったのでしょうかと聞かれた(気がする)。
わたしたちが出会えない(気がする)街の交差点を横切りながら
永遠のほんの数瞬を刻むしかない歩幅で豪雨が通って行く(気がする)。

 各行に「気がする」を補ってみる。(「理由のある」も「気がする」に置き換えてみる。)そうすると、その「飛躍」は一瞬の内に「気」のブラックホール、「気の重力」にのみこまれてしまう。
 井上の書いているのは「飛躍」ではなく、「気」にのみこまれる瞬間の「悲鳴」のようなものである。で、この「悲鳴」が井上の「抒情」なんだと思う。「悲鳴=抒情」というセンチメンタルが重たい--つまり、すでに存在しているものに絡みつかれているという感じを引き起こすのかもしれないなあ。
 「気がする」の通奏低音(?)に比較すると、「donc」の方が軽いね。「donc」の方が散文の語法なのに、そして「気がする」の方が抒情の、つまり詩の語法なのに、文体の軽さ、明解さ、スピードの違いもあって、井上の「気がする」の方が散文に見える。不思議なもんだね。
坂のある非風景―詩集
井上 瑞貴
近代文芸社
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秋亜綺羅『透明海岸から鳥の島まで』

2012-09-03 11:29:10 | 詩集
秋亜綺羅『透明海岸から鳥の島まで』(思潮社、2012年08月31日発行)

 秋亜綺羅『透明海岸から鳥の島まで』を読みながら、デカルト『方法叙説』を思い出した。「我思う、ゆえに我あり」というアレである。デカルトの「ゆえに」はたしか「donc」ということばだったと思う。これは、なんというか、私には「変なことば」である。よくわからないことばなのである。突然、ことばが飛躍した感じがする。
 で、よくわからない、と言いながら、わかる部分というか、「説得」させられるものもあって、(特に『方法叙説』のその部分、4章だったかな?を読むと、そうなのか、と思わないわけでもないのだが……)、とても手こずる。はっきり「わからない」と言ってしまえない。「わからない」と言ってしまうと、あとが簡単というが、私のなかでは「矛盾」がなくなるのだけれど。まあ、これは、長い話になるので少しずつ。(この「日記」には、その少しずつをずいぶん書いてきたつもりだけれど。)
 何が問題か、何が困るかというと。
 「我思う、ゆえに我あり」と言ってしまったとき、その「我」から「肉体」がすっぽり欠落してしまう。「我思う、ゆえに我の思いがある」なら、あ、デカルトはようするに「思い」というものの存在だけで「我」というものを規定しているのだと納得できるのだが、どうもそういう具合に考えているのではないようなのだ。--あ、これは素人考えですから、ほんとうは違うのかもしれないけれどね。
 「我思う、ゆえに我あり」には、何かことばが省略されているものがあって、その省略を飛び越していくときの「ゆえに」に私は一種の「うさんくささ」というか、心底納得できないものを感じている。
 で、この感覚を、秋亜綺羅の詩に(ことばに)結びつけることは、まあ、強引なんだろうなあ。けれど、なんとなく、うっすらと、そういう感じがするのである。なんというか、秋亜綺羅のことばには省略されたものがある。そして、その省略を丁寧に問い詰めていくと、かなりめんどうくさいことになる、という感じがある。
 秋亜綺羅の詩そのものではないのだが。
 表紙の絵。裏表紙の絵。そこには共通点がある。
 表紙の絵にはワイングラスが描かれている。そのワインの量をあらわす線と、背景の水平線のラインが一致している。ワイングラスの中に海がそのまま入っている。裏表紙の場合はワイングラスの変わりに金魚鉢がある。そして、その水の位置と向こうの水平線の位置が重なる。金魚鉢の中に海が入っている。--これは逆にみれば、海の中にワイングラスがあり、また海の中に金魚鉢があるということになる。まあ、それは「現実」ではなく、精神の錯覚なのであるが。あるいは視覚を中心にして世界を見つめたときの錯覚なのだが。
 「ワイングラスに水平線がある、ゆえにワイングラスは海である」
 「金魚鉢の中に水平線がある、ゆえに金魚鉢と海はどういつのものである」
 ほら、このときの「ゆえに」とそれがつくりだす世界というのは、デカルトに重なるでしょ?
 「津波」という詩。

三月十一日、午後三時十一分
そのとき、わたしの家の金魚鉢には
海が近づいていた

金魚鉢には水平線が飛び込んできた
そこには、水溶性の海岸があった

そのとき
赤い金魚をいっしょに買った
恋人は
金魚とも
わたしとも
いっしょにいなかった

そのとき
水平線は赤いデニムをひき裂き
一匹の金魚を犯した

部屋の私論壁には
海の影が動いていた

そのとき、一匹の赤い
わたしの金魚は
海水魚になることを拒んだ

金魚は遠くなる意識のなかで知るのだった
血の色は海の色だったことを

 この数連の、どこに「ゆえに」をおぎなえばいいのかよくわからないが、ことば全体の動きの奥に「ゆえに」がずーっと動いている。
 「金魚は遠くなる意識のなかで知るのだった」という1行が象徴的だ。「遠くなる意識」ということばが、たぶん「ゆえに」と深く深く結びついている。すべては「現実」なのだが、その「現実」は「意識」として把握されなおし、動いている。

金魚は知るのだった
血の色は海の色だった

 引用の最終連を、そう書き直してみると、秋亜綺羅の世界がよくわかる。「意識」ということばを省略しても、秋亜綺羅の描いている世界はつたわる。つたわるけれど、秋亜綺羅はそういう具合には書かない。「意識のなかで」「知る」「……ということ」を、と書く。この「意識」(思うということ)の強い特権的な動きが秋亜綺羅のことばを支えている。
 「ゆえに」というのは意識の特権がつくりだす「接続詞」である。「意識」がなければ結びつかないものが、意識によって「強引に」結びつけられている。その強引さ、しかし、なんとなく「わかったような感じ」の強引さが秋亜綺羅のことばの特徴である。この「わかったような感じ」の奥には、意識と強い関係がある「論理的」ということばの動きがあるのだと思う。

ほんものの花はにせものの造花だし
ほんものの造花はにせものの花だ
                            (「馬鹿につける薬」)

 この「ほんものの花」と「造花」、「ほんものの造花」と「にせものの花」のあいだには、「ゆえに」が隠されている。とても微妙に隠されているので、それをひっぱりだすのはとても面倒くさい。
 ほんものの花がある、その花がほんものであるというということは、それがにせものの造花(造花ではない)ということである。ほんものの花は、ゆえににせものの造花である。
 ほんものの造花がある、その造花がほんもののであるということは、それはほんもののはなのにせものであるということである。ゆえにほんもののの造花はにせものの花だ。
 で、このとき。
 「ほんものの花はにせものの造花だし」の「し」が、またまた、めんどうだね。
 「そして」という意味になるだろうけれど、この「し」によって前の行を裏側から見て、裏側から見ても同じ論理が成り立つ、「ゆえに」ここに書いてあること、このことばの運動は「正しい」と秋亜綺羅はいう。
 で、(またしても「で」なのだが)
 このことばの運動の「正しさ」、つまり「意味が成り立つ」というのは、「意識のなか」のできごとだよね。
 それが私には「我思う、ゆえに我あり」なんだなあ。
 でも、こういう運動を秋亜綺羅は「詩」と定義している。
 で、さらにつけくわえると。

意味のない暗号なんて、もう暗号の意味はない
考古学では、こういったものは、詩と呼ぶしかない
                   (「山本山さんはむかしママゴトをした」)


それは意味のない暗号である、ゆえにその暗号に意味はない
ゆえに、
こういうものは、ことばの意味論(哲学)においては、詩と呼ぶしかない

 ということである。
 で、私がさらに「つけくわえたもの」というのはデカルトが「我思う、ゆえに我あり」と言ったことを、秋亜綺羅は「私は思わない、ゆえに私は存在せず、かわりに詩が存在する」という「逆説(?)」のような形で書くのが大好きということ。
 で、「逆説」というのは、これもまた「精神(意識)の中」のできごとだね。それを「意識の中」と言った瞬間、また「我思う、ゆえに我あり」に引き戻される。どこまでいっても秋亜綺羅はデカルトである。詩は秋亜綺羅にとって「私の方法(方法叙説)」ということになるんだね。



季刊 ココア共和国vol.7
秋 亜綺羅,恋藤 葵,谷内 修三,野木 京子,高取 英,藤川 みちる
あきは書館
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エリック・トレダノ、オリヴィエ・ナカシュ監督「最強のふたり」(★★★)

2012-09-02 11:59:06 | 映画
エリック・トレダノ、オリヴィエ・ナカシュ監督「最強のふたり」(★★★)

監督 エリック・トレダノ、オリヴィエ・ナカシュ 出演 フランソワ・クリュゼ、オマール・シー、アンヌ・ル・ニ

 冒頭、二人が車で暴走するシーンがある。そのときのオマール・シーの目(横顔)がとてもいい。純粋である。ひさびさに「透明な目」を見た、という感じがした。隣に乗っているのは彼の雇用主であり、彼は首から下が付随である。それは知っているが、つまり彼の身体については十分に知っていて配慮もしているが、それ以上はしない--というと変な言い方になるが、ごく自然に助手席に人が乗っているという感じで、自分にとってここちよい運転をする。自分にとって楽しい運転をする。その自分の楽しみ、という感じが美しい。
 この自分の楽しみを楽しむ、という姿勢は随所に描かれている。首から下の感覚がないということを聞いているけれど、それがどんなことかわからない。間違ってお湯を足にこぼした。「熱い」と言わない。あ、ほんとうに感じないのだ。わざとかけてみても同じかな? そして実際にかけてみる。これは一種の「虐待」になるかもしれないが、オマール・シーにとっては「事実」を確認していることなのだ。事実を知るのは楽しい。だから、,それをやめることができない。
 絵を見ていて、フランソワ・クリュゼが「チョコレートがほしい」という。それに対して、「だめ。これは健常者用のチョコレートだ」と拒む。障害者用の何かというのはあるが、健常者用のというものは、まあ、ない。そのことをオマール・シーは突然発見する。「事実」の発見。それが楽しくて、何度も何度も繰り返す。また、そのとき見た抽象画がだれにでも描けそうなものなので、自分でも描いてみる。描いてみると楽しい。変なもの--というと、これも変な言い方になるのだが、まあ、描けてしまうのだ。そういう「事実」が楽しい。自分の中にある可能性の発見というと変だけれど、やはり「事実」を知るのである。それが実際に売れる--というのは、まあ、余祿だ。
 モーツァルトのオペラを見る。木が歌っている。しかもドイツ語だ。これはおかしい。こんなことがあっていいはずがない。フランスなのだからドイツ語で歌うなんてばかげている。しかもそれが4時間つづく。そのことを知って、上演中にもかかわらずオマール・シーは笑い転げる。世の中には変なことばかりがある。
 そして、この世にあるのは「事実」だけなのだ。この世にあるかぎり、すべては「事実」である。
 母親はたくさんの子どもをかかえて朝から晩まで働いている。それも「事実」。弟が不良グループに足を突っ込んでいる。そして、そこで問題を起こす。それも「事実」。パラグライダーは怖い。それも「事実」だし、むりやり空に飛ばされてみれば、知らなかった楽しみもある。あ、こんな世界があったのかと知る。それも「事実」。
 フランソワ・クリュゼが髭がぼうぼうになって、それを剃ることになる。ただ剃るだけではおもしろくない。髭の形をあれこれ楽しみながら剃っていく。どこかの宗教の神父(?)になったり、自分のおじいさんになったり、ヒットラーになったり。髭ひとつで、人の顔は変わるし、その髭からだれかを思い出す、その思い出し方には共通項がある(ヒトラーの髭)というのも「事実」。
 そんな見かけは、そのひと自身とは関係ないのに、そう見えてしまう。そうだとすれば、見かけからある人間を、この人はこういう人というふうに見てしまうということもあるかもしれない。それは「事実」かもしれない。たとえば、首から下が動かない大金持ち。フランソワ・クリュゼは人生に悲観し、絶望的になっている。そして人格的にいやあな感じの人間、わがままな人間になっている。介護はたいへんだ……。そういう「見方」があるかもしれない。
 でも人間の「事実」はそんな単純ではない。実際に「事実」を確かめてみないことにはなにもわからない。
 それはスラムに育って、服役したこともあるオマール・シーも同じである。人間の「事実(人格の事実)」は、想像するだけではわからない。「略歴」を聞くだけではわからない。そんな人間に介護をまかせれば、たいへんなことが起きる。財産をくすねる、というより財産そのものを略奪されることもあるかもしれない。(そんな心配を友人がするし、実際に語りもする。)だが、ほんとうはどうなのか。実際に、直に触れてみないとわからない。「事実」には人の数だけ「事実」がある。人と人の触れ合いの数だけ「事実」がある。
 まあ、こんなことを書いてしまっては説教臭くなるけれど、この映画は「事実」を発見し、それを伝えることを真剣でやっている。その「事実」を、オマール・シーはとても楽しいこととして演じている。純粋に、真剣に向き合っている。
 実話、だそうです。

 この映画「天神東宝シネマ1」で見たが、相変わらず途中で「ブオーン」という雑音が入る。映写機の問題かスピーカーの問題かわからないが、何年間も放置しておくのはあまりにも観客をバカにしている。何度でも苦情を書いておく。
                     (天神東宝シネマ1、2012年09月01日)


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高貝弘也『白緑』(3)

2012-09-01 11:21:15 | 詩集
高貝弘也『白緑』(3)(思潮社、2012年09月01日発行)

 たとえば「母子草」のⅡの書き出し、

多摩川縁(地層の片葉(かきは)が…、)
あたたかい未声 そっと舞い降りて

 何が書いてあるか、わからない。多摩川のそばを歩いているのかな? 土手か何か、あるいはそこから見えるどこかに地層が剥き出しになっているのかな? でも「地層の片葉」って何? 地層って葉っぱ? あたたかい未声もわからない。その声が「舞い降りて」きたのかな? こなかったのかな?
 でも何もかもがわからないわけではない。「あたたかい」「そっと」はわかるなあ。私の肉体が覚えている「あたたかい」感じ、「そっと」という感じでいいのなら、まあ、「わかる」ということになる。
 で、いま書いた「わからない」と「わかる」を冷静に(?)見つめなおしてみると。
 私がわからないと感じているのは、「もの」がどんなふうに動いている。高貝がどんなふうに行動しているかが「わからない」ということになる。散文的というか、論理的というか、ようするに、だれが、どうした、という主語と述語の関係が「わからない」。
 一方、私が「わかる」のは主語と述語の、属性(?)のようなもの。「あたたかい」「そっと」。
 で、そのいちばんわかりやすい(?)「あたかい未声」にしぼって言うと。
 「あたたかい」と「未声」の関係は、「あたたかい」が「未声」を修飾している(形容している)ということになる。そしてわかるのは、いわば「主語」というか「本質」の「未声」ではなく、「あたたかい」という属性である。--これって、変でしょ? 「未声」は「葉っぱ」の比喩かもしれない。あるいは「光(太陽の光)」の比喩かもしれない。さらには「季節」の比喩かもしれない。
 私たちは(私は)、その対象が何かであると「わかる」とき安心する。そして、何かを「わかる」とき、まず「何が」「どうした」という形で「わかる」のだが、その「わかる」とき、属性である「あたたかい」を除外して、頭の中を整理している。
 しかし、そういう「わかる」では高貝の世界には永遠に近づいていけない。
 で、そういういわば「解説書(?)」的な近づき方ができないので、「わかる」ことがらから近づいていくのだが、これって、ほんとうに近づいていること?
 まあ、学校の教科書(授業)では、近づいていくことにはならないのだろうけれど、こういう「属性」を「本質」と入れ換える形で近づいていくしかないのが高貝の世界だと思う。
 「主語(本体)」は何かわからない。けれど、その「本体」は「あたたかい」。そして同時に「そっと」舞い降りて(くる)という状態にある。くるとも、こないとも断定せず、「舞い降りて」という動きの「属性」だけを書くのが高貝のことばである。
 高貝は、まるで「本体(主語)」はどうでもよくて、「あたたかい」「そっと」「まいおりて」という「本体」に付属する何かこそが大事なのだと言う具合である。
 そして、そうなのだと思う。私たち(私)が、ふつうに新聞や何かを読むときはだれが、どうした、なにが、どうしたを中心にして「できごと」を「わかる」のだが、高貝はそういう「わかりかた」をしない。そういう世界のとらえ方をしない。「なにが、どうした」ではなく、「どのようにして」から世界をとらえるのである。そして、その「どのようにして」を偏愛するのである。
 だから、一片の葉も「片葉(かきは)」なのである。ふつうに言えば(だれにでもわかることばで言えば)「一片の葉」なのだが、それでは「本体」が露骨にあらわれてしまう。そこには「どのようにして」が持つ「主観」の入る余地がない。「客観的」すぎる。高貝は「客観的なことがら」を書きたいのではなく、ただ「主観的なことがら」を書きたい。だから、「わからない」ということが、そこに侵入してくる。
 (わけもわからずに、ただ書きはじめて、やっと書きたいことにたどりついたかな、と私はいま思っている。)
 「客観的」なことがらと私たちが(私が)考えているものではなく、その「客観的」にまわりについてまわる「主観的」なもの--それを積み重ねていく。そして、高貝は、こういう「主観」(高貝のものの感じ方)は好きですか? と問うのである。こういう「ことばの好み」が「わかりますか」と問うのである。そんなふうに「主観」を打ち出すのである。

あかるい かげひなた

--葉脈だけになった 枝さきに、
白緑(びゃくろく)色の 卵帯。(……耳のそよぎや、夕星(ゆうずつ))

 何か客観的な「もの」、たとえば「葉脈」とか「枝さき」とか「卵帯」(これ、何?)とか「夕星」が書かれているのではない。
 「枝さき」は「枝先」ではない。木の枝の先っぽ、先端ではない。「枝さき」としかいいようなのない、一種の「ひらがな」のやわらかさを含んだもの。あるいは、そのやわらかい感じそのものである。「夕星」は夕方の星、たとえば宵の明星なんかではない。あくまで「ゆうずつ」という音のひびきであり、そのことばが持っている「時間(歴史)」の「主観」である。
 高貝は「主観」を浮き彫りにするようにしてことばを動かしていく。ことばが動けば、その奥に「主語」「述語」もなんとなく見えてくるかもしれない(わかった気持ちになるかもしれない)が、そういう「わかり方」は高貝の詩を(ことばを)読む方法ではない。そういう「論理的」なことがら、「客観的」なことがらとはまったく別の、「感覚の一元論」(ことばの歴史の一元論)のようなもので高貝の世界はなりたっている。
 「もの(客観)」があり、それに付随して「感覚(主観)」があるという「二元論」(デカルト的世界)ではないのだ。高貝が書いているのは「感覚(主観)」を渡り歩き、そこに「もの(客観)」が切り捨ててしまったものを、それ自体として構築する(あ、いやなことばがまじり込んでしまったなあ)ことなのだ。

草が、生殖器をひらいている。
わたしは又 たたらを踏んでしまう

あの、夕闇の母子草掻(か)きわけて
(かきわけて…、)
探している 未生の実を、あなたは

 私の引用は「るび」をかっこで補って書いているので、高貝の「好み」の世界を忠実に反映しているわけではないので、実際は、詩集で読んでもらうしかないのだが。
 最後の「掻きわけて/(かきわけて…、)」が特徴的だが、「掻きわけて」と「(かきわけて…、)」の違いは、「客観的」には何もない。密集している「もの」に、たとえば手を差し入れ、それを左右に分けるようなことを「掻き分ける」というが、漢字で書こうがひらがなで書こうが、その動作そのもの、人間の動作(作用)と、それから始まる「もの」の動き(被作用)に違いがあるわけではない。でも、それは「主観的」には違うのだ。
 その「主観」の世界に入っていくか、入らずに、「客観的な世界」はどうなっているのか、ということにこだわるか。--その「読者の立場」によって、高貝の世界は違ってくる。「二元論」から高貝の世界を見ると、わけがわからない。独自の「一元論」から見ないと、何もわからない。
 で、この「独自の一元論」というのは、説明しはじめるとめんどうくさいので、私は「好み」、ことばへの「偏愛」というのだけれど。


白緑
高貝 弘也
思潮社
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